神を呼ぶとき - 麻生明星幼稚園

2015 年度 5 月 17 日
麻生教会主日礼拝説教
「神を呼ぶとき」
ルカによる福音書11章1節~13節
久保哲哉牧師
1.「わたしたちの名が天に記されている喜び」
先週の日曜日、教会員の T さんが天に召されました。札幌市私立保育連盟の会長であ
り、フラワー保育園の園長で、共に現職であったために、葬儀には二日間で 600 名を越え
る方々が集いました。よほど色々な所で頼りにされていたのでしょう。北海道から沖縄ま
で様々な場所から会場を彩るための花が届きました。彼はあまりの多忙のゆえにここ十数
年はほとんど教会にいらしておりませんでしたけれども、永眠者記念礼拝には毎年いらっ
しゃっていました。13年前に奥様を天に送っていたからでしょう。麻生明星幼稚園が危
機の時代、もっとも幼稚園のために尽力された方であると聞いています。
明星幼稚園の運営委員を長年されていましたので、僕自身も本当にお世話になっていま
した。中々教会に来られなかったにもかかわらず、初代牧師・園長の榮英彦先生が彼を運
営委員として用い続けたのは、よほどの信頼関係があったからなのでしょう。67歳とい
う年齢でしたから、あと3年もすればこの世の仕事から少しづつ手を離し、教会にまた戻
ってくだると信じ、その時を祈りつつ待っていました。本当に突然の出来事でしたので、
言葉を失いました。連絡を受けてからも正直、事態が飲み込めず、今も実感がありません。
誰も予期しない突然の訃報でしたから、ご家族の驚きと悲しみ、そしてフラワー保育園の
職員や子ども達、保護者のみなさんの動揺は計り知れないものがあることでしょう。
けれども、葬儀において牧師がなすべきと主なる神によって命じられている「キリスト
の使者の務め」はただ一つです。天へと召された方が歩んだその生涯は、確かに神の祝福
のもとにあった。神に愛されたものであった。全世界のすべての牧師が葬儀において召さ
れている職務は、その神の愛と祝福の現実を残された遺族近親のみなさんにお伝えする。
その1点につきます。聖霊がその場に働き、御言葉による慰めが、今、悲しみの極地にあ
る方々の心に届くことを願っております。
それで、葬儀を終えて一つ、聖霊の働きを感じたことがあります。あれは葬儀を終えて
次の朝のことです。幼稚園では毎日職員礼拝をもっていますが、その礼拝では「アパルー
ム」という小さな冊子を開きます。その冊子には1日ごとに世界じゅうの信徒の方々の証
しが割り当てられていまして、教会の幼稚園や保育園での毎朝の礼拝で使っている所も少
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なくないと思います。日本だけではありません。全世界に向けて発行されているものです。
まず、証し者が選んだ聖書の箇所が読まれ、証が読まれます。T さんの葬儀の翌朝、5月
22 日に割り当てられた聖書の箇所が、T さんの愛唱聖句で、二日間の葬儀で読まれた箇
所でした。そう有名な箇所ではありません。そうそう読まれる箇所ではないのです。偶然
といえば偶然なのですが、聖霊の働きを感じました。言葉には言い表すことができない慰
めを確かにえました。
特に、4年前の東日本大震災の時から考えさせられていることですけれども、このたび
のような突然の訃報などに直面したときに、私たちには、到底堪えられない試練がある、
と思わされています。確かに嬉しいこと、楽しいことも、たくさん人生にはあるでしょう。
しかし、悲しいこと、苦しいこと、辛いこと、悔しいこと、つまり耐えられないような試
練に逢うのが私達の人生なのだ、というのが実感です。そのことについて言えば、主イエ
スもはっきりと「この世には苦難がある」と語っています。しかしながら、その苦難から
脱出する道をも主なる神は用意してくださっているというのが聖書の発想です。その点第
一、コリント10章13節以下に目を向けますと、ルカの師匠であるパウロは次のように
語ります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかった
はずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはな
さらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
この聖句は多くの者が愛する聖句ですけれども、なぜこの聖句が愛されるのか。それは、
困難な人生の中でどうにかして「逃れる道」を見いだしたい。と思う方が多いからになの
だろうと思います。そして、実際に、主なる神から救い出された経験があるものが多いか
らなのだろうとも思います。
ここで言われている「逃れる道」とは元々の言葉で「脱出口」を意味する言葉と言われ
ます。困難な人生のただ中で、誰しも脱出口にたどりつきたいと思うものです。この脱出
口に辿り着くために、私たちはどうしたらよいのでしょう。パウロはこの直後に偶像礼拝
を避けること、そして洗礼を受け、聖餐に与ることであると語ります。礼拝が、洗礼が、
聖餐が私たちの逃れの道であることがはっきりと示されています。
また、ロマ書においてパウロは次のように語ります。これも合わせて読みましょう。
ロマ 5:3 以下「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希
望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」
ここで言われている忍耐の先に与えられる「希望」。それは神から与えられた試練から
の出口。逃れの道、「脱出口」に他なりません。御言葉に聞き、祈り、忍耐する内に、必
ず逃れの道が示される。神は真実な方であるがゆえに、希望は必ず与えられる。この希望
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の御言葉もまた多くの人に愛されている御言葉です。
逃れの道があると信じることができなければ、忍耐などできません。練達もありません。
報われない努力ほど、空しいものはありません。希望があるからこそ、わたしたちは辛抱
し、忍耐することができます。
さらにこの先をみると、その希望の道が何によって与えられるのか。そのことも合わせ
てこのロマ書は語っています。さあ、なんと語られているのか。再び読みましょう。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むとい
うことを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」「わたしたちに与えられた聖霊に
よって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
「聖霊によって与えられる神の愛」これがわたしたちを力づけます。
以前も何度か触れたことですけれども、最近、幼児教育の現場にいると子どもの育ちに
は「自尊感情」というものが最も大切であるとどの研修会にいっても語られる時代となり
ました。「自尊感情」とは「自分という存在が尊重されていると感じる感情」のことを指
します。幼児期の育ちには勉強も習い事もあって悪いものではないのですが、決定的に重
要なのは「親が子を愛すること」であり子どもが「自分は愛されている存在である」と認
識することと言われます。逆に言えば、「愛の不足」は自尊感情の不足を招き、子どもの
育ちに悪影響が出るということです。
たとえ、実の親の愛が足らずとも、自分は誰からも愛されていない、自分には価値がな
い人間だと思わされる環境に置かれていたとしても、またどうしようもない、神などいな
いと思わざるを得ないような困難が襲い来ようとしても、それでもなお、私たちの父なる
神は私たちのことを愛してくださっている。このことを信じることから始まる生活がある
のです。これは教会が 2000 年間語ってきたことでもあります。人々の生活を支えてきた
ことです。
2.人間の欲望ではなく、神の愛から出発する
一人の親として、子に十分に愛を注げているか、いつも自問しながら子育てをしていま
す。教育の現場では未成熟な親が増えていることが問題とされています。いえ、親だけで
はありません。人々から愛が失われている時代です。このたびの葬儀で、お二人の方から
「なぜ久保先生は牧師の道を選んだのか」ということを尋ねられました。それでなぜ自分
が牧師の道を示されたのかを思い出させられました。もともと経済学を学んでいたもので
すが、資本主義の限界はとうに見えています。人間が永遠に成長をし続けなければ破綻す
るのが資本主義です。また、人間の欲望から出発しているのが資本主義経済です。
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他者を愛するというのは経済にとっては不経済ですから、この世から愛が消えるのは必
然です。人間の欲望に駆り立てられて回る社会は聖書の発想とはほど遠いものです。必ず
限界がきます。限界が来ているにもかかわらず新しい経済の仕組みはまだまだ出来そうに
ありません。そもそも、経済・エコノミーという言葉はもともとギリシャ語で「オイコノ
ミア」といいます。これは「オイコス」と「ノモス」という二つの言葉からなる単語で、
オイコスとは「家」という言葉。ノモスは「律法」・「神の掟」という言葉です。今日の箇
所でも「家」の統治についてが問題とされていますが、ここでたびたび出てくるのはこの
「オイコス」、家という言葉です。
家の中での律法の中心はどこにあるか。神を愛し、隣人を愛することです。隣人を愛す
るためにはまず父・母を敬い、子を敬うことが必要でしょう。この愛の精神がなければ家
族の関係は破綻します。世の中の最小構成単位は家庭ですから、家庭が崩壊は地域や社会
の崩壊につながります。経済社会において「愛」がなければこれが破綻するのは目に見え
ています。
そのような中、科学文明の発展により日本から神や仏がきえました。目には見えないお
化けも消えました。サンタクロースを信じる子どもも減りました。かつては神仏への信仰
が人と人とを結びつけていました。祭りや年中行事のたびに近所や親戚で集まり、共に祝
っていた時代は終わりました。ひな祭り、端午の節句、クリスマス。すべて家族という小
さな集団でケーキを食べる行事となってしまいました。また「お天道様が見ている」の発
想がなくなった結果、何をやっても人に見つからなければよい。ばれなければよいという
発想になってしまいました。すべて、目には見えない「信じる世界」が失われ、神への愛
が冷え、人間の愛が冷えた結果です。世を見渡しても「愛」がないので元気が出ません。
「自分に価値がある」と信じられない時代です。神仏が消え、その結果人間同士の絆が薄
れ、愛が消え、人間の欲望だけが残った。これが今の日本の、世界の大まかな状況なのだ
ろうと思います。
そのような中にあって、人間がよく生きるために、幸いに生きるためには何が必要なの
でしょう。「霊」の世界を見渡す「目」が必要でしょう。「霊」といっても幽霊のようなも
のではありません。聖書の発想で「霊」とは心の奥底、私たちの芯の芯。神を畏れ、敬う
精神を取り戻し、人間の心が変わることです。愛をもって隣人に接することです。そのこ
とははっきりしています。そのためには何が必要でしょう。神を愛すること。主キリスト
の十字架と復活の御言葉に真剣に聞くこと。従うことです。人間の力では主に従い尽くす
ことはできません。礼拝で受ける聖霊の働きのみが私たちの霊を強めます。
礼拝に集中することのみが人間の心を良いものとする。神の栄光を称えるため、日本の
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国を救うため、世界を変えるためにはこれしかない。そのように思わされております。
再び、ロマ書5章3節以下を読みましょう。「わたしたちは知っているのです、苦難は
忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことが
ありません。」「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ
ているからです」
3.わたしたちを生かす「聖霊の働き」
ここに「聖霊」という言葉がでます。今日の説教題は「聖霊の働き」としましたが、そ
の第一のものはここにある通り「神の愛」を私たちの心に届ける神の役割のことです。神
の掟を神の家である教会で聞く者の心には聖霊が働きます。聖霊が私たちの心を、とらえ
がたく病んだ、愛のない心を新しく変えてくださいます。
主の御言葉こそ、私たちを生かす生命の水です。この生命の水が人の内で泉となるなら
ば、もう、愛に乾くことはないのです。今日の箇所は主イエスが悪霊の親玉の力で悪霊を
追い出しているとの批判が語られる記事です。その中で特に 20 節の主の御言葉にに注目
しましょう。
「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのと
ころに来ているのだ」
この宣言は驚くべきことです。ここに今日の中心のポイントがあります。
「神の指」それは別の言い方をすれば神の力である「聖霊の働き」です。
この地上には依然として私たちを悩ませ、病ませる力というのは存在します。
それをわたしたちは「悪霊の働き」とは表現しませんけれども、依然としてそのような力
は「わたしたちを神から離れさせ、心の内の罪を刺激し、悪の行いに傾倒させる」そのよ
うな力は働いています。油断していると、救われた者でも、前よりも悪い状態とされると
いうことはよくあることです。私たちを神の掟から離れさせる力がこの地上には残されて
います。しかし、主イエスは確かにおっしゃられました。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来
ているのだ」
主イエスが 2000 年前に、すでに悪霊を神の力によって追い出しておられると私たちは
知っていますから、この主の言葉の通りであれば、神の国はすでに私たちの所に来ている
のです。これは驚くべき宣言です。主イエスは最初、「神の国は近づいた。悔い改めて福
音を信じなさい」と語って宣教を始めました。今日の箇所は「近づいた」とおっしゃられ
ているのではないのです。「信じた者にはすでに神の国は来ている」というのです。
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神の国をそして神をもはや天に求める必要がないのです。私たちが死んだ後の世界に神
の国を求める必要もないのです。あなたがたが今ここに生きているその地ですでに神の国
が実現していると語るのです。神の国は私たちの所に来て、すでに現実となっているとい
う宣言。それが今日の主の御言葉です。
昨日、教会に電話がありました。故人のために何かしたい。四十九日など、皆であるま
るときはないでしょうかとの問い合わせです。うれしい電話です。けれども、残念ながら、
そうした儀式はキリスト教にはありませんと答えました。ただし、故人を偲ぶ会を行うこ
とは有意義なことですから、喪主のご長男にお尋ねくださいと答えました。そうした方が
多ければ、納骨の際に食事会でも開くとよいのでしょう。キリスト教には供養という概念
がありません。何か儀式をしなければ成仏できない、極楽へ行くことができないという発
想ではないからです。ですから、二日間の葬儀ですべては終わります。それはなぜか。
主イエス・キリストを救い主と告白し、洗礼を受けた時点で、私たちのもとに、すでに神
の国は来ているからです。私たちが洗礼を受けて継いだ永遠の命は、過去、現在、未来に
おいて私たちの手に握られているものです。この恵みを味わいたいと思います。
この地上では終わりの日まで、神から離れさせる力はあります。けれども、私たち信仰者
は目には見えませんけれども、霊的に新しく生まれ変わっております。神の国の外にいた
ものが洗礼によって神の国の内側へと招かれるのです。信じる者の内に神の国はすでに実
現しています。
この世は強いものが勝つというのが理です。強い人が武装して自分の屋敷を守っている
ときには、その持ち物は安全であるというのは本当のことです。洗礼を受けること、永遠
の命を得ることは自分達が神の持ち物とされる道です。私たちは洗礼を受けることで、神
の所有物とされます。父・子・聖霊なる神はこの地上の何者よりも、悪霊の頭であるベル
ゼブルよりも強い、絶対の神です。神の家である教会に留まり、神の御言葉に従う道が最
も安全な道です。今日も聖霊の力に押し出されて、神の国にすでに移されているものとし
ていきましょう。神に祝福されたものとして1週間をスタートしたいと思います。祈りま
しょう。
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