5月15日レポート

第 2 回 小川待子
2015 年 5 月 15 日
講師:森孝一
はじめに
2003 年にぺりかん社から出版された『陶芸家
になるには』
(山田明氏との共著)の中で、私は小川
待子さんのことを、次のような書き出しで紹介し
ています。
「『陶芸家になるにあたって、目標とした作家
はいますか』という質問に対して、小川さんはは
っきり『日本の陶芸家のなかにはいません』と答
える。それは、大地から掘り出した球体を二つに
割ったような小川さんの作品が、これまでの日本
の伝統になかったからだ。小川さんの作品は、一
見、器の形態をとりながら、器の用の美よりも器を器たらしめている原点に立ち向かおうとしている。
だから、シンプルで斬新な作品が生まれるのである。」
私の質問に対して小川さんは、目標とする作家が「日本の陶芸家のなかにはいません」とはっきり
答えていますが、「当時全盛だったクレイワークにも違和感をもっていました。むしろ縄文土器とか
弥生土器のように、うつわが原点であって、内側と外側のあるかたちに興味がありました。内包する
かたち。他者を受け入れることができるという、やきものの特性を大切にしたい、本能的にそう考え
ていたと思います。むろん『オブジェ焼き』のような方向はもっと嫌だった。言葉としても。そうい
った時代の流れとは関係なく、自分自身が確固たる姿勢でつくる、という人がいてもいいんじゃない
かと思う。
」
(2011 年、小川待子インタビュー)と回想しています。この「時代の流れとは関係なく、自分
自身の確固たる姿勢でつくる」というのは、これまでの小川さんの一貫した創作姿勢です。小川さん
は常に「陶芸の根源を問う」作家であり、そこに、小川さんの芸術家としての本質を見ることができ
ると思います。
幼少時代の芸術的環境、そして東京芸大への入学
小川さんは 1946 年(昭和 21 年)、北海道札幌市に六人姉妹の末っ子として生まれました。祖父・小
川二郎は島根県松江市の生まれで、札幌農学校出身の実業家。アメリカ合衆国出身の教育者、札幌農
学校初代教頭のウィリアム・スミス・クラークの弟子で、1894 年(明治 27 年)札幌農園(種苗の通信販
売)を開業し、北海道で最初の百貨店・五番館(種苗の他、用品雑貨を販売)を設立しました。父はクリ
スチャンで内科医であり、独立展に油絵を出品する日曜画家でした。三女・洋子は洋画家、四女・京
子はピアニスト、その夫は音楽学者の海老沢敏、叔母は洋画家の小川マリ、その夫は洋画家・三雲祥
之助という芸術家一家でした。また、父の兄・小川譲二は北海道開発局二代目局長を務めていました。
こうした環境のなかで、小川さんの幼い感性が育まれていったといってもいいでしょう。
5 歳の時、青森市に転居。この頃、父にバイオリンの先生のところへ連れて行ってもらいますが、
彼女の手の大きさに合う楽器がないといわれてバイオリンを諦めます。また 6 歳の時、ケベック修道
院の若いカナダ人修道女にピアノを習いますが、姉のようにはうまく弾けないので諦めました。10
歳の時、東京都世田谷区に転居。この頃から、絵の好きな子供時代を過ごします。しかし、16 歳の
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時、油絵の暗い感じに違和感を覚え、
「室内でカンヴァスを塗り込めていくような自閉症的な生活は
嫌(いや)」と木版画を習い始めます。高校時代、姉(洋子)の住まいの近くに陶芸家の辻清明氏の窯が
ありましたので、連れて行ってもらい制作したことがありました。それが、「陶芸をやろう」と思っ
た直接の動機ではありませんでしたが、
「何というか、室内で四角い限られた空間に向かって、何か
を塗り込めていくような仕事より、日なたで地面にべたっと座って、固くなった土を叩いているとい
ったような作業にひかれていった。
」と小川さんはいっています。このように、小川さんは幼少時代
から意志のはっきりした子どもであったようです。
東京芸大、そしてパリ工芸学校留学
1966 年、小川さんは東京藝術大学(以後、東京芸大と略す)
美術学部工芸科(陶芸専攻)に入学しました。そこで、藤本能
道、田村耕一、加藤土師萌に陶芸を学びます。しかし、
「その
頃陶芸家になろうなんて、夢にも思わなかった。大学もただ
土を触るのが好きだから陶芸を専攻したのだと思います。大
学の先生は伝統工芸の先生でしたが、自分は違う、と思いま
した。芸大の陶芸専攻は何かを教わるというよりは、先生や
先輩の仕事を見よ、という感じでしたね。技術的な指導は殆
ど何も無かったです。徒弟制度のような雰囲気が残っていました。」といっています。
1967 年、小川さんは田村耕一の勧めで、九州の飯塚市歴史資料館まで弥生時代の土器の甕棺を見
に出掛け感激しました。芸大時代の彼女は縄文土器や弥生土器が好きで、フォンタナやブランクーシ
に興味があったようです。卒業制作は半球形の鉢と球形の壺でした。轆轤で球体を挽き、自分で調合
した黒マット釉と酸化鉄の赤で彩色したもので、それは、いまもずっとやっている酸化鉄を焼き締め
た器に直接塗る手法です。
1969 年、小川さんは人類学者の川田順造氏と結婚し、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、スペ
インを経て、パリに着き、翌年からパリ工芸学校で研修生として陶芸を学びました。パリ工芸学校で
は、職業訓練学校的なカリキュラムがびっしりと詰まっていて、石膏型の技術はマスターできました
が、肝心の作りたい作品を自由に作ることはできませんでした。この年(1970 年)、パリのブランクー
シのアトリエを訪ね、鉱物博物館で鉱物標本に出合い感動します。1971 年、フランスから帰国した
小川さんは、東京芸大の大学院を中退し、夫の学術調査に同伴して、西アフリカで 3 年半暮すことに
なりました。
アフリカでの原体験
小川さんが訪れた西アフリカの内陸国・ブルキナファソの面積は、およそ日本の七割。乾ききって
荒れた大地に泥小屋がポツリ、ポツリと点在していました。その大地での人びとの暮らしは、苛酷と
いう言葉そのもの。雨季の前は日陰でも 45℃を超える暑さが続き、生まれた子どもの三分の一が乳
幼児期に死んでいきます。ロバに引かせて車で運んでくる水は、水といっても泥水。濾過し、沸騰さ
せてからでないと飲むことができません。ところが、小川さんは、その苛酷なアフリカの自然にもす
ぐに適応し、周囲の人びとを驚かせました。
「サガボでも何でも食べてみておいしいし、もろこしのビールもひょうたんの器でまわし飲みして
平気でしたし。アフリカの人たちのほうがおいしいものを食べていると思うんです。バオバブの葉や
野草のおつゆでも、ソバガキでも、香りも味もすばらしい。鶏も、ちゃんと鶏の味がします。」これ
は、アフリカでの食べものの話だが、小川さんの適応力をよく伝えているエピソードです。
そのサバンナの地で、小川さんは土器を作る人たちと出会いました。そして、彼女のアフリカでの
土器作りが始まりました。さらに、ロアンガ、カンポアガ、ロロカ、マノン、ニミナ,トンカラミン
など、近隣の国をふくめて 17 ヵ所の土器作りの村々を訪ねることになりました。雨季になると粘土
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の採掘場の穴に水が溜まり、畑仕事もいそがしくなるので、土器を作るのは乾季のときだけでした。
まず平らな石の上で土を砕き、すりつぶします。欠けた素焼きの器の中に泥水につけて混ぜ、足で踏
み、円板状にして土を作ります。その土をテベレ(土の凹型)の上に置いて、トーデンビラ(素焼きの
槌)で叩いてのばし、少しずつ土を動かしながら丸く壺の形や鉢の形に仕上げていきます。窯は粘土
を円筒形に積み上げたもので、高さ 1 メートル 60 センチ、直径は 1 メートル 50 センチほど。燃料
はもろこしの軸。600℃から 700℃で、約 1 時間半ぐらいで焼き上げます。
ある時、釉薬の掛かったやきものを作ってみようと思い、鉱山局で釉薬の原料となる長石のある場
所を聞き、町から 150 キロぐらい車で走って探しに行ったことがありました。その時の体験を、小川
さんは「自然の状態での長石を見たことがないから、これはと思う岩を金槌で割ってみたら、内部が
真っ白で。材料店で袋に入れて売っているあの白い長石がちゃんと出てきたんです。その塊(かたまり)
を持って帰って来たのだけれど、長石と珪石と雲母がまじってとても美しかった。
」と語っています。
アフリカで土器ばかり眺めて暮らしていた小
川さんが、釉薬のたっぷり掛かったやきものを作
りたいと思ったのも無理はないでしょう。もろこ
しをすりつぶす石の台の上で岩石をくだき、灰を
混ぜてなんとか釉薬はできました。しかし、この
サバンナで高価な薪を大量に使って、わざわざ日
本式のやきものを焼く意味はどこにもありませ
んでした。このサバンナには、この大地の生活に
あった土器が一番ふさわしいと分かりました。ア
フリカでの 3 年半というもの、小川さんは病気一
つすることなく過ごしましたが、ある日、自動車
事故に遭い、パリの病院に入院することになりました。幸い夫は軽症だったので先に退院し、小川さ
んも 5 ヵ月後には夫の待つアフリカに再び戻りました。そして、夫とともに日本へ帰ることになりま
した。
帰国してから 1 年後に再手術。骨を支えていた金具を取り出しました。その後もリハビリのため仕
事ができず、ぶらぶらする日々が続きました。3 年後には子どもが生まれ、今度は子育てに追われる
日々の中で、夫の原稿を清書し、文章に添えるカットを描き、小さな仕事場を作りやきものを続けま
した。この頃、小川さんは「暮しを創る-クラフト展」(銀座・松屋)にコバルト釉や白釉の大皿や花
瓶などを出品しています。そして、10 年の歳月がまたたく間に流れました。先輩、後輩に追い越さ
れていくことのジレンマの中で、自分はどうあるべきかを問い続けました。結局、「そうだ。もう一
度、芸大を出たときの初心に帰ろう」と思いました。アフリカから帰国したばかりの頃は、アフリカ
的な民芸品のような土器に対して、人びとが持っている既成概念への抵抗感がありました。しかし、
時を経てみると、そうしたしこりも焦(あせ)りもすべて消え去っていました。小川さんが 38 歳とい
う遅い陶芸家デビューを果たした裏には、そうした理由があったようです。大地から掘り出した球体
を二つに割ったような小川さんの作品が、アフリカから帰って、すぐに生まれた訳ではないのです。
「天日にさらして、固く乾燥させた 30 キロくらいの土の塊を鉈(なた)で割って、私は形を見つけ
だす。一つの器を二つに割って、その口縁部をつなぎ合わせ、視点の異なる新しい器を作る。異なっ
た二種類の土を合わせて成形し、1280℃で焼成し、火の力によって亀裂を生じさせる。大きな球体を
作り、その底面を変えて焼成することによって、器にゆがみを生じさせ、新しい形に変える。美しい
やきものを作りあげるのではなく、土自身がもっている『力』を見つけだして形にすることを、私は
いつの間にか始めていた。
」
この文章は、三春堂ギャラリーでの 38 歳の初個展の折に、小川さん自身が制作のプロセスを語っ
たものですが、この型を使って球体を成形するこの技法は、アフリカのモシ族の叩きの技法からヒン
トを得たもので、焼成は電気窯です。異なった二種類の土とは長珪石粒に磁器の粉末を混ぜたもので
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す。普通の粘土は大きな塊のまま焼くと爆発します。この土の発見によって、1990 年に手びねりで
作った筒形の作品が可能になったのだといいます。小川さんの作品は、土を使って何かを表現すると
いうのではなく、すでに「土の持っている『力』を見つけだして形にすること」にあります。それは、
同時に自分自身を探すという作業でもあったようです。
1990 年のギャラリー上田(東京・銀座)での個展では、
「遺跡などのように、砂の中に壊れたものが
埋まって半分顔を出しています。そんなやきもののイメージ」が、ようやく成熟して尖底形(せんてい
けい)の手びねりの器となりました。2000
年のギャ
ラリー小柳(東京・銀座)での個展では、砂漠で偶然
見つけた湧き水のイメージを連想させる尖底形の作
品が発表され、これまでの『割る』シリーズからの
変化が見られました。この個展から、
「手びねりの小
型の尖底形の器がいくつか組み合わされ、
『群』とし
て構成されるようになった。
」こうして、小川さんの
作品は成熟し、発酵していく記憶の目覚めの時を待
っていたようにも思えます。
おわりに
小川さんは、器には内側のかたち、外側のかたち、そして二つの接点となる口のかたちという、三
つのかたちがあるといいます。
「うつわを割るときには半乾きでなければいけないんです。硬すぎる
と崩壊してしまう。磁土の塊を割る場合は、塊の内側は生乾きで、外側はカチカチになったものを割
ることもある。外の表情は硬いが、内側はまだ生乾きだから、柔らかい土をちぎりとったようなかた
ちになる。ひとつのかたちのなかに土の持っている二つの性質を表現出来る。内側と外側のマチエー
ルを完全に変えることもあります。<うつわ>というのは、内側を発見するという面白さがあると思
います。私はやきものの口の部分を大切にするのは、その内側と外側の接面である口の部分が、やは
りとても重要なポイントだと思っているからです。口の縁は空間を切っているわけですから。私のや
きものが厚いのも、口の部分の切断面を見せるためです。」さらに、
「1990 年の筒型とまわりの塊と
の間にも、空間が出来ていた。あれはうつくしいんです。意図的に作るのではなくて、自然に焼いて
いくうちに土自身の力でうまれる空隙がすごく好きで。それは<93-U-Ⅰ>の一連の作品の、陶土と
磁器の性質の違い、磁器が収縮することによってうまれる自然の空間のうつくしさに繋がっていま
す。
」と語っています。
小川さんは人類学者の夫の学術調査に同伴してアフリカに行き、そこで出合ったアフリカの土器を
通して、自身の中に眠っていた縄文に目覚めたのではないだろうか。「地面にくっついて生活したこ
とで、意識的に何かを取り入れるというのではなくて、無意識に身体に染みついた感覚がある」とい
う、この作家の内部には、そうした原初的なものへと向かう回路があり、それが縄文の感性なのだと
私は思っています。小川さんの作品は、これまでの日本の伝統にはなかったものかも知れないが、時
代の流れとは関係なく、自分自身の確固たる姿勢でつくる彼女の作品は、決して異端な存在ではあり
ません。器が持つ〝他者と一体になって何かが成り立つというすばらしさ〟〝一つの器を二つに割る
という行為〟〝火の力によって生じる亀裂〟〝収縮することによって生まれる自然の空間のうつく
しさ〟〝土の持っている「力」を見つけ出して形にすること〟縄文というフィルターを通して見れば、
こうした小川さんの作品に内包される陶芸思想こそ、まさに陶芸の本質を語っているのであります。
おわり
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