2014/10/17 第 3 回マクロゼミ プラトン『パイドン』 担当班:齋藤、林、川野

2014/10/17 第 3 回マクロゼミ
プラトン『パイドン』
担当班:齋藤、林、川野
問 1 p.38 「 … 正 し く 哲 学 し て い る 人 々 は 死 ぬ こ と の 練 習 を し て い る の だ 」 と あ る が
どういうことか。以下のキーワードを用いて説明せよ。
(キーワード:希望、解放、肉体、魂)
【引用】
p.31 …哲学者は他の人々とは際立って異なり、できるだけ魂を肉体との交わりから解放す
る者であることは、明らかだね」
同上 肉体を通してやってくる快楽に見向きもしないような人は、ほとんど死んだも同然
の状態にあるのだ…
p.32 では、魂はいつ真理に触れるのか。なぜなら、肉体と協同してなにかを考察しようと
試みれば、その時には、魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは、明らかだからだ」
同上 「したがって、もしも存在するものの何かが魂に明らかになる場所がどこかにある
とすれば、それは思考においてではなかろうか」
p.33f では、君は、目以外の他の肉体的な感覚によって、それらを把握したことがあるか。
僕はすべてのものごとについて語っているのだ。たとえば、大きさ、健康、力、一言でい
えば、他のすべてのこういうものごとの本質、それぞれのものごとが正にそれであるとこ
ろのもの、について語っているのである。いったい、これらのもののもっとも真実な姿が
肉体を通して見られるであろうか。
p.34 その人は…純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋
なそのもの自体のみを追求しようと努力する人である。その人は、できるだけ目や耳やい
わば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交わ
れば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。
p.38 すなわち、魂の肉体からの解放と分離が、死と名づけられているのではないか
同上 哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。
p.39 あの世へ着けば、一方では、生涯を通して憧れつづけてきたもの、知恵、を得るとい
う希望があり、他方では、争いつづけてきたものと一緒にいることから解放されるという
のに、あの世へ行くのを喜ばないなんて。
【解答】
ソクラテスは、真、善、美といった、ものごとの本質の真の姿、すなわち真理は、思考
において明らかになるのであって、肉体を通して知ることはできないと考える。なぜなら
肉体は、例えば飲食の快楽や性の快楽、高価な装飾品への欲によって、真理を求める魂の
邪魔をするからである。われわれは、肉体が欲求を持つがために、真理について考えるこ
とができない。
そこで彼は「哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである」(p.38)と述
べたように、哲学者は、肉体から魂を解放して真理を探求しなければならないというので
ある。これは、本能に由来する欲望を理性によって抑え、理性によって真理とは何かを考
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えることだと言い換えてもいいだろう。
ところで魂を肉体から解放して分離するということは、死ぬということでもある。当時、
人間は肉体と魂から構成されていると考えられており、人間は死ぬとその肉体から魂が解
放され、ハデスの国へ行くと考えられていた。
このことから、肉体と魂の交わりを避け、肉体の快楽に見向きもしない哲学者の生活は
死んでいるのと同じだということができる。考えてみれば確かに、人間も動物の一種なの
で、情欲に振り回されるのも人間の姿の一つである。しかし、人間にのみ与えられた理性
を用いて、死んだように全肉体から解放されて真理を求めるのがソクラテスの哲学者像な
のである。彼は生涯を通して魂が肉体から解放されることを望み、哲学してきたのであっ
た。
だからソクラテスは、自らの死を目前に控えてもそれを恐れることはなかった。むしろ
彼は、肉体から解放されて知恵が得られ、またハデスの国で素晴らしい先人たちに会える
と言って、希望と喜びに満ちていたのである。
問 2 な ぜ 学 習 は 想 起 で あ る と い え る の か 。イ デ ア の 概 念 に つ い て 説 明 し た う え で 答
えよ。
【引用】
p.55 「あなたがよく話しておられたあの理論――それは、われわれの学習は想起に他なら
ないというあの理論ですが――それにしたがってもまた、それが真実であれば、われわれ
はなにか以前の時に、現在想起していることを学んでしまっている、ということにならざ
るを得ません。だが、このことは、もしもわれわれの魂がこの人間の形の中に入る前に、
どこかに存在していたのでなかったならば、不可能です。だから、この点からも、魂がな
にか不死なるものである、と思われるのです。」
p.56 「では、知識がなにかこんな風な仕方で生じたときに、それは想起であるということ
にも、われわれは同意するだろうか。どんな風な仕方かと言えば、こんなだ。もしもだれ
かが何かを見たり、聞いたり、なにか別の感覚でとらえたりした場合に、その当のものを
認めるばかりではなくて、別のものをも想い浮かべるとすれば――この両者については同
一のではなく、別の知識が存在するのだが――この思い浮かべたものをかれは想起したの
だ、と言うのは正しくはないだろうか」
p.57 「ところで、恋する人々は、かれらの愛する少年たちがいつも使っている竪琴とか、
上衣とか、なにかそんなものを見ると、今僕が述べたことを経験するということは、君も
知っているね。かれらは竪琴を認めると、その竪琴の持ち主であった少年の姿形を心に想
い浮かべる。これが想起なのだ。…」
同上. 「では、そういうことがある種の想起ではないかね。ことに、時間の経過と注意を払
わなかったために、すでにすっかり忘れていたものごとについて、この経験をする場合に
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はね」
p.61 「…だれかが何かを見て、自分が現に見ているこのものは存在するもののうちでなに
か別のものになろうと望んでいるが、不足していて、かのもののようにはなれず、より劣
ったものである、ということに気付く時、多分このことに気付いた者は、かのものを必ず
予め見たことがあるのでなければならない。かのものとは、かれが現に見ているものがそ
れに比べれば似てはいるが、より劣っている、と言われているもののことだ」
p.64 「だが、これに対して、思うに、もしもわれわれが生まれる前に知識を獲得しながら、
生まれるや否やそれを失った とするならば、そして、後にその知識の対象について感覚を
用いながら以前に持っていたかの知識を再び把握するのだとするならば、われわれが『学
ぶこと』と呼んでいる事柄は、もともと自分のものであった知識を再把握することではな
かろうか。そして、これが想起することである、と言えば、われわれの言い方は正しいだ
ろうね」
p.67 「もしも、われわれがいつも話し続けているもの、
『美』や『善』やすべてのそういう
実在が、たしかに存在するならば、そして、そういう実在がかつてはわれわれ自身のもの
としてあったことを再発見しながら、感覚によって把握されるすべてのものをその実在に
遡って関連付け、相互の類似をたしかめるのならば、これらの実在が存在するように、わ
れわれの魂もまた、われわれが生まれる以前にも存在したのでなければならない。…そし
て、これらの実在が存在することと、われわれの魂がわれわれが生まれる以前にも存在す
ることとは、同じ必然性のもとにあり、これらの実在が存在しなければ、われわれの魂も
また生まれる以前に存在しないのではないか」
p.142 「…これらのものもまた、自分自身のうちにある性格(イデア、形相)と反対の性
格を受け入れないらしい。むしろ、反対の性格が近づいてくると、それらは滅びるか退却
するかなのである。…」
【解答】
想起とは一般的には過去に経験した事物、事象やそれに関する表象を思い出すことであ
る。私たち現代人は、生まれてから様々なことを経験し蓄積するから想起することができ
るのだと考える。
しかし、本著で述べられている想起とはこのようなものではない。本著において、人間
は生まれる以前に知識を獲得しながら、生まれるや否やそれを失った存在としている。そ
して、視覚などの感覚を通し様々な触発が起こることにより、生まれる以前持っていたが
忘れていた知識を再び把握するのである。忘れていた知識を再び把握するという現象は想
起であるといえる。そのために、学習し新しい知識を身につけたと思っても、実は忘れて
いたことを思い出しているだけなので、学習とは想起であるといえる。
だが、人間は生まれる以前に知識を獲得しながら、生まれるや否やそれを失った存在と
いえるのはいったいなぜだろうか。このことは「…だれかが何かを見て、自分が現に見て
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いる者は存在する物の内でなにか別のものになろうと望んでいるが、不足していて、かの
もののようにはなれず、より劣ったものである、ということに気づく時、たぶんこことに
気付いた者は、かのものを必ず予め見たことがあるのでなければならない。かのものとは、
かれが現に見ているものがそれに比べれば似ているが、より劣っている、と言われている
もののことだ」(p.61)といったように現実世界では経験していないことを私たちは思い浮
かべること(比較)することができるためである。このようなことが可能であるというこ
とは生まれる前から知っているためであると考えたためにプラトンは学習とは想起である
と考えた。
そして、このような想起が行えるのは、肉体が死んでも魂は不滅のものであり、霊界で
見ているものそのもの(イデア)を見ていたためである。見ているものそのもの(イデア)
とは、例えば私たちは善や美というものを思い浮かべることができないが、善や美がなん
であるかはわかる。これは、霊界で善や美そのもの(イデア)をみたからであり、私たち
はそのイデアに重なるものを善なるもの、美しいものと見ているのである。私たちがバラ
や桜を美しいと感じるのは、バラにはバラなりの、桜には桜なりの美しさのイデアが分与
されているからである。人々はそれぞれに分与されている美しさのイデアを見ることによ
り、美しさというものを想起するためである。
追記:プラトンはなぜイデア論や想起といったことを考えたか
プラトンがこのような形而上学的といえるようなイデアや想起といった考え方をしたの
は、どうしてだろうか。それは、プラトンがそして彼の師であるソクラテスが真・善・美
といった具体的には目に見えないけれども、確かにあると考えられる観念をなぜ人間は所
持しているのか疑問をもったからだと考える。そして、真・善・美といったものを見るこ
とは出来ないけれども、なにが真であり、美であり、善であるかということを人間はある
程度共有(共通感覚として所持)しており、ひいては考えや感覚の普遍性・規範性を持つ
ことに関して疑問をもったからであると考える。
人間はばらばらに生まれ、育ち、なにが真・善・美であるかということは明確には教え
られずに育ったはずである。そうすると、真・善・美とはなんであるかということに関し
ては一致せず、個々の意味・価値体系がある世界を生きることになるはずである。
だが、実際にはほとんどの人間は一致した普遍性・規範性を持っている。そのために世
界自体が普遍性・規範性をもった世界像(イデア界)があるためにそこから働きかけられ
ているからと考えないと人間のもつ普遍性・規範性について説明することができなかった
ためであると考える。
問 3 p.153 「 … わ れ わ れ が 生 と 呼 ん で い る こ の 時 間 の た め ば か り で は な く 、 未 来 永
劫 の た め に 、魂 の 世 話 を し な け れ ば な ら な い の で あ る 。」と あ る が 魂 の 世 話 と は な ん
であるか説明せよ。また、鎌田ゼミ生である私たちは現代においてどのように魂の
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世話ができるか、各自答えよ。
【引用】
p.79 なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体
を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたので
ある。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平
然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。
p.84 つまり、学ぶことを愛する者なら知っていることだが、哲学がかれらの魂を世話しよ
うと引き取ったときには、かれらの魂はどう仕様もなく肉体の中に縛られ糊付けにされて
いる。
p.153 …しかし、いまや、魂が不死であることが明らかな以上、魂にとっては、できるだ
け善くまた賢くなる以外には、悪からの他のいかなる逃亡の道も、また、自分自身の救済
もありえないだろう。
同上 というのは、魂がハデスに赴くにあたってたずさえて行くものは、ただ教養と自分
で養った性格だけであり、これらのものこそが、死出の旅路の始めからすぐに死者をもっ
とも益しあるいは害すると言われているものなのである。
p.167 …われわれはこの世において徳と知恵にあずかるために全力を尽くさなければな
らないのだ。なぜなら、その報いは美しく、希望は大きいのだから。
p.168 そして、学習に関わる快楽に熱中し、魂を異質の飾りによってではなく、魂自身の
飾りによって、すなわち、節制、正義、勇気、自由、真理によって飾り、このようにして、
運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで、ハデスへの旅を待っている者であるかぎり
は。
p.171 いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤
謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。
【解答】
魂の世話とは、魂をなにか異質なものにより飾るのではなく、魂自身にそなわっている、
節制、正義、勇気、自由、真理といったイデアを引き出すことである。ここでいう異質な
ものとは、肉体に関わる様々な快楽や装飾品などをさし、つまり肉体が持つ欲のことであ
る。そして魂の世話は、欲からの解放を遂げ学習に関する快楽に集中すること、つまり哲
学をすることによって可能となるのである。
哲学をすることとは、死の練習を行うことであるともいえよう。ここでいう死の練習と
は、うまく死ぬことを考えるということではなく、また自らが死ぬ存在であるということ
を理解することだけではない。死の練習とは、自分が死ぬ存在であるということを理解す
ると同時に、肉体が持つ欲、およびバイアスからの解放をも意味する。ところで、人はな
ぜ死を恐れるのであろうか。ここには、死ぬ = 恐怖というバイアスがうえつけられてい
るのだ。死の練習により、このバイアスからの解放をすることで、人は魂の世話を行うこ
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プラトン『パイドン』
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とを可能としているのだ。つまり、魂の世話とは、死の練習であるともいえよう。このよ
うにして欲からの解放を遂げた魂は、ハデスに教養と自身で養った性格を持っていき、そ
こで徳や知恵を授けられるのであるとソクラテスは述べている。
では、鎌田ゼミ生である私たちは、どのようにしてこの魂の世話をすることができるの
であろうか。それは、やはり鎌田ゼミらしく哲学をすることなのではないだろうか。哲学
をすることとは、「考え続けること」であると私は考える。私たちは、数多くの難題な文献
に立ち向かい、その文献から普段考えないようなことを「ああではないか、こういうこと
をいいたいのではないのか」と考え続ける。考え続けることは時にすごく苦しく、馬鹿げ
ているのではないのかとさえ周りから言われることもある。しかし、このことが自分の魂
の世話に大いなる影響を与えているとするならば、これらは決して無駄なことではない。
私たちは鎌田ゼミで文献から読み取れる思想を始め、歴史、現代の社会問題、自分自身に
ついてなど、様々なことを考える機会を多く持つ。そして今、こうして私たちが鎌田ゼミ
で考え続けていることが、これから先の私たちの将来、もっと先の未来にまで良い影響を
与えてくれるとするならば、どんなに大変だとしても、考え続けることを諦めたくないと
私は思う。
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