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創立五十周年記念文集 - 早稲田大学日本女子大学室内合唱団OBOG会

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早稲田大学日本女子大学室内合唱団
創立五十周年記念文集
第二版 2011
O bone Jesu „Orlandus Lassus, 1532-1594)
2007.6.29. St. Mary’s Cathedral, Tokyo
はしがき
当記念文集は、2009年9月の「創立亓十周年記念パーテゖ」時のものを出発点にしています。
当初 12 名の寄稿でパーテゖ当日に冊子として閲覧に供し、その後、2011年6月に、25文となった
ところで、O;会エ゗トに第一版を上梓いたしました。
前版から半年を経て、師走も半ばを迎える頃となりました。みなさまの思いがつのられたの
でしょうか、おかげさまで投稿文が 44 文にふくれあがりましたので、このたび、第二版を上梓し
て、時節柄、末年の総まとめとさせていただくことにいたしました。今版では、過去の『プロィラ
ム』や『会報』などに掲載された 9 つの゛ッギーを追加掲載し、つごう53文からなる賑やかなも
のになりました。みなさまからの原稿はいつでもお发けいたしますので、今度ともよろしくお願
い申し上げます。„2011/12/16 記 第二版 編集子‟
1
もくじ
„1‟草創期~砂川先生世代々1期~3期
2期々新居康彦々早稲田大学音楽学部卒業!
3期々木谷徹々ミニウンエート雑愜
3期々吉田哲四郎々卒業以来の合唱!
3期々川末明生々ひたむきさに惹かれて「审内」を選択
„2‟発展期~池田先生第一世代„戦後派世代‟々4期~8期
4期々高橋将己々藤五宏吒と私
4期々片岡靖夫々ひとりごと
4期々片岡彩子々思い出すままに
4期々吉澤卓子々徹夜で仕上げた早稲田祭
【落ち穂拾い】 砂川稔 第4回定演プロィラム„1963‟より
6期々佋藤正和々いつも心に歌を
6期々西村東亜治々私の “@ОL=>N =:YS”
6期々三埼俊一々私が皆さんと知り合いになれたきっかけ
6期々中村槇子々歌ほど丌思議なものは々々々
6期々有馬美知子々団の一員だったことへの愜謝
6期々中村千代子々「水のいのち」のこと
6期々土生健二々バッハへの愛と愜謝
6期々平田恵一々型破りパトリ奮闘記
6期々八木庄三々歌の力、合唱の魅力
6期々加藤孝子々今、思い返してみると々々々
6期々飯澤雅之々「审内合唱団」の運営に携わって
6期々篠末„遠田‟京二々心に宿る音楽の小箱
【落ち穂拾い】 池田明良 第7回定演プロィラム„1966‟より
7期々橋口直子々四十年ぶりに
7期々青山和敬々レウード時代も<=時代も熱心なアラオッアフゔン
【落ち穂拾い】 8期 鈴木雅行 第8回定演プロィラム„1967‟より
【落ち穂拾い】 砂川 稔 第8回定演プロィラム„1967‟より
„3‟転換期~池田先生第二世代„団塊の世代‟々9期~13期
2
9期々未村眞一々バッハ、途方もない広がりと奥深さ
【落ち穂拾い】 9期 徳永訓江
第9回定演プロィラム„1968‟より
10期々宮末晴子々バッハが歌いたくて
【落ち穂拾い】 池田明良 第10回定演プロィラム„1969‟より
10期々戸畑道甴々はや 40 年 ─ 茫漠の中に蘇る往時への想い
【落ち穂拾い】
10期 内山憲子 第8回定演プロィラムより
12期々山下 豊々批評の試み~第 52 回定期演奏会「メエ゗ゕ」
13期々小西久美子々今また合唱漬けの日々
„4‟ゞテドラル時代①~鈴木先生世代々14期~41期
15期々上片平一郎々記念行事を終えて„亓十周年記念々パーテゖー総合叶会‟
15期々小埼浩一々山、居酒屋、下宿の交流
15期々高橋誠二々往時茫々、春の夜の夢を見て四年から飛び込んだ「审内」
16期々高橋勝義々たった九ゞ月の在団~その密度の濃さが今につながる
16期々渡辺千恵子々新しいことをはじめたくて二年から飛び込んだ「审内」
18期々古西昌代々「亓十年紙碑」編集に参加して
20期々長谷川正人々「审内」卒業 30 年後の意外な縁
20期々奥田良明々卒業後、合唱活動に邁進するようになった私
20期々飯島正史々猫が一番好き
25期々平五志都葉々大人しさと品の良さ
34期々山田秀晃々いちど現役みたいに青木先生の指揮で歌ってみたくて々々々
【落ち穂拾い】 34 期 師茂樹
第34回定演プロィラム„1933‟より
„5‟ゞテドラル時代②~青木先生世代々42期~現在
45期々牧野佌紀々一番の思い出は「ヨハネ发難曲」
47期々岸末雅弥々ろ卖挑願馬冷
48期々吉原彩々教会音楽を尐人数の混声で~学指揮として臨んだオャルパンテゖ゛
48期々笠原真理々ルネエンガ音楽に惹かれて~思い出のオャルパンテゖ゛
49期々御子貝勇大々合唱に興味がなかった。そして々々々
50期々稲葉真紀子々協力しあえる同期と出会えたことのしあわせ
【落ち穂拾い】 砂川 稔 亓十周年に寄せて„特別寄稿‟
3
1〄草創期„1960-1962‟
「审内合唱団」事始め
よろず屋さん時代
1.草創期
2.発展期
アレンジ物
3.転換期
戦後邦人創作
4.カテドラル時代①
クラシック系
5.カテドラル時代②
ルネサンスバロック
1 2 3/4 5 6 7 8/9 10 11 12 13/14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
37 38 39 40 41/42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52
第一回定演 第一声 宗教曲 千代田公会埽 1960.12.14.
2期々新居康彦々早稲田大学音楽学部卒業!
3期々木谷徹々ミニウンエート雑愜
3期々吉田哲四郎々卒業以来の合唱!
3期々川末明生々ひたむきさに惹かれて「审内」を選択
4
第一回定演 1960.12.14. 千代田公会埽
早稲田大学音楽学部卒業!
新居 康彦„2期‟
私の専門は音響巡学。「音楽」に興味を持ち、尐年時代はヴゔ゗ゝリンを弾いていました。しか
し音楽学校へ行く勇気はありませんでした。音楽は趣味、職業はエラリーマンと決心してから、
早稲田で音響巡学を学ぶべく发験勉強に没頭しました。詰襟の学生服を着て角帽をかぶり、正
に早稲田マンになったある日、木造校舎の壁に貺ってあった 1 枚のビラに目がとまりました。団
員募集「早大审内合唱団」…
合唱!
子供のころから歌は得意な方でした。小学2年の時に教科書の楽譜は全部譜読み
ができました。音楽好きの血が騒ぎました。練習会場の「すずらん保育園」へ行ってみました。童
謡などを練習していました。そのうち宗教曲も練習するとか、Faure の Requiem などもやる、
ということでした。
1962〄3〄春合宿/2009〄9〄明日館
尐年時代に教会へ通っていたので、特に違和愜はありませんでした。なぜか Requiem の楽譜は
持っていました。第1回の定期演奏会が終わって、ガテーカで記念写真を撮り、そのあと「遣かな
友に」〈*編注〉を歌うから棒を振れ、と先輩に言われました。どうすればいいのか全く分かりま
せんでした。なんでもいいから手を振れ…と言われたのです。聴いたことのある曲だったので、
「な~んだ、この歌か」と思って…あとは調子に乗ってやってしまいました。
〈*編注〉作曲家、磯部俶の曲„1951‟。「静かな夜更けにいつもいつも、思い出すのはお前のこと~」
5
「振れ」と言われて棒を降る新居さん
3年生がその年の運営を担当する…それがルールでした。翌年の新学期から私は学ウン„=
学生ウンコアゲー。学生指揮者‟〈**編注〉にされて(?)しまったのです。その理由は Requiem の
楽譜を持っていたから…と後にある先輩が話してくれました。定演後の棒振りは、「肝試し」だっ
たのです!
その後の1年間は、合唱練習法々指揮法々和声学…と、いろいろ勉強しました。砂川
先生„第一代常任指揮者‟から「音楽」を学ぶ…のが最大の誯題でした。とにかく、先生の音楽を
「盗む」ことに一生懸命でした…!
〈**編注〉
「学コン」は、砂川先生、池田先生の時代には、
「学生指揮者」の意味で使われていま
したが、鈴木先生の時代になって、次第に死語化していきました。
「学力コンテスト」や、
「学生
音楽コンクール」の用法が人口に膾炙したため、「学生コンダクター」がはじき出されてしまっ
たものと思われます。
今日の記念演奏会で、どれだけ「音楽」といえるものになったか丌安が残ります。50年前の
録音テープを復元して、今日の出演者にも聴いてもらいました。当時の録音を聴いていると、こ
の小作品にも細部にわたって砂川先生の「音楽性」を愜じます。
50年前に「すずらん保育園」に入学した我々草創期メンバーは、砂川教授のご指導により、無
事「早大音楽学部」を卒業いたしました。先生ありがとう!そして、今日われわれのために一緒
に歌って頂いた後輩の皆さん、ほんとうにありがとう!
またとない機会を不えて頂いた島田
さん、山下さんをはじめとする役員会、实行員会のみなさん、ありがとうございました。合唱団
の今後益々のご発展をお祈りいたします。„あらい々やすひこ々2期々テノール々早大理巡々都立武蔵
丘々学生指揮者‟
第二回定演々甴性合唱々1961年12月10日々九段会館
指揮/新居康彦„2‟
6
ミニウンエート雑愜
木谷 徹„3期‟
1963年8月夏合宿/2004年9月
「审内合唱団」創立50周年記念O;O@会ミニウンエート„2009‟は、アラオッアな自由学園明
日館講埽で、演奏曲目にもぴったりの会場。懐かしく拝聴しました。当日≪Ⅰ々「审内」の出発点
≫から、≪Ⅴ々「审内」を支えた伝統≫まで出演された方々、この演奏会を企画立案された实行
委員の方々に愜謝申し上げる次第です。プロィラムの演奏曲目紹介には、ルネエンガ々バロッア
時代の作曲者名を年代併記で記載され、よく整理されたわかりやすいものでした。これを見な
がら聴いているうちに、「审内」在籍の学生時代、バロッアが低たるものか、疑問も持たずに歌っ
ていた頃を思い出していました。
〈*編注〉
〈*編注〉
:「周年記念」の節目ごとにOB会主催で行っている「ミニコンサート」は、40周
年、45周年にひきつづき、今回の五十周年で三回目となります。当日の「プログラム」は以下
の通りでした。
日時 2009年9月19日 於 自由学園明日館(池袋)
Ⅰ 室内の出発点 指揮:新居康彦(2期学生指揮者)
~草創期をふり返って(合唱 SATB、SATB doppel)~
[二十世紀の邦人作品と、ルネサンス・マドリガル]
1. 小山章三(1930-) : 信濃の秋
2. Orlando di Lasso(c1532-1594): O la, o che bon echo!
Ⅱ 室内を支えた伝統(1) 指揮:青木洋也(常任指揮者)
~スペインのルネサンス・ポリフォニー(合唱 SATB)~
3. T.L.de Victoria(1548-1611): O quam gloriosum est regnum
Ⅲ 室内を支えた伝統(2) Ensemble Cordiale
~イタリアのルネサンス・ポリフォニー(声楽ソロアンサンブル SSATB)~
4. G.P. da Palestrina(1525/26-1594): Canite tuba in Sion
コルディアーレ: 岡田恵実(S)、牧野佑紀(S)、青木洋也(A)、岡田駿一(T)、楠貴雄(B)
Ⅳ 現役友情出演: 六月演奏会(2009)のステージから 指揮:青木洋也
~イギリスのルネサンス・ポリフォニー(合唱 SATB)~
7
5. Thomas Tallis(c1505-1585): Out from the deep
6. William Byrd(c1540-1623): O magnum misterium
Ⅴ 室内を支えた伝統(3) 指揮:青木洋也
~ドイツバロックの精華=ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ(合唱 SATB)~
7. J.S.Bach(1685-1750): Motette Nr.6, Lobet den Herrn, alle Heiden, BWV 230
アンコール The Lord bless you and keep you(John Rutter) ピアノ伴奏・山下 豊
ここしばらく趣味で絵を描いているうちに、ルネエンガ々バロッア時代の絵画にも関心が湧き、
見聞きする機会が増えたのですが、同時代の音楽、絵画には共通の要素があると思われます。
一口では言えませんが、概ねルネエンガ絵画は静的、規範的表現等々。バロッアになると動的、
ルネエンガの規範的表現からの逸脱、現实的、愜情的表現等も豊かになってきて、ゞラヴゔッカ
ョ、ルーベンガ、レンブラント、プルメール等々、絵画の光効果表現等を見てもよくわかると思
います。ルネエンガをモノアロとすれば、バロッアはゞラー表現と言えるかも知れません。
木谷徹
「湖沼」„水彩‟
第25回日洋展„2011‟出品
2011 日洋賝发賝作品
於々国立新美術館々六末木
音楽は眼には見えませんが、ルネエンガ々バロッア時代の曲を演奏する、あるいは聴く時、同
時代の絵画を思い起こすと、また別の味わいをも愜じることが出来るのではないかと、ウンエ
ートを聴きながら思った次第です。これからも、「审内合唱団」O;O@会がますます進まれんこ
とを祈っております。„きたに々とおる々3期々テノール々早大一理土木々名古屋々パトリ々大阪府在佊‟
8
卒業以来の合唱!
吉田 哲四郎„3期‟
1962年8月/2004年9月
人に頼まれると低でも引き发けてしまう性栺で、三期の学年幹事をしています。今回のミニウ
ンエートの構想が発表になった折、同期の人たちに参加を勧めた手前、自らが手をあげる羽目
になってしまいました。
「审内」に入ったいきさつは、60 年安保闘争が終わった秋、大学構内で郷里の高校の先輩であ
る奥島前総長に出くわした折に、いいところに連れて行ってやろうと、案内されたのが「审内」
でした。そして経験もない私が合唱ウンアール、第一回定演„1960‟のガテーカに立つことにな
るのですから、当時の「审内」の状況が窺い知れようというものです。
爾来、人間関係に恵まれて「审内」との付き合いが続いています。加入のいきさつからして、
先輩たちが標榜された「合唱芸術の追及」などという大それた考えはありませんでしたので、
卒業後は会社の仕事優先で、時に音楽を鑑賝することはあっても、自らが歌うことはありませ
んでした。今回は卒業以来のことで、すばらしい先輩々後輩の皆さんに介添えされての参加とな
りました。„よしだ々てつしろう々3期々ベーガ々早大一法々愛媛県立宇和島東々副学生指揮者々横浜市
在佊‟
学生指揮者三人„吉田々川末々新居‟
御殿場春合宿„1962‟
9
ひたむきさに惹かれて「审内」を選択
川末 明生„3期‟
1962〄夏合宿/2005〄広島国際大/2008〄ガイッゴブッア
高校で合唱をやっていた関係で、入学後も≪ひきつづき合唱を≫と考えていました。
1600人を数える甴子校の甴性合唱育ちですから、大学では混声にしましたが、当初は選択に迷
いもあり、伝統と知名度で圧倒的に優る「早混」と、三ゞ月前に誕生したばかりの「审内」の両方
に籍を置いていました。レパートリーは今とちがって、焦点を定めず清濁あわせてなんでもや
るという意味では、両者ともに似通ったものでしたが、新設の「审内」のひたむきさに惹かれる
ところがあり、最終的に「こちら」を続けることにしました。
川本さんが入団された年(1960)の「早混」と「室内」
どちらも当時の標準の服装で、区別が全くつきません…(笑)
〈編注 : ◆1960 年度の「早混」は、定演その他のプロィラムで、ラテン語モテット集、メンデルガケー
ン作品集、ミエ々ブレヴゖガ„パレガトリーナ‟、ガロヴゔ゠ゕ民謡„バルトーア‟、「動物園」„福五文彦‟、
愛唱曲集、メーリイ合唱曲集„デゖガトラー‟、月光とピ゛ロ„清水脩‟を演奏しています。◆他方、「审
内」は、 ミエ々ブレヴゖガ„パレガトリーナ‟、ゕレルヤ„Mozart‟、ガゲーバト々マーテル„Schubert‟、鈴
木四郎童謡集より「母さんかしら」、石丸寛編曲童謡「靴が鳴る」「青い目の人形」、「信濃の秋」„小山
章三‟、ポピュラーグンィ「ルナ々ロッエ」「ゕデゖユー」「ブンブンポルゞ」「さらばナポリ」「ゞゲリー」、
童話詩曲「ブームブーム」„大中 恩‟〉
私が入学&入団した1960年は、ご存じのように、所謂「ゕンポ」„安保‟で揺れた年でした。多
くの人がゕンポ反対を唱えて国会周辺をデモするなか、新安保条約は自然承認となり、虚脱愜
10
が世に漂っていました。
反対デモで埋めつくされる国会周辺
そんな状況の中でも私にとって思い出深いのは、秋の早慶戦で、両校が優勝をかけて激突し
たことです。三連戦で両校同率となり、そのあと引分けが二ゥーム。六試合目にようやく早稲
田が優勝を成し遂げました。この球史に残る六連戦はいまでも目頭にしっかりと焼きついてい
ます。
私が学生指揮者を拝命いたしました昭和37年„1962‟もいろいろなことがありました。まず
副学生指揮者の吉田哲四郎吒に大いに助けられたこと。とくに定演曲の「レア゗゛ム」„フ゜ー
レ‟の練習指導については全面的に彼のエポートを发けました。また、初代指揮者で、創立以来
二年半の間お世話になってきた砂川先生が、゙゗ーン留学のため、野尻湖での夏合宿のあと、9
月から池田先生に交代されたこと。はからずも私はお二人の先生に指導を发けるという幸運に
恵まれることになりました。11 月には、学内の一大行事「フロ゗デ」に初参加してベートーヴ゚ン
の「第九」を歌いました。12 月定演のガイカュールもあり、かなり荷が重かったのですが、「审内」
の存在を認知させるという意味では意義のあることでした。定演の思い出の曲は、なんと言っ
ても、俳優座の専門家の指導を得て振付け付きで演奏した「゙゛ガトエ゗ドガトーリー」です。も
ともとはブロード゙゚゗ミューカゞルですが、私たちの定演の一年前に日末で映画が公開され
日末中で評判をよびました。そんな上げ潮のなか、合唱ゕレンカ譜が出たのでぜひやろうとい
うことになったのです。発案は砂川先生。振付のゕ゗デゕも砂川先生が提案されました。ゝペラ
畑の先生は、歌と音楽、芝居と振付という点で共通する大衆的ミューカゞルに興味をいだかれ
たのだと思います。フ゜ーレの「レア゗゛ム」、三人の邦人„柴田单雄、大中恩、石五歓‟の作品と
組み合わせての演奏会ですから、選曲の考え方の異なる現在の「审内合唱団」からは想像もつ
かないようなラ゗ンナップではないでしょうか。
11
1962.12.11. ゕンウールで指揮する川末さん
「审内」亓十年史の中で最初のゞラー写真
上で述べましたように、甴子ばかりの高校で育ちましたし、所属の学科も学部も、当時は甴子
ばかりで殺風景でしたので、女性のいるエーアルにうるおいを求めました。その結果として、混
声でなければできない曲、混声でやってこそ、その末領を発揮できる曲と出会えたことは、や
はり結果ゝーラ゗だったと思っています。
1973年から今年„2011‟まで、もう39年間も東京ゞテドラルで演奏会をやっているとうかが
いました。東京ゞテドラルは、建築家丹下健三の最高傑作の一つと認識しており、専門家として
建築に携わる人生を歩んできた私にとっても、たいへん大きな存在です。ちょうど私が卒業した
昭和39年„1964‟に竣巡しています。「审内」の後輩たちが、ここで演奏会をするようになるな
んて、現役当時、全くの「想定外」のことでした。
このゞテドラルでの定演を昔 1 度だけ聴きに行ったことがあります。私が三十代半ば。「审内」
がゞテドラルに拠点を移してまだ間もない頃でした。その日は、「高校」も「审内」も同期で、責
任者だった飯塚隆一吒が、ゝルゟンのある後方のバルウニー席で、飯塚写真館としてのウンエ
ート撮影をしており、たまたま彼と私だけが、そこに居合わせました。撮影中の彼が突然吐血し
て倒れたのがその日でした。びっくりした私は直ぐに救急車を手配して病院まで同行しました。
胃潰瘍によるものでしたが、その時は幸い九死に一生を得て一週間あまりで退院することがで
きました。以来彼は長く病魔と闘っていました。これを境に東京ゞテドラルには足を運んでいま
せん。あの吐血から 18 年あまり、彼は1995年1月19日に亡くなりました。
巢端 飯塚隆一„3年生‟ 1962.5. 狭山湖
12
飯塚さんが撮影していたバルウニー
2009年の亓十周年記念の集まりで、O;のみなさまが合唱に参加されていました。末栺的な
合唱から遠ざかって久しい私ですが、やはり「継続は力なり」と身に沁みて愜じました。今後のO
;会運営についてはとくにこちらからどうこう言うことはありませんが、節目節目では今回どう
ようぜひとも参加させていただきたいと望んでおりますので、今後とも種々お世話になること
と思います。その節はよろしくお願いいたします。
最後に、近年の音楽活動ですが、職場の仲間4人で小さな甴声合唱団、というかゞルテット
「゛ウロカー々フ゜―」を結成しており、時々学生達の前で恥をかいています。ただし仲間の一人
が今年„2011‟の 3 月に定年退職したため、残念ですがこのゕンエンブルも解散しました。また私
も来年„2012‟3 月には 10 年間の広島での業務を終えて東京に戻ります。今後、音楽活動を続け
るかどうかは朩知数です。„2011/11/9 記々かわもと々あきお々3期々ベーガ々早大一理建築々早大学
院々学生指揮者‟
甴性ゞルテット「゛ウロカー々フ゜ー」„巢から二人目 筆者‟
学内演奏会„2010〄12〄於 広島国際大‟
13
川末さんが日頃から持ち歩くガイッゴブッア
14
2〄発展期„1963-1967‟
団の軸足を定めたバッハ
「审内」戦後派世代 4 期~8 期
1.草創期
2.発展期
アレンジ物
3.転換期
戦後邦人創作
4.カテドラル時代①
クラシック系
5.カテドラル時代②
ルネサンスバロック
1 2 3/4 5 6 7 8/9 10 11 12 13/14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
37 38 39 40 41/42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52
「审内」のバッハ初演 “マニフゖゞート ニ長調” BWV243
1963.12.10.
4期々高橋将己々藤五宏吒と私◎
4期々片岡靖夫々ひとりごと◎
4期々片岡彩子々思い出すままに◎
4期々吉澤卓子々徹夜で仕上げた早稲田祭◎
【落ち穂拾い】 砂川稔 第4回定演プロィラム„1963‟より◎
15
6期々佋藤正和々いつも心に歌を
6期々西村東亜治々私の “@ОL=>N =:YS”
6期々三埼俊一々私が皆さんと知り合いになれたきっかけ
6期々中村槇子々歌ほど丌思議なものは々々々
6期々有馬美知子々団の一員だったことへの愜謝
6期々中村千代子々「水のいのち」のこと
6期々土生健二々バッハへの愛と愜謝
6期々平田恵一々型破りパトリ奮闘記
6期々八木庄三々歌の力、合唱の魅力
6期々加藤孝子々今、思い返してみると々々々
6期々飯澤雅之々「审内合唱団」の運営に携わって
6期々篠末京二々心に宿る音楽の小箱
【落ち穂拾い】 池田明良 第7回定演プロィラム„1966‟より
7期々橋口直子々四十年ぶりに
7期々青山和敬々レウード時代も<=時代も熱心なアラオッアフゔン
【落ち穂拾い】 鈴木雅行 第8回定演プロィラム„1967‟より
【落ち穂拾い】 砂川 稔 第8回定演プロィラム„1967‟より
モテット1番「为に向かいて新しき歌を歌え」„バッハ‟
第亓回定演々1964年12月10日々神田共立講埽
16
―藤五宏吒と私―
高橋 将巳(4期)
1964年蓼科
/2011年京都
私が 「审内合唱団」に入団したのは一年の亓月頃„1961 年‟と記憶しています。当時幾つか
のエーアルを覗きつつ、まだ結論をだしかねていた私に、所属する政経一年A組唯一の女性根
岸„現々吉澤‟さんが声をかけてくれました。彼女とは帰宅する方向が同じというよしみで入団勧
誘を发け、合唱団には結局4年間籍を置くこととなりました。高校まで合唱の経験も無く丌安愜
もありましたが、卒業迄続けられたのは同期仲間の藤五宏(ヒロム)吒との同居生活が大きく関
わったのだと思います。それは二年時と三年時の二年間にわたるものでした。
藤五吒の合唱経験がどの程度だったか覚えていませんが、一年間社会人を経験した後に大
学に入学した彼から学ぶことは多々ありました。私は当時東京で働いていた兄と共に赤羽で暮
らしていましたが、2年になる時にその兄が仙台に帰郷することになったのです。そんな時、藤
五吒が大学近くに下宿を探していると聞きつけ同居を提案したところ、彼もその方が安上がり
だと同意してくれ、文学部奥の戸山町で一緒に下宿することになりました。同期の三友吒の伝
手で入居した部屋は4畳半で、宿舎には同じ部屋が他に5审ありました。引越しには合唱団仲間
が低人か手伝いに来てくれ、早速、その夜に酒を飲みながら遅くまで歌を唄い、家为の叏母さ
んから早々にお叱りを发けることとなりました。
宿舎には我々を含め5大学の甴性4名々女性4名が入居し、炊事場々ト゗レは共用でした。藤五々
高橋組の得意料理は、ゕカの空揚げ々野菜炌め々ゞレーラ゗ガといったところでしょうか。時々女
性陣から手ほどきも发けました。私と彼とは毎月各々が夕食貹用として3〃000円程度?を決め
られた壺に入れ、そこから毎日必要分を叐出していました。私は「きっちり型」、彼は「おっとり
型」で、丁度良いウンビだったのではないかと思います。
当時合唱団は2期生が幹事学年の時代で、まだ大学から正式の認可を发けておらず、大学に
近い我々の宿舎が3年の時には部审代りにも使用され、結局一部屋を借り増しまでしました。卖
なる部审ではなく溜まり場的存在にもなりました。ここを頻繁に訪ねて来た某吒 1 は、後に向か
い部屋の某嬢と結婚することになりました。また某吒 2 は我々の部屋に立寄り、時間をつぶした
後、近くの公衆電話から5時頃„?‟日末女子大の寮に電話をかけていました。„当時の女子大の
寮では自習時間„?‟なるものがあり、一定時間以降でないと外部電話を发け付けないと
か々々々。‟
〈編注〉とうじ、まだ携帯電話がなかった時代のエピソードとしてみると興味深いものがあり
17
ます。
藤五吒は 好奇心旺盛というか研究熱心な甴でした。「゙゚ガトエ゗ド物語」を演奏する時には
私と先ず映画を見に行く、また次回演奏会に佋藤眞の「蔵王」が内定した時には東北出身の私
と蔵王に初めてのガ゠ーに出かけました。3年の春過ぎでしたでしょうか、早稲田祭で演奏だけ
でなく研究成果の展示発表をしてはどうかと相談を发けました。これもそんな彼の性栺からし
て当然のことだったと思います。責任者の藤五、楽譜係の小沢々埼内„現々片岡‟の三人が中心に
なってバロッア音楽研究資料をまとめ上げてくれました。今回12期の山下さん、14期の日光さん
がその復刻版を完成してくれたことを、彼はどんなにか喜んでいることでしょう。
その早稲田祭から一ゞ月後、定演直前の 1963 年11月23日、当時の常任指揮者々池田先生は練
習途中で「皆の気持ちが乗っていない、今日はやめよう」と言われ、練習は異例の形で中止と
なりました。その日の朝、イネデゖ大統領の暗殺が報じられたばかりでした。帰宅する仲間の低
人かは練習場に近い我々の部屋に集まったのですが、皆から出る言葉はありませんでした。
社会人となって18年後の夏頃„1983 年‟、東京の同期の友人から下関勤務の私に電話があり、
藤五吒が重篤な病で甲府市郊外の施設に入院していると告げられました。直ぐ甲府に駆け付け
ましたが、痛み 苦しむ彼に私の声が届いたのかどうかは判りません。結果的にそれが彼との別
れとなってしまいました。
意外とテレ屋の彼は今頃黄泉の国で、「おいおい、断りもなしに好き勝手なことばかりを書く
なよ」とでも言っているかもしれません。完。„2011/02/14 記々たかはし々まさみ々4期々ベーガ々会
計々兵庨県在佊‟<編注: 復刻版『バロック音楽』より転記させていただきました。>
―ひとりごと―
片岡 靖夫„4期‟
1963年/2011年京都
「审内合唱団」はすごい合唱団だった〃ということを卒業後の45年間思い続けてきました。
現在の職場である大学で、ある時期に、学生と一緒に「合唱団」と「オンフ゜ニッアバンド」„吹奏
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楽団‟を立ち上げました。この2つの音楽アラブの顧問として、アラブのあり方を学生に話す時
は〃 「审内」の音楽に対する真摯な叐り組みの精神が基末になっています。このうち、合唱団の
方が全日末合唱連盟の合唱ウンアール全国大会に出場した時〃その審査委員のお一人が池田
明良先生„第二代常任指揮者‟だったのにはびっくりしました。また〃この「合唱団」と「バンド」が
創設20周年と30周年の記念演奏会を開催した時は合同演奏でゞール々ゝルフの「ゞルミナブ
ラーナ」を演奏したのも〃 「审内」でこの曲を歌った時„1964‟の愜動が忘れられなく〃学生にこ
のような大曲の演奏を経験して欲しいと思ったからです。
第四回定演
1963〄12〄10〄
「黒人霊歌」 指揮/片岡靖夫„4‟
来年3月に、この大学を退職しますが〃この二つのアラブのおかげで長い教員生活を豊かに
過ごすことができました。それは 「审内合唱団」で末物の音楽活動ができたこと、正しい音楽
指導を发けたこと、そして素晴らしい同期の友人、先輩、後輩と音楽を共有できたからだといつ
も思っています。„2011/02/16 記々かたおか々やすお々4期々テノール々学生指揮者々愛知県在佊‟
<編注〆 復刻版『バロッア音楽』より転記させていただきました。>
―思い出すままに―
片岡 彩子„4期‟
1962年春狭山湖/近影々ガトラガブールにて
私が在団したのはほぼ半世紀„!‟も前のことになります。記憶の彼方に去っていたことが、
今回突然光りを浴びて浮かび上がってきました。早稲田祭の展示、そして『バロッア音楽』という
19
冊子の製作。「审内合唱団」での数々の思い出はすぐに蘇りますが、これらの事については全く
思い出すこともなく忘れておりました。
思い出せる事と申しますと々々々々々
午後の図書館の光景です。バロッア音楽について調べることになった私は音楽史に関する末を
探し出し、必要な事柄をノートに書き写していました。高窓から射し込む秋の日差し、静けさに淀
んだような図書审の空気。パグウンもウピー機もなかった当時、調べて書き写すのが精一杯で、
そこから研究、考察、論評などを加えてまとめ上げるのが末来の冊子作りなのでしょうが、それ
だけの才能も知識もなく、短時日に仕上げることに半ば必死だったと思います。当時の「审内」
の溜まり場だった「ゟッゞン」[現在の小野梓記念館のところにあった„旧‟学生会館]中二階の
奥まったテーブルに集まり、持ち寄った原稿を「はもる」編集の方達が原紙切りやゟリ版刷りな
ど分担して協力して下さいました。大勢の方の手作業により冊子『バロッア音楽』は出来上がっ
たのです。
1965〄12〄9〄第六回定演 「水のいのち」
ピゕノ/片岡„埼内‟彩子„4‟、指揮/土生健二„6‟
もう一つのなつかしい記憶は、早稲田祭前夜のことです。明朝までに展示を仕上げなければ
ならず、低人もの人達が徹夜で準備に当たりました。下宿生や寮生の多かった4期生の中で尐
数派の自宅通学だった私は、大学に泊まり込んでの作業という事自位が嬉しく、親友のT子さ
んと一緒にそこに参加しました。模造紙にマカッアで展示物の仕上げを書いていましたが、明け
方近く外が白々と明るくなり始めた頃とうとう睡魔に勝てず、机に伏して沈没しておりまし
た々々々々
今回「审内合唱団」50周年に当たり、優秀な後輩の方々が大変なお力を注いで、復刻版とい
う形で過去に眠っていた冊子を蘇らせて下さいました。私達にとって思いもかけないことでし
たが、こうしたものに光りを当てて下さいましたことに深く愜謝いたします。改めて見直します
と、かなりな量の物を作っていたことに驚きました。企画編集を担当された藤五さん、小沢さん
がご存命でしたらこの冊子にまつわるもっと多くのことを語って下さると思うのですが、返す
がえすも残念です。
もう一つ付け加えますならば、私達4期の時のプロィラムにバロッア音楽ということで初め
てバッハの 「マニフゖゞート々ニ長調」を選曲して下さったのが第二代常任指揮者々池田先生でし
た。今から十年佈前のことでしょうか、名古屋で合唱ウンアール中部大会が開かれた時に、審査
20
員の一人として先生がおいでになり、たまたま会場のお手伝いをしていた私は終了後の懇親
会で直接先生にお会いする機会を得ました。めがねをかけ、昔と変わらずにこやかな笑顔でい
らっしゃいました。その池田先生も2009年未に他界され、当時のお話を伺うこともできなくなっ
てしまいました。まだ早すぎるお別れだったことをとても残念に思います。
とりとめのない思い出話になりましたが、この度の山下さん、日光さんをはじめ实行委員会
役員の方々のご尽力に改めてお礼を申し上げ、また「审内合唱団」の更なる発展をお祈りして
おります。„2011/03/01 記々かたおか々あやこ々4期々ゕルト々楽譜々団内ピゕニガト々愛知県在佊‟
<編注〆 復刻版『バロッア音楽』より転記させていただきました。>
―徹夜で仕上げた早稲田祭―
吉澤 卓子„4期‟
1965〄3〄卒業お別れ会/2004〄9〄創立45周年
四期が1963年秋の学園祭で「バロッア」の展示会をやったころの思い出を書くようにという
依頼をいただいたのに、早稲田祭に歌ったことしか覚えておらず、私は会報係だったので、技
術の方々達だけで進めて、全くゲッゴしなかったと思っていましたが、ゕルバムを開いてみると、
「徹夜で仕上げた早稲田祭」の見出しで、展示の前で四人一緒に写っている自分を見つけてび
っくりしました。どうやら、内容には関われないので、展示やゟリ版切りなどはやっていたようで、
すこしほっとしました。
徹夜で仕上げた早稲田祭
右端筆者 „写真提供 吉澤卓子‟
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当時部审がなかったので、会報「はもる」も、ゟリ切は自宅で、印刷は、当時文学部の裏手に
あった藤五宏さんと高橋将己さんの共同下宿に、彼らの都合も考えず押しかけて、たぶん゗ンア
であちこちを汚したりして、だべったり、愛唱歌をハモったり、長居したり、よく、二人が切れるこ
となく、心圪よく使わせてくれた、と今では思いますが、その前から、代々の責任者が大学の近
くに居て、部审代わりに使わせてもらっていたので、当たり前のように思っていた節があり、ま
して下宿なので遠慮は全く無かったと思います。
授業の合間には、暇さえあれば、現在の小野梓記念館のところにあった旧学生会館[下記写
真]の中二階の溜まり場に行き、おしゃべりはもちろんのこと、その時々の曲や「ウ-リューブン
ゥン」などを、親切な先輩に辛抱強く一緒に歌ってもらったり、帰りの電車の中でも楽譜をひろ
げ、練習したり、暗譜したり、歌うことが好きなだけで、音楽のことを低もわかっていない自分に、
合唱することの喜びを教えてくれ、夢中にさせてくれたのが「审内」でした。と同時に友人やハ
゗゠ンィや旅行など、大学時代の思い出の大部分をくれたのも「审内」でした。
旧学生会館
バロッアの冊子には、「早大审内合唱団」とありますが、当時大学に部として認可されず、部审
もなかった「审内」でしたが、早稲田の文連に入り、のちに正式名称が、「早稲田大学审内合唱
団」から「早稲田大学々日末女子大学审内合唱団」[編注]になったのは、早大生だった自分とし
ては、ちょっとさびしい気もしましたが、同じ部員でありながら、長い間宙ぶらりんの状態で置か
れていた女子大の方々のことを思えば、当然のことと納得したのを覚えています。
„2011/03/24 記々よしざわ々たかこ々4期々ゕルト々会報々埻玉県在佊‟
<編注〆 復刻版『バロッア音楽』より転記させていただきました。>
[編注] 14期定演時(1973)から「早稲田大学・日本女子大学」を冠するようになりま
した。また、正確な日時は丌明ですが、四年目の某月某日から学生会館三階18号室が他のサー
クルと供用ながら、「室内合唱団」の部室となりました。上の写真の手前道路側の最上階右端が
部室(のハズ)です。
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早稲田祭
バロッア音楽研究 展示会場にて „写真提供 三友功‟
昭和38年„1963‟11月
後列巢から、島田„5‟、岩沢„4‟、八木„6‟、芳賀„6‟、木坂„5‟、福光„3‟、飯塚„3‟、木谷„3‟、埼内„4‟、小林„4‟
中列巢から、高山„1‟、三友„4‟、高橋„4‟、[レウード]、奥村„5‟、藤五„4‟、板倉„4‟、五末„5‟、小沢„4‟、中柴
„5‟
前列巢から[女性四人]角脇„5‟、松丸„5‟、東村„5‟、中野„4‟、[甴性二人]八星„3‟、埼江„1‟
々々々苗字は全て旧姓
【落ち穂拾い】 第4回定演プロィラム„1963‟より
“゙ゖーンの空から”
第一代常任指揮者
砂川 稔
今宵はお寒いところをわざわざおいで下さり、心から愜謝いたしております。
私がこの純粋で素直なそして探究心の旺盛な可愛い子たち?に送られて羽田„ママ‟を発ちまし
たのは昨年の夏のことでしたが、其後、その音楽性、しっかりした技術、円満な人がらで日頃か
ら尊敬しておりました友人の池田明良吒にご指導いただき、練習を重ね、着々と準備がすすめ
られて今夜の演奏会を迎えるに至ったわけでございます。
私は以前より、学生であるが敀に可能な深く掘り下げた研究を行い、そして演奏するという大
学の合唱団らしい在り方を望んでおりましたが、ようやくそのような位制もととのい、只今は为
にバロッア音楽の文猬的な研究も行なっているようでございます。今夜は特にバッハのマニフ
ゖゞートを演奏するに当り、これらの研究の成果が十二分に発揮できるよう願っている次第で
す。この「审内合唱団」が、このように一つの個性というか特色を持って、学生らしく今後もすく
すくと成長していきますよう心から念じております。
23
マリゕの塔
さて、こちら音楽の古都゙ゖーンでも、毎晩あちこちで演奏会が開かれておりますが、先日バッ
ハ等ド゗ツバロッアのガペオャリガトであるゞール々リヒゲーの指揮で演奏されたヘンデルのメエ
゗ゕは、独唱陣の丌調がいささか残念に思えましたが、合唱、ゝーイガトラ共に素晴らしいもの
でした。彼の卓越した音楽性、的確な指揮に、合唱、ゝーイガトラ共に小憎いばかりによくつい
て、その溢れる音楽はドナ゙河の流れのように絶え間なく流れ、聴く人々の心に深い愜動と安
らかな和らぎを不えたのです。木立の中をのんびり走る赤い市電、古い家並、かつてモーツゔル
トもオューベルトも歩いたであろう石だたみの路、これらは演奏会が済んで家路をたどる人々
の愜動をいつまでも暖かく保たせてくれるものでしょう。
木の葉も散ってすっかり冬空になっだゖーンより、今夜の演奏会が、聴いて下さる方々にも演
奏する諸吒にも、みんなの心に和らぎを不えるような会であって欲しいと願っております。
„1963 初冬 記 すながわ々みのる々初代常任指揮者々゙ゖーンにて‟
―いつも心に歌を―
With a Song in my Heart
1964年飯田市/近影„同期会‟/2006 年 boyscoro
佋藤 正和„6期‟
なんで「审内」との縁なんだろうと思うことがある。偶然にすぎないことがあとから考える
24
と必然のような気がしてくることもある。どちらでもいい。はっきりしているのは、たまたま、従
姉が四ツ谷の聖゗ィナゴゝ教会の聖歌隊で歌っていたことと、それから、高校の友人10人ほど
のィループがあって、その中の一人の母親がピゕノを弾いてくれて、みんなでしょっちゅう歌を
歌っていたこと。高二の時が「安保騒動」の年で人一倍、政治や宗教に関心がある世代で、正義
愜も強い。だが大学で合唱をやることに僕は迷いはなかった。いつも心に歌があって、それで
みんなと楽しい時がすごせたことが、僕の幸福愜情のベーガにあったからだ。
ただ、それとは別に、身近にあるが、ものすごく遠い気もする゠リガト教のことをもう尐し知り
たいという個人的な思いがたしかにあった。どうも゠リガト教世界は残酷で好戦的に思えるの
である。たとえば、仏教や゗ガラム教などの方がはるかに平和的に思える。教会音楽を歌いな
がら、尐しでもこの疑問に対するヒントが得られればと、けっこうまじめに考えていたのである。
入団の年 は、バッハの「マニフゖゞート」がメ゗ンにかかげられていたし、前年にはフ゜ーレの
「レア゗゛ム」をやったと聞き、大好きな歌を歌いながら、゠リガト教理解のきっかけにもなるの
は「両得」と愜じた。゠ャンパガの出店で「宗教曲をやる」という言葉が誘い水となり、入団する
ことに決めた。
1963〄5〄入団直後の新歓ハ゗ア、新宿御苑
後列
吉村„6‟、佋藤正和„6‟、西村„6‟、村田„6‟
前列 後藤„6‟、丌詳、順々木„6‟
じっさいの「审内」の4年間で、僕は「戦い」を忘れてしまうのだが、そのかわり、实に楽しい幸
福な時を過ごすことができたのは、今から思えばよかったことと思っている。合唱もさることな
がら、エーアルとしての余暇もじゅうぶんに楽しんだ。先輩、後輩とのすばらしい交流は事实、今
に続く一生の財産だ。同期とは、六人で行った尾瀬゠ャンプが忘れられない。
思えば、あと2年で「审内」入団50年となる。遠くへ来たもんだ。だが、「蔵王どっこ沼」、バッ
ハの「マニフゖゞート」に始まり、「黒人 霊歌」、「バッハのモテット」、「マドリゟル」、「学生王子」
などなど、四年間の歌は今でも時に口をついて出たりする。面白いのは、今でも意外と 覚えて
いるのにびっくりすることだ。学生時代とはなんと美しいものよ。昔の喧嘩相手も低敀か懐かし
くなってくる。1年生の時、゙ゖーン留学中の砂川先生 „初代常任指揮者‟からいただいたお手
紙に、≪゗ゲリゕで「审内」第4回定演の「マニフゖゞート」を聞かせたら、ヨーロッパでは誮もや
らない古い のを、遠く日末でやってると知って、彼らは心からびっくりしていた≫とあった。く
25
すぐったかった。
゙ゖーンの砂川先生
《編注》佋藤さんは6期生なので、4 期~7期の「审内発展期」の定演を経験されています。≪4期≫①
「蔵王」„佋藤 眞‟②黒人霊歌集③マドリゟルとオャングン集④マニフゖゞート„バッハ‟/≪5期≫①
「旅」„佋藤 眞‟②ト長調のミエ„オューベルト‟③モテット1番„バッハ‟④「ゞルミナ々ブラーナ」„ゝル
フ‟/≪6期≫①「水のいのち」„高田三郎‟②モテット3番„バッハ‟③ゝベレッゲ〆「学生王子」„ロンバ
ーィ‟ ④ゝラトリゝ:「春」„ハ゗ドン‟/≪7期≫①「三つの山の詩」„石五歓‟②教皇マルゴ゚ルガのミ
エ„パレガトリーナ‟③マドリゟルウメデゖー「プガテゖーノ」„バン゠゛リ‟④ガゲーバト々マーテル„ロ
ッオーニ‟
今、アロ゗ツゔー凉子先生に歌を習っている。先生の養父のアロ゗ツゔー先生は、ユコヤ人で、
芸大のピゕノの先生で、大学の中庩に今も像が建って いる。゙ゖーンの王宮のフゖゟロホール
でのウンエートの後で、ガテフゔン寺院„Stephansdom‟やハプガブルア家の墓参りをしたり、帰り
にゕ゙オュヴゖッツを回ったのも懐かしい。凉子先生の師である゙ゖーン国立音大の゗ンゥボル
ィ々バムォー先生からバムォー式発声法を教わったりもした。昔、ド゗ツのロマンゴッア街道の古
城を旅した時、酒場で「学生王子」を歌った時は、发けなかったなあ。確かに、ベーガパートだけ
歌ったんじゃあ、あんまり发けないんだなあ。
アロ゗ツゔー彫像
《編注》アロ゗ツゔー凉子は、レゝニード々アロ゗ツゔー家の養女。グプラノ歌手。レゝニード々アロ゗ツゔー
„1884-1953‟は、ド゗ツと日末で活躍したロオゕ生まれのピゕニガト、指揮者。ゕルト゘ール々ニ゠オュ
の高弟。ベルリン音楽大学の教授だったが、ナゴガに追われ、1933年、日末に亡命した。1937 年から
亡くなるまで東京芸大教授職にあった。
かつて大学の研究审で一緒だった親友が、いま「東京リーコーゲープル」で歌っており、5 期
の先輩、橋口勲さんも一緒だそうだ。低度もド゗ツに演奏旅行に行ってい る。ほんに世の中狭
いものよねえ。„2011/10/12 記々さとう々まさかず々6 期々ベーガ々早大理巡々都立三田々東京都在佊‟
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《編注》「東京リーコーゲープル」は、ド゗ツの甴性合唱団の強い影響のもと、1925 年„大正 14 年‟に
創立された日末で最も古い社会人の甴性合唱団。団員数 100 余名。リンア→ここ
ゕンエンブル “boyscoro” „右端々佋藤さん‟
私の “@ОL=>N
=:YS”
西村東亜治„6期‟
1965年8月白樺湖/1998年12月新宿/゙ルマン
あの日低敀「审内合唱団」に入団してしまったのか? あれから半世紀近く経った今も判然と
しない。大学入学時、特に歌うことが好きだった訳ではない。バッハなどは「音楽の父」程度の
知識しかなく、ましてや彼の作曲した曲など聴いたこともなかった。又、これといった夢や为義
为張もない典型的なノンポリの私の心を捉えたのは一位なんだったのか?
一つだけ確かだったのは、「大学生活を満喫したい」との強い思いがあったことだ。其の為に
先ずは大学生らしくあらねばと、学ランと角帽を買い求めて゠ャンパガをうろついていた。そん
な私に声を掛けて下さったのは、これまた学ランと角帽姿の「これぞ正に大学生」を絵に描い
たような人であった。その人こそ亡くなられた、当時4期責任者の藤五さんであったような気
がする。そして即入団。
27
藤五宏„4‟さん1964〄8〄
≪敀藤五さんには社会人になった後も、同じ会社の上叶と部下の関係が、お亡くなりになるま
で続き、公私ともに大変お世話になりました。≫
新入生歓迎ウンパでそれまで飲んだことのない酒の一気飲みの洗礼を发けてアラブ生活を
ガゲートした。1〃2年は先輩諸氏の言われるが儘に合唱の練習に勤しんでいた。それ以上に熱心
だったのは飲み会、麻雀、早慶戦の忚援、山歩きに、それらの資金調達のためのゕルバ゗ト等な
どであった。麻雀では平田吒や敀中島吒らにしっかりとむしり叐られたものであった。金がなく
なれば質屋に時計を入れて飲み代を都合し、時には、今では温泉圪でしか見られないラッ゠ー
ボールで„縦横4列、計16個の穴に入れる‟景品の煙草を叐り、行き付けの喫茶店に其れを売っ
て結構稼いだりもした。あまりにも負けないのでその店から出入り禁止を食らってしまった。
山を愛した小沢昭雄„4‟さん〈右〉
佋藤正道„5‟さんと、1967年8月、上高圪
山と言えば4期生の敀小沢さんを思い出す。山登りの゛゠ガパートで在学中多くの後輩がそ
の薫陶を发けている。夏の立山~黒部の山行は今でも鮮明に記憶しています。もともと旅歩き
が好きであった私もその影響を尐なからず发けている。山と言えばテーマ曲の一つであった
合唱組曲『蔵王』に愜動した三埼々坂末々敀中島吒など6期生の面々で蔵王連峰を縦走したこと
が楽しく思い出される。
28
合唱組曲『蔵王』
1963〄12〄10〄
西村さん„★‟が一年生の時の第四回定演
当時は„現在も同じか?々々《編注》‟団の役員は3年生が行い、その最初の仕事が新入団員の獲
得であった。その成り行きからⅠ年生と3年生はどこか似た雰囲気を持っていた。我々6期生は
公私にわたり4期生に金魚の糞のように付いて回っていた。日々そんな状態であったから、私自
身2年の学園祭において発表された『J〄S〄;:<Aとその作品』が、当時2年生であった6期生の
労作であることをО;会の山下氏よりお知らせ頂いて驚くと共にその作成に携わった土生吒、
加藤„中村‟さんはじめ6期生のガゲッフには敬意を表する次第です。その作品に6期生に関わる
資料と写真をゕレンカし、素晴らしい小冊誌に仕上げられた山下氏の御苦労には頭が下がる思
いです。
《編注》当時も今も、変わることなく三年生が幹事学年をつとめております。『ハモル』も、『プロフゖ
ール』も健在です。当然のことながら、編集がパグウンになって、例の「ゟリ版」が消えているのは言
うまでもありません。„笑‟々々々。違いといえば、ほぼ40年の長きにわたって「ルネバロ」„=ルネエンガ
&バロッア‟で運営されていること、演奏会場が大聖埽„リンア→東京ゞテドラル‟に統一されている
こと、比較的尐人数の合唱団で推移していること、41年続いた女性のガテーカ衣裳„純白のワンピ
ーガ‟が2007年で終了、2008年から時代の流行を发け入れて黒装束に変わったこと、35期以降、女
性の学生指揮者が相次いで登場していること、等々です。
第丂回定演 1966〄12〄8〄
パレガトリーナを「熱心に」歌う西村さん
前列
坂口„8‟、浜中„7‟、西村東亜治„6‟、飯澤„6‟、甘利„7‟
6期生が役員となった3年生の時に、合唱曲の为位をどこに置くかの討論が度々行われ、そ
29
の頃に「审内」の流れが、バッハ作品を初めとするバロッア音楽の方向に大きく傾いていったの
ではないかと推測しています。そのことが「审内合唱団」が創立後、半世紀を超える今日まで
営々と存続し且つ大学の数ある合唱団の中で高い評価を得るきっかけとなったとすれば、务等
団員であった私としても嬉しい限りです。勿論この事には池田先生のご指導が大きかったこと
は言うまでもありません。《編注》
《編注》「审内」のレパートリーの変遷をたどり、過去の資料とO;の証言にあたればあたるほど、池田
先生のいわば「哲学」がいかに大きな影響力を持っていたかがわかります。それに団を为導した影
響力ある技術委員の「こだわり」が呼忚して、バッハおよびバロッア、そしてルネエンガの領域に次第
に足を踏み込んで行ったというのが、他の、大学合唱団にはない、「审内史」の大いなる特徴です。4
期の初バッハ、7期の初ルネエンガミエ„全曲通し演奏‟は続く世代にたいへんな゗ンパアトをもたら
しましたが、両方とも池田先生の提案でプロィラム採用されたものです。先生はまた、草創期世代の
お気軽な゛ンゲーテ゗ンメント的、ポピュラー音楽的なゕレンカものを「最高学府に丌似合い」と、厳
しく否定されました。これには賛否両論があったことは事实ですが、尐なくとも「审内発展期」とい
われる、4期~8期の時代に、レパートリーやプロィラムのくみたて方に積極的な変遷をもたらして、
つづく「転換期」„9 期~13 期‟を拚来せしめたのは、池田先生の存在あってこそのことだと考えら
れます。
団の中では歌うことにおいては余り熱心ではなかったものの、多くの良き先輩と同期の友を
得て、学生生活を楽しく送ることが出来たと心より思っています。「审内合唱団」の4年間はまさ
に私の“@ОL=>N
=:YS”でした。„2011/10/12 記々にしむら々とあじ々6期々ベーガ々早大一文社
会々駒場東邦々内政々東京都在佊‟
“Youth is not a time of life; it is a state of mind”
──Samuel Ullman (1840-1924)
30
私が皆さんと知り合いになれたきっかけ
三埼 俊一„6期‟
1965〄8〄夏合宿/1998.12.同期会/2011〄11〄庩の酔芙蓉
<写真右側の花„酔芙蓉‟~庩の酔芙蓉です。酔芙蓉は朝は純白の花ですが、昼近くになると、ピンア色に色づ
き、3 時頃は、一番華やかで、夕方になると、酔いどれて、赤く萎れてしまいます。これを女性に例えて、低時も
見ております。しかし、人生にも置き換えられそうですが、大学時代は純白の白、今は酔いどれて、萎れてた花
なのかなあと思うと、尐し侘しくなります。そんな気持ちが込められた写真です。三埼
俊一
2011〄11〄16〄>
一浪の未、大学生になった昭和38年„1963年‟4月初旬の土曜日のこと、私は横順賀の高校
の同級生で、顔だけは知っていた中島重信と一緒に、文学部゠ャンパガの新入部員募集の出店
を散策していました。合唱団のブーガに、小林登世子さん„内政‟と、今は亡き藤五宏さんがおら
れ、声を掛けていただいたのが、縁結びのはじまりです。
三埼さんが声をかけられた文学部゠ャンパガの出店
「あなたの胸に夢を送る」とくすぐったい゠ャッゴフレーキ
巢/島田„二年生‟、右/有賀„三年生‟
島田さんの巢奥に、責任者の藤五さん。
「审内」という名前は、尐し前、理巡学部の教审にアラブ紹介で来られた団の方(々々々後で、外政
のお二人、三友功さん、岩沢宏保さんと知ったのですが々々々)から聞いて知っていました。その時
31
の、≪日末女子大と一緒に活動していて、甴女比率が半々だ≫と言う言葉が強く印象に残りま
した。
その事を中島に話すと、バガイット部で「豆ゲンア」と言う綽名が付いていた位育会系の彼の
ことだから、「軟弱な」合唱なんぞに興味は示さないだろうと思っていましたが、あにはからん
や、「入ろうよ」と言い出したのです。綽名の由来は、それほど背も高くない彼が、ドリブルしな
がら突っ込んでいく姿が、ゲンアを思わせたのです。バンゞラと思っていた彼が食指を動かした
ので、冒頭のブーガ散策への道が開かれました。
私も、中学は甴子校、高校は女子が一割という環境。青春真っ盛りの中で、割り当てられたの
が「甴子アラガ」だったため、今から思えば、正直、女性の優しいぬくもりを渇望しておりました。
„笑‟。≪甴女半々≫の言葉に、後戻りできないほど心がつき動かされ、それに、歌„歌謡曲!‟が
好きだったということが照れくさい「言い訳」のように加味されて、入部してしまった々々々という
のが事の次第です。
そのため、合唱の練習でも、演歌の癖が出て、「音を引っ張り上げないで」と、ベーガパトリの有
賀真さんに注意されたことを懐かしく思い出します。
1965.12.9.
後列
第六回定演
モテット三番
中島、平田、三埼、佋藤
「入ろうよ」が強力な後押しとなり、仲良く一緒に入団した々々々、そんな思い出いっぱいの中島
吒も、6年前„2005‟に他界してしまいました。還暦をちょっとだけ過ぎた頃でした。良い人間は
早く天に?召されるのですね。私の家からも近い、横順賀の山裾の緑豊かな公園墓圪で眠って
おります。そして、低かのご縁でしょうか、私たちに最初に声をかけてくださった2年先輩の責任
者、藤五宏さんも、同じ„!‟墓圪で眠っておられます。
私も10年ほど前に、同じ„!‟公園墓圪の永代使用権を購入いたしました。あと10年もした
ら、墓石の下で三人そろって歌を歌いたいなあと思っています。でも藤五さんが歌う歌は「千
の風に乗って」あたりでしょうか。„私のお墓の前で、泣かないでください。そこに私はいませ
ん々々々千の風に々々々♪♪♪‟。私と中島は中島の好きだった「唐獅子牡丹」„親の血を引く兄弟より
も々々々♪♪♪‟あたりでしょうね。„2011/10/15 記々みつぼり々しゅんいち々6期々ベーガ々早大理巡資
源々会計々神奈川県在佊‟<編注〆
復刻版『J〄S〄;:<Aと彼の作品』より転記させていただきま
した。>
32
1966.11.学園祭打ち上げ
前列
西村„6‟、岸田„8‟、三埼俊一„6‟、中島重信„6‟
歌ほど丌思議なものは々々々
中村„加藤‟槇子„6 期‟
巢 入団したての一年生„1963.5.新宿御苑‟
右 近影„2011.東京にて‟
歌ほど丌思議なものはありません。嬉しい時は、気持が隠せず、ひとりでに楽しいメロデ゗が口
から洩れて、「おや、今日は低か?」と人に判ってしまいますし、悫しい時も、自分は歌わなくて
も、触れたくなります。そして丌思議な事に、低でもない時に、ふっと口ずさんでいるのが、バッ
ハだったりして、周りの人を驚かし、自分も驚いたりしています。いつの間にか自分の一部にな
ってしまっているのですね。これも、週三回の練習の賜物かと思われます。„但し、明らかに「お
んち」で、意味丌明瞭なド゗ツ語に誮も気づかない々々々‟
1964〄12〄10〄定演打ち上げ
33
ところでもう15〃6年も前になりますが、次女が、女子大で目白祭の担当になったので、久しぶり
に門をくぐりました。数学科なので当然ですが、やたら数字が並びちんぷんかんぷんで、ただ
愜心してきましたが、その折、ある教审の入り口に「日末女子大学审内合唱団」とあり、一瞬あ
れっと丌思議な愜じがしました。
私たちのころは、女子大生でありながら、「早稲田大学审内合唱団」に属し、友人などに色々説
明もしなければなりませんでした。教审の中では、由来とか、当時の様子が書かれてあり、懐か
しかったのですが、皆さんの美しい歌声に臆して、「实は々々々」などと名乗れず、こそこそ帰ってき
てしまいました。歌などヘゲなのに、出来て間もないころの「审内」に紛れて入ったのがバレた
とでもいいましょうか々々々低かそんな愜じがいたしました]。
《編注
ア
現在では、形式的措置として、それぞれの大学での呼称を、日末女子大学审内合唱団→リン
、早稲田大学审内合唱団→リンア
とし、演奏会で共同行動をとるときに、正式団名「早稲田大
学日末女子大学审内合唱団」として活動することが基末方針のようです。この实に「長い」名前は、1
973年以来ですから、もう38年目になります。「早大审内合唱団」を冠したウンエートは、初期の10年
ほどで消滅しました。あの「錦の御旗」はどこへ行ってしまったのでしょうか々々々。》
「审内」にもいろいろな人がいましたし、入ってきました。考え方の違いがあっても、みんなでひ
とつのことをめざして一生懸命になります。では、ひとつのことを複数の人が続けていくのは
なぜか、と問われますと、たぶん「楽しいから」という返事がかえってくるのだと思います。この
「楽しい」ということの意味は、大きく分けると、「歌うことがただただ楽しい」という楽しさと、
「いろいろ追求して真髄を極めようと努力する」楽しさのふたつになるのではないでしょうか。
私はあきらかに前者でした。後者の人たちからみるともどかしさをおぼえたのではないでしょ
うか。
でも、昭和38年4月の入団から半世紀近くの長い間、同期の皆さんとは低やかやと集まり、共
に年齢を重ねて来れた気がします。「まだ」半世紀! 「审内」のこれからのますますの発展を
楽しみに致しております。
„2011/10/18 記々なかむら々まきこ々6期々グプラノ々日女家政々県立山形西々内政‟<編注〆
版『J〄S〄;:<Aと彼の作品』より転記させていただきました。>
34
復刻
~団の一員だったことへの愜謝~
有馬„平五‟美知子„6期‟
1965.9.白樺湖/2006.7.同期会
順々木さん、池田先生の姿も々々々
「お邪魔します」 こんな挨拶を交わすでもなく、低処からが構内なのか判らない„笑‟、広大
な早稲田の゠ャンパガに、上級生の案内で、初めて足を踏み入れたのは 48 年前の 1963 年、ま
だ日末女子大に入学したばかりの、5 月のことでした。
「よそ者」である後ろめたさをちょっぴり愜じながら、大隈像を見上げ、学生が行き交う構内
を突き進み、早稲田通り沿いの「下町」を通り抜け、こじんまりした≪すずらん保育園≫《編注》
の小さな小さな椅子に、やっと巤位を下ろしました。
練習風景
すずらん保育園
目の前„耳の前!‟で繰り広げられる人間の声のハーモニーには、栺別のものがありました。
その、温かく響く重厚な大人の混声合唱にすっかり魅了され、見学だけのつもりのその日に、大
した経験も技術もないまま、入団の手続きをしている私がそこにいました。„ゝーデゖオョンが無
くてよかった!‟
《編注 「すずらん保育園」は、「审内」が草創期からおよそ十年あまりの間、使用していた練習場。現
在の馬場口交差点から高田馬場駅方向へ早稲田通りのゆるやかな坂を下る途中を神田川方向へ右
折北上し、そのあと二度、右にまがると路圪の行き止まりの巢側にありました。腰が乗らないほど小
さな椅子がたくさんありました。お便所が箱庩の盆栻のようでした々々々。いつごろでしたでしょうか廃
園になってしまいました。》
35
それまでの私には、「経験」として誇れるほどの音楽位験はありませんでした。歌に興味の無
い甴子と一緒に、付け焼刃で臨んだアラガ合唱発表会„小中時代‟。高校の選択科目の「音楽」
は、楽典中心の味気ないものでした。家では、鼻歌まじりに教科書を繰り、周波数の定まらないト
ランカガゲ々ラカゝのメロデゖーに、耳を澄ましては口遊む„くちずさむ‟程度。「ツ゚ルニー30
番」で挫折してしまったピゕノは、物置台と化していました。
大学入学時、アラガの孝子さんが、≪寮の明子さんに誘われて、早稲田の「审内合唱団」に入
ったの。明子さん、役員してるの々々々≫と、なにげなく漏らしたことばが、私の四年間を決めてしま
うことになります。同時期、同じ寮の史代子さん、富美子さんも入団したことを知り、「自分も、鼻
歌だけじゃなく、口遊むだけじゃなく、厚みのある混声を経験してみたい!」。過去の音楽生活
に一抹の後悔もあったのでしょう。私より先を歩きだしている寮生たちに刺激され、いても立っ
てもいられない気持ちがわき起こりました々々々。 こうして、冒頭に書きましたとおり、私の「すず
らん通い」が始まったのです。
《編注
日女大の寮生活の伝統のひとつに、„宝塚のように‟「名前で呼び合う」というのがあった
のだそうです。「孝子さん」は、別府のご出身で、有馬さんと同期の首藤孝子さん、「明子さん」は、静
岡ご出身で。二学年上の四期生、大谷明子さん。内政をされておりました。「史代子さん」は、四国ご
出身で、亓期生の中沢史代子さん。「富美子さん」は、富士山の裾野からやってきた、同期六期生の伊
賀富美子さん。》
週三回の練習は、思いの外忙しくて、生真面目だった一年次は、寮の門限時間„平日 19〆00‟と
の戦いでした。やがて迎えた夏休み、“え~~っ、合宿があるんですか?” 案内に驚きました。
合唱部=文化部、 合宿=運動部の゗メーカしかなかったのです。
「合宿は、丌参加です」
「どうして?」
「運転免許を叐る予定が々々々」
「運転なんて後で教えてあげるから合宿は参加した方が良いよ!」、と責任者の方 《編注 藤五
宏さん》。
幸い免許証も手に入れ、手刷りの楽譜の山をバッィに駆け付けた八月の猪苗代湖畔は、朝の
ラカゝ位操に始まり、食事の時間以外は、ほとんど練習、と言っても過言ではありません。正に
36
“合宿” そのものが始まりました。
1963.8.夏合宿 猪苗代湖畔、中央筆者《一年生》
右に、「审内」につながる恩人「孝子さん」
お蔭で、池田先生が到着され、先輩諸氏が励ましにいらした一週間後のその成果は、秋の定演
の全ての演目を、パートの音叐りができて四声が合わせられるまでになっていました。もし、合
宿に丌参加だったら 9 月からの練習にはついていかれなかった、と考えただけでも恐ろしく、
「合宿に参加できてよかった!」 初めて、『早稲田大学审内合唱団』の一員であることを自覚し
たのでした。„苦笑‟
デォ゗ン/平田恵一
でもまだほんの尐し心のどこかに、「他所に」お邪魔しているという気持ちをぬぐえぬまま迎え
た 2 年目の『早稲田祭』。展示ウーナーで、団をゕピールする小さなガテーカも経験しました。こ
のたび復刻版が発表されることになった、いかにも平田恵一さんらしい愉しい表紙絵の『J〄S〄
BACH と彼の作品』 の資料も手にした記憶は微かにあります。„中味については?‟
今回、この企画で、当時の同期の面々の偉業を知り、当時ノホホンと审内の、「へそまがりバッ
ハ展」《編注》 と題したウーナーを、卖に見学していただけの自分を大いに恥じ入った次第で
す。12 期の山下氏、14 期の日光氏の、復刻版への考えられないほど緻密で重厚な編集に敬意を
表します。
《編注 「へそまがり」とは、当時の亓期責任者、五末健一さんのニッアネーム々々々。学園祭の为題とし
て責任者に躍り出てもらったというわけです。平五さんたち六期生„二年生‟のそこはかとない気遢
いが伝わってくるようです。三年生をさしおいて学園祭の中心となった自分たちの「突出」への配慮
なのかも知れません。„笑‟》
37
「へそまがりバッハ展」の教审でひかえる四人
平田„6‟、加藤„6‟、有馬„平五‟美知子„6‟、板倉„4‟
ヘグマゟリさん „第亓期責任者!‟
1963〄11〄学園祭「バロッア音楽」会場にて
2004〄9〄四十亓周年
音楽性を巟って、侃侃諤諤„カンカンガクガク‟の議論をしていた六期の根底には、後の団の核とも
なるべき思いがここに流れていたことがよく理解できました。
翌年„1965‟の役員年次には、六期生も一同纏まりました。私もゲウの足の一末となり得まし
たか、神田共立講埽の第六回定演、成功裏に終え、優秀な第丂期生に引き継ぐことができまし
た。母、姉が上京して拍手を送ってくれたことも嬉しく懐かしく思い出されます。
实力が伴わないのに、卖に団貹を滞らせなかったことだけ„?‟で、四年間在団させて戴けた
ことへの愜謝は、計り知れません。在団していなければ耳にしなかったような楽曲を響き合え
たことは、心豊かで幸せな学生生活でした。
1965.12.9.第六回定演
バッハを歌う平五さん„後列中央‟
38
随分前に人生の折り返し点を過ぎた今、懐かしく集え、忌憚なく話し会える仲間に恵まれ
て、年に 1〃2 回ですが愉しく歓談できることに愜謝する日々です。物置の奥に、しまいこんであ
ったずっしり重い
『ウアヨ々フリーゕルバム』。
写真は、ぴっちり張り付いて剥がれません。時
代と年齢を愜じながら、懐かしくしみじみと見入りました。こんな機会を不えていただけました
ことにも愜謝し、お礼申し上げます。„2011/10/18 記々ありま々みちこ々6 期々ゕルト々日女大児童々愛
知県立明和々会計々東京都在佊‟<編注〆
復刻版『J〄S〄;:<Aと彼の作品』より転記させていた
だきました。>
「水のいのち」のこと
中村„山末‟千代子„6 期‟
1966〄8〄裏磐梯/2010.10.プラハ
三年ほど前のこと、日末合唱協会が「水のいのち」をやるからと友人の誘いを发け、この曲を
聞きたい一心で、奈良から電車を乗り継ぎ二時間かけてはるばる宝塚まででかけてまいりまし
た。この曲は、今から46年前、私たちが幹事学年だった第六回定演„1965‟の時の思い出の作
品なのです。久しぶりに聞いたこの曲は、やはり素晴らしいものでした。聞きながら、この名作
が世に出た最初の段階で、私たちが演奏することができた時の喜びが、昨日のことのようによ
みがえってきました。
私は、≪大学に入ったら合唱≫と心に決めていました。そして、上京して女子大の寮生活に入
ったことが、「审内」を知る直接のきっかけとなりました。いまから思うと、「审内」の方から私の
胸に飛び込んできてくれたという印象があります。寮生の中に、「审内」の先輩がいらして、入
寮するとさっそく勧誘を发けたからです。女子大には、伝統と实力を誇る女性合唱団がありまし
たが、私の思いは「混声」にありましたので、先輩に導かれるままに「审内」を選びました。
高校は、同期の加藤さんや、二年後輩の佋藤まち子さんと同じ、県立山形西高で、私は合唱部。
「東高」とウンアールの項佈を争う充实した三年間でしたが、女性合唱だったので、音域が広く、
39
響きに厚みのある「混声」に強い憧れを持っていました。先日の「東混」の演奏をきいていて、こ
の「混声への憧れ」があの時、私を「审内」に結びつけたのだとしみじみ思いました。いろいろと
思い出はよみがえりますが、以下に「水のいのち」にまつわる゛ピグードをひとつ記しておきた
いと思います。
私たちが幹事学年の年„1965‟、私は、テノールの富岡さんと共に楽譜係を担当していました。
あるとき、学生指揮者の土生さんが上気して、≪「水のいのち」という曲がある。ラカゝから流
れた演奏が素晴らしかった。「审内」でもこの曲をやってみたいと思うので、ついては赤坂の
TBS に行って楽譜のことなどを聞いてきてほしい≫とおっしゃったのです。日時や同行メンバー
など、子細はすっかり忘れてしまいましたが、緊張して出かけたこと、TBS のデゖレアゲーにお会
いしたこと、手書きの楽譜を見せていただいたこと、「あなた、早稲田の学生?」と聞かれたこ
とだけは覚えてます。よっぽど頼りなさそうだったのでしょうね。
「审内」が演奏に使用した自为製作の譜面
「水のいのち」 指揮/土生健二 1965
赤丸が中村さん
《編注
土生さんがお聞きになったという、「水のいのち」„1964‟は、1964 年 11 月 10 日、日末合唱協
会《山田和雄指揮》により初演され、ラカゝで中継放送されたもの。この時は、赤坂のT;Sのガゲカゝ
内での演奏だったのに対して、翌年の「审内」の演奏《1965.12.9.神田共立講埽》は、作曲者からゝリ
カナル楽譜を貸不され、それを手書きで写したものをもとに団内印刷したものを使用。まだ楽譜が
世間に出回る前のことだったので、实質的に、公開ホールにおける日末初演となりました。指揮は土
生さん。々々々Wikipedia にも出ていない裏話です。録音も残されています。楽譜は編集子において保存
管理をしています。
40
その後、作曲者、高田三郎先生のお宅を、土生さんを含めて、低人かでお伺いする幸運も得
ました。その時も、゠リッとして、芸術家肌の先生の前で、私は緊張してお話をお聞きするだけで
した。「水のいのち」を聞くたびに、あの、46年も前の光景や、気持ちの高揚がよみがえり、しば
し幸福な時間をすごすことができます。„2011/10/22 記々なかむら々ちよこ々6期々ゕルト々日女理
Ⅰ々県立山形西々楽譜々奈良県在佊‟
《編注
山形西高の参考音源
→アリッア》
バッハへの愛と愜謝
土生 健二„6期‟
1965〄8〄白樺湖/2006〄7〄西新宿
先日、尾崎喜八さん„1892-1974‟の『音楽への愛と愜謝』„新潮社1973‟を読み直し、詩人とし
ての仕事をしながら、音楽と生活がこれ程深い関わりを持っていたことに、38年前の読後の愜
動をふたたびかみしめました。卒業後、私は東京の「ハ゗ンリヒ々オュッツ合唱団」に所属していま
したが、尾崎さんは、縁あって、この合唱団の演奏会に足しげく通われていました。ある時、位調
を崩されてお出でにならかったことがあり、私たちの方からご自宅に出向いてウンエートの録
音をお届けにあがったことがあったのですが、その際、ご末人からいただいたのが、この末だ
ったのです。今回の原稿のために、ゲ゗トルを拝借させていただくことにしました。
《編注 尾崎さんは、つとに知られるように、ロマン々ロランに傾倒しておられ、ロランの論文『近代叒情
劇の起源』にオュッツのことが大きく言及されているのを読んで、オュッツを敬愛されるようになりま
した。これは編集子がご末人からうかがった話です。オュッツの音楽が現实の音として目の前で聞け
る。尾崎さんにとって、それはロランも聴いたに違いない音楽を追位験する千載一遇のゴャンガだっ
たのでしょう。彼はオュッツの陰にロランをみていたのです。土生さんが尾崎宅を訪問された時、じつ
は六年後輩の編集子も同行させていただいていました。1973 年のことです。》
41
尾崎喜八
[鎌倉市エ゗トより]
「审内」5期が早稲田祭„1964‟に参加した時のことなどすっかり忘れておりましたが、今回、12
期の山下さんが、その時作成した小冊子『JS BACH と彼の作品』の復刻版を編集され、見せて
頂きましたが、かなり充实した内容になっており、大変な労作で嬉しく思いました。現在の様に
゗ンゲーネットのない時代で、皆で末屋や図書館、東京文化会館の資料审などで文猬を集めて、
苦労して編集したことを思い出しました。
私の音楽との関わりは、小さい頃、音楽好きの母親が聞いていたSPレウードや、教会学校で聞
いたゝルゟンや讃美歌の影響があったかも知れませんが、決定的な出会いは、昭和三十年代の
前半、私が中学生の時に、NAKラカゝで放送されたバッハの≪ゞンゲーゲ全曲≫だったように
思います。「审内」誕生の数年前のことです。NAKから叐り寄せた資料を見ながら、角倉一郎さ
んの解説と共に、半年にわたって毎日、ラカゝを聴くのが楽しみでした。
「审内」との出会いですが、大学1年の秋の早稲田祭„1963‟で、「バロッア音楽研究」というテー
マをかかげて展示解説をしていた「审内合唱団」を知り、丂ゞ月遅れの入団を果たしました。す
でに12月10日の定演まで残すところあとわずか一ゞ月を切っている時期。夏合宿も経験してい
ませんでしたが、それでも、4ガテーカの中から1ガテーカは乗せて貰えるとの事でしたので、迷
わずバッハの「マニフゖゞート」を選び、ゝルゟンを片手で弾きながら、ベーガのパートを必死に
暗譜したことがとても懐かしいです。2年ではあの華やかな「モテット1番」を第 2 ウーラガと互
いの顔を見ながら歌った楽しさ、3年では重厚な「モテット3番」を歌う事ができ、最高に幸せで
した。
マニフゖゞートニ長調„バッハ‟
二列右端に入団して一ゞ月の一年生、土生さんの姿
42
もう一つの貴重な経験は、高田三郎さんの「水のいのち」との出会いです。 大学二年の11月の
ことでしたが、ラカゝ„T;S‟で秋の芸術祭参加作品として放送された数曲の中にこの曲が有り、
偶然それを聞いた私は非常に愜激し、出来れば我々も歌いたいとの衝動にかられ、ずうずうし
くも早速T;Sに連絡をしました。
ラッ゠-なことにその放送のデゖレアゲ-の方„お名前を失
念し失礼‟が早稲田の先輩で、「审内合唱団」の定期演奏会で是非歌いたいとお話ししましたら、
前例のないことですが高田さんに聞いて頂けました。
高田さんからOKが出、手書きの楽譜を
お借りし、それを皆でゟリ版に書き写させて頂きました。„当時はウピ-機がなく手書きのゟリ版
印刷が为流でした‟
また、放送の時のテ-プウピ-を頂き、すり減るまで聞いたり、曲の解釈
を聞くために四谷の高田さん宅まで押し掛けたことも懐かしいです。
結果的に演奏会形式で
は末邦初演となりましたが、池田先生もこのことを覚えておられ、<日末のゞンゲ-ゲ>「水の
いのち」初演について先生のブロィ≪私の合唱造り≫にも書かれておられました。
作曲者の手書き譜面から写し叐った审内版の「水のいのち」
土生さん使用の譜面
卒業後、どうしてもバッハの無伴奏ゴ゚ロ組曲を弾きたくて
30 歳になってからゴ゚ロをはじ
め、67歳になった今でも週一回の审内楽の練習や月一回のアワルテット練習を楽しく続けられ
るのは、「审内合唱団」で音楽に接する事が出来たことが出発点だったと思い愜謝しておりま
す。„2011/10/22 記々はぶ々けんじ々6期々ベーガ々早大理巡土木々都立石神五々学生指揮者々東京都在
佊‟
2008年秋、「审内」O;会„大隈会館‟
リウーコー々トリゝ„土生健二„6‟、山下 豊„12‟、山中立夫„9‟‟
43
型破りパトリ奮闘記
平田恵一„6期‟
1964.8.蓼科高原/2006.7.西新宿
三年生になったとき、ベーガのパトリになった。いや、なってしまった。先代のパトリであったゥゲ
さんこと佋藤正道さんからこう言われたからである。
「ベーガのパトリってのはな、ウンパのときパート全員から酒やビールを发けなければいけない
のだ。それにはお前しかいないだろう。」
当時„今でも‟酒豪を任じていた私のプラ゗ドをいた
くくすぐるものだった。そのあと起こる大変な苦労など考えもしなかった私はまんまとこの話
にのせられてしまったのである。
そもそも私が「审内合唱団」に入ったときはトップテナーであった。<ぐらい楽に?出た。それが
早慶戦の翌日ボ゗ガトレーニンィがあり、前日声を涸らして忚援したあげく例によって大酒を喰
らって馬鹿騒ぎした後だったためか、声はゟラゟラ。高い音など出る訳も無く、トレーナーが試
しに佉い音をやらせてみたところ下の?ぐらいまで楽に出た。
「はい、お前はバリトン」
と言われるままにベーガパートへ転籍となってしまった。自業自得と
はいえこれまで覚えたテナーの譜面はまったく役に立たず一からのやり直しになってしまっ
た。
1965.12.9.
パトリの平田さん„モテット三番‟
44
真面目に古典音楽に叐り組んでいる後輩の諸吒!吒たちの先輩の中にはこんな甴も居るので
ある。とは言え先代のパトリとの約束は忠实に守った。毎週のごとく行われたベーウンでは„ベ
ーガのウンパ。肉のことじゃない‟さされたビール、酒はすべて飲み干した。当時一回のウンパで
15~20 人ぐらい集まったから、最佉でもビールでウップ 15~20 杯、大瓶で 4~5 末であるが、
勿論そんなので済むわけがない。
私は決してパトリを甘く見ていた訳ではなかったが、やはり甘かった。春の合宿では上級生に厳
しい叱責を发けた。言われたことは一々尤もであった。私は己を恥じた。夏の榛名合宿に備えて
ゕ゗デゕを練った。
さあ、誮を湖に投げ込むか
「そうだ この手があった」
閃いたのばルエゟゲの上級生の力を利用することだった。マ
ンツーマンで上級生と技術の朩熟な下級生とペゕを組ませたのである。これは中々巣くいった。
低よりも私が楽だった。合宿最後の朝、示し合わせた上級生達の手で「ご苦労さん」の掛け声と
ともに榛名湖に投げ込まれてしまったのは、今でも忘れることのできない貴重な位験であり、
素晴らしい想い出である。„2011/10/25 記々ひらた々けいいち々6期々ベーガ々早大一商々県立岐阜々
パトリ‟
「歌の力、合唱の魅力」
八木庄三„6期‟
1965.8.尾瀬/2011.7.福岡
昭和38年„1963‟4 月、うららかな陽気に誘われて、新入学生勧誘の出店が並ぶ早稲田゠ャン
45
パガをぶらぶらしている時に、優しいお姉さんのような女性に≪「审内合唱団」に入りませんか
≫と呼び止められ、ついふらふらと入団手続きをしてしまいました。音楽は好きでしたし、合唱
への興味も多尐ありましたが、最初からやりたいという強い思いがあったわけではなく、たま
たま声を掛けられて「やってみようかな」佈の軽い気持ちでした。
あれ以来48年以上経った今でも、細々ながら合唱を続けています。その間いろいろな曲折
はありましたが、歌い続けてきたのは、ただ「歌が好きだから」だけではないような気がします。
私にとって合唱は丌思議な力を不えてくれるもののようです。そんな合唱の魅力を今までの経
験を辿りながら考えてみたいと思います。
小学生の頃、内容は全く覚えていないのですが、学校が即席合唱団を編成したそのメンバー
に選ばれて、日比谷公会埽で歌った記憶があります。それを除けば、私の合唱歴は「审内合唱
団」から始まります。
入団当時は楽譜が読める訳ではなく、発声も全くの“ど素人”。特にこれこれの曲が歌いたい
という訳ではなく、ただ漫然と歌っていたように思います。それが、夏の合宿で鍛えられ、12月
の定演を経験し、春の合唱でまた鍛えられ、を繰り返すうちにある程度要領がわかってくると、
だんだん面白くなってのめり込んでいく。そんな 4 年間だったように思います。
学生時代の活動は 4 年間という期限付きなので、「4 年間頑張るぞ」と「4 年間なのでこれ以
上は無理かな」という気持ちが交錯していたように思います。1年生から4年生まで、初心者か
らかなりの経験者までいろんな人と一緒になって一つの音楽を作り上げていく、これが合唱の
難しさであり、面白さであるように思います。
当時の「审内」は、今のように歌う曲の傾向が定まっておらず、いろんなカャンルの曲を歌い
ましたが、私はこれはこれでよかったように思います。「邦人組曲」、「ミューカゞル」、「黒人霊
歌」、「ロオゕ民謡」、「バッハ」、「ミエ」等々、「ゞルミナ々ブラーナ」のような強烈な曲も経験し
ました。みなそれぞれ私の身位中には「残像」が残っており、この経験が今日まで歌い続けてこ
られた源になっているような気がします。特に印象に残っている曲は、「水のいのち」、バッハの
「モテット二曲」„1番と3番‟です。今でも尐し練習すれば歌えそうな気がします。„無理かな?‟
1965.12.モテット三番を歌う八木さん
46
当時の「审内合唱団」の素晴らしさはゴームワーアの良さにもあったのではないでしょうか。
いま思い起こすと、末当にいろんな人がいました。音楽の志向や叐組方、さまざまな面で考え
方や生き方の違いがあるのは当然ですが、それを乗り越える低かがあったように思います。昔
の写真を見ると、同期が集まって、飲み会はもちろん、゠ャンプやドラ゗ブ、写真はありませんが
ガ゠ー等、結構いろんなことやってたの思い出します。
1965.8. 尾瀬゠ャンプ
定演後の打ち上げを我が家でやったのも楽しい思い出の一つです。我が家が渋谷にあった
ので一番集まりやすいということもあり、時間制限なしに夜を徹して騒げるということでやっ
たのですが、これが結構好評で、その後2〃3回集まったように記憶してます。その他にもゞルテ
ットの練習、ちょっとした打ち合わせする等、時々我が家を利用してました。これらもゴームワー
アの形成に尐しは役立ったのかも知れません。
1967.1. 八木宅新年会„渋谷‟
卒業したら、もう歌うこともなく合唱とはこれでお別れーーーと思ってました。
ところが、卒業して福岡の電力会社に入社しましたが、そこでまた半分は業務命令的に会社
の合唱団„混声‟に首を突っ込むことになってしまいました。以来、途中転勤で一時中断したこ
とはありましたが、ほぼ歌い続けています。
職場の合唱団も全盛期は定演をやったり、合唱の全国大会に出場したり„同じ大会に出場し
ていた先輩の橋口勲さん„5期‟や、高橋将巳さん„4期‟によくお会いしました々々々。‟で、活発に活
動していましたが、世の中の流れには逄らえず、会社からの支援はなくなり、20数名のメンバー
が中心となって一般合唱団の形で再結成し、今も細々と歌い続けています。老人々介護施設で
の訪問演奏によく行きますが、そんな時は小学唱歌、童謡や懐メロ等お年寄り向きの曲を歌う
のですが、合唱を始めると昔を思い出してか、声を合せて楽しそうに歌う人がいたり、会場のお
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年寄りも一緒になって歌う場面では涙を流して喜んで歌ってくれます。こちらも愜激して「また
来年も来ます」ということになり、10年近く3か所の施設を定期的に訪問し続けています。
こんな経験が出来るのも歌の力のお陰だと思います。合唱の魅力は上手い、下手だけでは
ないようです。
もうひとつ、10年佈前から「甴声合唱団」で歌ってます。これは学生時代の合唱経験者が、仕
事をリゲ゗ゕした後、再び歌おうと呼びかけ10人程度で始めたたようです。「演奏会をしたいが
テノールが足りないので手伝ってほしい」と発起人である元会社の上叶から言われて参加した
のですが、演奏会が終わっても抜けられず今も歌い続けています。平均年齢74歳、最高齢84歳、
最若年50数歳という老人合唱団です。毎年演奏会をやってますが、やるたびに、誮でも簡卖に
歌えると思うのか、人数が増えて、いまでは60数名の大合唱団になりました。ゞラゝイ名人が
定年後の楽しみに入って来る人が多く、合唱経験者は尐なくて、なかなか声がまとまりません。
そんな合唱団ですが練習は熱心です。練習時間の30分前から集まり始め、定刻には殆ど全員
揃います。私は今でも仕事で毎日出勤しており、練習時間には遅れがちですが、皆さんの熱意
に動かされ続けられているように思います。これも合唱の魅力でしょうか。
http://members.jcom.home.ne.jp/namasa/
合唱の目標として、ウンアール優勝を目指すのも、高度な音楽性を追求するのも大切なこと
だし、素晴らしいことだと思います。でもそれだけではなく、さまざまな目標があっていいと思
う。涙を流して聴いてくれるお年寄りがいれば、そこに行って歌う、老後の楽しみとして合唱を
選んだ人と一緒になって歌う、正にいろいろな形で音を楽しむのが合唱の原点であると思う。
正直、時には物足りないと思うこともあります。昔の思い出は大切だけど、昔通りには歌えな
い。いまの環境の中で、自分も楽しみ、他人にも喜んでもらえるとしたら、これはやめられない、
やめるわけにはいかない。≪歌の力、合唱の魅力≫はこんなところにもあるように思います。
私の今の合唱活動の原点は4年間の「审内合唱団」にあります。「审内」の人たちに温かくつつ
まれ、厳しく鍛えられたことに愜謝し、それらの日々を懐かしく思うと同時に、その後脈々と伝
統を守り続けて今の「审内」を築いた後輩たちに敬意を表したいと思います。そして、これから
もますます成長するよう願っています。„2011/10/29 記々やぎ々しょうぞう々6期々テノール々早大一
政々早大学院々外政々福岡県在佊‟
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「今、思い返してみると々々々々」
加藤„首藤‟孝子„6期‟
1963.8.猪苗代/2004.9.桜楓二叵館
昭和38年„1963‟3月、湯布院温泉の麓にひろがる温暖な別府の市立高校を卒業し、はるば
る上京して大学の寮生活が始まりました。この寮で、2年先輩の大谷明子„4期内政‟さんと同审
になったことが「审内」入団のきっかけとなりました。女子大寮は、樟渓館の裏門前の丌忍通り
を渡った目と鼻の先の雑叶ヶ谷にあり、それぞれに名前のついたたくさんの寮棟が高い樹木の
間に間に建ちならぶ女の園でした。大谷さん、丂期生の酒五夏子さん、そして私は新泉寮、同期
の平五美知子さんは名敬寮。他の同期生、加藤槇子さん、山末千代子さん、平田純子さんたちも
みんな寮生でした。思い出のたくさん詰まった私の「审内」の四年間は、団員だらけのこの寮生
活を抜きには考えられません。
雑叶ヶ谷の寮の入口
大学で合唱をやろうという動機は中学時代にさかのぼります。今年„2011‟も夏の県大会で
奨励賝をもらったそうですが、私が通っていた当時、別府市立青山中学の合唱部が大分県代表
としてNAK全国学校音楽ウンアールに出たことがあり、それで “合唱の楽しさ” を知ったので
す。しかし、高校時代は发験のこともあり、遠ざかっていました。その見果てぬ夢を大学でもう
いちど見たいと思っていたことはたしかです。
そんな矢先に、大谷さんから部活のことを聞かれ、どうやら「ウーラガ部に入りたい」と言った
ようです。ウーラガ部の先輩にウーラガ部に入りたいと言ったのですから、大谷さんはまさに「オ
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メゲ」と思ったに違いありません。私の「审内」へのレールは運命的に敶かれていたのだと思え
てきます。そのあとすぐ、早稲田の文学部の裏手だったと思いますが、責任者の藤五さんの「下
宿」„ゟリ版刷していた記憶があります々々々‟、それから学生会館の「部审」へと連れられて見学し
たことを思いだします。あれよあれよという間に、気がついたら「他大学の」合唱団員になって
おり々々々„笑‟、それからの4年間 “ポゕッ” として、ただ音を拾って他のパートとの「ハモり」を楽
しんでいただけのような気がしています。これでゕルトのパトリまでさせてもらった当時のこと
を振り返ってみると、いまさらながら気恥ずかしい思いでいっぱいになります。
1964.12.10.モテット一番
巢隣は大谷明子さん
卒業後、当時、福岡にあった「ラ゗ラッア合唱団」に入り、沖縄公演なども経験いたしました。合
唱を離れてからは゛レアトーンの講師をし、音楽が生活の一部という時代を過ごして参りました
が、年を経て、現在は引退し、とくに合唱その他の音楽活動はしておりません。
上京すれば、寮仲間でもあった同期の有馬さんの連絡で皆に集まっていただき、一気に昔に
戻れる仲間がいるということの幸せをかみしめています。„2011/10/30 記々かとう々たかこ々6
期々ゕルト々日女大児童々県立別府鶴見ヶ丘々パトリ々大分県在佊‟
「审内合唱団」の運営に携わって
飯澤 雅之„6期‟
1965〄8〄夏々尾瀬/2004.9.11.四十亓周年/2007.4.ムー
50
私が「审内合唱団」に入部したのは、入学からほぼ1年後の昭和39年„1964‟3月でした。入学
時はある方面の活動に興味があり、長い歴史と専門性のあるエーアルに入部したのですが、と
てもついていくことが出来ず断念しました。しかし合唱に興味が無かった訳ではなく、高校の同
窓でもある長谷川和子さん„旧姓々5期‟が活動されていた合唱エーアルに時折顔を出しており
ました。恐らく長谷川さんは「审内合唱団」にも属しながらの活動だったのではと記憶しており
ます。
私が入部した時期には春の御殿場合宿も終わり、新入生募集の準備をしている頃でした。こ
の時は既に5期の方々が幹事学年として役員を勤められ、12月の第5回定期演奏会へ向け活動
が始まっておりました。そして定期演奏会を終えると次の世代へ役員を交代するための謂わば
選挙が行われます。私たち6期生が次期幹事学年となるための役員選挙において、私の愜覚で
は大げさに言えば合唱団としての活動路線の違いを焦点とした人選となったものと思います。
当合唱団は草創期において先輩方が「审内」と名づけられたとおり、ルネエンガ期やバロッア
期を意識し、更には必ずしも宗教曲に限らないポリフ゜ニーの世界へも手を伸ばし、それらの楽
曲を技術的にも追求しようと創設されたものと理解しておりました。
他方、エーアルにはありがちなことなのですが、必ずしも技術追求を重視せず、その比重を
減らしても、団内の親睦融和や楽しさのための活動が必要だとする意見が尐なからずありまし
た。
結局、やはり合唱団である以上、技術水準の追及を行うべきとの立場をとった私に責任者を委
ねるとの結果になりました。結果が出てからは趣を異にしたメンバー共々に責任世代として団
の運営に当ったことは言うまでもありません。そして第6回定期演奏会を終えて次の世代への
交代時期がまいりました。
このとき、又も1年前の争点が再燃したのでした。残念ながら、末来担当すべき7期の人員が尐
なく、路線において1年前の双方の为張を位現する責任者候補が並び立つことがありませんで
した。そこで、選挙に参加した団員たちはエーアルの方向性に危惧を抱き、異例の事ながら4年
生になる私に継続就任を要請し、それが实現したのでした。
責任者のみならず、パートリーコーに関しても異例で、4年生、2年生からも各1名担当すること
で運営位制が作られたのでした。末来4年生は卒業を控え卖佈叐得等で大変なはずですが、幸
いなことに私は卒論以外はほぼ3年生までに必要卖佈を叐得しておりましたので、時間的には
楽にエーアルに参加が可能でした。私たちが卒業した後にも、エーアルとしてのあり方には色々
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と周囲の影響もあり、困難に直面したこともあったやに聞き及んでおりますが、現在につながる
団の運営の一端を担えた事をうれしく思っております。
„2011/11月/2日 記々いいざわ々まさゆき々6期々テノール/バガ々早大理巡巡経々学芸大附属々6期7
期責任者々東京都在佊‟
《編注
退団者を多数出した結果、三年時に、S4人„赤沢々久保田々佋藤々坂五‟、:4人„大八木々河崎々
酒五々橋下‟、T1人„浜中‟、;3人„青山々甘利々仲村‟という状況に至り、人材丌足の丌安をかかえてい
た丂期の役員位制は、期外エポートが、責任者々飯澤雅之„6‟、テノールパトリ年度後半々八木庄三„6‟、
ペーガパトリ々向田永真„8‟、会計々吉川佳子„8‟、会計々手塚友叶„8‟、楽譜々吉村滋„8‟という前代朩
聞の状況となりました。丂期の方々、そしてエポートされた方々はたいへんな苦労をされたことと思
います。
古来、≪草創は易く、守成は難し》と申します。一度つくったものを健全に維持発展させていく
のは实はそうとうに難しいことなのだと思います。ことに飯澤さんの所属されていた「発展期」世代
„4期~8期‟は、「草創期」„1期~3期‟と、ルネバロに踏み出す「転換期」„9期~13期‟のはざまにお
かれた、レパートリーに対する価値観の相剋のきわめて激しい時代だったことからも、入団者も多い
が、退団者も多い状況が生まれていたことは想像に難くありません。いちばん火花の散った時期で
した。有馬美知子さんが≪音楽性を巟って、侃侃諤諤„カンカンガクガク‟の議論をしていた六期≫とお書
きになっています。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
草創期々発展期々々転換期々々々々ゞテドラル時代
心に宿る音楽の小箱
篠末„遠田‟京二„6期‟
1963〄5〄新宿御苑/2010〄10〄大隈庩園/2006〄8〄ミラノ大聖埽
1963年、早稲田大学に入学。4月早々、数多いエーアル勧誘の中で、たまたま図書館„旧図書
館々現會津八一記念南物館‟の前にあった「审内合唱団」の出店の方々に誘われ、合唱に対する
淡い憧れから、バロッア音楽の知識も無く入団。5 月には、新人歓迎会„新宿御苑‟で先輩諸兄姉
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の優しい気遢いを发けて、気が付くと、12月10日の第四回定演の舞台に立っていました。「蔵王
賛歌」、「黒人霊歌集」、「マドリゟルとオャングン集」、そして、バッハの「マニフゖゞート」を皆さん
と一緒に歌いました。2年生以降も同様に先輩、同輩、後輩の優しく、真摯なご指導を发け、4年
間在団することが出来、今は愜謝の気持ちで一杯です。
「审内」の出店と出会った旧図書館前
巢々文学部前出店/右々旧図書館前出店
二十年以上前の話になりますが、英国駐在が三年近くに及んでいた 1988 年の夏休みに、家
族とド゗ツのミュンヘンに旅行をしたことがあります。ホテル近くのホールで、弦楽4重奏の演奏
会がありました。ヴゔ゗ゝリンの、美しく澄んだ、張りのある透明な音色に愜激したことを今でも
はっきりおぼえています。翌日は、汽車でォルツブルィに移動し、モーツゔルト„1756-1791‟の生
家を訪問。モーツゕルト広場では、 ボー゗グプラノの歌声が澄み切った大空に響き井り、しばし
聞き入ってしまいました。
2006年夏には、ローマを訪れ、オガテゖーナ礼拝埽の祭壇壁画、「最後の審判」を鑑賝してき
ました。ミイランカ゚ロ„1475-1564‟が「マゲ゗」をもとに描いた例の巤大な壁画です。この礼
拝埽は薄暗く、二百人はいたでしょうか、祈りを捧げている人々の敬虔な姿が今でも心に残っ
ております。また、ミラノでは、エンゲ々マリゕ々デッレ々ィラツゖ゛教会で、レゝナルド々コ々ヴゖンゴ
„1452-1519‟の「最後の晩餐」も鑑賝することができ、これらルネエンガ時代の宗教絵画に愜動
しました。
ヨーロッパ各圪の聖埽や教会を訪問する度に、宗教曲もまた、荘厳な雰囲気の中で幾多の
人々に聴きいれられてきたものと想像を馳せてきました。今になって思いますと、「审内合唱
団」で培った貴重な経験が、ヨーロッパの音楽、絵画、そして聖書への理解を深める一助になっ
たのではないかと思っております。また、このような思いに耽るときに、心の小箱が開き、「遣か
な友に」、「神ともにいまして」等、「审内」でおぼえた歌を低気なく口遊み„くちずさみ‟、懐かし
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い学生時代を思い起こして心を和まされています。
1964.12.10. モテット一番を歌う篠末„旧々遠田‟さん
この「审内合唱団」を創立された諸先輩方が、「幅広いカャンルの合唱曲」を芯柱にして活動
を始 められて52年 。その間、まさに私たち 6 期の入団の年からはじまったJ〄S 〄;:<A
„1685-1750‟の宗教曲を中心としたバロッア音楽の合唱活動は、さらに翌年からルネエンガの
教会音楽をも視座に加えて、「尐しも揺らぐことなく」、延々と发け継がれて今日に至っており、
すでに2009年11月には、バッハのロ短調ミエを携えて、ラ゗プゴヒ市演奏旅行を挙行し、さらに
2012年2月には、ヘンデルの「メエ゗ゕ」を携えて、ハレ市演奏旅行を計画されている由。現役
ならびにO;会のエ゗トを見るたびに、自分がかつて関わった合唱団の歴史と現在をとても誇り
高く思っております。今後ともバロッア音楽ならびにルネエンガ音楽を中心に歌い継がれていく
ことを心より願っております。„2011/11/16 記々しのもと々きょうじ々6期々ベーガ々早大一商々新潟県
立十日町々東京都在佊‟
《編注》篠末さんが「审内」の四年間で経験されたルネエンガ々バロッア系の教会音楽は、マニフゖゞ
ート„バッハ‟、モテット1番„バッハ‟、モテット3番„バッハ‟、教皇マルゴ゚ルガのミエ„パレガトリーナ‟
の四曲です。まさに今日の「审内」レパートリーが形成され始めた時代です。
【落ち穂拾い】 第7回定演プロィラム„1966‟より
第二代常任指揮者
池田明良
私が、敬愛する先輩、砂川稔氏„渡欧中‟の後を継いで、この合唱団のゲアトをとったのは、昭
和37年„1962‟の9月です。以来、早いものでもう5度目の冬を迎えます。従って、今日ガテーカ
にいる最上級生は、丌運にも„!!‟4 年間ずっと常任指揮者池田明良に虐げられ続けたわけです。
私は昨年のこの頃にも述べたのですが、組織力、練習量、頭脳等に栺別恵まれている「大学
合唱団」なるものに、多大の希望を抱いています。つまり≪今後、日末の合唱界はプロでなく大
学合唱団によってリードされるべきだ≫と考えているのです。
にも拘らず、当「早大审内合唱団」を含め、殆んどの大学合唱団は、私の期待になかなか忚え
てくれず、佉迷を続けています。
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愚にもつかぬ雑曲をならべ、「愛唱曲集」などと定期のプロィラムに組むことを、私はいまし
めています。そして毎年、やや無謀と思われる難曲にじっくり叐り組むことを薦めてきました。
三年間のバッハ中心から、今年は゗ゲリゕの古典へと窓を拡げました。約 200 年の距たりを持
つパレガトリーナとバッハとの関連、バッハを生涯の座右銘としていたロッオーニの作品などか
ら、私たちはヨーロッパの偉大な文化遹産の一部を掌揜しつつあります。
学生生活中、専門外にこうした視野を持てるとは、全くすばらしいと思います。
そして今年も、楽友、大月さん、対馬さん、板橋吒、築圪吒、そして新しく草間さんの協力を得
られるのは、幸運の限りです。
„いけだ々あきら々第二代常任指揮者々東京芸術大学々都立新宿‟
池田明良先生は創立亓十周年の年の大晦日、2009 年 12 月 31 日に逝去されました。
四十年ぶりに
橋口 直子„7期‟
1966〄8〄裏磐梯/2004〄9〄創立四十亓周年
「ねぇ、あんた40年ぶりに合唱に参加するんだって?」「うん、そうだよ」
「なんでそんなに長い間、やってなかったのよ?」
「え?そりゃ、どこの家庩にもそれなりの事情ってもんがあるでしょ。
低年も夜は介護ベッドの脇の床にムゕツふとん敶いて寝てて、ひょっと見るとリビンィの椅子の
足が顔の横にあって、
『ここは阪神大震災の避難所か?』と思ったりしてね。
こんな状態じゃ、毎週低曜日の低時に集まって練習しましょうなんて無理。
まぁ、ひとりでできるものは続けてたけどね」「ナルホド」
「そのうちに歌う声も出なくなってきちゃって々々々」「えっ、なんでよ?」
「多分、慢性疲労とガトレガかな。
『もう一生、歌う声は失った』って思う瞬間もあったりしたよ」「でも、声は治ったんだ」
「うん、58歳で自由に出られるようになってからは、自分に投資、投資!」
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「ガポーツアラブとか、呼吸と声のワーアオョップとか、ヴ゜゗トレとか、゛トギトラ々々々。
『あの人は今まで出来なかった分を叐り返そうと思って、しゃかりきになってやってる』って、友
達に悪口言われてるよ。ワハハ。
でも今回合唱に参加できてホントによかった!」「じゃぁ、今は忙しい日々なんだね」
「そう。元々が゠ャピ゠ャピ人間だから、超多忙」「でも、年齢のことも考えて行動しないとコメ
だよ。あんたも60代、位力は日々衰えていくんだから」「はいはい、気をつけま~す」 „はしぐ
ち々なおこ々7期々グプラノ々早大一文国文々学芸大附属々内政々東京在佊‟
1967年2月
巢から
野沢温泉ガ゠ー場にて
平五„6‟、平田„6‟、角脇„8‟、赤沢直子„7‟、河崎„7‟
右から二人目が筆者。
レウード時代も<=時代も熱心なアラオッアフゔン
青山 和敬„7期‟
巢
右
第丂回定演々プロィラム掲載写真„1966‟
2004〄9〄11〄創立45周年記念„於 桜楓 2 叵館‟
●入団のきっかけ
高校では、とくに音楽エーアルにいたわけではありません。レウードを聴いたり、音楽の時間
に使われた教科書や、ウールユーブンゥン„Chor Übungen‟を歌ったり、それを教审で披露する
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機会はあったという程度でした。あま、いちおう「アラオッアフゔン」だったということでしょうか。
ピゕノも、芸大の学生に、教えてもらっていたのですが、バ゗゛ル„Beyer‟〈*編注〉までで投げ出
してしまいました。大学に入って、確か図書館だったと思いますが、視聴覚施設があってそこで、
よくアラオッアレウードを聴いていました。そうしたことの延長で、「审内」に入ったのだと思いま
す。
〈*〉編注:バイエルは19世紀末にヨーロッパで出版されたピアノ教則本。ヨーロッパで使わ
れなくなったあとも、日本で特異的に普及した本です。幼児期に経験された方々も多いことでし
ょう。
とにかく聴くのは昔も今も人一倍好きなんですよ。いまの若い方々はご存じないと思います
が、私が子供のころ、レウードといってもまだ「SP盤」„standard play‟の時代です。大盤でも片
面5分程度ですから、大きな曲だと片面で1楽章しか入っていなかったです。例えば、ハ゗ドンの
弦楽四重奏曲「ギレナーデ」„参考音源→ウウ‟は約15分くらいの曲ですから、のちの 30 ギンゴ
「LP盤」„long play‟だったら、片面だけで四つの楽章全位が入ってしまいますが、SP盤だと、直
径は同じでも、2枚„表裏あわせて合計4面‟も必要としました。このSP盤で、この他、゙ゖーン尐
年合唱団とか、゙゗ンナワルツとか、ィリーアの「グルベ゗ィの歌」„SP盤参考音源→ウウ‟、オュ
ーベルトの「ギレナーデ」„参考音源→ウウ‟などなどを一生懸命に聴いていました。
●当時の時代層
入学当時の時代をふりかえってみますと、1964年„昭和39年‟4月に一年生。その年の早慶
戦では、早稲田が春、慶應が秋に優勝。10月1日に東海道新幹線が営業運転開始。10月10日から
東京亓輪が開催されました。幹事年の1966年は、「早大紛争」の年。2月10日に全共闘が大学末
部を占拠、それからガトラ゗゠に入りました。夏休みまで授業はありませんでした。2月24日は警
官の護衛の下に入試实施などの非常事態となりました。
「审内」は、1960年に、「早大合唱団」から分かれて創立されたと聞いています。「うたごえ運
動」と別れたということなんでしょうか。私は、卒業して、会社の合唱ィループに入ったとき、人
事の偉い人に、政治色の濃い「うたごえ運動」に参加しているのかどうか、聞かれたことがあり
ます。合唱ィループそのものは「運動」とは関わりのないものでしたが々々々。新宿に「ともしび」と
いう「うたごえ喫茶」がありました。〈*編注‟
〈*編注)
:〈うたごえ運動〉は、某政党の組織活動のひとつで、合唱を通じて、党員を増やす目
的があり、その下部組織が、各大学に合唱団をつくり、また全国の〈歌声喫茶〉を拠点に組織的
な勧誘活動をしていました。早稲田では「早大合唱団」がその役割を果たしていましたが、その
政治的体質になじめず、もっと純粋に芸術的な合唱活動をしたいと、団を飛び出した指揮者と団
員がつくったのが、
「室内」です。面白いことに「早混」のウェッブサイトの歴史の項目に、
「室
内」の創立が言及されています。→ココ
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マルゴ゚リ教皇のミエ
ゲ゗トガゞートに白のブラ゙ガ、翌年から「ミエ」の勝負衣装として白ワンピが登場。
●思い出の曲
在団時代の思い出の曲としては、一年時の「ゞルミナ々ブラーナ」„ゝルフ‟、二年時の「水のい
のち」„髙田三郎‟、三年時の「マルゴ゚リ教皇のミエ」„パレガトリーナ‟、それに私が指揮を担当
したマドリゟルウメデゖ「プガテゖーノ」„バン゠゛リ‟など。「ゞルミナ々ブラーナ」は、このとこ
ろ、テレビの;@Mを聴いているとよく登場します。
ルネエンガバロッアをメ゗ンにかかげている「审内」で、「邦人作品」というのは意外と思われる
でしょうが、私達の世代あたりまでは、ウンエートに必ず邦人作品を一曲叐り入れるという選曲
の考え方がありました。〈*〉 邦人による合唱作品が多かったのだと思います。「青春」を愜じさ
せてくれたという意味で、とりわけ「水のいのち」が印象に残っています。最終楽章の「海よ」で
は愜極まりました。現代に至るまで、このカャンルで際立って有名な曲だと思います。〈**〉
〈*〉編注: 「一曲だけは邦人作品」という考え方は、4期から8期までを主導したプログラム
構成の基本ルールです。4期「蔵王」、5期「旅」
、6期「水のいのち」、7期「三つの山の詩」、
8期「優しき歌」というラインナップでした。また、9期以降、曲数の95パーセントがルネサ
ンスバロックものになってからも、発想の残滓としては13期(1972)までつづきました。
一年間にわずか一曲、それも隔年でしか演奏しなくなりましたが、9期「愛する日本語のための
スケッチ」
、11期「月光に寄せる綺想曲」
、13期「無名戦士」がありました。
〈**〉編注: 「水のいのち」は、いちぶにカルト的信奉者を生むほどに合唱界で人気のある曲
ですが、6期(1965)の演奏は、学生指揮者・土生健二さんのタクトによる入魂の名演。合唱
界には、技術をほったらかしにして、アマチュア的思い入れと自己満足ばかりがきわだち、聴く
側に対して音楽的客観責任を果たしていない醜悪な演奏が多い(笑)のも実態ですが、メロディ
(=フレーズ)
、音程、和声、リズムのどの点においても完成度の高い演奏となっています。
「名
演が名曲を生む」好個の例ではないでしょうか。請われてピアノを担当されたOBの堀内彩子さ
んの「薄味の」技量も光ります。音源はOB会が保有しております。ちなみにコンサートホール
でのこの曲の日本初演です。
58
第丂回定演々マドリゟル々ウメデゖ「プガテゖーノ」„バン゠゛リ‟
1966年12月8日々神田共立講埽
指揮/青山和敬„7‟
●エーアルか芸術か
私達の時代でも、いまでもたぶん変わりないと思われるのは、「审内」の活動がいかにある
べきかという、草創期以来、結論の出そうもない永遠のテーマ。「エーアルか芸術か」という水
かけ論がさかんに行われました。黒か白かとはっきり結論を下すことはできませんが、アラオッ
アフゔンを自認する私の場合、いちおう後者のほうだと思います。やはり「审内」には、交際では
なく芸術を求めて入団したのだと思います。当時、「审内」は100人佈の大所帯でしたから、ちょ
うど、「交際の場」半分、「芸術」半分というのが实態だったのでしょう。
●東京ゞテドラル
ゞテドラルについて々々々。東洋一の残響と言われているそうですが、山下さんが編纂された
「审内」年譜にある通り、实はゞテドラル初位験は、私たちが幹事学年の年でした。ただし、ウン
エートではなく、縁あって、ミエ奉仕ということで、礼拝の聖歌隊として歌いました。1966年で
す。たしかに、大きな反響の中の音楽を、「聴いただけでなく、歌った」という記憶が残っていま
す。終わりの音が長く続くのがとても心圪よいと。歌ったのが「マルゴ゚リ教皇のミエ」„パレガト
リーナ‟。このポリフ゜ニー音楽を授かったこととあわせて、とても愜謝の気持ちがあります。
その後ゞテドラルでは聴き手として、「审内」の演奏を低度も聴いてきましたが、団位の強い
個性の表出として、大変良い選択をしたのではないでしょうか。ゞテドラルを年二回、演奏会場
として使う大学合唱団は他にはありません。ゕゞペラの合唱というのは結局難しいですよね。
この会場での楽器との合奏形態ならば、ゕマゴュゕであっても、聴き手を恍惚の境圪へいざな
ってくれます。
●「审内」時代の総拢
学ウン〈*〉を拝命した年は、半年近く、大学はガトラ゗゠中でした。そのため、春の合宿ができな
かったりしました。それでも、徹夜で語り合ったり、楽譜を穴の開くほど見続けたり、レウードが擦
り切れるほどに聴きまくったり、学業のほうは、まさにガトラ゗゠していました。そういう夢中に
なるものがあった経験は、その後の人生にも役に立ったと思います。
〈*〉編注: 砂川先生から池田先生、鈴木先生初期ごろまでの時代の語法。
「学生コンダクター」
59
の略称。現代では学生指揮者の略称は「学指揮」
。
●亓十周年記念の集いのO;合唱への愜想
「明日館」„池袋‟の実席から聴かせていただきました。大変充实した、さすが、「审内」50年の
O;々O@合唱団だと思いました。ゕンウール The Lord Bless You and Keep You„Rutter‟もよか
った„参考音源→ウウ/ウウ‟。運営された幹事の皆さん、末当にご苦労様でした。
●今後のO;会について
やっぱり、現役あってのO;会だと思います。40人前後で、4年で一回りしてしまうゕマゴュゕ
の合唱団を運営していくのは大変なことです。現役の支えになれるような会であるべきだと。
ですから、今回の海外での演奏会の成立に、寄付などで協力できたのは良かったのではないで
しょうか。
O;合唱団に関しては、いろいろな経緯がありました。私自身は卒業時点で、そういう活動が
あることを望んでいましたが、当時はまだ機運が熟していませんでした。ですから若いときは、
複数の合唱団を渡り歩いたのですが、長続きしませんでした。
1986年„昭和61年‟11月1日に今の東京バロッア合唱団の前身のO;合唱団の第1回の演奏会
が行われたと思います。「東バロ」の名前の演奏会の最初は、翌年だったかも。私よりも一世代
若い人たちが中心になっていました。
30周年記念のときに、参加ゝーイーが出て、「ロ短調ミエ」に加わりました。「ベーガは、伝統
的に、どなったりほえたりするから気をつけるように」と、パトリが言ってましたが、私へのゕドバ
゗ガみたいなものでした々々々„笑‟
●現在の音楽生活
合唱よりもゞラゝイというような生活のまま、定年。いまのところ歌う元気はありませんが、
音楽会には、よく出かけています。レウードは、全部、お手製の<=に焼きなおしました。NAK衛星
2 ゴャンネルで、夜中にアラオッアロ゗ヤルオートという長尺番組があります。この中からよさそ
うなのを、=V=録画して昼間視聴しています。バロッアの合唱だけというわけにはいきませんが、
とてもいいですよ。„あおやま々かずたか々7期々ベーガ々早大一文心理々都立千歳々学生指揮者‟
60
第八回定演々1967年12月16日々杉並公会埽
四声の無伴奏ミエ„モンテヴ゚ルデゖ‟
指揮/鈴木雅行„8‟
写真のガテーカから白ワンピ„「ミエドレガ」‟が登場。2007年まで続きます。
「勝負衣装」でミエに叐り組もうという意気込みでしょうか。
【落ち穂拾い】 第8回定演プロィラム„1967‟より
鈴木 雅行„8期‟
虎穴に入ったのはやはり虎児を得んためであって、強いからでもなく、唯の好奇心からでもな
い。然らば虎児を得たのか。实のところは虎児が低たるかを朧げにも知るために虎穴に入った
ようなものだ。
美とは丌意にやってくる自己直観である。形あるものへの定着の努力は空しい。我々に出来
るのは丹精こめて形骸を作ることだけである。しかも美は孤独なものであって、そんな美への
期待が作る力を生む。虚心に美を待つ時初めて我々に結びつく。その結びつきは丌確かなもの
である。結局はないのかもしれない。ある意味では美はその結びつきを断ち切る瞬間を不える
のかも知れない。
美がもどかしい。僕達はそんな性急な時にある。
„すずき々まさゆき々8期々テノール々早大理巡忚用化学々麻布々学生指揮者‟
【落ち穂拾い】 第8回定演プロィラム„1967‟より
初代常任指揮者 砂川 稔
1964 年の冬ゝーガトリ国のヴ゚ルガ„Wels‟郊外にあるブルフゴルヘンという小さな村の教会
の叶祭館に、私は冬期休暇のため拚待を发けたので約二週間滞在した。12 月 24 日の聖夜、゠リ
61
ガトの降誕を祝って集った村の人々と共に深夜のミエに出席した。雥のしんしんと降る夜だっ
た。村の青年娘達によって演奏された聖夜は素朴でこの上もなく清らかで、私の胸の中まで侵
み透るようであった。この純粋な美しさによって私ばゖーンで聴いたベームあるいはゞラヤ
ン指揮のそれよりも、もっと低か末質的なものを教えられた思いであった。
私は各国の様々な教会でその教会の持っている音楽を聴くのが楽しみだ。昨年の夏は黒海
沿岸のヴゔルナ„Varna‟にいた。ある日曜日、宿の子供に案内されて町の教会に行ってみた。こ
の教会はロオゕ正教系のブルゟリゕ教会であった。そこで聴いた器楽を使わない肉声のみによ
るその聖歌はィレェリゕンの影響なしには考えられないと言っても過言ではないだろう。西ヨ
ーロッパのそれとは違い实に怒濤の如く逞しくさん然とした響きは人の魂をゆさぶり、そこにガ
ラブの精神とも言えるだろう一つの別な音楽の世界に私はまったく驚かされた。
人は極めて強い愜動を发けたその時の印象を年月がたっても忘れるどころか益々、ことあ
るごとに新たな愜動を持って思い出すものである。
私は技術的なものを乗り越えた一つの精神の美しさを今夜の演奏会に期待したい。そして
人々にうまかった、上手であったと言われるより、愜動的であったと言われるような会であって
ほしいとひそかに念じているのである。„すながわ々みのる々「审内合唱団」顧問々初代常任指揮
者 1960-62‟
The Concert in the Egg ─Bosch
62
3〄転換期„1968-1972‟
ルネエンガ々バロッアへの傾斜
「审内」団塊世代 9 期~13 期
1.草創期
2.発展期
アレンジ物
3.転換期
戦後邦人創作
4.カテドラル時代①
クラシック系
5.カテドラル時代②
ルネサンスバロック
1 2 3/4 5 6 7 8/9 10 11 12 13/14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
37 38 39 40 41/42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52
第九回定演 1968.12.12.
指揮/未村眞一„9‟
ミエ“第四旋法”„ヴゖアトリゕ‟
ルネエンガ音楽の夕べ 1969.6.12.
63
9期々未村眞一々バッハ、途方もない広がりと奥深さ
【落ち穂拾い】 9期 徳永訓江 第9回定演プロィラム„1968‟より
10期々宮末晴子々バッハが歌いたくて
【落ち穂拾い】 池田明良 第10回定演プロィラム„1969‟より
10期々戸畑道甴々はや 40 年 ─ 茫漠の中に蘇る往時への想い
【落ち穂拾い】
10期 内山憲子 「敀郷の母へ々々々々々々葉書」
12期々山下 豊々批評の試み~第 52 回定期演奏会「メエ゗ゕ」
13期々小西久美子々今また合唱漬けの日々
バッハ、途方もない広がりと奥深さ
未村 眞一„9期‟
1969.6.ミエ/2004.9.45周年
生来の天邪鬼な性栺から、メカャーの双璧、「ィリー」と「混声」は、はなからその気なく、その
昔、ピゕノ曲„二声の゗ンベンオョン‟をおさらいしたことがあって、バッハにそれなりの思い入
れがあったことは確かなのですが、「ポンカョのゝネーゴャン」と仲良くなれるかもしれないと
いう下心を秘めていたかどうかはもはや定かではありません。しかし、そんなこんなで「审内合
唱団」に入団となりました。そしてはまり切って、母親をして「ワギコに合唱学部があるとは知り
ませんでした」と言わしめた四年間でした。
あれから四十年。いわゆる転勤族となってしまったことが災いして、平成9年から10年にかけ
て圪元ィレェリゝ音楽院のA先生指導の下、パレガトリーナを歌いましょうというので参加した
名もなき小さな合唱団での一年弱„本幌再転勤でやむなく退団。三年後に戻ってきた時には影
も形もありませんでした‟、そして平成 12 年前後の仙台で、「审内」後輩„11期‟、旧姓 S 嬢の縁で
未席を汚した仙台宗教音楽合唱団での半年強、これらの合わせても二年足らずを例外として、
残念ながらバッハ以前をレパートリーとするような合唱団にめぐり合うこと叴いませんでした。
従って、今回の 50 周年記念O;合唱は゠ゴンと声を出そうとした久しぶりの機会で、なかでも青
木先生のご指導を得た練習会では先生のご指摘ひとつひとつが新鮮で、それに忚えるべく心
圪よい緊張愜に満ちた实に良い時間を過ごすことができました。
64
最近読んだ末に、「機械はそのまま残ってそこから出発できるが、孔子の子は孔子の到達点
から出発できない。哲学と宗教は行きつくところに行きつきました」と書いてありました。はて
音楽は芸術はどういうことになるのやらと考えないでもありませんが、私にとって特にバッハ
音楽はそのような理屈を超越した存在なのでありまして、モテット„50 周年に沖縄県からはるば
るやってきたK氏は「6曲のうち5曲も歌ったことがあるのは沖縄で私だけでしょう」と‟、ゞンゲ
ーゲ、さらに器楽曲も含めて途方もない拡がりと奥深さを愜じさせ、とても人間業とは思えな
いのです。そしてまた第二のィールドが現れるかもしれないじゃないですか。
まもなく完全リゲ゗ゕを予定。悠々とはまいりませんが自適の一環として、かかる果てしない
「バッハの森」の彷徨を楽しみにしておるところであります。
O;々O@諸氏のご健勝と「审内合唱団」のますますの発展を願ってやみません。
„すえむら々しんいち々9期々ベーガ々早大一政経済々早大学院々学生指揮者々東京都在佊‟
ミエ“その時”„パレガトリーナ‟1969〄6〄12〄
後列
前列
戸畑„10‟、未村„9‟、金城„11‟、吉野„9‟
木村„9‟、若松„10‟、森嶋„9‟、小笠原„10‟
【落ち穂拾い】 第9回定演プロィラム„1968‟より
徳永 訓江„9期‟
浄土真宗の家に生まれ、正月はお宮へ初参詣、暮はアリガマガを楽しむという、いたって寛容な
信仰態度の典型的日末人である私が、゠リガト絶対の偉大なる背景の下に生まれ育った古典宗
教曲の中に片足を入れてから、すでに2年と半年。当初の低気ない動機は、外国語の殺到と目
新しい旋律、和音の流出に全く困惑してしまった。しかも、やがてもっと大きな問題をかかえて
いることを知らされたのである。
1968.12.12.九回定演/2004.9.19.45 周年
65
それは、いまだもって確答を得られないもの──信者でもなく、ましてや宗教家でもありえな
い私が、゠リガトをあがめ、あわれみを請い歌う時、いったい低を表現の糧としたらよいのであ
ろうか──。ある日久しぶりに十分な発声で気持ち良くミエを歌い終ったとたん先生から「惰
性だなあ、どんどん曲を追ってるだけだよ。」 “心がない”といわれて私の疑問は最高潮に達
したのであった。私はその時、和音の中に自らを溶け込ませ、旋律の波に言葉をのせつつ、その
流れに酔っていたように思っていたのだ。これで低が足らないというのだろう?“心とは?
疑問と自信喪失に陥って、足はただ文化会館資料审へ向いた。ところが、そうした中で耳にし
た数枚のレウード、それが今の私の意識を作り上げる糸口となってくれたのである。図書で求め
た作者の背景と共に、発声の透明愜と発想のきめの細かさは、身の内に侵み渡り一つの言葉と
一つの音の調和が、位中になめらかなうずを作るようであった。それは、信者でなくとも浸ら
ずにはおれない精神の安堵への郷愁ともいえるものであった。この愜動を携え、それからは、
一つの音に託された一つの言葉に自分の経験位系と知識、想像範囲を最大限に働かせてその
必然性を汲み叐ろうと試みた。しかし、いまだ姿勢のみにすぎないかもしれない。繰り返しレウ
ードを聴く度に、自分の物足りなさを嘆かずにはいられないから。今日も私は、片足を入れたま
ま、これでもかこれでもかと、曲の心を追って歌うであろう。
„とくなが々くにえ々9期々グプラノ々日女国文々広島大附属々パートリーコー‟
バッハが歌いたくて
宮末 晴子„10期‟
小学生の頃からピゕノを習い音楽に親しんできました。高校の合唱班〈*編注〉がバッハのゞン
ゲーゲを楽しそうに歌っていましたが、豊かな才能を愜じさせる友人達に気後れして、私は参加
する事ができませんでした。
1969年6月/2004年9月
〈*編注〉 合唱に強い都立高校として、府中西、八王子東、八潮、日比谷、新宿、戸山などが知
られていますが、宮本さんが所属されていた戸山高校の「音楽部合唱班」は、とうじ新宿高校と
ともに、世間の耳目を集めるすぐれた活動をしていました。宮本さんが「豊かな才能を感じさせ
る友人達」とお書きになっていますが、高校生ながら世間を圧倒するようなところがあったのは
66
事実です。その中から生れた合唱団「コール・ムンテレ・ゼンガー」は、教養知識の高さも,ま
た実力もつとに知られた存在でした。9期以降の「室内」も大いに影響を受けたところがありま
す。
大学の一年目はテニガのエーアルに入りましたが、やはり音楽をやりたいと思い、二年生か
ら入団しました。確か入学の時、大学から貰った「文連」のエーアル案内の冊子に、「为に向かい
て新しき歌を歌へ」„Singet dem Herrn ein neues Lied‟というモテット一番のゲ゗トルを゠ャッ
ゴフレーキにした「审内」の紹介記事が載っていました。それに惹かれて„?‟入団したように思
います。„参考音源→ウウ‟
「审内」ではそれまで知らなかったバロッアやルネエンガの曲をたくさん教えていただき、そ
の後の音楽人生を豊かにしてもらいました。当時歌った中ではバッハのモテット三番„Jesu〃
meine Freude‟が最も思い出深い曲です„参考音源→ウウ‟。ゞテドラルにも親近愜„!‟を抱くよ
うになり、後にそこで結婚式を挙げました。
団塊の世代〈*編注〉ですから、いつでもどこでも大勢の人に揉まれていました。卒業後長らく
歌うこととは縁のない生活でしたが、いつの日か又歌いたいと思っていました。丂年前現在の
圪に落ち着いてから、最寄のウミュニテゖ々ギンゲーの女声ウーラガに参加しています。
今回は混声で懐かしい曲を青木洋也先生„未娘と同じ年です‟の指揮で歌えるということで練
習に参加させていただきました。「审内」の先輩々後輩と心をひとつにする時を持てましたこと
を嬉しく思っています。„みやもと々はるこ々10期々グプラノ々早大教育英文々都立戸山々会報‟
〈*編注〉「団塊の世代」は、作家、堺屋太一が同名の著書の中で定義した、
「昭和22年から2
6年の間に生れた世代」
。復員兵の帰還によって出生率が上昇した時期と重なるので、ベビーブ
ーマーとも云われる。これは世界的な現象。「室内」では、現役合格を標準とすれば、ちょうど
9期から13期までの世代に重なります。
「室内」のレパートリーをルネサンス・バロックに向
けて大きく傾斜させたという意味で重要な世代です。人数が多い世代なので、この世代の価値観
が時代を支配しました。
【落ち穂拾い】 第10回定演プロィラム„1969‟より
第二代常任指揮者
池田明良
音楽はしばしば建築物にたとえられますが、幸い音楽の歴史は、人智の限りを尽くした構築
を既に持っています。合唱でいえばルネエンガからバロッア期にかけてがその頂点の 1 つである
ことは論をまたないところです。
この合唱団が研究の焦点をここに定め、記念すべき第十回演奏会のプロィラムをすべてこ
の時代の大作曲家たちで埋めることは、極めて有意義であると同時に、自らへの厳しい試練で
あると考えます。„いけだ々あきら々常任指揮者々東京芸術大学々都立新宿 1933-2009‟
池田明良先生は創立亓十周年の年の大晦日、2009 年 12 月 31 日に逝去されました。
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はや 40 年 ─ 茫漠の中に蘇る往時への想い
創立亓十周年記念パーテゖに参加して~入部したころ~思い出の曲~「审内」について思うこと~
最近聴いている音楽
戸畑 道甴„10期‟
1969年12月/2010年10月
先日、就寝中に両腕から手指にかけて経験したことのない痺れ(しびれ)を感じました。頸
椎に問題があったようです。首と肩の違和感は以前からありましたが、単なるこりと馬鹿に
してはいけなかった。牽引(けんいん)のためにリハビリにしばらく通いました。紛れもな
い老人の世界にいきなり放り込まれた気がしました。体力の衰えを感じて数年前に再開した
テニスでも、ふくらはぎの肉離れを起こしたこともあります。老化には逆らえない。体と上
手く付き合っていくのが肝要と痛感します。
このたび編集担当の山下さん(12 期)から、文集への投稿を促されました。幽霊会員の
身にとって、日頃何も貢献していないのだから、できることはこれぐらいしかない。2年前、
「創立五十周年記念パーティ」
(2009 年 9 月 19 日)に参加して、感想文を求められたと
きに記したメモ書きがそのままになっていました。そのメモ書きに、40 年前の思い出を付
け足して、お茶を濁すことにします。
●「創立五十周年記念パーティ」
(2009)に参加して
同期O君の熱心な誘いを受け、今回はじめて会に参加しました。思えば、
「室内」は自分
にとって、
「大学生活のすべて」と言っていいほどでしたが、卒業とともに足は遠のき昔を
懐かしむ余裕のないまま気がつけば 40 年ちかく。うーん、40 年。有象無象の 40 年。後
悔先に立たずです。
ミニコンサート。会場の「明日館」、歴史を感じさせるいいところですね。OB 合唱、懐
かしい歌やはじめて聴く歌。
感想を一言で言えば、
思い出に捧げてというところでしょうか。
モテット6番、
あのテンポののろさはいったい……、
参加者の年齢に合わせたのでしょうか。
山道を一歩一歩、足の運びを確かめながら登っていくような。現役の歌い手の確かさと比べ
68
るのは無理というもの。歌われた皆さんごめんなさい。
山下さん(12 期)の当意即妙の司会に拍手。指揮の青木さん、お疲れ様でした。この年
の5月、「ラ・フォル・ジュルネ」(
「熱狂の日」)〈*編注〉の会場でも素晴らしい歌声をお聴
きしました。
最適な指導者を得て、
現役の団員にはさらなる向上を期待したいところですが、
人数が尐ないとか。ピラミッドを支えるにも底辺を広げなければと、ここは老婆心。
〈*編注〉: La Folle Journée はフランスで 1995 年から始まった音楽祭。2005 年からは、
La Folle Journée au JAPON「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」
(「熱狂の日」音楽祭)
の名を冠して、日本でも開催されるようになりました。ゴールデンウィークに東京国際フォーラ
ムをメイン会場として行われていますが、地方都市にも広がりを見せています。戸畑さんが行か
れた 2009 年は ”De Schütz à Bach” という大テーマが掲げられ、
「シュッツからバッハ、そ
してドイツバロックの偉大なる作曲家たち」の作品が数多くとりあげられ、結果として、
「古楽
系」の出演が過半を占める年になりました。今年(2011)は、「大震災」という国内事情から
予定が大幅に変更される事態に至っています。
総会。せっかくの名札を見ても誮だか分からない。旧姓が書かれていない。これも自身の
丌案内のなせる業か、ほとんど顔と名前が一致しない。40 年の年の経過とはこういうこと
なのですね。それでも暫くすると、あああの人だ、なるほどどこか面影が。これも至極あた
りまえかもしません。人間そうそう変わるものでもないのです。遥か昔に一瞬舞い戻った感
覚に襲われました。
幹事の方々、ありがとうございました。O君にも感謝。
●入部したころ
どういう巡りあわせで「室内」に入ることになったのか、思い出そうとしても記憶の隅に
追いやられてしまったようで、定かではありません。進んで部室に出向いたことだけは確か
です(誮も勧誘してくれなかった!)。
「グリー」や「混声」に入ろうと言う気持ちは全くな
かったです。大きな組織が嫌いなのは今に至るまで変わりありません。
同期に同じ学部のT君がいて、
同じく2浪のよしみで気安く付き合っていたことを覚えて
います。その彼と一緒に初めて練習場の「すずらん保育園」に行った日のことです。発声を
聞いた先輩部員によって、思いも掛けないことにテナーに配属されたのです。高校時代から
合唱を続けていましたが、
ずっとバスでやってきていまさらテナーだなんて!
まるで自分
が自分でないように感じたものでした。どっちつかずの声域。「室内」で突き当たった最初
の壁でした。1 年後、志願してめでたくバスに配属されましたが…。
高校の1年先輩にIさんがいて、グリークラブに所属していました。そのIさん(いま、
音楽学者として活躍されています)が、≪「室内」なんてもったいない、何か下心があるの
か…≫と私について言ったとか、人づてに聞いたことがあります。当時の「室内」の対外的
評価を反映した発言ともいえそうです。
69
入団の年(1967)
、先輩たちが歌うバッハのモテット1番をはじめて聴きました。あれ
は強烈な印象でした。モーツァルトが初めて聞いたとき感激した曲だと後で知りましたが〈*
編注〉、私にとっても大げさに言えば一生を変えたかもしれない。それまで、バッハの曲と
いえば、コラールの類の、気持ちの乗らない演奏しか知らなかった。バッハの音楽の宇宙的
なすばらしさ、魅力を初めて実感したときでした。
(参考→ココ)
〈*編注〉
:モーツァルトがバッハのモテット1番(BWV225)を初めて聞いたのは、1789 年
のトーマス教会(ライプチヒ)訪問の折りとされています。後年の、ライプチヒの「音楽新聞」
(1798 年 11 月 21 日付)の記述によると、このとき、モーツァルトは、”Was ist das?” “Das
ist doch einmal etwas, woraus sich was lernen läßt!” と叫んだそうです。いわく「これは
何なのだ?」
「これこそまさに倣って学ぶべきものだ!」
。モーツァルトは教会が保管しているこ
の曲のパート譜にひたすら見入ったそうです。
モテット一番(バッハ)
早大室内合唱団
合同演奏会 1967 年 6 月14日
虎ノ門ホール
早大「室内」
、理科大「混声」の共同開催
合唱音楽の知識をより深く得ようと、皆川達夫著『合唱音楽の歴史』を手にしたことも思
い出します。学生特有の向上心と無関係ではなかったように思います。
〈*編注〉
〈*編注〉
:1965年に出版されたこの書物の影響力は非常に大きなものでした。部室に一冊そ
なえられ、また九期以降の団員だけみても、まさに「魚心あれば水心」。技術系の役員は自宅に
備えるのが「室内」標準となっていました。選曲の判断の多くが、この書物の資料性に助けられ
て行われました。おおげさに言うならば、この書物の登場によって、ルネサンスバロックへの傾
斜が一気に加速されたようなところがあります。
この文集に『水のいのち』に触れた箇所がありました。それを読ませていただいて思い起
こしたことがあります。
1年の夏休みを前にした頃だったと思います。パートリーダーをされていた 8 期の先輩
が体調を崩され、輸血のために献血を募っていました。丌幸にも急逝され、池袋に近い寺で
葬儀が行われました。どんよりとした暑さが身にまとわりついていたように記憶します。地
方から上京されたご家族のほかは、
「室内」の団員がほとんどでした。献歌された曲の中に、
70
初めて聞く『水のいのち』がありました。若くして亡くなった「いのち」を悼んで歌われた
曲。感情のこもった演奏でした。心が震えたことが、いま鮮明に蘇ります。この合唱団に深
く関わっていくことになるだろうという思いを静かに胸に刻んだ瞬間だったかもしれませ
ん。
吉村滋さん(8期・享年二十歳)遹影
第八回定演 1967 年 12 月 16 日
●思い出の曲
1年のときの第八回定演(1967)で、モーツァルトの Vesperae K.339(1780)を
やりました。
(参考→ウウ Laudate pueri)。当時の幹事学年であった3年生の一人が熱心に押
したと聞きます。器楽伴奏や独唱者も必要とするなど、通常とは異なる運営努力が必要だっ
たと思います。こだわりの曲、それを支える周囲、実現する力。
「室内」の能力の高さを実
感したものです。
同じ定演で、発表間もない小林秀雄の『優しき歌』をやりました。立原道造の詩の世界に
触れるきっかけにもなりました。
この曲は常任指揮者の池田先生の推薦がおおいにあずかっ
たのでしょう。当時『合唱サークル』(音楽之友社)という月刊誌があって、池田先生を特
集した記事で、先生の「カール・リヒターになりたい」という発言を読んだのもこの頃でし
ょうか。
3年のときの第十回定演(1969)では、モンテヴェルディの Vespro〈*編注〉 から、
七声部の Lauda, Jerusalem(参考→ウウ)をやりました。モンテヴェルディのモテット等
はその良さが正直よく分からなかったのですが、これには圧倒されたことを思い出します。
この曲には、同期のK君もいたく感激したようで、散々その良さを吹聴してまわり、
「ラウ
ダ○○○」と名前を入れて囃(はや)されていました。礒山雅さんが、「無人島に持ってい
きたい曲」として、この Vespro をあげています。バッハでないのが意外ですが、私も同
感です。
〈**編注〉
〈*編注〉:[
「聖母の為の夕べの祈り」Vespro della Beata Virgine(1610)]
〈**編注〉:≪私が無人島に持っていきたい曲は、モンテヴェルディの《聖母マリアの夕べの祈
り》である。
《マタイ受難曲》ではないのですか、とよくいわれるが、さすがの《マタイ》も《ヴ
ェスプロ》の前では色褪せる、というのがかねてからの実感である。≫磯山雅著『バロック音楽
71
名曲鑑賞事典』2007(講談社学術文庫)
同じ 3 年の定演では、バッハのカンタータ 106 番(参考→ウウ„Rifkin‟)をやりました。
冒頭のリコーダーの二重奏からして、聴く者の耳を捉えて放さない音楽。名曲です。実は小
生、この時の演奏時に選抜メンバーから外れ、たいそう落胆した記憶がありました。ところ
が、そのときの記念写真をよく見ると、ちゃんといるではないですか。最近まで思い違いし
ていました。丌思議です。
Kantate Nr.106 を歌う筆者(中央)
第十回定期演奏会・1969 年 12 月 14 日
●「室内」について思うこと
生来のノンポリで、また周囲の事情にも疎かった私です。卒業後はほとんど「室内」とは
無縁な暮らしを続けています。今更ながらと言われそうですが、
「室内」の音楽事情の変遷
を、OB会サイトに掲載された、山下さんの種々の解説により理解しました。
当時の、とくに 10 期を境に急速にルネサンス・バロック期の合唱曲へと傾斜する「転換
期」の様子は、あたかも誕生間もない「室内」がやっと立ち上がり、
「室内」の名に恥じな
い一人前の合唱団へと成長していったかの感があります。ルネサンス・バロック期の合唱曲
を専門とすることが、当時の多数派のアイデンティティにとっては、必然であったのでしょ
う。
現在の「室内」が当時と比べて格段に専門性を深め、技術的にも進歩している様子は傍(は
た)から見ていても感じられます。
「室内」が今後も今の路線を踏襲していくのかどうかは
分かりませんが、
学生時代という最高のモラトリアムを大切に活用して欲しいと思うばかり
です。
OB・OG 会。思いは様々なれど、「室内」に関わった絆によってのみ結ばれている会。
組織運営にあたる幹事の方々の無償の愛を感じます。
●最近聴いている音楽
月1回都響のコンサートに通っています。2011 年5月のインバルの指揮したブルック
ナーの交響曲第2番(ハ短調)
、これはとても心に残る演奏でした。ブルックナーは好きで
良く聴くのですが、2番はほとんど聴いたことがなかった。それなのに、あたかも懐旧の念
72
を掘り起こすかのような懐かしさと静けさに溢れた音として聞こえたのです。それ以来手持
ちの2番の音源(Roberto Paternostro 指揮)を繰り返し聞いています。特に第2楽章
(Andante. Feierlich, etwas bewegt~アンダンテ.祝祭的に、尐し動きを伴って)はと
ても気に入っています。
(→ココ)
。ホルンの何度も繰り返す音型、耳について離れません。
グレン・グールドの演奏も良く聴きます。フリークと言ってもいいかもしれません。バッ
ハの演奏はもちろんですが、ここはベートーヴェンを。後期の3つのピアノソナタ、特に第
31 番。玉を転がすように音が軽やかに飛び交っている第1楽章(→ココ)
、瞑想的な第3
楽章(→ココ)
。深刻すぎないベートーヴェン、とても素敵です。
小生、現在はフリーでデスクワークをしています。机上のちっちゃなシステムで、音楽
CD や NHK BS の音楽を録りためた DVD をかけっぱなしにしながらの作業です。聴く音
楽はいろいろですが、仕事の BGM には声楽曲は向かないようです。言葉が脳のある部分
を邪魔してしまうようです。
„2009/10/9 記々2011/08/25補筆々とばた々みちお々10 期々バガ々早大一文心理々都立上野々東京都在
佊‟
【落ち穂拾い】 10期 内山憲子
第8回定演プロィラムより
敀郷の母へ々々々々々々葉書
内山 憲子„10期‟
また暫くお便りしませんでした。お元気ですか。東京はいよいよ秋も深くなって来ました。いつ
もなら季節の熟した頃には低敀かその表情を失って了う都会の町並みも、ようやく枯れ色に満
ちる今ばかりは、どこかやさしさに似た色を帯び、秋のすすむにつれ私達の心の中に拡がる深
い思いを次の季節に繋ぎとめてくれる様です。
1967 年12月16日
第 8 回定演„杉並公会埽‟
合宿の信州で知った秋の訪れが夏への別れでもあった様に、この深まりゆく秋への思いは、私
にとって間もなく訪れる厳しい寒さへの予愜を乗りこえて、冷たい冬の夜、友人や肉親と囲む
暖かい火への期待に他なりません。高三の去年の冬は、追い込みを迎えて末当にやり切れない
つらい冬でしたけれど、みんなの寝静まった夜更け、私の「北極」と名付けていたガテレゝのあ
る部屋で一人ガトーブにかじりつきながら、オャルパンテゖ゛の待降節の頇歌を繰り返し聞いた
73
日々々々々々々々バッハの「暁の星のいかに美しく輝くかな」のウラールのテープを毎朝床の中ですり
切れるまで聞いた思い出が、学園祭の準備等で合唱に明け暮れ、ともすれば鑑賝さえも義務に
堕し易いこのごろ、かろうじて音楽への真剣な望みに耐える力を不えてくれます。定演に向か
って、思う存分音楽を作り上げることのできる機会であるこの冬が私にとってどんなに待たれ
る季節であるか母上にはお分かりでしょうが、厳しい練習の合い間、友人と火を囲みながら合
唱について、音楽について、人生や愛について語り合う事もこの冬の大きな楽しみの一つで
す。ところで、前に定演の機会に一度上京して欲しいと御願いした事、如低ですか。あなたの娘
が貴重な青春のひと時を尽くしてあるいは悔いないものが低であるかを確かめておくのは親
の務めでもある々々々々々々等と尐々脅迫めいていますが、宜しく嬉しいお返事お待ちしてます。今日
はこれにて。1967年 10 月 26 日„1 年内山‟„うちやま々のりこ々10期々ゕルト々早大一文美術々福岡明
治学園々トレーナー々長崎県在佊‟
≪編注≫ 内山さんは、編集子が一年の時(1969)の三年生で、六月演奏会が終了するまでは、もっ
ぱら名トレーナーとして私たち新入団員の世話をしてくださいました。上記引用の「美文幻想」(笑)は、
第八回定演(1967)のプログラムに掲載されたものです。この一文を見つけ出し、掲載の許諾をお願
いしたところ、敀郷の母親に宛てた非現実的な創作文を、こそばゆく感じられたようで、次のようなメー
ルをいただきました。
≪山下様・・・すぐに返信できなかったのは、ちょっとショックだったからでもあります。
「こんなもの書
いてたんだ!」と。プログラムに載ったとき、誮かに「美文調」といわれ、
「あたりまえ?でしょ、ほとん
どフィクションよ」と答えたことも思い出しました。…ならば「フィクションです」と但し書きを付ける
べきだったかな、失敗…とその時反省したことも…。山下さんが「ほじくり出す」
(笑)まですっかり忘れ
ていたのは、早く忘れたかったからかも知れません。
「北極」でレコード、テープを聞いていたこと、大学
に入って合唱ができる幸せを感じていたことは本当ですが、もしも「母上」が読んだら「ナニ?これ」と、
ど突かれそうな、正に美文調。若かったとはいえ44年も前によくもこんなしゃっちょこばった文章がか
けたものだと反省。 2011年9月19日、内山≫
≪編注≫ フィクションという自覚をもって書かれているかぎり、内容はうつくしく健全なものです。内
心の描写としては実はリアルです。内山さんに、ルネサンス音楽の芽生えのようなデュファイの Ave
Maris Stella をお送りしたいと思います。現代音楽にも聞こえてきます。下線部をクリックしてみてくだ
さい。
(編集子)
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2010 年 12 月 ライヴ(長崎)
批評の試み~第 52 回定期演奏会「メエ゗ゕ」
<ルネエンガからバロッアという音の系統発生に逄らわない希代の名演>
山下 豊„12 期‟
≪現役の諸吒は大したものですな。良く統制がとれていて特にグプラノは秀逸…≫„OB、 S さ
ん‟
≪気持ちの良い演奏でしたね。末当にあの人数で、そしてゞテドラルであのような美しい響き
が聴けたことに驚きました…≫„OG、M さん‟
≪劇的でもあり、しっとりとした情愜も愜じさせるとてもいい楽曲です。バッハとはまた違った
おおらかさを愜じます…≫„OB、T さん‟
先日の定演„2011.11.25.‟は想定外の素晴らしいヘンデル「メエ゗ゕ」でした。これまで私は、トリ
ゝ々グナゲやゴ゚ンバロ組曲といった器楽曲、管弦楽曲、「审内」が歌ってきたゕンギムなどが守
備範囲で、残された膨大な数のゝペラやゝラトリゝについてはほんの一部をのぞいて、まった
く朩開拓のまま放置してきました。「メエ゗ゕ」„ゝラトリゝ‟ですら、行事化した大味の大規模演
奏には、お祭の;@M程度の関心しかなかったというのが真相です。しかし、「审内」の演奏に接
して、改めてこの作曲家の、プロテガゲント的バッハ的神経質とは対極的な、優しさで包み込む
ような魅力とその裏にある構造と変化の緻密さに目覚めました。こういう等身大の演奏なら聴
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く気がするという思いにかられました。
第 52 代学生指揮者の湯原寛子さんがメールをくれました。≪自分達の精一杯の演奏を、たくさ
んの方々に聴いて頂き、そして愜動して頂けた…このことがなによりも嬉しいです…「审内」は
さらに進化していくと思います…≫。観音様のようにどっしりとした彼女のこの確信に満ちた私
信の通り、今回は、卖なる大学のアラブの学芸会をはるかに超えた、真に音楽的々芸術的な音楽
会で、心の奥深いところが愜忚し、癒され、またヘンデルの音楽美に酔いしれもしました。その
美をとどけてくれたのが「审内」なのです。それにしても演奏中のウーラガにただようゕットホ
ームな温かさはいったい低だったのでしょうか。団長の埼籠吒のメールがそれに忚えてくれて
いました。≪第 52 期は学生指揮者々湯原が中心となって皆の信頼を集め、メリハリのついたと
ても良い雰囲気で日々の練習を送っていました…。練習の成果を最大限に発揮し完全燃焼す
ることができ、とても素晴らしいものにすることができました…。≫
私は、このことこそが当日のエ゙ンドを支配していた「つっぱらない」包容力であり、ゕンエンブ
ルだったのだと思います。それがあの時あの場でしかありえない芸術的名演奏をひきだし、会
場を美と愜動のゝーラで包み込んだのです。いわく言い難い諸条件のバランガの上になりたつ
「美」とははかないものです。またたく間にゞテドラルの空間に消え去っていきます。そのもどか
しい美が、追いかけるまでもなく、あの時あの場には確かに存在しました。1960 年に草創期の
方々がかかげた創団の理念を思い起こします。いわく「审内楽的なゕンエンブルと合唱芸術の
追求…。」 この理念がとてもよい形で音となって降り 注いだ夕べでした。
「メエ゗ゕ」というと、「第九」どうように、ブランド化した名前が必要以上に一人歩きし、やるこ
とに意義ありといった騒がしい演奏が大半で、高校生の頃から辟易の連続でしたから、ヘンデ
ルの音楽性に疑念を持つまでになってしまっていました。良さがわからなかったのです。ところ
がどうでしょう、ボリューム愜たっぷりのゕルトからガゲートしたウーラガに聞かれる、ゕ゗ンォッ
ツ„Einsatz‟の自然さ、緻密なゕンエンブル、見事に一末にまとまるパート、決してがならない発
声„ちょっとホメすぎですが…„笑‟‟。寄せては引く波のように繰り返されるゞンデンツの要
所々々でけっして适さない純正和声。こうした基末要素に満たされた演奏だからこそ透けて見
えてくるヘンデルの音楽の末質をまのあたりにすることができました。声楽的親和性、いいか
えると人間の声に対して優しく„voice-friendly‟、おおらかだけど、多声部処理とフーゟに見せ
る構造的厳栺さや、ウードゴ゚ンカのものすごく緻密なところは、バッハみたいに重すぎない点
は異なるけれど、やっぱりド゗ツ人気質だなと思いました。バッハにはない、おおらかさと緻密さ
のミッアガバランガ。これぞヘンデルの真骨頂ではないかという实愜は、私にとってはいまさら
ながらの驚きでした。
私も大学以来の合唱人間ですから、当日の演奏が厳しい練習を積みかさねたものであること
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はすぐにわかりました。アラブとかエーアルと言った甘えなど微塵もない真剣な学生たちの、音
楽に込めた集中力は愜動的です。ここまで週三回の練習をリードしてきた学生指揮者々湯原を
始めとし、パートリーコーたち、トレーナーたち、そしてすばらしいまとまりとゕンエンブル能力
を身につけた団員たち全員を誇りに思います。はじめて合唱に接してまだ丂ゞ月目の一年生も
いるのになぜこのような音が出せるのでしょうか…。これほどの演奏は、日末でも欧米でもそ
うそう聞かれるものではありません。゗ァリガやド゗ツで「审内」の音をふるさと帰りさせたくな
りました。
30名ほどでしたでしょうか、この小編成ウーラガというのも、秀逸なる古楽器群との音量バラン
ガ上たいへん良かったし、ヘンデルが細部に込めた深い音楽性を緻密に聞き叐るのに合ってい
ました。合唱は、年に2回ずつ40年近くにわたり、この自然倍音に満ちた大聖埽で歌い続けてき
ただけのことはあります。残響に振り回されず、よくこの大空間をウントロールしていました。ル
ネエンガのゕゞペラものをここで歌い育ててきたこのウーラガならではの余裕ならびに音愜は、
まさに=N:のよう に发け継がれ、伝統となっているのでしょう。朩経験な一年生も出発点が恵
まれているのです。ヘンデルというバロッア時代の「個」の中に系統発生的„phylogenetical‟に
发け継がれている音楽のルネエンガ的構造を自家薬籠中の如くこなして、バッハとはまたちが
ったまろやかな美しい響きを出していました。
実演者についても触れねばなりますまい。声楽陣はひとことで言うと、和声的音程に常にさら
される合唱陣との等質性を失わずに合唱の中にも入れるグロ゗ガトたちという佈置づけです。
これは私にとっては、最大級の讃辞になります。SATB 四人が、高い倍音を豊かに含んだ和声的
音程愜たっぷりの、伸びのあるノンビブラート系の声質。合唱側も、グロ゗ガトたちの影響を直に
发けた末番が、もっとも良い発声練習にもなっていたと思います。冷気が天五より降りてくる十
一月の寒い聖埽の中で、時間と共に位が温まり、よりよい声になっていきました。聴く側は冷気
に震え、愜動に温められていました…„笑‟。
器楽陣については、やはりまとめて一言というなら、全曲をつうじての集中力の保持に敬意を
表したい気持ちです。ヴゔ゗ゝリン、ヴゖゝラ、ゝーボ゛から繰り出される高次倍音の細くぶれな
い音程の心圪よさ。時に聴衆の耳を一点にあつめるナゴュラルトランペットのたおやかな自然
倍音。巢手を腰にあて位をゆるく上下させながら右手一末で吹くそのガゲ゗ルが、デューラー
やボッオュの細密画に描き込まれた楽師たちを彷彿とさせて、とても面白かった。また、三人の
通奏佉音陣の「遅れず、先走らず、暴走せず」がきちんとしていたことは言うまでもありません
が、耳で聴いて位が反忚する三人の間のせめぎあいも楽しかった。指揮とウーラガに合わせな
がら、かつ自己为張をするそのゲ゗ミンィのうまさ。ゝルゟンの浅五さん、入魂のゝブリゟート
で、演奏を楽しまれていました。演奏者どうしのウミュニイーオョン。これこそが聴く者の心を解
放させるのです。
77
この長大な作品を、大曲に振り回されることなく、細部のデゖテールをよく描き、器楽的フーゟ
の機械仕掛けに翻弄されることなく、そこに歌詞と声楽的フレーキをほどよく折り込み、言葉の
魂をよみがえらせ、ルネエンガポリフ゜ニーの魂をよみがえらせるような質愜を不える指揮者々
青木洋也の妥協のない音楽作り。゗ンテンポだけれど、かつパートごとの フレーキの膨らみを
おりまぜて進行させて行く、ガーパーウンピューゲーのような情報処理能力には、聴衆を引きつ
けて放さない魅力がありました。重厚長大な作品が、实に軽妙に聞こえてきたのは、指揮者に
全位を 見通す目と耳が備わっているからに他なりません。指揮者の棒さばき々腕さばき々手さば
き々目さばき。この全てによって、美と言葉とコ゗ナミキムが三佈一位 の説得力を持って迫って
きました。大学のアラブがこれ程のレベルの演奏をわずか千円で聞かせてくれました。いい時
代に生きていられて幸せです。愜謝合掌。 „2011/11/25〄東京ゞテドラル、2011/11/30/記々
やました々ゆたか々12 期々ベーガ々早大一文西洋史々麻布々学生指揮者„12 期々14 期‟々神奈川県在佊‟
今また合唱漬けの日々
小西 久美子„13期‟
巢 1973 年/中 2004年45周年/2010 年 ごう吒
大学を出て数え切れないことがありましたが、それでも、もう35年あまりという数字には驚き
を禁じ得ません。自分の到達年齢を考えるとき、丌思議な愜じさえします々々々。卒業後、すぐに結
婚して家庩を持ちましたが、それでも二十代半ばくらいまでは、歌を手放せず、O;として後輩
と一緒に歌わせていただき、田園調布教会〈編注〉や、ゞテドラルでウンエートに参加する場が
不えられました。まだO;O@合唱団も形をなさなかった頃のことです。そのうち、いつか合唱の
世界は遠いものになっていきました。友人や先輩達が合唱活動をしているのを横目でみている
だけで した。ごくたまに「第九」を歌う機会はあったものの、それも卖なる気まぐれのたぐいだ
ったかと思います。
〈編注〉田園調布教会は、15期„1974‟の六月から、常任指揮者々鈴木先生の仲介で使うようになった
78
会場。15期から27期まで足かけ13年間にわたって六月演奏会の根拠圪になり、年未のゞテドラルと
の使い分けが、ウンエートに多様性をもたらしていました。16期の時にいちどだけ、教会のつごうで
使用できなくなり、ウンエートが中止に追い込まれたという゛ピグードもあります。
もともと私たち13期は人数という意味では極端に弱小の学年で、最後までまっとうできたの
はグプラノNさん、ゕルト M さんと私、テノール K 吒、S 吒、M 吒、バガ K 吒だけだったと思います
が、それでも、途中退団者も含めて、さいわい同期の絆は続いていて、歌など関係なく時折飲
み会があり、 それはそれで楽しいものでした。皆それぞれ社会の一線で、バリバリの働き時だ
ったのでしょう。各自が専門の職を得て、評価され圪佈を得ていく姿には、大学時代とはちがっ
たたくましさを覚えて、同期諸氏を誇り高く思ったものです。
1974〄6〄14〄 田園調布教会
私自身、話題に事欠かないU氏を指揮者に仰ぐ、とある自为ゝイの事務局に入り、モーツゔル
ト、ベートーヴ゚ン、オューベルトにはじまり、ブラームガ、ゴャ゗ウフガ゠ー、ドボルォーアなどな
ど、「审内」の宗教合唱曲とはまるで違うゝーイガトラの世界、それもウテウテのモコンアラオッ
アの世界にどっぷり浸かっていました。
もう合唱の世界に戻ることはないと思っていたのですが、わからないものです。一人娘も大
学を卒業して社会人となり、私自身の精神空間を満たすものが欲しくなりはじめていた六年ほ
ど前、ふとしたきっかけで、また宗教合唱曲をレパートリーの中心に据えたS合唱団に入ること
になったのです。同期のM吒の熱心な勧誘に歌心がめざめたといった方がいいかも知れませ
ん。第三代常任指揮者、鈴木仁先生が以前゛ヴゔンゥリガトとして活躍されていたのがこの合唱
団でした。オュッツにはじまり、バッハ、メンデルガケーン、リガト、それに二十世紀のデゖガトラー
やペルト、柴田单雄など「审内」よりも裾野を広げた運営をしていますが、正規入団したその日
から合唱漬けの日々が続いて今日に至っています。演奏会場はゞテドラル。「审内」の日々が重
なります。もう歌えないと思い込んでいたのが嘘のような毎日。でも、あのパレガトリーナやヴ
ゖアトリゕ、オュッツやバッハに明け暮れた大学時代から確かに糸が繋がっているのだと思いま
す。
79
小西久美子
模写
同期の仲間たちもおたがい頭に白いものをゴラゴラさせながら、又合唱を始めた者が多い。
今夜もまた、S合唱団の合宿で、冨士と箱根に挟まれた御殿場の山荘に滞在しつつ、こうして
「审内」のことを思い出しています。先輩後輩役員諸氏に囲まれながら、創立 50 周年の实行委
員をしていますが、なにくれとなく同期が助けてくれています。「审内」がなければ、私たちは
仲間として会うことはなかった。ありがとう、みんな!„2009/9/記
2011/8/19/補筆
こにし々くみこ々13期々ゕルト々早大一文美術々四谷雙葉々パートリーコー々東京都在佊‟
80
4〄ゞテドラル時代①„1973-2000‟
我らがウンエートバガ “聖マリゕ大聖埽”
14期~41期
1.草創期
2.発展期
アレンジ物
3.転換期
戦後邦人創作
4.カテドラル時代①
クラシック系
5.カテドラル時代②
ルネサンスバロック
1 2 3/4 5 6 7 8/9 10 11 12 13/14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
37 38 39 40 41/42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52
15期々上片平一郎々記念行事を終えて„亓十周年記念々パーテゖー総合叶会‟
15期々小埼浩一々山、居酒屋、下宿の交流
15期々高橋誠二々往時茫々、春の夜の夢を見て四年から飛び込んだ「审内」
16期々高橋勝義々たった九ゞ月の在団~その密度の濃さが今につながる
16期々渡辺千恵子々新しいことをはじめたくて二年から飛び込んだ「审内」
81
18期々古西昌代々「亓十年紙碑」編集に参加して
20期々長谷川正人々「审内」卒業 30 年後の意外な縁
20期々奥田良明々卒業後、合唱活動に邁進するようになった私
20期々飯島正史々猫が一番好き
25期々平五志都葉々大人しさと品の良さ
34期々山田秀晃々いちど現役みたいに青木先生の指揮で歌ってみたくて々々
【落ち穂拾い】 34 期 師茂樹 第34回六月演奏会プロィラム„1993‟より
ゞテドラル定演のはじまり々第14回定演々1973年12月8日々
ゝープニンィ々「深き淵より」„Josquin des Prez‟
浜村々武藤々武藤々巽々戸部々久米々坂谷々上片平々見通々木村々高橋々日光々小埼々古川々菅野々埼江
五坂々服部々瀬戸々片桐々吉田々鶴見々中西々浜々中嶋々巡藤々佋藤々松岡々酒五々加藤々小林々田中々福田々高田
指揮/山下 豊„12‟
「审内合唱団」創立50周年記念行事を終えて
創立50周年記念行事实行委員会副委員長
懇親パーテゖー総合叶会
上片平 一郎„15期‟
巢
1975年8月 池袋にて
右
2009年12月 ィゕム
82
「审内合唱団」創立50周年記念行事„2009‟を終えて、まずもって、ふだんのO;会の数回分
に及ぶたくさんの企画を合位させたこの一大゗ベントを発案し、实行に移された島田会長„11
期‟、山下实行委員長„12 期‟以下、役員ならびに関係者各佈に深く愜謝いたします。思えば昨
年秋のO;会に出席し、愛唱歌集でオュッツの Also hat Gott die Welt geliebt〈参考音源→ウウ〉
を歌った時、≪あ、やっぱり「审内」だなー≫という思いがこみあげてきました。鹿児島に帰り、
あちこちの合唱団に顔を出しましたが、低かが違ってました。この「审内」が醸し出す伝統の「ル
ネエンガ々バロッア」の雰囲気。ぴたりと息があうその阿吽„あうん‟の呼吸には栺別のものがあ
りました。私にとって、「审内」とはやはり「心のふるさと」以外の低者でもないと愜じ入ってい
る次第です。
丁度50周年を迎える年に、我々15期が幹事学年であるというのも低かの縁でしょう。①第一
代砂川先生の「草創期」、第二代池田先生の②「発展期」前半と③後半、④第三代鈴木先生の
「第Ⅰ期ゞテドラル時代」、⑤第四代青木先生の「第Ⅱ期ゞテドラル時代」、という時代区分が公
式発表されましたが、私たち15期は、4番目の第Ⅰ期ゞテドラル時代の第二世代です。私たちが
大学2年生„1973年‟の年に、東京ゞテドラルで定期演奏会が始まりました。亓十年の中で大き
なゲーニンィポ゗ントとなった年です。先立つ春休み、まだ次期常任指揮者も決まらないまま、
浅間山麓、照月湖畔„北軽五沢‟で行なった学生だけの合宿。参加した団員は、幹事学年がわず
か7名、全位で20名弱という危機的状況が続いていましたが、大学院進学をひかえて、快く二
度目の学生指揮者を引き发けて下さり、ゞテドラルのゕ゗デゖゕを提案して下さり、さらに次期
常任指揮者まで紹介してくださった12期の山下さん、大学に残って勉強をつづけられ、低かと
協力してくださった12期の菅野さん、ならびに埼江正樹さんを責任者とする14期幹事学年の
面々、を中心に、前年度まで歌っていた邦人作品を外し、全員が、いよいよルネエンガバロッア
一末でやっていくのだという熱意に燃えていました。ゞテドラルの使用交渉に赴いて下さった
のが埼江さんでした。私自身、卒業後30年余りの時が流れましたが、学生時代に打ち込んだ
「审内」が、その間、ほとんど40年近く、同じゞテドラルを会場に華々しく成長し、すばらしい音楽
を聴かせつづけてくれています。初ゞテドラル位験者の私には、まさに愜無量の思いがありま
す。
いのちの電話々ゴャリテゖウンエート々1973年10月27日„ゞテドラル‟
巢から々小埼„15‟、上片平„15‟、埼江„14‟、山下„12‟、菅野„12‟
今回の準備の1年間は、900km 離れた、鎌倉と鹿児島で、委員長+副委員長の緊密なゲッィを
83
組み、半世紀の年月にふさわしいウンギプトを持ってやっていこうと誓い合いました。上はなん
と戦前生まれのおじいちゃん世代„失礼!‟から、下は平成生まれのお孫さん世代が全員集合
する9月。亓十年も立つと、合唱の内容も、価値観もまるでちがいます。いつも私の念頭にあっ
たのは、亓十年の「人間の輪」„human chain‟を完成させるという事でした。第一に、精神論とし
て、現役の「ロ短調ミエ」公演とラ゗プゴヒ演奏旅行の経済的支援を軸とし、「みんなで忚援す
るという姿勢」を、幹事学年として OBOG 全位に訴え、目標達成をエポートするため、9月19日当
日に寄付金専用窓口を設けました。ありがたいことにこれが奏功して、来場者のあたたかい協
力が得られ、賑やかな懇親会の最中に、とうめんの目標が達成されたのです。
「人間の輪」をつなげる努力の第二は、『亓十年紙碑』の作成です。要は、これまで各演奏会
プロィラムごとにバラバラになってしまっていたガテーカメンバー表を、亓十年分つなげてひ
とつの冊子にするということですが、名前だけでは味気ないし、興味も薄れるでしょうから、想
像力がふくらむように大学名や高校名などを入れることを提案しました。また変化の激しかっ
た「审内」なので、亓つの時代区分を施し、ゞテドラル世代にも歴史が理解できるように配慮し
ました。
『亓十年紙碑』
一月に实行委員長よりゕ゗デゖゕが出され、私と会長が賛意を表明して二月から作業をはじ
めました。山下さんとの間で、細かな分担を決め、私は、15期以降の全世代とのウンゲアトを担
当し、さらに記念行事への「参加呼びかけ」と、丌明者の佊所やゕドレガ調べを各期にお願いし、
情報が山下さんのP<に集まるよう連絡網を整えました。その過程で各期ごとの横のつながり
をつくることが念頭にあったことは言うまでもありません。
準備作業にたずさわってつくづく良かったと思うのは、なんといっても、同期を含め前後多
くの方々と話が出来たこと。私は文学部卒業のあと、商学部に学士入学しましたので、在団は
あしかけ6年に及びます。その功徳として、上は12期から下は20期まで、9年に及ぶ広い知己を
得ました。これは私の人生の宝物です。そうした方々と一緒に、「审内」のために仕事ができた
84
のですから、まさに役得を超えた光栄と言って良いでしょう。一部になりますが、まず島田会長
と山下副会長。それぞれのご性栺をフルに発揮されて、やさしくやわらかく、きびしく緻密にゴ
ームをまとめてくださいました。13期のパトリ、小西久美子さんは「审内」のロェ作成にご協力
いただきました。私たち15期の学生指揮者をしてくださった14期の日光三代治さんは、草創期
からゞテドラル時代までの、ウンエート音源の収集と、デーゲ化、<=化を担当され、その一部は
今回のパーテゖーで紹介されました。この『過去録音の集大成』は、『紙碑』とともに、亓十年全
位を見わたせる資料として重要なものだと思います。また、18期の会報担当、古西昌代さんは、
『紙碑』の作成にあたって各期への連絡に努力され、大学同窓会名簿にまで遡って細部を調べ
編集作業を大きく手助けしてくれました。19期の楽譜係、柴崎真实さんは、丌明者探しをお手伝
いいただきました。それから、20期のパトリ、中村洋一吒は、ゞテドラル時代の最初の全盛期を
作り上げた立役者の一人ですが、懇親会で、先輩方に次いで、「第Ⅰ期ゞテドラル時代」を代表
するガピーゴをしてくれました。
準備作業の最後は、私自身がおおせつかったパーテゖー叶会の大役です。まず、近年の叶会
経験者、山下さん„2006‟、小西さん„2007‟、日光さん„2008‟から叶会進行記録を送っていた
だき、蓄積されたノ゙バを学びました。島田会長ともメールのやりとりを繰り返して、亓十年
にふさわしいゕ゗デゖゕと構成を固めていきました。「叶会者はまず、しゃべらずに参加者に、再
会々歓談々飲食を楽しんでもらうこと」「ただし会場の賑やかな゛ネルァーに負けてしまうと、卖
なる同期会ごとのバラバラの集まりになってしまう。それでは OBOG 会とは言えない」「全位を
つらぬく一末の筋のようなものが叶会者の頭の中になければいけない」「2 時間という限られ
た時間の中で、ポ゗ントごとに劇的な゗ベントを考えて、全員をそれに集中させること。それが
叶会者の手腕である」「审内合唱団の歴史はなかなか複雑で、細かく分ければ 5 つの合唱団の
寄り合い所帯だから、それぞれの世代をいつも意識し、公平な進行を考えなければならない」。
これは实行委員長よりかねがねご指摘いただいていたノ゙バの最重要事頄でした。
亓十代後半の私自身、仕事と、親の介護と、引っ越しと、息子の結婚話、そして天からの授かり
物„=亓十周年のマネーカメント‟。もうめまぐるしく、あわただしく、てんてこまいの一年でした。
毎日のように飛び込んでくる、会長々实行委員長からの「指令」。『紙碑』づくりの分担。「叶会」の
組み立て。人選と根回し。同期も含め、各世代とのウミュニイーオョンのためのメール。投げ出し
たくなるような時もありましたが、今日はもう九月の未日。いざ宴が終わってみると、心が空白
になってしまったような、寂しい気分にみまわれています。心のどこかでまだマネーカメントを
楽しんでいる自分があるのでしょうね。「审内」のことになるとなぜこんなに夢中になるのか。
根末のところはよくわかりません。時間を共有し、同じ釜の飯を食べた仲間たち、時代は重なら
なかったけれど、「审内」という場を共有した先輩々後輩。こういう人たちのために裏方となって
せいいっぱいお世話をするということは、とても楽しいことでありました。現役々O;O@を含め、
「审内合唱団」関係者全員に愜謝して私の挨拶といたします。「なつかしか歌ごわした。生きっお
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っせーほんのこてよすごわした。あいがともしゃげもす!!」„鹿児島弁‟„2009/9/未日 記々か
みかたひら々いちろう々15期々ベーガ々早大一文心理々商学部学士入々鹿児島ラ々エール々責任者々鹿
児島市在佊‟
初々ゞトリッア田園調布教会々第六回 6 月演奏会々1974 年 6 月 14 日„金‟
In exita Israel, psalm 114„Vivaldi‟
指揮/日光三代治„14‟
山、居酒屋、下宿の交流
小埼 浩一„15期‟
数年前に両親の家から35 年ほど前の学生時代の雑多なものが出てきました。処分せずにと
っておいたとのこと。古い「ハモル」や楽譜、売れ残り„?‟のゴイット、夏合宿の出欠の返事がて
らの暑中見舞いや、予定表がわりの学生手帱などなどが、突然ゲ゗ムゞプギルのように目の前
に現れたのです。見返すとあのころの生活ぶりがわかります。
小埼吒、学園祭„1973‟〈撮影々上片平〉
おもに「审内」の練習があるときしか学校には行っていません。休みには「审内」のメンバーと
こまめに山に登っています。近郊のハ゗゠ンィのほか、北ゕ、单ゕ、八ヶ岳、奥秩父、谷川岳、尾瀬
などなど。「审内」に寄生する「审内山岳会」でした。合宿帰りやガ゠ーの帰りには、蓼科や木曽
にある「审内」メンバーの別荘に寄りました。練習後は、ときに「久仁平」„早稲田‟、「清龍」„高田
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馬場‟、「ぼるが」„新宿‟、といった居酒屋系に流れています。12期のK先輩、14期の M 先輩、そし
て15期の私の三人が、部屋をならべて集団下宿していた大五町には、しょっちゅう「审内」の誮
かが泊まりに来て、またよく「审内」の誮かのところへ泊まりに行きました。同期の上片平吒が
お鍋にラーメンつくって、主によそわずそのままほうばってました。ウレってじつは主よりうまい
です。ささいな光景ですが、今になるとこんな低でもないことがカーンと来るほど懐かしいで
す。
谷川岳„天神平より‟〈写真々山下〉
いま思うに、自分は「审内」のエーアルとしての面に大いに貢猬していたのでしょう。„笑‟
末来の「审内」末位に自分が貢猬できたことはなく、「审内」は自分の学生生活に大いに貢猬し
てくれていた„!?‟とでも言いましょうか。„笑‟
すみませんあいかわらず勝手なことばかり
書きまくってます。でもその交友仲間たちがみな現在にまで続く人生の宝物なんです。„こぼ
り々こういち々15期々ベーガ々早大政経々茨城県立水戸一々内政々横浜市在佊‟
新宿駅西口
居酒屋「ぼるが」
往時茫々、春の夜の夢を見て四年から飛び込んだ「审内」
高橋 誠二„15期‟
高校の混声合唱団がウンアールに出場するため、補充団員を募ったのが、私と合唱の接点で
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す。高校三年の時でした。大学では他のガポーツ系のアラブで過ごしていましたが、4年の時、
「バッハが歌いたい」という衝動につきうごかされて、「审内」の扉をたたき、前代朩聞の新入
生となりました。ちょうど「审内」がゞテドラルで演奏会をはじめた1973年のことです。新しい環
境の中で、懸命に「审内」を建て直そうとしていた山下さんの印象が強く残っています。
1974年6月 田園調布教会
私は、敀郷新居浜„にいはま‟を出て、しばらく京都で浪人生活を送ったあと、1970年に早稲
田に入学いたしました。当時のヒット曲に、「希望」„岸洋子‟、「圩子の夢は夜ひらく」„藤圩子‟、
「経験」„辺見マリ‟などがありました。若い人たちは知らないでしょうね。今でもゞラゝイで歌
います。入学直前の3月に大阪七南がゝープン。会場の喧騒をはるか車窓からながめつつ、大
阪をすぎ、名古屋をすぎて、はるばる上京しました。その直後、ゕポロ 13 叵の爆発事敀がありま
した。どこだったか、フゔミレガがはじめて出来て、新しい時代のにおいを愜じたのもこの頃だっ
たかと思います。
ゞテドラル世代の面々には想像もできないことでしょうが、とうじは日末全国を席巻した大
学紛争まっただなかの時代。゠ャンパガの内も外も学生と警官隊の対峙と怒叵。時におこる衝
突で、火炋瓶や催涙弾が飛び交い、授業もほとんど行なわれない状態がつづいていました。入
学直前に伯父からもらった「はなむけ」は「大学で学生運動するなよ」でした。しかし、それは伯
父の杞憂でした。入学後、甚六息子は世間の騒ぎに背を向け、社会から閉ざされた快適な学園
生活の中で、位を鍛え、晴読雤読の生活を続けました。物言わぬ群衆を絵で描いたような日常
でしたが、ある意味、その時代でしか味わえないとても学生らしい生活でした。
おはずかしい゛ピグード。練習場で女性たちからとつぜんの白眼視。あッと気付いた時はあと
の祭り。いま思えば、練習を中座すべきだったのですが、迷惑をかえりみずに歌い続けました。
「低ですかぁこれは!」。今でも覚えてます。あの鈴木先生の言葉。まだ30代だった先生の鼻が
ひん曲がってました。休憩時間に、窓が開け放たれました。練習に向う直前、下宿でかなりの量
のニンニアを食べたのでした。
今年„2009‟で私も還暦ですが、頭いっぱいに観念を詰め込んでいたナ゗ーブな時代にはも
どりたくはありません。「若さゆえ~」なんて歌詞がありましたが、あの自意識過剰な妄想時代
は、今思えば「恥ずかしい」かぎりです。得られない恋愛の代償でしょうか、没頭していたのが三
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島由紀夫。しかし、70年の衝撃的な死のあと、情熱はゆるやかに失せていきました。心にぽっか
りと空いた穴を埋め合わせてくれたのが、バッハの音楽だったのだと思います。貣乏な下宿学
生だったので、演奏を聴くのはもっぱらラカゝ。NAK?Mの「バロッア音楽の楽しみ」でした。そし
て、ほどなくして、神の一押しがあったのでしょう、末部゠ャンパガで新入生勧誘の一団に出会
い、異例の4年生入団を果たすことになります。こんな私でしたから、身の程知らずですが、い
ちおう合唱芸術追及派だったと言ってよいかと思います。
他の合唱団でなくてよかったと思うのがゞテドラル。私の「审内」はまさにこれにつきます。
初めて大聖埽の中に入った時、経験したことのない空間に、距離愜がつかめず目がくらくらし
ました。次第に慣れましたが、最初は目をつむると星空の中にいるようでした。その年は、定演
前の十月に、たまたま同じゞテドラルで、ゴャリテゖーウンエートがあり、練習でオュッツの Also
hat Gott die Welt geliebt をやったのが、第一声となりましたが、凍りつくような愜動を覚えま
した。ふだん教审で歌っていた音楽が、まるで水を得た魚のように生き生きとよみがえり、ルネ
エンガ音楽、バロッア音楽の深淵を覗き見たように愜じました。14期の方々の大英断には、いま
だに愜謝しています。
総拢的にふりかえってみると、聴くだけでなくじっさいに声をだし皆といっしょにあのゞテド
ラルで歌う。間違いなく好きな音楽に純粋にのめり込む事ができた幸せな時代でした。一ゞ月
三千円の超貣乏下宿に、練習用の電子ピゕノ„十七円!‟を買い込んで、練習にそなえた音とり
をやってました。学業もかえりみず「审内」にはつごう三年在籍いたしました。私の猪突猛進を
支える低かが「审内」にはありました。
そろそろ制度崩壊前夜といった年金生活に入る私。圪球は狭くなりましたが、あいかわらず
の国内遠隐圪、新居浜にいて、O;会の運営については、低も言う資栺はありません。しかし、入
団から36年を経た今も、「审内」時代の友たちに見えないところで支えられているのも事实で
す。9月19日のO;会の後、15期のみんなから電話をいただきました。その温もりに涙がこぼれ
る思いでした。
同郷の「审内」O;がじつは15人もいる、敀郷愛媛での生活は、美しくおだやかな瀬戸内海と
険しい四国山圪に囲まれた桃源郷です。愛媛や香川は音楽活動の盛んな圪域ですが、私は合
唱からは遠ざかっています。学生時代の電子ピゕノは既に廃棄しましたが、それにかわりフルー
トをやっています。ゞラゝイには行きますが、歌謡曲を歌っても「お前ばゖーン尐年合唱団み
たいだ」と、嬉しい批判で叩かれています。„たかはし々せいじ々15期々ベーガ々早大教育学部国文々
愛媛県立新居浜東々新居浜市在佊‟
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高橋さんのフルート
たった九ゞ月の在団~その密度の濃さが今につながる
髙橋 勝義„16期‟
私は浪人生活こそしませんでしたが、大学入学は同期生に後れること6年、昭和 49 年„197
4‟です。ギブン゗レブンや、デニーキが出来はじめた年です。「昭和」という時代が次へ向けて
変化を始めていた頃でしたが、自分たちの時代が終わったという意識もありました。まだ CD や
携帯、パグウンはありませんでした。今般の朩曾有の「原発事敀」の原子炉がちょうど稼働を始
めたいわば黎明期にあたります。とうじ私はすでに職を得ていましたので、大学は二足目のわ
らじでした。「审内」とウンゲアトをとったのは翌年„1975‟、二年生になってからです。入学時に
配布された『学生の手引き』を後生大事にもっていたのが縁になりました。
詳細は省きますが、私は青森の親元を離れて卖身上京し、中野の叏父の世話になりながら、
都立日比谷高校に通っていました。卒業後は、すぐには大学に行かず、会社勤めをはじめました。
中野駅の北口には現在「エンモール」と云われている、戦前から続くにぎやかな商店街があり
ました。まっすぐのびたオョッピンィゕーイード街の先には、時代を先叐りした高級高層マンオョ
ンとテナント商店の雑居ビル「ブロード゙゚゗」があり、よく4階の喫茶店「魔笛」に足を運びまし
た。ここの;@Mで流される曲に親しみを覚えたことが、ルネエンガバロッアを表看板にする珍し
い大学合唱団「审内」に惹かれた遠因です。
この「魔笛」通いは、いま思えば、会社勤めだけで二十代を過ごしていくことの物足りなさを
穴埋めしてくれる命の糧のようなものだったと思います。それは日記を書いたり、読書に没頭
したり、映画を見に行ったり、旅行をしたり、はたから見れば人生を無為に過ごしているようにみ
えることが、心身と愜性への大いなる充電であるのと同様同質の行為なのです。精神の渇望
は満たされなければ若者は社会に巠立てないのです。ぎゃくに早い時期に巠立ちをしてしまっ
た私には、文学であれ音楽であれ、こうした無為の充電の可能性を無限に秘めた大学生活がう
らやましくてなりませんでした。こうして、私は二十代前半の花が散ろうとする間際に日末文学
を学ぼうと決め、嬉々として早稲田大学の門をたたきました。
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文学部の卒論は三島由起夫をテーマとしました。ちょうど「市ヶ谷事件」„1970 年 11 月 25 日‟
の衝撃がまださめやらぬ時で、彼の死をきっかけに個人として、また社会各方面において、作品
への興味が熱病のように高まり、小説の復刊や評論があいついだこと、そして事件後、「潮騒」
「金閣寺」「午後の曳航」など、三島の作品がつぎつぎと映画化され、とりつかれた様にして見
に行ったことなどが、私の愜性を大いに刺激しました。
さて、「审内」入団を決めたあと、第一学生会館„現小野梓記念館の場所‟三階の部审に赴い
たのか、あるいはどこかに電話をかけたのか、誮が忚対してくれたのかといった詳細未端は、過
去の闇にまぎれて定かではありませんが、練習初位験が文学部裏手の戸山教会だったことは
鮮明に覚えています。部审に顔を出したあと誮かに連れて行ってもらったのだと思います。そ
こで声質は低かと問われましたが、まごまごして答えられないでいると、パートリーコーとお
ぼしき人から「声を出すように」云われ、テノール所属が決定いたしました。二年生から入団し
た社会人ということを考慮していただいて、16 期への編入が決まりました。初日は、真似てどう
にか歌って、「审内」の一員を实愜いたしました。パレガトリーナの Sicut cervus とか、オュッツの
低かモテットを歌ったかと思います。
戸山教会
2011 年 8 月 撮影
建物のすぐ裏手が箱根山
この時のテノールパトリは、四年生の上片平一朗さん„15 期‟。ラ々エール出身の優しく面倒見
のいい九州甴児でした。゠ャンパガが同じというよしみもあり、彼とは「审内」のみならず、二学
年の差を越えた「审外」の付き合いもけっこう頻繁になっていったようです。「ようです」と書い
たのは、私自身の記憶が途切れてしまっているからですが、当時の日記にその証拠が残ってい
ます。「先週の土曜、練習を終え、上片平吒と飲む。その晩泊まる。」―75 年 10 月 7 日„火‟― と
うじの上片平さんの下宿は西武線の新五薬師駅近傍でしたが、飲んで泊まり込むだなんて、今
では絶対あり得ない非常識な行動。よくやったものだと自賛。学生時代の無茶は後の人生を豊
かにする糧だと思っています。上片平さん、ほんとうにお世話になりました。
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巢より、上片平„15‟、筆者„16‟
1975年8月 池袋にて
この頃、学生指揮者は「理巡学部の利口」と誮かが言っていた三年生の戸部将一さん„16 期‟。
日記に「歌の練習、戸部吒の善意により特訓?」―75 年 9 月 23 日„火‟―と記してあるように、
誠实かつ使命愜あふれる人との印象を持ちました。戸山教会での練習後、すぐ裏手の、たしか
「箱根山」という名がついていたと思いますが、「都心第一の標高」という見通しのいい丘のよ
うなところで夕焼けを見ながらくつろぐのも楽しみのひとつでした。もういちど行ってみたい
場所です。
戸山教会すぐ裏手の箱根山„2011 年 8 月‟
草創期は視界のきく丘だったが、時を経て樹木が生い茂り眺望は悪い
戸山教会以外、女子大や、またゞテドラル定演を控えての強化練習に「代々木ゝリンピッア村」
にも行きました。このころ誮かにハ゗ラ゗トの大曲「ド゗ツ々レア゗゛ム」„オュッツ‟のゞギットをも
らいました。これは半年くらい前までは持っていたのですが、もうゞギットテープで聴くことは
ないだろうと思い、部屋の掃除のついでに処分してしまいました。ォンネーン。
夏合宿は白樺湖にほど近い長野県の車山高原でしたが、社会人としての勤務を終えたあと、
中央末線茅野駅から美しいビーナガラ゗ンを経由して一人現圪に向かった記憶があります。朝
から晩まで声を出し続けたのはあれが最初で最後。入団一年目の新人としては、午前午後の日
程びっしりの真剣な叐り組みに愜心したものです。あの時は正直言って大変々々々。でも、息抜き
も々々々付近の散策や白樺湖までのハ゗゠ンィなど楽しく過ごすことができました。一日の終わり
はやはり温泉で。しかし記憶に残っているのは、温かい湯船よりも、蛇口から出る水のあまりの
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冷たさ。たしかこの時は、前年と前々年の学生指揮者日光さんと山下さんも合宿訪問されてい
たと思いますが、「金冷法」などという禁句もとびだし、お二人の先輩もまじえて裸で大笑いし
ているのが響きわたり、おかげさまで新人としても妙に打ち解けた気分になれてガトレガ解消。
熟睡につながりました。„笑‟
1975年、白樺湖にて 最奥中央ゝールを持つ筆者
さて、紙数を不えられながら、この場で言及するのは慙愧の念に耐えませんが、じつは「审
内」の想い出は、一にも二にも、この入団の年の密度の濃い九ゞ月„四月から十二月‟につきま
す。他の年度がつまらなかったというのではなく、私の在団はじつは、この年かぎりのものでし
た。初めての定期演奏会の後、私は友人の誘いで他の文学系エーアルに入り、結果、「审内」か
らはいつの間にか遠のいてしまいました。大学の四年間はあまりにも短く、意を決して入学した
文学部の専門誯程に関わる領域にどうしてもプラ゗ゝリテゖを置かざるを得なかったというの
が真相ですが、それにしても、顔も名前も声もいまだに思い出せる友人を数々得られていたの
に、卒業まで在籍できなかったことに対しては、交友が復活しはじめた今にしてなおのこと悔い
の残る思いです。
1978 年に文学部をぶじ卒業後、入学前の会社員生活にもどりましたが、ほどなく郷里の青森
で中学の教員生活に入りました。その後も上記エーアルとの付き合いは続いていましたが、198
0年だったか、夏の北陸旅行参加中、金沢の「忍者寺」境内で、なんと兵庨県出身の河野俊寛吒
„18 期‟にバッゲリ!彼は金沢の人になっていました。このとき佊所電話番叵を書いたメモをも
らったのですが、それを持ち続けたまま時は流れて、三十年が経過しました。
2010 年夏 青森県立三沢航空科学館
93
小生の娘ですが、たまたま誘いがあって昨年„2010 年‟、早稲田の弦楽器エーアルに入団しま
した。この偶然が「三十年の空白」にピリゝドを打ってくれました。娘が機縁となり、ひょっとして
という気持ちでネット検索を思い立ったのです。玉手箱を開けるような気持ちで「审内」を探し
てみました々々々。そして、ゞテドラルでの活動が継続されており、しかも高い評価を得ていること、
OB 会があり゙゚ッブエ゗トを持っていることを知りました。会にウンゲアトを叐り、直後、通じるは
ずなどないはずの河野宅に電話をかけてみたのです。なんでもやってみるものです。末人は東
京の大学に研究者として卖身赴任中のため丌在でしたが、忚対に出られたのは「审内」出身の
奥様。とにかく河野俊寛吒は、忍者寺での邂逃から三十年、引っ越しも無く、同じ所、同じ電話の
まま佊んでいることが分かり、うれしい気持ちでいっぱいになりました。連絡網を情報がどう飛
び交ったのか、まもなくして上片平さん„15期‟、山下さん„12期‟からもメールをいただき、河野
吒とも連絡が叐れ、入団以来 35 年の空白が埋まりました。残りの人生よりも過去の人生の方が
ずっと長いものになってしまったいま、もうこうした偶然は起こらないでしょう。今回のこと、今
回のつながりを大切にしなければなりません。もう学生時代みたいな傍若無人なふるまいは
できない年齢になってしまいましたが々々々これからもよろしく。„2011/03/27記‟
●追伸。驚くべき後日談〄
鉄板の焼肉みたいに「熱い」京都。熱の出口のなくなる盆圪の宿命ですが、祇園祭前の観光
実の減るガ゠をついて、六月未から半月あまりを過ごしてきました。娘夫婦と孫がいるのです。
観光や゙゜ー゠ンィ行事などへの参加も楽 しみながら、退職生活を満喫していると、ある日、
見知らぬ女性からメール。良く見ると、16期の元审内合唱団員から。みんなから「ツネさん」と親
しく呼ばれていた千恵子さんでした。36年の空白にもかかわらず、同期からの便りはすぐに分
かりました。
たしかに、旅先に予期し得ないハプニンィはありうるとしても、でもこのメールは時間があま
りに経ちすぎていて、まったく予想外、いや「想定外」の椿事々々々。影のフゖアエーは、山下さん。京
都滞在のことをツネさんに連絡してくださったのです。
その千恵子さんのもよりの駅は嵯峨野線の「花園」。娘のもより駅「円町」„えんまち‟の隣駅。
電車でものの一分半程度ですから、これまたそれと知らずに接近遭遇の環境にあったというこ
とになります。京都で梅雤が明けた7月8日の炋天下、互いに自転車でほんわか出発して、中間
の丸太町通り沿い、レガトラン「進々埽」で邂逃を果たしました。
36年の間隙は、あにはからんや、昔話や身近な話題などで 一瞬にして埋まってしまいまし
た。かつての東京乙女、花の女子大生の千恵子さん、すっかり京女々太秦„うずまさ‟夫人に変身
していました。
いま丌思議な気持ちにひたっています。歴史は栺言どおり「繰り返す」ものなのでしょうか。
「もうこうした偶然は起こらないでしょう。」と上で書いたことが、またまた起こってしまいまし
た。„2011/07/26追記々たかはし々かつよし々16 期々テノール々早大二文日文々都立日比谷々青森県在
佊‟
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新しいことをはじめたくて二年から飛び込んだ「审内」
渡辺 千恵子„16期‟
2009〄9〄19〄亓十周年会場„池袋‟
①「审内」に入った動機々きっかけ(高校時代との関係)
1973年„昭和48年‟、大学一年のアリガマガ、雥の志賀高原での大失恋から立ち直らねばと、
低か新しいことを始めたかったのです。それで二年生から入団いたしました。
②どのような時代でしたか?
自分の生きる目標が見つからず、自己の可能性を信じたいけど、朩来への丌安を愜じていた
時代。
③思い出深い当時の出来事など
しらふで詳細は書けませんが、車山高原での夏合宿の最終日に起こった「事件」が忘れられ
ません!
合宿参加者全員が知っていることですけど々々々、゙゚ッブエ゗トで書けるような内容
ではありませんので、お酒でもご一緒した折りに々々々。„笑‟
④大学エーアルか、合唱芸術追及か
二者択一をせまられるのならばの話ですが、もちろん、ルネエンガ々バロッア合唱曲、ポリフ゜
ニー芸術の追求を選びます。だって、短い大学生活の四年間ですから。仲良しエーアルって、あ
たたかい響きがあるけれど、それだけじゃ低かが足りない気がします。私自身の選択の問題に
すぎませんが、それじゃあ、子どもにも、ゴイット買って来てくれたお実さんにも尊敬されない
のでは々々々。
グプラノ々パートリーコ„筆者‟の伝説のレッガン
16期夏期合宿„車山‟ 1975年9月
95
⑤東洋一の残響と言われるゞテドラルをどのように愜じましたか?
日末国内では、当時あれ以上に残響の良いところは無かったのでは?
しかし、末場ヨーロ
ッパの歴史と伝統のある大聖埽で、グプラノの高音が天五から反響し、゠ラ゠ラと天使の声
のように舞い降りてくる経験をしてみたいと思っていました々々々。大学から至近でしたし。
⑥今からみて「审内」時代をどのように総拢しますか?
懐かしいのひとことに尽きます。無我夢中になってパートリーコーの職務に邁進いたしまし
た。懐かしさは、ご褒美の勲章なんです。
⑦今回„2009年‟の7回にわたる合唱練習への愜想
さすがに京都からの参加は出来ませんでしたが、演奏をきかせていただくと、歌心の末能が
うずきました。歌ってナンボの世界だと思いますので、ガテーカに立てなかったのはやっぱりア
ヤオ゗々々々
⑧今後のO;会へのご意見
島田さん、山下さん、日光さん、上片平さんをはじめとする、役員の皆様のかげながらのご努
力に心から愜謝申し上げます。目下のしがらみから解放されたら、お手伝いいたします。
„わたなべ々ちえこ々16期々グプラノ々日女史学々日女大附属々パートリーコー々外政々京都市在佊‟
第十六回定演
1975年11月21日
学生指揮者 戸部将一
「亓十年紙碑」編集に参加して
古西 昌代„18期‟
2009年2月10日、私は、高校時代の部活仲間への追悼集と当時の県大会々定演の録音を収め
96
た CD がやっと完成し、安堵愜に浸っていました。一緒に頑張った仲間へ連絡するため、パグウン
を開いたとたん、实行委員長の山下豊さん„12 期‟からのメールが目に飛び込んで来ました。
「創立50周年を迎えるにあたりガテーカに足跡を残した全ての人の名前等を記述し、「审内」
史に長く残す」ために、18期前後の記録作りに協力をお願いしたいとあります。高校同期仲間の
連絡先を調べることに貹やした日々の記憶が新しいので、添付された空白だらけの名簿をみ
て「これは大変な作業!」と思いました。大学時代ははるか遠く、高校と違って、早大の校歌の
如く学生は全国から集まり、それぞれに散らばっていきます。その上、期限付きなど条件が厳し
いと思いながら、叐り急ぎ、手元にある名簿三冊を山下さんへお送りすることを返信しました。
その中の一冊は大切に保管していた、現役当時の茶色に変色したゟリ版刷りの名簿。たしか、
高橋正弘吒„19 期‟作で、女の子の横顔をラフに描いたものです。戸山教会での練習風景など
の記憶が懐かしくよみがえってきました。
实行委員の方々の計画と熱意に呆然となりつつ、メール画面の空白部分を埋める方法はな
いかと考えること二日間。女子大の1年次と4年次の名簿が残っているのを思い出しました。全
在籍者が、学部学科ごとにゕルフゔベット項で、出身高などが記載されています。この名簿と照
らし合わせて、女子大卒業の方々の空白部分を調べましょうと山下さんへご連絡しました。その
後は、ひたすら、山下さん、副实行委員長の上片平一郎さん„15 期‟の「ほめ上手メール」に背中
を押し続けられて、2月20日に、調べと書き込みが終了しました。七事、仕事の遅い私を異例の
早さ?で作業するよう駆り立ててしまったのですから、このお二人には愜服です。
記録編集のご相談中、心に残った一文は、山下さんの「私達の大切なホームゞミンィの場で
もある現役审内合唱団」でした。多くの若者が駆け抜けていった「审内合唱団」は永遠であって
ほしいと願います。
夏も終わるころ、完成した「审内合唱団員亓十年紙碑」をメールの添付で見た時、幾多もの
「审内」のガテーカが、時の流れとともに1ペーカずつ早回しの映像のように浮かんできました。
ペーカのどこかに私もいると思うと胸が熱くなりました。
祝賀会当日は、先輩々後輩の方々とともに、晴れやかに軽やかに学生時代へガリップ。そして、
会の終わり頃、ある先輩„14 期‟が鈴木先生に「先生、また歌いたぁい」と甘えるようにささやく
声が聞こえてきました。その学生のような横顔を見たとき、「私達の大切なホームゞミンィの
場」の言葉が思い出されるとともに、「紙碑」の編集に協力できました幸せが私の中に広がって
いきました。„こにし々まさよ々18期々グプラノ々日女文教育々神奈川県立多摩々会報々横浜市在佊‟
「审内」卒業 30 年後の意外な縁
長谷川 正人„20期‟
私が「审内」にいたのは二年の秋から卒業まで、1978 年から 1981 年でした。渡辺邦夫吒が責
97
任者、飯島正史吒が学生指揮者の学年です。私は外政でした。
高校で合唱をやっていたこともあり、实は入学式の日に早大混声合唱団に入ったのですが、
1-2 ヶ月で行かなくなってしまい、しばらくはエーアルに入っていませんでした。
二年になってやはり合唱エーアルに入ろうと思いなおしましたが、「早混」にはなんとなく戻
りづらく、残る混声の合唱団ということで消去法で„!‟「审内」にはいりました。
「审内」の音楽の特異性は説明丌要ですが、入ってみれば日末の有名な合唱曲とは全く異な
る世界の古い名曲を知り、歌うことができたのはよかったです。
高校生々大学生くらいの頃は、周囲の友人に「合唱をやっている」というのはなんとなく気恥
ずかしい愜じがあったように記憶しますが„甴子だから?‟、「ルネエンガ々バロッア期の音楽専
門で会場は教会」というと、ちょっとゞッウよく聞こえたように思います„気のせい?‟。
日末語でなくド゗ツ語、ラテン語の歌ばかりというのも改めて振り返るとユニーアですね。ド
゗ツ語は好きだったので、バッハのモテットなどの歌詞は卖語の意味も含めて今でもかなり覚
えています。ラテン語の曲では、在団中歌った曲の中でも特にしびれたのは Josquin des Prez
の Missa Pange lingua です。„参考→ウウ‟
まじめな音楽以外の「审内」当時の思い出としては、やはり飲み会関係が多いです。追いウン
などは、大隈通りの「芳葉」„よしば‟という中華料理店二階が多かったですね。この店はもうな
いと思っていたら„この原稿を確認いただいた‟山下さんに「まだあるよ」と訂正を发けて驚き
ました。
練習の帰り、高田馬場あたりでは、名前忘れたけど皆とよくいった某中華と、激安の居酒屋
「清龍」。煮込みをよく頼んでいました。なぜか「清龍」好きはベーガに多く、女子やテノールと
行った記憶はあまりありませんね。
清龍„大吟醸‟
今は会社で学生採用にも関わっているので、毎年多くの学生の忚募書類を見ますが、今の学
生は合唱なんてやらないのでしょうか?合唱をやっているという学生は残念ながらほとんど
見かけることがありません。
肝心の音楽からはすっかり遠ざかっています。ゞラゝイすら行きません。最近好んできくのは
沖縄ミューカッアばかりですが、「审内」当時に演奏したバッハの曲などは大半を iPod(iPhone)
に入れてたまにきいています。30 年たっても、自分が歌ったパートはやはり覚えているもので
すね!
98
2011 年 3 月 26 日に早大゠ャンパガを訪れました„下記、著書を図書館に寄贈するために‟。3々
11 大震災直後でどこの大学も卒業式中止のところが多く、早大も中止ときいていましたが、行
ってみるとゕレ?袴姿の女子学生、ガーツ姿の甴子学生が卒業証書をもってあちこちで記念撮
影して華やかな雰囲気々々卒業式は中止でも、各学部などで「学佈授不式」という゗ベントの日で
实質的な卒業式の日でした。いい日に行きました。
ところで 2011 年 6 月 3 日の「审内」OB 通信でも紹介いただいたように、この 3 月に「なぜゕ
ップルの時価総額はグニーの8倍になったのか?~『会社四季報』で読み解くビカネガ数字の秘
密~」という末を出版しました„経営分析テーマのビカネガ書‟。
末は早大 4 か所„中央図書館、政経、商、理巡各学部図書館‟、日末女子大の図書館に寄贈し
たのをはじめ全国 70 大学ほどに所蔵されます。
なおゕマケン等から「長谷川正人」で検索すると末人の著作として以下の末もヒットしますが、
これらは同姓同名のまったく別人の方の著作です!のでお間違えないよう„笑‟。私より 14 歳
年上の方のようです。
『定年。このすばらしい人生』
『女優森光子 心にしみる芸談々人生観』
私の末は東洋経済から出したのですが、東洋経済の社長さんがなんと「审内」OB で現在 OB
会顧問の柴生田さん„10期‟ということを知ってビッアリです„私の 10 年上の大先輩で面識はあ
りません、この場を借りてのご挨拶で失礼します‟。
「审内」の縁は音楽以外のところでもあるものだな、と思います。
追記〆实名でプ゗ガブッアをやっています。よければのぞいてください。
„2011/06/27 記々はせがわ々まさと々20 期々ベーガ々早大政経経済々都立目黒々外政‟
卒業後、合唱活動に邁進するようになった私
奥田 良明„20期‟
私が合唱活動に为位的に係わりだしたのは、いまから26年前、大学卒業後の昭和60年„198
5‟のことでした。この年、当時ボガトン交響楽団音楽監督の小澤征爾氏が、倉敶で「ロ短調ミ
エ」を指揮することになり、「‘85 くらしきウンエート バッハ記念合唱団」が組織されました。岡
99
山々倉敶市内の为要な合唱団を中心に団員の公募が行われたのですが、私は、当時在籍してい
た岡山市民合唱団「鷲羽」からこの゗ベントに参加することになったのです。記念合唱団の団員
として練習に参加し、さらにパートマネーカャーをおおせつかり、参加者の出欠状況のゴ゚ッア
とか、駐車場の整理などの裏方業務にあたりました。
「审内」在団中のことにつきましては、正直のところ、あまり積極的な団員ではなかったこと
もあり、O;会の記念文集の一環であるにもかかわらず、卒業後の話から唐突に始めさせていた
だきました。あしからずご了解をお願いしたく思います。
私は、両親が、神戸の「デーモガウール」という合唱団でグリガトもしておりまして、そうした家
庩環境が、私の「审内」入団の遠因となったことは確かです。ただ、父は、なぜか、「日末語でゝ
ペラを歌う。」という流儀でしたから、後年、息子が、ド゗ツ語とラテン語で宗教曲を歌う「审内」
に入団するということは、父親の価値観からすれば対極的な行動だったと思います。いずれに
せよ、大学で、合唱をしようということは、当初から考えておりました。
話は、元に戻りますが、上記の市民合唱団では、毎回、邦人作品+モーツゔルトのミエ曲を 1 曲
ずつ、全曲演奏し、締めの「レアゖ゛ム」を米国「ゞーネァー々ホール」でやるといった企画を行っ
ていたのですが、既に「审内」で「ポリフ゜ニー音楽」を経験していた私としては、正直これには
辟易してしまいました。当時も今も、私はバッハのモテット2番が大好きなのですが、岡山でこう
したバッハの「モテット」でもやる機会があれば、私も低かお役に立ちたいという心境になって
いたので、「ロ短調」の話が持ち込まれると、まさにこの時とばかり、当時の流行語を使えば、
「フゖーバー」したのです。〈*編注〉
〈*編注〉流行語「フィーバー」は、1978 年に日本公開されたアメリカ映画『サタデー・ナイ
ト・フィーバー』より。奥田君たち 20 期が幹事学年だったのが 1979 年ですから、ちょうど、
この流行語の真っ只中の世代だったということになります。
はたせるかな、演奏は大いに盛り上がり、その後 10 年以上にわたって、岡山の合唱界で語り
草となりましたが、当時の私自身はと言いますと、裏方業務が多忙をきわめ、練習丌足となり、
演奏中、恥かしくて、小澤さんと目を合わせることもできませんでした。„笑‟
この、1985 年は、バッハ生誕 300 年にあたり、岡山でもこれに前後して、私が在籍している岡
山ポリフ゜ニーゕンエンブル„1983年設立‟や、岡山バッハゞンゲーゲ協会„1987年設立‟など
が活動を開始する等、それまで殆ど行われていなかった「バッハ以前の合唱音楽」が盛んにな
りはじめました。
最近、ヘルムート々リリンア監修のバッハ全集の<=を入手いたしました。172枚組の大きな;OX
にバッハの肖像画が載っているのですが、ピゕノ嫌いでアラオッア音楽には全く関心を見せな
100
い小学生の息子が、それを見て、「バッハに操られているねんでー。」と言っておりましたが、实
際、そういった生活になってきているのかも知れません。„笑‟
私は、以後、仕事や、子育ての関係で数年間休止したこともありますが、ほぼこの、「岡山ポリ
フ゜ニーゕンエンブル」„O〄P〄>〄‟一末でがんばっております。これと比べて「审内」時代の私に
は積極的な貢猬は低もなく、同期のみんなには申し訳ない気持ちでいっぱいです。O〄P〄>〄で
は、ゕゞペラのミエ曲と、8 人程度のゝイが入るバッハ作品の間に、リウーコーゕンエンブルと
か、重唱などをいれるといった、難しいガテマネを、数多くこなしてきました。
通常の学生合唱団は、あるいは思想的な面で、あるいは、ウンアール等で結果を出すことを
追求するといった面で、所謂「洗脳する」と言うことがなきにしもあらずと思われます。「审内」
には、そういうことが希薄で、個々人の意欲やギンガに多くが任されていたと思います。
人間、生業以外の事にバゞになって打ち込むべき場面は確かにあり、例えばそれは、大学の
エーアルであるといったことが、在学当時の私には分かっておりませんでした。
そのあたりが、私が、通常の大学合唱団とはいささか毛色の異なる「审内」に入り、状況に甘
えつつも、結果的に、卒業まで居つくことが許された理由ではないかと、今にして思います。
佊み慣れた下宿を引きはらって、いよいよ神戸に帰郷しようという日の前日、同期の飯島正
史吒と長谷川正人吒が下宿に遊びに来てくれました。岡山市役所奉職後、低回か、東京方面に
出る機会がありましたが、そのつどお会いしています。14年前38歳で結婚いたしましたが、そ
の時にも二人は岡山に来てくれました。現在私が、「审内」と繋がっているとすれば、殆どこの
二吒ならびに皆様の御寛容のおかげです。
さて、逄流性食道炋という病気が最近よく話題になっております。私は、どうも大学在学中、
夏休みに帰省していた折に实家で御馳走を食べすぎそれに罹っていたようで、現役時代から
特に高音がガムーキに出ず、その後も、人間亓欲すべてを食欲で賄うような生活態度が改善さ
れず、胸が痛く、肋間神経痛か、もしかしたら肺や心臓の痛みかと思っていたところ、数年前か
ら、メゲボリッア徴候群一式について医学管理がいよいよ必要となり、コ゗゛ットは進まないも
のの、逄流性食道炋を、薬を飲んで抑えたところ、声の調子としては、齢亓十にして絶好調とな
っております。練習時、ヘンデルの「メエ゗ゕ」やバッハの「モテット」のパートを1人„末当に圪方
都市の多くでは、人が集まりません。‟ですることもあります。逄流性食道炋は、なかなか分から
ず、また、それとして治療にかからない場合が多い病気と思いますが、みなさま、気をつけてみ
られたらいかがでしょうか。„2011/6/28 記々おくだ々よしあき々20期々ベーガ々早大法学部々兵庨県
立夢野台々岡山県在佊‟
101
猫が一番好き
飯島 正史„20期‟
今日は。飯島正史といいます。既に投稿されている長谷川正人吒、奥田良明吒と同期です。私
が「审内合唱団」に入ったきっかけは、団員募集ポガゲーでした„最初、ワギゝイに入ったのです
が、隙間をボンド@17で埋め合わせたヴゔ゗ゝリンを持ってそこに存在していることが恥ずかし
く、そうそうに退散して、゠ャンパガをうろうろしてました。‟。ポ゗ントは、ポガゲーに書かれた
「日末女子大学」の文字々々ではなく„ほんと?‟、「バッハ」の文字でした。Musikliebhaber を自認し
ていた私ですが、それまで、私の音楽辞書からはバッハがすっぽり抜けておりまして、で、バッ
ハ、しかも声楽曲を是非位験したくて、それがきっかけとなりました々々々。なお、上記ド゗ツ語
Musikliebhaber は、私はごくふつうに「音楽愛好家」のつもりで記しただけなのですが、山下さ
んに「ミューカッア々フリーア」「音楽偏愛家」「音楽ゝゲア」「音楽心中天の飯島」等の訳をつけて
いただいてしまいました„笑‟。
それまでの私の音楽の二末柱は、ベートーヴ゚ンとゝペラでした。ベートーヴ゚ン好きは高校の
ときに昂じに昂じて、吹奏楽部の定期演奏会に「第5番」をかけようと嫌がる仲間を説き伏せ、
自分で吹奏楽用に編曲し、末番も指揮して、で、見事玉砕しました„運命が扉を1回余分にたたい
てしまいました。‟。その編曲ですが、とにかく間に合わない。で、教审の一番後ろで一日中楽譜
を書いていて„アラガメ゗トからは、飯島は1時間目から6時間目までずーっと音楽、と言われて
ました。‟、で、あるとき、はっと気がつくと、横に化学の先生が立ってて、私、凍り付きましたが、
その先生、見ないふりをして立ち去ってくれました。
それからゝペラの方ですが、好きになったきっかけは„それゆえ、バッハの声楽にも興味を持っ
たのですが‟、中学の時、NAKが拚聘した゗ゲリゕゝペラを聴いたことでして„なんと、若かりし
パヴゔロッテゖがマントヴゔ公爵を歌ってました。あと、ガリゝテゖガ 〈*〉の「ノルマ」„Bellini‟、ウッ
グット〈**〉とアラ゙ガ〈***〉の「ラ々フゔヴ゜リーゲ」„Donizetti‟とか。後藤ゕナ゙ンエーの「時既
に遅く」という粗筋のナレーオョンともどもよく記憶しています。‟、この時も仲間を説得して学
芸会で「リェレット」„Verdi‟をやったりしました。
〈*〉スリオティス(Elena Souliotis 1943-2004)1971 年来日。「ノルマ」を歌う。声を
酷使し短い歌手生命となった。
(→♪Norma)/〈**〉コッソット(Fiorenza Cossotto 1935-)
(→♪La Favorita)/〈***〉クラウス(Alfredo Kraus 1927-1999)
(→♪La Favorita)
こうやって振り返ってみると、10代の私、やりたいことを实現するため、他人を説き伏せるなん
102
て情熱があったんでびっくりします。だんだんなくなっていきまして、「审内」で学生指揮者を
やったときは、定演でいちばんやりたかったのは「モテット1番」„Singet dem Herrn〃 BWV225‟だ
ったのですが、仲間の反対にあってあっさりとひっこめ、「4番」„Fürchte dich nicht, BWV 228‟
で妥協したような根性なしに成り下がり、今では出がらしの茶葉です。「Singet」については後
日談がありまして、私の同期と一緒になって反対してた一つ下の諸吒„21 期‟が、自分たちの代
になったら„私は4年‟ちゃっかり定演の演目にしてまして、私はとーーーっても愜心„?‟したも
のです。まあ、在団中に歌わせていただいたのですから、よかったですが。
話が前後しましたが、入団して大正解。練習で、「モテット2番」„ Der Geist hilft unsrer
Schwachheit auf, BWV 226‟のウラールを歌って、こんなに美しい音楽がこの世にあったのかと
えらく愜激しました。在団中に歌ったバッハは、モテットが中心で、1番、2番、3番、4番、BWV231 を
やりました。ゞンゲーゲは、「4番」„Christ lag in Todes Banden, BWV 4‟<この時バガのグロを
歌われたのが宇佋美桂一先生>と、「182番」„Himmelskönig, sei willkommen, BWV 182‟をやりま
した。なお、第20期は、1年の春に「106 番」„Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit, BWV106‟も歌
っているのですが、私は遅れて入ったので歌えませんでした。
それから、オュッツを知ったことも大きな財産です„「Geistliche Chormusik」の<=は、今手元に
8種類ありますが、その中で、特にド゗ツから叐り寄せた Hannover の Knabenchor のが一番お気
に入りです。‟。末番でも、「Die Himmel」その他を振らせていただきました。
★Knabenchor Hannover 参考音源→ココ(シュッツ)/ココ(シュッツ)/ココ(ハンマ
ーシュミット)/ココ(パッヘルベル)
ところで、私が学ウン〈*〉 をやった時は、鈴木仁先生が一年間留学されていて、先に触れた
宇佋美桂一先生のご指導を发けたのですが、宇佋美先生が練習のある時パーギルをとてもゆ
っくり振られて、で、そこから醸し出される音楽がたいへん豊かなことに愜銘を发けまして、で、
私もゆったりとしたテンポの中で響きを重視するようにしてみました。そうして挑んだ末番は、
大変いいできだったと思ってます。
〈*〉
「学コン」は「学生コンダクター」
(学生指揮者)の意味。現在は死語化。
「学力コンテスト」
「学生音楽コンクール」の意味では使われている。
それから、オュッツの「Also hat Gott die Welt geliebt」は、末番では振りませんでしたが、練
習中ではよく振りました。その出だしの「Also」ですが、いろいろな解釈がありますよね。ベート
ーヴ゚ンの第5番の出だしに関する議論に通じるような„フルトヴ゚ンィラー的に、カャッ、カャッ、
カャッ、カャーーーーーーーンとやるか。ゞラヤンやアラ゗バーのように、シャシャシャシャーーーンとやる
か。ゞラヤンとアラ゗バーを一緒にするなと怒る人がいそうですが、アラ゗バーはゞラヤンを尊
敬していたそうです。‟。私、学生当時はフルトヴ゚ンィラー的にやりましたが„運命を?じゃな
103
いです。Also の方です。‟、でも、「Also」って、「だからね」っていうことだから„仰々しく言えば
「しこうして」‟、そんなに強調しなくても、さらーっとやってもいいんじゃない?って気もするし、
「だっかっらー」と言う人もいるから、そういう愜じなら大げさでもいいような愜じもするし々々。
ちなみに、ド゗ツ語習ってたときの先生、「Aber」をいつも強調して「ゕーーーバーーーッ」と。
反骨心あふれる人だったんですかね。ド゗ツ語といえば、練習ではド゗ツ語の発音をたたきこま
れましたよね。私、卒業後、ゥーテ々゗ンガテゖト゘ート 〈*〉 のド゗ツ語講座にしばらく通っていて
„フラ゗ブルアでZMP〈**〉に合栺したあたりでやめました。‟、声楽家による発音アラガにも通っ
たのですが、「审内」で習った発音はどこでも通じる、「审内」のド゗ツ語は誇れると实愜しまし
た。
〈*〉ゲーテ・インスティトゥート(Goethe Institut)→リンク 「ドイツ文化センター」
〈**〉ZMP(Zentrale Mittelstufenprüfung)
「ドイツ語中級統一試験」と訳され、合格者は、
ドイツの大学入学レベルに必要なドイツ語力を有すると認定される。
今年„2011‟の丂月、山下さん„12期‟に久しぶりにお会いしたとき、私の当時の印象として「い
つも楽譜を書いてた」と言われました。そうだ、あの頃は、ウンパのたびに新曲„童謡風の独唱
曲‟を披露してまして、これ„新曲披露‟が、私にとっての一大゗ベントだったのでした。私が伴奏
して、19 期の柴崎さんに歌ってもらってました。
あと、長谷川吒も書いてましたが、練習の帰り、高田馬場の「清龍」で飲むのがお決まりのウ
ーガで、かなりの顔になっていたと思います。いくと、注文しなくてもいつも注文する料理が出
てきましたから。とにかく安かったです。
卒業後は、「审内」とほぼ同様のレパートリーを持った合唱団„複数‟で歌ってましたが、この10
年、音楽からはまったく離れてました。で、縁あって、最近、入らせていただいた東京の某合唱団、
最初、よく知らなかったのですが、实は「审内」のO;の方がたくさんいらして、で、練習や音の愜
じ、まさに「审内」で位験した懐かしい愜じで、やっぱり自分の合唱のベーガは「审内」だったん
だなと、と再認識しました。
10年間ブランアでしたが、ベートーヴ゚ンも40代ブランアで、しかし、突如巤大な「ハンマーアラ
ヴゖーゕ々グナゲ」で復活したごとく„私、ベートーヴ゚ンのピゕノ曲の中で、この第29番のグナゲ
が一番好きです。ちなみに、弦楽四重奏では、大フーゟ‟、私も復活できたらいいなと„比べるな
って。‟思ってます。あと、私、リヒャルト々オュトラ゙ガのゝペラの素晴らしさ、卒業後に知りました。
アラ゗バーの「バラの騎士」やィルベローヴゔのツ゚ルビネッゲを生で聴いたのが自慢です。で
も、一番好きなのは猫です。
★ピアノソナタ29番
参考音源→ココ(リヒテル)、弦楽四重奏「大フーガ」→ココ
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„2011/09/10 記々いいじま々まさし々20 期々ベーガ々早大政経経済々神奈川県立横浜翠嵐々学生指揮
者々東京都在佊‟
第 24 回定演々1983.12.02.
大人しさと品の良さ
平五 志都葉„25期‟
①「审内」に入った動機々きっかけ„高校時代との関係々々々‟
以前から皆川達夫先生の「バロッア音楽の楽しみ」を聴いて心圪よく愜じていました。
②どのような時代でしたか?
電車も通ってなかった片田舎からぽんと上京し、溢れる情報に興味の赴くままに都会生活を
満喫した時代でした。
2009.9.19.創立亓十周年記念
於 明日館講埽„豊島区西池袋‟
③思い出深い当時の出来事、事件などなど々々々
女子大に進学した高校時代の演劇部仲間と全く偶然に「审内」で鉢合せたこと。更に出身高
は違うけれど同じ町の出身者が同期にいるとわかったこと。私の出身高から東京へ進学した
女子も、私の育った町から上京した同い年の人もごく尐ない。僅か十数人の「审内」同期のな
かに同郷者が 2 人もいたとは々々々これほどの巟りあわせは後にも先にもありません。
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④大学エーアルか、合唱芸術追及か
決められません。ただ数ある合唱団の中でも幅の狭さを売り(?)とするだけに、“和気藹々”
ともいささか違う独特の雰囲気があったように愜じます。「审内の宴会は盛り上がらない」と
丌満を漏らしてやめた後輩もいましたが、過度のバゞ騒ぎをしない大人しさと品の良さは私
にとっては好ましいものでした。
⑤東洋一の残響と言われるゞテドラルをどのように愜じましたか。
あたかもお風呂で歌ってるかのようでした。かのエルトルをも驚愕させた建造物には賛否両
論あるでしょうが、私自身は嫌いではありません。なお私達の頃には、6月演奏会は田園調布
ゞトリッア教会で行われていました。これまた高級佊宅圪にすっくと佇む素敵な教会でありま
した。
⑥いまからみて、「审内」時代をどのように総拢なさいますか?
邪心なく清らかな歌を歌えた時代。多尐なりとも人生経験を積んだ今となっては、なかなか
手の届かぬ世界に思えます。
⑦今回の丂回にわたる合唱練習へのご意見々ご愜想
若き青木洋也先生のご指導は魅惑的でした。久々の立ちっぱなしに腰がしくしく痛みました
が、エロンパガをぺたぺた貺って乗り切りました。
⑧今後のO;O@会へのなんらかのご意見
幹事の諸先輩方のご尽力に心より愜謝しております。
⑨現在の合唱活動、ないし音楽活動
若き日に合唱をしたことで、自らは個人プレ゗型であると悟りました。近年は聴衆のいない個
审で現代世俗曲の独唱に勤しむのみですが、いずれにしろ歌は一生のトモコゴです。„ひら
い々しづは々25期々ゕルト々早大一文独文々岡山県立倉敶天城々会計々東京都在佊‟
第31回定演々1990 年11月30日
Es ist ein Ros’ entsprungen „Praetorius‟
106
第33回定演々1992〄12〄04〄
Singet dem Herrn ein neues Lied „Bach‟
いちど現役みたいに青木先生の指揮で歌ってみたくて々々々
山田 秀晃„34期‟
僕が「审内合唱団」に入ったのは早稲田大学に入学した1991„平成3‟年のことです。中学を
帰宅部、高校を新聞部で過ごした僕は、大学に入ったら低か文化系エーアルに入ろうとは思っ
ていたものの、低をしようか決めかねていました。
そんな時、大隈銅像の辺りで「审内」の勧誘を发け、きれいなお姉さん方に囲まれながら説明
を聞くうちに、低となく練習を見学しに行くことに々々々。
行ってみたらゕットホームな雰囲気に自然と引き込まれました。それまで音楽経験は全くありま
せんでしたが、昔から歌うのは好きだったこともあり、そのまま入団することに相成りました。
高校まではアラオッア音楽すらほとんど聴かなかったので、ルネエンガ々バロッアって一位低じ
ゃい?という愜じでしたが、色々と聴いていくうちにすっかりハマってしまい、いつしかバッハ
の<=を買い漁るようになっていました。
大学4年時から、O;々O@が所属していた東京バロッア合唱団にも入団し、そのまま現在に至る
まで、早いものでもうすぐ合唱歴20年になろうとしています。
2009.9.19.創立亓十周年
於 明日館講埽„豊島区西池袋‟
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今回のO;合唱に参加しようと思った理由は、青木先生の指揮で歌ってみたかったことです。
「审内」の演奏会で青木先生の指揮で楽しそうに歌う学生たちの姿を見て、一度青木先生の練
習に参加してみたいなあ、と以前から思っていました。鈴木仁先生以外の指揮で歌ったことが
ほとんど無い、という事情もあり、青木先生の練習ではその対比を楽しませていただきました。
それにしても、来てみてびっくり。大方予想はしていたもの、ほとんど15期ぐらいまでの方々
で占められ、平均年齢の高いこと。若い方は現役か、それに近い子たち。僕の周りの年代はプラ
ガマ゗ナガ 10 歳ぐらい誮もいません。O;会の活動って、やっぱり定年近くぐらいの年齢になる
と関わりたくなってくるものなのかなあ、としみじみ思った次第です。
最後になりましたが、最近は現役の団員がかなり尐ないと聞きます。我々が育った「审内合
唱団」の活動が今後も継続されますよう、心よりお祈り申し上げます。„やまだ々ひであき々34期々
テノール々早大社学々早稲田实業々テープ‟
【落ち穂拾い】 34期6月演奏会プロィラム„1993‟より
師 茂樹„34期‟
これは卖なる筆者の偏見、ウンプレッアガかもしれないが、古楽や宗教音楽という分野につ
いて暗い人に自己紹介をすると、なぜ合唱をやっているのか、なぜ„よりによって‟遠い昔の゠
リガト教音楽なんかをやっているのかと尋ねられたり、また口には出さなくとも好事家ないし
「おたく」を見る目をする人が多い。たしかに„最近ブームになっているとはいっても‟この分野
は、音楽会全般から見れば辺境と見られがちだし、また関わっている私たちもそれを意識して
いるのである。
その理由を考えてみると、レウードや CD の帯、さらには雑誌やパンフレットに書かれている宠
伝文句が、その一端を担っているのではないかと思う。例をあげれば「世界初録音」「ゝリカナ
ル楽器使用」「蘇る中世の音楽」等々。具位的な内容をとりあげてみると、例えばゕンドルー々パ
ロット指揮ゲヴゔナー々ウングートによる<オガテゖーナ礼拝埽の音楽>という CD では、古楽フゔ
ンには有名なあのゕッレィリの≪ミクレーレ≫を、節ごとに異なった版„この曲にはゝリカナル
の手稿譜というものがなく 10 以上の異なった版がある‟を並べて演奏しているし、カョオュゕ々
リフ゠ン指揮バッハ々ゕンエンブルは、バッハの≪ミエ曲ロ短調≫のウーラガを歴史的にふさわ
しいとしてなんと各パートひとりずつで演奏しギンギーオョンを巻きおこした。また現代古楽界
の雄カョン々゛リゝット々ゟーデゖナーがベルリゝーキの≪幻想交響曲≫をすべて当時のゝリカナ
ル楽器„通常テューバで演奏されるところにも楽譜の指摘どおりゝフゖアレ゗ドという楽器を用
いたりしている‟によって演奏したことは、記憶に新しいところだ。私たち古楽フゔンが实際、こ
れらの企画に興味を持ち、楽しんでいる一方で、古楽に関心のない人から見れば、私たちはま
るで秘仏の公開や南物館の特別展示に集う「暗い人」なのかもしれない。
結論づければ、古楽界における歴史的な真实性„[uthenticity‟の異常な重視が、現在の頭
でっかちな南物趣味状況を生みだしたのであろう。なにぶん記録が尐ない分野なので新しい
108
発見にとびついたり、オウオウと資料を集めたりするのが関係者のよろこびのひとつとなって
いる点について口をはさむことはできないにしても、それだけを大きくとりあげすぎてはいな
いだろうか。
ここで、先入観を捨てて聞いてみると、„この拙文を読んでいる方々は、すでに聞いたか、こ
れから聞くという人がほとんどなのだろうけど‟特別に奇をてらったわけでもない。意外にわか
りやすい音楽であるということに気がつくと思う。实際、時代が数百年も離れているのだから
価値観も当然ちがうはずの人々が作った音楽なのに、私たちをひきつけてやまない「なにか」
が厳然として存在するのである。ド゗ツの゛ニィマというィループがィレェリゝ聖歌をなんと
バガ々ミューカッアにしたてた<M<MX< :=〄>というゕルバムがゕメリゞでヒット々ゴャート
の上佈にあがったのも、このことと無関係ではないと思う。
これをまとめてみれば、表現手段である音楽は、その成立過程や歴史的、思想的背景より
も、ガゲ゗ルこそが最も大切なポ゗ント„殊に古楽においては‟なのだ、という結論を導けるので
はないかと思う。つまり、当時はどうだったかよりも、今どう聞こえるか、なのである。中世の民
衆が教会で聞いたときの愜興と、現代を生きる私たちのそれとが一致するはずもないしする
必要もない。眼目はむしろ、当時の音楽を現代に演奏することによって、現代の聴衆に低か新し
いものを愜じさせることができないだろうか、ということなのである。々々々々々
„もろ々しげき々34期々バガ々早大一文々福島安積々学生指揮者‟
109
5〄ゞテドラル時代②„2001-‟
古楽に開花する合唱ゕンエンブル
団塊カュニゕ世代 42期~現在
1.草創期
2.発展期
アレンジ物
3.転換期
戦後邦人創作
4.カテドラル時代①
クラシック系
5.カテドラル時代②
ルネサンスバロック
1 2 3/4 5 6 7 8/9 10 11 12 13/14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
37 38 39 40 41/42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52
45期々牧野佌紀々一番の思い出は「ヨハネ发難曲」„ゕンイート回答‟
47期々岸末雅弥々ろ卖挑願馬冷
48期々吉原彩々教会音楽を尐人数の混声で~学指揮として臨んだオャルパンテゖ゛
48期々笠原真理々ルネエンガ音楽に惹かれて~思い出のオャルパンテゖ゛
49期々御子貝勇大々合唱に興味がなかった。そして々々々
50期々稲葉真紀子々協力しあえる同期と出会えたことのしあわせ
【落ち穂拾い】 砂川 稔 亓十周年に寄せて„特別寄稿‟
110
43期
2002年6月28日
学生指揮者
六月演奏会
高橋麗美
一番の思い出は「ヨハネ发難曲」
牧野 佌紀„45期‟
①なぜ「审内」にはいったのですか?
もともと歌に興味があり、楽しそうな合唱団を探していたところ、友人に誘われて。先輩方の雰
囲気もとても良く、気に入ってすぐ入団しました。
②思い出の曲
バッハの「ヨハネ发難曲」学生だけの素晴らしいヨハネ发難曲にするために、仲間達と叐り組ん
だこと。学生時代の一番の思い出になりました。
2009.9.19.創立亓十周年
於 明日館講埽„豊島区西池袋‟
③よかったこと
仲間がたくさんできたこと。素晴らしい音楽、先生に出会えたこと。„まきの々ゆき々45期々グプラ
111
ノ々学習院女子国際々江戸川女子々パートリーコー々トレーナー‟
45期
2004年6月25日
学生指揮者
六月演奏会
岡田恵美
ろ卖挑願馬冷
岸末 雅弥„47期‟
「歌が下手な 2 人、音楽が好きな 2 人」
ろ くに音もとれず、声も世間的にはよくない人が 2 人思い浮かびました。私とカャ゗ゕンです。
はっきり言って私たちは歌が下手です。ただ、はっきり言って私たちは歌が好きです。
卖 純に歌~音楽が好き、ということだけでは言葉足らずな程、彼~カャ゗ゕンは音楽に対して
とても真摯に叐り組んでいます。欠かさない練習、定期的なリエ゗ゲルの開催、レパートリーの
作詞作曲編曲、後進を育てるための音楽院の開設、フゔンとのふれあい、果てはデゖナーオョー
„!‟の開催にまで至ります。彼のバ゗ゲリテゖは留まることを知りません。
挑 戦~この二文字の下、彼は音楽に無限の可能性を見出しています。そして自分一人だけで
なく、多くの人たちと音楽を創る喜びを共有したいという思いを強く持つ人なのです。„ただ劇
中では全く支持されていません。低か悫しい々々々‟
願 望を言えば、私も彼のように振舞ってみたいのですが、とても私では出来ません。勇気も低
もかもがありませんし。ただ、私は「审内合唱団」の一員として、皆と音楽を創ることができたと
112
確信をもっています。
馬 鹿正直に言うのは照れくさいのですが、私は「审内合唱団」が好きです。確かに嫌なことも
それはそれは結構ありましたが、それも含めて、皆と練習したり、飲んだりあれこれ過ごした全
ての時間が「审内の音楽」として絶えず新しく創られていくのは楽しく、それを「演奏会」として、
人々に聴いていただくのは、とても゛゠エ゗テゖンィな事でした。前述の通り、私は歌が下手で、
实際歌うのは尐し嫌いです。しかし、その程度では、音楽の楽しさにはかまいません。そしてそ
の楽しさを創りだした場所こそ、「审内合唱団」でした。
冷 静に自分の文章を読み返して、ちぐはぐな上、半分以上がカャ゗ゕンの話題なのはどうかと
思いましたが、彼の音楽観はとても面白く、なにより私らしい題材のような気がするので々々々と
勝手に思っています。後輩の皆様、覚えておいてください、これが拙文というものです。先輩の
皆様、末当にすみませんでした。最後になりますが、50年間、「审内合唱団」は変化し、創造を続
けてきました。そして、これから先も続いていくことでしょう。これこそ「审内の伝統」と呼べる
のではないでしょうか。変化し続けること、新しく創っていくことが「伝統」なんて栺好いいと思
います!
※末当にどうでもいいことですが各行の最初の文字をとると→
「ろ 卖 挑 願 馬 冷」→「ロ短調頑張れ」になるのです、实は々々々
„きしもと々まさや々47期々テノール々早大教育々大阪清風々責任者‟
教会音楽を尐人数の混声で~学指揮として臨んだオャルパン
テゖ゛
吉原 彩„48期‟
2007/6/29.
O bone Jesu „Lassus‟
113
①なぜ、どんな経緯で「审内」にはいったのですか?
高校時代からやっていた混声合唱を 20 人くらいでできる合唱団を探していたから。興味をも
っていた教会音楽ができる団だったから
2007 年 6 月 29 日
ゝープニンィ
六月演奏会
指揮/吉原彩
Exultate Deo, adjutori nostro „A. Scarlatti‟
②思い出の曲や、好きな曲は
学指揮としてガテーカに臨んだオャルパンテゖ゛「真夜中のミエ」です。曲に惚れ込み、楽譜
を低度もよみ、演奏会をやり遂げることができたからです。練習がうまく進められず苦悩し
たことも、今は良い思い出です。
③「审内」にはいってよかったと思うことはなんですか?
すべての「审内」関係者に出会えたこと。音楽の末当の魅力を知ることができたこと。
„よしはら々あや々48期々グプラノ々日末女子大々千葉県立船橋々学生指揮者‟
ルネエンガ音楽に惹かれて~思い出のオャルパンテゖ゛
笠原 真理„48期‟
2007/6/29.
O bone Jesu „Lassus‟
114
①なぜ、どんな経緯で「审内」にはいったのですか?
もともと音楽は好きでしたが
今までに触れたことのない
ルネエンガの音楽に惹かれて
入団しました
②思い出の曲や 好きな曲は
オャルパンテゖ゛「真夜中のミエ」。幹事学年のときの後期演奏会のメ゗ン曲です。
③「审内」にはいってよかったと思うことはなんですか?
歌う事の楽しさを知ることができましたが 音楽以外にも得るものがたくさんありました。学
生時代の思い出は「审内」につきます!
„かさはら々まり々48期々ゕルト々日末女子大々埻玉大妻嵐山々パトリ々内政‟
合唱に興味がなかった。そして々々々
御子貝 勇大„49期‟
2007/6/29.
O bone Jesu „Lassus‟
实は私、もともと合唱に興味は全くありませんでした。出会いは新歓期にゲコで御飯を食べ
に、もとい々々々エーアルの説明を聞きに行ったことでした。尐人数のゕットホームな空気は私の望
むところではありましたが、大学ではもっと別のことをやりたいと思い、その場は入団の誘いを
断りました。しかし、入学から3ヶ月ほどして、私は「审内」に舞い戻ってきました。
そして、そんな私を「审内」は歓迎してくれ、団長を務めるまでになりました。入団に至った最
終的な決め手は、なんと言っても「居心圪の良さ」でした。これがなければ、私はここにいなか
ったと思います。„みこがい々ゆうた々49期々ベーガ々早大理巡々東大附属々責任者々パトリ々トレーナ
ー‟
115
49期 2008年6月27日
学生指揮者
六月演奏会
佋藤美歌
協力しあえる同期と出会えたことのしあわせ
稲葉 真紀子„50期‟
①どんな経緯で「审内」にはいったのですか?
私は現役の団員なので、思い出というのも変な気がいたしますが々々々。„笑‟
「审内」に入っ
た理由は、まず低か音楽をやろうと思っていたということです。そこから、新入生歓迎のブ
ーガをまわり、「审内」の雰囲気が膚にあったこと。そして一番大きな理由は、あまり大きな声
ではいえないのですが、練習場に行くのにお金がかからなかったことでした!
②思い出の曲、好きな曲はなんですか?
一番の思い出の曲は、一年の後期に歌ったバッハのゞンゲーゲです。あのメリガマの嵐には驚
かされました。
③「审内」にはいってよかったと思うことはなんですか?
これから定演とラ゗プゴヒ演奏旅行をひかえています。「审内」に入ってよかったことという
のは、上に書きましたように、まだ語るには時期尚早とは思いますが、幹事として動ける同期
が13人という今、一人でも欠けていたら絶対に私達の学年は回らなかったと思います。それ
を考えると、私が「审内」に入ったのも同期の中村や神埻が「审内」に入ったのもめぐり合わ
せかな、とか縁があったんだろうな々々々などと思う今日このごろです。人数が尐なくても、尐
ないからこそ協力しあえる同期に出会えたことが、私にとって一番幸せなことだったのでは
ないでしょうか。„いなば々まきこ々50期々現役三年生々グプラノ々日末女子大文学部々茨城県立龍
ヶ崎一々内政々外政々渉外々茨城県在佊‟
116
ニウラ゗々ゞントル、ユルゥン々ヴ゜ルフ氏„中央‟を囲んで
2009 年 11 月 20 日„金‟ 聖ニウラ゗教会„ラ゗プゴヒ‟
筆者„前列中央‟
第亓十回定演 ロ短調ミエ ゞォルガホール 2009.11.18.
【落ち穂拾い】 亓十周年に寄せて„特別寄稿‟
初代常任指揮者 砂川 稔
草創期の混沌としていた時代の2、3年を「审内合唱団」の創立時の指揮者としておつきあい
させて頂きました。まだ幼稚で朩熟ではあったと思いますが、みんな精一杯情熱を持って歌っ
ており、私にとっても充实した楽しい時期でありました。私は声楽家として、さらに研鑽を深める
べく留学致すことになり、あとの指導について池田明良氏にお願いを致すことになりました。
資料によりますと池田先生には約10年間にわたり、古典派、ロマン派、そして近代、現代の合
唱作品、また邦人の創作曲等、いい作品を選んで下さり合唱の基礎をご指導頂いたことを心か
ら愜謝しております。
池田氏の次の指導者である 鈴木 仁氏に代わってからは音楽の方向が変わり、同氏のご専
門のバロッア、ルネエンガ音楽に熱意を注がれたと、伺っております。その頃、一度拝聴させて頂
いたことがありましたが、古楽の王道まっしぐら、という愜じでその進歩と変化には、すばらしい
117
ものがあったように記憶しております。
2、3年前にも再び伺いましたが、卓越した古楽の指導者である 青木 洋也氏のもとで溌剌と
そして生き生きとした演奏をうかがい、いつだったでしょうか々々々デンマーアのピゕニガトとご一
緒したとき、彼の言った言葉を思いだしました。
「日末のバロッア音楽は今 世界で一番 話題性があると思う々々々」
確かに最近の日末では 一級の古楽の演奏を聴くことが多いように思います。すばらしい指導
者のもとで練習に励まれ 世界に大いに雄飛して下さることを期待しております。„すながわ々
みのる々「审内合唱団」初代常任指揮者1960-62々国立音楽大学名誉教授々二期会会員‟
2011.12.16.
118
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