俳人飯田蛇笏、龍太父子の居宅を守る ~山廬文化

Vol.199-1【平成 27 年 2 月 27 日発行】
テーマ1
俳人飯田蛇笏、龍太父子の居宅を守る
~山廬文化振興会の役割について~
【一般社団法人山廬文化振興会
理事長
飯田秀實】
はじめに
山梨は江戸時代から俳句が盛んな地域だった。特に幕末から明治にかけては、
各地で活発に句会が催され、俳句熱が高まった時代でした。そんな中、日本を
代表する俳人飯田蛇笏が誕生しました。そして、その流れは四男の龍太に継が
れ、2 人は大正・昭和の俳壇を牽引しました。二人の俳人が暮らした居宅は今
も住宅として残っています。
この居宅や敷地の維持管理について、一般社団法人山廬文化振興会理事長で、
山廬当主、龍太の長男の飯田秀實が報告します。
い い だ だ こ つ
飯田蛇笏
俳人飯田蛇笏は 1885(明治 18)年 4 月、山梨県東八代
ご せい むら こ ぐ ろ さ か
郡五 成 村 小黒坂 (現笛吹市境川町小黒坂)に生まれた。本名
たけ はる
さ ん ろ
は武 治 。俳号山廬 とも称する。
飯田家は農家であるが、 地元で代々名主を務める家柄で、
武治はその長男として育った。小さいころから大人に交じって俳句に親しみ、
月並俳句の句会に参加していた。
もつ花におつるなみだや墓まゐり
9 歳の時の作品である。
-1-
その後山梨県尋常中学校(のち甲府中学校)に進学、校友会雑誌に小文を発
表している。1904(明治 37)年、東京の京北中学校に転入し、ここでも校友
ひなつこうのすけ
会雑誌に詩や俳句を発表し、後輩の日夏耿之介 らと交流する。翌年早稲田大学
わ
せ
だ ぎん しゃ
に進み「早 稲 田 吟 社 」に参加、中心的な活動を行う。同年齢の若山牧水と親交
を深め、一時期牧水は蛇笏の下宿に同宿する。このころ俳句のほか、詩作、小
しんせい
説に傾倒し「文庫」「新聲 」などに作品を発表している。そして 1908(明治
はいかいさんしん
41)年、高浜虚子の「俳諧散心 」に参加し、俳句に没頭するが、翌年早稲田大
学を中退し帰省する。蛇笏の帰省を惜しんだ牧水は、蛇笏に再度上京を促すた
め、境川村小黒坂まで足を運び 11 日間蛇笏宅に逗留し、説得に当たったが、
蛇笏はそれを拒み、以来死去するまで小黒坂の地を離れることはなかった。
虚子の俳壇復帰と共に蛇笏の俳句活動も活発となり虚子主宰の「ホトトギス」
において第 1 席である巻頭を度々飾り、ホトトギスの代表俳人の一人となった。
1915(大正 4)年愛知県で雑誌「キララ」が創刊され、第 2 号から俳句選者
う ん も
となり、1917(大正 6)年には主宰に就いた。そして「雲母 」と改め、名実
ともに主宰者として俳人の道を歩み始める。 1932(昭和 7)年第1句集「山
れ い し
こ だ ま しゅう
はくがく
しゅんらん
せっきょう
かきょう
廬集」出版。その後、句集は「霊芝 」
「山響 集 」
「白嶽 」
「春 蘭」
「雪 峡」
「家郷 の
きり
え
ど じゃっ こう
つち
きょう えん
び
でん
霧 」を発行。評論集「俳句道を行く」随筆集「穢 土 寂 光 」
「土 の 饗 宴 」
「美 と田
えん
園 」など多数出版された。
ちん か しゅう
1962(昭和 37)年 10 月 3 日自宅で死去、77 歳。没後句集「椿 花 集 」
「飯
田蛇笏全句集」が出版された。角川書店(現角川文化振興財団)が「蛇笏賞」
を創設し俳壇の最高賞となっている。
い い だ りゅう た
飯田 龍 太
1920(大正 9)年 7 月、山梨県東八代郡境川村小黒坂
(現笛吹市境川町小黒坂)に蛇笏の四男として生まれる。
小学校のころから国語に秀でており、小学校 1 年の時作
文で表彰される。甲府中学校に進学、友人の俳句添削など
おりくちしのぶ
を依頼される。1940(昭和 15)年、折口信夫 に惹かれ國
學院大學に進むが、肺浸潤、肋骨カリエスなどを患い大学を休学。帰省し、農
業に従事する中、農業雑誌「農業世界」に論文を応募し入選する。大学卒業す
るも兄 3 人が病死、戦死と相次いで命を落とし、飯田家の跡を取ることとなる。
-2-
ひゃっこ
このころから本格的に俳句に専念し、1954(昭和 29)年、第 1 句集「百戸
たに
の谿 」を出版。蛇笏主宰の「雲母」の編集に携わる。蛇笏没後「雲母」を継承
どうぼう
ふもと
ひと
ぼうおん
りょうや
し主宰する。句集「童眸 」
「 麓 の人 」
「忘音 」
「春の道」
「山の木」
「涼夜 」
「今昔」
ち そ く
「山の影」「遅速 」を出版。また随筆集「無数の目」「思い浮かぶこと」などを
刊行。
第 1 回山日芸術賞文学賞、読売文学賞、日本芸術院賞恩賜賞受賞。紫綬褒章
受章。日本芸術院会員。
1992(平成 4)年 8 月、「雲母」900 号をもって終刊する。2005(平成
17)年「飯田龍太全集」全 10 巻が刊行される。
2007(平成 19)年 2 月 25 日死去。86 歳。
さ ん ろ
山廬
飯田蛇笏の別号であるとともに、蛇笏、龍太の居宅及び敷地を総称した名称。
「山廬」という呼称は、蛇笏が「山の粗末な建物」と自らの居宅、あるいは「そ
こに住むもの」としてつけた造語である。俳句を揮毫した際には、
「蛇笏」のほ
か「山廬」「山廬主人」としている。
居宅としての山廬は江戸時代の建物で、養蚕地方の農家の造りとなっている
が、特徴的なのは飯田家が代々名主の家柄だったことから、武家階級に許され
た「式台玄関」
(武士など身分の高いものが出入りする玄関)や、書院式の座敷
を備えていることである。正確な建築年代は不明であるが、江戸時代後期とみ
られ、柱や梁、内部の壁などはほぼ建築当時のままである。屋根は明治期に「草
葺」から「瓦葺」に変えられ、この際周りが漆喰で塗り直された。その後 1998
年に瓦葺から軽量の合板葺に変えられた。母屋はいずれも 10 畳の間取りで、
土間などを含め建坪は 50 坪。付属の建物として「文庫蔵」「新座敷」などがあ
る。
中門脇の赤松は樹齢 350 年以上と推定され、四方に枝を広げた見事な姿で、
一般住宅の庭木としては極めて稀な古木である。
住宅北側には竹林が広がり、そこを狐川という笛吹川の支流が流れている。川
に架かる橋を渡ると雑木林が広がり、蛇笏、龍太はここを後山(ござん、こう
ざん)と呼んだ。中腹には蛇笏揮毫による江戸時代の俳人で甲州出身の山口素
はつがつお
堂 の 「 眼 に は 青 葉 山 ほ と と ぎ す 初松魚 」 の 句 碑 が あ る 。 山 廬 全 体 の 面 積 は 約
3,300 坪である。
-3-
現在も当主が住宅として使用しているため通常は非公開となっている。
山廬全景
式台玄関
座敷
山廬の維持管理と公開の現状について
江戸時代の建築物とそれに付随した蔵などがあり、また庭木も樹齢 350 年の
つ つ じ
もくせい
赤松をはじめ、黒松や樹齢 100 年以上の躑躅 、木犀 などの大木があり、竹林や
後山の手入れなど維持管理にはかなりの時間と手間を要している。これまでは
所有者である個人が行っている。
山廬は、蛇笏、龍太が生涯を過ごし、数多くの作品を残した地であることか
ら俳人、俳句愛好者の間で「俳句の聖地」と言われている。それだけに山廬の
ぎんこう
見学や吟行 (散策しながら俳句を詠む)を希望される方は多いが、住宅として
使用している関係上、常時公開することは不可能で、通常は邸内非公開として
いる。しかし希望者の要望に応えたいという当主の考えから、グループでの見
学や吟行、句会の要望には対応している。たとえば 10 人前後から 20 人前後
のグループならば事前に打ち合わせの上、日時を決め、当主が邸内を案内する。
当主の先導のもと母屋に上がり蛇笏、龍太が使用した書斎、多くの文人、俳
人、歌人と座談した座敷を見学し、竹林から後山を散策しながら四季を楽 しむ。
個人や多人数の場合は案内する都合上断らざるを得ない場合がある。また、少
しでも蛇笏、龍太の世界を知ってもらうため、短時間での見学も断っている。1
時間半ほどの時間をみてもらっている。1 日 1 組の案内となっているため、見
学者は大変満足している。
山廬書斎
山廬邸内(土間より)
-4-
山廬後山
山廬文化振興会の設立と役割
山廬の維持管理と、蛇笏、龍太そして二人が主宰した俳誌「雲母」を永く伝
承し、また多くの方に理解してもらうために、どのような手法を取ってゆくべ
きか、数年をかけ検証してきた。山廬の家屋や土地は文化財等の指定は受けて
いないが、大正、昭和、平成と俳壇を牽引してきた俳人二人の文化活動の拠点
という文化的価値は極めて高く、また、 2 代にわたり生涯をその地で過ごした
というのも稀有である。その意味でも保存は大きな意味がある。個人所有との
兼ね合いも大きな課題だった。これらを総合的に判断し、個人が所有管理する
ことと、法人による維持という 2 本立ての手法を検討した。法人は非営利型の
一般社団法人とし、趣旨に賛同してくれる個人を中心とした賛助会員を募り、
会費による運営を目指すこととした。
2 年ほどの準備を経て、2014 年 4 月 26 日、蛇笏生誕の日に「一般社団法
人山廬文化振興会」を設立し、現在 600 人を超える方が賛助会員となっている。
また、法人の役員、正社員 15 名が「運営委員」となり、山廬の維持や文化活
動の企画運営、会報の発行などを行っている。
俳諧堂の復元
山廬の邸内南西側に 1940 年代後半まで 2 階建の蔵が建っていた。1階は穀
物蔵として使い、2階は 20 畳ほどの板の間となっていた。大学を中退し、名
主の長男として家督を譲り受けた「武治」であったが、
「蛇笏」として俳句を中
心に作家活動を精力的に行っていた。その俳人としての活動の場が蔵の2階だ
った。
「俳諧堂」と称して文筆活動の場とするとともに、近隣の農家の男たちや、
学校の教員、僧侶などを集めて句会を開いた。泊まり込みで句会を開くことも
あり、 寝具 一式が 常 備され てい たとい う 。 1910(明治
43)年 9 月、若山牧水が蛇笏再上京を促すため山廬に来
た際、寝泊まりしたのも俳諧堂である。滞在は 11 日間だ
まえ だ
ふ
ら
った。ホトトギスにおいて蛇笏とともに活躍した前 田 普 羅
や、多くの俳人がここでの句会に参加した。雲母の鍛錬句
かん や
く ざん まい
会であり、寒夜連日行うことから「寒 夜 句 三 昧 」という一
大行事の発祥も俳諧堂からである。
俳諧堂での蛇笏
この蔵は第二次大戦後の農地改革で飯田家の穀物蔵と
しての使命は終わり、解体され別の所有者の元「蚕室」と
-5-
1918(大正 7)年
して移築された。その後養蚕業は終焉を迎え、この蔵は農機具置場に変わった
が、修繕もされないままの状態が続き、近年損傷が著しくなっていた。仲介人
の働きで、2013 年所有権の移転と解体を行った。2014 年の大雪で崩壊を免
れたのは幸いだった。現在は飯田家所有の元、伝統的建造物の復元を手掛ける
甲州市の「伝匠舎」が調査保管している。山廬にあったころの図面が存在し、
また龍太が撮影した 1940 年代初めの写真も発見できたことから、蔵の復元に
向け設計図の作成が可能となった。現在山廬敷地内の復元場所の検討と復元資
金について検証を行っている。
2015 年は「雲母」の前身である「キララ」が創刊されてから 100 年にな
る。これを一つの節目として復元に向け具体的に動き出す年となる。
幕末の家相図
明治の家相図
1942(昭和 17)年
(2 枚の家相図は南北逆)
発行:平成 27 年 2 月 27 日 編集:公益財団法人山梨総合研究所
TEL:055-221-1020(代表)FAX:055-221-1050
URL:http://www.yafo.or.jp
発行人:村田俊也/編集責任者:末木 淳
俳諧堂写真(龍太撮影)
-6-
甲府市丸の内 1-8-11