生活文化学科3年 0118071 長岡 理美 私はこの世の全ては愛があって

生活文化学科3年
0118071
長岡 理美
私はこの世の全ては愛があってこそ成り立っているのだと考える。
しかし一言で愛という言葉を考えてみても、自分では共通した意味で考えてい
たとしても、それの捉え方は人それぞれであり、万人に共通した愛という概念
はどこにもない。
また、例えば好きだ好きだと何度も自分の気持ちを言葉に出して繰り返す事が
愛の証明だと思う人もいるし、逆に自分の気持ちは言葉にせずに黙っている事
が愛の証明であると思う人もいる。この様に、愛とは人によって実に様々な表
し方の違いが見えるものでもある。この事からも分かるように、愛を考えてみ
ても、捉える人が異なることによって、実に多種多様な意味の愛が表れてくる
ということがわかる。
現代における愛は非常に軽んじて考えられていて、例えば、ヴィトンやシャネ
ルやグッチなどといったいわゆる一流ブランドが「好き」と言った様な、嗜好
として愛と同等な意味合いで捉えられている事がしばしば見られるようである。
そういった愛が徐々に世間に蔓延していった事によって、若い子の間で交際相
手を、服を取りえる事と同じ様な感覚で取替えたり、交際している相手もファ
ッションやステイタスの一部として考えるといったことが多く見られるように
なってきたのである。
しかし今回は、そういった嗜好としての愛ではなく、もっと精神的なところで
感じる「真実の愛」とでも敬称したくなるような愛を対象にして考えていきた
いと思う。
主に一般的な愛の種類には以下のようなものがあげられる。
1.
男女間の愛
男性と女性が何らかの出会いをし、お互いに心惹かれあって、やがて恋に落
ちる事。恋に落ちる男女は何らかの障害(たとえば相手のどちらかが既婚者
であるといったような)があっても気持ちを抑えると言う事は非常に困難で
ある。ここで言う男女間の愛は、ゲイやレズビアンの人同士でも同じ意味で
ある。
2.
友愛
仲のいい友達がトラブルに巻き込まれ困っている時に、少しでも助けてあげ
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たいと感じたり、友達が間違った方向に進みそうになった時に再び正しい方
へ戻るように導きだしてあげようと思う事。また、同じ種族がお互いを助け
合おうと思う気持ちもこの中に入る。
3.
家族愛
親が子供に対して守ってあげなくてはいけないと思うこと。また、自分が与
えられるものは全て与えて上げたいと思う気持ち。反対に子供が親に対して
感謝の気持ちを持ったり、老後の世話をしてあげたいと思う気持ちも同様で
ある。兄弟間での愛もこの中に含まれる。
4.
神への愛
受験生が受験日を目前に控えて神社に合格祈願をしに行く事や、自分の力で
はもうどうする事もできない、ピンチの状態に神頼みする事や、初詣やクリ
スマスといった行事も神に対する愛から生まれたものである。とりわけ日本
では葬式は仏式であるのにクリスマスを祝ったりと、多様な文化が入り乱れ
て入ってきてしまい、基本的に無宗教である。キリスト教や仏教などの風習
が混合されていて、実に複数の神が存在している。神への愛とは日本におい
ては特定の神に限った愛ではない。
上記に書いた様なことが、一般的に見られる愛の種類である。勿論、この他に
も多数の愛の種類があるが、今回はこの4つのモデルで考えていくとする。
ではここで、先にも書いたとおり、何故私が愛によってこの世の全てが成り立
つのかと言ったのかを説明してみるとする。
まず1の男女間の愛についてでは、
・ 男女間での愛がなくては子供が誕生する事はない。(女性の子供を産む機
能だけを利用する場合を除く)子供が生まれないと言う事は、必然的に人
類は滅びゆくことになる。
・ 子供が生まれないということは、家族というものも誕生しないということ
になる。男女間の愛が無くなると家族愛も無くなる。
2の友愛についてでは、
・ 友愛がなければ、何か困った時に助けてくれる人は非常に限られた人だけ
になり、自分自身で背負わなければいけない物が大きくなる。
・ 人を思いやる気持ちが少なくなってしまい、その結果、簡単に殺し合いや
争いが勃発しかねない。
2
3の家族愛についてでは、
・ 家族愛がなくなり、親が子供を愛せなってしまい、虐待行為に走ってしま
うということが考えられる。
・ 親から子へ伝えられるものが何もなければ、良い事と悪い事の区別もつけ
られなくなってしまい、その結果、犯罪行為をしてしまうと言う事が考え
られる。
4の神への愛についてでは、
・ 神への愛が無ければ、人々の心の拠り所がなくなり、窮地に陥った時に、
心が非常に脆くなってしまう。
・
ここまででそもそも「愛」の基本的な意味というものを考えてみる。
「愛」とは愛するものへの「親近の情」を指すのである。それは、自分という
ものをきちんと持った上で「他の人」を認め、尊重することから始まるのであ
る。またその上で、お互いの幸福を考える「自己否定」なのである。
では、
「愛が自己否定である」という事はどんな意味かを説明していこうと思う。
それには自己否定と自己犠牲の違いを考えてみる事が重要になる。
簡単に言ってしまうと自己否定とは、
「他の人の方が自分よりも価値がある」と
考えることで、自己犠牲は「自分を価値のない存在だ」と思うことである。
「愛」に関して言えば、「自分という人間はとても価値がある。でも、この人の
ことを考えた時、そんなものはたいしたものではない。そのくらい自分にとって
相手が大切だ」という考え方とでも言えるのである。
以上の事をまとめると「真実の愛」とはつまり「相手からの見返りを考えず、他
の人を思いやり慈しむ心」という事になる。
反対に自己犠牲とは、ナルシズムの極地なので、そこには「真実の愛」は存在
しない。現在大きな社会問題になっているストーカーに多く見られる様に、自
分勝手に「自分が犠牲になることは相手にとって大変良いことだ」と決めつけ
て、それを当然のこととして押し付ける態度である。つまり自己犠牲とはゆが
んだ自己愛の究極形なのである。
つまり「愛」とは他者を思いやり慈しむ心なのである。そこに一切、
「自分のた
め」という気持ちが入らない時、そこには本当に純粋な「愛」が生まれるので
ある。
この様な本当に純粋な「愛」を全ての人が持っていたら、他人を少しでも思い
やる気持ち、自己を否定する気持ちを持っていたら、この世に争いや傷つけ合
いはなくなるはずである。
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