2008、 2008、9,20 世界が 世界が尊敬した 尊敬した日本人 した日本人( 日本人(33) 33) 「世界の 世界の良心」 良心」とたたえられた国際司法裁判所所長 とたたえられた国際司法裁判所所長・ 国際司法裁判所所長・安達峰一郎 前坂 俊之 (静岡県立大学国際関係学部教授 静岡県立大学国際関係学部教授)) 世界の 世界の平和の 平和の殿堂・ 殿堂・国際司法裁判所は 国際司法裁判所はオランダの オランダのハーグに ハーグにある。 ある。 死傷者 死傷者3千万人以上を 千万人以上を出した第 した第 1 次世界大戦の 次世界大戦の悲劇から 悲劇から国際 から国際 連盟や 不戦条約((パリ パリ条約 条約))ができ ができ、 国家間の 紛争を 国際法によっ 連盟 や不戦条約 条約 、国家間 の紛争 を国際法 によっ この常設国際法廷 常設国際法廷が けられた。 て裁くこの 常設国際法廷 が設けられた 。 2006 年 6 月 12 日、この平和宮 この平和宮の 平和宮の「法衣の 法衣の間」で 1 人の日本人肖 日本人肖 像画の 除幕式が われた。 像画 の除幕式 が行われた 。 年余の 同裁判所の 歴史の 唯一の 日本人所長である である安 100 年余 の同裁判所 の歴史 の中で唯一 の日本人所長 である 安 達峰一郎の 肖像画である である。 達峰一郎 の肖像画 である 。 安達峰一郎は 安達峰一郎は一八六九年( 一八六九年(明治二年)、 明治二年)、山形県東村山郡山辺町 )、山形県東村山郡山辺町で 山形県東村山郡山辺町で小学校長の 小学校長の長男 として生 まれた。 少年時代に 山形県令に 三島通庸がなり がなり、 中央直結の 土木事業を 強引に として 生まれた 。少年時代 に山形県令 に三島通庸 がなり 、中央直結 の土木事業 を強引 に めて逮捕者 逮捕者が 相次いだ いだ。 その反動 反動もあり もあり、 しい自由民権運動 自由民権運動が こったが、 こうした体 進めて 逮捕者 が相次 いだ 。その 反動 もあり 、激しい 自由民権運動 が起こったが 、こうした 体 から安達 安達は 法律、 なかでも国際法 国際法を てた。 験から 安達 は法律 、なかでも 国際法 を学ぶ志を立てた 。 東京帝国大学法科で 東京帝国大学法科では国際法を 国際法を学び、明治25 明治25年 25年に卒業後は 卒業後は外交官と 外交官となり、 なり、イタリア、 イタリア、フ ランス、 メキシコ、 ベルギーにわたって にわたって世界 世界を 舞台に 活躍した した。 安達は フランス語 イタリア語 ランス 、メキシコ 、ベルギー にわたって 世界 を舞台 に活躍 した 。安達 はフランス 語、イタリア 語、 英語に 堪能で 外務省きっての きっての語学 語学の 達人であった であった。 英語 に堪能 で, 外務省 きっての 語学 の達人 であった 。 東大卒業後、 東大卒業後、一時、 一時、和仏法律学校( 和仏法律学校(現、法政大) 法政大)で「日本の 日本の近代法の 近代法の父」のボアソナード パリ大学教授 大学教授))の講義 講義を にいて、 フランス語 をただちに日本語 日本語に して学生 学生に (パリ 大学教授 を横にいて 、彼のフランス 語の話をただちに 日本語 に訳して 学生 に伝 えたというエピソード エピソードが っている。 外交官となった となった安達 安達は 外交交渉 交渉には には不可欠 不可欠な 人材とし えたという エピソード が残 っている 。外交官 となった 安達 は 外交 交渉 には 不可欠 な 人材 とし 成長していった していった。 て成長 していった 。 明治三十八年の 明治三十八年の日露戦争・ 日露戦争・ポーツマス講和会議 ポーツマス講和会議には 講和会議には小村寿太郎 には小村寿太郎日本全権 小村寿太郎日本全権の 日本全権の随員として 随員として 出席。 ロシアの ウイッテ全権 全権が シア語 出席 。ロシア の ウイッテ 全権 がロシア 語ではなく、 ではなく、フランス語 フランス語でまくしたてるのを、 でまくしたてるのを、安達が 安達 が日本 して、 小村全権に 今度は 英語で 主張するという するというバイリンガル バイリンガル以上 以上の 語に直して 、小村全権 に伝え、今度 は英語 で主張 するという バイリンガル 以上 の戦いとなっ た。 外交交渉では 外交交渉では国際法 では国際法の 国際法の知識と 知識と、専門用語を 専門用語を正確に 正確に翻訳で 翻訳できる通訳 きる通訳が 通訳が勝負の 勝負の決め手にな 同会議は 小村全権とその とその懐刀 懐刀となった となった安達 安達、 金子堅太郎や 外務省、 政治家、 軍人の る。同会議 は小村全権 とその 懐刀 となった 安達 、金子堅太郎 や外務省 、政治家 、軍人 の トップの 一丸となった となった勝利 勝利だが だが、 安達の 奮闘も して小 さいものではなかった。 トップ の一丸 となった 勝利 だが 、安達 の奮闘 も決して 小さいものではなかった 。 これ以降 これ以降、 以降、安達の 安達の語学力は 語学力は国際交渉にはなく 国際交渉にはなく ならない存在 存在となり となり、 てならない 存在 となり 、明治 40 年、ハーグでの ハーグでの 平和会議委員会の 日本代表となった となった。 平和会議委員会 の 日本代表 となった 。 大正 (1919)年 ベルサイユ講和会議 講和会議によって によって国際 8(1919) 年 のベルサイユ 講和会議 によって 国際 連盟が 結成され され、 国際司法裁判所 判所が 設立す 連盟 が結成 され 、国際司法裁 判所 が 設立 す るきっかけとなった。 るきっかけとなった 。 <写真は 写真はポーツマス会議 ポーツマス会議・ 会議・安達は 安達は左手前より 左手前より4 より4人目> 人目> 国際連盟では 国際連盟では日本 では日本は 日本は常任理事国として 常任理事国として活躍 として活躍、 活躍、同事務次長には 同事務次長には新渡戸稲造 には新渡戸稲造がなり 新渡戸稲造がなり、 がなり、安達 裁判所規程起草の 委員となり となり、 には連盟 連盟での での国際紛争調停手続研究会委員会 は裁判所規程起草 の委員 となり 、10 年には 連盟 での 国際紛争調停手続研究会委員会 議長を めるなど国際法 国際法では では第一人者 第一人者となった となった。 安達の 能力が 評価されたのは されたのは次 の議長 を務めるなど 国際法 では 第一人者 となった 。安達 の能力 が高く評価 されたのは 次の 事件であった であった。 事件 であった 。 大正13 大正 13( 13( 1924) 1924 )年 の 国際連盟総会では 国際連盟総会では国際紛 では 国際紛争平和処理 国際紛争平和処理の 争平和処理の 「 ジュネーブ議定書 ジュネーブ議定書」 議定書 」 が審 されたが、 英仏が 日本、 議 されたが 、英仏 が日本 、アジアの アジアの 立場を 立場 を無視した 無視 した内容提出 した 内容提出したのに 内容提出 したのに対 したのに 対 して、 して 、安達は 安達 は「国 際社会の 良心にのっとって にのっとって世界 世界の 平等でなければならない でなければならない」 敢然と 主張して して一歩 際社会 の良心 にのっとって 世界 の国々は平等 でなければならない 」と、敢然 と主張 して 一歩 らず、 両国の 譲歩を った。 も譲らず 、両国 の譲歩 を獲ち取った 。 安達の 安達の見事な 見事なフランス語 ランス語の演説を 演説を聞いた新渡戸 いた新渡戸は 新渡戸は「安達の 安達の舌は国宝だ 国宝だ」と絶賛した 絶賛した、 した、という。 という。 また、 1929) ーグでの でのドイツ ドイツへの への賠償会議 賠償会議の 席上、 イギリス、 フランスが また 、昭和 4(1929 )年のハーグ での ドイツ への 賠償会議 の席上 、イギリス 、フランス が対立 して会議 会議が 空転した した際 安達が 仲介役となり となり両国 両国の 代表を 茶席に いて説得 説得して して、 して 会議 が空転 した 際に、安達 が仲介役 となり 両国 の 代表 を茶席 に 招いて 説得 して 、仲 りさせたというエピソード エピソードが っている。 直りさせたという エピソード が残っている 。 安達の 安達の存在は 存在は際立っており 際立っており、 っており、昭和 5 年 9 月の同判事の 判事の選挙では 選挙では53 では53ヵ 53ヵ国中の 国中の 49 ヵ国から 支持されて 支持されて当選 されて当選、 当選、翌6年 1 月には同裁判所所長 には同裁判所所長に 同裁判所所長に選任された 選任された。 された。 安達は 安達は 62 歳。国連常任理事国という 国連常任理事国という日本 という日本の 日本の国力と 国力と、安達の 安達のコミュニケーション能力 コミュニケーション能力と 能力と国際 への抜群 抜群の 法への 抜群 の知識、 知識、その篤実 その篤実の 篤実の人柄とあいまって 人柄とあいまって、 とあいまって、司法裁判所の 司法裁判所のトップに トップに上りつめ、「 りつめ、「世界 、「世界 良心」 とたたえられた。 の良心 」とたたえられた 。 しかし、 しかし、ここから安達 ここから安達の 安達の運命は 運命は暗転する 暗転する。 する。わずか半年後 わずか半年後に 半年後に、満州事変が 満州事変が勃発、 勃発、国際連盟は 国際連盟は 日本非難の となった。 昭和8 には満州国 満州国の 承認をめぐって をめぐって日本 日本は 国連からついに 日本非難 の嵐となった 。昭和 8年 2月には 満州国 の承認 をめぐって 日本 は国連 からついに 脱退。 ばさみとなった安達 安達は 昭和9 くなった。 脱退 。板ばさみとなった 安達 は昭和 9年夏に病にたおれて 12 月 28 日に亡くなった 。 この晩年 この晩年について 晩年について書 について書き残されたものは少 されたものは少なく、 なく、その心中 その心中を 心中を察することはできないが、 することはできないが、唯一、 唯一、講 演録の 日本は 演録 の中で「日本 は戦争を国の必要なる 必要なる仕事 なる仕事として 仕事として侵略的 として侵略的な 侵略的な考えをもって国策 えをもって国策を 国策を樹てるも のではない。 それは全 不利になり になり、 不正なる なる。 のではない 。それは 全く不利 になり 、不正 なる 。 日本国にと 日本国にとって にとって国際連盟 って 国際連盟は 国際連盟は 最も必要であり 必要であり、 であり 、最 も有利なる 有利なる機関 なる機関である 機関である」( である」(伝記 」(伝記「 伝記「 世界の 世界 の良 安達峰一郎博士」 収録) べている。 心・安達峰一郎博士 」に収録 )と述べている 。 日本の 日本の暴走と 暴走と国連の 国連の対立、 対立、板挟みとなり 板挟みとなり本人 みとなり本人の 本人の思想行動の 思想行動の矛盾に 矛盾に懊悩した 懊悩した結果 した結果が 結果が病気 となり、 となり 、急死したのではないか 急死 したのではないか。 したのではないか 。オランダは オランダは安達の 安達の死を悼んで国葬 んで 国葬の 国葬の 礼をもって安達 をもって安達の 安達の永年 国際平和への への功績 功績を 最大限に えた。 の国際平和 への 功績 を最大限 に讃えた 。 「日本が 日本が生んだ最高 んだ最高の 最高の国際知識人の 国際知識人の 1 人で、外国から 外国から国葬 から国葬をもっておくられた 国葬をもっておくられた日本人 をもっておくられた日本人は 日本人は例 がありません」 同財団・ 佐藤常務は がありません 」と同財団 ・佐藤常務 は語る。
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