過去 1 年間に逝去した高位聖職者追悼ミサ聖祭の説教

過去 1 年間に逝去した高位聖職者追悼ミサ聖祭の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
過去 1 年間に逝去した枢機卿・司教方追悼の教皇祭儀
聖父ベネディクト 16 世の説教
バジリカ・ヴァチカーナ内カテドラの祭壇
2012 年 11 月 3 日土曜日
毎年 11 月死者の月の初旬に、ベネディクト 16 世聖下は、最近1年間に逝去された枢機卿・大司教・司教方の魂の
永遠の安息を願って、バジリカ・ヴァチカーナ最奥のカテドラ(聖ペトロの座)の祭壇でエウカリスチアの生贄を捧げ
る追悼ミサ聖祭を挙行される。神の限りない憐れみに彼らを委ねながら、私達が故人との生きた交わりを現実に生き
ている意義を諭される。
敬愛する兄弟の皆さん、
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
私達の心の中には、聖人達の交わりと亡くなった信徒達の共同記念の雰囲気が生き生きと存在
しており、それは典礼が私達に昨日・一昨日の祭儀において鮮烈に生きるようにしてくれたもの
です。殊に、お墓参りは、私達を残して去った大切な人々との絆を新たにさせてくれました。死
は、逆説的ですが、命が引き留めることの出来ない事を保存できるのです。どのように私達の死
者達が生きたか、何を愛し、畏れ、希望したか、何を拒絶したのか、それを実際、私達が特殊な
方法で発見するのは墓からであり、墓は、まるで彼らの実在の鏡、彼らの世界の鏡のように残り、
墓は私達を問い質し、そして、死が危機に落とした対話を改めて交わすようにと、私達を誘い入
れます。こうして、様々な埋葬の場所は集会場のようになり、そこで生ける者は自分の死者達と
出会い、そして、死も打ち切ることのできなかったコムニオーネの絆を一層強固にします。ここ
過去 1 年間に逝去した高位聖職者追悼ミサ聖祭の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
ローマでは、カタコンベという特殊な墓地の中で、他のどんな場所にもないほど、私達が気付く
のは古来のキリスト教との深い結び付きや縁であり、私達は古来のキリスト教をこんなに身近に
感じます。ローマのカタコンベの通路に踏み入る時‐私達の町や村の墓地の通路に踏み入るのと
同様に‐それはまるで、私達が非物質的な敷居を超え、そこに彼らの過去を、数々の喜びや悲痛
や失敗や希望で出来た過去を保管している人々とのコミュニケーションの中に入るかのようで
す。それが起こるのは、死は、あの頃の人間に関係していたのと全く同様に、今日の人間に関係
しているからであり、たとえ過去の時代の多くの物事が私達とは無関係になっても、死は同様の
ままだからなのです。
この現実を前に、あらゆる時代の人間なる存在が求めてきたのは、希望させてくれる光の、ま
だ命について語ってくれる光の微かな明かりであり、墓参りもこの願望を表現しています。しか
し、どのように私達キリスト者は、死の質問に答えるのでしょうか?神への信仰を以て、イエス・
キリストの死と復活に基づく堅固な希望の眼差しを以て、答えるのです。そうすれば、死は命に、
永遠の命に開かれます。永遠の命とは果てしない現在の重複ではありません、完全に新しい何か
です。信仰が私達に教えてくれるのは、私達が憧れている真の不死性とは一観念でも、一概念で
もなく、生ける神との十全なるコムニオーネの関係であるという事です。それは、神の両手の中
に、神の愛の内に留まる事であり、そして、神の内に神がお創りになり、かつ、贖って下さった
全ての兄弟姉妹とただひとつ
に、被造物全体とただひとつ
のものになるという事です。
私達の希望は、そうであれば、
キリストの十字架の内に光り
輝く神の愛において、良い盗
賊へのイエスの『きょう私と
共にあなたは楽園にいるでし
ょう』
(ルカ 23,43)という言
葉を心の内に響き渡らせて下
さる神の愛において憩うので
す。これが、自己の充満に至った命であり、つまり、神における命です。今は単に、霧の向こう
に穏やかな空が見えるように、私達は垣間見ることが出来るだけです。
この信仰と祈りの雰囲気の中で、親愛なる兄弟の皆さん、私達は祭壇の周りを囲み、この一年
間に地上の実在を終えた枢機卿・大司教・司教達の代祷にエウカリスチアの生贄を捧げるため、
集まっています。特に私達が思い出すのは、懐かしい兄弟枢機卿 John Patrick Foley, Anthony
Bevilacqua, José Sánchez, Ignace Moussa Daoud, Luis Aponte Martínez, Rodolfo Quezada
Toruňo, Eugênio de Araújo Sales, Paul Shan Kuo-hsi, Carlo Maria Martini, Fortunato Baldelli の
過去 1 年間に逝去した高位聖職者追悼ミサ聖祭の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
面々です。私達の愛情の籠った記憶を亡くなった全ての大司教・司教方の上にも広げながら、慈
しみ深く、正しく、憐れみ深い主(参照:詩編 114)に、福音に忠実な下僕達に約束されている
永遠の報奨を彼らに賜るのをお望み下さるよう、願いましょう。
私達の敬愛するこれらの兄弟達の証を思い返し、福音の一節が私達に語った、あの「柔和」で
「憐れみ深く」
、
「心が清く」、
「平和を築き出す」
(マタイ 5,1-12)弟子達の姿を、私達は彼らの
内に認めることが出来ます。つまり、主の友人達であり、彼らは主のお約束に信頼しながら、困
難の内にも迫害の内にも信仰の喜びを保ち通し、今は常しえに御父の家に暮らし、幸福と恩寵に
満々に満たされ、天の報いを享受しています。きょう思い出す牧者達は実際、忠実さと愛を以て
教会に仕え、時に様々な苛酷な試練に直面しながらも、自らに託された群れに注意と配慮を確保
するように努めました。各々の素質や職務の多様性において、彼らは周到な用心深さの模範、神
の王国に対する思慮深く熱烈な献身の模範を与えながら、全教会における刷新の時期である公会
議後時代に貴重な貢献を果たしてこられました。
エウカリスチアの食卓は、彼らがまずは信徒として、次いで役務者として日毎に近づいたもの
ですが、その食卓は主が『山上の垂訓』の中で
お約束下さった事を最も雄弁に先取りしてい
ます。その約束とはつまり、天の王国の取得で
あり、天のエルサレムの食卓に与ることなので
す。それが全ての人々のために成就しますよう
に、祈りましょう。私達の祈りは、この『幻滅
させない』(ロマ 5,5)堅固な希望によって養
われており、『幻滅させない』というのは、復
活という奇蹟の出来事によって死に勝ち誇る
ために、肉において死を実際に体験したいとお
望みになったキリストによって保証されている希望だからなのです。
『なぜ死者達の間に生きて
いる方を探しているのですか?ここにはおられません。復活されました』
(ルカ 24,5-6)。この、
空っぽの墓の傍で過越祭の朝に発表された天使達の知らせは、幾世紀を通り抜けて私達にまで届
きました。そして、この典礼集会においても、私達の希望の本質的動機を提示しています。実に、
『もし私達がキリストと共に死んでいるなら‐洗礼において実現した事をほのめかしながら聖
パウロが思い出させるのは‐私達は彼と共に生きると信じています』
(ロマ 6,8)
。それを介して
神の愛が私達の心の注がれたのと同じ聖霊が、私達の希望が空しくならない(参照:ロマ 5,5)
ようにして下さるのです。憐れみに満ち、私達がまだ罪人であった時に御自分のたったひとりの
御子を死に渡して下さった父なる神が、御子の血によって私達が義とされた今、救いを私達に賜
らないはずがありましょうか(参照:ロマ 5,6-11)?私達の義はキリストへの信仰に基づいて
います。彼こそは、全ての聖書の中で予告された「全き義人」であり、彼の過ぎ越しの全き神秘
過去 1 年間に逝去した高位聖職者追悼ミサ聖祭の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
のおかげで、死の敷居を超えながら、私達の眼は神を見ることが、神の御顔を仰ぎ見ることが出
来るでありましょう(参照:ヨブ 19,27°)。
神の御子の人間としての独特の実在に寄り添っているのは、彼のいとも聖なる御母の実在であり、
全ての被造物の中でただひとり彼女を無原罪
なる恩寵に満ちた方と、私達は崇敬します。き
ょう追悼する私達の兄弟枢機卿と司教方はお
とめマリアから格別の寵愛を受けていました
し、彼らは彼女の愛に子としての信心をもって
応えていました。彼女の母としてのお執成しに、
きょう彼らの魂をお委ねしたいと思います。そ
れは、彼らが彼女によって御父の永遠の王国に
導き入れられ、彼らがそのために人生を費やした彼らの大勢の信徒達に取り囲まれるためにです。
彼女の思い遣りに満ちた眼差しを以てマリアが、今は幸いなる復活を待ち望みながら平和の憩い
の内に眠る彼らを絶えず見守って下さいますように。そして、私達は神に向かって高く、彼らの
ための私達の祈りを、いつの日か楽園の中で常しえに一致し、皆で再会する希望に支えられて捧
げましょう。
アーメン。
原文© Copyright 2005-2012 – Libreria Editrice Vaticana
邦訳© Copyright 2012 – Cooperatores Veritatis Organisation
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