救いの目撃者 - 麻生明星幼稚園

2015 年度 4 月 26 日
麻生教会主日礼拝説教
「救いの目撃者」
ルカによる福音書10章17節~24節
久保哲哉牧師
1.「わたしたちの名が天に記されている喜び」
ルカ 10 章 20 節「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」
これは主の日のたびごとに繰り返し、繰り返し思い起こす必要がある箇所です。また、23
節以下も読みましょう。
「イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているも
のを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているも
のを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、
聞けなかったのである』」
「わたしたちの名が天に記されている喜び」これを聞いて、心の目で捕らえ、信じる者
の幸いがここで語られています。この当時の弟子達にひそかに大いなる喜びに満たされて
向けられた「主イエスの祝福と感謝」を私たちは 2000 年のときをこえ、教会に向けられ
た祝福の言葉として聞き取ることが求められています。そこで思い起こすのは、先週行わ
れた教会総会と、続けて行われた麻生教会での葬儀のことです。
先週の教会総会では無事に麻生教会墓地の購入についてが承認されました。後でアナウ
ンスを行いますが、これから目標を掲げて有志の方々に献金をつのり、目標に達したなら
ば、麻生教会墓地委員で検討した墓地の購入がなされるという手はずになります。「あな
たがたの名が天に書き記されている」その喜びを墓前礼拝という形で家族の方々と持つこ
とは、天に召された者にとっても大きな喜びとなることでしょう。どうぞ、無理のない範
囲でご協力をよろしくお願いいたします。
そして合わせて思い起こすのは月曜と火曜のこと。Y さんの葬儀を無事に終えることが
できたということです。Y さんが天に召される前の段階で、これからの葬儀のことについ
て少しお話をしていたのですが、その時点では、親族が 20 名以上おられるということで
したので、駐車場や宿泊施設の関係で麻生教会での葬儀は難しいのではないかと感じてい
ました。また、その後、Y さんが天に召されてからの打ち合わせでは、香典返しの中に、
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聖句の入ったカードを入れたいとの旨の思いを伺いました。施主であったご長男の奥さま
の妹さんがイラストレーターとして仕事をしておりまして、キリスト教関連のカードを作
っておられるとのことでした。それでこの葬儀のために新たにカードを作成し、香典返し
これを入れたいとの申し出でした。打ち合わせの時点ではすでに金曜の午後7時を回って
いたことを思い出します。
そうするとお返しにカードを入れるためには月曜の昼までにはカードが東京から札幌の
地に到着していなければなりません。これを聞いたときに、それはちょっと不可能なので
はないかと頭をよぎりました。が、ふたを開けてみれば、札幌の印刷所にカードのデータ
を持ち込むという形で、これが実現いたしました。
また、嬉しかったのはご遺族から提案があり、教会の方々の負担を減らしすために、受
付や会計を業者の方に全てお任せすることとしました。これはすべての人に故人との最後
の礼拝に集中していただくための配慮としてこのような形となりました。そのことをご家
族の方から提案してくださったことをとても嬉しく思いました。
当日は教会員の出席が多かったのは嬉しいことでしたが、印象的だったのは、知人の方
々の出席もまた多かったことです。どうしても葬儀に出席できないので、お花料・香典だ
け持ってきたという方もいらっしゃいました。親しい者たちと一緒に礼拝を守るというの
は信仰者にとって大きな望みです。中々礼拝に誘うということは気恥ずかしくてできない
私たちですけれども、葬儀の際には大手を振って礼拝に誘うことができます。それで、こ
の麻生教会の礼拝堂が新来会者で満ちるという善い礼拝の時を守ることができました。
2.本当の喜びと本当の悲しみが同居する場所
これは当日の葬儀でも触れたことですけれども、この機会に、あらためて私たちの居場
所である「教会」という所の不思議さを思い起こしております。教会は幼子から高齢の方
まで、様々な方々が集います。それぞれの年代の者たちについて考えると、幼子は、あな
たのこれから歩む人生は祝福で満たされていると教会で祝福されて人生のスタートをいた
します。また、幼稚園生も、小学生も中高生も、やはり教会に通い、毎週、礼拝の最後で
祝福を受けて1週間を歩み出します。20 歳になれば成人の祝福がなされ、愛するものが
できれば祝福の内に結婚式が行われ、たとえ葬儀の場であってもあなたの人生は幸いな人
生であったとの祝福を受けて主のみもとへと旅立ちます。人生の節目節目に、いえ、礼拝
の度ごとに祝福をもって送り出す。それが「教会」という場所です。
しかしながら、教会には様々な事情を持つ方々が集います。心に重荷を負っている者が
います。身体に病気を抱えた者もいます。そして、愛する者を天に送り、悲しみの極地に
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ある者もいます。教会は喜びと悲しみが同居する不思議な場所です。教会はとびきりの笑
顔と悲嘆にくれる涙が同居する場所です。空元気やぬか喜びではありません。偽りの涙で
もありません。本当の喜びと本当の悲しみが同居する場所。それが教会です。
もっといえば、自分は神に見放されているのではないかと思うような困難なときであっ
ても「それでもなおあなたは見放されてなどいない。祝福されている」とのメッセージが
繰り返し繰り返し語られる場、それが教会です。通常、墓を作るといえば、少々の哀愁が
漂うと思うのですが、この世での自分たちの最後の場である墓を作るにしても、復活の希
望に喜びをもって、祝福の内に墓を作るのですから、教会の不思議さを改めて思わされて
います。また、今日の箇所でもその不思議さが示されています。
今日の箇所ではすでに触れたように主イエスの感謝と祝福と祈りが語られております。
何に対しての感謝・祝福・祈りかといいますと、その直前の72人の伝道派遣。つまり、
伝道の成果に対してです。おそらく、困難の多い旅路ばかりであったと思われます。主は
この伝道派遣について「大神の群れに子羊を送り込むようなものだ」とお語りでした。き
っと神の国の到来の喜びの知らせを聞いても理解しない者も多かったに違いありません。
また、「収穫は多いが働き手は少ない」ともお語りでした。
収穫が多いことは嬉しいことですけれども、広大な農地に働き手が1人か2人であった
ならば、その労苦は想像を絶するものです。確かに、弟子達には悪霊を追い出す権能や病
を癒やす力が与えられておりました。目の前の者が信じるか信じないかは別として、主イ
エスから「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を与えられていました。神の御支配の実現が
彼らの前では起こっていたわけですから、弟子達は驚きと感謝に充ち満ちていたに違いあ
りません。今を生きる私たちにとりましては、日々の生活をしていると、順調な時は良い
のですが、ともすると神に祝福されているとは中々思えないことがあります。心の重荷に、
身体に抱える病に、迫り来る現実に心が折れてしまいそうになることがあります。何か悪
いものがついているのではないかと思わされることだって時にあることでしょう。そうし
たときに私たちは神から離れ、信仰を見失うことが起こるわけですけれども、そうした神
から離れさせるすべての力に打ち勝つ権能を弟子達は与えられていました。目の前で体験
した神の御支配の現実に弟子達は心躍っていたことでしょう。葬儀やお見舞いにいく度ご
とに、2000 年前の弟子達に、ここで委ねられたこの力が牧師のこの手に宿ればどれだけ
喜ばしいことだろうかと思います。このときの弟子達は主イエスがそうなされていたのよ
うに、様々な奇跡を行ったことだろうと思います。病で苦しむ人の病気を癒やし、もしか
したら死者を蘇らせる奇跡まで行っていたかもしれません。弟子達がこれを喜ぶことは無
理もないことですが、そのことを喜ぶのではなく「あなたがたの名が天に書き記されてい
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ることを喜ぶ」ことを命じられた主イエスです。
そして主イエスはここに現れた神の国の実現の出来事をその目で見ることができた弟子
達のその「目」を祝福されました。この出来事が、かつて多くの預言者や王たちが「見る」
ことをせつに望んでいたことでしたが、見ることができなかったことだからです。それど
ころか、この喜びの知らせ聞くことすらできなかったことだからです。
今を生きる私たちも旧約の人々と同様、神の御支配の現実を当時の弟子たちのように肉
の目で捕らえることはできません。肉の目では捕らえることができない神の御支配の現実
ですけれども、聖霊によって心の目を開かれた者は、その目で主イエスが喜ばれた喜びを
捕らえることができます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と主イエスと
弟子達が喜んでいた喜びを、今を生きる教会も味わうことができる。その喜びに生きたい
と思うのです。私たちの信仰は「見ないで信じる信仰」です。「聞いて、信じる信仰」で
す。聖書に記されているこの出来事について「聞いて信じる」ことが赦されていることに
感謝をしたいと思います。
3.私たちの本当の居場所
では、主イエスが、そして弟子達がまるで「幼子」のような目で見ている喜びの出来事
とは具体的に一体どのような出来事なのでしょう。それは、わたしたちの教会が「天」と
のつながりを持っているということです。主なる神が、その傍らに、天に私たちの居場所
を用意してくださっているということです。
もし、この「天」とのつながりが失われてしまったならば、主イエスがお喜びになって
いることはぬか喜びに終わるものとなってしまします。私たちがこれから作ろうとしてい
る墓は死の象徴となります。そんなものは全くもって作る必要がありません。私たちと天
とのつながりがあるからこそ、墓は復活の象徴となります。主なる神が果たしてどのよう
なお方であるかが今日もまた問われています。父なる神というお方。それは、聖霊による
喜びと愛で私たちを満たしてくださるお方です。子なる神、それは、十字架と復活の御言
葉によって私たちの心の目を開き、永遠の命への道を開いてくださったお方です。そして
聖霊なる神。それは御言葉の内に豊かに働き、目には見えない神の御支配の現実を私たち
に悟らせてくださるお方です、この父・子・聖霊なる三位一体の神を私たちは主とあがめ
ております。
たとえ誰からも愛されていないと思うような現実にあったとしても、死の際にあったと
しても最後の最後、神は私のことを愛している。わたしの罪を悲しみを担うために十字架
にかかり命をかけてくださった。このことを信じることから始まる幸いな人生があるので
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す。人生のどんな困難の中でも、死の際にあっても、目には見えませんけれども、神の御
言葉は語るのです「あなたの道は御心に適う道である」
「あなたは祝福された存在だ」。
「あ
なたはすでに命を得ている」。御言葉の内に働く聖霊の力が、神が愛であることを悟らせ
てくださります。
この神の愛と、神がもたらしてくださる喜びに偽りはありません。どんなに悲しい現実
の中でも、祝福が信じることができなくなるような苦難の中でも、聖霊による喜びで私た
ちを満たしてくださる主なる神は、倒れた人を起き上がらせ、心くだけた人を慰め、再び
歩み始めることができるようにしてくださります。
目には見えないですけれども、そばにいて、力を与えてくださる愛と喜びの神です。特
に、この日曜の朝に、御言葉を通して与えられる祝福の言葉に真摯に聞くものに、主は幸
いな道を開いてくださいます。これを真摯にきく所に、弟子達が祝福された目。これと同
じ救いを見る目が与えられるのです。
心の目で捕らえたときに、天でのサタンとの戦いはすでにおわっています。たとえれば
将棋やチェスでは王が取られた瞬間に勝負は決しますけれども、実際は戦いがやみ、兵が
引いていくまでには時間がかかるものです。サタン敗北の現実がこの地上に影響を及ぼす
までにはまだ時間が必要なようです。それは終わりの日を待つほかはありません。
この地上においてはわたしたちの望みを砕き、光を失わせる諸力との戦いはまだ終わって
おりませんから様々な困難は続いております。
けれども、天とつながりを持つ私たち教会は、その終わりの日を先取りし、主キリスト
の十字架と復活の出来事からすでに教会は永遠の命の中を生かされているものですから、
教会ではあらゆる現実に逆らって希望が語られます。ぬか喜びではない、主イエスに根ざ
した喜びが語られます。福音が語られます。「あなたがたの名が天に書き記されている喜
び」を霊の目を心の目をで捕らえてつつ、この喜びの知らせに信頼していきましょう。主
は必ず救いの道を喜びの道を開いてくださるお方だからです。
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