日時:2007年 9月 9日 主日2部説教

日時:2007年 9月 9日 主日2部説教
題名: 私たちを試みに会わせないで
説教:チョー・ヨンギ牧師
御言葉:マタイの福音書 6章 13節
「 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。〔国と力と栄えは、
とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」
<序論>
私は、『私たちを試みに会わせないで』という題名で恵みを分かち合いたい
と思います。
私たちが幼い時、田舎では冬に雉狩りをしました。銃で猟をするのでもなく、
弓を射って猟をするのでもありません。冬の夜、人々が皆集まって豆に穴をあ
けてそこに砒素を詰めてご飯粒でその穴を埋めます。夜遅くまでたくさんの豆
に穴をあけて砒素を詰めご飯粒で穴を埋めて、朝早く起きて崖にある畑に行っ
て、雉が通り過ぎるところに豆をばら撒いておきます。普段は豆がありません。
それにもかかわらず雉が通り過ぎるところに豆を撒いておいて畑の丘のところ
でうつ伏せになって小さくなって待ちます。そうすると朝日が昇る頃になると
雉が山から下りてきて、畑に餌を探しに来るのですが、雉が下りて来るやいな
や、これまたどうしたことでしょう。豆がたくさんあります。首をしきりにか
しげて始めは食べません。豆の周りをぐるぐる回って、私が見るといつも雄の
雉が豆を食べようとすると雌の雉が体を押して食べれないようにします。そう
すると雄は雌に対して腹を立てます。何度か雄が食べようとすると雌が防ぎま
すが、防ぎながら後には雌が先に豆を食べてしまいます。すると雄も食べ始め
ます。一度食べ始めると、どんどん食べます。そのうち2匹の雉はバタバタと
倒れてしまうのです。そうすると私たちは走っていってその雉を捕まえて内臓
を取り出して雉汁を煮て食べた思い出があります。誘惑というのはこのように
恐ろしいのです。雉も知っています。そこに豆があるはずがないのに、冬の季
節に、自分たちの通り道に豆があるはずがないのに、どうしてあるのか。間違
いなく每が入っているはずだということを知っていながらも誘惑に耐えること
ができず、その豆を食べて死ぬのを見たのです。
<本論>
1.心の欲望があるところに誘惑がある
誘惑の後には、いつも今日も悪魔が殺し盗み滅亡させる悪巧みが待っている
ということを知らなければならないのです。悪魔の欲望があるところには、必
ず誘惑があるのです。アダム夫婦に欲望の目を開かせた悪魔は、アダムとエバ
を誘惑して善悪の知識の木の実を取って食べるようにさせたのです。
神様は創世記2章17節に「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。そ
れを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。尐しの妥協もな
しに強く語られました。
必ず死ぬ。ところが悪魔はアダムとエバのところに来て、欲望の目を開くよう
にしたのです。
創世記3章4~5節に「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にま
せん。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがた
が神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」
おまえたちも神様のようになるという欲望を植えつけたのです。正常でない欲
望なのです。身分を越えた欲望なのです。人として造られたのに神様になるこ
とができるという貪欲を植えつけたのです。貪欲のあるところに誘惑は簡単に
入ってくるのです。アダムとエバの心の中に貪欲を植え付けた後、悪魔が導く
通りにエバが善悪の知識の木の実を取って食べ、夫にも与えたのでそれを食べ
て神様に反逆し、堕落してしまったのです。しかし、悪魔がイエス様に同じ手
段を使ったのですが、イエス様はつまずきませんでした。心を尽くして神様に
仕えるイエス様には、神様よりも上に上がろうとする欲望も貪欲もなかったの
です。イエス様が欲望と貪欲がないので誘惑がイエス様に触れることができま
せんでした。40日40夜断食した後、空腹を覚えられたので肉の情欲をもってイ
エス様を誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、
命じなさい。」神様の力を用いて空腹を満たせと誘惑したのです。心の欲望を
通して誘惑をしたのですが、イエス様は権能を用いて自らの空腹を満たす欲望
が全くありませんでした。ですからイエス様は答えて言われました。「『人は
パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書
いてある。」(マタイ4:4)断固としてサタンの誘惑を退けられました。する
と目の欲をもって誘惑をしました。「神殿の頂に立たせて、『あなたが神の子
なら、下に身を投げてみなさい。神は御使いたちに命じて、その手にあなたを
ささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされると書いてあ
りますから。』」と誘惑しましたが、イエス様は名誉を得ようとする欲望があ
りませんでした。ですから誘惑にあいませんでした。「イエスは言われた。
『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ4:
7)そうすると悪魔はこの世のすべての国々とその栄華を見せるために、非常
に高い山に連れて行き、言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを
全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4:9) 悪魔を拝むならこの世のす
べての国々とその栄華を与えると言いました。イエス様はこの世の栄華と功名
を得たいという貪欲がなかったために、その誘惑はイエス様に効果がありませ
んでした。「イエスは言われた。『引き下がれ、サタン。あなたの神である主
を拝み、主にだけ仕えよと書いてある。』」(マタイ4:10) イエス様は誘惑に
あわれませんでした。なぜならばイエス様の心の中に貪欲がなかったので、誘
惑がどんなにきても、イエス様は微動だにされませんでした。
聖書には、ヤコブ1章15節に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生み
ます。」
欲が心の座に占めれば、手段と方法を用いて、目的を達成しようと努力します。
欲が心に入ってくれば、その次には誘惑が入って来、欲の罠にはまって思いの
ままに引っ張られていくのです。詐欺・脅迫・不法・暴力・不道徳、どんなこ
とでも行い、それをなそうとするのです。
Ⅰテモテ6章9節に「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅
びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。」と語られて
います。
豊かになろうとする貪欲が心の中にいっぱいになると、その時から試みが近づ
き、罠にはまり、様々な愚かで害になる事をし、破滅と滅亡に陥るようになっ
ていると語られているのです。サタンが人を誘惑する時、よく使う4つの言葉
があります。始めの言葉は「これぐらいなら大丈夫じゃないか。」と言いなが
ら、誘惑の第一歩を些細なことのように感じさせるのです。しかし私たちは、
大きな魚も小さい餌に引っかかるということを覚えなければなりません。二つ
目は、サタンが言うには「たった一度なのに、どうして躊躇しているのか。一
度だけなら罪を犯して、次には、犯さなければいい。」このように誘惑するの
です。しかし一度罪を犯したなら、「おまえは一度罪を犯したから、もうなす
術がない。二回目、三回目、犯そう。」と引っ張っていくのです。三つ目は
「おまえはまだ若い。」このように言いながら誘惑を断とうとする心を先送り
させるのです。「まだ若いのに誘惑を断ち切ってこの世に背をむけて生きよう
とするのか。」多くの人々がこの誘惑に陥り、若い時代を虚しく過ごし、後悔
の涙を流すことが数多いのです。四つ目は「皆、このように生活しているのに、
おまえはどうして特に騒ぎ立てているのか?おまえも普通の人と同じように普
通に生きろ。」と言うのです。私たちの行いを合理化させようとするのです。
皆さん、悪魔はこのような言葉を通して私たちを誘惑します。しかし悪魔の誘
惑の後ろには、常に盗み、殺し、滅ぼそうとする意図があるということを知ら
なければなりません。悪魔の誘惑に陥るならば、その時から破滅が始まるので
す。
2.欲望という偶像
欲望という偶像を私たちの心の中に立てておくならば、その偶像を拝し、誘惑
に陥ることになります。イスラエルの初代王サウルは、有能な王でした。彼は
美しい男で、背も高く、力もある初代王として油注ぎを受けました。神様がア
マレクを打って滅ぼすことを願われました。ですからサムエルを送ってサウル
王に言いました。イスラエルがエジプトから上って来る途中、イスラエルを攻
めてきたアマレクを覚えているので、サウルは行ってアマレクを打ちアガグ王
を始めとして全ての民とすべての家畜を全部聖絶せよ言われたのです。神様の
極めて厳かな命令でした。それにもかかわらずサウル王はアマレクを打って、
その王アガグを生けどりにし、持ち物をすべて聖絶せずに、その中で良いもの
を残しました。
Ⅰサムエル15章9節に「しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥え
た羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖
絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」
なぜなら貪欲が入ってきて、貪欲が偶像になったのです。あまりにも牛と羊と
家畜が肥えていて良いものなので「ああ、これは私たちが持って行こう。」と
言って、神様の命令に背いて欲望の偶像にひざまずき、拝することになったの
です。ですから、彼を通してサタンが堕落するようにしむけたのです。サウル
はサムエルに叱られた時、弁解しました。「サウルは答えた。『アマレク人の
ところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あ
なたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しまし
た。』」(Ⅰサムエル15:15) なぜ神様の命令に従わず、アガグを生かしてお
き、肥えた家畜を生かしておいたのかと聞くと「ええ、民が良いものは神様に
いけにえとしてささげるために生かしておこうと引いて来ました。」弁解です。
まず欲が生まれ、神様の命令を拒否し、それから自分の行動を正当化するため
に嘘をついたのです。
サムエルは厳重に裁きました。Ⅰサムエル15章22節に「するとサムエルは言っ
た。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけ
にえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾
けることは、雄羊の脂肪にまさる。』」と言いました。王が神様のことばを退
けたので、神様もあなたを捨てて、王位から退けたと語られたのです。偶像を
拝するなと言われたのに、貪欲が偶像となり、神様の命令に従順するのではな
く、偶像が引っ張るがまま欲望について行き、結局滅びに至るのです。
イスラエルの最も偉大な王だったダビデも消すことのできない罪を犯しました。
ある日、昼寝をし、夕暮れ時に床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、
遠くでからだを洗っているバテ・シェバを見て、眩惑されました。誘惑が入っ
てくると、彼は誘惑の欲が引っ張るままに、他人の妻であるバテ・シェバを家
に召し入れて、姦淫をしたのです。それでそれを覆うために、その夫を戦場か
ら呼び寄せて、妻と寝るようにさせましたが、夫が従順せず、いつも王宮の門
のあたりで、家来たちといっしょに寝て、自分の家に帰りませんでした。忠誠
をつくす家臣でした。するとヨアブ将軍に手紙を書き「激戦の真っ正面に出し
て、この人が打たれて死ぬようにせよ。」ヨアブがこの手紙を受け取り、この
人を最も恐ろしい戦場に送って、敵の矢にあたって死ぬようにしました。その
人が死んだという報告を受けてダビデは豪傑に笑いながら「剣はこちらの者も、
あちらの者も滅ぼすものだ。」自分の罪を正当化しました。その時、預言者ナ
タンが来て、何と言いましたか?
Ⅱサムエル12章9~10節に「それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげ
すみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、
その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。今や
剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ
人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」
貪欲の偶像にひざまずき、貪欲がさせるままに姦淫をするなと言われたのに、
他人の妻を奪って姦淫をし、その夫ウリアを激戦で剣に打たれて死ぬようにし
た罪によって、ダビデの家から剣が離れなくなったのです。その実の息子アブ
シャロムは、父を殺すために革命を起こし、裸足でその座から追い出される悲
劇が起き、兄弟同士で戦い殺しあう悲劇が、その家庭から離れることがなかっ
たのです。罪の代価は死です。悪魔はいつも誘惑を偶像として誘惑につまずく
ようにした後、盗み、殺し、滅ぼすことを続けてするのです。
新約聖書にもイスカリオテ・ユダが、権力とお金を愛してイエス様を売り飛ば
しました。イエス様が王の王、主の主になると思ったのに、十字架につけられ
て死なれると言われたので、腹が立ったイスカリオテ・ユダは、イエス様を売
って権力とお金を得ようと考えました。
ヨハネ13章2節に「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカ
リオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが」と語られて
います。
悪魔の考えを受け入れたのです。なぜならば、権力やお金の貪欲を持っていた
イスカリオテ・ユダだったので、権力と貪欲を願っていたので、その隙を突い
て悪魔がイエス様を売る考えを吹き込んだのです。
マタイ26章14~16節に「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダ
という者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。『彼をあなたがたに
売るとしたら、いったいいくらくれますか。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼
に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」
銀貨三十枚とは、当時の奴隷の値段です。奴隷の値段をもらってイエス様を売
ろうとしたことは、その心の中に権力と金銭の貪欲をもち、イエス様が王の王、
主の主になられたら、席を一つ得て、権力を得て、お金も儲けられると考えて
いたのに、十字架で死ぬとおっしゃるので、心の貪欲がすべて崩れ落ちたと考
え、売って権力やお金を得ようと考え、イエス様を売ったのです。貪欲と欲が
サタンの対象になると言うことを忘れてはならないのです。
最近、私たちの国でおきる犯罪は、ますます残忍になっているのですが、その
内側を見てみると、結局すべてが「お金」に対する人間の貪欲のためにそうな
ったのです。去る6月に小学生を誘拐し貯水池で殺した事件がありましたが、
犯人は巨額の借金をして苦しみ、子供を誘拐してお金を受け取る目的で犯罪を
犯したと言いました。8月には事業の資金を準備するために若い女性を殺して
金品を奪おうと計画し、犯罪を犯した人がいました。彼らは、若い女性社員2
人を一緒に誘拐し殺害して、彼女たちが持っていたキャッシュカードで現金を
引き出しました。これだけではありません。済州道(チェジュド)では中国産の
魚を国内産だと偽って数千万ウォンを販売し拘束された事件もあり、さらには
障害者後援団体を口実にして、後援支援金の名目でお金を受け取って横領した
人々が警察に捕らえられたりもしました。最近、私たちの社会はお金を目的に、
人が手段とされる惨たらしいことがたくさん起きています。欲が心の座に占領
すれば、詐欺、脅迫、不法、暴力、不道徳など、手段や方法を選ばずに犯罪を
犯すのです。結局、その犯罪によって、一生が破滅してしまうのです。ですか
ら、主は私たちに試みにあわないように祈りなさいと語られました。試みとは、
言い換えると誘惑ということです。誘惑に陥らないようにいつも祈りなさい。
特定の人だけが誘惑にあうのではありません。アダムとエバも誘惑に陥りまし
た。サウル王も誘惑に陥りました。ダビデも誘惑に陥りました。イエス様の12
弟子の中の一人、イスカリオテ・ユダも誘惑に陥ったのです。誘惑に陥られな
いイエス・キリストに従って、私たちはいつも祈れば、誘惑に陥ることがない
のです。主の祈りの中に毎日のように試みに会わないように祈りなさいと主が
語られたのです。
3.試みに会わないために
私たちがどのようにすれば試み、すなわち誘惑に陥らないのでしょうか?
心を尽くして神様に仕え、愛すると心に決心しなければならないのです。私た
ちがイエス様を信じて心を尽くし、精神を尽くし、命を尽くして神様に仕える
と心に決めなければならないのです。人の中心がしっかりしていないと、風が
吹くままに波打つたびにゆらゆらするのです。この世で生きながらイエス様を
救い主として受け入れたなら、神様の栄光のために生きると心に決心しなけれ
ばならないのです。
申命記10章12節に「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めてお
られることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に
歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え」なさい
と語られました。私たちが心を尽くし、精神を尽くし、命を尽くして、ヤハウ
ェ神様に仕えると心に決めてこそ、誘惑が伴ってくることができないのです。
イエス様は、パンよりも名誉よりも富と栄華よりも、神様の御言葉の通りに生
きると決心したのです。そのために悪魔がいくら突付いても効果がありません
でした。貪欲を眺めなかったために、貪欲がイエス・キリストを引っ張ってい
くことができなかったのです。
私たちはそして、十字架で私を聖くされた私の姿をいつも眺めなければなりま
せん。見上げる法則を用いなければなりません。イエス様が十字架に付けられ
たとき、私が罪を犯し、不正を犯し、醜悪で、捨てられなければならない私自
身を十字架につけ、きっぱりと処決をつけたのです。十字架に私の昔のかかし
のような人生をすべて処置し、キリストの中で義とされ聖く真実な人として新
しく造られたのです。皆さんの真実な姿は、十字架によって古いものは過ぎ去
り、新くされた姿となったのです。私の新しい身分を眺めなければならないの
です。アダムとエバが善悪の知識の木の実を眺めて取って食べたように、眺め
るならばそれが私たちに近づいてくるなり、私たちがそれに引きずられて行く
のです。私たちは毎日のように十字架を見上げてその十字架で私の古い人は清
算され、義と真理と聖さで造られた新しい人になったと眺めなければならない
のです。十字架で新しくされた私を見上げ、それをいつも感謝し、賛美し、古
い人を見上げてはならないのです。
Ⅱコリント5章17節に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく
造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりまし
た。」
古い人は過ぎ去りました。キリストの中で代価なしに新しい人になったのです。
新しい人を見てください。古い人を見ないで下さい。新しい人を信じてくださ
い。新しい人になったことを感謝してください。それでこそ貪欲が皆さんの中
に入らず、イエス様が皆さんの心を占領されることになるのです。
エペソ4:22~24「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うなら
ば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあな
たがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたど
り造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
古い人を脱ぎ捨て新しい人を身に着ることを毎日のようにしなければなりませ
ん。十字架を見上げ、そこで古い人に死んだことを考えて脱ぎ捨て、そこで新
しい人にされたことを着る心の祈りをいつもしなければならないのです。神様、
あの十字架を通して古い人は死んだので脱いでしまい、あの十字架を通して私
は新しい人にされたのでこれを受け入れて着ます。十字架を通して私は新しい
人になったことを感謝します。私は新しい人になりました。新しい人になった
ことを十字架を見上げて考え、新しい人にされた私を夢見、新しい人にされた
ことを信じて、私は新しい人になったと、いつも口で告白しなければならない
のです。毎日のようにこれを繰り返さなければなりません。毎日のように試み
にあわないように祈るために考えが新しくならなければならず、アイデンティ
ティーが新しくならなければならず、信仰が新しくならなければならず、言葉
が新しくならなければなりません。これを繰り返すことによって私たちは勝利
することができるのです。訓練を良く受けた犬がいました。主人はその犬の服
従を定期的に点検しました。ある日、その犬の前に美味しそうな肉の塊を投げ
与え、犬が食べようとすると、主人が「食べるな!」と言いました。犬はとて
も美味しそうな肉の塊が自分の前に落ちたにもかかわらず食べないで主人だけ
を見つめていました。どんなことを言っても主人が行く所について行き、主人
だけを見上げて、肉の塊を見ませんでした。犬が肉の塊を見るならば、とうて
い誘惑に勝つことができず、後に打たれたとしても、肉の塊を食べてしまうの
です。しかし主人だけを見つめているので肉の塊が目に入ってこないので、貪
欲に勝つことができることを記録したものを読んだことがあります。私たちの
生活の中に入ってくる様々な形の誘惑にあう時、私たちもこのようにしなけれ
ばならないのです。誘惑のあるところを見ないで、十字架を見なければならな
いのです。私たちの主人となられたイエス様を見上げ、肉の塊を見てはならな
いのです。何を眺めるのかが私たちに大きな影響を及ぼすのです。最近、良く
ないテレビを見て多くの若者たちが誘惑を受けます。インターネットを通して
淫乱で腐敗したものを眺めた後、正しい行いをすることはできないのです。何
を見て、何を聞いて、何を考えるのかが私たちの運命を決めるのです。私たち
が良くないものを眺めるならば、人生を滅ぼすのです。いつも十字架を通して
私たちの主人となられたイエス様を見上げてイエス様に頼る皆さんになられる
ことを主の御名によってお祈りいたします。そうしてこそ試みにあわないので
す。私たちはいつも誘惑のあるところを避けなければならないのです。
詩篇1篇1節に「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人」と語られています。悪者のはかりご
とに歩んではならず、罪人が行く道に立ってはならず、あざける者の座る席に
座ってはならないのです。はかりごとを避け、道を避け、座を避けなければな
らないのです。避けることが勝つことなのです。病原菌がうじゃうじゃしてい
るコレラの穴や、エイズがうじゃうじゃしている所に入って座っているならば、
病にかかるのです。コレラがあるならばそれを避けなければならず、エイズが
あるならその所を避けなければならないのです。避けずに私はその中に入って
生活するという人は、百発百中その病気にかかって死んでしまうのです。避け
ることが勝つことです。誘惑は避けなければなりません。誘惑の中に入って座
っていながら、誘惑に勝とうとしてはならないのです。
一人の幼い子供が、パン屋さんの前に立って汗をたらたら流しながら、拳を握
りしめ、じだんだを踏んでいます。「どうしたの?」「パンを盗まないように
努力しているのです。」「おい、パンをパンを盗まないようにと努力して、拳
を握りしめて、じだんだを踏んでいるのか。パン屋さんの前を離れなさい。パ
ン屋さんの前を離れるなら、そのような努力をせずに勝つことができる。」と
言ったという文章を読んだことがあります。パンを見なければ誘惑にあわない
のです。酒場のそばをうろつけば、お酒を飲むことになります。酒場のそばか
ら離れなければなりません。ギャンブラーのいる所をうろつけばギャンブルを
することになるのです。淫らなところに行ってうろつけば淫らになります。誘
惑を避けることが一番良いのです。
Ⅱペテロ1章4節に「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに
与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のも
たらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
この世の滅びるものを避けなさいと語られたのです。避けて、十字架を見上げ
て、神聖な品性に加わる者になることができるのです。そして最も重要なこと
は、誘惑となる友達から離れなければならないのです。人は一人では生きられ
ません。2、3人の友人がいます。たくさんいる人は、たくさんいたりもします。
人は、社会的な存在なので、一人では決して生きられません。ところが悪い友
に会うならば染まってしまいます。「わが子よ。罪人たちがあなたを惑わして
も、彼らに従ってはならない。」(箴言1:10)と箴言で語られたのですが、Ⅰ
コリント15章33~34節に「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、
良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさ
い。」罪を犯す友と親しく付き合うならば百発百中ついていくのです。友達の
誘いを1、2度断っても、その次には陥るのです。十回切って倒れない木はない
というように、親しい友がひっきりなしに誘って、また誘って、また誘うなら、
後には悪魔が一度だけ、ただ一度だけと言って、その後には一度陥り、その後
には罪の奴隷になってしまうのです。
ヘブル3章13節に「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、
だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」
良い友に会えば互いにアドバイスをします。互いに励まします。互いに慰めま
す。互いに力を与えます。そしてお互いに手を取り合い前進していくのです。
罪の友に出会うなら、絶えず誘惑します。絶えず罪を犯すようにします。その
友と共に後ろに退き、退いて地獄に落ちてしまうのです。前に進んで行こうと
するならば、良い友と付き合わなければならず、財産や権威を失おうとするな
ら悪い友と付き合わなければならないのです。誘惑になる友を離れなければな
りません。そして常に誘惑に陥らないように主に祈らなければなりません。
マタイ26章40~41節に「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、
彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、
一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、
肉体は弱いのです。』」体が弱いといって祈らなければ誘惑に陥ってしまうの
です。誘惑が近づいてくるならば助けてくださいと神様に叫んで祈らなければ
ならないのです。
私はこのような話を聞きました。日本統治時代の36年の間、神社参拝をしない
と言って、キル・ソンジュ牧師と有名な主の僕を日本の警察官たちが捕らえて
平壌(ピョンヤン)の有名な芸者の家に連れて行き、とても綺麗な芸者がお酒の
膳をいつも準備しておいて、誘惑するようにしました。しかし、芸者がお酒の
膳を持って入って来るなり、キル・ソンジュ牧師が「神様!キル・ソンジュが
死にます。助けてください。キル・ソンジュが死にます。」と叫ぶので、芸者
たちが非常に驚いて逃げてしまい、彼は酒屋から出ることができたとのことで
す。危険にあえば、叫ばなければなりません。道を歩いていて強盗に遭えば、
じっとしていてはなりません。助けてくれと大声で叫ばなければならないので
す。私たちの神様に叫び祈るなら、主が応えてくださるのです。
Ⅰペテロ5章8~9節に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵で
ある悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、
歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」誘惑
に陥らないように祈り、叫び、敵対するなら、誘惑と戦って勝つのです。誘惑
はまさに悪魔の働きかけだということを忘れてはならないのです。
私は、インターネットを通してアメリカのオクラホマ州のある視覚障害をもっ
た福音歌手が書いた証しを読んで大きな教訓を得ました。内容はこのようです。
その福音歌手が10歳の時に、主日だったのですが、父親がひっきりなしにハン
ティングに行こうと言いました。彼の母親は熱心なクリスチャンでした。「違
うよ。主日は教会に行かなければならないんだよ。ダメだよ。」というと、父
親が「一度ぐらい行かなくても神様が地獄に送るわけがない。おい!おまえは
お父さんと一緒にハンティングに行こう!」母親は「ダメよ。教会に行かなけ
ればいけないよ。」父親は「一日ぐらい教会に行かなくても問題ない。」結局、
父親の言うことに従うことにして、彼は父親とハンティングに行きました。行
くと、ウサギが一匹走っていくので、父親がウサギを追って猟銃を持って走っ
て行き、ウサギを逃してしまったのですが、草むらを見ると何かがヒラヒラし
ています。息子の髪の毛がヒラヒラしているのを、ウサギの尻尾だと思って撃
ったところ息子に当たりました。目が見えなくなってしまったのです。主日の
一日を母親について教会に行っていたならば、目が見えなくなることがなかっ
たのに、一日だけ主日を守らないからといって何のこともないだろう。父親に
ついて行って父親の撃った弾にあたって一生目が見えなくなりました。彼は悔
い改め、主の御前に返ってきて、後に視覚障害を持った福音歌手になりました。
皆さん、ですから一度ということを見くびってはならないのです。サタンはい
つも「ただ今回一度だけ」という言葉で私たちを誘惑します。そして私たちの
地位と名誉、権勢とお金、または栄華と快楽を与えると約束します。しかしそ
の結果は私たちを死の苦しみへと追いやってしまうのです。
<結論>
誘惑は美しい姿で現れます。地位を与える。名誉を与える。権力を与える。お
金を与える。栄華を与える。快楽を与えるとありとあらゆる甘い約束をするの
です。さらには神様にしてあげるとまで約束するのです。しかし一度誘惑に心
を任せるとその時から恐ろしい支配者になって、容赦なく罪悪に引っ張って行
き、盗み、殺し、滅ぼすのです。一度誘惑の欲に陥るならその結果はお金も名
誉も健康も家庭も踏みにじって死の苦しみで終わってしまうのです。ですから
主は、私たちを見て、毎日のように試み、つまり誘惑に陥らないように助けて
くださいと祈りなさいと言われたのです。皆さん、私たちがこの世で生きる間、
誘惑に陥いるしかないのです。なぜならば世の中は罪悪が満ちていて、罪悪の
中で悪魔がいつも私たちを盗み、殺し、滅ぼそうとしているのです。悪魔が私
たちを捉えようとする仕掛けがまさにこれです。私たちが貪欲を持っていれば、
仕掛けにかぶりつくことになるのです。その時、悪魔の釣り針に掛かれば、限
りない苦しみにあうことになるのです。誘惑が近づいて来ないのではありませ
ん。私たちが生活する環境の中で24時間、誘惑にさらされているのです。しか
し、誘惑の恐ろしい背後を知って、私たちは常に主の御言葉を覚えて、主を中
心として立って、誘惑に敵対し、誘惑に勝つようにいつも祈り、主の民として
勝利することを主の御名によってお祈りいたします。
<祈り>
愛豊かで聖なる父なる神様!私たちがこの地で生きる間、絶えず誘惑にあいま
す。アダムも誘惑にあってつまずき、イエス様も誘惑にあわれましたが、勝た
れました。まして私たちが誘惑にあわないわけがありません。幼い時には幼い
時の誘惑を、若い時には若者への誘惑を、中年の時には中年の誘惑を、壮年の
時には壮年の誘惑にあいます。父なる神様。欲がはらむと誘惑にあい、罪を犯
し、罪が熟すると死を生むのです。父なる神様。ですから願わくは主が十字架
で血潮を通して私の古い人を清算し、新しい人として造ってくださったように、
いつも十字架を見上げて新しくされた私を考えて、私を夢見て、私を信じて、
新しくなったと告白し、神様に叫び祈って誘惑に勝てるように助けてください。
たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康の祝福を
得て、義と真理と聖さでつくられた新しい人を着て生きるように助けてくださ
い。イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。