ウラとオモテのライバル論 ―海苔技術の革新と疲弊―

2013年1月15日提出
東北学院大学教養学部地域構想学科
2012年度総合研究
ウラとオモテのライバル論
―海苔技術の革新と疲弊―
教養学部
地域構想学科
0958235
佐藤
指導教授
1
4年生
金菱
征司
清
目次
はじめに
第1章七ヶ浜を特徴づける表浜と浦浜
1-1.七ヶ浜町のオモテとウラ
1-2.七ヶ浜の被害状況
第 2 章継続困難な海苔養殖業
2-1.漁業を続けられない三つの要因
2-2.漁業協業化の三つの課題
第 3 章表浜の協業と浦浜の協業
3-1.七ヶ浜町で震災直後に海苔養殖を始めた「表浜」
3-2.海苔養殖をなくしたくなかった「浦浜」
第 4 章ライバル論―ナンバーワン
おわりに
参考文献
2
はじめに.
大津波により海から恩恵を受けていた漁師達は、「海さは帰えらんね」
「もう海苔づくり
をやめる」など悲痛な叫びをあげていた。ところが、漁師達は「もうやめる」と言いつつ
も、震災があってからわずか数か月で海の瓦礫撤去を始め、また海へと帰ってきた。
「最初
はダメだと思ったけど、海を見だくなったんだよな。今の海はきれいだ。やっぱり海を見
ると落ち着くんだよな」と言っていた。
今回の東日本大震災による大津波は 1000 年に一度の自然災害とされているが、あくまで
津波は自然災害の一部であり、漁師達にとって「未曾有」ではない。漁師達は常に自然災
害の被害を受けながら、海と共存して来た。低気圧の影響や台風などの影響により漁が出
来なくなり、収入が減少し生活が不安定なものとなる。漁師の高齢化、後継者不足、機械
の老朽化、自然災害というように漁師達を苦しめる要因は多くあるが、第一級の自然災害
に遭遇してさえなぜ漁を続けているのか。
そこから、同じ宮城県七ヶ浜町でも復興再生のスピードが違う地区が存在することがわ
かった。今回の調査地である要害地区を含む内湾の地区(松島湾側)は震災後の 2012 年か
ら海苔養殖を始めた。しかし、花渕浜を含む外洋(太平洋側)に面している地区は震災の
起きた 2011 年から海苔養殖を始めている。なぜ、内湾地区の漁師達の復興再生が遅れ、外
洋地区の方が復興再生が早かったのだろうか。順に追って考えていこう。
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第1章七ヶ浜を特徴づける表浜と浦浜
1-1.七ヶ浜町のオモテとウラ
最初に七ヶ浜町の概要を説明する。七ヶ浜町(地図1)は宮城県にあり東北地方で一番
小さい町で、湊浜、松ヶ浜、菖蒲田浜、花渕浜、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜と7つの浜が
あることから七ヶ浜となった(七ヶ浜町誌,2008)
。町の基幹産業は海苔の養殖である。七
ヶ浜町は漁業と農業が主な収入源であり海苔(のり)は町の特産物の一つであり、
「黒い札
束」とも呼ばれ漁師達は富を築き上げていった。宮城県塩釜市(地図2)にある繁華街で
代金を支払う時に、ある漁師はバ
持 行 お
ッグから海苔を出し、ある漁師は海苔の入った箱を繁華
街まで って き 金の代わりに海苔で支払をしていた時代もあったという。
分
分
七ヶ浜町は 7 つの浜からなる町なのであるが、大きく けると 2 つに区 される。外洋
4
に面している 地区(松ヶ浜、菖蒲田浜、花渕、吉田浜)と内湾にある3地区(代ヶ崎浜、
分けられてある、さらには外洋に面している地区は「表浜(オ
モテ)」と呼ばれ、内湾に面している地区を「浦浜(ウラ)
」と呼ばれている。この区分は
町史だけ見れば、地理的な要因が多く関わっている(地図3)
。
「表浜(オモテ)
」は遠洋漁
業が 200 海里という原則ができてからは遠洋漁業の衰退が始まったことをきっかけに、海
苔養殖に加え素潜り漁をはじめた地区である。「浦浜(ウラ)」では昭和 4(1929)年から
海苔養殖を始め、当初は全国で主流であった「固定方式」と「浮動方式」を使用し、海苔
養殖をしていた。だが、この「固定式」と「浮動方式」は海苔の付着や成長、そして健康
管理などが容易に合理的に行われることなったが、取り付けが面倒で、浪風に弱いという
欠点があった。それを解消するために「筏式養殖法」という新しい養殖技術が開発された。
「筏式」とは文字通り筏に網を取り付けるモノで、支柱を立てることが出来ない深い漁場
でも養殖が可能になった。しかし、浪風に弱いという欠点は解消されず、水深の問題はク
リア出来ても、相変わらず波穏やかな内湾でしか使用することが出来なかった。深い海で、
風浪にも負けない養殖方法が考案されたのは昭和 29(1954)年から 30(1955)年にかけ
て、「浦浜(ウラ)
」である代ヶ崎浜漁協の青年部が主体となって立ち上げた「浅海増殖研
究会」から海苔養殖を始め、一時は「浮き流し式養殖法」と呼ばれる手法と漁場が内湾に
面しているため穏やかな海をもつことで高品質な海苔をつくり、この技術は全国でも高く
評価され、全国の海苔生産者が見学にやってくるほどの先進地となった(七ヶ浜町誌, 2008)。
だが昭和 30 年代に工場の排水や住宅からの都市排水や、生産効率をよくするために田畑
で使用された農薬に等の流入により、水質が悪化し海苔養殖をする環境が激減してしまう
という問題を抱えてしまった。
次第に「浦浜(ウラ)」の漁場が優位性を失い、東宮浜や代ヶ崎浜の漁業者らと同様に出
稼ぎ漁や塩釜港の荷役労働者として働くモノが増えたことで海苔養殖者の減少を招き後継
者不足という問題を抱えてしまったのである。
そのような中「浦浜(ウラ)
」とは対照的に海苔養殖がどんどん進んでいった地区があった。
東宮、要害)というように
4
開発した「浮き流し式養殖法」を使う
ことで本来海苔の養殖は穏やかな海でなければ作れないと言われていたが、
「浮き流し式養
殖法」は荒れた海(外洋)でも海苔養殖をすることが出来る環境になった。
それが「表浜(オモテ)
」である。
「浦浜(ウラ)
」が
浦浜(ウラ)
:Google マップ)
(地図1
表浜(オモテ)
:Google マップ)
(地図2
1-2.七ヶ浜の被害状況
ぎに、今回の大震災が七ヶ浜町におよぼした被害について両地区の被災状況を説明し
よう。外洋に面している松ヶ浜、菖蒲田浜、花渕浜、吉田浜を合わせた被災状況は 1178 軒
で、内湾に面している代ヶ崎浜、東宮浜、要害を合わせた被災状況は 519 軒というように
外洋に面している地区より、内湾に面している地区の方が被害は約半分と少ない。
漁業に関する被害については以下の通りである。大津波により船は流され、機械や設備
も破壊され、漁師達に経済的にも精神的にも大きな打撃を与えた。震災前は養殖施設、海
苔の加工施設、海苔の乾燥機、作業船のすべて揃えるだけでも数億円は必要とされ、これ
らの施設や船は個人保有であり海苔養殖をするには道具だけでもこれだけの物を必要とす
る。今回の東日本大震災に施設や作業船ならびに出荷間際の大事に育てていた海苔の流失
を含む総合的な被害額は 19 億 9385 万円(1)となり、個人での自立再建は今回の震災で
事実上不可能になったといえる。
しかし、個人での再建は不可能であったが、震災後(2011 年)に協業化という形で復興
再建を可能にする地区が七ヶ浜で現れた。復興再建を可能とした地区の説明の前に事実上
個人再建が不可能と言える三つの要因を紐解いていこう。
つ
5
第2章.継続困難な海苔養殖業
2-1. 漁業を続けられない三つの要因
ゆかない状況にあったことも併せて明らかになった。震災前の七ヶ浜は海苔
の養殖漁業を続けることが困難であった事実が存在する。その続けることが困難である理
由は大きく三つある。まず、ひとつめに経済的な側面がある。設備投資に数億円、海苔の
養殖は数千万円稼ぐことが出来るが、経費を差し引くと数百万しか手元に残らない。1 日だ
けで作業船(2艘)で 20 リットル、海苔の乾燥機に使う燃料は 1 日で 200 リットルにもな
り、月に 100 万~150 万円かかる。海苔が不調な時は借金をしてなんとか凌いできた漁師
達は不安を抱きながら生活をしている。
ふたつめに、労働条件であるが、海苔の生産が最盛期に達する 12 月から翌年 4 月上旬ま
では 24 時間労働になることもよくあり、この過酷な労働が後継者不足の要因とも言われて
いる。したがって、高波で危険な時でも船を出さなくてはいけない時がある。そして、海
苔の出来栄え次第では赤字になることもあり、借金をすることもある。これらの生産条件
と労働条件は、海苔の養殖業の歴史と深く関わっている(七ヶ浜町誌, 1967)
。海苔養殖発
足当時(昭和 4 年)はすべてが手作業で行われており、機械が無い環境で手間暇をかけ、
生産量も多くなかったため、海苔は高値で取引されていた。もちろんかかる費用は機械が
無いので燃料費ぐらいだった。海苔養殖が稼げる事を知った人々は海苔養殖漁師になり、
徐々に海苔養殖をする漁師の人口を増やして行った。
だが、海苔養殖の 人口増加 によりあまり 良 い海苔が 作 れなくなってしまった 昭和 44
(1969)年に海苔養殖の機械化が始まり、機械や設備にお金を出せた人は海苔養殖を続け
ていく事が出来たが、機械や設備にお金を出せない人は海苔養殖を止めざるをえなくなっ
てしまったのである。そして海苔養殖をしている漁師達を追い詰める出来事が起こってし
まった。それは機械化により海苔の生産量が増加して海苔の単価が下がってしまったこと
と、生産量が増えたが需要量に対し供給量が増えてしまったのである。
みっつめに自然条件である。七ヶ浜では過去に爆弾低気圧の発生、台風、津波といった
自然災害を幾度となく経験している。たとえば、昭和 35(1960)年 5 月 24 日にはチリ大
津波が襲来し、家屋流失 5 戸、全壊 8 戸、半壊 20 戸、破損漁船:無機動力船 41 隻(エン
ジン無)、動力船 24 隻(エンジン付)、床上浸水 105 戸、冠水田 12 町 6 反、畑 1 町 9 反、
被害総額 8640 万 4000 円(当時)の被害を受けている(七ヶ浜町誌, 1967)
。
そして東日本大震災による津波によってチリ津波以降積み上げて来たモノがすべて失わ
れた。このような自然災害や気象の影響により作っていた海苔養殖施設が破壊され、それ
を直す、壊れる、直すという作業を繰り返す。これらの被害状況から分かる通り、震災後
すぐに復興するということはかなり難しいことなのである。では、なぜこんなにも甚大な
被害が出たのにも関わらず復興出来たのか。それを、表浜、浦浜の二つに分けて次に論じ
漁業がたち
ていきたい。
6
2-2.漁業協業化の三つの課題
甚大な被害を被って再建することが現実的に不可能な状態のなかで復興したのか
という問いにこたえる前に、漁師がそもそも、協業化に不向きであるということを認識し
ておく必要がある。なぜなら、震災後の復興において、
「協業」というのはとても大事な要
素の一つであるからである。詳しくは後述するが、ある「復興支援制度」が養殖再開をあ
きらめていた漁師達を救う形になった。その復興支援制度は「協業化」を全面に押し出し
た制度であった。
漁師が協業化に不向きな理由は大きく分けて三つある。ひとつめに、一人ひとりが社長
の漁師達はまとまる事を嫌がる気質がある。自分が働いたぶんだけ見返りがある仕事であ
る漁業は、協業には不向きで給料制になってしまうと自分の思った通りには出来ない。ふ
たつめに、事実制度の導入後、給与の安定が図られ赤字が補填されるため、自分達があま
りがんばらなくてもよいのではないかと思ってしまうという問題が起きるのではないかと
漁師達は感じている。みっつめに、協業化での問題は昔からの漁師が頑固であることであ
る。今では自分一人でやってきた人や機械が壊れたらやめようと考えていた人々に再び海
苔養殖を「みんな」で協力する仕掛けを作る事は難しい。たとえば、年功序列の考えひと
つとってみても、売り上げをどのように分配するか迷っている。そして、自分のしたいこ
とを抑えて、若手をいかに育てることが出来るかが問題である。
以上の三つの理由があるため、根本的に漁師が協業に向いていない気質である。事実、
七ヶ浜町にはかつて協業化を取り入れている地区があった。そこは X 浜(オモテ)である。
ここは協業化に失敗した地区でもある。協業化をすることで自分が働かなくても他の人が
働いてもらえるため仕事がさぼってしまう人が出てきてしまったのである。個人で仕事を
していた時は、休んだら収入がなくなるというようにすべてが自分に跳ね返ってきたが、
協業化することで休んでも収入があることでさぼってしまう。真面目に仕事をしている漁
師達は「なんで俺だけ働いて他の人間は楽して金もらってんだ?!」となりどちらにせよ
仕事に対する意欲がなくなって漁業の衰退という結果を招いているのである。つまり、漁
師が漁師気質の事由により協業化が失敗したのである。
なぜ、
7
第3章.表浜の協業と浦浜の協業
3-1. 七ヶ浜町で震災直後に海苔養殖を始めた「表浜(オモテ)」
失敗の事例があるのを知りつつ、なぜ今回協業化に賛成したのだろうか。簡
単な理由は経済的な要因がある。東日本大震災の大津波の被害により漁師達は個人保有し
ていた海苔の施設や機械を流されその規模は数億円(個人)で個人再建は厳しいというこ
とが挙げられる。しかし、協業化に賛成した要因は経済的要因だけなのだろうか。別の理
由がある事が明らかになった。
では、漁師が協業化に不向きであることが十分に理解されたところで、表浜の復興の論
理を考察していく。前述で不可能を可能にした地区が「表浜」の漁師達であった。表浜の
漁師達はある国の制度を利用して、復興を遂げたのである。それは「がんばる養殖復興支
援事業」である。「がんばる養殖復興支援事業(実施年は平成 24 年~26 年の三年間)」とは、
代表者が3~6名のグループを作り全面協力、部分作業を行い共同で作業をさせる仕組み
で国が資材などの費用を 6 分の 5 負担し、残りの 6 分の 1 を個人負担としたものである。
この制度は震災以前「もうかる漁業」という名前で知られていたが実績はほとんどない。
それが震災後は名称を変更し「がんばる養殖復興支援事業」となったのである。漁師達は
海苔の養殖に使う筏や機械を含めると3億円以上もの費用がかかるうえに、家までも流さ
れたため、家を建てるお金が必要になり協業化しか方法がないと考えた。これは地元の海
苔養殖業の方がこの事業がなければやめていたといわれるほど漁師(の心)を支えていた
制度でもあった。
「表浜」は若い人達(30代~50代)が多い地区ということと、漁師以外の仕事を経
験している人達が多いというと言う特徴がある。ここに住む漁師達が「震災がなくてもこ
こ5~6年で協業になってたべな」と協業化は時間の問題と捉えていた。漁場が「浦浜」
に比べて巨大で生産量も上回っていた。そしてこの復興再建直後に収穫した海苔が例年(9
円)よりも約二倍の値段で取り引きされ、漁師達に海苔養殖は儲かることが出来ると感じ
させ再び海苔養殖への期待が高まったのである。
そして実は、漁師達は協業については東日本大震災の影響がなくても 5 年~10 年の間に
は協業化(グループ化)になっていたという実感がある。協業化はどんな形を取るにせよ
時間の問題と言う認識である。そこには後継者不足という問題を抱え、海が荒れることで
収入が不安定になるということが関係している。海苔養殖は労働時間が 24 時間を超えるこ
ともしばしばあるため、なかなか後継者を育てる時間的余裕もない事も漁師達は問題視し
ていた。そうした従来ある問題を同時に考え、協業化によって設備投資を圧縮できる方策
がこの支援事業によって開かれた。
「がんばる養殖復興支援事業」には平成 24 年から 3 年
間実施と言う年限があり、海苔養殖を再建するには平成 24 年中に始めなければもう二度と
海に戻ることはできない。こうした前と後ろに挟まれた格好で、いわば海苔養殖業の再開
はこの制度によって後押しされたのである。
同じ町内の
8
膨大な費用がかかるがゆえに、支援事業の実施年の内にお金を稼ぎ支援事
業が打ち切りになる前に稼いでおかなくてはならない。打ち切りになった時が本当の勝負
だと漁師達は強く感じている。
「表浜」地区の漁師達はこの「がんばる養殖復興支援事業」制度を導入し、
「漁師だから
海を見だがったんだよな」と言う言葉と共に、2011 年の 7・8 月に海苔養殖の準備をして 9
月からは海苔養殖を本格的に始め12月~翌4月上旬までというような復興を見た。
海苔養殖には
3-2.海苔養殖をなくしたくなかった「浦浜(ウラ)」
中でもそれより1年遅れて再開した「浦
浜」がある。
「浦浜」の特徴は「表浜」とは対照的に、海苔養殖の機械化、高齢化による後
継者不足、昭和30年代に起きた工場排水による水質悪化に伴う漁場の縮小化を招き、水
質悪化が起きる前は100人ほどいた漁師が半分の50人に減少し、この当時から衰退が
始まっていた。そのため「浦浜」の漁場は著しく減少し、漁師達は「浦」以外(表浜、仙
台など)での漁場を借りることを余儀なくされたのである。自分の地区以外の漁場を借り
る時は費用や借りた漁場へ移動する際の燃料費がかさみ「表浜」よりも経費がかかってい
る。そしてなにより高齢化が著しく進んでおり、今回の震災を機に海苔養殖をやめようと
強く思っていた地区である。
協業化に関しては、
「表浜」では「あと数年で協業化になっていた」という言葉とは裏腹
に、「浦浜」の漁師達は「この震災がなかったら絶対協業化なんかしてなかった。」と言っ
ている。それを裏づける根拠として、ある協業化のチーム(浦浜)の統制が既に危うい事
態になっているという事実もある(漁協組合のZ)。漁師達は一人ひとり仕事のやり方や時
間の使い方、機械の使い方、海苔を乾燥させる部屋の温度や湿度が個人個人で異なり、う
まいと感じる海苔(海苔の厚さ、やわらかさ)も違うという環境の中で漁師達の方向性の
相違がぶつかりあうことが多い。
「表浜」と「浦浜」の漁業権をみて見るとお互い海苔だけでなく養殖という項目ではワ
カメがあった。ワカメはロープ一本で出来るし施設もあまり必要としないため、七ヶ浜地
区以外では震災後にワカメ養殖から始める漁師達がいた。なぜ七ヶ浜の漁師達はワカメか
らではなく、施設費用や経費がかなりかかる海苔養殖から始めたのだろうか。七ヶ浜の漁
「表浜」は震災直後に復興していたが、同じ町の
師達はなぜここまで海苔にこだわっているのだろうか。町の基幹産業ということもあるの
両
ぐ ぐ
ぐ
なることは七ヶ浜がねぐなること」や「やっぱり海苔がすぎなんでね」と言う言葉を口に
かもしれないが、 地区の漁師達は「海苔をな した ながったんでね。
」や「海苔がね
していた。
経済性を重視して、浦浜では生きがいのために海苔養殖が位置づけられてい
る。その「違い」が復興のスピードの異なる理由である。しかし、表浜と浦浜には今まで
述べてきた以上の側面が存在する。
表浜では、
9
実はお互いをライバルのような関係として切磋琢磨し競争できる環境が七ヶ浜のなかで
あることをフィールドワークで気づかされた。それがオモテとウラと呼ばれる呼称である。
「俺らオモテの漁師」
「俺らウラの漁師」とオモテの漁師ウラの漁師と両者とも強く区分し
ている。オモテは太平洋側に面しているため、小さな津浪でも被害が大きくなるが、ウラ
は内湾に面しているため被害が最小限で抑える事が出来る。ただし、今回の大津波では両
地区は過去最大の被害となりお互い漁を出来ずにいた。漁業の復興が早く進み漁をし始め
たのはウラの漁師達ではなく、一番被害が大きかったオモテの漁師達の方が早かった。オ
夏と冬というように一年間海の上での仕事で生計を立てているため、この
復興のスピードは頷ける。
他方、昭和 30 年代ごろウラの漁師達は海苔養殖以外(夏の仕事)での仕事があり、半工
半漁で春から夏まで季節労働をして、秋から冬にかけて海苔養殖をして生計を立てていた
が、今では高齢化が進み一年を通して働けないのが現状で海苔養殖(冬の仕事)ひとつで
生計を立てていた。もし海苔がダメになってしまったら一年間の収入が無いというリスク
を背負っている。両地区ともに海での仕事しかないにも関わらず今回の復興再建はオモテ
の漁師達の方が一年早く、ウラの漁師達が一年の遅れをとってしまった形になった。今年
になって「去年の内にやっておけばよかった」とウラの漁師達は語っている。
モテの漁師達は
写真:海苔養殖の網を共同で準備する浜の漁師(2012 年 10 月 10 日)
10
第4章.ライバル論―ナンバーワン
フィールドワークをする中でどちらの地区も「うまい海苔」という言葉を発していた。
オモテの漁師が「ウラよりも漁場が荒れでっがらうまい海苔つくれんだ」と言っているの
とは逆に、ウラの漁師は「オモテよりも漁場が静かだからやっこくってうまい海苔つくれ
んだ」とお互いを競うようにして表現している。オモテもウラもうまい海苔という点では
共通しているのだが、ここでのポイントはその中身が第三者から見れば見分けがつかない
ような自負(プライド)なのである。この微妙な差異にこそ意味がある。つまり、オモテ
とウラの関係は、互いに競争出来るライバルなのである。ライバルは自分以外の他者と比
較し、他者よりも自分達がつくったモノの方が優れていることを証明する動機である。こ
の動機はモノづくりにおいては欠かせない意識である。オモテとウラ同士が意識し合い、
七ヶ浜町にはオモテとウラが存在しているところが特質すべき点である。
このオモテとウラの存在が、漁師達が災害に遭いながらも海に戻ってくる心での部分で
の要因である。なぜなら、
「俺らオモテの漁師…(七ヶ浜に漁場がある、漁獲量の確保、良
質な海苔が作れる)」「俺らウラ…(仙台漁場を借りている、漁獲量の確保、オモテよりも
良い漁場を使用していることで良質な海苔を作れる)」というようにお互いを意識しあい、
オモテの漁師は「ウラには負けない」一方でウラの漁師は「オモテには負けない」という
お互いゆずれない気持ちが生まれている。今回の復興再生の早さは、オモテの漁達の方が
早く良い海苔をつくり、例年では一枚約 9 円だったが 2012 年は一枚約 18 円で高値取引さ
れた。ウラの漁師達はオモテの海苔が高値で取引された事を知り「俺らの方が良い海苔を
作れる」という想いがあったからこそ、馴れない協業化を受け入れ震災翌年から海苔の養
殖に力を入れているのである。オモテの漁師達は一年中海での仕事がある。一年中海で仕
事が無いウラの漁師達よりも海からの恩恵をうけ、ウラに比べ自分達の方がウラの漁師達
よりも上だろうと考えている。
他方、ウラの漁師達は海苔が終わると期間労働をして出稼ぎをし、海での仕事がダメに
なっても稼ぎがあることでリスク分散を図っていたが、現在では高齢化により働く所がな
くなり海苔養殖に稼ぐ場所がない。つまり、海苔養殖でしかウラの漁師達はオモテの漁師
達に勝負することが出来ないのが現状である。そこで自分達を奮い立たせるために「オモ
テ」
「ウラ」を使い分けることで、オモテの復興に追いつくことが促されたのである。
今年はオモテの海苔だけではなく今年から復興再生したウラの海苔も加わった。オモテと
ウラの関係のもう一つの顔が存在する。オモテの漁師、ウラの漁師と強くお互いを強く区
分している漁師達であるが、実は漁師達は自分が一番という意識をもっているため隣近所
の漁師ですら敵だと思っているということである。このオモテとウラという言葉は隣近所
同士の関係を良好に導くシステムの一つとして作動し、自分達の世界とは別の世界にライ
バルをつくることで自分達の隣近所関係を保とうとしている。
「うまい海苔が作れる」とい
う言葉をオモテとウラという二つの大きな区分に分けることで、お互いが意識しているよ
11
実は隣近所のAさんには負けない、Bさんには負けないという言葉を直接
本人にいうのではなく、オモテとウラというように大きな区分をすることで自分達のコミ
ュニティを維持しているのである。
うに見えるが、
写真:海苔の収穫をしている漁師(2013 年 1 月 8 日)
12
おわりに.
借金は地獄のようだと漁師達は吐露する。なぜなら、海苔が不調な時と言うのは
定期的に起きるため、借金を返し終わるころにまた借金をしてしまうという悪循環が生じ
ることもある。このようなリスクを背負いながらも二つの表浜と浦浜の漁師達は海を捨て
ようとはしない。高齢化も進み、機械も施設も失いながらも再び漁に出ている。2011 年漁
を再開しているオモテと 2012 年から漁を再開したウラ。去年の海苔の出来栄えは例年の数
倍で取引されている。それを見たウラの漁師達は「オモテの海苔で高値がついたのなら、
俺らの海苔の方がもっと良い海苔を作れる」という想いを強く感じる。
漁師達は「がんばる養殖復興支援事業」や補助金を復興の足がかりとし、個人で再び漁
をしたいと考えている。その復旧過程においてもなんでも良いから復興して収入が入れば
よいのではなく、モノづくりにおいて「良いモノをつくる」という想いは欠かせない信念
であった。その品質保証を含めた復興を支えた者がオモテとウラのライバル関係であった
のである。この「良いモノをつくる」というライバル意識があったからこそ、漁師達は海
に戻り漁を再開したことがいえるのではないか。
2012 年の海苔の最高価格はオモテもウラも1枚9円であった。去年はオモテの漁師達が
作った海苔が2倍の値段が付つけられていたが、2013 年は例年通りという結果になった。
結果からみれば価格が下落したようにも見えるが、オモテもウラも同じ値段ということは
オモテもウラも海苔が同じ価値になっているということも窺える。つまり、オモテとウラ
という対立構造は、実は七ヶ浜全体の海苔の品質保証に繋がっていくのである。
本章であつかった漁村は、国の支援制度が重要な復興のファクターであったもののオモ
テとウラというライバル関係が重なる事により復興再生がより活発な形でその目標となっ
ていた。お互いの働きかけは言葉にしないものも、そこにはしっかりとした内在的な境界
線があり、オモテとウラのという区分が存在する。お互いという仮想ライバルが存在する
不漁の
ことによって復興再生の足がかりになっているのである。
写真:収穫した海苔を加工する新共同施設(2013 年 1 月 8 日)
13
写真:海苔の濃度を調節し良い製品を作るための加工機械(2013 年 1 月 8 日)
写真:完成した海苔(2013 年 1 月 8 日)
14
謝辞
末筆になりますが、本論文を執筆するにあたり、多くの方々にご協力をいただきました。
調査に関しましては、宮城県漁協七ヶ浜支所の方々、また現地で漁をしている漁師さんた
ちには何度もお話を聞かせていただきました。お忙しい時期にもかかわらず快く引き受け
ていただけことをこの場を借りて御礼申し上げます。この他にも様々な方にお世話になり
ましたことを、併せてこの場で感謝申しあげます。執筆に関しては、ゼミ生・後輩のゼミ
生・本校大学院生である小山悠さん、植田今日子先生、担当教員である金菱清先生より多
くの意見やご助言をいただき心より感謝致します。本当にありがとうございました。
最後に、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被
災地のさらなる復興をされることを心よりお祈り申し上げます。
15
注
全体被害金額の内訳は養殖施設 9 億 2885 万円、陸上施設 5 億
円、作業船 1 億 7500 万円、養殖生産物 3 億 9000 万円となっている(宮城県南部地域養
殖復興プロジェクト養殖復興計画書「七ヶ浜支所 ノリ部会」)。
(2)複数の人々が生活する場において、当該の問題や関心レベルに合わせた一程度の日常
生活の共有がありまた一定程度の生活意識がある。しかし、一程度の日常生活や生活意
識の共有にも関わらず当該の問題や関心に対して、人々は同じ解釈をとらないで、異な
った解釈・意味世界をとることがある。ここから住民の分裂行為が始まる。住民の分裂
や対立を分析するための概念として、自分の(あるいは自分たちの)解釈・意味世界を
「自界」
、自分(自分たち)と異なった解釈・意味世界を持つ個人や集合体の世界を「他
界」という(鳥越,1997)。
(3)居住世界には均質な内部を設定しているが、その内部は常に外部世界の相違によって
成立している。「均質的な地域」は社会の中で異質なものを排除したり、同化を促したり
するときに顕著に見られる。ローカルな運動は常にその領域内で完結するものではなく、
同時にローカルな関係だけから成り立っているものでもない。常に大きな枠組みの中で
進展している。「場所」とは価値あるものと感じられているものの中心だという。「場所」
を個人や共同体としての「地域」との関連の中でとらえ、それを自己および集団のアイ
デンティティ形成の基盤であると考えたのである(福田, 2003)。
(1)海苔養殖の七ヶ浜町の
参考文献
Google マップ「maps.google.co.jp/」
『季刊東北学』 第 28 号 特集(地震・津波・原発)
七ヶ浜町,2008,
『七ヶ浜町誌』.
七ヶ浜町,1967,
『七ヶ浜町誌』.
七ヶ浜町長期総合計画[2011-2020]資料
鳥越晧之, 1997, 『環境社会学の理論と実践-生活環境主義の立場から』有斐閣/
宮城県ホームページ「http://www.pref.miyagi.jp/index.htm」
宮城県七ヶ浜町ホームページ「http://www.shichigahama.com/」
宮城の水産統計「http://www.pref.miyagi.jp/suishin/gyogyo/data/01toukei.htm」
宮 城 県 南 部 地 域 養 殖 復 興 プロジェクト 養 殖 復 興 計画書 ( 七 ヶ 浜 支 所 ノリ 部 会 )
「 http://www.jf-net.ne.jp/fpo/gyoumu/hojyojigyo/08hukkou/hukkou_yoshoku/fukkou_kei
kaku/fukkou_shichigahama_noribukai.pdf」
構想会議 資料[平成 23 年 6 月 11 日]
福田珠己,2003, 「異質性と均質性の間で―「地域」再考ノート」大阪府立大学総合科学
部『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)
』 51:47-56.
山口弥一郎,2011, 『津浪と村』(石井正巳・川島秀一編)三弥井書店.
東日本大震災復興
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