「視界の秩序」における性別カテゴリー ――「性同一性障害」である人びとへのインタビュー調査から―― 奈良女子大学 鶴田幸恵 私たちは、一人の人間でありながら、様々なカテゴリーの人でもある。誰かの子供 であり、誰かの母や父であったり、学生であったり、会社員であったり、コンビニの ルバイトの店員であったり、女あるいは男であったりする。そのため、私たちがその うちのどのカテゴリーの人として振る舞っているのかは、一概には言えない。会社で は、誰かの子供であったり、女や男であったりする前に、会社の社員であるだろう。 しかし、子供が風邪をひいて早退しなければならかくなったとき、その人は会社にい ても誰かの母親や父親であることになるかもしれないし、セクシュアルハラスメント が引き起こされた場面では、会社員であるはずなのに、女にされたりする。 そ れ で も 、私 た ち は 、常 に 、ど の よ う な 状 況 で も 、女 あ る い は 男 な の で は な い の か 、 ということが、これまでの研究では争点になってきた。本報告は、それに対して、一 つの回答を与える。 まず、これまでの他者の「性別を見る」という活動の説明形式は、ディスプレイさ れ た「 手 が か り 」か ら 外 見 が 構 成 さ れ て お り 、そ の「 手 が か り 」の 集 合 が 女 か 男 の「 基 準」を満たしているかどうかを「解釈」した結果、私たちは他者が女か男だという判 断を下しているというものになっている。しかし、私たちは、他者の性別をたいてい 「 理 解 」 し て い る の で あ っ て 、「 解 釈 」 し て い る わ け で は な い こ と を 指 摘 す る 。 そ し て こ の こ と が 、「 見 る 」 と い う 活 動 の ヴ ァ リ エ ー シ ョ ン の 無 視 で あ る こ と か ら 、「 手 が か り に よ る 判 断 」 と 「 一 瞥 に よ る 判 断 」 と い う 、「 見 る 」 仕 方 の 差 異 を 提 起 す る 。 この区別は、本報告が依拠する「性同一性障害」の人びとのパッシング実践の成功 / 失 敗 に お い て 、き わ め て 重 要 で あ る 。 「 こ の 人 は 、ど ち ら の 性 別 な の だ ろ う か 」と「 解 釈 」 さ れ て し ま う こ と が 、 す で に パ ッ シ ン グ の 失 敗 と な る か ら で あ る 。 こ こ で 、 1997 年から行っている「性同一性障害」の人びとのコミュニティにおけるフィールドワー ク、インタビュー調査の結果を用い、彼女ら/彼らが、この状況を回避するために、 女にも男にも見える外見を避けようとしていることが、どのようなことであるのかを 検討する。 そ の 結 果 と し て 、 私 た ち の 社 会 に は 、「 他 者 の 性 別 を 聞 い て は な ら な い 」 と い う 規 範 が あ り 、 ど ち ら の 性 別 で あ る の か は 、 Goffman の 言 う 「 焦 点 の 定 ま ら な い 相 互 行 為 」 における「他者が何者かであるという人物把握」と関連していることを指摘する。誰 もが、女か男の外見をしているというように見られる「外見の秩序」あるいは「視界 の秩序」は、通常の相互行為では焦点化されてはならないもの、いわば「図」に対す る「地」のようなものとして働きながら、しかしその都度維持され続けなければなら ない、もう一つの相互行為秩序なのである。その秩序の水準における性別カテゴリー のありようが、性別カテゴリーを扱う際に、きわめて重要であるということが、本報 告における指摘である。
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