hakuon237

氏名
髙坂
ヨミガナ
コウサカ ハヅキ
学位の種類
博士(音楽学)
学位記番号
博 音 第 237号
学位授与年月日
平 成 26年 3月 25日
学位論文等題目
葉月
〈論文〉 アンビヴァレンツという世界
-マーラーの交響曲第七番の形式および内容解釈の試み-
論文等審査委員
(主査)
東京藝術大学
教授
(音楽学部)
土田
英三郎
(副査)
東京藝術大学
教授
(音楽学部)
片山
千佳子
(副査)
東京藝術大学
教授
(音楽学部)
大角
欣矢
(副査)
東京藝術大学
准教授
(音楽学部)
福中
冬子
(副査)
東京藝術大学
非常勤講師
戸澤
義夫
(論文内容の要旨)
本 論 の 目 的 は 、解 釈 史 に お い て な が ら く 首 尾 一 貫 性 に 欠 け る と 評 価 さ れ て き た グ ス タ フ・マ ー ラ ー (Gustav
Mahler, 1860-1911) の 交 響 曲 第 七 番 (1904-1905) に 、全 体 的 な 解 釈 の 視 点 を 付 与 す る 試 み で あ る 。そ の 際 、
具体的な楽曲分析と、ハプスブルク帝国末期の社会的・文化的コンテクストを複眼的に視野に入れることに
よって、アンビヴァレンツという、構築性とは一見相反する契機が、むしろ作品全体をつらぬく本質的な構
築要素にほかならないことを明らかにする。
交響曲第七番は、単純明快な構造や華やかなフィナーレの存在にもかかわらず、マーラーの中でもとりわ
け「難解な」作品として知られてきた。音楽の経過は不連続的で、首尾一貫性を見出しにくい。近年はその
不連続的な特徴にこそ「新しさ」を見出すような試みもみられるが、そのほとんどは、個々の楽章や限定的
なトピックに焦点を絞った研究である。
しかし、交響曲全体を見渡す視点の設定を困難にしてきた数々のアンビヴァレントな特徴、さらにはそこ
に起因するアイデンティティの不確かさは、世紀転換期オーストリアの文化的・社会的コンテクストの枠内
で眺めてみると、むしろこの作品のアイデンティティとして浮かび上がってくる。当時のハプスブルク帝国
では、あらゆる局面において不徹底な態度が貫かれていた。何か一つを選ぶことも、何か一つを排除するこ
ともない不徹底な態度、つまり「あれでもこれでもある」というアンビヴァレントな態度は、多様性を包含
したままに、ひとつの多民族国家を維持するために編み出された方策だった。一見否定的なオーストリア的
性格にイローニッシュな表現を与えることで、その価値転換を図ったのが、たとえばローベルト・ムージル
(Robert Musil) で あ る 。 交 響 曲 創 作 を 「 世 界 」 の 表 現 と み な し て い た マ ー ラ ー は 、 こ の オ ー ス ト リ ア 的 な
「あれでもこれでもある」の精神によって、交響曲第七番をひとつの「世界」として構築しようと試みたと
考えられる。
本 論 は 3部 、8章 構 成 を と る 。第 1部 は 本 論 の 導 入 的 な 部 分 に あ た る 。は じ め に 交 響 曲 第 七 番 の 初 演 以 来 の 評
価 の 変 遷 、 お よ び そ れ に も か か わ ら ず 存 在 し 続 け た 論 点 を 確 認 し ( 第 1章 )、 た び た び 言 及 さ れ て き た こ の 作
品 の ア ン ビ ヴ ァ レ ン ト な 特 徴 を 、 当 時 の 社 会 と の ア ナ ロ ジ ー に よ っ て 読 み 解 く 可 能 性 を 議 論 し た ( 第 2章 )。
第 2部 で は 個 々 の 楽 章 に 目 を 向 け 、「 世 界 」 を 構 成 す る ア ン ビ ヴ ァ レ ン ト な 諸 局 面 が そ れ ぞ れ ど の よ う な 音
楽 表 現 へ と も た ら さ れ て い る か を 考 察 し た 。第 一 楽 章 で は 、ひ と つ の も の か ら 多 様 に 展 開 す る 世 界 の あ り 様 、
あるいは、多様性が根本ではひとつにつながっている世界のあり様が、絶妙な均衡を通して表現されている
( 第 3章 )。 第 二 楽 章 〈 夜 の 音 楽 I〉 に は 、「 さ す ら い 」 の 独 特 な 時 間 感 覚 を と お し て 、 現 在 と 永 遠 と い う 一 見
矛 盾 す る 時 間 の ア ン ビ ヴ ァ レ ン ツ( 第 4章 )を 、第 三 楽 章 ス ケ ル ツ ォ に は 、現 実 と 非 現 実 の ア ン ビ ヴ ァ レ ン ツ
( 第 5章 ) を 、 そ し て 第 四 楽 章 〈 夜 の 音 楽 II〉 に は 、 愛 の ア ン ビ ヴ ァ レ ン ト な 感 情 表 現 ( 第 6章 ) を 聴 き 取 る
ことができる。
第 3部 で は 、形 式 面 と 内 容 面 か ら 第 五 楽 章 ロ ン ド・フ ィ ナ ー レ を 扱 う が 、第 一 楽 章 か ら 第 四 楽 章 ま で の 四 つ
の楽章とは異なり、それまでの楽章を再帰的に意味づける終楽章への着眼は、同時に交響曲全体への視野を
持 つ こ と に も な る 。第 7章 で は 、フ ィ ナ ー レ が「 変 奏 風 ロ ン ド 」を 形 式 の 基 盤 と す る こ と に よ り 、異 な る 地 域・
時代の多様な音楽的要素を取り込みつつ、主題の観点からは関連のあるひとつの全体を作り上げていく展開
方 法 に つ い て 考 察 し た 。第 8章 で は 、デ ィ テ ュ ラ ン ボ ス の ど ん ち ゃ ん 騒 ぎ の よ う な 性 格 、そ し て 唐 突 で 不 自 然
な 第 一 楽 章 の 主 題 の 回 帰 の 意 味 を 、マ ー ラ ー 自 身 が 強 調 し た「 明 朗 heiter」と い う 言 葉 の も つ こ れ ま た ア ン
ビ ヴ ァ レ ン ト な 意 味 を 通 し て 明 ら か に し た 。フ ィ ナ ー レ の「 明 る さ 」は あ り き た り で 一 義 的 な も の で は な く 、
ディオニュソス的陶酔のなかで達成される途方もない自然と神との合一、そしてそれに対して人間が感じる
畏怖の入り混じったアンビヴァレントな表現として解釈することができる。
交響曲第七番は、交響曲第三番のように世界の諸相を「段階的な発展」をとおして描き出すのではなく、
「あれでもこれでもある」の精神に基づき、矛盾し、ときには相反するものさえも共に響かせる
(sym-
phonisch) と い う 方 法 に よ っ て 、 多 様 性 を 包 含 し た 「 世 界 」 の 構 築 を 試 み て い る 。 五 つ の 楽 章 が 構 成 す る 全
体のシンメトリー構造は、世界をかたちづくる多様なレヴェルのアンビヴァレンツを序列のない均衡状態に
置き、全体を、多層から成るひとつの統一体として提示するためのかたちであった。
(総合審査結果の要旨)
本論文はグスタフ・マーラーの交響曲第7番に関する解釈学的研究である。全体の首尾一貫性のなさと謎
めいて「明朗」なフィナーレなどのために、マーラーの交響曲のなかでもとりわけ難解とされ、統一的な作
品像を拒否してきたこの作品に、正面から取り組んだ意欲的な研究である。近年では先行研究もかなり存在
するが、多くは個々の楽章や事象に限定されたものであり、交響曲を全体として論じたものではないため、
ここでは全体的な解釈の視点を提示することが試みられている。
序 章 と 第 1 、2 章 で は 受 容 史 と 研 究 史 、そ れ に 本 論 に お け る 視 点 が 論 じ ら れ る 。Gordon 1998を 受 け て 、ハ
ープスブルク帝国末期の社会的・文化的コンテクストとのアナロジーからこの作品を見直すことによって、
多 層 的 な「 ア ン ビ ヴ ァ レ ン ツ 」と ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 不 確 か さ 、
「 カ カ ー ニ エ ン 」的 な「 あ れ で も な い 、こ れ
で も な い weder/noch」 な い し 「 あ れ で も あ る 、 こ れ で も あ る 」 が 、 む し ろ こ の 作 品 の 本 質 的 な 構 築 要 素 で あ
ることが主張される。第3章以降では、この「アンビヴァレンツ」が個々の楽章の意味論としても論じられ
る(第1楽章「遠心する音楽」は多様性と統一性、第2楽章「さすらい」は現在と永遠、第3楽章「影の救
済 」は 現 実 と 非 現 実 、第 4 楽 章「 匿 名 で う た う 愛 の 歌 」は 愛 の ア ン ビ ヴ ァ レ ン ツ )。フ ィ ナ ー レ 第 5 楽 章 は と
くに問題性をはらんだ楽章であり、また作品全体にも関わるものであるため、最後の2章(第7章「陶酔の
ロ ン ド 」、 第 8 章 「 世 界 の デ ィ オ ニ ュ ソ ス 的 合 一 」) で 詳 述 さ れ る 。 フ ィ ナ ー レ が 変 奏 風 ロ ン ド を 取 る こ と に
より、諸ジャンルや地域、時代など多様で異なるものが同一のものに関係づけられること、作曲者自身が強
調した「明朗さ」は「ディオニュソス的陶酔」のなかで達成される自然と神の合一、そしてそれにたいする
畏怖の入り混じったアンビヴァレントな表現であるという。結論として、この作品の構造はひたすら「アン
ビヴァレンツ」という原理に貫かれたシンメトリーであるとされる。
近年のニュー・ミュジコロジー的な傾向と同様、使える材料は可能なかぎり使用して、音楽作品の意味を
多角的かつ深く読み解こうとする研究である。唯一の正解というものがない解釈学であるとはいえ、詳細な
音楽分析に支えられ、伝記的・言説的な情報に関して可能な限り実証的な手続きを確保した上でのことなの
で、論述にはそれなりに説得力がある。序論と初めの2章は、この研究の意義と方法論を提示する重要な部
分であるが、マーラーに関する多くの先行研究や近年の音楽学の動向にきめ細かな眼を配りながら、先行研
究の成果を批判的に取り込み、そこから自分なりの論を構築しようとしている点で高く評価することができ
る。ただし、例えばマーラー研究におけるテクスト論や「間テクスト性」概念の可能性についてきちんと論
じ た 方 が 、本 論 文 の 奥 行 き が 増 し た こ と だ ろ う 。個 々 の 楽 章 に 関 し て は 、細 部 に 問 題 が な い わ け で は な い が 、
とくに第3楽章スケルツォでフロイトの「不気味なもの」を援用した解釈や、第4楽章におけるヴァーグナ
ー の 《 マ イ ス タ ー ジ ン ガ ー 》 へ の 暗 喩 か ら 匿 名 性 の 愛 を 論 じ た 章 な ど は ― —異 論 も 多 々 あ り 得 る が ― —独 自 の
解釈で、読み応えのあるものとなっている。
しかしながら、第8章で突然ニーチェにからめて「ディオニュソス的なもの」が持ち出されてくると、陳
腐 な 議 論 に 肩 す か し を く わ さ れ た よ う な 気 分 に な る 。第 7 章 ま で 見 ら れ た 緻 密 で 論 理 的 な 解 釈 の 積 み 重 ね が 、
ここにきて崩されてしまった感がある。第3楽章で展開された精緻な論理構造がここでも生かされなかった
のは残念である。フィナーレについては論述で苦労したあとが窺えるのだが、作品全体がなぜシンメトリー
で あ ら ね ば な ら な い の か 、「 あ れ で も な い 、 こ れ で も な い 」 が な ぜ 積 極 的 な 「 あ れ で も あ る 、 こ れ で も あ る 」
に な る の か 、 論 理 的 に 説 明 で き て い な い 。 結 局 、「 ア ン ビ ヴ ァ レ ン ツ 」( こ れ を ど う 訳 す か に つ い て は 一 言 も
ない)や「全体」が明確に定義されてこなかったことが、第8章の弱さにつながっていると言わざるを得な
い 。モ デ ル ネ に お け る「 ア ン ビ ヴ ァ レ ン ツ 」に つ い て は Bauman 1991の 前 半 部 分 し か 参 照 し て い な い た め 、積
極的な姿勢と消極的な姿勢の議論が抜け落ちているのである。その他、解釈という際限のない行為そのもの
についての理論的意味づけがないこと、音楽分析の提示方法にもっと工夫があってもよいこと、マーラーの
創 作 に お け る 第 7 交 響 曲 の 位 置 づ け 、と り わ け 後 続 作 品 と の 関 係 が は っ き り し な い こ と な ど を 指 摘 し て お く 。
以上のような問題点はあるが、全体的には緻密な論述がなされており、個々の解釈にはおおむね説得力が
ある。本論文がマーラーの第7交響曲という作品のいっそうの理解に貢献し得るということは確かである。
よって学術論文として一定の水準に達していると認め、合格とする。