神話と精神 - 南山宗教文化研究所

- 9
5ー
神話と精神
一一キリスト教的物語の背後にある物語一一
(
二
)
.ハ イ ジ ッ ク
J
I
I
. 解決への視座
4
. 陰勢力
「すべての人には,生来,知への欲求がある。Jアリストテレスは,かな
り日常的な知識を意図しながら,彼の『形而上学』の冒頭でそのように述
べている。その日常的知識は彼の後の哲学に於ける偉大な業績の基礎を築
2
0
0
年以上後,シグモンド・フロイトは,前述
き上げたのであった。以来2
の発想、の原点に挑戦するかのように,合理的,かつ体系的な試みを行なっ
すべての人には,生来, 無 知
ている。この「精神分析の父 Jによれば, I
への欲求がある。」ということになろう。
我々人聞は,皆,相反するこつの本能に誘導された緊張状態の中で,各
自の物語を創作する。知の必要性と無知の必要性の聞に存在する矛盾は,
これらの物語に種々の意味を持たせることになる。さらに言及すれば,そ
れは,いくつかの物語を他の物語の背後に隠蔽することになり,同時にそ
れらを発見するための我々の努力を明白にしている。我々が自分たちの思
考を限定しようとして用いる手段や,またその限界を打破すベく使用する
手段は,文化,個人的歴史,思考等の特殊な構造によって条件付けられて
わる。繰り返して述べるまでもなく,これらの条件付けをする要因は,決
して純粋な状態に置かれてはいない。しかも仮定条件の有無に拘らず,先
- 9
6 - 神話と精神{二}
入観なしに識別されることはない。ここで注目すべきことは,このすべて
が認識論的に語られて,人生に神秘的な色彩を与える方法である。それは
未知で無統制でしかも吸収力を持っている。また一方では,アリストテレ
スもフロイトも,知への欲求によっては到底満足されないものであると知
るに到った理由を明確にしてくれる。そこで相対する彼らの発想の原点
は,ある程度まで類似したものとなるのである。
しかしながら,もし我々の物語が欲求とし、う基本的な闘争をそれぞれの
方法で脚色する結果となっても,我々はこの事実に注目することにあまり
慣れていなし、。我々の日々の認識論は,思想、を事実・理論・空想の三つに
分類したり,また空想をすべての中で最も重要でないものと評価してしま
うのである。それは,まるで頭脳を現実に投企 (Entw
urf)した単なる娯
楽一快であろうが不快であろうがーのようなものとしか見なしていなし、。
しかし,
r
空想」は,我々に「理論Jや「事実」を再び見直すこと,すな
わちそれまで見過ごされていた人間的な深みを再認識することをむしろ教
示してくれるかもしれない。
これは 1
9
世紀の科学的精神への批判の中でユイチェが見い出したもので
あり,その科学的精神は,
r
生産的思想と称されるにふさわしい唯一の」
空想的思想とは対照的なものであった。彼の見解によれば,それは「後に
現実性を創り上げるための道具として用いられるように,可能性を想像
し,さらにそれらを感傷を込めて機械化する」ことにその最も高い価値が
見い出されるものだった。空想的思想は,
r
知識の絶対的な有用性」の盲
信から我々を解放してくれる。それは,一見,叙述の真実性・虚偽性に拘
らず,無用な行為である。しかし,結果的には,我々の理解力に対する責
任を再び獲得することによって有用なものとなる。その役割の合法的限界
の中で純粋に果たされる「兵士の道徳」を放棄すれば,我々は再び自由の
身となり,我々は思想の結果に関して判断力を回復し,さらに「荘厳なる
精神」を批判することができる。ニイチェが「夢」とし、う空想的行為に,
ある特別な重要性を与え,夢とは,覚醒時の論理への執着と相対する,一
QU
,
ヴ
種の反文化と見たというのも勿論一驚嘆するに価しない。υ
少なくともこの問題に関して,時が経過するうちに「死後に生まれる人
々Jの一人として,ニーチェの下した自己評価の正当性は証明された。フ
v
i
ar
e
g
i
a
) として
ロイトとともに,我々の隠れた物語に対する「近道J (
の夢の再発見や一般の空想的素材への精神分析的なあらゆる関心は,一こ
の発見に伴うすべての論理上の不節制や不合理にもかかわらずーニイチェ
の直観に実体を与えたのである。
しかしながら,空想に対する文化的抑制は,深層心理学のあらゆる進歩に
多大な影響を与え続けている。空想的思想への信頼が自発的に生み出す不
確実性は,我々の時代では全く一般的なものとなった。学術科学がその
「事実」や「理論J においてどんなに無批判な信頼から退去したとしても,
制度化の最も広汎な諸様式は,専門への常識的な信頼にひとつの道を切り
開くため前述の判断を抑制するように思われる。
空想に満ち,本来の意味からすればおそらく唯一の純然たる文化形態と
いわれる,口承伝承は,それが前世紀初頭に研究対象となり始めてから,
さらに,かつて繁栄を見た農耕社会が産業化によってほとんど葬り去られ
てからというものは衰退の一途を辿った。先年,非常に盛んであったこの
継承物のわずかな残骸は普通迷信や笑い話一一般性に欠け,特殊な孤立社
会にのみ存在するという制限を持つーの中にだけ存続している。文化的に
受容された空想形態のごく最近に消滅した遺物は,いわゆる昔話と称され
るものである。グリム兄弟は,多年の努力の結果,この民俗学の分野に改
革をもたらし,同時にこれらの物語が重要視された時期においては,国民
の神話的想像の移ろいやすい反射光にすぎないと認識するに至った。そし
て,後の研究によってそれが裏付けされた。しかしながら,その昔話は,
空想的思想の形態化への最も近づきゃすい方法として,また現代人にとっ
てある種の魅力あるものとして,キリスト教的想像の制度化という我々の
企てに対する批判への出発点として把握されるであろう。
一般的な例えとして,また同時に昔話が通常種々の意味を同時に含んで
- 98 -
神話と精神(二)
いることを理解するために, ~野ばら姫』の物語を簡潔に取りあげてみよ
う
。2】
その筋自体は,古めかししまた非常に多様性に富んでいる。グリム兄
弟によって我々に紹介された様式からしても,その起源、は同様に種々多様
である。彼らがその物語をライン河地方の人々から採集した時,すでにそ
の中には,ギリシャ神話,インド神話,ヨーロッパ神話といったものが混
在していた。我々の目的にとって,その物語の起源に関連した数々の問題
点ーこれは今日まで取り沙汰されなかったのであるがーは,民話のフィン
ランド学派が創設したかなり厳格で、しかもおよそ不可能な法規のため,こ
こでは割愛せざるをえない。我々の解釈は三つの段階に分けられる。それ
らは相互に異なっているが,緊密な関連性を備えてもいる。
第一段階において, ~野ばら姫』と L ザ昔話は,思春期のすさまじい来襲
について述べられた物語として理解される。ある国の王と妃が愛する一人
の娘が,理想的で華麗な幼年期を送っていた。両親は,彼女をすべての悪
から守ろうとしたが,ある日突然,彼女は「不吉な呪 L、」によって,お域
と共に魔法にかけられてしまう。かつて活気を帯びていたものはすべて暗
黙の死の世界と化す。決定された歳月が過き去るまでは誰も為す術を知ら
なかった。あらゆる者の試みはすべて失敗に終わる。しかし,幸運にも彼
女を長く束縛していた野ぱらの生垣が自然と聞けると,彼女は救ってくれ
た若い王子との愛に目覚める。そして城中にも以前のような活気がみなぎ
るようになる。こうした出来事が経過するうちに,彼女は好奇心旺盛な小
娘から両親から受けた生命をひとりで維持していけるだけの妙齢の女性
へと変貌するのである。
物語の最高潮が,
r
彼女が 1
5
歳の誕生日を迎える日」に到来するのは全
くの偶然によるものではなし、。この年齢は,思春期のうちの特別な段階,
すなわち異性に対する意識のめさ.めを表している。そして,そうした意識
の目覚めが少女を幼年期から脱皮させ,しかも次第に両親から彼女を遠ざ
けることを不可避とするのである。両親がどんなに望んだとしても,その
- 99 一
子を引き留めることは自然に逆行することなのである。新しい生命という
恩寵は,たとえそれが理想的な状態にあっても,絶えす思春期の呪いによ
って相殺されている。その地方きつての権威者である王や妃でずらその呪
丸、から娘を守ることはできないのである。紡錘と L、う紡錘を残らず焼き捨
てるように国中に出された御触れは,運命とし、う絶大な権力への挑戦であ
り,換言すれば敗北が必歪であるものへの人聞の挑戦を表わしている。
両親にもたらされる結果は付髄的なものであって,呪いのすさまじい威
力は単に若い娘の中に見い出される。一般に思春期の来襲は,最初から強
い焦燥と孤独と絶望の時期として明らかにされている。ただ呪いがとけて
からは,それは正常な成長過程の中で不可欠なひとつの段階と考えられ
る。思春期そのものには抵抗力がある。男の子であろうが女の子であろう
が子供は内省の知識に欠け,状況を客観化しようとする心理学的な説明を
理解する能力を持ち合わせていないので一種の悪魔にしっかりとらえら
れ,現状維持をはかろうとする。そのようにして幼年期の甘美な依存は重
要な要因ではあるが継続することは実際には不可能である。思春期の第一
段階において子供につきまとう自立への衝動と罪悪感は当惑を引き起こ
す。外的世界の様相が変わると当事者は,空想や夢に端的に表されるよう
な内的世界に引き寵ろうとしとげを持つ野ばらが繁り周囲を保護する生
垣をなしてし、く。誤解され見捨てられた当事者は孤立化L.,呪いの解けな
いうちはその状態を変えることができなし、。愛着とし、う通常の様式が消滅
すると,新しいものを作り出すことは困難である。当事者は衣服を交換す
るように友人を取り換える。その唯一の理解者といったら危険にさらされ
たもろい自我であり,それに心の日記を綴り秘密を打ち明ける。そしてま
た,それに対してはあらかじめ赤裸々に表現された多くの感情を向けて認
識できないものを理解しようと試みるが結果的には,徒労に終わる。家庭
は単なる家になり,宮殿は単なる監獄になる。換言すれば,物理的な変化
は極端な妨害となりうるような見解の変化を伴うのである。
こうした思春期に関する物語に於て,一般的な人聞を代表するのに女性
- 1
0
0ー神話と精神(二)
が選ばれることはごく一般的である。政治を女性に対して開放することを
否定するような社会でも,また男性が女性を厳格な従属下に置く社会にお
いても,女性はその出生の神秘性との自然な関連を基とする償いの力を保
持する。月経と出産をめぐるタブーは,原始社会においては一般的に,か・
なり強い特色を持つ。すなわち優れた能力に対する畏怖のあらわれであ
る。これらのタブーは,概して思春期における,また出生後における浄め,
の儀式に表現されている。先の物語においても同様に,若い娘の抑えられ
ない行動の結果として
呪いにかけられた彼女の虚脱を示す数滴の血は,
異性を欲しはじめる兆しとそれに伴う肉体的変化を具現している。それら
は,性別を間わずあらゆる人々に共通する回避しがたい運命なのである。
しかし,これらの点は L、ささか微妙なもので,おそらく物語を聞く側に
は簡単明解ではな L、。実際,グリム兄弟は性や暴力を扱った事柄に関して
は非常に厳格で,彼らの物語の中にその種類のモチーフがたくさん発見さ
れたという理由で,有名な民俗学者,アチン・ボン・アーミンと彼の同時
代の者たちの非難を浴びるが,グリム兄弟はそれに対して憤りを持って反
論した。おその事実が,ここで我々を第二段階の解釈へと導いてくれる。
第二段階は,より広汎な見解を現わしているので第一段階を否定すること
なくそれとは相対する。
第二の解釈によると,野ばら姫の話は個人生活のあらゆる転換期の祖霊
とみなされる。心理的な変化むはその適当な過程があると物語には述べら
れている。それはまるで第二の生誕のようなものであり,実現される前に
一種の死を要求している。それゆえ,野ぽら姫は,ただ単に自分自身の努
力によるものではなくても,永遠に更生することのできる人間の魂の像で
ある。いずれの成長にとっても人が後に新しく生まれ変わこるとができる
ためには,一時期,この世界から隔離される必要があるように思われる。
そして,この最初の隔離は当事者自身によって選択されていることはほと
んどないのである。我々の成長という好ましい方法は,それ程痛ましいら
のではないし,まして唐突でも無統制でもな L、。しかし,実際に我々の成
- 1
0
1ー
長の支配者であると同様,その犠牲者でもある。この自然の法則を回避し
ようと試みても無意味であり,もっぱらその過程を延長させるだけであ
る。隔離は正常でしかも不可欠な行為である。最初のうち,人はそれを世
界とのあらゆる接触を断つ茨の森の如く感じるであろう。しかし,時が立
つにつれて,茨は花をつけて新しい実りある接触を招く一筋の道となる。
隔離する力は,攻撃されることのないひとつの過程を擁護しておりまた望
む,望まないに拘わらず,様々な方法で終末を迎えるのであろう。第二段
階において,物語はまさにそのことを我々に述べている。
比較民俗学の研究は,第三段階における『野ばら姫』の解釈を示唆して
おり,その解釈法によれば,人間的なものから自然そのものにまで,我々
は視野を広げることができる。ここで、は,生・死の両者ともにまさに現実
の構成員であるとし、う潜在的な前提がある。人間生活とし、う小宇宙は,そ
れが映し出す自然の大宇宙と同様に構成されていることを物語は示してい
る。この関係は,物語の興味深い枝葉にわたる詳細な叙述の中に見られ
る。まず第一に挙げられるのは,あらゆる人間性が王・妃・王子・王女の四
人の姿の中に投射されていることである。さらに,文化の世界は,物語に
登場する貴重な道具(金の皿),日常的な道具(紡錘)という型の中に措
かれている。また, 動物の世界は,犬,馬,鳩,蝿,蛙,ー(陸,空,7]<
の様々な動物)ーを介して存在する。最後に小宇宙は,古代化学の四元素
iもえていた火 J
),空, (
i風は凪いでしまって J
),地,
ーすなわち,火, (
水
,
(
i
蛙がーぴき ,m
の中から陸へはし、上がってきて J
)ーによって構成さ
れる。
ι
生と死の関係は,より明白なものであり,四つの発展段階に従う。物語
は死という現実的テーマを伴って幕を聞ける。玉と妃は,いつか自分たち
は死ぬであろうと生日って,熱心に子供を切望する。「なんとかして, 子 供
1
が一人欲しし、J と彼らは,大きな溜息混じりに言う。それも道理で,継承
者なき王家は王権を剥奪されてしまうからである。より象徴的に言えば,
子供なしに死に到る恐怖は永遠の死への恐れである。それは,この地上の
←
1
0
2ー神話と精神(二)
隅々にまで浸透したひとつの古代信仰である 04) r
私に子供をください。
でなければ,私は死んでしまいます。Jラケルはヤコプに懇願し, 両親の
名を頂いた子孫を通して不死への願望を表す。(創世記3
0
章1
) ここで,
信念は,単に筋を導くために言及されているだけであり,同時に物語の最
も適切な主題に移行するために残されている。
次に,赤子の誕生と不吉な宴会によってその人生の出発が死に呪われた
ものであることが我々に知らされる。 L、かなる説明も与えられない。むし
ろ説明は,死という出来事の不合理性を人間的見解から強調しているにす
ぎなし、。「お姫様は,十五歳になると紡錘の針に刺されて死ぬ。」という神2
通力を持った女の宣告は,その死が自由に選択されるものではなく,我々
には統制できないある特殊な力に支配された構図の一部となっていること
を力説している。野ばら姫の話では,王女生誕の宴会に招かれなかった十
三番目の神通力をもった女が呪をかける。このテーマの比較は,神話にお
いても,また民間迷信においても多様である。例えば,キリスト教の聖餐
も同じ情況の下で設定された。宴から追放された十三番目の客が不幸をも
たらし,そして死を呼んだのである。(レオナルド・ダ・ピンチの「最後
の晩餐」はこれについて我々の注意を喚気した。悪魔がコダスに入って,
彼の左手で塩査をこぼした瞬間を描いている。)さらに,また北欧神話に
おいてもパルダーの死がもたらされる。それは,神の庇護に敬意を表して
催された祝宴に招かれなかった嘘つきロッキーが,生まれたばかりのバル
ダーを「黄金の宿木の枝」で殺すことを命じたからである。十三という番
号は,論ずるまでもなく呪われた数字として特別な由来を持っており,ま
たそれは,現代文化の多くの伝統の中に息づいている。(十三は,例え ~f
イタリアの国営宝くじから,合衆国においては,自転車競技やホテルのル
ーム・ナンバーから,また,フランスにおいては,住所番号からことごと
く排されている。また,格言にもあるようにスベイン人は,旅立ちゃ挙式
の日柄にはそれを避ける。)単に無知ということと比較すれば,迷信の称
点は,知性に拒絶されるものを知ろうとする欲や,また人聞の意志に勝る,
- 1
0
3ー
力に対して感じる恐怖を脚色することである。
第三に,物語がさらに進んでいくひとりの年老いた麻を紡ぐおばあさん
によって死がもたらされる。この人物に関しては,湖るとインドの昔話,
5
P
a
n
c
h
a
t
a
n
t
r
a
) の中に類似性を見る。そこでは, 織女は幻想のベールー
感覚的世界ーを紡ぐ女神,マヤの像である。この二者聞の遺伝学的関係と
は無関係にそれらの比較対照は興味深い。それは,我々が先に示唆してい
た事柄というこ,すなわち物語が関係している真の変化は一種の見解の変
化であるとを象徴している。夢の見解が覚醒した生命の見解を変えるよう
に,死は単に見解の変化であるのかもしれな L 、。ギリシャ人が θb町.~
(死)と子WO!;' (眠)Nu
;
t(
母なる夜)の子供を兄弟にしたのは,深い理由
がなかったわけではな L、。死は,我々が生命の中で織り上げるベールから
覚醒する時によく似ている。それはマヤを抹殺することである。
このことは,ただちに我々を物語の宇官的段階を持った最後の第四段階
へ導いてくれる。すなわち死は,終末を意味するのではなく,単に活動の
休止した状態にすぎないということである。それは,論理的に呈示された
理論を問題にしているのではなく,欲一即ち不死を望むことーの脚色化に
ついて述べている。野ばらの木が冬には枯れ,春になって柔らかな日差し
を浴びて蘇るように,野ぽら姫は冬の眠りから醒めて春のように成熟した
娘になるのである。そして,我々も同様に遠い先にいつか死から覚醒する
ことを望む。たとえ無批判で裏付けのないものであろうともそのごく自然
な希望は,生きている者の観点からすれば死が単なる邪悪な呪術であって
も,この希望があれば死そのもののもとで,より豊かな蘇生という幻想を
創造する。それは富を贈る神通力を持った女たちが,招かれざる十三番目
の客の呪いを利点に変えることができるのではな L、かという希望である。
『野ばら姫』の物語の影響が,文化,言語学,さらに宗教神話学と多岐
にわたっているにも拘らず,その統一は,個々の影響のどれひとつをとっ
ても,またそれらの組み合わせによっても,得ることはできない。物語は
「むかし,むかし」の書き出しで始まって,
r
あるところに」と L、う常套
- 1
0
4一神話と精神(二)
語を用いて進行する。時間と場面は普遍的なものであり,その意味は相関
的に超越的である。意味の三段階を系統的に集めて牽引するものは変化と
いう概念であるが,筋の舵とりは,人間のなす業ではなく神通力を持った
女の業である。換言すれば,それは「陽勢力」一我々がある程度統制して
知ることができる人生の部分ーに対する人生の「陰勢力」一未知で無統制
なものーの効果について述べられた物語である。それらの陰勢力は,単に
大自然の神秘においてだけでなく,人聞の精神そのものにも作用する。最
大限の偽装を用いれば,我々は,それらを精神の本能,衝動,さらに欲と
呼ぶことができるであるう。同様に,最古の宗教用語の中では,悪魔,天
使,神々,死霊といった言葉が挙げられるかもしれなし、。物語は,それら
を神通力を持った女と称えており,抽象的な範障があらゆる効果を保持し
ているにも拘らず,陰勢力の領域が合理的思想の論理や道徳の彼岸に位置
していることを我々に想起させてくれる。
空想的思想に内包された幾多の意味を深く解明し,まず話の糸をたぐっ
ていくと,この現象が我々が知への欲と無知への欲の聞に存在する基本的
な葛藤に責任転嫁をしていたことに気付いて頂きたし、。『野ばら姫』にお
いて我々は,その葛藤が思春期の来襲に対する幼年期の自己防衛的な傾向
の中で働いていることを知った。それは言い換えれば,不変で、ありたいと
いう衝動に対する成長したいとし、う衝動の中で,また自分が課す法則に物
事が従ってほしいという欲に対しては,再び人生の物事を最初の時のよう
に見たいという欲の中でそれぞれ働いているのである。陰勢力は,もっぱ
ら葛藤と誘発してそれらを認識にまで持ち上げるので,正常な意識に関す
る物語の魅力は,大方そこから由来している 08〉しかし,もし我々が前述
の空想を無益なものとして放棄すれば,あるいはその魅力の原因を根本的
に考察することをまE否すれば,我々は要所を逃してしまうことになる。
換言すれば,我々は,年とともに論理的解釈を好み,物語の原文は子供
たちに仕せようとする傾向があるかもしれないということである。(とこ
ろが,グリム兄弟は,物語の初版の序文で,彼らの本がおそらく子供たち
-1
0
5ー
の興味の対象となるだろうと認めながら,結局は,大人の読み物であると
明らかにしている。)物語の可能な解釈のどれをもあたかも物語の背後に
ある物語のように把握すれば,解釈の動機を陳腐イじすることを意味する。
これは,我々の解釈がそれ自体 L、かにもうひとつの物語で、あるかというこ
とを忘れているからである。その物語は,我々を物語の背後の物語に近づ
けたり,あるいはそれから遠ざけたりできる。実際は概して後者の結果を
持つ。また現実に第二次の物語を我々に,意識させずにそれを隠蔽する。
思春期の威力,ごく自然な成長のリズム,死後の人生に対する欲といった
ものは,我々がそれらを陰勢力のなす業として述べる場合,哲学や科学と
いう機械化された抽象概念の中でこれらの現実を把握するよりもかなり巧
みに明確化される。この意味において,物語は我々を知的手段に対する過
度な愛着から浄化するという目的を持っており,それらの知的手段との等
式化は,豊富な経験が極めて強靭に拒否するのである。
5
. 神話的機能
これまで我々は,主に神話という概念が学問上の定説を持たないという
理由で,神話とし、う言葉よりも物語と L、う言葉の方を好んで用いてきた。
ここでは,精神上,物語の果たす役割をいささかでも明白にするために,
歴史的に短評しながら神話に関するいくつかの見解を付加しておくのが望
しいと思われる。
我々が通常ギリシャ神話と呼ぶものを多く編集したヘシオドスやホメロ
スの時代(紀元前九世紀)からエスキュロスの時代(紀元前六 五世紀)
にかけては,
r
ロゴス Jと「ミュートス」とし、う言葉の聞に,ギリシャ文学
において認められるような区別は何ひとつ見られない。両者は,話の内容
が真実か虚偽かに関係なく会話,論説,叙述,談話,物語を意味する。紀
元前五00
年代になってその二つの言葉は,意味の上から分離した。例え
ば,ピンダロスやへロドトースは,虚構に関してはミュートス,事実に関
してはロゴスという具合に両者を使い分けている。ミュートスをこのよう
- 1
0
6一神話と精神(二)
に用いることは,紀元前回世紀のプラトンの著書の中で是認された。彼は
ロゴスとし、う言葉に対してはさらに専門的な意味を持たせ,必ず真実と現
実とに関連したものとして留保しつつ, I
物語を創作する」とし、う意味に
}
o
A
o
r
o
i
νを用いた。また,ソグラテスは,ケベスとの対談にお
おいては仰(
いて,芸術を培う夢の中に出てきたメッセージに従った意図がことごとく
失敗に終ったことを以下のように述懐している。「詩人というのが, 有 も
真の創作をしようとするならば,決して事実(ロゴス)をではなく,むし
) ぺきなのだ。ところがこのわ
ろ虚構をこそ,詩として創る (
μ
υ(
}
o
A
o
reiν
たしにはもとより物語(ミュートス)を生み出す才はありはしない! だ
からわたしは,手近でよく覚えているアイソポスの物語を用いて,その
中からいわば最初に手に触れたものを,詩に創ってみたというわけなの
だ
。 J7) 神々の物語に対する当時の深い関心と連結したこの用法は,後にな
って前述の物語を μU(}Oi と命名することになり,それは急速に受け入れら
れていった。
アリストテレスは,
ミュートスの用法にいくらか洗練された色彩を与え
て,彼の師の教えに従った。この点に関して,彼が悲劇の本質を定義付け
ようとした著書, 1
詩学』の中でその言葉を言及している。アリストテレ
スによれば,
ミュートスは,悲劇の持つ六つの基本的特質のうち,第一番
めのものとして述べられており,戯曲中の事件の取合わせ,すなわち物語
に潜む筋をいう。従ってミュートスは,戯曲のディーテイルにあるのでは
なしむしろその筋の中に見られる。
それに関する彼の論評の中からミュートスの持つ三つの性格が引き出さ
れる。まず第一にそれは史実でなく作り話に関連した虚構でなければなら
ない。第二にその創作は劇作家によるものでなく伝統によって伝達された
ものであるべきだ。そして最後に,
ミュートスは,虚構的かつ非歴史的で
あるにも拘らず悲劇の真実を伝えるものである。それ故に,その虚偽やご
まかしはもっぱら真実への注意を喚起するために用いられる。 8)
アリストテレスのことはを借りて,さらに一般的な表現をすれば,次の
- 107-
ような根本的な操作上の定義が与えられるであろう。すなわち,神話は,
ひとつの外見上の虚偽がもっと深い真実を蔽う共有的想像のし、かなるジャ
ンルをも指し示し,ジャンルとして,いくつかの特殊な孤立したイミージ
を抜きにして物語と関連するのである。また共有的想像の範鴎としては,
個人的あるいは私有的な想像の干渉にこだわらず,時の経過に打ち勝って
きた文化や伝統の一部と考えられる。すなわち,神話は真実を伝える虚偽
のごとく多くの意味を持ったジャンルと考えられる。
民間伝承の標準的な分類の見地からすると,そのような定義は通常のも
のより広汎である。それは,伝説,寓話,短編物語,叙事詩,笑話の中
に,また英雄物語,評釈,御伽噺,動物物語の中に,さらに民俗学者がミ
ュートスと呼ぶところのあの神々の物語の中にも無差別に混在している。
しかしその定義があまりにも狭義的に解されているのではなし、かというこ
とが実証されねばならなし、。いずれにせよ,それを受け入れる理由は,知
らず知らず我々の物語の精神的機能に焦点を絞ることにある。すなわち物
語自体は,内容を隠したり,顕わしたりまた単に知への欲求だけではな
く,無知への欲求によっても条件付けられているのである。換言すれば,
ミュートスの背後にあるロゴスの追求として,虚偽の背後にある真実の追
求として,さらに物語の背後にある物語の追求として神話を述べる場合,
厳密な「精神理学的J 見地からそれを定義づけることになる。この発想、の
原点が投げかける数々の問題は,一方で‘は隠、された物語を顕わすことをめ
ぐ、って,他方では物語が他の物語の後で作る事柄の探究をめぐって生じて
いる。
これらすべてを考慮した上で,神話の一例である『野ばら姫』に戻って
みよう。もし物語が何かを意味するかもしれないということを認めるので
あれば,明らかに架空である劇の表面上には意味付けがなされていない
のは明確である。神通力をもった女,呪い,百年の魔法の眠り,奇跡的な
野ぱらの開花,これらはすべて虚偽であり,筋の虚構的性格を証明する。
『野ばら姫』は,口承による物語のように自ら進んで共有的想像のジャン
- 108- 神話と精神(二)
Jレに陥る。そして,物語が隠蔽する真実は,我々も知っているように物語
としても現われる。それは,陰勢力の優れた力に身を委ねようと精神が感
じる必要性と外部から来る抑制力を自力で反発しようとする必要性の聞に
存在する葛藤と関係がある。とりわけ,野ばら姫はこの葛藤を生,死,更
生を内包する変貌という自然の過程の中で位置づけている。最後に我々が
気付くことは,ひとつの真実を植えつけるための虚偽ー「神話的機能」と
称されるものーが成長過程に関する分析とそれ自体の具体的な経験の聞に
広がる回避しがたい深淵を解明しようと努めていることである。
この最終段階を理解すれば,精神的成長が我々のものであろうとまた他
の者たちのものであろうと,その通常の物語を前にして我々はこれまでの
主張に対して自信を喪失する。空想は,こうして共有的,科学的説明と個
人的,自叙伝的説明に関する,ある健全な懐疑心を生み出す。従って,困
難ではあるがそれらのあらゆる物語を昔話のように把握しなければならな
い。それらが尊重した範障は,我々の統制や理解を越えた事柄について述
べられているため,明らかにしようとするものを隠蔽せざるをえない虚偽
のようである。空想は,さらに,知に対する我々のすべての意図を,無知
への欲求や現実を我々の理解するものと取り違えようとする欲の用心深い
表現として分類するための準備を与えてくれる。その時点から神話の領域
は,想像における現行の限界一共有的および私有的ーの認識論的批判の中
で拡張されるであろう。
神話的機能に対するこの評論でさらに論を進めて話り手の活動に関連し
た二つのアプローチをより詳しく比較対照してみよう。まずは,アルベル
ト・カミュの著書, Iiシジフォスの神話』に登場する人物像をとりあげて
みる。「硝子の壁の向うで一人の人聞が電話で話している場合,その声は
聞こえないが無意味な身振りが見える。なぜ彼は生きているのかと人は自
問するのだ。 J9l 馬鹿げた無言劇の姿は人生の不合理性と人間同志の伝達の
無益さを象徴するものである。しかし,その人物像がもう少し空想化され
れば,おそらく意味と伝達の可能性そのものの象徴のように理解できるで
- 1
0
9一
あろう。
ガラスの仕切りで、私から離れた電話ボックスの男は,受話器を肩と顎の
聞にはさんで、何か言っているのだが,私にはその日音号めいた口元が理解で
きなし、。しかしながら,時聞が経過するうちに,彼の会話は聞くことはで
きないという私の最初の失望は緩和され,その元気そうな様子から会話に
関する内容をいささかでも知ることができる。ここで,ボ γ クスの中には
男が語る物語が二種類存在するという考えが私の脳裡をよぎる。第一は,
もう一人の人物が他の受話器で聞いている物語であり,第二は,ガラスの
仕切りを通して私が見ている物語である。さらに私は,物語の背後では二
つの物語が働いていることをふと感じる。もうひとりの人物には私が観察
している男の身振りがわからなくとも,それはある程度会話の内容に属す
るものである。身振りが語る物語は受話器の向こう側には陰蔽されてい
る。他方,私には知ることのできない言葉は,いくらか身振りに関するも
のであるが,ガラスの仕切りによって私と隔離されている。
そこで,以下のことを熟考してみるとしよう。もし両者のメッセージが
相互に関連し合うとすれば,一体どちらに重点を置くべきなのであろう
か。私の最初の偏見一電話をかけることを先に決心した者の偏見ーによる
と,身振りが単なる注釈となるような文章にとっては言葉は極めて大切な
ものである。ところが,彼の荒々しい態度が私を躍踏させる。おそらくボ
ックスの中の男は,自分のメ vセージを電話で伝えるべきでなかったと悟
ったのであろう。あるいは,実際に意味をなす部分は言葉の中に存在しな
いのだと悟ったのかもしれない。彼は,失望のあまり自発的に自分の動{乍
をボ vグスに向けて行なうが,それも徒労である。多分,言葉は,身振り
が語る最も重要な文章にとってはただの句読点にすぎないのであろう。
さてここで,電話ボックスの男の謎は,我々が物語の解釈を企てる度に
直面するところの問題点に類似していることを指摘してみよう。採掘され
るべき物語が裏側に存在しているように,我々の解釈上の作業は,常に二
重の意味を有している。注釈は,ひとつの意味を発見しようとする時 他
p
- 1
1
0一神話と精神(二)
。意味を隠蔽する。言うなれば,物語への可能なアプローチは, i
非神話
化Jと「啓示化」の二通りに分類されるということである。
最初の衝動に駆り立てられ,一体どうなっているのかとこの私がガラス
の仕切りに耳をあてている情景を思い浮かべて頂きたし、。私は,男とその
相手の立場の中に入り込もうと努める。身振りが視界から消えてゆくが,
ひとつの興味深い物語が微かに聞こえる。彼が萎と話していることがわか
ったのだ。彼が,その週末,会議に赴くため乗り込んだ機内で彼の事務所
の OLの一人と出くわしたのは全く偶然であり,その後彼女とは決して会
っていないので,どうか疑惑を捨てて空港へ迎えに来てほしいなどなどと
言っているのである。男が伝達するメッセージに関する立場は,文字や換
晴上の記号で言葉を解釈するために虚偽一身振りによる表現ーを取り除く
非神話的Jである。この解釈を受け入れると,還元的で独特な方
隈り, i
法で機能する。というのは,身振りの裏側に隠されているメッセージは,
言語法則によって認められた正確さにおいて絶えず還元されているからで
ある。非神話的立場は,物語の事実を抽出することに努めていくが,それ
は基本的には観念形成のようなものである。
次にガラスの仕切りから耳を離し,後方へ一歩下がるとしよう。前述の
立場から遠ざかり再び彼の身振りを見て今度は不意打ちをくらう。私が盗
み聞きをしたから身振りがよくわかるというのではなく,私の視点が彼の
萎にはないために彼女に理解できないものが私に理解できるからである。
以前には評価できなかった第二の見解が私の前に展開すると,言葉を身振
りの持つ優れた重要性と相対する疑問が自分に浮かんでくるようになる。
身振りを物語の解釈を妨げる障壁とみなす代わりに,それが言葉に対する
排他的な注意に妨げられた解釈を L、かに可能させるものかと知るのであ
る。語られ言葉とは無関係で,また意識ある知性に完全に統制することの
ないメ vセージを暴露することを目的とすれば,この見解は「啓示的Jと
称されるであろう。この解釈法に従うと,人は,伝達すべき事柄と実際に
伝達する事柄の間にある関連性を比喰的に捉えながら前向きに機能する。
それは,また完全ではないが当事者を推進していく欲を提示している。さ
らに,口承による物語の特殊な内容によって私はその男と歴史的に隔絶さ
れていながらも,彼の身振りは極めて奇抜な方法で我々を連結するように
思われる。身振りの感情的表出はもとより普遍的であり,物語の事実にお
ける興味の重要性再認識を中心にして事実そのものを超越するのである。
こうした見解の併置は,
トルストイの著書『イワン・イリッチの死』に
よって示唆されたもののようである。主人公は間近に迫る自分の死に対し
て理性的な態度を維持するが,その後死への過程がもたらす隔離を身振り
に訴える。三日間,彼はまるで揺りかごの赤ん坊のように激しく両手を動
かし, 1
彼はその間ひっきりなしに打ち勝つことのできない,目に見えぬ
0
)絶望的な岬き声を上
力により押し込まれた黒い袋の中でもがき続けた。/
げる。彼の体は,ー末期の苦悶と戦い続けて一内的な平安状態を隠してい
たが,最後には平静な精神状態を取り房しそして歓喜と理性に支えられ死
んで行く。イワン・イリッチの絶叫,振舞 L、,そして沈黙は電話ボックス
言葉が伝達する以上の
の男の荒々しい身振りによく似ている。両者は, 1
ものが存在する J という同ーの事柄を述べているように思われる。我々を
経験の支配者でなく被支配者にするようなこの「以上のものJは,言葉に
よって遮蔽され,また身振りによって露見する。
見解の分裂は純然たる解釈学の策略である。伝達は,それ自身絶えず交
錯している。従って伝達による。精神分析には二つの方法があると断言で
きる。そのひとつは,意識的に認識され統制された「意志J (
s
p
i
r
i
t
u
s
)に
a
n
i
m
a
) によ
よる方法であり,他は,無意識で認識されず無統制な「魂J (
るものである。伝達の[意志」が対話の中で働くとすれば,伝達の「魂J
はまさに沈黙の中にある。もし, 1
魂」を「意志J に還元することを望め
ば,知ることへの欲の衝動に駆られるがままになり,知らなくてはならな
い事柄の一部分を蔽い隠すとし、う損失となる。逆に「意志Jを「魂」と取
り換えようと試みるならば,さらに認識能力を身につけると同時に知への
欲求の衝動を抑制すのであるる。「意志」もしくは「魂」が欠如すれば精
- 112- 神話と精神(二)
神の自己反省は根本的に不完全なものとなる。同様に語り手の活動におけ
る神話的機能はこの両見解の均衡を必要としていると言えそうである。
我々がキリスト教的物語を熟考する上でこれらの根本的な考え方がもた
らす結果は千差万別である。総括すれば,非神話的な見解が神学界におけ
る占有率を高めていくにつれて純粋であるが反省に欠ける「宗教体験j に
一層関心が寄せられると L、う反作用が起きたことである。一方では,現代
の神学は,以前にはキリスト教的伝統と無縁であった自覚の段階に到達し
つつあると言えるであろう。しかし,他方て寸土,教義の超自然的現実との
直接的な接触を半狂乱になって追求することも再び我々の世代の特徴とな
りつつある。二方向を結びつけることを痛感する必然性は,言ってみれば
希望の前兆であり,ここかしこに現れている。問題がキリスト教的想像
の,共有性に対する私有性の制圧の中で位置づけられるべきであることは
上に述べた通りである。この点に付加すべきことは,こうした発展性の源
泉が人聞の語り手としての活動における神話的本質を理解することの普及
した過失にあるかもしれないということである。そして,それ故に我々は
現代キリスト教的物語の背後にさらに物語を発見しようとする熱意を正当
化する。宗教体験に意義を与えるという意図において,神学は不注意のあ
まり宗教体験そのものを制圧するかもしれない。それは宗教用語の表面的
な虚偽の中を流れる真実を探索しようとしてその方法を過信するからであ
る。近年,方法論に対する神学者たちの関心に漸次的な改革が起こってい
る。その方法論とは,おそらく我々キリスト教信者の大半が生きていると
ころの制度的生活と内面的生活の間にある不均衡を是正することのできる
最も印象深い兆候であろう。ここでの目的は,神学的方法の浄化作用にお
ける空想的思想の役割評価であり,非神話的,もしくは啓示化という側面
的な主張を敵視することである。
キリスト教において空想的思想を容認することへの恐怖は凄絶なもので
あり,それは伝統そのものの一部と化してしまったといえる。空想は知性
によって導かれる者にとって隔世,遺伝的,復古的,また合理的という側
- 113-
面からは危険で,感傷的なものに映る。しかし体験によって導かれる者に
とっては,彼らの中核となる神や聖霊の体験を単に最小限にくい止めよう
とするだけのものである。ニーチ z が,その著書『反基督』の中で行なっ
たキリスト教への批判は多少なりとも前述の恐怖に関する説明になるであ
ろう。
その書の重要章句の中で,彼は辛疎な言葉を用いてキリスト教的物語に
鋭い非難を浴びせている。彼は,キリスト教的物語が,単なる空想的原因
一「神,魂,自我,自由意志,不自由意志」ーを単なる空想的結果一「罪悪,
救し、,思寵,刑罰,罪悪の赦し」ーと共に提供したことを批判している。
さらにまた,それら二つを単なる空想的心理学
(
i
宗教的道徳的好悪の記
号語をかりてなされる自己誤解,愉快なる又は不愉快なる一般感情の,側
えば交感神経情態の解釈にすぎないー『悔改j) ~良心の苛責j), ~悪魔の誘惑,
『神の前にj) J) と,他ならぬ空想的目的論(~神の国j) ~最終の審判j) ~永
久の生命j))とを結びつけた点でも批判している。ニーチェによれば,ギ
リスト教的物語が現実を非難し,吾、み嫌いそしてその虚構性を媒介として現
実へのあらゆる嫌悪感を表わすため,上述のすべてのものは,不都合なこ
とに現実を否定する夢の世界と区別されるのである。 11)
その点は現代人に実しやかに聞こえるので非神話的投企(原因,結果,
人聞の心理的イメージに神話的でない神学用語を用いて新しい名称を与え
ること)と,同様に啓示的投企(直接的な連絡を通して想像性を現実性に
かえること)を堅固なものにするように思われる。実際,これらのニーチ
ェの論評と空想的思想を擁語して既述された事柄の聞にはある種の矛盾が
認められる。後者では,想像性はやや消極的に思われるが,前者において
それは積極化された。後者では,空想的思想が責任を干渉し,前者ではそ
れを明確化したと思われる。ここで,一般キリスト教に対するニーチェの
極端な嫌悪感が影響していることは否定できない。その先入観が,キリス
ト教的物語のイメージと夢のイメージの間にある独特な比較性によって示
唆されたあらゆる種類の可能性を彼に気付かせなかったのである。それ
-114- 神話と精神(二)
は,風目水と共に赤ん坊を流してしまうことになる。ニーチェは,キリス
ト教とキリスト教の一つの解釈,つまり,現実世界への軽視と否定の上に
構築された解釈を,誤って同一視しているのである。
彼の批判を我々の利点にあてはめてみると以下のことが断言できるであ
ろう。すなわち重要な事柄は,極めて事実的な範障に向けられた相像上の
ものであるためにキリスト教的物語を担否することではなく,不適当な解
釈に脅やかされた精神的機能を理解することである。もしこれらの解釈か
共有的想像を制圧したのであれば,それらを「不完全な想像物」と見なす
ことなしキリスト教的伝統をすべて単純に非制度化せねばならなし、。こ
の問題に関しては,次章での検討を待たねばならなし、。
注
1
) F ・エイチェ『人間一余りに人間的な』ニイチェ全集
日本評論社,
1
9
3
5
,第
3 巻 13節 PP.29~32.
:2)本書においては,金田鬼一訳『グリム童話集』全 5巻 岩波文庫
1
9
7
9
,を用
いた。
:
3
)G
i
a
m
b
a
t
t
i
s
t
aBasi
I
巴
作P
e
n
t
a
m
e
r
o
n
eの
I
i
'S
o
l
e,LunaeT
a
l
i
a
.
!
](
1
6
3
4
年)の中
で第五番目の日に第五番目の出し物で語られた話が性を取り扱っていることは
この上なく明白である。また, C
h
a
r
l
e
sP
e
r
r
a
u
l
tの
I
i
'Lab
eI
lea
ub
o
i
sdormantJ)
(
1
6
9
7年)がグリム童話集とは全般的に異なる暴力を含んでいるの R
.S
t
e
i
g,A
.
v
.Arnimund]
.und W.G
r
i
・
mmB
e
r
l
i
n,1
9
0
4,参照。
4
) 例えば,このテーマは,現代ギリシャ文学の巨匠, NikosKazantza
:k
i
s (18831
9
5
7
) の作品の中に極めて頻繁に見られるの彼は死の神話に造詣が深かったに
も拘わらず,子供がし、ないことを非常に憂慮した。その一例として,彼の小説
に登場する苛祭のひとりのケースをかかげてみよう。彼は,未婿の娘に対して
迷信的な恐怖を暴露する。日を追ってろうそくのように消耗してゆ〈彼女を見
るにつけ,彼は一刻も早〈孫が欲しくて娘を嫁がせようと焦繰感にとらわれる。
fこれが彼の人生の最も激しい願望となっていった。老司祭,グリゴリウス l
i,
死を壊滅する唯一の方法をそこに見い出したのである。JIf'キリストを再び十字
架に』この点に関する多くの資料は著者による随筆 ,l
f
"Evap
/
C
ω
σ甲 付 叩f
)
e
p
l
.
侭 :
τ品
々即日
.
r
τ
o
uN
l
/
C
o
u Ka
.
r
aτ
ν a/
C
1
)
.
l
I NEAE
ITIA (
アテネ),
1
9
7
1年降誕祭号 p
p
.
- 1
1
5ー
1
4
1
"
'
1
7
8参照。
宅
,
)S
t
i
t
h Thompson
,J
o
n
e
sB
a
l
y
s 共著,
i
M
o
t
i
l
a
n
d
T
y
t
e
I
n
d
e
x0
1t
h
eO
r
a
l
,B
l
o
o
m
i
n
g
t
o
n
:I
n
d
i
a
n
aU
n
i
v
e
t
s
i
t
yP
r
e
s
s
,1
9
6
3参照。
T
a
/
e
s0
1I
n
d
i
a
a
r
l
oC
o
I
I
o
d
iの Pi
・
'
n
o
a
c
h
i
o伝聞する類似した論文
。著者は別の機会を利用して C
を紹介しており,そこで書かれた物語もまた幻想的,思想の価するだけの価値を
我々に認めさせることでいかに役立っているかを実証している。Ii'
P
i
n
o
c
c
h
i
o
:
A
r
c
h
e
t
y
p
eoft
h
eM
o
t
h
e
r
l
e
s
sC
h
i
l
d
J
jC
h
i
l
d
r
e
n
'
sL
i
t
e
r
a
t
u
r
e
,1
9
7
4
,pp_23"'35
参照。
7
) Ii'パイドンjJ6
1節,プラトン全集第 1巻,岩波書庖, 1
9
7
5,P
P
.1
6
6
.
7
巻『詩学jJ 6章,岩波書庖, 1
9
7
2
,p
p
.
2
2
"
'
3
4
.
8
) アリストテレス全集第 1
9
) A.カミ晶, Ii'ジンフォスの神話jJ,新潮社, 1
9
5
1, p
p
.2
6
.
1
0
)L
. トルストイ, Ii'イワン・イリタチの死』岩波文庫, 1
9
7
8
,p
p
.9
9
.
亙1
) Ii'反基督jJ,ユーチ z全集第 9巻,日本評論社. 1
9
3
5
,p
p
.
3
7
3
.
-116ー神話と精神{二)
~yth
a
n
dP
s
y
c
h
e
-TheS
t
o
r
yB
e
h
i
n
dTheC
h
r
i
s
t
i
a
nS
t
o
r
y
ー
JamesW.HEISIG
P
a
r
tI
I
.PERSPECT1VES
,
Thep
r
e
s
e
n
te
s
s
a
yc
o
n
t
i
n
u
e
st
h
eargumentbeguni
nP
a
r
t1(PROBLEMAT1CS
w
i
t
has
t
a
t
e
m
e
n
to
ft
h
eh
e
r
m
e
n
e
u
t
i
ct
a
s
kt
h
a
tf
a
c
e
st
h
eC
h
r
i
s
t
i
a
ni
m
a
g
i
n
a
t
i
o
n
r
b
o
t
hc
o
r
p
o
r
a
t
eandp
r
i
v
a
t
e,i
ni
t
sa
t
t
e
m
p
tt
op
r
e
s
e
r
v
ei
t
s mytha
sas
o
u
r
c
e
o
fmeaningi
nt
h
ec
o
n
t
e
m
p
o
r
a
r
yw
o
r
l
d
.
1
nt
h
etwoc
h
a
p
t
e
r
sg
i
v
e
nh
e
r
e(
"
T
h
eDarkF
o
r
c
e
s
'and“
The M
y
t
h
o
l
o
g
i
c
a
l
F
u
n
c
t
i
o
n
'
) t
h
ef
o
c
u
ss
h
i
f
t
st
o ac
o
n
s
i
d
e
r
a
t
i
o
no
ft
h
er
e
l
a
t
i
o
n
s
h
i
pb
e
i
w
e
e
n
'
s
t
o
r
yandi
n
t
e
r
p
r
e
t
a
t
i
o
n
.An e
x
t
e
n
d
e
da
n
a
l
y
s
i
so
ft
h
r
e
ei
n
t
e
r
l
o
c
k
i
n
gr
e
a
d
i
n
g
s
o
ft
h
et
a
l
eo
ft
h
eS
I
e
e
p
i
n
gB
e
a
u
t
ys
e
r
v
e
sa
sap
o
i
n
to
fr
e
f
e
r
e
n
c
e
.Ont
h
eo
n
e
hand
,i
ti
sa
r
g
u
e
d
,t
h
eu
n
i
n
t
e
r
p
r
e
t
e
ds
t
o
r
yi
sc
Io
s
e
s
tt
ot
h
e enchantment
wroughtbyt
h
es
t
o
r
yoni
t
sh
e
a
r
e
r
s
. Tot
h
i
se
n
di
ts
p
e
a
k
si
na
p
p
a
r
e
n
tf
a
I
s
e
.
h
o
o
d
st
h
a
tp
o
i
n
tt
oat
r
u
t
hwhichi
s“
moret
h
a
nwordscant
eI
I
-(
m
y
t
h
o
s
)
. On
t
h
eo
t
h
e
r hand
,t
h
ei
n
t
e
r
p
r
e
t
a
t
i
o
ne
n
a
b
l
e
su
st
ol
o
c
a
t
et
h
es
t
o
r
yw
i
t
h
i
na
I
巴c
t
i
o
n (
Io
g
o
s
) and t
h
u
st
om
a
i
n
t
a
i
nac
r
i
t
i
c
a
l
t
r
a
d
i
t
i
o
no
fs
y
s
t
e
m
a
t
i
cr
ef
d
i
s
t
i
n
c
t
i
o
nbetweent
r
u
t
hands
u
p
e
r
s
t
i
t
i
o
n
.
1
nc
o
nc
Iu
s
i
o
n,i
ti
sn
o
t
e
dt
h
a
ti
n
s
o
f
a
ra
st
h
eC
h
r
i
s
t
i
a
nt
r
a
d
i
t
i
o
nh
a
sf
o
r
g
e
da
c
o
r
p
o
r
a
t
et
h
e
o
l
o
g
i
c
a
Ii
m
a
g
i
n
a
t
i
o
nwhose aimi
st
ot
r
a
n
s
l
a
t
ea
I
It
h
ef
i
c
t
i
o
ns
:
o
f t
h
e C
h
r
i
s
t
i
a
ns
t
o
r
y i
n
t
o u
n
d
e
r
s
t
a
n
d
i
n
g, i
tr
u
n
s t
h
eg
r
a
v
e r
i
s
ko
f
r
e
p
r
e
s
s
i
n
gd
i
m
e
n
s
i
o
n
so
fs
o
u
It
o
u
c
h
e
dbyt
h
em
y
t
h
i
c
a
Ib
u
td
i
s
c
a
r
d
e
dbyt
h
e
l
o
g
i
c
a
I
.