革命前メキシコの木綿工業におけるフランス移民企業者の研究

革命前メキシコの木綿エ業におけ
るフランス移民企業者の研究
--オリサパエ業株式会社のケース.スタディー
..b』
山田睦男
メキシコにおいては、1821年の独立から、1910年の策命の開始までの時期、とく
’
に、1876年L賎のデイアス(PorfirioDi列z)独裁政権の時代に、外国圃本の導入
と、それによる農牧欽友どの第1次産品の輸出部門とその関連部門である鑓薗、電気、電信、
電話、ガスなどのインプラストラクチ丁一の発展が大jlji摸に行われた。確かに、メキシコの
植民地的経済櫛造は、深化したが、自主的な経済政策、市場規模、資源左どの諸要因に窓を
れた少数の分野では、初期的工業化が行なわれた。他のラテン・アメリカ諸国でも、ある程
度、並行的な現象か見られ、とくに、南アメリカ南部では、生産的人口の急噸を可能にする
移民というあと一つの対外的要因に悪されていた。
メキシコの場合にも、このエうな経済的機会の出現を活用したit業者の大多数は移民であ
った。
初期的工業化の麺型は木細工業であった。したがって、木銅工業に支配的な地位を猿得し
たフランス移民企業者の研究を行う。1900年にはかれらの所有する4工場だけで、国内
木綱生産の50%を生産していたのである。これらのフランス系企業のなかの最大のものは、
ベラクルス(Veracruz)州オリサパ(Ori塁aba)地方のオリサパエ業株式会社(C6aln-
dustrialdcOrizaba,S-A・一略称011〕(DSA)であった。同社のメキシコ木綿工業に
対するシェアーは、1907年には織機台数の15%,労働者数の17%,売上げの16%
であった。
1889年にメキシコ市に本社をおいて発足したOIDOSAの述役会(Conscjode
Administraci6n)は、社長をはじめとして数人のフランス移民商人出身の企業者とイギリ
ス人1人から構成されていた。
社長トロン(EnriqueTron)は、19世紀中莱に南フランスの低アルプス(BasAlpes)
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ニイ
革命iMIメキシコの木綿工業における
-ラソス移民企粟老の研究
地方のパルス面ネプト(BarceloneMe.)からメキシコに移住し、他の同郷人と同じく主
にI』期化製品をどの商業で成功し、19世紀末には首都メキシコ市に、繊維製品の卸・小充の
有名店Por8aldelasFloresと、1891年にH位されたメキシコ蝿初の百貨店
1,列lnciodellie『roを所有、経営していた。Palacioは、発足後しばらくして株式会
社となり、1910-11年にはその賓本はフランス移民の商店としては蛾大の1a75qOOO
フラン(7.500,000ペソ)に達し、同年メキシコにおけるフランス系商店の全資産約2
低フラン(8.000万ペソ)の10%弱を代表した。
かれは、メキシコ国内での商業活動によって、1880年代左でに多額の賢本を蓄積した
が、それを恭醗としてOIDOSAのほかにも多棟左耶業を行なった。かれが有力株主、耽役
として参加した企業には、タバコ会社ElBuenTono,ビール会社0.rvoccriaMoctezuma,火薬工場NacionaldeDinamitasyExpIosivo3,製糸会社SanHafae1,
亜麻工禍Sanlldefonsoなどがあった。かれは、これらの耶業に参加する際、EI
BuonTonoの所有者ピュジペー(PuRibel),OII)OSAの共同出RT者エブロー
(lib…u),オリサパの別のフランス系木細会社ペラクルスエ業株式会社(0(aIn-
dustrialVcracruzama,略称CIVER)のHI業者の1人レイノー(RcynaUJ)な
どの1群のフランス移民商人出身の企業者と提搬した。
注目すべきことにトロンは、1890年からピュゾペーとともにメキシコ工業金融会社
(SociGttFinanci8rcpourl′IndustrieauMexique)のメキシコ側菰役4
人の1人となっている。同社は、1890年にメキシコ市、パリ,ジュネーブに事務所をお
き、メキシコの製造工業に、メキシコからの帰郷者の中心になって、フランスとスイスの資
本を導入することを目的に設立され、トロンらの事業のほとんどに小規模の触資を行なった。
CIDOSAのワランス系企業者のなかでも第2番目に鉱婆なシニ、レー(LconSilEno-
rc8)は首都の概順製品の有名店A1PuertodeVcraCruZの所右者であった。由た、
かれは、,900年にモンテレイ市に設立されたメキシコ畑初の製鉄所(o(:1mMid.-
radcFicrroyAccrodeMonterrey、8.釦)の、役であり、同社のh燦資本、
10.000,000ペソの4分の1を所有していた。親族のホセ(JCSも)はトロンのp制-
1列CiCの共同出資者だった。
CIDOSAのその1lbのフランス系企業者のなかでは、首都の有名繊維商店AlHleroo
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delJive『poolの所右考エプローが目だっている。
OIDOSAの剛業者の左かでの唯一のイギリス人プラニフ(ThomasB『aniff)は、オ
リサパ地方を通るメキシコ鉄道(FcrrocarrilMexicano)の社長(1873年から
1905年まで),メキシコ・ロンドン銀行(LondonB副nk。『Mexico)の頭取、メキ
シコ・ガス・ni力会社(C{aMexican砲dcOa3yElcctricidad-)の重役(18
91年からのを兼ねていた。かれは、01,08Aのフランス系企業者と強い関係をもち、ト
ロンやピュジベーらの躯業のほとんどに有力按王,in役として奉加していた。
次に、01,08Aをはじめとして、工業界で瀧鰻なfh〕it者輔神を発抑したフランス移民商
人の商業における歴史を概観しよう。フランス移民は、1900年に3,976人、1910
年に4.500人を敬えるのみであった。
メキシコに対するフランス移民は、1821年に南フランスの低アルプス地方の1寒村パ
ルスロネプトの出身のアルノー兄弟らに上って始められて以来、同jlh方出身者が多数をしめ、
フランス移民は別名“い『celoneta”と呼ばれるほどにたった。かれらは、資本も特殊
の技能ももたぬ農民出身であったため、19世紀中蕊主でのメキシコにおいては小規模な洋
品小充業に従IIIするのみてあった。メキシコの輸入,卸光業は、イギリス人とドイツ人が支
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配していた。
1845年に、パルスロネソト移民の成功者が数名帰郷ナろと、そこのメキシコ務値鞘を
高め、1862-7年のナポレオン3世の対メキシコ干渉戦までの約20年間にメキシコに
多数の移住が行われた。CIDOSA関係者をみても、エプロー,トロン,シニコレーらは、
この時期の移住者であり、ランペール,ガルサン,ルーらは、少し遅れて呼びよせられた上
の諸家の親族である。これらの移民は同郷の先殻や親族の店で数年ill1働き、そこで蓄積した
少額の資本,経験,信用をもとで比、首都や各地の主嬰郁市に新しい洋品店や雑貨店を開い
た。かれらは、効勉,質紫と高い商業道徳で知られる.こうになり成功者を多く出した。
1875年頃から、パルスロネット移民はドイツ人による繊維製品の卸元,独占に挑戦し
始めた。そして、「ドイツ人商人,とくにハンブルク出身の商人よ,曲上り少い利「1Jと、よ
り質素な生活で満足している」かれらがドイツ人商人の地位を侵蝕した。こうして、1880
年には首都に16のフランス人の所有になる311,小光店が進出区いた。
1880年代からメキシコは、通貨の裏付けと菰製輸出品である銀の価柊下落による交換
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革命前メキシコの木綿工業における
フランス移民企窯看の研究
率の悪化、国際収支の困難に悩注され始めたため、繊維製品に対する輸入関税は引き上げら
れ、中級以下の製品は輸入禁止になった。フランス人卸売商は、』壮駈の高級繊維製品輸入を
締けるかたわら、中級以下の商品は国内の製造業者に依存することになった。結局、首都の
フランス移民の主流は、各穂の有利な立地条件をもつオリサパ地方に蒜目し、直接製造業に
乗り出したのであった。こうして、今日までメキシコの木綿産業を特色づけている生産から
販売までの垂直統合的産業騨造が、この時期のフランス鯵民企業の革新行為の結果生れた。
次に、OIDO8Aに代表されるフランス移民企業者の成功は、フランス本国からの投衝
に依存するところが犬であったのでは危いかという問題を検討したい。
フランスの対メキシコ投徹は、1880年の両国の国交回復後従来よりも大規模に行われ
るエうになった。その投衝jitはアメリカ、イギリスに次いで三位にとどさったが、商業と工
業においてはそれら両国を上回った。これは、少数であるが活瀞な企業者活動を行なったフ
ランス移民の資産が「フランス沓本」と分類されていないためである。もちろん、本13Mから
移民の企業へのIHI接投資も少〈左かつたが、それも移民の企業者fiW神の原因ではなく反映で
あった。
表1:1911年の対〆キシコ外国投海の国別嫡成(総額:4.408,013`990ペソ)
アメリカ
59.2筋
墓』:
19.2筋
14.7蕗
その他の;;掴
6.9筋
100.0筋
表2:1910年のメキシコの商鍵における外国資本(推定総額:122.130.000ペソ)
フランス65.6筋
アメリカ7.4冊
イギリス0.3必
その他U疎諸国26.795
100.0冊
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表3
1910年のメキシコの製造エ業における外国涜本(推定総葱:130.948.168ペソ)
フランス55.2缶
ドイツ20.5筋
アメリカ16.1妬
イギリス
モの他公諸国8.2妬
100.0筋
1910年にo1DOSAを蛾上位とするフランス系繊維企業8社の資本は、35,300,000
ペソであった。「フランス賢本」は、28,000,000ペソであったが、フランス本国からの
投衝は14,000,000ペソにすぎたかづた。
CIDOSAにだけ限ってみても、1889年に発足した同社の初期の碕本の一部(叔不
鯛)は、1890年に発足したメキシつ工業金融会社を経由したフランスとスイスの腎本で
あった。CIDOSAの資本は、1910年にユ5,000,000ペソ(35,000,000フラン)
に途したが。何年の金融会社の腎本は、各種企業に分散して投玩されていたにもかかわらず
わずか5,000,000フランにすぎなかった。このようにフランスからの投轡は、移民企業者
の衝本綱達能力を含む企業者lhf神の反映であれ、その原因ではないといえよう。
OIDOSAに代表される移民者は、株式会社紺峻の活用、産業の垂面的統合の完成、数ケ
の大企業による生産と販売の独占、木綿案の関連が少〈、リスクの多い鉄鋼業を含む広汎な
製造工業への投澄など、極めて高度の企業者fNl神を示した。
以上の分析から離命前のメキシコの工業における移民企業者の成功が'''1然でなく、注た、
単純に当時のメキシコの植民地的経済織造から説明できないことが明らかである。こうし
て移民の移住の動機、目標、生活態度、移住とI,、う行為自体によって生れる「社会
的逸脱」などの文化的i織凹i因の作用が示唆される。これは、莱命前メキシコの経済的停滞が
伝統的文化の拘束によるものであったのではないかという疑問を正当化する。メキシコ菰命
か単に伝統的支配燗の排除にとど在らず、伝統的文化の変革を志向し、ある程度それに成功
しつつあることもこのような文脈の中で理解さるべきである。革命と経済発腱、および、企
業者fw神などの文化的側面との関連については今後の線題としたい。(とのテーマに閲して
拙秘がけジア経済」1968年1月I己号に掲紋されるので各種データの出所は明示したかった。)
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