「四半世紀の想い出」

「四半世紀の想い出」
はじめに
私は先天性風疹症候群(CRS)のサバイバーです。感音性難聴、先天性白内障、心室中隔欠
損症という 3 つの病気をもって生まれました。心臓は運良く自然治癒しましたが、目と耳
に障害が残りました。
目は先天性白内障で、0 歳のときに水晶体を摘出する手術を受けました。20 歳過ぎにな
ってやっと眼内レンズを挿入したものの生まれたときから目が悪いために普通の人に比べ
るとものをみる力が弱い状態です。特に右眼は先天性眼振で視力が出ず緑内障で視野も欠
けています。
耳は左耳が重度の感音性難聴で右耳は失聴しています。普段は左耳だけに補聴器を装用
して生活をしています。補聴器を通して聞こえた音や口の形などから聞こえなかった部分
を推測して判断しますが、そだけで会話の内容を理解するのが難しい場面も多いので、筆
談や手話を併用しています。
目と耳の両方が障害されているために、日常生活の中で音や文字、映像などによる情報
伝達手段が多用されるために「情報のバリア」を感じることがしばしばあります。
2013 年を中心とした風疹大流行では、多くのお母さんが「風疹ではないか?」と妊娠中
に不安をかかえたり、風疹症候群の子供を授かり苦しんだお母さんもいました。そのよう
な状況に私たちサバイバーも心を痛めました。
風疹は麻疹と同様に昔から流行が何度も繰り返されてきています。平成初期までの流行
は 2013 年にくらべてはるかに規模が大きかったために風疹の犠牲になった人がたくさんい
ました。この手記はそのうちの一人であった私の 25 年間を綴ったものです。
生まれてから CRS と診断されるまで
私は、1989 年に東京都内で生まれました。母が妊娠初期に全身に及ぶ発熱、リンパ腺の
腫れの症状を感じましたが、風疹の抗体があるから大丈夫だと言われました。不安を抱え
て何件かの病院を訪れたものの、大丈夫だからと言われそのまま出産に至りました。
産まれた直後に心臓病(心室中隔欠損)があるということが分かり、すぐに小児科に入
院し検査を受けました。4 日目に、定期検診のみで良く日常生活にも支障ないと知らされて、
母と一緒に退院することができました。
生後 3 週間で左目が黒目の半分以上白く濁っているのに母が気付きました。大学病院の
眼科を受診し、先天性白内障との診断を下され、手術しなければ失明すると聞かされたの
は生後一ヶ月のときでした。このときに、心臓と目のことから先天性風疹症候群と診断さ
れ、耳の障害についても知らされました。耳の聴こえが悪いということが、知識だけでな
く、日常生活の中でもはっきりと分かったそうです。
生後 3 ヶ月になってやっとベッドの空きができ、手術をうけました。生まれてはじめて
の入院は 1 ヶ月に及びました。私が母に会えたのは 2 日に 1 度、4 時間だけでした。手術は、
両眼の水晶体を取り除いて、瞳孔を形成するものでした。以降、20 数年にわたり、遠近調
節の役割を果たす水晶体を摘出したことで、強度の遠視となり、分厚い眼鏡を装用するこ
とになりました。
生まれて 1 月で我が子が目が見えず耳もきこえないということを知って、両親は絶望し
たことでしょう。母は、このときの絶望をいまでもはっきりと覚えているようです。そし
て何年もの間、自分を責め続け、苦しんできました。風疹だと分かっていたら産めなかっ
たかもしれない、そう私に言ったこともあります。私自身も、風疹にさえならなかったら
という思いで母を何度責めたか分かりません。でも、今は、母が生み育ててくれたことに
感謝しています─みなさんとこうして出会えたのですから!
聴能訓練─光と音、そして日本語の世界へ
白内障の手術を終え退院したあと大学病院の言語聴覚室に約 4 ヶ月通いました。
その間、
家庭では音の出るありとあらゆるもので聞こえを試しては、その都度一喜一憂し、親子共
に不安定な心理状態にあったようです。だんだん追視できるようになって、笑い声が出る
ようになり、音に対しておぼろげながら反応するようになりました。しかし聴力検査で高
度難聴には間違いないという冷酷な一言に、再び落胆したそうです。
なんとかこの子の耳が聞こえるようにならないものかと両親はあちこちの先生を訪ねて
回りました。K 先生と出会ってこの子は大丈夫ですよ、補聴器をつければ聞こえますよ、
と、その言葉のおかげで母も父も希望が持てるようになりました。6 ヶ月過ぎには「あちょ、
あちょ」と大声で中途半端に手を叩くしぐさを頻繁にするようになり、7 ヶ月過ぎには、人
への関心が芽生え、あやすと喜ぶようになったそうです。
その後、10 ヶ月から本格的に言語訓練をはじめました。K 先生の教室、聾学校や療育セ
ンターなどいくつかの機関に通っていました。3 歳からは保育園に入園し、横浜市に引っ越
してからは幼稚園に通いました。
私の時代は聴覚口話法が主流だったので、話す力、聞く力をのばす訓練をうけました。
「ぱ
ばま表」という表で五十音の発音を練習したり、
「絵カード」を見せて「これなあに?」と
言葉当てゲームをしたり、
「絵日記」を書いて一日のことを振り返ったりしたものです。劇
遊びやごっこ遊びもあって遊びの中から集団のルールを身につけていきました。
できるだけ豊かな生活体験をということでダンス教室と水泳教室にも通わせてくれまし
た。ダンスの発表会のことは祖母が今でも話をしてくれます。当時は身体が柔らかかった
そうです。今はもう体がかたくてそんなことはできません。水泳はクロールまでできるよ
うになりました。
その頃の「絵カード」や「絵日記」、「ぱばま表」が今でも山のように残っています。母
が一生懸命書いてくれた絵日記も残してあります。絵日記を見ながら話して、そうだった
ね、楽しかったね、と一日を振り返っていたそうです。今読み返すと、左手を折ったこと
や、従姉妹が大やけどを負ったことなど、そういえばそういうこともあったかもしれない
なあ、と懐かしい思い出がよみがえってきます。
ことばをできるだけたくさん詰め込んで語彙を増やそうという時代でもあったので、絵
日記を覚えさせられたりしてイヤだったという話を同世代からよく聞くのですが、幸いな
ことに訓練がイヤだったという記憶がほとんどありません。子供たちが興味のないことを
無理強いしないという K 先生の方針もあって、我が家の場合はむりやり言葉を詰め込むこ
とはせず、マイペースな私に合わせて進めてくれました。
聞こえない世界にいる私にとって日本語は外国語のようなものです。母音や子音の発音、
単語の発音…というふうに、英語の勉強と同じやりかたで日本語を獲得していき、小学校
に入るころには五十音の読み書きが一通りできるようになっていました。
無鉄砲に突き進んだ小学校時代
健聴の子供と一緒に勉強した方がよいというアドバイスを受け、小学校は聾学校ではな
く普通学校に入りました。近所の小学校ではなく越境して通級指導教室に近い小学校に入
ったので長距離通学でした。
低学年のころは周りを見ずに行動することが多かったです。友達とのコミュニケーショ
ンがうまくとれずパニックになることもしばしばありました。歩いているときも周囲をよ
く見ていなかったせいか小学校一年のときには交通事故にもあいました。そのときはまわ
りとコミュニケーションが全く取れずいらいらしていた記憶があって、秋の運動会も大怪
我のあとで出番が全く分からずウロウロしたことを覚えています。
文字を書くのが大好きだったらしく作文がたくさん残っています。でも意味を考えずに
書いてばかりいたので日本語の文章になっておらず、そのとき何を考えていたのか全く分
かりません。作文の中ではこの時期のものが一番面白いです。それでも四年生ごろになる
と少しずつ自分の考えをまとめて書くことができるようになっていきました。
四年生のときに強く記憶に残っている出来事があります。担任が放送部の顧問で、放送
室の中をメモしてレポートにしなさいという授業がありました。授業の後に「あなたのメ
モは、みんなが見ていないところをよく見ていて、いいね」と、言葉自体の記憶は曖昧で
すが、このとき褒められたことが、今こうして文章を書くささやかな助けになっていると
思います。
五年生になると、周りの子供が大人びてきます。でも、私の場合まわりの子どもがやっ
と見えるようになってきたばかりで精神的な成長が遅れていたので、友達とのコミュニケ
ーションがうまくゆかなくなってきました。身体だけは、どんどん大人になっていくのを
感じていました。人とどう付き合っていけばいいのか全く分からなかったと思います。明
るかった性格がだんだん大人しく人見知りになっていきました。
六年生のときには中学進学に向けて勉強ばかりしていた記憶があります。このとき一生
懸命勉強したことが後々役に立ちました。
大人への階段を上りはじめた中学生時代
新しい生活を夢見て入った中学校は私には合いませんでした。結局一学期しか行くこと
ができませんでした。六月過ぎから体調が徐々に悪くなってきて、まず起立性調節障害と
診断されて昇圧剤を飲みました。血圧は上がったのですが、それでも良くならない。学校
を休む日が増えました。夏には右足首を骨折しました。骨折のおかげで、ますます学校へ
の足が遠のきました。四月から頑張ってきたのがぶつりと切れたのです。
それで今度は思春期外来へ連れて行かれました。この時、親は一日でも早く学校に行っ
て元通りになって欲しいと願っていたと思います。その思いとは裏腹に、学校への足がど
んどん遠のいていくばかりで、ただ、何が何だか分からないけど苦しい、それを誰かに話
したい、誰かといつも繋がっていたいという気持ちが膨らんでいきました。
そしてとうとうある日の外来日に「もう、学校には行かない」と言ったとき、ヒゲの先
生は「よく言った!えらい!」と褒めてくれたのを覚えています。あのときどういう気持
ちで決断したのか分かりませんが、自分で自分の人生を方向付けたのは、この時が初めて
だったかもしれません。この決断は、大きなターニングポイントになりました。学校に行
くのは当たり前だという義務感を押し切って、あえて苦しい道へと舵を切ったのです。
その頃、我が家にインターネットがやってきました。最初はダイヤルアップ接続で、イ
ンターネットをやっている間に電話があると接続が切れます。はじめて見たホームページ
が MSN でした。それからしばらくして ISDN 回線を引いて本格的に使い始めました。わ
たしはあっという間にインターネットにはまって、これが人生を、世の中を、地球を、大
きく変えるなどとは、この時はまだ予測できませんでした。
コンピュータは私を虜にしました。長いときは一日十五時間くらいやっていたと思いま
す。今思うと、よくそんな長い時間やってられたなあと思うくらいです。長い時間チャッ
トをしたり、ウェブサイトを作ったり、日常生活の全てがインターネットを中心に回って
いたかもしれません。現実の世界には居場所がなく、だれも自分を受け容れてくれる人は
誰もいないと感じていました。
今思えば、それは通過儀礼のようなものでした。聞こえないせいで家族とうまくコミュ
ニケーションを取れない。仮に苦しくて辛いと訴えても、聴者である家族とはどうしても
わかり合えない部分というものがあります。見えない、聞こえない世界は、外から情報が
入ってこない。人と関わるのも難しく、本当に孤独です。寂しい世界です。だから、自分
の障害を家族にさえ分かってもらえないという思いが少なからずあって、思春期の心の大
きな揺れとも共鳴して、手足を大きく動かして必死にもがいたのだと思います。
一番苦しんでいた時期が過ぎて、フリースクールに通うことになりました。特に決まっ
たルールなどなく、自由に過ごせて、よほど悪いことさえしなければ何をやっても良いと
いう場所で、そこに一年ほど通いました。ホットケーキを焼いたり、どこかに出かけたり、
小学生以来久しぶりに安定した生活を過ごすことができました。たぶん、ここで、自分を
他人に受け容れてもらえた、世の中に居場所があるんだ、と思える体験を少なからずでき
たのだと思います。
のびのびと過ごした高校時代
中学 3 年の夏から高校進学を考えるようになりました。しかし進学校に行くには体力に
自信がなかったので、ゆったりと過ごしたいと思い通信制の学校に進みました。通信制の
本校に籍をおきながら、本校と連携している家から近い別の学校に通いました。その学校
に通っていれば乗り継ぎの問題で家から 1 時間強かかる本校には全く行く必要がありませ
んでした。
一年生の時は体力がなくて大変でした。食事が喉を通らなくなって、入院一歩手前とい
うところまで体重が減りました。なぜだかは今もよく分かりません。よく具合が悪くなっ
て保健室で寝ている子というイメージを持たれていました。
二年生になるころには体力も復活して、今度は大学進学を考えるようになりました。コ
ンピュータに興味があり、進むなら工学部しかないだろうと思いはじめました。その年の
夏に長野県へ体験学習に行きました。景色がよく、宿の食事もおいしく、素晴らしいとこ
ろでした。農場体験とやらで川魚を食べて生臭かったこと以外は……。この頃から学校が
どんどん楽しくなりだして委員会やクラブ活動に積極的に参加するようになりました。
冬休みの間に福島県にあるブリティッシュ・ヒルズで英語合宿に参加しました。このと
きの引率が担任だったので先生とゆっくり話しあう機会が持てて、将来の進路を真剣に考
えました。それで親元を離れたい一心で進学する学校を決めました。
三年生の夏には海外への修学旅行がありました。そのときに一番の目玉であるホームス
テイがあり、とても良い思い出になりました。修学旅行のあとでやっとエンジンがかかり、
どうにか大学に合格しました。
ちょうどそのとき無謀にも文化祭の本部役員になってしまったので、委員の仕事と勉強
とを両立することになりましたが、夜遅くまで看板を作ったりするのが楽しく、かえって
精神的に安定した状態で入試を迎えることができたのを覚えています。
大学の合格通知をいただいのが 12 月のはじめで、数学のできがひどかったのになぜ受か
ったのかとても不思議な気持ちになりました。残る半年は、簿記講座やワープロ検定講座
などに参加しましたが、これが後になって非常に役に立ちました。
高校 3 年の担任は、クラスの皆に信頼され尊敬されていた人でした。担任がリーダーシ
ップを取り、クラス全員がそれぞれの個性を発揮できていたとても素晴らしいクラスでし
た。私たちが卒業したあと大学院に進み今は都立の高校で教えているようです。この時に
お手本となる大人と出会えたことが、大人になった今プラスになっていると感じています。
視野の拡がりを感じつつも苦労の多かった大学時代
大学に入学した当初は希望にあふれていました。しかしそれもすぐ落胆に変わりました。
同じ障害を持つ仲間が集まっているのに、私だけ目が悪く手話を追うのが大変で、健聴の
学校にいたときと同じように取り残されていると感じました。
さらに、宿舎での集団生活で、異なる考え方や生活習慣を持つ人と一緒に生活しなけれ
ばならず、ストレスを感じ大学で勉強を頑張ろうという意欲は入学早々に失われてゆきま
した。同期の人達と距離を縮めることがなかなかできず一人寂しく食事したり入浴したり
といったことが続きました。
冬ごろから少しずつ友人ができるようになりました。一年次の末には大学の北欧研修旅行
に参加し、スウェーデンとフィンランドを訪れました。両国ともに手話という言語をより
豊かに使うための研究や国の取り組みが進んでいることにカルチャーショックを受けまし
た。この旅行がこれから手話を使って生きていこうという一つのきっかけとなりました。
三年次には中国の特別支援学校を訪問しました。そこで日本の最先端の取り組みという
ことで iPhone を使った遠隔情報保障について紹介したところ、現地の学生が強く興味を持
ってくれました。中国ではまだ情報保障が必要という考え方は浸透していませんでしたが、
やはり向こうの学生も、情報保障を必要としているんだなと思いました。
北欧と中国で得た体験から卒業研究では情報保障システムの構築に取り組みました。そ
こまではよかったのですが、手話が苦手でコンプレックスを抱いていたことでストレスが
溜まり人とのコミュニケーションへの自信を失ってしまい、研究のことを考えること自体
が苦痛になってゆきました。その後大学院に入ったあとも体調不良が続き最終的には退学
をしました。
結局、学部と院を含めてつくばで 5 年ほどの時をすごしました。つくばといえば筑波山、
筑波山といえばつくばといわれるほど、山がシンボルとなっている街で私が住んでいた宿
舎からも眺めることができました。緑が多くゆったりとした空気が流れており、つくばの
街が気に入っていました。本当はもっと長くいたかったのですが横浜に戻ることになりま
した。
眼内レンズを挿入する決心
大学最後の一年間で疲れた心と体が癒えていく中で、まず思ったのは手話がもっと上手
になりたいということでした。手話でもっと人に伝えられるようになりたい。それで長年
の願いであった眼内レンズの挿入手術を受けようと決めました。
最初の手術で左目に入れたレンズがずれてものが二重に見える複視という状態になって
しまい再手術をすることになりました。手術のリスクの一つとして承知していたものの「ま
さか自分が」ということで、ひどく落ち込んで精神的に参ってしまい今までの人生で辛い
ことがあったのも吹っ飛んでしまいました。
秋になって大学病院で再手術を受けました。術後すぐはウサギのような赤い目で、お店
の人にギョッとされたくらいです。それから約 2 週間経って、すこしずつ傷口が回復し最
初は歪んでいた視野もクリアになっていきました。2 ヶ月ほど経って眼鏡を作ったときには
かつての遠視用の眼鏡と比べて値段があまりにも安いことに驚きました。
手術を決心するにあたって、眼鏡も補聴器もあるから大丈夫、リスクを冒してまで IOL
を挿入する必要などないのではないかと、家族や眼科の先生に言われました。結果的には、
視覚的なコミュニケーション手段がいつでも保障されているという安心感につながり、や
って正解であったと思っています。今は温泉でも手話でコミュニケーションができるので
趣味の旅行もよりいっそう楽しめるようになりました。
この体験を通して目と耳の両方が障害されることによる「情報のバリア」を感じました。
まず手術の失敗により目が見えづらくなることによって、目と耳の両方に障害があること
の困難さを理解することができました。特にストレスとなったのは指の本数すらよく見え
ず手話でのコミュニケーションが難しくなってしまったことで、自分には手話が必要なん
だということを認識しました。また再手術後は人の表情の変化などといったものがよく見
えるようになり、今まで見えていなかったものがたくさんあったのではないかということ
にも気づかされました。
四半世紀の終わりを迎えて
目の手術で運命に翻弄されていたときに 2013 年の風疹流行のニュースを知り、ツイッタ
ーで風疹ワクチンを打とうとツイートしたことがきっかけで、他のサバイバーの方々やそ
の親御さんたちと出会いました。それぞれが持っている悩み、たとえば障害のことで自分
を責めてしまうような体験を親御さんとサバイバーの方々の双方が経験していることを知
りました。
一方で、今まで風疹のことは深く考えたことがなかったので、風疹に感染したことを人
生の中でどういうふうに位置づけるかという新たな問題にぶつかりました。新たな問題と
いうよりもおそらく今までの人生で見て見ぬ振りをしてきたものだったのかもしれません。
知識欲のおもむくままにさまざまな文献を調べました。それで分かったのは、私が生ま
れた頃は親世代の多くが予防接種を受けておらず流行規模が「あんなに流行っていたのだ
から仕方がない」と思わされるほど大きいものだったという事実でした。
もちろんあの頃風疹が大流行していたことは知っていたのですが、きちんと調べてみて、
父や母あるいはその回りのだれかのせいでもなく、もちろん自分のせいではない、もう誰
のせいだか分からないほど流行っていたのだから、これは運の巡りあわせとしか言いよう
がないということに一応は納得がいったのです。
それで自分自身が風疹になったこと自体は「たまたま」だと思うことにしました。それ
自体は良いことでも悪いことでもない。誰でも老人になれば聞こえにくくなるし、若い人
でも突発性難聴などで後天性の難聴になることもある。私の場合は聞こえなくなるタイミ
ングがたまたま生まれたときだったというだけです。目の病気にしても通常は中高年から
患者が増えてくる病気で、これもたまたま早かっただけです。
でもやはり納得がいっているようで納得がいっていないというのが本音です。見づらい
ことや聞こえないことで生活に不自由があり、時には障害があるからという由で差別に直
面することもあります。そういったときに、障害さえなければ、あんなこと、こんなこと、
もっとできることがあったのにと、この理不尽な運命を呪いたくなることもあります。
今日、私が希望を失わずに生きていられるのは、私に手を貸してくれる人たちがいるお
かげです。多くの方々との出会いがなければ、自分一人だけで悩み苦しんでいて今このよ
うな手記を書く勇気を持つことすらできなかったと思います。
私はもうすぐ 26 回目の誕生日を迎えます。20 歳を過ぎてからは時間の進みが早くなり
20 代前半があっという間に終わってしまったような気がします。約一年の間に出会った多
くの方々に夢を叶える勇気をもらいました。その夢が何かは今は書かずにおいておきます
が、20 代後半はその夢を叶え新たな道を歩むつもりです。
苦しみに耐えるだけの十分な強さがその人に備わっているから、神はこのような重荷を与えるのだという
常套的な説明は、まったくまちがっています。私たちに災いをもたらすのは神ではなく、巡りあわせです。
それに対処しようとする時、私たちは自分の弱さを知ります。私たちは弱いのです。すぐに疲れ、怒り、
気持ちが萎えてしまいます。しかし、自分の力や勇気の限界に達した時、思いがけないことが私たちの上
に起こるのです。
その時、外からの力によって強められる自分を見出します。そして自分は一人ぼっちではなく、神が共に
いてくれるのだということを知ることによって、苦しみを生き抜いていくことができるのです。
Harold S. Kushner『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』
(斎藤武訳)岩波現代文庫
おわりに
今日では子どもへの予防接種が進んでおり、風疹に対する抵抗力を持っていない大人へ
の予防接種を進めることで、流行そのものをなくすことができる段階にまで来ています。
いくつかの国では風疹を根絶できています。にもかかわらず、2013 年の風疹大流行におい
て、なぜ幼い命が奪われなければならなかったのか、なぜそれを防ぐことができなかった
のか、というやるせない思いがあります。
風疹大流行はもう終わりにしてほしい。少しだけ勇気を出して想像してみてください。
生後すぐ「検査が必要なので様子を見ましょう」
、1 ヶ月目に「今すぐ手術しなければ失明
します」
、 6 ヶ月目に「高度難聴に間違いありません」と言われることを。私の両親が経験
したような辛い思いを皆さんに経験してもらいたくないと思っています。
風疹は大人なら数日で治る病気です。しかし風疹におなかの中で風疹に感染してしまっ
た赤ちゃんは、一生病気と闘わなければなりません。あなた一人だけの問題ではなく、緊
急に社会全体で取り組んでいかなければならない問題です。社会全体で風疹に対する抵抗
力をつけ、風疹を流行らさないようにする必要があるのです。
皆さんにお願いです。風疹の予防接種を受けてください。また、周囲の方に風疹ワクチ
ンを打つよう呼びかけてください。ツイッターで「風疹が流行っているみたいだからワク
チンを打とうよ」 とツイートするだけでもかまいません。どんな小さなことでも構わない
のでアクションを起こしてください。私たちと一緒に未来の命を守りましょう!