1 病床日記 悪運は意外にも例外的に訪ねてくるもの お見舞いに来て

病床日記
悪運は意外にも例外的に訪ねてくるもの
お見舞いに来てくださった方たちや投稿者たちからは「ゆっくり静養してください」「快
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癒しますように」ということばが多い。そして私が日程などを無理した点も指摘してくれる
人も多い。しかし私は無理して仕事をし、忙しく暮らしたとは思っておらず、ただ生活のリ
ズムに過ぎなかった。私の母がそうであった。若い時は畑仕事、野菜栽培、棉や絹も栽培、
日が暮れるまで外のしごと、そして部屋に設置した織物機の前に座り織物をしていた。年中
多くの祭祀、お客さんの接待など宴の多い家の生活に不満を言うことなくこなしていた。私
はそれを見習って成長してきた。
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最近数年間は早寝、早起き、メールのチェックをし、日記のように毎日ネット上投稿し、
食事を済ませすぐ家内の車で出勤、講義準備と講義、読書会、人と談話などをし、帰宅して
食事してからニュースとドラマを見ることもあり,見ないでベッドに入るような日常生活の
リズムであった。それが健康生活だと信じていた。私の健康観は確固不動のものと信じてい
た。食事や就寝時間などを守っており、煙草やお酒などは元々縁のないこと、運動とは言え
なくとも結構動いていた。特に暴飲暴食に関しては私とは縁遠く全く健康な者だといつも
自信を持っていた。しかし意外にも例外的(?)に私に大病がやってきたのである。私の確
固たる思念は過信、大間違いであった。しかし悪運は意外にも例外的に訪ねてくるもののよ
うであった。
知らず、知らず私の病気は進んでいた。それは二十歳頃の肺結核の死境から残った石灰化
した肺の機能が加齢とともに低下していると信じていてそれは死ぬまでの持病であり、自
分の運命として確信していた。呼吸器内科に通い命ある限りの健康生活であった。
韓国から帰国してから間もなくベッドの中で私の胸に痛みの電波が左から右へ流れた。
死にそうな苦しみ、しかし、まだ救急車に乗る気持ちはなかった。多くの人が軽い病気や仮
病で過剰に利用していることを知っていたので、私は意識不明の時にだけ乗るものと思っ
ていた。結局家内の車で当番病院の厚生病院に向かった。深夜は寒散としている。駐車場で
降りてから痛みは再度私を襲ってきた。緊急で心臓カテーテル検査を含む、数時間の検査の
末、手術以外に治療はないと言う。目の前に黒っぽい高麗人参のようなカタチの心蔵のモデ
ルを見せながら大動脈が詰まっている場所の説明があった。それを聞いて私は自分の命は
ここまでだと思った。享年 75 歳で充分。20 歳で死を恐れて悩んで悲しんでから 50 年も延
命したのでこれで充分と死を覚悟した。
医師に断固に「手術しません」
「死にます」などと言った。他の二人の医師が「本当に死
にますよ」「手術したら治ります」沈黙
家内が呼ばれてきて切ない声で「頑張りましょう。ミミ(愛犬)が待っているよ」
しかし私は手術をしても助からないだろうと死を覚悟して家内の意見に賛同し、手術を
受けることにした。手術室へ入る時、家内に告別する気持ちと感謝をもってさよならと手を
振った。
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私は別のベッドに移され、これから手術になるのだ
と思ったとたん救急車に移された。天井や両側が道具
屋のようにいろいろなものが並んでいる車に乗せら
れ、傍に医師と家内が載っている。救急車に乗せられ
てサイレンの音を鳴らしながら走る。済生会下関総合
病院へ向かっている。新しい道ができて 15 分で行け
るから、我慢して下さい。準備して待っていますから
ねと言う。痛みと疲れなどで意識は朦朧となっていた。
病院側から迎えられた。病院に着いてからまた新しく
検査が始まった。心電図、CT,心エコー、レントゲン、
血液検査などが行われた。まな板に乗る準備の時間は
充分にあった。深夜の騒動が朝まで続き、執刀医の阪田先生から「おはようござい」と言わ
れ朝になったことを知った。
私に事前の説明としていわばバイパス手術であり人工呼吸器やら色々な管が喉に入れま
すということで、同意を求められた。私は「死んでも構いまいませんのでご自由になさって
ください」と言った。
「点滴から麻酔の薬が入りますのでゆっくり寝てください。
」
「どのくらいかかりますか。」
「5 時間くらい」
細目にして最後のこの世を覗いてみた。金子ミスズは魚がかわいそうだと言ったがまな
板の鯉状態の私がかわいそうであった。暗室の中に星のような光が見えた。そして古墳の壁
画のような映像目の前にあった。そこがあの世であった。
私は聞けず幸子(妻)が事前説明を聞いたという。家内が深夜から午後まで 9 時間の手術時
間を含め長い時間待っていた。その間、大学の櫛田学長、鵜沢副学長、同僚の磯永、同僚で
あり教え子の李良姫、教会の牧師夫婦などの方々が訪ねてきて慰安してくれたという。
ICU からの私の担当ナースが来られ説明文にそって食事など注意点を話してくれた。冠
動脈のバイパス手術であることも正式に始めて知った。手術前にこのような説明を聞いて
いたらおそらく私は手術を拒否したはずである。幸いにも救急車で運ばれ私は説明を聞く
状況ではなく、家内が代わりに聞いて行われた。
ICU で目が覚めた時は生きかえったことが嬉しかった。ベッド 20 くらいは入りそうな広
い ICU の真ん中に私が横になってあらゆる治療、ケアを受けていた。目が覚めたというよ
り生き返ってきたようであった。まず明るさ、医師や看護婦たちの顔がクローズアップされ
て映ってきた。見えるのが一番確実に生きている確証であった。耳も聴力があった。聞こえ
る。しかし復元であって再構成ではなかった。左側の耳が難聴であることはそのままであっ
た。医師が「もうすぐ奥さん来られる」と言ってくれた。口の中には管が入っていて声を出
せない。看護婦が「日本語をわかるかね」と文字盤平仮名を目の前に出してくれた。
「かん
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し」と文字をえらで指した。看護婦が「感謝ということ?」、私は指を丸く OK とした。次
に私は「うれ」と指し、「うれしいこと?」と一言コミュニケーションをとった。足などを
触りながら感触を確認するようであった。家内が表れた。眼鏡縁が太く、瞳が大きくクロー
ズアップされた。本当に嬉しく、再会であると思った。
その後いつかは知らないが担当の阪田先生が横に座り私の左の腕から点滴の針をとり、
その腕を優しく押していた。そしてその片手で私の顔の頬を優しく押してくれた。先生は
「ごめんね」と言いながら肺の中の淡をとる。1分程つつ、3回ほど繰り返す。痛みが極ま
っていた。拷問とも感ずる苦痛であった。
「ごめんね」
「はいる」という言葉が恐ろしく感じ
た。痛みのなか鼻から喉から管を問ってくれた。話ができるようになった。その後医師は私
の腕の注射傷口を抑えながらいつ日本に来たかなどの話を掛けてくれた。私に関する情報
は全くないままで手術が行われたのであった。私は感謝の言葉と簡単な自己紹介をした。そ
れは医師からは声や言葉の復元を確認することであったかもしれないが、私は嬉しく目を
閉じたまま語った。その時間が医師と一番長く質のある対話であった。
後に調べたところ阪田健介先生は心臓血管外科専門医認定機構の基幹施設副院長・科長
であり、心臓血管外科専門医、日本胸部外科の認定医である。同病院では年間約 170-180 例
の心臓大血管の手術と、約 50-60 例の末梢血管の手術を施行しており、バイパスに用いる
グラフトは、ほぼ全例に長期開存率の優れている内胸動脈グラフトを用いて緊急手術には
随時対応している。私はその先生に巡り合ったのは運が良かったとしか言えない。冠動脈の
バイパス手術であることも正式に始めて知ったのは手術後3週にもなってからであった。
手術前にこのような説明を聞いていたらおそらく私は手術を拒否したはずである。幸いに
も救急車で運ばれ私は説明を聞く状況ではなく、家内が代わりに聞いて行われた。
4日間そのまま目を閉じたまま病院のバックミュジクを繰り返し聞きながら瞑想と眠り
の時間が続いた。音楽はリズムのないメロディだけのものであったが、時には讃美歌のよう
な曲もあったが死を連想されるものとして嫌な感がした。後に病室から見える墓さえ見た
くなかった。その時私は折角再生して死を恐れていたのではないかと今思う。
毎日投稿するブログや FB には家内が「きのう(㋊㏠)の深夜から体調不良が強くなり、
医師より絶対安静の指示がありました。治療を受けていますので安静解除になるまで休ま
せていただきます。」と書いた。
実は私の病気は以前から進んだ。一か月前からは坂道を 5 メートルほども歩いたら胸が
苦しくなった。
「胸が痛い、苦しい」という言うべきなのにそれを私は家内に「呼吸困難だ」
といった。そもそも私は自分自身で肺が弱いと症状と思いこんだのであるからである。それ
は家内も、内科医師もみんなそのように思いこんだ。
「胸が痛い、苦しい」ということは「心
が苦しい」あるいは「悲しい」という文学的な表現であり、病気の症状を表現する言葉では
ないという先入観を持っていた。
「むねがいたい」とはいえば趙容弼の「釜山港へ帰れ」
、カ
スムアプケ(가슴 아프게)のようなロマンチックな心の表現だと思った。しかし医師は家内
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の話や意見を聞き、家内は私の言葉を信じて医師に話しているようである。家内いわく診断
は問診が一番重要であると。占い師は客の言葉によらず生年月日などをもって占うのが名
師と言われる。私は医師を占い師と混同してしまっていたようである。昨日定期受信検査で
内服薬がひとつ多くなり、呼吸困難の時に対備して吸入器を携帯するようになった。私も最
近は体調がよくなく、常に持病の気管支が弱っていると感じている。家内は私の健康を気に
して観察し、医師と相談して対処しているので安心している。心電図や X 線ではそれほど
の変化はなく、まずは食生活に注意することにしている。家内の意見で昨日は病院に行った。
しかし、有効期間などを考慮していただき、帰ってからにすることにし、肺の機能に注意す
る話ともうひとつ気になっていた血液検査をした。
フィリピンに調査旅行に行った。スペイン植民支配にリサールが抵抗して犠牲となって
英雄になったことを現地調査したかったからである。彼はスペインに留学して医者となり、
その恩を独立運動と反逆罪を起こしてスペインに殺されフィリピンの民族英雄となった。
このような植民地恩恵を裏切るパターンは植民地時代にはバリエーションはあっても一般
的な現象であった。私は恩と恩返しの構造を越えて教育という普遍的な力に注目してもこ
の例を深めたかった。つまりスペインは 2 回も彼を英雄化してあげたようである。つまり
一回はスペインでの教育と活動まで認めてあげたこと、二回目は彼を死刑という罰で彼は
死んで英雄となった。そしてフィリッピンは隅々まで銅像、記念碑、地名、図書、貨幣など
あらゆる手段で彼を尊敬するか、民族主義に利用するか、している。しかし国民は良い政治
をしてくれる人であれば国籍や民族を問わないようであるという。
マニラのリサール記念公園の中央にはホセ・リサールの記念碑の塔があってその下の周
りには接近できず距離をおくようにして二人の武装警備員がゆっくりぐるぐる回っている。
その横の森には 1896 年リサール悲劇的に銃殺された刑の執行所にブロンズ銅像でその状
況を表象演出されている。すなわち銃殺される場面を再現したのである。その地下には彼の
死体が安置されて、寝ているという。彼の最後のお別れの詩はスペイン語で刻まれている。
<最後の訣別> (加瀬正治郎訳)
さようなら なつかしい祖国よ 大陽に抱かれた地よ
夏の海の真珠 失われたエデンの園よ!
いまわたしは喜んできみに捧げよう
この衰えた生命の最もよいものを(略)
現場の写真を撮ろうとする時なんとなくカメラを石の上に落として壊れた。ガラスが壊
れる時私は不運を感じている。我が生まれ故郷では鏡などに注意深い習慣が私の身につい
ているようである。韓国のでは危険なものに接近した時サル煞(悪運)を引くことと言われ
たことを感じていた。母はシャーマンを呼んでサルプリを行った。私は実はその予感をした。
フィリピン土着料理店として有名なレストランで鶏肉料理を食べた。ホテルまでは数十歩
くらいで歩くこととした。しかし私は途中で胸が痛く、ホテルまでようやく戻り休んでいた。
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翌朝の帰国の時、マニラ空港で飛行機が 1 時間遅れると聞いて台北で待つ時間が長いの
で気にせず聞き流したが、台北で一泊しなければならないと言われて私と家内の仕事が心
配になった。大勢の人が待合室にて長く待っている中、税関関係員から優先的にあつかわれ
た。老人人口が少ない国であるからであろうか、敬老思想が高いのかと少し戸惑った。台北
に着いたのは1時間半遅れて着いてトランスファーカウンターを探してぐるぐる回って明
日の早朝6時発のボディングカードに変更、一人分の食事代が台湾のお金で 250 円以外に
ホテルなどは自分で探すこと、台風の自然災害によるものであり、当然と思ってホテルを探
してもすべてが満杯、結局空港内で野宿(?)をするようになってしまった。
館内保護者運搬の車の女性運転手が私を特別老人扱いで家内と一緒に空港内用の車に乗
せて休憩椅子、マッサージのところへ案内してくれた。私はこんなに贅沢でよいのだろうか。
恐縮であった。社会の愛に包まれていることを感じた。今度の旅には老人は稀なことを考え
て日本ではまだ老人と言う気勢を振る年でもないが、短命社会では老人が珍しいようであ
る。敬老の記念日が過ぎて遅ればせながら敬老思想に恵まれたような気分である。
台風のためにフィリッピンからの帰路が足止めされて大変なことになった。台北桃園空
港の図書室の椅子で一夜を明かした。しかし徹夜が常にある風景である、現代国際時代の新
しい文化のようである。フィリッピン空港に比べてこの空港はスマートであり、はるかに施
設も良い。しかし大勢の人で宿泊所を探せず若い人と同様に椅子でPCを膝の上において
平然と書いている。空港内は明るい。家内がジャンバーを買ってくれたので寒くなく、過ご
せている。歩けなくてもそれよりは大学での講義が心配であった。ここの時間で 6 時出発
の飛行機で帰国し、講義にはぎりぎり間に合いそうである。しかし搭乗口に早く着いて待っ
て出続き時間が過ぎ、出発時間が過ぎても職員が出てこない。校内は平和であっても外は台
風で出勤などもできなかったことは後に推測するにはなった。飛行機会社の事務室まで探
していこうとしたが、胸が痛くほぼ歩けなかった。出発は午後であった。搭乗口が変わり探
し歩くことはほぼ無理、胸の痛みが襲ってきた。
10 月は痛みと戦う月であった。胸が時々苦しく、昨日は校舎の柱に貼ってある AED の
マークが目に入った。韓国教え子が担当する学生 30 人が来校、私に高級な高麗人参キャプ
スルが届いて感謝し、飲み気になった。サプリメントや補薬を一切口にしなかった私が高麗
人参に視線が行き、飲むということは私の病気は深く進んでいたことを意味するだろう。い
つも定期的に通う内科医から持病の肺、気管支炎、肺機能に限界があるとも言われ覚悟した
のである。
私は時々胸の痛みを訴えた。胸に電波が走るような痛みの訴えを聞いた家内が呼吸困難
とは異なるということに気が付いた。家内は長い間、そして現在看護婦として勤めており、
私の病気を注視していた。呼吸器ではないかも知れないと、私に心臓血管関係の病院で診察
すること強く勧めてくれた。しかし私は否定的であった。もう一つの病気を持つという精神
的な負担があった・私は今までお世話になっている内科の他の病院に行くことは一種の裏
切りと思っていた。しかし痛みがひどく、家内のアドバイスにも受け入れることとなった。
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同僚の礒永氏が案内してくれた。心電図などの検査結果によれば心臓が悪いと言われた。ソ
ウルへの出張から戻ってから本格的に治療に入ることで狭心症の一時特効薬の二とロベン
10 個をいただいた。その晩苦しい時飲んで効果があったので家内は心臓病と確信し心配し
ていた。しかし私はこの薬でソウル往来ができると信じた。
第 4 回「楽しい韓国文化論」
(全6講座)の最初の講座は小林孝行氏の「日本の演歌と韓
国のトロと」であった。私はコメントをしようと立った時痛みを感じたが多少無理をしても、
無事に話を終えた。次の週私の担当の「朝鮮の風水」の始まる直前痛みで起きることができ
ず時間を遅らせながらニトロベン薬を飲んで無事に終えたが聴衆ははじめの声が聞こえな
かったという。
ソウルへ行くに当たり韓国でマースが再発生したというニュースを聞いてインフルエン
ザの予防注射を受けて行くほうがいいのではないかと相談に行ったのである。韓国水原で
開かれる「韓国民俗学者大会」で基調発表をすることになっている。80 年代以来初めて久
しぶりに参加したことになる。60年代韓国民俗学に活躍した以来日本植民地時代の資料
の翻訳と研究を進んでいても基本的には民俗学や文化人類学をしているものとして私に声
を掛けてくれたことには感謝で引き受けることとなった。特に民俗学関係の 8 学会の連合
大会であり、民俗学の質的発展、学会運営の定着、討論のマナーなどを見る良い機会である
と思った。しかし私の病症はどんどん酷くなっていてキャンセルでもするか、私は現場で死
んでもよろしいと参加を堅く決心した。一人で行くことでは不安を感じたかないが同伴す
るように予約の変更などを行って行くようになった。痛みは間歇的に襲ってきてもベテラ
ンの看護婦の家内の付き添いで出発した。
ソウル仁川空港について飛行機からズーム通路を出たところで痛みに倒れそうになった。
そのまま座っていた。車椅子が近くに直ぐ用意されることのないので15分待って電動車
が迎えに来てくれた。入国審査には自立した様子で通過し、迎えに来てくれた民俗苑社長と
部長の車で食事接待を受けながらも精神は朦朧していた。市内のホテルまで送ってくれた。
日本から持ってきた緊急の時に飲むべき薬のニトロベンは既に飲み尽くしていた。近く薬
局まで歩いて購入しようとすると医師の処方箋が必要であるという。家内が日本の処方箋
を以て医師に行った間は長く、私は薬局のソーパで長く体を丸めて待っていた。痛みとの戦
いであった。
翌日社長が迎えに来てくれて、水原の会場を向けた。1時間も掛かった。到着して歩くこ
ともほぼできず食堂、館長室、会場の椅子に座った。演壇に上がる力があるか自身がないま
ま座って緊急時は薬を飲むことに決めていた。また痛くなり舌の下に薬を入れてから待っ
ていた。数人の挨拶、
民俗学が廃れていく現象に触れられていているという前提において危機感を感じ、民俗
学者たちが政治的に訴える場のような雰囲気であり、私は異様感を持って待っていた。ある
国会議員は学問の会議には常識外れの言動をし、それが終わって20人ほどを人と一緒に
退場する。国家議員であれば表を集める良いチャンスであるはずなのに表を落とす言動を
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すると感じた。私が知っている数人の日本の国会議員は謙遜でいつも選挙運動を意識して
いるか人柄であるかのように思われるが、ほどほど異なっていた。道議員が決まった順番を
代え、登壇して政治的発言が続き私は病症と戸惑が混合しながら待っていた。この学会のイ
ントロで政治的に要求するような企画であるように感じた。
私は体調不良にも関わらず原稿を配布、パワーポイントを利用して 20 分の時間を守って
発表した。8学会から参加者が4,50人、低調であり、民俗学自体の低調を表している。
60年代より発展していないと感じた。私を講師として推薦してくれた安東大学校へ非常
勤数年間講師をした時の教え子、今は国立民俗博物館の千館長には申し訳なくなった。しか
し私は韓国の民俗学者や文化人類学者への切なメッセージであった。
民族主義と伝統固有文化を主張してきてグローバル時代に廃れていく日本のことを思っ
ていた。文化財や文化遺産の登録に関する国家間の問題点、学問の客観性を主張した。しか
し私の主張内容は理解されずコメンテーターは被害者と加害者の問題を討論する必要がな
いと言う。私はそのまま壇上に座っている必要性がないと感じたが、日本も原爆被爆を以っ
て「被害者」と主張することを批判するなど私の客観的な見方を説明し、むしろ聴衆は納得
する表情であった。終了して下壇して多くの懐かしい人たちに会った。しかし体調不良で早
めにソウルのホテルに戻った。
私にはこの講演がこの世で最後の告別講演のように思っていた。それほど私は命の危機
を自ら感じていた。演壇から降りたときは懐かしい方々のお顔がぼんやり見えた。中には本
当に久しぶりに見えた人もいた。それらの顔たちは実物ではなく、映像のように映っている
ように感じた。その後午後のスケジュール、ある研究グループとのインタービューが予定さ
れていたがすべてをキャンセルしてホテルに戻った。ベッドにて安静にしているときは苦
しく、死を考えた。その時、家内が添え寝をしてくれた。私は臨終の時が近づいたと思った。
翌日久しぶり啓明大学時代の教え子たち4人が訪ねて来た。そこに常に付き添っている
ような民俗苑洪社長が加わって伝統料理の午餐会であっても私の病勢は我慢できずただ数
メートルを歩いて乗車し、仁川空港に着いた。その時私は入口近い椅子に座ったまま痛みを
我慢するか戦うかのように一歩も動けなかった。家内が車椅子を申請して、載り VIP のよ
うに別のルーツで審査を受け搭乗口までついて優先的に登場して、日本への帰国だけを待
つように、福岡空港からは車椅子と介護役員が機内まで迎えに来てくれた。タクシーと新幹
線で帰宅したのは夜9時頃、私は自宅で死ぬことを考えた。しかし痛みの遅いは一層激しく
なり、この以上我慢できないと思った。社会福祉国家とはなにか。障碍者が主な対象と思い、
私とは縁の遠いものと思ったが、私が障碍者となった。ソウル往来時に出入国など、車椅子
で特別通過し、まるで VIP のようだったが、苦しかった私は去っていくものへの配慮と感
じた。
家内が救急車を呼ぶようとするのを止めて自家車で送ってと言った。救急車を乱用する
ことが多いことのニュースを聞いたこともあるが、それよりそれを利用するということは
意識がなくなるくらいと思い、私の病勢はまだ良い方でもあると遠慮したのである。結局当
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番病院に着いたのは深夜、私の病気も危機と感じ、局部麻酔から始まる診療が始まった。痛
みの中には怖さも感じずただ病院の医師たちに任されて流れに乗っていた。その中にもレ
ントゲン写真、血液検査など一連の検査が進行したが私は治療だと思っていた。2,3時間
も過ぎたところで「検査が終わりました」と聞かされた。心臓の模型、当時私には黒色の高
麗人参のようなものを見せながら心臓の一番近い太い血管が詰まっているという。手術し
なければならない。
それが冒頭に紹介したような医師との対話である。繰り替え書く。
医師に断固に「手術しません」
「死にます」などと言った。他の二人の医師が「本当に死
にますよ」「手術したら治ります」沈黙
家内が呼ばれてきて切ない声で「頑張りましょう。ミミ(愛犬)が待っているよ」
しかし私は手術をしても助からないだろうと死を覚悟して家内の意見に賛同し、手術を
受けることにした。手術室へ入る時、家内に告別する気持ちと感謝をもってさよならと手を
振った。
病院とは刑務所や拷問、罰されるイメージに似た感があった。しかし病気には痛みが伴う
のは当たり前、私を襲ってきた痛みは自らの自分の体から発生したものであった。痛い、辛
いことがなかったら危険な(?)手術台には決して横たわるものではなかった。それで今私
はその痛みに感謝している。私が病院に行ったのが痛たかったからであり、手術に我慢した
のも痛みの陰であった。
痛みは個人の体験によるものである。担当の医者さえ体験のないというと想像はしても
実態を知らない。知らない人に痛みを表現することは難しい。私の病気の全家庭のほぼは痛
みとの出会い、それを我慢するしかなかった。完全に解放されるのは死ぬか、健康かであっ
た。いま痛み解放されたのは現代医学医術と自らの体の生命力によるものであった。私は
この際日本の医療システムを体で体験することになったのである。
人生の辛さがよく歌われて、「男は辛い」という名画もある。辛さも個人が持つ特殊な体
験であろう。それも決して否定的な意味しかないわけではない。それによって人は成長、成
熟することを知らなければならない。障碍者や弱者たちはその辛さを多く持っている。それ
を克服するのが大事であろう。優遇されることがあるが、それは権利ではなく人や制度に感
謝すべきであろうと思い、感謝すべきである。私も障碍者資格を持つようになった。謙遜で
感謝の暮らしをすべきであろう。それは障碍者に限らず社会的地位の「王座」
「回転椅子」
(権威)などに座っている人こそそう思うべきである。彼らもいずれ障碍者のようになるの
が人生であることを悟ってほしい。
私は死を覚悟して手術に臨んだが、それは麻酔の陰ではなかったかと思う。それを細目で
見た。自分の体がラグビーのボールというかカツオかマグロの塊のように映ってきた。そし
て明るい ICU で目が覚めた時は医師、看護師たちによって歓迎された。皆さんの顔がクロ
ーズアップされる。阪田先生が「まもなく奥さんがくるよ」という先生の声と先生の眼鏡の
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縁と目玉が大きくクローズアップされた。意識はあっても音声でコミューニケーションは
できない。平仮名文字版に「かんしゃ、うれしい、ここはどこ」と指さした。
体はまだ人間になっていない。ガスと配尿は煙のように自然に流れる。人はガスを貯めて
音と一緒に排出する。排尿も貯めてスピーディに排出するが、それさえ、生体から人への進
化があったはず。犬や鳥類も時間と場所を決めていることは同様であろう。自分が童話の主
人公のようになった。思考は空を無窮に飛ぶ。朦朧とした中で古墳の壁画が映像として見え
たのがあの世であった思った。そこが行ってきたところではないかと思う。私が集中治療室
から一般の病棟へ移った時の担当の看護師さんで、私の早い回復を見て驚きと嬉しそうな
表情をした。
手術からその間何段階の治る過程があるとおもう。それは医療的とはなく、私自身の心理
的変化である。まな板の上の鯉、生体としては恥を全く感じなかった。ICU にでも私下半
身を自由に開いてお尻まで拭いてくれた。嬉しい。医術とともに日本の素晴らしい看護、ケ
ーアに感謝する。人生には生まれ変わることがある。悔い改めて生まれ変わることもあるが
病気は人を生まれ変える良いチャンスでもある。私はこの度ただ生まれ変わるという言葉
では表現足らずで再生と復活のようにも感じている。いま赤ん坊から子供へ変わっていく。
自分の母からの躾は憶えていないが、家内が尿瓶を準備してシーというようなことから衛
生的な手洗い習慣など家内による躾は続けられている。入浴の許可がないので熱いタオル
での全身清拭と着替え、そして寝る前に私の足をお湯で洗ってくれて日程が終わる。
入院室に移されて1週間、今朝看護師が両脇から手を入れてから私にしてまるヌードに
して拭いてくれた。その時若干「恥」を感じた。やっと人間文化にもどった、またあかんぼ
うからおとなになっていくと強く感じた。そして紳士のように歩くと、人は平然としても私
内笑するだろう一般的に医学な面だけではなく、患者の方から医療と、闘病をあわせて考え
るべきであろう。
手術台の生体から人間への過程を書いたが、ここでは人間から文化への過程に関するこ
とに触れたい。点滴から供給されたことから口から食べ物を味わうことはうれしかった。最
初のスプーンで食べたお粥とヨーグルトの味はわすれられない。麻酔から覚めても基本的
には再構成されていない。ただ復元であった。しかし変わったのは食欲の低調化である。
今日でまる 15日間病院の心臓食を食べてわかったことも多い。病院では基本的には日本
食を徹底している。私は子供時代の嗜好に戻っている。日本人であれば抵抗のない鰹節には
食欲を失う。ただ日韓食文化の共通のお粥、のり、卵などにかぎられる。やはり私は韓国人
であると感じた、人間から韓国人へ…。私の日本の飲食の中になれているのはお茶だけであ
る。韓国にはお茶文化がなく、ミスやコーヒ文化が流行っている。それも戦後の文化である。
私は日本に住むようになりお茶を飲む習慣が身についていることをこの度確認することが
できた。
私の生まれ故郷では医療という観念は全くなかった。怪我をした部位にはヨモギの葉っ
ぱを挽いてつける。桑の木の切れ目を火鉢に付けてでる樹液を付ける。風邪にインドン蔓
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(忍冬-, Lonicera japonica)や麻の葉を煎じて飲む程度であった。手を洗う習慣や衛生観念
はなかった。ただ無病息災を祈るシャーマン儀礼による民間信仰があっただけだった。その
私がこのような大病、先端医療に恵まれたことはまさに奇跡的なことである。
私の人生は長いというと、明治や大正の方から笑われるかもしれないが實に長いのは長
い。年代的には 75 歳は長くはない。しかし人の生き方や経験などによって長さは計り知れ
ない点が多くあると思う。私が生まれた農村は石器時代のようなところであった。村で一番
文化的なものは牛が引く馬車であった。木の骨組で 4 つの車が着いている。村の生活倫理
はただ儒教、シャーマニズムが全部であった。1970 年代セマウル運動の時までは電気がな
かった。今私は先進国に住んでいることから考えると本当に長生きしていると思える。
見舞いに来てくれる方々とは病気に関する話題が多い。入院期間中60 余組の方々がお見
舞に来てくださった時、私は死の体験のような話をした。ソウルから来られた方はまだ50
代、数年前奥さんをがんで亡くした辛い体験を話してくれた。韓国では完全看護制ではない
ので一人娘が大学を休学して彼と交代で患者の隣に泊まりながら付き添ったという。悲し
みには耐えがたかったが介護は身についたと得られた点もあるという。もう一方は日韓親
善協会の会長の友松氏、ご自分の病気は名医に会って一発で直ったとのこと。彼の親しい韓
国の方の話である。88 歳の高齢者を日本の九州の名湯(温泉)に案内したが温泉が大好き
な方で、長時間温泉入浴中意識を失いお湯の中に沈んだのを一緒に来られた方が心臓マッ
サージをし、応急処置し、救急車で病院へ搬送し、まだ安静を要したが日程通り帰国され、
今現在お元気だとのこと。本人はなぜここに連れてきたのかなどと怒り、困惑したという体
験談である。私は話を聞く途中数回爆笑した。後に彼はその方に日韓親善の功労者として感
謝状を送り、暖かい友好関係は延々と続いている仏教法話のような話である。
緊急入院により私が参加することができなかった。下関広域日韓親善協会の友松会長の
司会などでそれぞれの講師によって「楽しい韓国文化論」は楽しく行われたこと、これから
も続けてほしいという要望があったと聞いた。
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看護師に階段を上ってみようと誘われた。手術前まで階段
を見上げるだけで難しく感じ、その都度自ら高齢者意識を持
ったが、今は重荷が無くなっている。比較的に軽く上り下りす
ることができた。なにより高齢者意識は私の意識からは消えてしまった。病院ではいつも保
護される子供のように扱われており、看護師たちに甘えているほど子供意識が強いことが
分かった。病院では治療と回復だけではなく、再生か復活のような意識改造が行われるので
はないかと思わされる。
ナースセンターからローカを挟んで両側に個室や相部屋の病室が並んでおり、私の病室
は右の 2 番目の個室である。ここがこの病院の循環系病棟である。私はそのローカを歩行
練習する。病室から時には呻り声が聞こえ、顔を出して私を覗いてみる人もいる。映画など
で見る刑務所の監房を連想する。ソルジェニーツィンが皮肉にも病棟を刑務所と比較した
ノーベル文学賞作品『がん病棟 Cancer Ward』を思い出した。彼によると囚人と患者には
それなりに療法を断る権利がある。痛みや苦痛を我慢するのも共通点であろう。私は以前シ
ベリア流刑について調査に行ったことがある。農業移民的な要素もあったことを知らなけ
ればこの小説を理解することはできない。ソルジェニーツィンは囚人とは患者のゆがめら
れた鏡像としてソ連社会から個人が受けている影響を明らかにした。
もちろん今の超現代的な医療施設の日本の病棟をソ連時代のものと比較しようとするわ
けではない。ただ教導(刑務)所や病院も治療をする機構として社会的機能をしていること
を理解すべきであろう。ただ病室と監房の差は自由と束縛への意識の差に過ぎない。この社
会には人々は皆自由意識を持っているかというと必ずしもそうと言えない。労働時間に、お
金に、人間関係に束縛されている人が多過ぎである。束縛は刑務所の中にしかないというと
いうのは大変な錯覚であろう。
最近首の手術した方がお見舞いにきて下さった。特に首の手術というと命に係わるので
死をどう思っているかと聞きたかったが、出来なかった。今度、私は不思議にも死の怖さは
まったく感じなかったというと彼は私と正反対、衝撃を受けた表情で、
「ものすごく死が怖
かった」という。キリスト教の長老である彼は言う。聖書を思い出しながら祈り、死を覚悟
しようとしても恐怖から解放されることはなかったと自分の信仰生活を反省するように語
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った。死を迎える態度はいろいろと研究されているが、彼と私の例は典型的なものであろう。
不思議なのは私の態度である。私自身非常に意外なことである。私が臆病であることは自
他共に知っている人が多い。従って私が死を恐れることは当然である。ソクラテスのような
英雄でもない臆病の私が死を迎えようとしたのは不思議なことである。ただこの世で残っ
た仕事はあの世で続けようと考えた。このことはこれから自己分析すべきテーマである。
それは古い私の病歴からであろうと思う。韓国で私の世代の人は肺結核になった人が多
い。そんな人の中には100歳まで生きている人もいる。私にはそんなに長生きする自信は
ない。私の左上肺は広範囲に石灰化した痕跡を残している。今まで医師の説明を数回聞いた
がいまだにエックス線写真の見方はわからない。私の結核病歴は今から5十数年も昔から
であり、それが今の私の健康状態に肉体的に、あるいは精神的に影響している。
一昔前までは結核は大変恐ろしい病気で、多くの人が命を落とした。私は1960年に
この病気の末期と知らされて死を目前にしたことがある。永六輔氏はよい患者は病気のこ
とを言わないと言ったが韓国では病気は自慢すべきだという。このたびは私の病気自慢の
話になる。
李承晩大統領が下野し、農村の民衆は学生デモによる民主化を理解してくれなかったの
でソウル大学校では学生啓蒙団を組織して農村に派遣した。私はそれに応募して勝ち抜い
て選ばれ、初めて遠くの慶尚北道の山村で一カ月間民衆の前で学生運動による政権倒しに
関して演説をし、理解を求めた。その帰りの汽車で大量の喀血をした。それが数日間続き、
ソウル大学付属診療所で診察を受け、結核末期と診断され、
「死の宣言」を受けたのである。
私には死は早すぎる、死は他人のものであり、自分のものとして到底受け入れることができ
ず、診療所の椅子に座ったまま泣いていた。
休学を命じられて田舎で療養生活をすることになった。私は地獄に落ちたような感じで
あった。てんかん発作患者と二人で養鶏場の部屋で延命することしか考えることがなかっ
た。そんなある夜のこと、同宿者の病者を突然訪ねてきた若い伝道師によって私は救われた。
当時私はイエスの最後の晩餐会の心情を理解する気持ちであった。自分の死を知っていな
がら晩餐に望むことは残虐なことだと思っていた。それから5年間の闘病生活の末、生き返
った。それは悔い改めの生まれ変わりでもあった。一緒に暮らした患者と共にクリスチャン
になったが、彼は若くして亡くなった。私は3年でも延命してほしいと願い、せめて 50 歳
までは生きたいと願い、今ではそれをはるかに越えて生きている。
私の古い病巣は今日まで私の行動をいろいろと制限してきた。チベットでは高山病で苦
しかったし肺の病巣を気にしなければならなかった。スポーツとは縁のない生活、ただ規則
的な生活習慣を守ってきた。風邪でもCTを取って頂いた。古い病巣が白く石灰化したのが
写っており、専門的にはわからないが胸がぼろぼろなのかなあと写真を繰り返し見た。しか
し医師は結核の跡とは別のところの気管支炎と診断し、薬をくれた。
歳をとるに連れ、健康のため急にスポーツや運動をする人も多い。私は今日まで生きたの
で、さらなる延命よりは、命の恩人をはじめ周りの人のために何ができるか、何を残すか、
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最善を尽くしたいと思いながら日々を送っている。
私の持病の診察を池田先生に受けるために行った。肺の機能をミステリーのように説明
してくれた。家内は理解できても私は不十分であったが、後で家内から聞くことにして納得
したよう頷いた。体内の一酸化炭素が多く含まれた空気は完全に排出されず、その上外から
酸素の多く含んだ空気が入ると体内の残った空気が背部の上部に残っている。肺の上部に
なる。そこに酸素を嫌う結核菌がつきやすいので肺結核は肺の上部に多いという。私の肺の
上部がその菌にやられて石灰化されている。先生はコウモリは肺の位地の上下が逆であり、
下位に結核が多いという研究を紹介してくれた。私は古い病巣がまた活躍しているという
だけが神秘的だと思った。
家内の表情をみながら私は母を思い出す。私は小学校の時、左手の中指の先が炎症して田
舎では軟膏もなく、オオムギの粉に醤油で混ぜたものを塗って、痛く夜眠れない時に母は
「その痛みを私に…」と祈っていた。それぞれの母が偉大な人物とは言えなくとも子供にと
ってはこのような痛みをも共有したから「母は偉大な存在」なのである。
月一回の定期診療に行った。サチュレーションが 93%でようやく 90 を越えて安心した。
私は若い時肺結核を罹った部位が損傷をうけ気管支拡張症が出現することがあるという。
それは気管支が非可逆的な拡張をきたした病態で気管支が拡張すると、気管支の浄化作用
が低下し、気管支炎や肺炎に罹りやすくなるという。拡張した気管支には、血痰や喀血も出
現する。この持病を予防するために換気、ヘモグロビン、心臓の調子をチェックするといい、
池田先生の大気汚染に関する説明が行われた。PM2.5は中国からだけではないと言う。
日本でも車の排気ガスからも出るのでそれが中国からの大気汚染と合わさって先日標準の
30 倍にもなったことがあり、場合によってはマスクをしなければならないと言う。
大気汚染とはいっても健康な人には影響が少ないが、患者や妊娠した人、幼児に影響しや
すいと言う。中国では流産が多くなるのではないかなど先生の話は環境論になり、グローバ
ルなミニ講演のように感じた。今の内は中国の大気汚染の話や温暖化の話は放送や放映か
ら少なくなっているが、池田先生は呼吸器内科の専門医として空気清浄、大気汚染に注意し
ていることが分かった。春雨が降っており、多少空気が良くなったのかと思ったらよけ悪い
と言われて、日本で大氣汚染を心配するのが贅沢のように感じた。昨日読書会の後に来訪し
た客とは日本の仏教の話をし、日本人にとって仏教とは自分の死んだ後の処理を頼むよう
に生きるので人生観には関係ないという話になった。しかし死をそばにして生きるような
私にとっては人生観にも影響してほしいといった。深刻な話でも聞き手は聞き流したよう
である。健康な人は死をあまり気に止めないようである。病歴にこだわっていたが結局は胸
の痛みが襲ってきた。死ぬ準備をすることにした。
下関にある言論人の話によると、私の最新著『韓国の慰安婦・・・』には政治的「自粛の
空気」があり反応がなかったようであると言う。先日朴裕河氏の講演会にもメディアの反応
はなかったことが理解できた。しかし朴氏は本社版の新聞のアジア・太平洋賞を受賞された。
同じ新聞でも本社と支社、中央と地方の空気の差は何を意味するのだろうか。地方では広く
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普遍的な見方をすることは認められ難いということであろうか。社会の左翼右翼、誤解と戦
うことは無駄なこと、本当に「自愛」することしかない。国を越えたら異なるのは当然であ
る。
ある日肺吸入量を測った。最低であった。限界に来ていると言われた。私は命であるとジ
ュクジュクと心から死ぬことを受け入れた。今度の病気は心臓病とは思わなかった。もしも
う一つの病として心臓の病気であれば肺が悪いので手術も難しく、治ったとして肺が悪く
死ぬのは間違いないと信じていた。私は20歳で死ぬことを長く延命しており享年75歳
で十分だと死を肯定的に受け入れていた。それで手術を拒否したことがあったのである。今
心臓手術により肺機能もよくなり意外な健康に恵まれたのである。これが私が今度の手術
により死んで、生き変えてきたと思うのである。心臓バイパス手術であり、順調に回復して
いきますが問題は二十歳頃の肺結核の病歴に逆戻って闘病生活をしなければなならない。
今回復に向かっている時に考えるとまったく違った危機感、大げさなことと思われる。私
は現代医学の発展を認識しておらず、信じなかったこともあるが、医学によって無理に命を
伸ばすことには反対の人生観、死の覚悟で生きていたことと死生観をもっていたことに気
づかされる。それは最近の私の思想的なものではあるが、考えてみると実は中高生時代の文
学少年からのものである。文学的なロマンチズムにより放蕩な時代もあり、失敗したことも
あったが今考え直すと生きる意味と力になったのではないかと思う。そして今度はただ生
き残っているだけではなく、愛されている幸福を満喫するようにしなければならない。
入院してから私はどう変わったのだろうか、見守ってくれた看護師たちはどうみている
のだろうか。順調に回復しているとは言ってくれている。医師はどうみているのだろうか。
病巣が治ることだけを見ているのだろうか。ソルジェニーツインの「ガン病棟」では医者が
患者の変化を期待していることに触れている。患者には希望を与えなければならないのは、
医者の鉄則であるが、時には「あなたは以前と変わらない病人なのです」
「きっと死ぬわよ」
「私たちを信頼するだけではなく、喜んで治療を受けること!喜んでですよ!それでなけ
れば直りません」
(新潮文庫上 124)。信頼関係が重要である。
心臓エコと造影剤による CT 検査を受けるのに気を使ったが、生き返してくれた医療チー
ムを信頼して無事に終えた。検査結果はどうだろうかとまだ不安が残る。もう退院も決まっ
ている。なにか解放感、束縛からの釈放、軍からの除隊を待つ気持ちに似たような気分であ
る。看護師たちとは親しくなり、80 歳以上の患者さんたちとも話ができるようになった。
昨日は心臓や動脈などを手術された人と話をした。いずれも私と比べると彼らの病気は軽
く感じられた。なにか患者の中では年齢よりも重病患者が権威のあるように感ずる。彼らと
は対話にはなりにくい。耳が遠いこともあり、一方的に話すことが常である。それぞれ華麗
な人生を語ろうとする。ボーリング、海に潜るなどの趣味、高級外車をもっているなどの話
を聞く。それは自慢話ではない。私は情報発信してくれることを有難く耳を傾ける。
毎日体重を測るのは楽しみである。入院して 20 日で 7 キロ減った。40 代から維持して
きた体重を下回る水準になりそうである。不安もある。私は子供の時は痩せていて母が心配
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していた。健康な美男子としてわが村の五日市の商店主を例としてあげていた。その人は頭
が禿げて太った人であった。日本の侍の映画の将軍タイプかもしれない。貧困時代の当時の
人物像を表すものであろう。経済発展と医学の知識によりメタボリックが問題になり、太目
は美人型から除外されるようになった。しかし私には太目の健康美意識が残っている。
私には病室は静養するところではない。痛みへの対
応にそれなり忙しい。今度の入院治療を通して多くの
ことを反省している。中国からの大学院留学生の李君
が見舞いに来てくれて日本の完全看護システムを中
国と比較して話をしてくれた。いまだに中国では家族が入院すると親孝行や家族の結束意
識を争うように家族が介護をするという。看護師たちは体温をはかり、注射をする以外に介
護はしないという。長い間ソ連の社会主義を受け入れた中国はその社会福祉システムは受
け入れなかったようである。今読書中の「ガン病棟」では現代的な医療福祉が表れていて意
外である。ソ連崩壊直後ロシアを訪ねた時、社会福祉が壊れるのではないかと恐れていた
人々の話をよく耳にした。ロシアは福祉を生かして発展させることが必要であると感ずる。
講演後、翌日の帰国までの間に私はその研究会のメンバーにお会いし、話すことにした。
昨日十年前から連載していたエッセー11 月は休稿、12 月分を闘病記として送った。初めて
の仕事であった。病気を宣伝するようで恐縮ではあるが私事でありながら生老病死は人類
の関心事であるということで。病気は医療者に限らず広く家族や社会まで影響する戦うべ
き敵であるが、良き試練でもある。リハビリの現場では高齢、病弱で手足の運動などは不要
なもののように見られるが熱心に声をかけながら行う。命が尊重される現場とも思われる。
私が病院で混迷している時パリで大きいテロ事件が起きた。世界が驚くところからは個
人の病気は何の意味もない。しかし個人は自分が危機に直面すると全宇宙と共に滅びたい
気持ちになりやすい。それが新約聖書の黙示録に書かれている。ハルマゲドンである。フラ
ンスの大統領はテロを「戦争」と宣言した。正しくない。戦争は敵、戦線などがあるがテロ
は戦争論理では理解できない。テロは恨みと復讐によるものである。その背景に宗教、民族
主義が絡んでいる。テロは恨みの戦争である。
ニュースを見るたびにイエスと弟子たちがキリスト教を地の端まで普及する、いわば伝
道活動をした地域で戦争とテロは続いている。なぜであろう。それより 8 世紀ほど遅れて
マホメット教が作られて「伝道」をより強調するようになった。キリスト教は信仰としても、
それより博愛、人権、結婚などさまざまな制度の基本精神として世界に広く影響している。
しかし信者たちの中では信仰心が強いものが優遇される傾向があり、原理主義が現れ、テロ
化されるものもある。国際化によって宗教の共存は難しい。他人の信仰には絶対干渉すべき
ではないという西洋の教養を身に着けるべきである。*写真は昨日お見舞いでいただいた
ものから
入院生活の中で私にとって困ることは夜が長いことである。「長い冬の夜、眠れない…恋
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人」という三流詩集にある話、私は現実に直面している。手術の傷がまだ痛く、何度か看護
師の力を借りてトイレに行き、時間ごとに血圧、体温、酸素などのチェックで眠りにつきに
くい。隣の部屋からは唸り声が聞こえる。歌詞ではなく雑念も飛んでくる。今まで自分の研
究意外の人間関係に伸びていく。
私は教育者として多くの学生を教えたのは幸せである。そこで気になる聖句がある。イエ
スは12弟子に恵まれて幸せに暮らした。しかしその一人が裏切った話がある。これには大
きなメッセージが読み取れる。この聖句を以てわが家を訪ねて語った若い牧師がいた。彼は
世間の裏切りを以て説明した。しかし私は多くの弟子を持っていながら中にはお互いに十
分に心が届かない人、裏切りのようなものがあるのは当然であろう。その人さえ愛するキリ
スト教の愛を理解しなければならない。眠れない長い夜、聖句の意味は深められていく。
私の昏睡と麻酔とは関係なく社会は優々活きている。二つのことが目にはいった。ひとつ
は日韓首相脳会談が行われたことである。朴氏は独裁者の娘として栄光と不運をかかえて
父の面影陰徳によって大統領になった。世論や人気より父が日韓関係正常化に踏みきり、日
韓関係がたもたれていたのに捻じれるようにしたのは「親不孝」であり私としては許せない。
韓国の民主化運動がもったいない。
ミャンマーの野党の勝利、うれしい。スーチ氏はどうだろう。ただ「恨の力学」で政治が
いとなまれるのも問題であろう。少なくとも朴氏の例にならないことを期待する。
退院に向けて栄養士と家内が話し合った。塩分と脂肪分を減らすなど注意事項があった。
私の日本食への考え方も変えようとしている。鰹節、コボー、納豆、オクラ、山芋などは本
当に味に抵抗があるのか、決めつけての偏見ではないのか。コボーをキチンと噛みながら味
わってみた。食べられるようになりそうであった。本格的に日本食への挑戦、日本化が始ま
ったのである。文化はある意味で先入観、偏見的なものもあろうと考えている。
初めて病室から院内の売店に立ち寄った。外来の空間は清掃中であり、売店だけ正常な感、
新聞雑誌、日常品、食品などが並んでいるのが斬新と感じた。世俗社会の象徴的なものであ
る。これから社会へ復帰することを実感した。下関で旧友である鍬野保雄氏がお見舞いに来
てくださった。彼は日韓の友好のために社会運動を続けている。特に 11 月 23 日日本人の
朝鮮人差別、ヘイトスピーチをなくすためパレードを行ったという。韓国系はもちろん総連
系の人も参加したという。
退院の準備、この冬一番寒い雨の日、まず着替えた。先日金憙台氏からいただいた神秘的
な紺色、人間国宝作のマフラーをして記念写真を撮った。33 日間の病室を離れ自宅へ帰る
ということは嬉しいけれども不安もあった。完全に保護されていてナースコールですべて
が介護されている期間が長くてそれに慣れてしまった感じがある。担当医の阪田先生の 1 時
間ほど長い手術前と後のレントゲン写真やエコー映像、血液検査の結果などを見せていた
だきながら日常生活への注意事項をきいた。先生はまさに「命の恩人」である。危機から救
急車で運ばれ手術して治療と回復が一目瞭然として分かった。病院を出る時、韓国の郭病院
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の理事長の郭氏から電話をいただいた。入院生活が 1 か月を超え、患者の中では先輩のよ
うな気持ちが生じている。昨日談話コーナーでは放射線治療が始まった人から私は手術が
できたことが羨ましいと言われた。リピーター患者たちは病院に慣れている。別に美味しい
とは思わないけれども、止められない煙草を長い間吸っていてヘビースモーカーになって
結局は肺に穴があいて酸素が足りず入院して手術した人が本人のことと合わせて反省する
話もしてくれた。そこで私はタバコも酒も縁がなくても大病になったことを話すと大笑い。
自宅静養で病室とそれほど変わりはない。サーチュレーション、体温、血圧、体重などを
測り、減塩の食事など家内の注意深い看護によって暮らしている。お見舞いでいただいた健
康食品やサプリメントが食卓に並んでいる。韓国からは高麗人参の原液やキャプセル、双和
茶(漢方系)
、近所の食品のプロの方からの乾燥エビ、サンザシ(山査子:血管に良い)な
ど民間医療的なよい食品などに励まされている。以前はまったく関心がなかったが、今では
耳を傾け、口にすることも多い。特に朝鮮高麗人参に信頼し、送ってくださった方の誠意に
感謝をしながら飲んでいる。「神薬」のようにさえ感ずるようになっていく気がする秋の味
覚の松茸(写真)
、柚子などを知人、隣家からいただき、感謝して味わった。
自宅静養で病室とそれほど変わりはない。サーチュレーション、体温、血圧、体重などを
測り、減塩の食事など家内の注意深い看護によって暮らしている。お見舞いでいただいた健
康食品やサプリメントが食卓に並んでいる。韓国からは高麗人参の原液やキャプセル、双和
茶(漢方系)
、近所の食品のプロの方からの乾燥エビ、サンザシ(山査子:血管に良い)な
ど民間医療的なよい食品などに励まされている。以前はまったく関心がなかったが、今では
耳を傾け、口にすることも多い。特に朝鮮高麗人参に信頼し、送ってくださった方の誠意に
感謝をしながら飲んでいる。「神薬」のようにさえ感ずるようになっていく気がする。
基調講演・発表原稿の締め切りを守った。締め切りを英語でデットライン(dead line)と
いう。特に新聞社などでは「死線」デッドラインという。
「死守」
「死生決断」など「死」が
一般的に使われている。特に韓国では「死にそう」
「死にたい」など自動詞、より激しく他
動詞で「殺す」
「殺される」という言葉、とても美味しいということを「殺される죽인다」
と表現する。高齢者や患者などにとっては残酷な表現と感ずる。
体調が望ましくないと言うと皆がゆっくり休みなさいと言う。しかし休む方法を知らな
い感がある。ゆっくり休むとは多くは横になったり、眠ったりすることが主であろうが私は
睡眠時間もよくとっており、テレビやラジオを見たり聞いたりする。また本を読んだり文章
を書いたりするのも私の休み方である。休むと言っても実際は働いていることが多々ある。
私にとって本の読み、書きは受験勉強ではないのでただ楽しい日常生活に過ぎない。
わがマンションの隣に介護つき高級住宅があり、デイサービスも行っている。時々関門海
峡の海に向かって椅子に座って何時間も海を見ている人をみて休み方を教えていただく気
持ちになる。その建物の入り口の案内表示板に「海と空」と書かれている。海と空という自
然環境を売り物としていると思い、通り過ぎようとし、気になった併記の英語「Sea and
Empty」という言葉が目にとまった。Empty とは空(くう)
、虚、自己を忘れる、ヨガなど
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までさまざまな行動を意味する。ただ海に向かって心開いて,己を忘れているように数時間
座っている人の姿は菩提樹の下で座っているブッダのように見えてくるような気がした。
世間ではあの世にいく道は遠いという。あの世にいくには鉄の杖が12本必要だという。麻
酔がかけられた頃、白黒の壁画が見えた。そこがあの世の入り口だったかも知れない 1。そ
こからの帰り道はもっと遠かった。執刀医師阪田健介先生をはじめ、かかわってくださった
スタッフのみなさまに感謝である。
退院の時阪田先生は二通の手紙を書いてくださった。1つは最初私が深夜診療した厚生
病院の血管関係専門医の佐藤孝志先生へのものであった。それを以て同病院を訪れた。ホテ
ルで客を迎えるような案内の親切さを感じた。そして先生に直接渡すことができた。私が運
ばれる時救急車に同乗してくれた先生であった。深夜にも対応してくださったことへ感謝
を言った。先生は私の回復の状況を察知して嬉しい表情をし、阪田先生のところで絶対よく
治療されると思ったと言ってくれた。もう1通は私の主治医である池田先生へのものであ
る。地域の医療機関同士が協力し合っていることが分かった。
窓から見下ろせる海岸の防波道が新しく作られ舗装も終わった。海岸を歩いてみたくな
って歩いてみた。12月なのに穏やかな天気であった。胸の痛みもなく、前に進んだ。関門
大橋の下を大きい貨物船が通り、釣り船が浮いている。岸壁には竿を投げて待っている釣り
人が数人いる。数年間散歩しながら釣れる瞬間を見たかったが一度も見たことはない。浮き
が動き、竿が曲がり、釣り人が慎重に糸を巻きながら、引っ張る。小魚が釣れた。彼は注意
をして針を外して、魚を海に戻した。何故だろうか。食料としては小さ過ぎか、魚種保護の
ためか、釣るまでの楽しみであろうか。姜太公のような世相から離れ世直しの時期を待つ、
偉大な人物か。少なくても暇つぶしの俗人ではないように感じた。暖かい冬でも季節のリズ
ムは実に冬になっている。赤い木の実が赤く光っている。
小倉在住の朴仙容氏がお見舞いに来られた。彼は多くの実業に手を出し、ほとんどが成功
している話であった。一般的には多岐にわたり仕事をした人の話は失敗の連続とは異なる
点が面白く傾聴した。朴裕河氏の起訴の話から彼自身の体験談になった。彼は東京のある出
版社に勤めた経験を踏まえソウルで「Hot Wind」を創刊、4 万部と売り上げ成功、社内紛
争、停刊処分、
「スター誕生」
「写真集アガジ4」などを続けたが、惜しくも失敗談に終わっ
た。しかし、私は成功物語りとして面白く聞いた。彼は高著の『親韓親日派宣言』
(亜紀書
房、1997)を寄贈してくれた。彼は韓国が本国だと思い韓国に永住しようと思って 10 年間
住んで日本に戻った。本題の『親韓親日派宣言』は親韓(反日)から親日派になった宣言と
読み取ることができる。
病院での心臓食から完全には解放されていない。それは減塩である。塩のナトリュムが血
管を詰まらせる要因となり血液の流れを悪くするというのである。私は塩辛などは口にせ
ず塩分は好みではないと思っていたが実はスープ、鍋物、野菜の漬物など塩分をとりすぎだ
ったことを改めて知る。塩が入らないと美味しくないことを強く感じている。
「塩」の存在
を改めて認識するようになった。減塩の商品も出ているが、塩味のないものが美味しくない
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ことから塩の存在感がアップされる。貧困時代には穀物と塩に頼っていた。沖縄地域では神
棚に塩を捧げるのを見た。
塩は腐敗防止として多く利用されている。腐敗を防ぐために塩が持ち出される。魚も多く
塩漬けにし、塩サバなどは有名である。塩は人間関係にも比喩されることがしばしばある。
聖書には「あなたがたは地の塩」マタイによる福音書 5 章 13-16 節と書かれている。日本
でも邪気払いに塩を撒く。玄関に塩を置くところもある。今でも葬式の帰りに塩をもって清
めることがある。今塩文化を深く考えている。
御礼
この度は私の病気、手術、入院、静養中に多くの方々からご慰労、慰問、お見舞いなど物
心両面からご支援いただいたことへ御礼をしなければならない。私が試飲してから日本茶
の新茶に決めた。直接挨拶と共に差し上げようと思っている。しかし郵便やその他間接的に
もなりかねない場合もある。百貨店に出かけた。内祝いに親筆で誠意を込めて署名をした。
より皆様には大変なご心配をおかけまして申し訳
ありません。大学からは櫛田学長、鵜沢副学長、金田
研究科長、崔入試所長、同僚などが何度も脚を運び慰
めてくださった。学外からは市立広島大学の名誉教
授の原田先生もいらしてくださった。しかし十分な
接待もできず申し訳ないと思っております。大学関
係者、学部学生、院生には休講して迷惑を掛けており
ます。申し訳ありません。
この度私は多くの人々から愛されていることを確認しました。それがこれからの余命を
生きる力になります。中国、韓国、国内の弟子、友人、知人、言論人など色々な方から電話、
メール、投稿、差し入れも多く、今は一々御礼することもできず感謝しております。
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