1 マタイによる福音書18:21~35 「赦し」 今朝のテーマは「ゆるし」です

マタイによる福音書18:21~35
「赦し」
今朝のテーマは「ゆるし」ですけれども、これは、私たちにとって、何より私自身にと
っ て 、解 決 済 み の 問 題 で は あ り ま せ ん 。そ し て こ の 、
「 許 せ な い 」と い う 問 題 、そ し て 、そ
の 問 題 を 裏 側 か ら 言 え ば 、「 自 分 は 赦 さ れ て い な い 」「 赦 し て も ら え て い な い 」 と い う 問 題
は、本当にこの心の奥の、その一番奥の、心の芯にまで達する問題であり、この私のこの
心の、一番奥にある芯に、その問題の根っこが絡み付いていて、巻きついているような問
題です。
赦せないという怒りは、心の根っこから私を捕えて、この心捻じ曲げます。本当に怒り
によって、私たちは、もう雑巾が絞られるように、この心がギリギリと絞られるというよ
うな感覚を味わいます。そして、もう一つ、その赦せないという怒りの反面にある、自分
が赦されていない、自分がもう赦されないという恐れは、この心を縛り上げて、この心か
ら 出 て 来 る 、全 て の 言 葉 と 、全 て の 表 情 を 歪 め さ せ て 、そ こ に 病 的 な 、毒 な の か 闇 な の か 、
そういう得体のしれないものを注ぎ込みます。
何週間か前の御言葉に、つまずきは避けられないという言葉がありましたけれども、私
た ち は 、罪 人 で 、皆 が お 互 い に 、逃 れ ら れ な い ぐ ら い 、そ し て 悲 し く な っ て し ま う ぐ ら い 、
罪人ですので、こういう罪人同士が深く接し合えば、もう意図的だったとかそうじゃなか
っ た と か 、決 し て 悪 気 は な か っ た と か そ う じ ゃ な か っ た と か 、そ う い う こ と は 関 係 な し に 、
必ず相手に躓いて、立ち上がれなくなる。また同時に、相手を躓かせて、立ち上がれなく
する。そういうことが、深く自分が接している、そういう意味ではその相手のことを愛し
たいと本当に思っている、でもかえってそういう相手との間で、つまずきが起こってしま
うし、私たちはそれを起こしてしまうのです。
そ こ で 、ど う す れ ば 良 い の で し ょ う か ? し ば し ば 私 た ち は 途 方 に 暮 れ る の で す け れ ど も 、
その心の一番奥深くに、深く食い込んで、突き刺さっているトゲを抜くのが、赦しなので
す。そして赦しなしには、私たちのこの心が、本当に鎖から解かれて、自由に、のびやか
に、新鮮な空気を吸うことのできるような心になることは不可能です。つまずきが避けら
れないなら、罪が避けられないなら、みんなが罪人である私たちは、その罪が赦されるこ
とを、皆必要としています。
聖書は、とてもリアルな書物で、これは単なる思想哲学を示すような書物ではなくて、
私たちの生活にそのまま直結する、私たちの人生の鏡というか、自分の人生の姿そのもの
を、その言葉の中に見つけ出せるような書物が、この聖書なのですが、今朝の御言葉の、
こ の 有 名 な 譬 え 話 は 、そ の よ う な 聖 書 の 言 葉 の 中 で も 特 に 、こ れ は 、こ の ま ま の か た ち で 、
そのまま私たちの生き様をあぶり出して示すような、そんなリアリティーのある御言葉に
なっています。
その譬え話は、どんな話かと言いますと、ここにはある王様が居て、家来にお金を貸し
た。そしてある家来は、その王様から、1 万タラントンという額の、借金をした。1 万タ
ラ ン ト ン と は 、 ど う い う 額 か と 言 い ま す と 、 一 タ ラ ン ト ン が 、 当 時 の 6000 日 分 の 給 料 に
相当する額だったそうです。2千年前のことですので、単純に比較はできませんが、日本
1
円 に 置 き 換 え て 、 一 日 の 給 料 を 一 万 円 と し ま す と 、 1 タ ラ ン ト ン は 6,000 万 円 で す 。 そ う
な る と 、 1 万 タ ラ ン ト ン は 、 6,000 万 円 の 一 万 倍 、 6,000 億 円 に な り ま す 。 先 週 、 メ ジ ャ
ーリーグのスター選手による、プロスポーツ史上最高額の契約が成立しそうだというニュ
ー ス を 見 ま し た け れ ど も 、 そ れ で も 、 13 年 間 で 、 お よ そ 380 億 円 で 、 6000 億 円 の 約 16
分 の 一 で す 。こ の 当 時 の ユ ダ ヤ の 領 主 で あ っ た ヘ ロ デ 王 の 年 収 の 年 収 で も 500 タ ラ ン ト ン
で あ っ た と 言 わ れ て い ま す の で 、 一 万 タ ラ ン ト ン は 、 そ の 12 倍 、 つ ま り そ れ は 、 ス ポ ー
ツの世界のスーパースターや、一国の主であっても到達できない、ましてや普通の人間で
は、とうてい触れられる可能性のない、天文学的な金額です。
もちろん、主人は返済を命じますが、家来がそれを返済することなど不可能ですので、
それをしても、全く借金の埋め合わせにはならないのですが、しかしそれでも、妻も子供
も、自分自身も、また持ち物もすべて売り払って返済するように、ということになりまし
た 。と こ ろ が 、そ の 家 来 が 返 せ る は ず も な い の に 、
「ひれ伏して、
『どうか待ってください。
き っ と 全 部 お 返 し し ま す 』」と 嘆 願 し た と こ ろ 、主 君 は 憐 れ に 思 っ て 、そ の 家 来 を 赦 し 、そ
の借金を帳消しにしてやりました。ところが、その家来は、外に出て、自分の 1 万タラン
ト ン の 借 金 の 60 億 分 の 一 に 過 ぎ な い 、 100 デ ナ リ オ ン 、 比 率 と し て は 、 60 億 円 対 1 円 と
い う 、日 本 円 に 換 算 す れ ば 100 日 分 の 給 料 で あ る お よ そ 100 万 円 分 を 貸 し て い る 友 人 に 出
会うと、その百デナリオンも、恐らく 1 万タラントンの借金のうちから又貸ししたのでし
ょ う け れ ど も 、家 来 は そ の 仲 間 の 首 を 絞 め て 、
「 借 金 を 返 せ 」と 言 い 、
「どうか待ってくれ」
と先程自分が放ったセリフと同じ嘆願の言葉を語る仲間を、承知せずに、牢屋に放り込ん
だのです。それを知った主君は、怒って、その家来を牢獄に引き渡した、という話です。
ここには、信じがたい、もうこれは異様な姿だと言ってもいいような、家来の姿が描か
れ て い ま す 。6000 億 円 の 負 債 を 、主 君 か ら 帳 消 し に さ れ た 家 来 が 、そ の 足 で ば っ た り 出 会
っ た 友 人 の 100 万 円 を 許 さ な い と い う の は 、こ れ は 異 様 な 姿 で あ り 、と て も 滑 稽 な 有 様 で
す 。け れ ど も 、こ れ が こ の ま ま 、こ の 私 な の で す 。こ こ に い る 家 来 は 、私 の 顔 を し て い る 。
そして、あなたの顔をしている。
この家来は、自分がどれだけ許されているのかという、自分の状態を知りません。そし
て、彼の目が見ているのは、自分がどれだけ破格の負債を、主人から赦していただいてい
るのかという現実ではなく、自分の友人が、自分に対してどれだけの負債を負っているか
ということだけです。
他 人 が 自 分 に し た こ と に つ い て は 、10 年 前 の こ と で あ ろ う が 、し っ か り 覚 え て い る 。そ
して数えている。あの時はああだった、あの時は 2 度も、ああだった。小さなことなので
す 。 そ う い う 意 味 で は 、 私 は 、 今 か ら 20 年 前 に 、 友 人 と 数 週 間 の 長 い 旅 行 に 行 っ た 。 そ
して、本当にたわいもないことで、言い争いがそこであったとか、そういう明確な行き違
いはなかったのですけれども、何か、その時ちょっと馬が合わなかった。自分がすこし世
話を焼いている、迷惑を被ったと感じた、そんなことをずっと覚えている。なんとみみっ
ち い 話 か 。楽 し か っ た 旅 行 な の に 、そ っ ち の 方 の 良 い 思 い 出 で そ の 時 を 捉 え る べ き な の に 、
な ん だ か そ こ の と こ ろ で 、心 が 歪 ん で い る 。で も そ の 60 億 倍 の 、1 万 タ ラ ン ト ン の 躓 き を 、
そ ん な 、 20 年 前 の ち ょ っ と 感 じ た ス ト レ ス と か 、 そ う い う も の と は 全 く 次 元 の 違 う 罪 を 、
私 は 人 に 対 し て 、主 人 に 対 し て 、神 様 に 対 し て 、犯 し て き た 。そ れ に つ い て は 全 く 鈍 感 で 、
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それについては全く数えてもいない。数えていないということは覚えていないということ
です。いくつかの、何人かの人に対する、記憶に残るような過失については覚えています
けれども、その背後で、私からストレスを受けたり、迷惑を被ったり、私に世話を焼いた
人なんて、いくらでもいるわけですけれども、恐ろしいことに、私は、その積もりに積も
った負債を数えることができていない。覚えていないのです。これは恐ろしいことなので
すけれども、そして、私に傷つけられて、躓かされた、私から迷惑をかけられた人たちに
とっては、これは本当に腹立たしいことなのですけれども、人に迷惑を掛けられたことは
小さなことまで覚えていても、人に自分がかけた迷惑は、覚えていない。
前回のこのマタイ福音書の説教では、罪の告白について説教しましたが、告白すべきよ
うな罪が、自分にあるのか、自分のどこに、どれぐらいの告白すべきことがあり、罪があ
るのかということについては、なかなか、これだけある、たんまりあると、告白すべき罪
のありかを自分の心の中に見つけるのは、難しいですし、罪の告白ということについて、
ピンと来ない方もいらっしゃったかもしれません。けれども、自分の罪ではなく、人の罪
と い う 時 に は 、わ た し た ち は そ れ を 、実 に 敏 感 に 、目 ざ と く そ れ を 見 つ け る こ と が で き る 。
そして、自分が追い込まれて、自分の負債が明るみに出される時には、できもしないの
に 、「 ど う か 待 っ て く だ さ い 、 き っ と 全 額 お 返 し し ま す 」 な ど と 言 っ て 取 り 繕 う 。 さ ら に 、
それでその場を切り抜けることができたなら、たちまちその自分の立てた誓いを忘れ去っ
て、他人の過失を責めにいく。本当に、この家来と一緒です。実際そういう、ゾッとする
ような自分中心の世界に生きてしまっている。この家来の姿は、そのまま私の姿ですと、
言わざるをえません。
本当に人は、赦されなければ生きていけません。そして、こういう、心が盲目なこの家
来のような私が、今生きているということは、私が、赦されている。赦しをいただいてい
るということを意味しています。
今週の木曜日ももたれます、聖書を読む会で、今創世記を始めから読んでいますが、毎
回議論になるのは、神様はなぜ、最初の人であるアダムを、罪を犯さないような存在とし
て作らなかったのか、アダムが罪を犯せないような手を打てば、人類が堕落して、罪がこ
の世界に入ることなどなかったのにと、毎度そういう話になります。あるいは、あの有名
な、放蕩息子のたとえ話でも、同じような状況があると思います。弟息子が、父親から遺
産をせびって、旅に出て行こうとしている。父親としては、そこで遺産を息子にやってし
まったら、必ずや息子はそれを持って旅に出て、その遺産を食いつぶして、一文無しにな
るだろう。そういう良くない未来が、父親には手に取るように分かったはずです。しかし
なぜ、父親はそこで弟息子に遺産を与えてしまうのだろうか。それは、息子が背くこと、
遺産を手にした瞬間に、父の愛を忘れて旅立ってしまうということが分かっていても、父
は、その息子の人生に口を差し挟んで、息子を家に留めおくことができない程に、それほ
どまでに父は息子を尊重し、将来の息子の裏切りさえも既に赦して、痛みは自分にかぶり
ながら、父は息子を愛しているからです。アダムの場合もそうです。神様は、私たちを尊
重し、大切に愛してくださるあまり、私たちに御自分への愛を強いるということをなさら
ないのです。悪いところが見えても、粗が見えても、欠点が見えても、神様からの恩義を
忘れ去るようなことをしても、神様はそれを許してくださり、御自身への愛と服従を強い
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たりはなさらないのです。
そして私たちも、この神様の愛ゆえに、自由です。だから何でも出来る。神様を裏切る
ことも、神様を忘れることも、神様を傷つけてしまうことも、私たちには平気で出来る。
神様の前に借金を積み重ねることもしますし、放蕩息子のように、神様のもとから遠くに
家 出 を し て い く と い う こ と も 自 由 に 出 来 て し ま い ま す 。そ れ は 、そ う い う 私 た ち の 自 由 を 、
神様が赦して下さっているからです。私たちは、それほどまでに、神様に赦され、愛され
ています。
今 朝 の 箇 所 の 冒 頭 で 、ペ ト ロ が 、主 イ エ ス に 質 問 を し て い ま す 。
「 主 よ 、兄 弟 が わ た し に
対 し て 罪 を 犯 し た な ら 、何 回 赦 す べ き で し ょ う か 。七 回 ま で で す か 。」21 節 の「 そ の と き 」
とは、どの時かというと、主イエスが教会について、信仰者たち、弟子たちの集まりにつ
い て 語 っ て お ら れ た 時 と い う 意 味 で す 。18 章 は 、主 イ エ ス が 教 会 に つ い て 続 け て 語 っ て お
ら れ る 箇 所 な の で す が 、そ こ で は 、躓 い て 、罪 を 犯 し て 、は ぐ れ て 行 っ た 一 匹 の 羊 で あ り 、
一人の教会のメンバーである人を、見つけ出すまで探して、罪の告白を通して、問題点を
見つけ、スキャンダル見つけ、しかし赦し、癒し、そして再び命を得る場所である、安全
な囲いの中に連れ帰るということをする場所が、まさに教会であると言われてきたのです
が、弟子のペトロは、それを了解しましたとしたうえで、では、問題のある人を赦しなさ
いということですけれども、それは具体的に、教会の中で、どの程度までのことが求めら
れているのでしょうかと、例えば一人の人については、7 回ぐらい赦せばいいのでしょう
か?どうなのでしょうか?という問いです。
そ し て 、こ の ペ ト ロ の 問 い か け の 中 に 、私 た ち の 、赦 し に つ い て の あ る 理 解 が あ り ま す 。
そしてその理解とは言わば、プラスマイナスのポイント制の、足し引きの赦しです。
私 た ち が 、 違 和 感 を 感 じ る こ と な く 、「 赦 せ る 」 と 思 え る の は 、 例 え ば 、 相 手 に そ の 赦
しのと同じだけの借りがあったり、過去に親切を受けていたり、あるいは赦したあとに、
その赦しに見合う見返りが期待できる時などだと思います。けれども、相手からの見返り
が全く期待できず、ただ相手が、自分に罪を犯し、自分を裏切り、約束を破り、自分を傷
つけ続けるだけであるならば、その場合には相手のマイナスポイントがどんどん積み重な
って、ある時にそれは限界に達して、もう赦せない、という風になる。これが、私たちの
赦しであり、もしマイナスポイントがかさんだ時には、私たちには、相手に報復する権利
があり、プラスマイナスの取引によって、社会の秩序が維持され、世界の秩序とバランス
が維持され、そして、教会の秩序も維持されているのだという、ペトロはそういう見方に
立 っ て 、も う 我 慢 し な く て い い 、必 要 と あ ら ば 相 手 に 報 復 し て い い 、と 言 え る 限 界 設 定 は 、
7 回 赦 す と い う ぐ ら い で 良 い で す か と 尋 ね た 。当 時 の ユ ダ ヤ 教 の 教 師 た ち は 、
「人の罪は三
度 ま で は 赦 し て や り な さ い 。」と 教 え て い た そ う で す 。仏 の 顔 も 3 度 ま で と い う 言 葉 も あ り
ますが、それで言えば、私たちはもっと懐深く寛容であるべきですね、でしたら7回ぐら
いが妥当でしょうか?とペトロは聞いたのです。
け れ ど も 主 イ エ ス は 、 22 節 で 、「 あ な た に 言 っ て お く 。 七 回 ど こ ろ か 七 の 七 十 倍 ま で も
赦 し な さ い 。」 と 言 わ れ て 、 要 は 、 こ れ は 、 完 全 数 で あ る 7 の 70 倍 と い う こ と で す か ら 、
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単 純 に 490 回 ま で と い う こ と で は な く て 、無 限 に 赦 し な さ い と 言 わ れ ま し た 。つ ま り こ れ
は 、 3 回 で も 、 7 回 で も 、 70 回 で も 、 数 え る の を や め な さ い と い う 言 葉 で す 。 も う プ ラ ス
マイナスいくらとか、数えないのだと、それが赦すということだと、主は言われました。
そ し て 実 際 に 神 様 は 、私 た ち の 罪 を 数 え る の を 、や め て し ま わ れ ま し た 。今 私 た ち に は 、
旧約聖書に示されているような、こういう過失がある場合には、何頭の雄ヤギと、何頭の
雄羊を、これこれこういう仕方で捧げなさい。この罪に対してはこうしなさいという、罪
への償いと対処の仕方は、求められていません。もう、そういうプラスマイナスを超える
仕方で、最も高価な、これ以上うえは、もう金輪際ありえないという、無限大のタラント
ンに値する償い、罪の代償が、主イエス・キリストという、神の御子の血が流され、命が
捧 げ ら れ た と い う 、そ の 十 字 架 上 で の 出 来 事 に よ っ て 、既 に 支 払 わ れ た の で す 。不 思 議 と 、
赦しという、赦免の赦という漢字には、赤という文字が入っています。私はこの、赦しと
いう言葉の中にある赤を、主イエスの十字架の血だと思っています。
借金は確かにありました。しかし私たちは、主イエスの十字架によって、借金を帳消し
にされた家来たちなのです。もう主イエスは、神様は、私たちの罪を数えない。なぜでし
ょうか?私たちは借金だらけで、神様のことを愛さないのですけれども、神様が私たちの
こ と を 愛 し て 、赦 し て く だ さ っ て い る か ら で す 。
「 あ な た の こ と を 赦 す 。も う い い よ 。」と 、
こ の 借 金 だ ら け の 者 が 、言 っ て い た だ け る 。
「 あ な た は 今 、も う 雪 の よ う に 真 っ 白 だ 。さ あ 、
私の白い衣を着るがよい」と、主イエスに言っていただける。こういう風に主イエスが、
この心の芯の、一番深いところにある、赦せない、赦されないという呪縛を、根本から解
いてくださる。主イエスの十字架から来る赦しの血は、この心の奥まで染み渡って、この
心を行きのように白く、生き返らせてくださいます。そしてその時、そのキリストの愛に
よってこそ、同時に、私たちは、この心の奥に潜ませていた、家族に対して、友人に対し
て、あるいは自分自身に対して突きつけようとしていた刃を、相手の罪を数えて、逐一そ
れを記録していた帳簿を、捨てることができる。人を赦し、人を愛することができるよう
になります。
祈り
私たちの主なるイエス・キリストよ、あなたの十字架の傷によって赦された私たちは、
あなたの赦しの中で、何度でもやり直すことができます。私たちが、本当に深い意味で、
互 い を 受 け 入 れ あ い 、認 め 合 い 、赦 し 合 い 、愛 し 合 う こ と が で き ま す よ う に 。こ の 教 会 が 、
そのような赦しに満ちた場所になり、そして、ここで心を新しくされ、あなたからの赦し
を受け取った私たちが、今週遣わされていく全ての場所に、私たちを通して、あなたが、
十字架から溢れ流れるあなたの赦しを、運んでください。感謝して、主の御名によって祈
ります。
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