「ルート 66」 シカゴからロスアンジェルスへのドライブ旅行 シカゴからロスアンジェルスまで北米大陸のほぼ3/4を 海外経験が豊富で退職後まもないので申し分ない候補者で 横断する道路を“US ハイウェイ66”と呼ばれるようになっ あった。不安がる OT さんの奥さんにも事前計画を説明し *) たのは1926年7月13日のことであった。 “怒りの葡萄 ”の 了解を取り付けた。 作者スタインベックが「アメリカの背骨」と形容した様にア 数々の本やビデオを集め事前準備はしたもののホテルの メリカの大動脈であり、同時にアメリカ文化の発信基地で 予約はドライブ出発前日のシカゴと到着目標日のロスアン あった。 ジェルスの2泊しかしていない。ルートは決まっているが 1925年にはアメリカンハイウェイ委員連盟により「ハイ 途中の宿泊地は未定で行き当たりバッタリの旅である。レ ウェイ・ナンバリング・システム」が考え出された。全米で ンタカーも希望のタイプは事前予約できずシカゴに着いて 250もの道に分断されていた道路に道路ナンバーを割り振る。 から直接交渉する不安を抱えての成田出発であった。 東西を走る道路には偶数、南北を走る道路には奇数、そして 6月5日にシカゴ空港に到着しレンタカーを借りる時か 州境を越える道は US ハイウェイと呼ぶ盾の形をした標識板 ら“ラッキー”が始まった。出発前、日本からではどうし に番号を書き、州内のみを走る道路はステートロードと呼び ても希望するワゴンタイプを予約する事が出来なかった。 円形の標識番号板にすることが決定された。主要道路は100 ところが、係員から与えられた車はトヨタの中型ワンボッ 番以下の番号がふられ、より主要な道路には切りの良い40、 クスカー HIGH LANDER V6であった。三人分のトランク 50、60といった番号が付けられることになった。シカゴから が丁度後部座席の後ろに収まった。カメラやガイドブック ロスアンジェルス迄のルートに地元の委員は60という番号が や身の回り品を入れた手荷物類を一人分の空き座席に置き 良いと考えたがケンタッキーとバージニアの委員からはシカ 市内のホテルに向かった。 ゴからの道路では大陸横断道路ではないと反対された。66が 近くのレストランで夕食(ステーキ)をとり明日からの まだ全国どこにも使われて無く“シクスティ”より“シクス 計画を話し合った。ウェイターに我々の計画を話したら注 ティー・シックス”の方が語呂が良いということで1926年7 文してないデザートがテーブルの上に出された。見ると 月13日に正式決定され66の盾型の標識を作り始めた。 “BON VOYAGE ROUTE 66”とチョコレートで書かれた その後、ルート66はコンクリートによる舗装工事が各州 ケーキだった。二度目の“ラッキー”だ。三人でケーキを で進められ1938年には全線舗装が完成した。その後、1972 ほおばり記念写真を撮り前祝いをした。 年に州間高速道路(インターステート)がシカゴからカリ フォルニアまでほぼルート66に平行して完成し、国道とし てのルート66は1985年に廃線となった。しかしその後もルー ト66が走っていた各地でルート66アソシエーションが設立 されルート66ミュージアムがつくられ Historic Route 66へ の旅行者を待ってくれている。 出発 一年前に友人の NT さんから「来年66歳に成るのを記念 して“ルート66”をドライブするんだ」との計画を耳にし て即座に「俺も同行したい」と申し込んだ。その時点では 同行者があと二人居たが次々に病気で行かれなくなってし まった。出発は既に2006年6月6日に決定したが出発がも う二ヶ月に迫ってきても第三の候補者が決まらず困ってい た。SEAJ を通じて知り合っていた OT さんに声を掛けた。 56 SEAJ Journal 2006. 9 No. 104 出発を祝う“ラッキー”ケーキ 「ルート 66」 ルート66のコース ところが、専用の標識板が頼りになるのはイリノイ州と そもそもルート66とは、シカゴからロスアンジェルスま カンザス州だけだった。その他の州は標識板が無かったり、 での全長2,448マイル(約3,920㎞)の道路でイリノイ、ミズー 曲がった直後に標識板が立っていたりした。我々に「良く リー、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、 間違えなく曲がるべき処を曲がったね」と呼びかけている アリゾナ、カリフォルニアの八つの州を三つの時間帯が跨っ 様だった。又、カリフォルニア州では標識が殆ど無く道路 ている。この長さは日本本土の青森から下関間の丁度二倍 上にペイントでマークが表示されていた。 の長さである。平均時速100㎞で一日8時間走れば五日間で 通過できる。しかし我々はなるべく高速道路を使わないで モーテル探し オリジナルのルート66を通る計画であった。一日平均約200 夕方4時前後になるとモーテルが在りそうな街でモーテ ㎞走って20日間で辿り着くのを目安とした。 ル探しに時間を費やした。狙い目は大きな街の前後高速道 200ページにも成るガイドブック(EZ66 GUIDE)には詳 路の出口近辺である。条件は①1階である事、②隣り合っ 細なルート66のオリジナルルートが載っている。ローカル た二部屋、③インターネットが出来る事とした。三人なの のルート66に纏わる寄り道や名所旧跡も説明されている。 でシングルベットとツインベットの部屋を一部屋ずつ取り (読み砕くのには難しい英語で書かれているがーーー) 三日に一回シングルを交代で利用する事にした。最初の 実はルート66の旅は日本の旅行会社でもツアーを組んで 二三泊は全米をカバーする有名なモーテルを中心に探して 毎年実施していることを計画中に知った。しかも知り合い いたが二部屋で150ドル前後し割高である事に気が付いた。 の添乗員が企画していたので直接会い現地情報を仕入れる 以降は“芝居”を打つことを思い付いた。最初に高そうで 事が出来た。中村雅俊が紹介していたテレビ番組 “地球街道” も有名なチェーンのモーテルに飛び込み三つの条件を OT も参考になった。又、5年前に夫婦でドライブした経験の さんが話し値段を聞く。その傍らで私が「高すぎる」と日 ある人も紹介して貰い見るべきスポットも調査しておいた。 本語で不満そうな顔をして言う。「他にもう少し安いモーテ 自分の頭の中では見るべきスポットを押さえれば途中は高 ルは無いのか?」と訪ねると大抵は親切に教えてくれる。 「○ 速道路で移動すれば良い位に思っていたが結果的には今回 ○○は以前に勤務していたが良くないよ」「○○○は安くて の旅は可能な限り高速道路は使わず忠実にオールドルート 良いと聞いている」等と答えてくれる。 を辿る旅を行う事が出来た。 モーテルが決まったら次は夕食のレストラン探しとアル コールの調達である。不思議と「Liquor」の看板を遠くから も見つけだす才能を有する NT さんの出番である。成田から 持ち込んだ焼酎とウィスキーは早々に消えてしまった。大型 マーケットなら安く売っていると思ったがそれは大都会での 話だった事が悔やまれる。こんな事だったらもっと成田から 持ち込んでおくべきだった。Liquor 店でないとなかなかビー ル、ワイン以外のアルコールは売ってない。しかもレストラ ンでアルコールはビールすら出せない店がかなりあるのには 驚いた。毎日ビールをその日の分だけ買うのは手間で割高で ある事に気が付いた。3.5ドルで発泡スチロールのアイスボッ クスを OT さんが見つけた。以来多めにビールを仕入れてお いてモーテルから氷をアイスボックスに入れ車に積んでおく ルート 66 の全コース ことにした。夕方モーテル探しを終えたら直ちに部屋でビー ルが飲めるようになった。 ルート上の標識板 前日に下見をしておいたスタート地点に路上駐車をして 三人の役割 記念写真を撮りいよいよ旅は始まった。分厚いガイドブッ ドライバーは当初から OT さんに決めた訳ではなかっ クを見ながらナビゲーターがオリジナルロードを辿ってい たが、結果的には全てのルート66の道筋は一人で運転する くと曲がり角には必ず標識板が見やすい位置に立っている。 事になった。全てを OT さんにお願いするのは申し訳な ナビゲーター担当の私が気が付くのとほぼ同時にドライ いと思い六日目のオクラホマ州ツルサ(Tulsa)から Will バーである OT さんも気が付く。ナビゲーターが曲がり角 Rogers の 記 念 館 が あ る ク レ ア モ ア ー(Claremore) に 戻 を指示する前にドライバーが先に気が付くことも度々あっ る時に私が運転を申し出た。前日クレアモアーに宿泊する た。ガイドブックの校正をしているような錯覚すら覚える。 予定だったが大きなイベントがあり全てのモーテルが満室 SEAJ Journal 2006. 9 No. 104 57 だったのでツルサまで行かざるを得なかったのだった。私 したそうだ。地元の観光協会主催の歓迎パーティーが近くの が運転をしたものの日頃の癖で下り坂に差し掛かってもブ ステーキハウスで開催され我々三人も招待され交流を深める レーキをかけ続けていたら「ローギアーでエンジンブレー ことが出来た。我々の計画がそもそも66歳の記念にと“6” キを入れた方がいいですよ」と OT さんから指摘されてし の数字に拘って6月6日に出発日を決めたがノルウェーのメ まった。それ以来ナビゲーターに専念しドライバーは OT ンバーも数字の“6”には拘りを持ち、6時6分の出発時間 さんに任せることにした。次に運転したのは古い本物のキャ もそうだが1ドライバー当たりの総費用も66,000ドルだそう デラックが10台斜めに地面に突き刺されている「キャデラッ だ。地元テレビ局の取材番組は9月に放映されるとの事でそ ク ランチ」を見つけ損なって間違って通過してしまい、 の後贈られてくる DVD が楽しみだ。 中間地点であるミッドポイントまで行ってしまった為に約 70㎞引き返す時だった。以来私は 「回送屋」 というニックネー ムを貰った。 NT さんは終始後部座席で見学スポットをガイドブック から探し出し停車するかどうかの判断決定をする役に徹し た。車が完全に停車するのが待ち切れずカメラ片手に早々 と車を降りようとしドライバーをヤキモキさせていた。又、 車内から曲がり角の標識を数多く撮影する役も受け持って 貰った。一方、ムービーは私が担当した。ミニ DV60分テー プ10本を日本から持参したが撮るシーンが多く2本現地調 達した。合計12時間に渡るテープの内生かせるシーンは実 質10時間に及んだ。DVD の2時間ダイジェスト版を作成 するのに2週間を要した。スチール写真は主に NT さんが 担当し二台のデジタルカメラで合計3,691ショットも撮影し ノルウェー・クルーズとの出会い た。何れ新宿で個展を開催する計画である。 サンタフェへの道 ノルウェー ・ クルーズとの出会い 9日目に宿泊したツクマカリ(Tucumcari)はニューメ シカゴからの初日は528㎞も走りイリノイ州のスプリング キシコ州の田舎街だった。ルート66の全盛期には宿場町だっ フィールド(Springfield)に到着した。因みに一日の走行 たらしくメインストリートには今でもレストランやモーテ 距離528㎞は結果的には20日間のドライブ中で最も長い距離 ルが並んでいる。西洋料理にも飽きた我々の目に「金龍」 であった。 (平均は277㎞)ここスプリングフィールドはリ という中華料理店が入ってきた。店は空いていたが元気な ンカーン大統領の出身地であり生家が保存されていて、辺 ウェイトレスが勧めるままの料理に舌鼓を打った。明日は りの道路は自動車が入れない様になっていて落ち着いた雰 サンタフェ(Santa Fe)に向かう話をしたら本人の出身地 囲気になっている。イリノイ州のほぼ中央に位置していて を通るルート84をしきりに勧める。我々はルート66をシカ 州都になっている。 ゴからロスアンジェルスまでのオールドルートをドライブ 同じ地名のスプリングフィールドは隣のミズーリー州にも している話をしたが景色が良く満足するから是非ともルー 在り紛らわしいが、我々は三日目に宿泊し思わぬ“ラッキー” ト84を行きなさいと言われた。実は1937年まではルート66 に巡り合った。Best Western というモーテルにチェックイ はサンタフェを経由していたがメインストリートとしては ンしたら地元のテレビ局のクルーと出会った。聞くとこれか あまりにも回り道となるのでショートカットされた。その らノルウェーの団体が到着するとのことである。部屋に荷物 頃の道は殆んど廃道となっているか作り変えられている。 を入れ着換えていたら60年代のアメリカンクラッシックカー 忠実にルート66しかもオールドルートを極力選んでドラ の行列が到着した。華やかな色のポンティアック、マーキュ イブする我々が唯一はずれた半日ドライブは“回送屋”で リー、サンダーバード、キャデラック、シボレー、コルベッ ある私がハンドルを握った。ネバダ州にあるラスベガスと ト、リンカーン等に車好きの OT さんは興奮状態である。聞 同じ地名のある街まで行き昼食を取った。サンタフェは鉄 くとノルウェーで愛用している完全にリストアされたアメリ 道会社の名前でも有名だがここはスペイン風、メキシコ風 カンクラッシックカー総勢18台を米東海岸まで大西洋を船で と現代アメリカやインディアン系の文化が混在している。 運びシカゴまで陸送したそうだ。そして6月6日の午前6時 家々は窓が少なく赤い土と木の柱で構成されている。熱さ 6分にシカゴを出発し6月26日にロスアンジェルスのサンタ を防ぐには良い構造なのだろう。アーケードには原住民が モニカに到着する計画。総員46人で4年前から緻密な計画を メキシコ風のお土産を沢山地面に並べて売っている。一方 58 SEAJ Journal 2006. 9 No. 104 「ルート 66」 近代的な建物のウィンドーには芸術豊かな作品が高額な値 アクシデント 段を付けて並べてある。芸術ファンならゆっくり一泊した アリゾナ州でガソリン補給をしていたらレンタカーの配 い街である。我々は先を急ぎアルバカーキ(Albuquerque) 送トラック運転手から「ここへ来る途中のインターステー に向かった。途中、日本では体験できない砂嵐に遭遇した。 トですごい自動車事故に遭ったよ」との情報を得た。これ 付近の荒涼とした砂漠の砂を強い風で舞い上げ高速道路で から向かう途中のようだが詳細は解らない。地図を見ても も視界をさえぎる位の凄まじさだった。 迂回路など無さそうなのでひとまず出発する事にした。次 ツクマカリからアルバカーキまでは東西に直接走るイ のインターチェンジで降りてクレーターを見学する予定で ンターステート40沿いにルート66は在るが芸術の街サンタ あった。出来たらインターチェンジまでは何とか辿り着き フェを訪ね砂嵐を体験する迂回路の一日であった。 たい思いで走っていたら前方に黒煙が上がっているのが微 かに見えた。緊急車両もサイレンを鳴らしながら走り抜け 列車との出会い ていった。渋滞が始まり、日本だったら側道を通る車が必 11日目のニューメキシコ州アルバカーキの街を離れ1937 ず出てくるがここではそのような車は1台も居ない。我々 年以前に使われていた旧道をドライブしていると、この旅 もインターチェンジが近づいてきたがじっと我慢して渋滞 行で初めて貨物列車と出会った。遙か彼方から汽笛が聞こ の中に留まっていた。幸い事故現場はインターチェンジの えてきたので、車を止め待ち構えていたら数台の機関車が 向こう側であったが黒々と煙を上げている事故現場を確認 長い長い貨車を引っ張ってゆっくりゆっくり走ってきた。 する事が出来た。そこで一旦クレーター見物に向かう事に 写真をとっていると運転手がこちらに手を振って汽笛を何 した。4億9千5百年前に直径30m前後の隕石が北東方面 回も鳴らしてくれるのには涙が出そうになった。全車両が から落下し直径1,300m、深さ170mの巨大クレーターが出 通過するまで見送った。NT さんが数えたら125両であっ 来上がった。かつてアポロの宇宙飛行士が全員訓練をした た。それまでインターステートの高速道路上を走り抜ける 場所でもありカプセルが展示してあった。 大型のトラックの行列に見とれるケースは何度もあったが 2時間位クレーターを見学した後インターチェンジに戻っ 初めて出会った貨物列車の大編成には改めて大きな感動を てきたが渋滞はまだ続いていた。事故現場に差し掛かると大 味わった。大型トラックに一体何が積まれているのか疑問 型トラックが真っ黒焦げでシャーシだけが右側道に横たわっ に思っていたがあの大編成の貨車にも一体何が積まれてい ていた。20mはあろう中央分離帯を反対車線から飛び越えて るのだろう。SAMSUNG と HYUNDAI の文字が横腹に書 来たにしては“貰い事故”の車両は1台だけでしかも後部の かれているコンテナの多いのには些か気になる点であった。 一部が多少傷んでいるだけだったのは不幸中の幸いであった。 そして1編成全て戦車が積まれている列車にも吃驚した。 20日間のドライブ中事故らしい事故はこの一回だけだった。 ルート66沿いには並行して鉄道が引かれている。考えて ある日の朝、駐車場で出発準備していた長距離トラック みたら1926年にルート66がシカゴからロスアンジェルスま のドライバーと雑談していたら昼食時間以外は殆ど休憩時 で開通する前から鉄道は存在していたのだ。Santa Fe や 間を取らず何時間も走り続け何日も家に帰らないそうだ。 BNSF が全米大陸の大動脈を走っていたのだ。その線路沿 それにしては事故を起こさないものだと感心した。 いに道路が引かれたのは必然である。数10キロメートルも 一直線に長く繋がっている道路、電柱、鉄道がニューメキ 唯一の坂道 シコ州には何箇所もあった。 殆ど起伏のない荒涼とした荒野が続くテキサス、ニュー メキシコ、アリゾナの各州を通過しカリフォルニア州に近 づくとルート66で唯一の山越えが登場する。左右広々とし た大地が広がり遠くに半導体の名前にも使われているメサ 型の山が見え、目の前には多少起伏の富んだアップダウン をするなだらかな傾斜の向こうに高い峰が見えてきた。目 を凝らして遙か彼方を見てみると山の峰に沿って道が見え るような気がしてきた。左を並行して走っているインター ステート40は真っ直ぐ進み、我々が走っているオールドルー トは右前方に曲がり始めた。次第に勾配がきつくなり丘を 登り始めた。峠に差し掛かる手前にクラッシックカーのコ ルベットが止められているガソリンスタンドがあり一休み した。のんびり休んでいたら自転車で一人旅を続けている 列車との出会い 人に出会った。一体どこまで行くのだろう。ハーレーダビッ SEAJ Journal 2006. 9 No. 104 59 トソンに跨りルート66を旅行する人には度々出会ったが、 の後ろに付き有名ブティックを車から眺めてサンタモニカ 自転車の一人旅は珍しかった。 に向かった。 峠を越え下りに差し掛かると相変わらず急な左右の曲がり 最終ゴールは今走り続けているサンタモニカ通りが太平 が続くが遙か彼方には広々とした大地が見渡せる。ゴールド 洋の海岸線沿いを走っているオーシャン通りとぶつかる地 *) ラッシュを夢見て西部を目指したり、ダストボール を逃げ 点である。そこには Will Rogers の記念碑がある筈だ。混 新転地目指したりした昔の人はこの峠を越すのにはオーバー 雑していてなかなか最終ゴール地点に到着しない。何回も ヒートとガス欠に大変な苦労をしただろうと想像した。 ビデオテープに最終コメントを録画する。やっと正面にオー 下るとオートマン(Oatman)という小さな街に辿り着く。 シャン通りが見えてきた。時刻は午後4時41分。車のマイ ここのホテルには昔クラーク・ゲーブルとキャロル・ロンバー レージはシカゴから通算3,467マイル(5,547㎞)を指してい トがハネムーンで泊まった部屋が保存されていたので見学し た。最終ゴールに到着する我々の車を撮影する為に私は事 た。12時から始まるガンファイトをする人達の傍らでバッ 前に車を飛び降りた。二回も到着場面を撮影した後、全員 ファロー肉のハンバーガーを食べて時間潰しをした。 でサンタモニカの海岸通りの公園にちょこんと埋めてある Will Rogers の記念碑の前で記念写真を撮り、20日間に渡る 「オールドルート66」のドライブの旅を締めくくった。 NT さんは私の先輩である永井達二さんでした。貴重な 体験をする切掛けを作って頂き有難うございました。又、 OT さんは業界仲間の大田黒鐵彦さんでした。全コースを 安全運転して戴き、感謝をします。 おく つ かずひさ (元広報部 部長 奥津 和久) ルート中、唯一の険しい坂道 サンタモニカへ最終ゴール コロラド川を渡ると最後の州カリフォルニアに入るが 最終ゴールのサンタモニカに到着するまでにはニードル (Needles)とバーストー(Barstow)にあと二泊の予定だ。 カリフォルニア州の大きさが実感できた。最後の宿泊地バー ストーが19日目で予定より一日早くロスアンジェルスに到 サンタモニカに無事到着 着できる。バーストーを出発してまもなくして California Route66 Museum に立ち寄った。T型フォードの実物が 展示してあり記念写真を撮った。室内には沢山のビデオ、 参考資料 CD、プレート等の“ルート66グッズ”が販売されていた。 1 「THE EZ66 GUIDE for TRAVELERS」JERRY McCLANAHAN 著 the National Historic Route66 Federation 2 「Route 66(MAIN STREET USA)」Nick Freeth 著 MBI 3 「ルート66 アメリカ・マザーロードの歴史と旅」東 理大著 丸 善ライブラリー 4 「オールドハイウェイ ルート66の旅」大塚 浩司著 ほおずき書籍 5 「American Road Story」アメリカの魂にふれる旅 東 理夫著 集英社 この後は都会の雑踏の中をドライブするのみでルート66の 面影は殆ど感じられない。パサデナ(Pasadema)を過ぎロ スアンジェルスのダウンタウンが目の前に近づくとガイド ブックを見ている暇が無い。沢山のレーンを高速で走って いる車列を縫いながら方向指示板に目を凝らしハリウッド 通りに向かった。目の前にはかつて野茂投手が活躍したド ジャースタジアムも一瞬見えたが直ぐ右カーブで視野から 遠ざかった。その後何回か道を間違えたがやっとサンセッ ト通りからサンタモニカ通りを取ることが出来、ビバリー ヒルズの高級住宅街が右手に見えてきた。折角来たのでロ デオドライブにも寄ってみようということになり長い車列 60 SEAJ Journal 2006. 9 No. 104 *)“ダストボール”とは1930年代、中西部地方で頻繁に発生した砂嵐で、作 物を壊滅状態にした。“怒りの葡萄”は絶望した一家が農場を捨ててカル フォルニアに向かう物語。
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