パンダの搾乳、人工哺乳

日本大学学術研究助成金【総合研究(継続)
】
パンダの搾乳、人工哺乳、疾病および生態に関する研究
研究代表者 獣医学科 教授
渡部 敏
八百万年の歴史を有し、生きた化石と言われるジャイアントパンダ(パンダ)は、中国国宝に
指定されている。しかし、パンダ生残数は、二十世紀初頭から減少の一途をたどり、現在では僅
か 178 頭(2006 年)のみ飼育されているに過ぎず、絶滅に直面している。
パンダは、産仔哺育意欲に乏しく、特に人工授精を受けた個体の初産産仔は、これまで、ほと
んど死滅している。この度の共同研究の拠点となっている中国 成都大熊猫繁育研究基地におい
ても、2001 年から 2005 年に至る 5 年間で、初産パンダ産仔全てが死亡した。また、経産パンダ
の産仔についても、初乳を未摂取個体の生存例は無い。経産パンダの約半数の母獣は、双仔分娩
をするが、通常一方の産仔は生後死亡し、他方の産仔生存率も約 55%に留まる。死亡の直接的原
因は、初乳を介した移行抗体による母子免疫の獲得不全によると考えられている。このため、双
仔2頭の発育には人為的介入が不可避とされており、例外としては僅かに 1 例、2003 年 9 月、和
歌山県白浜の商業施設内で、自然交配下に誕生した双仔の成熟例が有るに過ぎない。
現在、パンダ母子免疫の代替と人工賦与とが不可能なことから、免疫成立までの期間、少なく
とも分娩後 3 週間以上にわたり自然母乳を搾乳し、人工哺乳を施す必要があるとされるが、自然
母乳確保については、従来その方法を欠いてきた。
本研究は、パンダ用搾乳装置(パンダミルカー)およびティートカップの開発、パンダ用調合
乳(パンダミルク)の調製を行うと共に、パンダの死亡原因に関するウイルス学的および細菌学
的、病理組織学的検索、繁殖のための精子活力の判定および特異的消化生理の基礎の一つである
歯牙について総合的検討を行い、パンダ生残の可能性増大に対する寄与を目的とする。
パンダミルカーおよびティートカップ
搾乳装置およびティートカップの構造と機能、パンダの搾乳および人工哺乳等の方法について
は、前年度報告した。本年度は、これらによる人工保育の有効性を検証した。
成都大熊猫繁育研究基地において 2006 年 8 月、
6頭の母パンダから9頭の仔パンダが誕生し、
内3頭の母パンダが、双仔を分娩した。2007 年 7 月から 8 月 15 日、5頭の母パンダから 7 頭の
仔パンダが誕生し、内2頭の母パンダが、双仔を分娩した。
保育拒否または放棄された仔パンダおよび双仔中一方の仔パンダを、直ちに母親から隔離、保
育器内に移し、予め搾乳した初乳を人工哺乳した。双仔中の分離仔パンダでは、より軽量の産仔
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を分離個体に選び、約4時間保育器内で人工哺乳した後、母親に保育されている重量産仔個体と
交換し、自然乳に関する間歇哺乳を行った。現在、10 頭の双仔および 6 頭の単仔、全 16 頭に順
調な発育を観察している。
過去 2 年間で、産仔最低体重は、雄の双仔における 155 および 31 グラムであった。それまで
の成都大熊猫繁育研究基地の記録によると、発育可能な最低の産仔体重は、64 グラムであったこ
とから、その凡そ半分のみしかない未熟仔で続けられている以後の順調な発育は、人工飼育にお
ける初乳投与の重要性を的確に例証すると考える。
パンダ母乳成分の分析、パンダミルクの調製およびその給与
初産および経産パンダの産仔に初乳を授乳後、異種動物の乳を人工哺乳した場合の乳仔の生存
率は、それぞれ約 50、55%である。生存率向上のため初乳の人工哺乳による母子免疫賦与後、人
工の専用同種ミルクの給与を必要とする。母乳成分分析には、分娩後の日数の影響、季節的変動
等を考慮し、分娩後 25 日および 160 日のパンダ母乳を用いた。
分析項目は、
水分、
脂質、
タンパク質、
灰分、
炭水化物、
ラクトース、
三糖、
ビタミン:A (retinol)、
B1・B2・C・E、タウリン、Na、K、Ca、P、Mg、Cl、Fe、Cu、Zn、Mn、脂肪酸組成:C4・C6・C8・
C10・C10:1・C12・C14・C14:1・C15・C16・C16:1・C17・C18・C18:1・C18:2・C18:3・C20・C20:1・
others、アミノ酸組成:Asp・Thr・Ser・Glu・Gly・Ala・Val・Cys・Met・Ile・Leu・Tyr・Phe・
・Trp・Lys・His・Arg・Pro・Asp・Glnを対象とし、その結果に基づき、専用人工乳として
(NH3)
パンダミルクを調製した。
パンダミルクの給与は、原則として生後 3 週間後、初乳の人工哺乳終了後から開始した。パン
ダミルクの給与期間は、自然界ではパンダの離乳期間が8ケ月から 18 ケ月であることから8ケ
月以上とした。また、産仔の発育に伴いタンパク質、脂肪、炭水化物、繊維、灰分等の栄養素を
補給する目的でサプリメントを調製した。サプリメントの給与は、生後 5 ヶ月から開始した。パ
ンダミルクの給与試験は、現在継続中で、来春その結果が得られる予定である。
死亡原因のウイルス学的検索および初期パンダ腸内細菌叢の検討
成熟パンダの死亡原因の約 70%は、モービリウイルス感染を原因とする。モービリウイルス感
染防除のため、不適合株を用いた私製犬ジステンパーワクチンの過剰投与が、パンダ胎児の死流
産を誘発したことを明らかにし、前年度報告した。本年、標準株使用ワクチンへの移行、投与量・
投与回数の適正化による、胎児の死流産およびジステンパー死亡例は消失を検証した。
今回、パンダ新生仔腸管内容物を用い、特に生後初期の腸管細菌叢形成を考察した。
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生後数日のみ供給される初乳成分は未定だが、3ヶ月齢母乳成分は、ヒト乳と比較し、1.2-1.3
倍高い栄養素濃度を含み、また新生仔は、8ヶ月未満の不充分な授乳で例外なく発育不良に陥る
ことが知られている。成長に必要な物質供給をほとんど全て母乳で賄うパンダは、18 ヶ月に及ぶ
長期授乳期間と吸収機構の効率化と行い、要求性を満たしているが、吸収機構と腸内細菌叢の関
連は明らかでない。
一般に、限定的栄養条件下での発育細菌は、限定的菌属・菌種の優勢化傾向を持つ。長期供給
される乳の消化・吸収に関与する幼仔パンダの腸管内の菌群・菌種もまた、限定的な菌属・菌種
への収束を予想する。
予備検査から、生後3ヶ月齢パンダ幼仔腸内では、他の哺乳類同様偏性嫌気性桿菌およびグラ
ム陰性桿菌が優勢と思われた。生後 10 日齢では、全試料で細菌発育を観察しなかった。すなわ
ち3ヶ月齢以後のパンダでは、他の哺乳類に類似した腸内細菌叢の成立を予想できた。しかし、
生後の初期菌叢は、他の哺乳類に比べ遅く発生し、生後 10 日以上の後に成立すると推定した。
そこで、生後 2 周齢の乳仔便7例を用い、好・嫌気培養による細菌分離を試みた結果、5例で
菌検出を見ず、2例で偏性嫌気性グラム陽性桿菌2菌株のみを検出した。パンダ腸管における初
期無菌状態から菌叢の成立する間の初期定着菌候補として分離・同定を行った。現在までのとこ
ろ、共に Lactobacillus 属の性状を示し、強い酸性条件(pH5)下に発育した。パンダ初期乳が高
糖含量を持つ点で、分離菌株の保有する性状は、乳環境中での発育に有利な性状を持つと考える。
また、両株とも酸産生性を有し、乳仔腸管感染に対する防護機能の保持・関与を示唆している。
死亡原因の病理学的研究
成都大熊猫繁育研究基地において内視鏡により採取されたパンダの胃腸粘膜の病理組織学的
検索を行った。
1985 年 9 月から 2002 年 8 月に生まれた 1 歳 10 ヵ月-18 歳 9 ヵ月齢の個体で、体重約 66-120kg
の雄 4 例、雌5例について、2004 年 6 月の健康検査時に採取した胃 8 例、腸 6 例の組織のヘマト
キシリン・エオジン(HE)染色試料について、検討した。
検索の結果、胃ではポリープ状隆起病変が 1 例にみられ、同部に充血とリンパ球・形質細胞か
らなる単核細胞浸潤を認めた。また、粘膜上皮の剥離と出血を示す 1 例、粘液変性様を示す 1 例
を観察した。腸はおおむね大腸と思われ、粘膜上皮の剥離脱落を伴う粘液増量、杯細胞の増加な
どカタル性腸炎像を示す 3 例を認めた。このうち 2 例は出血を伴っていた。
組織は厚く、染色性も良好ではないように見受け、リンパ球など浸潤細胞の鑑別も明確に行え
なかった。採取材料の方向性も一定ではないことから組織採取、固定処理などの方法が一般化を
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経ていない可能性が示唆された。
今回の観察結果から、パンダの胃腸粘膜には程度の差はあれ、胃炎あるいは腸炎の存在するこ
とが示された。
精子活力の判定
パンダ凍結精液の肉眼的観察結果とコンピューター解析装置による成績を比較検討した。精液
は、2頭の雄パンダ(#386 および#387)から採取された凍結精液を供試した。ストロー凍結精液
を融解後、肉眼的顕微鏡観察は融解直後 0 分、30 分および 60 分の計 3 回、評価した。その直後
にデジタルカメラ(オリンパス)による動画撮影(1 秒 15 コマ)を行った。デジタル画像は、運
動解析ソフトで解析した。その結果、運動解析装置による評価では、#386 の最大平均移動距離
は直後0分:5.29mm、30 分:8.23mm、60 分:2.39mm であり、肉眼観察と相関性が見られた。#
287 の最大平均移動距離は 0 分:9.31mm、30 分:8.33mm、60 分:7.57mm を示したが、0 分と 30
分における肉眼観察の結果と一部不一致がみられた。2つの方法の結果に一部不一致がみられた
原因として、運動解析装置で早く動く精子の運動を確実に追尾できなかった可能性がある。また、
今回用いた顕微鏡の観察倍率が高すぎて激しい精子の上下運動を連続的に追尾できないことが
追加実験で判明した。
臼歯咬頭面の観察
食肉目中、草食性であるパンダの臼歯咬頭面の特徴を観察した。
パンダ臼歯の特性は、主食餌である竹摂取に適応した高平面構造に基づくと考える。すなわち、
一般的形態に留まる犬歯以外、臼歯では、一部(PM4、PM1)を除き、歯表面の凹凸が減弱・縮小を
観る一方、別途二次咬頭面を発達させ、飼料の裂砕より磨砕に適した、特徴的な歯冠咬頭外形を
観察した。
パンダの頭骨観察の結果、顎関節可動域は主に上下に限局し、左右動範囲は狭隘である。頭骨
に比べ相対的に大きな上顎臼歯を発達は、顎関節運動の制限に対する適応と考える。
これらからパンダ歯面の示す磨砕機能の拡大・強調は、消化管における植物性栄養摂取の効率
改善促進を目的に、限定的顎構造下での咀嚼効果確保のため培われた、最適化の帰結と推定した。
パンダに関する科学的諸知見の大部分は未踏である。今、曙光の兆したパンダ種保全の一層の
進捗には、各分野を糾合した考察と獲得知見の速やかな還元を必要とする。更なる研究の進展に
向け、日中両機関相互の努力とその推進の一層の進展とを今後とも欠かす事は出来ない。
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