(24)「天佑」と見た世界大戦 株に踊り、好景気に酔った 「サラエボの銃声」から欧州が第一次大戦に突入した大正3(1914)年、日本、特に 東京周辺では「東京大正博覧会」が人々の関心を集めていた。 大正天皇の即位の大礼を祝う趣旨で3月20日に開幕した。上野公園の会場には初 の国産自動車「DAT1号」など当時の最新科学の粋を集めた展示物が並ぶ。初めて 登場するエスカレーターやロープウエーも人気を集めた。 7月末までの会期中に入場者は750万人に達し、平和な時代の科学技術の発展と それによる経済成長を予感させた。それだけに日本も参戦を余儀なくされた世界規模 の戦争は、これに水を差すのではと危惧も持たれた。 だが一部ではこれを日本にとっての「天佑(てんゆう)」と捉えていた。「天の助け」と いう意味である。 政府が大臣・元老会議で参戦を決めた8月8日、元老の一人で蔵相や外相を務め た井上馨は、静岡県興津の別荘で病床にあった。だが、この大戦への対応について の自らの考えを側近に書き取らせ、大隈重信首相や元老の山県有朋らに届けた。 「今回欧州大禍乱(からん)ハ日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ天佑ニシテ …」で始まり、同盟国である英国をはじめフランス、ロシアと一致団結し、東洋における 日本の利権を確立するよう求めていた。ここから「天佑」論が広まったのである。実際、 日本にとって、短期的にみれば第一次大戦は「天佑」にほかならなかった。 ドイツが欧州戦線に釘付け状態のとき、これに宣戦布告、その租借地である中国・山 東省の青島をやすやすと陥落させた。しかも翌年、対華二十一箇条でそのドイツの権 益を「継承」するとして、支配下に入れてしまった。 各国の要求にもかかわらず、欧州に送ったのは海軍だけで、その分多くの人命や 戦費を失うこともなかった。そして「天佑」は経済面にも及んでいく。 開戦から数カ月たった大正3年暮れごろから鉄や銅、船、綿製品などの注文が日本 に集まり出す。欧州の先進工業国の生産が戦争のため大幅に落ち込んだからだ。こ の年から戦争が終わった後の大正9年までの貿易・貿易外収支は38億円の黒字とな った。 輸出で得た金が投資に回ることで、大正4年あたりから空前の株式ブームとなる。こ の年の11月22日、東京証券取引所は15万円という出来高を記録した。取引所の参 観席は、株価値上がりを注目する人であふれていたという。 当然のごとく、国内の経済活動は活発になる。とりわけ大戦の特需を受けた海運業 界は多くの「船成金(なりきん)」を生んだ。神戸の商社「鈴木商店」は、欧州で鉄や銅、 船舶などを買いまくり、その価格高騰で巨万の利益を得る。 税収も増え続け、日露戦争直後は20億円もの債務を抱えていたのに第一次大戦 後には27億円の債権国となっていた。そしてこうした経済成長や「平和」を背景に「大 正文化」が花開いていった。 しかし長期的に見れば「天佑」ばかりではなかった。 欧州への参戦に慎重だったのに、中国での権益を独り占めしたことは、各国の不信 を招き、日英同盟破棄の一要因となった。 軍備の近代化も後れをとってしまった。 未曽有の大戦で、欧州各国は科学的兵器の開発に力を注いだ。伊藤正徳の『軍閥 興亡史』によれば、大正5(1916)年9月にはタンク(戦車)が戦線に登場する。日本の 通信社も陸軍も全く知らなかった兵器で、通信社はそのまま「タンク」としてニュースを 流した。 伊藤は「それは、日本の陸軍を『非科学的陸軍』と化せしめる一大革命であった」と 述べる。 しかも大戦後、被害の甚大さに欧州各国はいっせいに軍縮を打ち出し、日本にも強 要した。このため日本は軍備の近代化をしないまま軍縮につきあわされる。 このことは後々、特に昭和前期の歴史に大きな影を落としていくことになる。(皿木 喜久) 【用語解説】大正成金 「成金」とはにわかに大金持ちとなり浪費する者を揶揄(やゆ)する言葉だが、特に 第一次大戦でもうけた金持ちを「大正成金」という。中でも有名なのは海運で設けた 「船成金」たちで、神戸内田汽船の内田信也は神戸・須磨に500畳敷き宴会場がある 5000坪の御殿を建てた。 神戸で大宴会を開き、普通の労働者の月給の何倍もの1人100円の料理をふるまう 「船成金」もいた。料亭の玄関が暗いと、お大尽(だいじん)が百円札を燃やして明かり 代わりにしたという漫画が登場したのもこの時代で、次第に庶民の怨嗟(えんさ)を買っ ていく。
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