グローバルな文脈の中でのヨーロッパ レジュメ

第3章
戦後の時期のグローバルな文脈におけるヨーロッパ
ヨーロッパ史・・・世界史から非常に逸脱?
グローバルな孤立の時期、苦境におけるグローバルな退却の時期/
第二次世界大戦の結果としてヨーロッパの世界支配の激しい弱体化の
時期?
世界の多くの部分に対し、ヨーロッパの戦後の時期はまったく異常に見えた。
ヨーロッパ・・・深刻な危機と同時に根本的に新しい方向への転轍
戦後危機や新しい始まり
アメリカ合衆国は?
ラテンアメリカは?
サハラ砂漠以南のアフリカは?
ソ連あるいは東南アジアは?
日本は?
アメリカ合衆国?
・・・・1940 年代後半、戦後困窮の時期ではなく、ノーマルな経済的発展の時期
軍隊に所属していた何百万人もの復員は、貧困化にはつながらなかった。
第一次世界大戦後とは異なって、軍事費は高いままであった。
冷戦・・・アメリカ軍はヨーロッパや東アジアおよび東南アジアから撤退しなかった
アメリカ合衆国・・・アメリカの歴史書の中では 1945 年は重要な転換点ではなかった。
ソ連?
・・・1945 年の後の数年は、確かにヨーロッパにとってと同様に壊滅的な第二次世界大戦
の暗い影の中にある困窮の時期
しかし、新たな始まりをもたらさず、むしろスターリン主義体制の復活と強化
ラテンアメリカ?
・・・・ヨーロッパの第二次世界大戦に参加。
当時はまだ経済的文化的にヨーロッパに強く結びついていた
1930 年代の経済危機、
そして再び、1960 年代と 1970 年代以降の軍部独裁国家の成立
・・・1940 年代後半よりもはるかに深刻な変革
東アジア、南アジア、近東・・・1940 年代後半にヨーロッパと似たような危機と変革の
時代
東アジア?
東アジアの発展・・・ヨーロッパの戦後の時期との類似性が最も顕著
5つの類似点であった。
第一に、東アジアでは戦後の時期は、ヨーロッパと同様に帝国の血なまぐさい崩壊の
影の中にあった。日本は第二次世界大戦のナチズム(国民社会主義)のドイツと同じよう
に、征服と残酷な抑圧により支配地域をつくりだした。その支配地域も同様にわずか数年
しか存続しなかった。
日本は確かにすでに 1895 年以来台湾を、1910 年以来朝鮮を植民地にし、1932 年以来
中国北部に専制的な政権、満州国を設立していた。
しかし 1941 年に第二次世界大戦に入った後ようやく、日本はもっと広大な地域を征服。
どこか?
中国の大きな部分、
フランス領インドシナ、
オランダ領インドシナ、
イギリス領マラヤ、
アメリカ領フィリピンを含む東南アジアの大きな部分を征服した。
日本の世界大戦の敗北と日本帝国の崩壊の後、新しい超大国、アメリカ合衆国とソ連
が、ヨーロッパと同じように東アジアにおける根本的な諸決定を下した。
第二に、東アジアにおいても戦後の時期には、ヨーロッパと似たような苦境
どんな?
似たような戦争の破壊
犠牲者数も同様に大きかった・・・中国では約 1400 万人もの、
日本は約 200 万人の戦死者がいたとされる。
戦傷と戦争トラウマ、
戦死した家族の喪失
東アジアの諸都市もヨーロッパと同じように破壊
たんに原子爆弾の投下後の悲痛で有名な広島の光景だけでなく、通常兵器
による爆撃後の東京の光景もまた、ロッテルダム、ワルシャワあるいはベル
リンの光景とほとんど異ならなかった。
交通と農業に損害
骨の折れる復興
ヨーロッパのように、東アジアの大きな部分を支配していたのは、食糧難、
住居不足と失業
全く同じように何百万人もの人間が、帰還する強制労働者、戦争捕虜およ
び朝鮮と中国から日本に向かう途中の日本の引き揚げ者
第三に、東アジアでも戦後の時期はヨーロッパに似て、新たな始まり
どんな? 日本では、どんな変革、新しい始まり?
日本では、アメリカ合衆国の圧力と直接の協力により、
1947 年に新しい憲法、
独立した裁判所をもつ議会主義的君主制
国家的社会保障の根本的な改革、
最低生活水準の導入、
子供や障害者、失業者や労働災害犠牲者の社会的保護のための法律
学校と大学はアメリカの影響下に内容的にも組織的にも根本的に新しい構造に
中国では?
共産主義の権力掌握後の 1949 年に、東ヨーロッパと同じように、ソヴィエトモデルに
よる経済と社会の完全な転換が断行された。
ソ連の専門家の協力の下、ソヴィエトモデルによる5カ年計画、国家的社会福祉事業、
国家的公衆衛生業務、学校制度が導入され、重工業が建設された。
非常に残酷な手段―それには大量の射殺も入っていたが―によって、何百万人もの死
の犠牲者を出しながら、農業は集団化された。
第四に、東アジアも、戦後の時期、冷戦によってヨーロッパのように分割された。
ヨーロッパのように東アジアでも鉄のカーテン・・・どこに?
中国
本土と台湾
と 朝鮮
北朝鮮と南朝鮮
鉄のカーテンによる分断線・・・経済システム、社会政策、文教政策、文化の間の、
並びに同意調達の大量動員と民主的な参加の間の比較可能な競争
冷戦開始の諸理由・・・ヨーロッパと似ていた。
中国における蒋介石と毛沢東の間の内戦
アメリカの勢力圏 と ソ連の勢力圏
第五に、東アジアでもヨーロッパのように第二次世界大戦についての分裂した記憶
中国と朝鮮における、より弱い形では台湾にも見られた日本の支配からの解放につい
ての政治的に動員された記憶、
これと並んで日本では第二次世界大戦における自分の犯罪との根本的な取り組みの抑
圧。
もっとも東アジアとヨーロッパの戦後の時期の相違・・・どんな点で?
ヨーロッパでは第二次世界大戦は、東アジアにおけるよりもはるかに破壊的であった。
死者の数は約 5000 万人で、明らかに多かった。
しかし、とりわけ東アジアではホロコーストはなかった。
日本の占領が非常に残酷で残虐であったとしても、人種上の動機からの何百万人もの人
間の組織的な殺害はなかった。
そのためヨーロッパでは戦後の時期、ドイツの道徳的な信用失墜は、東アジアにおける
日本のそれよりもはるかに激しかった。ドイツ人の道徳的な改心への外部と内部からの圧
力は、はるかに強大だった。
中国では?
逆に、戦後の時期における東アジアでの冷戦と共産主義体制の貫徹は、比較にならない
ほどずっと血なまぐさかった。いまだにほとんどの地域が農村的だった中国では、毛沢東
主義の政権による農業の集団化は、1945 年後の東ヨーロッパよりはるかに多くの人命、犠
牲
大土地所有者の土地の没収、
公開の批判の儀式、
約 100 万人の農村の大土地所有者と富農の殺害、
都市経済の完全な国有化、
都市の市民階級と多くの知識人の除去、粛清、
巨大な刑務所の建設
・・・・残忍な大変革であり、東ヨーロッパよりもはるかに残酷。
朝鮮では?
一方では北朝鮮および中国と他方では韓国およびアメリカ合衆国とその連合軍の間で
熱い戦争が勃発
この戦争は再び何百万人もの人命を犠牲に
それに対してヨーロッパでは、熱い衝突、すなわち、ギリシャの内戦、ユーゴスラ
ヴィアの衝突、そしてベルリン封鎖からは国家間の戦争は生じなかった。
植民地帝国の崩壊に関して。
ヨーロッパの植民地帝国の崩壊・・・ヨーロッパの戦後の時期の本質的な局面
中国の諸帝国は、海外植民地を持たなかった。
朝鮮と中国大陸における日本の植民地帝国は、世界大戦の日本の降伏によって、す
でに崩壊
さらにヨーロッパの植民地帝国の崩壊は、世界史的に大日本帝国の崩壊とは別の意
味があった。ヨーロッパの植民地列強は、長い期間にわたって全体として、たとえその支
配がどのように徹底的だったかについては評価が分かれようとも、世界の大きな部分を支
配していた。
それに対して日本は比較的わずかな期間しか、東アジアと東南アジアの地域的な権
力ではなかった。それゆえヨーロッパの植民地帝国の没落は深刻な世界史的な断絶だった
が、それに対して大日本帝国の崩壊は地域史的なそれでしかなかった。
それに加えてヨーロッパの戦後の時期の経済危機は、世界経済にとって当時東アジアの
危機よりも影響が大きかった。
1950 年ごろ、ヨーロッパの年間の経済業績は世界経済の約 5 分の 2 であったが、それ
に対して東アジアのそれは約 10 分の 1 であった。
それどころか世界の輸出に占めるヨーロッパの割合は、1950 年ごろ全体の約半分以上
に達していたが、それに対して世界貿易に占める東アジアの割合は 10 分の 1 以下だったと
見積もられている。
ヨーロッパの経済は、グローバルにはるかに大きな重要性を持っていた。なぜなら 1950
年ごろのヨーロッパ経済は、東アジアのそれよりもはるかに工業化が進展し、それに加え
て伝統的な方法でとりわけ強く世界貿易を担っていたからである。
東アジアでは日本しか工業化が開始していなかった。それ故ヨーロッパの戦後の時期
の経済危機は、同時代の東アジアの経済危機よりもはるかに世界経済に損害を与えた。
最後に東アジアでは、ヨーロッパの戦後の時期の重要な新たなはじまりに相当するもの
がなかった。すなわち、ヨーロッパ統合に対応するものが欠如。
南アジア
1940 年代後半・・・南アジアでも二重の意味での戦後の時期
すなわち、一方で、非常な困窮の時期
同時に他方で、根本的な、新しい方向への転轍の時期
インド
イギリスの直轄植民地インド・・・第二次世界大戦に参加
インド軍は義勇軍で、約 250 万人の兵士にまで拡大
ヨーロッパ、近東、アフリカ、東南アジアに投入
インド経済・・・イギリスの植民地行政官庁によって厳しい物価統制と
商品統制をともなう戦時経済に転換。
戦後の時期・・・インドにとっても物質的にきわめて困窮した時代
食糧・・・「かろうじて足りるほど」、投機的な商人によってさらに人為的にわ
ずかにされた・・・イギリスの植民地行政官庁は、解決にもはや不介入
→食糧難・・・約 100 万人が 1940 年代後半に死亡
また、インドは内戦に似た状況
1947 年以来のイスラム教徒とヒンズー教徒の間の衝突。
おそらく 100 万人が殺害された。
約 1000 万人が避難。
イスラム教徒は以前の直轄植民地のイスラム教徒地域、すなわち新し
く設立されたパキスタンに、しかしヒンドゥーも反対方向に、すなわ
ち新しい国民国家インドに。
南アジアでも戦後の時期は新たな方向への転轍の時期
植民地インドは 1947 年に独立達成
・・・グローバルな脱植民地化の鍵となる決定的な出来事
同時にインドの分裂・分割・・・・今日圧倒的にヒンズー教徒が住むインドと、
西の部分、今日のパキスタンと東の部分―後にバングラデシュの名前で独立
した地域―をもつイスラム国家
インドは共和制の憲法を手に入れ、議会制民主主義国に。
・・・インドはそれ以来住民数では世界最大の民主主義国家。
民主主義の世界史にとって、戦後の時期は重要なエポック・・・西ヨーロッ
パや日本だけではなく、インドでも今日まで安定している民主主義が確立
ヨーロッパの戦後の時期との違い
戦争による破壊の影の中にはなかった。
南アジアはこの理由からヨーロッパと東アジアとは異なって、対立する戦争の記憶に
よって分裂していなかった。
冷戦・・・南アジアでは、共産主義の諸国と西側諸国の間の直接対決は起きなかった。
インドとパキスタンの対立は、とりわけ宗教的な相違から生じた
さらに南アジアの戦後の時期は、社会的な改革の時期でもなかった。
最後に、国際的な安全保障のための超国家的な経済統合・・・南アジアでは宗教的緊張
があった結果、東アジア地域と同じように、ほとんど考えることができなかった。
近東と北アフリカ
近東と北アフリカ・・・1940 年代後半が決定的な大変革の時期
この地域は、第二次世界大戦において重要な作戦地域
イギリスと自由フランスは、イラン、イラク、シリア、エジプトとアルジェリアで、
政治的な影響力の行使によって、部分的には軍事介入によっても、枢軸諸国に反対する支
持を確保した。
その上、北アフリカでは一方のイギリス、アメリカの軍隊、それにフランスの部隊と、
他方のドイツ、イタリアの軍隊との間で戦闘が起き、1943 年に連合した西側列強の勝利で
終わっていた。
キレナイカとアラブの兵士がイギリス軍に、
アルジェリアとモロッコの兵士がフランス軍に参加
した。一番多かったのはアルジェリア人で、戦闘員約 30 万人だった。
北アフリカの一般市民は、農村と都市での戦闘による破壊に、
戦争中と戦後の時期の劣悪な食糧事情と食糧難に、苦しんだ。
この地域にとっても、戦後の時期は重要な新たな方向への転轍
・・・南アジアと同じように、近東でも、この時期は脱植民地化と諸独立国家の誕
生の鍵になるエポック
ナショナリストのアラブの軍隊・・・国家的独立を達成し、経済を工業化し、社会
を変革する目的で権力につくためにクーデター
その際、原材料、とりわけ石油の利用に支えられることがまれではなかった。
1949 年のシリアの最初のクーデター
数年間に他のところで多くのクーデターが発生。
強力な武力による独立運動は戦後の時期ではイスラエルの場合だけ
・・・国民的独立の獲得―この場合はイギリスの委任統治からの独立の獲得
それに対して武力によるアラブの独立運動は後になってやっと生じた
または、1945 年のアルジェリアのように、当分はまだ成功しなかった。
この地域とヨーロッパの間の当時の違い・・・戦争による破壊は、ヨーロッパよりも
深刻ではなかった。
ベイルート、カイロ、アレクサンドリア、アルジェとカサブランカのような大都
市は、それほど破壊されていなかった。
戦死者数も、そんなに高くはなかった。
その上、この地域は、冷戦によってヨーロッパあるいは東アジアほどに対立が両
極的に先鋭化するということはなかった。社会改革による政治的な新たな開始は、
周辺的なものにとどまった。
別の新たな開始の可能性、すなわち、地域的経済的な、そして政治的な連合には、戦
後の時期の近東と北アフリカには特によい機会があった。高まる汎アラブ主義の政治的な
意識に支えられ、イギリス植民地権力によって支援されて、すでに第二次世界大戦以来、
地域的な連合が計画され、1945 年にアラブ連盟が設立
経済統合の道よる平和確保・・・ヨーロッパとは異なって、急を要するとは思えなかっ
た。なぜならこの地域の諸国はそれ以前に互いに壊滅的な戦争を行ってはいなかったから。