日 本 史 かわら版 19号 お 姫 様 の 戦い − 清少納言は何を見たのか ― 今日はまず常識テストから始めましょう。 Q 清少納言はどのような文学作品を書いたでしょうか? 答えは当然『枕草子』です。では、もう 1 題 Q 同じ頃『源氏物語』を書いたのはだれでしょう? これも紫式部と答えられますね。では最後に Q なぜこの時代だけ、女性の文学者が大勢現れたのでしょうか? 今度はむずかしいかもしれません。ヒントはタイトルです。 摂関政治が長期間続いた平安時代中期は藤原北家による政権の独占が見られ ましたが、それを可能にしたのが、17・18号で説明したような北家による 他氏排斥でした。政権の中枢に北家だけが残ると、今度は北家同士で争う状況 になりました。何で争ったのでしょうか?武士ならば「合戦」でしょうが、貴 族では足の引っ張り合いぐらいしかできません。それよりも、自分の娘が次期 天皇を生めば勝ちです。つまり自分が「外祖父」になることが権力を握る確実 な方法だったのです。では、どうすれば「外祖父」になれるのでしょうか? 答えは ①.自分に娘がいること。 ②.娘が天皇または皇太子と結婚可能な年齢であること。 ③.娘が結婚して、天皇または皇太子から寵愛を受けること。 ④.他の夫人、特に他の北家の娘よりも早く皇子を生むこと。 ⑤.皇子が無事に育つこと。 以上のことが全てクリアされなければ「外祖父」になれません。①は養女と いう手もつかえますが、問題は③と④です。④はどうにもならないことです から、③のために両親は何をすればいいのでしょうか? やれことがあります。それは、 「教育」です。娘が天皇から愛されるため には「知性」と「美しさ」が必要ですが、 「知性」は教育次第で身につける ことが出来るはずです。現実に皆さんは東京文化で「知性」を身につけつ つありますよね。 (本当かな?) 平安時代は現在のような学校はありませんから、家庭教師から学びます。 それも、有名な女性を雇うことで、 「家の娘の家庭教師はあの△△だ」と自 慢し、天皇にもアピールできるわけです。 一方、北家以外の貴族の娘にとっては、家庭教師になることが、いい結 婚相手を見つけたり、生活の安定につながりますから、教えられるような 教養を身に付けられるように家庭で訓練を受けたり、有名な人に習いに行 くことになります。そして、一番の教養とされた「和歌」の場合は、歌合 という場で、評判になればチャンスがめぐってきます。 例えば清少納言が『枕草子』を執筆して人々に読まれるようになったの は長徳元年(995)頃とされていますが、彼女が中宮定子に女房として出仕 するのは正暦4(993)とされていることから、 『枕草子』の著者としてでは なく和歌や漢学の教養から家庭教師としての女房(貴人の身近にいる女性 の家臣)に求められたようです。ちなみに『枕草子』が現在の形で完成し たのは長徳2(1000)に定子の死んだ後のこととされています。 ですから清少納言は定子のそばに居て宮廷のさまざまな体験を『枕草子』 の執筆に生かしているのです。直接の政治的な事件は書かれていませんが、 当時の権力者の様子が垣間見られます。書けなかった事も含めて、生の貴族 の姿を彼女が観察していたことは確かでしょう。 よく清少納言と紫式部が対決するようなイメージがありますが、実際には 紫式部が女房となるのはかなりあとですから、定子が病死した時に、清少納 言が宮仕えを辞めていれば、二人の直接の接触は無かったことになります。 摂関政治という特殊な政治環境の中で天皇の妃たち(姫君たち)の周囲に は才能を開花させた女房が集められ、サロンのようなものが作られたのです。 清少納言・紫式部だけでなく和泉式部や赤染衛門といった女房たちが国風 文化の担い手になりました。しかし、院政期になると、 「外祖父」になること が摂関の絶対条件で無くなり、しかも摂関ではなく治天の君(院)が政治権 力を握っていますので、サロンの影響力も弱まりました。
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