2006 年アルテッティング聖母殿ミサ聖祭の説教

2006 年アルテッティング聖母殿ミサ聖祭の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
ミュンヘン、アルテッティング、レーゲンスブルグ使徒旅行
(9.-14. SEPTEMBER 2006)
アルテッティング・ミサ聖祭
教皇ベネディクト 16 世の説教
アルテッティング聖堂前広場
2006 年 9 月 11 日月曜日
司祭職と司教職における愛する兄弟方!
愛する兄弟姉妹方!
この日の第一朗読、答唱詩編、そして福音の中で、私達はマリアに、主の母に、3度出会いま
す。その度ごとに違う会い方で、祈る女性としての彼女に出会います。使徒伝の中では、弟子
達の共同体の真ん中にいる彼女を私達は見出します。弟子達は高間の中に集まっており、御父
に向かって昇っていかれた主を呼び求め、主の約束を果たしてくださるように願っています。
それは、
『数日中にあなたがたは聖霊によって洗礼を受けることになる』(使徒 1,5)という約
束です。マリアは、出来立ての教会を祈りによって導きます。彼女は言わば、祈る教会が人に
なったのと同じです。そして、彼女は、聖人達の大共同体と共に、その中心として、いつまで
も神の前にいて、私達のために願い求め、彼女の息子に彼の霊を教会と世界に新たに送って、
地の面を新たにしてくれるように、冀ってくれているのです。
私達は第一朗読に応答しました。答唱で私達はマリアと共に大いなる賛美の歌を歌いました。
その賛美の歌は、エリザベトが彼女をその信仰の故に称賛した際、マリアが作ったものです。
この歌は一編の感謝の祈りであり、神への喜びであり、神の大いなる行いに対する祝福です。
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
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この詩の基調は早や最初の言葉の中に現れています。つまり、
「私の魂は主を大きなものにす
.
る」
(訳注:通常はドイツ語でも「preisen 讃える」を用いて訳するラテン語の「magnificat」
の原意を文字通りに直訳した「groß machen 大きくする/偉大にする」を、ラツィンガー・ベネ
ディクト 16 世は magnificat の意味を注解するのによく用いる)ということです。神を大きな
ものにする、それは、神に世界の中での場所を与える、自分の人生の中での場所を与えるとい
うこと、神に私達の時や私達の行いの中に入ってもらうということです。これは正しい祈りの
最も深い本質です。神が大きくされる所、そこで人間は小さくなりません。そこでは人間も大
きくなります。そして、世界は明るくなります。
最後に、福音の中でマリアは、恥をかきそうな事態にある友達のために、彼女の息子にひとつ
のお願いをします。一見、母と息子の間の何気ない人間的な対話に見えるかもしれませんし、
確かにそれは極めて深い人間性の対話でもあります。しかし、マリアは、イエスをその空想や
人助けを惜しまぬ態度を当てにできる人間として、彼にすがっているのではありません。彼女
は人間的な困難を彼の力に委ねます、人間の手腕や能力を超越する力に委ねるのです。そんな
風に私達は、イエスとの対話の中に、願う人としての彼女、代願してくれる母としての彼女を
見出します。この福音にもっと深く聞き入る価値があります。それはイエスとマリアをもっと
よく理解するためですが、しかしまた、マリアから正しい祈りを習うためでもあります。マリ
アはイエスに自分自身の願いをせず、ただ一言『彼らにはもう葡萄酒がありません』
(ヨハネ
2,3)とだけ言います。聖地での結婚式はまる一週間かけて町全体で祝っていたので、大量の葡
萄酒が消費されました。それが今や新郎新婦は恥をかく寸前にあり、それをマリアは至極単純
にイエスに伝えます。彼女は特定の何かを願いませんし、それどころか、イエスが彼の力を発
揮し、奇蹟を行い、葡萄酒を造るようになど願ったりしません。彼女はごく単純に事をイエス
に委ね、そして、それにどう対処するかは彼に任せます。そのように私達は、イエスの母の単
純な言葉の中に二つの面を見ます。一面ではマリアの人々に対する愛情の籠った配慮であり、
他の人々の苦境に気付く彼女の母親的な機転です。私達は、彼女の心の籠った善意と人の役に
立とうとする態度を見
ます。この母を目指し
て、何世代もの人々が
ここアルテッティング
に巡礼してきました。
彼女に、私達は自分の
心配、困り事、難題を
委ねます。助けようと
する母の善意に、私達
は自分を委ねます。そ
の善意を私達が初めて
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
見るのは、ここ聖書の中です。しかし、私達には大変馴染みあるこの第 1 面に、私達が見逃し
がちな第 2 面が加わります。つまり、マリアは全てを主に任せるという面です。彼女はナザレ
で自分の意思を神の意思の中に沈め委ねます。つまりそれが、
『御覧ください、私は主のはした
めです。あなたの言葉の通り、私に起こりますように』(ルカ 1, 38)なのです。これは彼女の
持続的な根本姿勢です。このように彼女は私達に祈りを教えてくれます。要するに、私達の意
思や願望――それが私達にとってどれほど重要で、どれほど道理があろうとも――それを面と
向かって神に押し付けようとするのではなく、神の所にもっていったら、それをどうするかは
神に任せるということです。マリアから私達は、助けようとする善意を学びますが、また、神
の意思を受け入れて神に信頼し、神の答がどうであっても、それが私達にとって、私にとって
本当の善であると、神を信じる謙遜と寛大さも学びます。
マリアの態度と言葉はとても把握し易いと私は思います。しかし、イエスの答を理解するの
は、私達にとってもっと難しいことです。まずその呼びかけからして私達は気に入りません。
『婦人』――どうして母と言わないのでしょうか?実は、この呼びかけは、救いの歴史におけ
るマリアの立場を表現しています。この呼びかけ
は、十字架に磔となる時、イエスが彼女に『婦人
よ、あなたの息子を御覧なさい、息子よ、あなた
の母を御覧なさい』と言う時を予示しています
(ヨハネ 19, 26-27)。ですから、イエスが彼の母
である婦人を、彼の弟子達全員の母とする時を予
示しているわけです。そして、その呼びかけはエ
ヴァ創造の物語を彷彿させます。つまり、アダム
は豊かさの溢れる創造界の真ん中にいて、自分は
人間として独りぼっちだと感じます。そこでエヴ
ァが創造され、彼女の内に彼は待ち望んでいた伴
侶を見出し、彼女を『婦人』と呼びました。その
ようにマリアは、ヨハネの福音において、新しい
婦人、最終的な婦人として、贖い主の伴侶とし
て、私達の母として現れています。要するに、拒
絶的に見える呼びかけは、逆に彼女の恒久的使命
の偉大さを表現しているのです。
しかしながら、さらに私達の気に食わないのは、その後にイエスがカナでマリアに言った事で
す。
『一体あなたは私から何を望んでいるのか、婦人よ?』。しかも文字通りに言えば、
『私があ
なたと何のかかわりがあるのか、婦人よ?私の時はまだ来ていない』
(ヨハネ 2, 4)。私達は反
論したくなります。あなたは彼女とたくさん係わりがあるじゃないか、彼女はあなたに肉と血
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を、あなたの体を与えた、あなたの体だけじゃない、彼女の心の中から出てきた「はい」とい
う承諾によって、あなたを胎内に宿し、母の愛を以てあなたを人生に導き入れ、イスラエルの
共同体に馴染ませたのだ。こう私達がイエスに話すとすれば、それは私達が既に彼の答を理解
する途上にあるということです。その一切合財が私達に思い出させるのは、イエスの受肉に際
しての対話はふたつあるということ、そのふたつは表裏一体で、唯一となるように互いの内に
根差しているということです。まずはじめはマリアが大天使ガブリエルと交わした対話です。
その中で彼女は、
『あなたの言葉の通り私に起こりますように』
(ルカ 1,38)と述べます。これ
に並行するテキストがあります、言わば神の内面で交わされたひとつの対話です。それに関し
てはヘブライ人への手紙が私達に説明し、詩編 40 番の言葉が御父と御子の間の対話のように
なり、その対話の中で受肉が実現すると述べています。永遠の御子は御父に対して言います、
『生贄も捧げ物もあなたは望まず、体をひとつ私に用意してくれました…御覧ください、私は
参ります…あなたの意思を行うために』(ヘブライ 10,5-7; 参照:詩編 40,6-8)。
御子の『あなたの意思を行うために参ります』という「はい」と、『あなたの言葉通り私に起こ
りますように』というマリアの「はい」――この二重の「はい」が唯一の「はい」になり、こ
うして御言葉がマリアの中で肉となります。この二重の「はい」において、御子の従順は体を
成し、マリアは彼女の「はい」によって彼に体を与えます。『婦人よ、私があなたとなんの係わ
りがあるのか?』
。最も深い所で互いに係わっているもの、それがこの二重の「はい」であり、
その二重の「はい」の共鳴の中で受肉
が起こりました。この彼らの極めて深
い一致の点こそ、主がその答で到達す
る所であり、そこに主は御母を立ち返
らせます。そこにこそ、即ち御父の思
召しへのこの共通の「はい」の中にこ
そ、答が見つかります。この点を私達
も常に新たに目指していくことを教わ
るべきです。そこに私達の疑問に対す
る答が出てきます。
そこから今度イエスの答の後半も分かってきます。
『私の時はまだ来ていない』
。イエスは決し
て自発的に行動しませんし、決して他者の気に入ろうとして行動しません。彼は常に御父に基
づいて行動しますし、まさにこれこそが彼をマリアと一致させるのです。なぜなら、その中に
こそ、この御父との意思の一致の中にこそ、イエスはマリアも彼女の願いも位置づけたかった
からです。だからこそ、要求を拒絶しているように見えるイエスの応答の後、驚くことに、彼
女は単純に召使達に向かって『彼があなたがたに言うことを行ってください』
(ヨハネ 2,5)
と、言うことができるのです。イエスは、全くプライベートな要件のためには奇蹟を何も行い
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ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
ませんし、自分の力で遊んだりしません。そうではなく、彼が行うのは印であり、その印で彼
は自分の時を告知するのであり、それは婚礼の時、神と人の結合の時です。イエスは単純に葡
萄酒を『作る』のではなく、むしろ人間の婚礼を神の婚宴のイメージに変容させます。その婚
宴に御父は御子を介して招待し、その婚宴で神が贈りものにするのは、溢れんばかりのワイン
に象徴される溢れんばかりの善です。婚礼は、イエスが極限まで愛を突き詰め、彼の身体が引
き裂かれるに任せ、そのようにして永久に彼自身を私達に与え、私達と全くひとつになる、そ
の瞬間のイメージとなります――神と人の間の婚礼です。
十字架の時はそこに秘蹟が由来する時であり、その秘蹟においてイエスは現実に自分を私達に
肉と血として与え、私達の手の中と私達の心の中に彼の御体を置かれます。これが婚宴の時です。
このように、本当に神聖な仕方で、その時々の必要は解消され、当初の疑問をはるかに超えてい
きます。イエスの時はまだ来ていません。しかし、水から葡萄酒への変化の印において、祝いの
贈り物の印において、イエスは彼の時を既に今この時に先取りしているのです。
イエスの「時」とは十字
架ですし、彼の最終的な
時とは彼の再来です。彼
が絶えず、まさにこの最
終的な時をも先取りする
のはエウカリスチアにお
いてであり、エウカリス
チアにおいて彼は既に来
ているのです。そして常
に新たに、イエスは彼の母の執り成しにより、教会の執り成しにより、それを行います。教会
はエウカリスチアの祈りの中で、『来てください、主イエス!』と彼を呼び求めます。ミサ奉献
文の中で教会は常に新たに、この「時」の先取りを嘆願し、彼に今もう来てくれるように、そ
して、彼自身を私達にくれるように願います。このようにして私達はマリアに導いてもらいた
いのです、アルテッティングの恩寵の御母、全ての信徒の御母に、イエスの「時」に向かって
導いてもらいたいのです。イエスを常により良く認識し理解する賜物をくださるよう、彼に願
いましょう。それから、拝領が単に聖体拝領の時だけになってしまわないようにしましょう。
イエスは常に聖なるホスチアの中に留まり、私達を絶えず待っています。アルテッティングで
は、エウカリスチアの中の主の礼拝は旧宝物殿の中に新しい場所を得ました。マリアとイエス
は表裏一体です。マリアを通して私達は主との対話の中にあり続け、こうして、イエスをより
良く受けることを教わります。聖なる神の御母、カナで新郎新婦のために祈ったように、私達
のためにお祈りください!私達をイエスに向かってお導きください、いつも新たにお導きくだ
さい!アーメン。
2006 年アルテッティング聖母殿ミサ聖祭の説教
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
原文© Copyright 2005-2016 – Libreria Editrice Vaticana
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