ミヒャエラ・ヴィドラコヴァ1のスピーチ

ミヒャエラ・ヴィドラコヴァ1のスピーチ
2008 年 5 月 2 日
ベルリン 世界の文化の家
行動・償いの印・平和奉仕
設立 50 周年記念式典にて
小田博志訳
親愛なる友人のみなさん(Liebe Freunde)!
私がたった今みなさんにどう呼びかけたかお気づきになりましたか。
「親愛なる友人のみ
なさん!」これ以上何も話さなくても、この二つの言葉だけで大切なことは言いつくせる
とさえ私は思っております。
私はプラハ出身のユダヤ人であり、子供のころ数百万人の同胞と一緒に殺されかけ、幸
運と神の助けでショアー(ナチ・ドイツによるユダヤ人集団虐殺)を生きのびた者です。
その私が今日このドイツの中心に立ち、この国の大統領がいるところで、あなたがたに「親
愛なる友人のみなさん」と呼びかけているのです。これは、これまでの間に多くのことが
変わったということのひとつの印です。しかし、二つの民族が和解するかどうかは、たん
に政治家の手にゆだねられるものではありません。人間がほんとうに和解しなければなら
ないのです。ですから、祝辞の代わりに、私自身の和解への道のりと、その中の重要な里
程標について話をすることをお許しください。そこで「償いの印」が決定的な役割を果た
したのです。
幼い頃に私は保護領ボヘミアとモラビア2において、身をもって反ユダヤ主義とはどうい
うものかを体験しました。6 歳の時私はテレジエンシュタット・ゲットー3に強制移送され
ました。そしてそこでかろうじて死を免れることになったのです。テレジエンシュタット
でチフスに罹った私は、何週間も入院しました。そこでベルリンから来た同い年の少年か
らかなりの程度までドイツ語を教わりました。解放後、この小さいドイツ語教師や、私の
友達と親類のほとんどがガス室で無残にも殺されてしまったと知りました。そして私は一
言もドイツ語を喋るまいと心に決めたのです。さらに私はあらゆるドイツ人を宿敵とみな
して、憎みました。
それから何年かが過ぎ、私は大人になって、結婚し母になりました。でもその痛みと憎
しみは弱まることなく私の内に残りました。
行動・償いの印は 1958 年に設立されました。それからわずか数年後の 60 年代に、私
の両親(イルマとゲオルク・ラウシャー)は償いの印に協力し始めました。たぶんチェコ
スロバキアのユダヤ人の中で最も早かったのではないかと思います。その経緯を私は残念
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Michaela Vidláková、1936 年生まれの女性。
ナチ・ドイツによる併合によって、チェコスロバキアは保護領とされた。
ゲットーと名づけられたが、テレジエンシュタットは事実上の強制収容所であった。
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ながら知りません。というのも私はあのころ両親が、ユダヤ人の敵、最も残酷な敵と関わ
ることを、非常に不愉快に思っていたからです。だから何も聞きたくなかったのです。両
親がいかにドイツ中を駆け回って、償いの印のサマーキャンプの若者たちを訪問し、ホロ
コーストやユダヤのことについて話をしたのか。彼らがいたるところでどれほど温かく迎
えいれられたのか。そのようなことの何一つとして私は聞こうとしませんでした。私の母
は熱心な教師でした。よく私に説明しようとしました。彼女が関わっているのが、戦争中
とは別の、新しい世代で、彼らの生まれる前に起こったことに罪はないこと。それでも彼
らは過去と取り組む責任を取ろうとしていること。頭ではそのことが分かりました。でも
感情のレベルではどうしても一歩前に出ることができませんでした。
1967 年に西ベルリンから ASF(行動・償いの印・平和奉仕の略称)のグループがプラ
ハにやってきました。今となってはどうしてか分からないのですが、私はそのグループに
町を案内することになったのです。長いあいだ、私は一言もドイツ語を喋らずに歩きまし
た。私の隣を歩いていたエリカ・ハーンという若い女性が、いろいろなことを話してきま
した。自分は何をしているのか。ASF のメンバーになった動機は何か。1 時間ほど経った
とき、堰が切れたように私は話し始めていました。ドイツ語を。そのころ、はじめて私は
メンゲレ博士やその同僚たちとは違ったドイツ人もいるのだということが分かりかけてい
ました。これが私のドイツ人との最初の接触でした。でも和解には程遠い状態でした。
ドイツに、東ドイツに、私がはじめて来たのは 1974 年のことでした。東ベルリンのユ
ダヤ人コミュニティが、プラハのユダヤ人コミュニティの子どもを招待して、私はこのグ
ループの世話人として同行したのです。ドイツで私が何を最初に感じたのか?フリードリ
ヒシュトラーセの駅前で、幼稚園の園児が道路を渡っていました。かわいい子どもたちで
した。市電と自動車は停車して、急ぐ風もなく、みんな微笑みながら、子供たち全員が渡
りきるまで待っていました。そのとき私が思ったのは、これと同じように無垢な瞳をした
愛らしい何千、何万のユダヤの子どもたちが、この国の国民によって情け容赦なくガス室
に入れられたということでした。私は痛みと無念さで身が震えました。そして 50 歳以上の
ドイツ人を見れば、同じ問いが頭の中に浮かびました。
「おまえはあのころ何をしていたの
だ?」
翌日私はアウグストシュトラーセの ASZ(行動・償いの印の東ドイツ組織の略称)のオ
フィスで両親と会うことになっていました。両親もちょうどベルリンにいたのです。そこ
でとても特別なことが起こりました。白髪の男性が私に話しかけてきて、私がラウシャー
の娘だとわかると、長く話し込むことになったのです。彼が私に何を言ったのか、細かい
ことは忘れてしまいました。しかしその話を聞いていると、何か穏やかな流れが私の額に
流れ込んでくるように感じました。この男性がロター・クライシヒ氏4でした。彼の人間性
とカリスマによって私は納得しました。過去を変えることは残念ながらできなくても、和
Lothar Kreyssig (1898-1986)。法律家。1958 年にドイツ・プロテスタント教会総会で呼
びかけを行なって、
「行動・償いの印」を創設した。
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解の道が未来のための最善の選択ということをです。彼がそのときくれた署名入りの小冊
子は、私の本棚の宝になっています。
それからまた何年かが過ぎました。ASZ オフィスのロンベルクさん(愛称ロミ)が私の
両親と一緒に、当局をごまかすためのトリックを考え出しました。プラハの両親の家が東
と西の集合場所になりました。私は何人ものゲストと知り合いになりました。また東ドイ
ツには何度も滞在しました。
「償いの印」という言葉がたくさんの扉と心を開いてくれまし
た。私にとって重要なある出会いのことをお話しましょう。80 年代、夏の休暇のとき、私
はリューゲン(ドイツに属するバルト海上の島)から引き返していました。ホテルを見つ
けることができなかったのです。その途中、サマーキャンプのところに来ました。その場
所のことを、何事にも気を配るロミが私に教えておいてくれたのです。そのキャンプのリ
ーダーで、プロテスタントの若い牧師のアンドレアス・グダーに、ASZ との関係も含め私
は詳しく自己紹介をしました。そして建物の中庭にトラビ(東ドイツ製の自家用車)を停
めて、その中で一泊させてくれるようお願いしました。国境地帯だったので外で寝ること
は禁止されていたのです。答えは、
「問題ないですよ!」でした。私は呆気にとられました。
「あなたが車の中で寝ることはありません。中にお入りなさい。ベッドがありますよ。」そ
して私はキャンプ参加者の若者たちと夜遅くまで、ホロコースト、ユダヤ、罪と償い、正
義と報復などについて議論しました。結局私はそこに一晩だけでなくて、三日間も滞在し
ました。これが私にとって、両親の跡を歩むことになった最初の体験でした。
壁崩壊の後、多くのことが変わりました。私はプラハのユダヤ人コミュニティの役員を
務めるようになっていました。そんなとき私たちは、ASF からユダヤ人墓地でのサマーキ
ャンプの他に、より長期間のボランティア奉仕のオファーを受けました。私たちはすぐに
でも人手を必要としていました。でもそのオファーを受け入れることは、コミュニティの
中でたいへん難しいことでした。まずドイツ人がホロコーストを生き延びたユダヤ人の間
でどう思われるのか、もしかしたら心理的な負担になってしまうのではないかということ
を恐れました。そして二つ目に、それがひそかにキリスト教の伝道のようになるのではな
いかという懸念も抱きました。ASF に何度も協力してきたアルトゥア・ラドヴァンスキと、
社会サービス部部長のシドノヴァさんの助けで、そのオファーをやはり受けることになり
ました。私たちのところに来た最初のボランティアはフリーデマン・ブリングトでした。
彼がホロコースト生還者に何を意味するのか、誰にも分かりませんでした。フリーディは、
彼らに新しい希望をもたらしてくれたのです。「(ホロコーストを)二度と起こさない」と
いう希望をです。それから毎年ボランティアがやって来ました。彼らは私たちの間で高く
評価されました。私はこうも言いたいです。彼らボランティアは、私たちの間で愛された
のだ、と。
私の歴史証言者としての活動も、
ある元 ASZ メンバーによって始めることになりました。
ベアント‐カール・フォーゲルはブランデンブルク州の文部大臣になっていました。彼は
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ドイツ‐チェコ教員セミナーをテレジエンシュタットで企画しました。彼は私の両親を青
年キャンプのときから知っていたのですが、その時には二人ともすでに亡くなっていたの
で、私を歴史証言者として招待したのです。こうして私は両親の活動を文字通り相続する
ことになったのです。それから私たちは、6 つの強制収容所での 6 年間を生き延びたアル
トゥア・ラドヴァンスキと共に、たくさんのドイツの学校を訪問しました。私たちが体験
したことを若者たちに聞かせました。それは非難したり、同情を買ったりするためではな
く、もし悪に対して適時に対抗しなければ何が起こるかの実例としてでした。私たちが強
調したのは、狂信的になってはならないということです。そうなってしまったとき、人は
犯罪者になるかもしれないからです。それと、自分の良心に従って行動することと、和解
と友好の道を進むべきだということも強調しました。
私たちはあの暗闇の時代について報告できる最後の世代に属しています。ですから、ASF
のボランティアが最近やった仕事は私たちにとって非常に大事なのです。アルトゥア・ラ
ドヴァンスキの回想を録音し、ボランティアたちがそれを逐語的に文字に起こし、読みや
すく編集してくれました。それが約 1 年前、ラドヴァンスキの 85 歳の誕生日に合わせて
ゴルトボーゲン出版社から刊行されました。その本のタイトルは『それでも私は生き延び
た』です。初版はドイツの生徒と教師の手に渡って無くなりかけています。
まだまだたくさんのことがありました。ASF から招待されて、ライプツィヒの教会大会
で「ナチ犠牲者の非・補償」というテーマのディスカッションに参加したことがあります。
私が非常に驚いて、深く感動したのはドレスデンでの「友愛週間」でのことでした。私に
まったくの内緒で準備された、私の母を記念する「イルマ・ラウシャーの樹」というタイ
トルのコンサートがアンネ教会で開かれたのです。ボランティア、生徒、教師たちとの出
会いも楽しい思い出です。その人たちとの間で、ドイツでの深い友情が生まれました。そ
のすべてをお話しすることはできません。私のスピーチの時間は限られているからです。
こうしたことは 63 年前の私にはまったく考えることもできませんでした。
これらのすべてがまさに、あなた方に「親愛なる友人のみなさん(Liebe Freunde)!」
と呼びかけた理由なのです。最初に述べたこの二つの言葉が、私のスピーチでほんとうに
最も大事なことだとみなさんもお分かりになったことでしょう。
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