ストレンナ 2016 聖霊にゆだねて冒険してみよう! イ エスと一緒に、みんなで共に WITH JESUS, let us ADVENTURE in the Spirit together! 1. ご あいさつと説明 私の思いと心には、ドン・ボスコ生誕 200 周年の祝い、8 月にサレジオの聖地ヴァルドッ コとコッレ・ドン・ボスコで私たちが体験したあの忘れがたい記憶が、今も残っています。 この特別な出来事を記念するため、世界各地の多くの場所で行われた祝いの報告がこだまの ように届くとき、私は喜びでいっぱいになります。聖霊のおかげで、サレジオ家族は実に生 き生きと息づいています! 私たちの父ドン・ボスコの生誕 200 周年は、ドン・ボスコの生涯を思い起こし、その教育 的洞察への理解を深め、その霊性のいくつかの特徴を自分たちのうちに生きる機会となりま した。これは、私の前任者パスクアーレ・チャーベス神父によって示されたプログラムでし た ― たいへん実り豊かなプログラムです。歴史、創始の使命とサレジオ霊性の糸を縒り合 わせて織りなし、私たちはサレジオの召命を、情熱をもって生きることの意味を見いだしま した。どのような召命もそうであるように、私たちの召命も、神と実際の人、それが女性で あれ、男性であれ、あるいは若者であれ、神とその人の間の愛の物語を前提とします。私た ちは、サレジオの召命が根ざすカリスマの起源を大切にすることによってはじめて、サレジ オ家族として受け取った若 者 へ の 使 命 を 共 に 計 画 す る ことができ、私たちがそこから飲 み、栄養を取る霊 性 を 、 明 確 な 形 で 表 す ことができるでしょう。 愛するサレジオ家族の兄弟姉妹の皆さん、新たな年に、ストレンナを皆さんに贈るため、 解説を書き送ります。兄弟愛と親しみのこもった言葉で書き送ります。ドン・ボスコと同じ 思いで皆さんとつながりたいという、この強い新たな願いを表したいと思います。皆さんの 多くがこの解説を待っておられるでしょう。ストレンナは、私たちが共に造り上げる家族の 豊かさを表すものです。その目的は、私たちを交わりのうちに互いに結びつけ、使命の取り 組みを分かち合う助けになることです。この時代の教会の中で、新たな道をたどるよう、私 たちを勇気づける聖霊に動かされて。それゆえ私たちは言います:「聖霊にゆだねて冒険 してみよう! イエスと一緒に、みんなで共に 」 この後、続いて読んでいただくように、私は神について、私たち一人ひとりのいのち、サ いしずえ レジオ家族のいのちの 礎 であるイエス・キリストについて語りたいと思います。しかし同 時に、「聖霊の冒険」と言い表す使命について、また私たちの間の交わり、「探求の道を共 に歩む」という言葉で表す教会としての交わりについても語ります。 総長としての奉仕のこの期間を通して、私はサレジオ会とサレジオ家族をよりよく知り、 愛するようになりました。聖霊が現在、私たちの家族を導いておられる多くの道を目の当た りにするという機会に恵まれました。聖霊が私たち皆にとても惜しみなく寛大であり、ド 1 ン・ボスコ、マドレ・マザレロ、ドメニコ・サヴィオ、そのほか数多くの人のうちに見いだ された惜しみなく応える心を、私たちにも期待しておられると私は確信しています。この 人々は、私たちの大いなる信仰家族の聖性の学び舎で、神の霊に心を開いて導かれながら、 徹底した姿勢で、進んでイエスに従うことができました。 2. イ エスと一緒に! 「WITH JESUS イエスと一緒に」という言葉がストレンナの冒頭にあるということは、私 たちのすべての考察・ふりかえりの初めと中心にイエスがおられることを示します。 この解説で提案する旅の歩みは、司牧のための方策というよりはるかに大きなものです。 それは、ただイエスと共に、イエスのうちに、イエスを通して、はじめて私たちは人生で本 当に意味のある、決定的な方向づけを与えてくれる歩みをたどることができる、という宣言 なのです。 福音に語られるイエスの呼びかけに似たかたちで、かつてと同じように、今日、イエスは 一人ひとりにまなざしを注ぎ、心の奥底まで見つめられます。そしてそこから、ご自分に従 うようにという招きをその人に聴かせます。これがキリスト者の人生・生き方です:召命の 始まり、名前を呼ばれるのを聴くこと。その本質は、イ エ ス に 従 う こ と です。 率先して動かれるのはイエスです。旅の途上で私たちに合流し、やさしさにあふれて私た ちに出会おうとされるのはイエスです。イエスの注がれる特別な愛のまなざし、名指しの呼 びかけには、イエスに完全に信頼しゆだねる応答が求められます。なぜなら、イエスは、従 うようにと呼ばれるとき、詳しい計画を与えることもなく、理由を説明したり、条件を課し たりもされないからです。イエスの呼びかけは、その人を冒険に、リスクを伴う状況に巻き 込みます。それは、地図なしにその道を行くことです。イエスに従うということは、熱意や 議論、論争を巻き起こす人が通って行くのを眺める傍観者のように道端に留まるのではなく、 面倒がらずに立ち上がって、歩き出すことです。 福音が伝えるイエスの呼びかけについて私たちが知っていることは、その後の幾世紀にも わたる時代を通じて繰り返されてきました。そしてそれは、サレジオ家族の私たち一人ひと りに呼びかけられた同じ呼びかけ、イエスと出会い、イエスのものとなることを願い、その ように決断するすべての若者への、同じ呼びかけです。この決断は、あらゆる恐れを乗り越 え、従うという歩みに内在する拒絶、排除、無理解、あるいはさまざまなリスクといった困 難を重荷としない、弟子の勇気ある大胆さを意味します。 イエスに出会うこと、あるいはむしろイエスに出会われることよって、感嘆の思いが湧き、 引きつけられ、魅了されます。しかし、それだけでは十分ではありません。この従う歩みに かかわる最も重要な体験は、おそらく師との親しい友情でしょう。この友情は献身、忠実さ、 信頼として理解され、人はそのようにイエスとの友情を生きます。個人的な親しい友情がな ければ、どれほど熱心に、消耗してしまうほど活動したとしても、イエスに従うことはあり えないでしょう。この呼びかけは友情のすばらしい可能性を私たちの目の前に置き、イエス という方に心から愛着することと、生き方を根本的に変えることを私たちに求めます:イエ 2 スに従い、イエスと共に歩むこと、それはイエスとの交わりへと変えられます(ヨハネ 1・ 31‐51);イエスに従い、イエスと共に歩むこと、それは、本物の出会いとなる個人的な体 験に結びつくとき、イエスのもとに留まること(ヨハネ 15・14‐16)でもあります。 兄弟姉妹の皆さん、本質に至ろうとしてここに簡単に述べたことは、出発点であり、終着 点でもあるべきこと、若者の教育者、福音宣教者である私たちの最優先の取り組みであるべ きことです。ここから先は、私たちのイエスとの関係が再び燃え立たされる信仰の旅路をた どるようにと、皆さんを招きます。一人ひとりの個人的な取り組みとして、時には、世界各 地のサレジオ家族の何千もの拠点でほかの教育者たちと共に、そしていつも若者と共に‐い つも若者と共に、いつも若者のために‐たどるようにと。そうです、私たちが目指している のはそういうことなのです! この方に魅了されとらえられること、何らかの理想や使命で はなく、この方のうちに受肉された生ける神が、私たちをとりこにすること。すべての人に とってよりふさわしく価値のある、より幸せないのちを情熱的に求めるこの神に、少しずつ 変えられることです。 私たち自身、特に若者は、神を求め、神を必要としています。「イタリアも、ヨーロッパ や世界も、この 200 年のあいだに大きく変化しましたが、若者の魂は変わりません:今日も、 少年少女たちは、人生に、神と人との出会いに開かれています。しかし、実に多くの若者が、 失望、霊的無気力、疎外にさらされています。」教皇フランシスコは私たちサレジオ家族に このように言っています。1 そしてこの、神との出会いに開かれていること、神を必要とすることが、私たち皆、特に 若者たちにとって決定的な出来事になると私たちは確信していなければなりません。それは、 ありのままの福音のキリストが、生きるということに満ち満ちた意味を与える方として体験 されるときであり、私たちは「魅了されることから知ることへ、知ることから親密さ、愛、 従うこと、倣うこと」2 へと歩みを進めます。私たちの時代のためのキリスト教霊性を培い、 育てたいと願うなら、この神に出会いたいという望みは、私たちが受けて立たなければなら ない教育的、司牧的な挑戦です。 このことを理解し、生きはじめるなら、しばしばものの見方が変わります。なぜなら、私 たち一人ひとりは神の無償の賜物をより意識するようになるからです。神に愛されたこと、 今も愛されていること、神がご自分の息子、娘たち一人ひとりにまなざしを注いでおられる ことを、より意識するようになります。このことは、この出 会 い を真剣に求めるよう私た ちを促します。この出会いは、一般的に徐々に起こるもの、通常、人間の限界ある応答の山 や谷のある歩みのうちに、ゆっくりと育まれるもの、時間と空間を必要とするもの、自由に 歩み出されるプロセスを意味するものです。そのため、教皇フランシスコは、教皇職の初め に行われたインタビューで自らの体験と確信を分かち合いながら、次のように招いています。 1 フランシスコ,「ドン・ボスコのように、若者と共に、若者のために」. 教皇フランシスコのサレジ オ会総長への手紙, 2015 年, ローマ, バチカン市国 2 最高評議会報 406, ストレンナ 2010, パスクアーレ・チャーベス, 「若者に福音を伝えよう」, 2010 年, ローマ 3 「冒険にのり出しましょう、出会いを探し求める冒険、自分自身が探し求められ、神が出会 いに来てくださるために心を開く冒険です。」3 3. 共 に道を歩もう すべてがかかっている場としての人生の旅について、また、その中で何が最も大切なこと であるかについて考えながら、聖書の語るイエスに目を向けてみましょう。弟子たちと一緒 にガリラヤの道を行き、多くの人と出会い、説教をし、病をいやされるイエス……人々に交 じって、人々の日常生活の中で、通りを行くイエス。時には、助けを必要とする人に囲まれ ているイエス。好奇心に駆られた人、目新しいことを探す人、イエスに魅了された人、無関 心な人、イエスを危険人物と見なし、排除したいと思っている人などにも囲まれています。 ある道をたどるということは、人間的な言葉で言えば、その道を見知っていること、それ がどの道かわかり、どのような場所を通って行くか、先に何があるか、疲れをいやす木陰や 泉がどこにあるかを知っていることです。石だらけの地面を歩き、急な山道を登る体験をす ること、時にはかなり困難で、別の時には楽で穏やかなこともあります。信仰を求めつつ、 あるいは信仰にかかわるほかの理由によって歩む巡礼者のように、イエスと一緒に人生の道 をたどることは、イ エ ス の う ち に (コロサイ 2・6)、 イ エ ス と 共 に 歩 む 旅 です。イエス が私たちを魅了したからであり、私たちは一致のうちに歩みます。 最後のほうに挙げる挑戦と提案に見られるように、ストレンナのメッセージは、この旅、 この歩みを、一人ではなく私たちの間で一致して、そして若者と共にたどるということを非 常に強調するものです。 なぜ一致して、なのでしょうか。キリスト教信仰のメッセージでは、共同体的、教会的な 次元が、不可欠で本質的なものだからです。このことについて、これから述べていきます。 それは本質的に、大いなる「愛」によって、そして共同体によって支えられていると、信仰 者が感じる体験に関わることです。その共同体は、前進する共同体、未来への計画をもった 共同体です。こういったすべてのことは、生きる価値のある人生を私たちが生きているとい うこと、それがキリスト者であることの喜びだということを意味します。 4 4. 聖 霊の冒険 4.1 新 し い も の を 追 い 求 め る こ と と は 全 く 異 な る 冒 険 多くの文化では、冒険という言葉は、一義的にある生き方に通じるものを意味します。そ の生き方とは、究極の目標として、新しい経験をすることを追い求めるもので、新たな発見、 不確かさ、危険、幸運、成功あるいは失敗などがその不可欠な要素です。 3 フランシスコ, Antonio Spadaro SJ によるインタビュー, 2013 年 9 月 21 日, バチカン市国 参照 ベネディクト十六世, ケルン第 20 回世界青年大会前, 最初に受けたインタビュー. CISM(イタリ ア総長協議会)の会議にてパスクアーレ・チャーベス神父が引用, Luis Fernando GUTIERREZ: Discepoli e apostolic di Gesu Cristo, CCS 2014, 222 より. 4 4 このように理解される冒険の概念から私たちは、知られざる道を発見し、自らの限界を経 験し、同時に、リスクに挑む力を示すための、感情に訴える新たな体験を追い求める野心家 たちの姿を思い浮かべます。これらの事柄はすべて、よい「冒険家」に絶対に必要な資質だ と言えるでしょう。 別の視点から見ると、例えば、ヨーロッパのロマンティシズムは次のようにとらえている と私たちは知っています。「旅をするということは、新たな場所を探検するというよりも、 むしろ、自分の生まれた土地への執着を断ち切り、未知の世界と出会うことである。この意 味で、人が変えられて帰って来るとき、旅は人を形づくるものであると言える……あるいは 変えられて、帰って来ないときに。」5 ここで意図するのは、とても特別な冒険の歩みをたどるために、内面の生活と霊性の道を 特定することです。それは、聖霊の冒険です。 4.2 聖 霊の冒険は、 内的生活への旅 内的生活の考察により慣れ親しんでいる人はしばしば、ここ何年かこの話題について多く のことが書かれてきたと言って振り返りはじめます:時にそれは、人が生きることの意味を 取り戻そうとして追い求める内面の旅に関するもの、別の時には、常に求めながらも見いだ せないことの多い、幸福へのあこがれに関するものです。 この探求において、不注意により過ちに陥る大きな危険があります。どちらかといえば批 判的な視点から見ると、健康的な生活のリズムを身につけるために、あるいは精神や霊魂の 健康のさまざまな側面を回復するためにどうしたらよいかを勧める、社会に大きく広まった さまざまな処方について耳にします。どのように内面の均衡に達するか、幸せになるために どのように自分自身を受け入れるか、などといったものです。あたかも、いちばん気に入っ た品物を選んで買い物かごに入れる“スピリチュアルなスーパーマーケット”が提供されて いるかのようです。並べられているものの中には、密教的なもの、異国風の神秘的なもの、 え せ “ニューエイジのきらびやかな宝飾品”、あるいはあらゆる類の似非スピリチュアルなもの が見られます。6 マーケット 市 場 が提供する偽の内的生活の道、あるいはこの世からの逃避となる内的生活への招き の偶像礼拝的な本質に、危険が潜んでいることがわかります。「自己実現という単一主題に とらわれたアプローチのイデオロギー」さえも安全ではありません。「『私の中で何が起き ているの?』『私はどう感じる?』」というアプローチ、「……自らの‘エゴ’を中心に回 る宇宙、他者に奉仕し、関心を持つために心を開く可能性から自らを断ってしまうもの」7 です。 たとえ 時によって「私たちはこのように感じている」のではないかという次の“暗喩”も、私は 興味深いと思いました。「自分自身との関係のあり方でさえ、自分を知ることが豊かな体験 5 Francesc Xavier MARIN: Interiorità ed esperienza psicologica. In Autori Vari: La interiorità, un paradigma emergente, Madrid, PPC 2005, 107 6 参照 Cristina KAUFMANN: Interiorità e Mistica Cristiana, In Autori Vari, o.c. 53-‐54 7 Dolores ALEIXANDRE: Interiorità e Bibbia. Il Dio che si riceve nel nascondimento. In Autori vari, o.c. 39 5 の場になるというよりも、むしろ時折逗留するホテルにいるかのような感覚に、より通じる ものがあるように感じられる、そのような時代に生きる運命を私たちは負ってしまったとい う印象を受ける。しばしば私たちは、内的生活を育んで強めようとするよりも、その抹殺に 近いことをしているように見える。」8 ここまで述べたことは、前向きに眺めるとき、人生の虚しさを埋めようとして希望のうち に行われる探求について語りますが、時にこれらの探求は、耳に届かない、あるいは沈黙の うちにある、耐えられないほどの限界に達する広漠な不安への、一人ひとりの反応であるこ とは確かです。この状況の中で、ナルシシズムの罠、あの自分中心の生き方、自分の利益追 求に閉じこもり、自分の小さな世界に囚われる生き方に、誰も、私たち自身も若者も、陥っ てはなりません。私が説明するこの状況から見えてくるのは、内的生活の味わいに惹かれる ことと、自分たちのいのちの深みを発見する力とを失うという、あるいは失ってしまった (あるいはただ体験したことさえなかった)という現実の危険が、私たち自身、世界中のサ レジオ家族のうちに、また私たちが生活を分かち合う若者たち自身のうちにあるということ です。 ただ立ち止まり、表面的に外観ばかりを見ながら、他人の生活の観客として時間を“費や し”てしまうなら、内的生活を培うことはできません。この挑戦をより真剣に受けとめ、若 者と私たちの関わる人々と共に歩み、私たち皆が探求の道を生きるように、本質的なことを 探し求める者とならなければならないと私は信じています。なぜなら誰でも、若者も、自分 自身の中の内的な歩みを発見することも、関心を持つこともしないなら、自分自身の現状や 将来を想像したり夢見たりすることができなくなるかもしれないからです。 では、この話の流れに沿って、内的生活とは何でしょうか。 その研究に生涯をささげ、それによって神へと導かれた、あるカルメル会修道女の言葉に よると、「内的生活は、絶対者、神、愛、いのちのうちにすべてのものが見いだされるとい う、生き生きとした意識である。内的生活は、自分の意思に従って私が引きこもる場所では なく、私が“ある方”の内に在るという意識に到達することである。」9 内的生活は私たち の存在の本質の一部を成すものだということを、この姉妹は理解したのです。それは、私た ちを神へと促すあの力であり、神の“内に”在るという意識、そしてこの意識、この喜びを 体験することです。この姉妹はさらに続けて言います。「すべての人は、自分自身の内的生 活を発見し、それを解釈し、愛し生きるためにそれを意識するようになる可能性が与えられ ていると、私には思われます。」10 実際、カトリック教会のカテキズムは同様に、次のよう に述べています。「神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に 向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はた だ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします。」11 8 Francesc Xavier MARIN : Interiorità e esperienza psicologica. , In Autori Vari, o.c. p. 107 Cristina KAUFMANN: Interiorità e Mistica Cristiana, In Autori Vari, o.c. 56 10 同 57 11 カトリック教会のカテキズム 27 9 6 多くの文化、特にどちらかというと地球上の西洋的な文化において、宗教的体験が社会の 中で疎外されているという認識は、悲観的に偏った見方ではないと思います。言い換えれば、 内面的次元は、人間・自然を超える超越的存在に向けて開かれるその可能性を認められず、 単なる心霊的次元に矮小化され、損傷された状態にあります。一人ひとりが自己の内に、自 分の思い、心のうちに響くものの中に深く入り、内的体験の中に神の痕跡あるいはしるしを 見いだす努力をしなければならないのは、そのためです。なぜなら、「神はその人の思い、 良心、心、心理的・存在論的現実の中におられる」12からです。 キリスト教的観点から言えば、内的生活は、私がその中へと退く場所ではなく、むしろ、 私が「ある方」の内に在る、あるいは「ある方」と共にいると認識することです。私は自分 自身を、「ある方」から受けた「自己 ego」、「ある方」の贈りものとしてとらえます。私 たちがこの内的次元の意識に意味を与えるとき(すなわち、この「ある方」がイエス、ある いは父なる神であるとき)、この意識は霊的探求へと変えられます。したがって、内的生活 のない霊性は考えられません。 4.3 聖 霊の冒険は「霊的な旅」 霊性とはどのように定義されるものでしょうか。霊性とは本質的に、聖霊の働きに従って 生きることであると言えるでしょう。神学者ハンス=ウルス・フォン・バルタザールのより 完成された表現を借りると、「霊性とは人にふさわしい基本的、実際的、存在論的な姿勢、 存在に対する宗教的なものの見方‐あるいはより一般的に、倫理的な見方‐の結果、あるい は表現である。」13 このことが意味するのは、霊性は、何かその人に付け加えられるもの、偶然あるいは成り 行きによって付け加わったものではなく、むしろ、人間である私たちの状態の本質そのもの に直接関わるものとして、理解されるべきだということです。そのため、姿勢、行動、人間 関係など、その人のどの要素も、霊性の脇に追いやられているということはありえません。 したがって霊性は、その人のあらゆる次元を貫くものです。アイデンティティー、価値観、 その人の存在に意味、希望、信頼、尊厳を与えるもの、自分自身との関係、隣人との関係、 そして人間性を超えるもの、神の神秘との関係のうちに表される事柄に関わるものです。 そして私たちの場合、キリスト者、イエスに従う者として、一般的な意味で霊性について 語るだけでなく、キリスト者の霊性について語ります。なぜならいのちの、そしていのちを 生きるための霊性の源泉、理由、目標、意味は、私たちにとって、キリストのうちにあるか らです。私たちは、神が自分のうちに住まわれることを発見します、自分の心の中に神の場 があると信じます、そして、それほどの親密な関係を持つ特権を与えられたことを発見する のです。これは何と美しいことでしょうか、同時に自分たちが‘神の物乞い(神に完全に依 存する貧しい人)’であると知りながらも。 したがってキリスト教霊性は、何よりもまず、聖霊の賜物です。聖霊は、一人ひとりの霊 的旅路の内なる師です。聖霊は私たちの中に神への渇きを目覚めさせ(ヨハネ 4・7)、同 時に私たちの渇きをいやされます。この聖霊における生活は、聖パウロにとって「キリスト 12 J.E. VECCHI, Spiritualità Salesiana, Elledici, Torino 2001, 10 H.U. VON BALTHASAR, Il Vangelo come criterio e norma di ogni spiritualità nella Chiesa, “Concilium”9 (1965) 7-‐8 13 7 とともに神のうちに隠されている命」(コロサイ 3・3)、「日に日に新しくされる『内な る人間』」(2コリント 4・16)の生活、「新しい命」(ローマ 6・4)です。キリスト者 を、神をお迎えできる神の住まいとするのは、聖霊です。人を神の子として生み出し、霊的 生活を始められるようにされるのは、聖霊です。 あらゆる時代の霊 的 生 活 の 師 た ち は、神との対話が行われるこの内面の場に絶えず言及 します。聖イグナチオ・ロヨラは、「自分の内に神の事柄を感じ味わう」ことについて語り、 アビラの聖テレジアは 内的生活を、たくさんの部屋のある内的な城にたとえています。その最も重要な中心の部屋 に、神ご自身が住まわれる城です。十字架の聖ヨハネは、神との親密さを体験するこの内的 な場について語るとき、「内なる、ひそかな仕事場」というたとえを用います。福音書で、 ナザレのイエスは、祈りについて語られるとき、神の住まわれる秘密の隠れた場所について 言われます。「あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあな たの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。」 (マタイ 6・6) 4.4 そ の冒険は、聖霊に開かれた生き方 これらのすべてのことの実りは、聖霊に開かれた生活、聖霊が住まわれるいのちを生きる ことの、心奪うような魅惑を探索し、思いめぐらし、詳しく調べた結果の実りであるはずで す。神は私たちに会いに来られ、ご自分と一緒に歩むように、聖霊によってご自分のいのち にあずかるようにと私たちを招かれます。実際、ベッキ神父がサレジオの霊性について語っ た際、提起するように、私たちは信じています。「私たちを神へと方向づけるこの世のあら ゆるもの、神の現存や介入を暗黙のうちに、あるいは明白に思い起こさせるあらゆるもの、 神を探し求めるように私たちを促すあらゆるもの、その隠れた原動力は、聖霊です。」 14 しかしながら、神を知り、神を探し求めることは、私たち自身がそれを望むということ以 上のものです。それは何よりも私たちに差し出された賜物であり、絶対なる方を探求する者 であるという私たちの状況に調和します。私たちの歩みが多くの場合、小さく不確かである にもかかわらず。 この観点から、私たちはイエスにまなざしを注ぎつづけます。イエスの傍らで本当の道を たどるためです。その道は、冒険、新しさ、聖霊のさわやかな息吹です。その道が少数精鋭 のために取っておかれるものではなく、すべての人、神に心を開くすべての男性、女性、す べての若者のためであることを私たちは知っています。それが私の人生に決定的な影響を与 えるものであることを知っています。その道がイエスとのより深い、親密な出会いへと常に 導くことを、私たちは知っています。その出会いが人の力を最大限に伸ばすこと、決して手 に届くことのない神秘‐神‐を伝える人を通して主に表現されることを心に留めながら。そ の神秘は私たちに語り、私たちはその神秘によって、さまざまな方法で人々に伝えます。そ れは、日常生活のふだんの活動の中で信仰を生きながら、自分の殻から出て行き、人々と出 会うよう常に私たちを促すのです。このすべてが、キリスト者の霊性の表現になります。 14 J.E. VECCHI, Spiritualità Salesiana, o.c. 11 8 5.聖霊に導かれて 5.1 イ エス、聖霊の‘出来事’ 聖霊のわざは、父の計画に従い、キリストという方のうちに頂点に達します。キリストの 存在全体は受胎の瞬間から、ナザレの若い女性マリアにこのように告げられた時から、聖霊 の出来事です15。「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。」(ルカ 1・35) すでに、ガリラヤで使命を開始される前に、「イエスは聖霊を受け、神はご自分がイエス を愛する父であると宣言される(マタイ 3・17)。イエスは使徒として行動する前に、子と 定められる。」16 洗礼を受けた後、イエスが静かに祈っておられると、「天が開かれ、聖霊が……イエスの 上に降り」(ルカ 3・21b – 22a)、父は聖霊により、イエスをメシアとして選び出され、ご 自分の愛する子として示されます。聖霊に満たされ、イエスは「霊によって荒れ野に導かれ ……」(ルカ 4・1‐13)ました。聖霊によって荒れ野に入ったイエスは、誘惑に打ち克ち、 父の子であることを特別なかたちで表されます。やはり聖霊に導かれてイエスはガリラヤに 戻り、ナザレに入り、イザヤの預言がご自分について言うものであることを公にされます。 「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ 4・18)17 まとめると、これら新約聖書からの引用を見てみるだけで、イエスの生涯がいかに神の霊 の現存と働きのしるしを受けたものであったか、またいつも、何事においても父のみ旨を求 めながら、父の子としての生き方を学ぶ歩みであったかが、非常にはっきりとわかります。 5.2 マ リア、聖霊に導かれ「はい」と応えた方 ナザレのマリアは何よりも、神に愛された信仰者、(福音書が語るところによれば)神ご 自身が天使を通して言葉を交わされた、若い女性でした。このことは、聖霊の現存と働きが 相手を尊重する出会いのうちにあり、申し出と応答があるということを意味し、また理解さ せてくれます。聖霊がそこに現存されること自体が、実際、マリアの「はい」にかかってき ます。先に引用したように、ルカ福音書 1 章 35 節で、天使は神のご計画をマリアに語り、 マリアは答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」 (ルカ 1・38)。 マリアは、聖霊に導かれてたどらなければならない道を、この「はい」からは決して想像 できなかったでしょう。マリアはただ、完全に神に信頼したのです。マリアは、御子の使命 の始めにカナにおられ、御子がご自分のいのちをささげられた時、カルワリオの十字架の下 におられました。復活の後、弟子たちと共に祈っておられ、五旬祭に聖霊が注がれたとき、 15 同 15 J.J. BARTOLOMÉ, Imparare a essere Figlio di Dio obbedendogli. In J.J. BARTOLOMÉ-‐Rafael (de): Testimoni della radicalità evangelica. Madrid, CCS 2013, 24 17 Cf Marco ROSSETTI, La radicalità di Gesù di Nazaret come consegna della propria vita agli altri. In J.J. BARTOLOMÉ-‐Rafael (de), o.c. 40-‐44 – Cf. J.J. BARTOLOMÉ, Imparare a essere Figlio di Dio obbedendogli, o.c. 24-‐29 – Cf J.E.VECCHI, Spiritualità Salesiana, o.c. 13-‐17 16 9 そこにおられました。神への「はい」と神の霊への開かれた心が、マリアの生涯全体に見ら れます。「この方、母のうちに、信仰は賜物として、開かれた姿勢、応答、忠実として輝い ています。」18 5.3 神 の霊に「触れられた」ペトロとパウロ ガリラヤ出身のせっかちな気性の漁師、ペトロに目を向けると、主に従うさまざまな段階 で約束や不忠実、成功と失敗がありましたが、大切な教訓を学ぶことができます:高潔さと 師への愛にあふれる、この疑う余地のないリーダーを促し、神の計画に従わせ、ただ単に人 間的な願望によってそれをゆがめることのないようにさせるのは、聖霊だということです。 ペトロは神を信じ、信仰を守るユダヤ人でした。民に働きかける神が共におられることに 信頼をおき、力ずくででも自分の意見を通そうとする傾向がありましたが、主がどのような 方であるか、そのことが目の前で明らかにされると降参します。立ち現れつつあった教会が 前進する中、使徒の第一人者であり、自分の罪に泣きましたが、ゆるされたことを疑いませ んでした。真の回心の時まで抵抗がなかったわけではありませんが、この信頼がペトロの偉 大さでした。実際、聖霊に働いていただくとき、そのようになります。そしてこのことは、 イエスより先に行き、自分の思う道をイエスに指し示すのではなく、いつもイエスに従うた めに、私たちもペトロのように新たに回心しなければならないということを確認させてくれ ます(参照 マタイ 16・22‐23)。19 タルソスのパウロは律法を遵守する人で、ある人物、十字架上で死んだイエスという人の 受け入れがたいメッセージに憤慨し、キリスト者を迫害することが自分の義務であると感じ ていましたが、後にイエス・キリストに捉えられました。理想や啓蒙以上のものとして自ら 語るこの体験を、何よりも、まさに復活された方との出会いの中で受けた啓示、そして召命 としてパウロは説明します。このとき、パウロは本当に新たに生まれました。このとき聖霊 を受け、霊的、身体的な盲目をいやされました。パウロが断固としてイエスに反対していた とき、イエスは断固としてパウロの味方だったと言えるでしょう。この体験がパウロの人生 を根本的に変え、持っているエネルギーのすべてをイエス・キリストとその福音のためにさ さげさせます。絶対的価値のある動機に出会い、それを前にしたとき、少しの限界も設ける ことができなかったのです。その絶対的価値とは、イエス・キリストです。20 5.4 若 者のために主に「はい」と応えるため、聖霊に開かれていたドン・ボス コ ドン・ボスコの霊的生活は、そ の 豊 か で 充 実 し た 内 的 生 活 の 深 み へ と 向 か う 、 長 く 、 忍 耐 の い る 巡 礼 で し た 。この内的生活の成長は、ドン・ボスコの使徒的活動のあらゆるこ いっぺん とと同様に、神が自分のために用意されている目標は一遍に到達できるものではないと認識 しながら、一歩ずつたどる旅でした。共に歩んでくれる人が必要でした。時間と、見習い期 間が必要でした。 18 プエブラのラテンアメリカ司教会議文書, 296 参照 ベネディクト十六世, 一般謁見. バチカン, 2006 年 5 月 17 日 20 参照 ベネディクト十六世, 一般謁見, バチカン, 2006 年 10 月 25 日 19 10 ドン・ボスコは子どもの頃から、絶えず夢見る人でした。少年たちのために違う世界、よ り良い世界を思い描きました。しかし何よりも、神が自分に何を期待しておられるかを知り たいと願っていました。ドン・ボスコへの聖霊の働きは、司祭になる召し出しのうちに具体 的な形となり、若者の使徒の心を少しずつ彼の中に形作ったのです。ドン・ボスコは神の計 画を理解し、心を開いて神に驚かされるために、内面の旅を歩んだのでした。ドン・ボスコ の手は 19 世紀のピエモンテ社会の困難な状況の傷跡を負い、心は若者の救いのための炎に 燃えていました。足は、最も貧しい人々に献身する道をたどりました。しかし、このすべて のことは、ただ偶然に起きたのではありません。ドン・ボスコは自らの最高の希求、自分を 生き生きと動かす力、心深く抱く理想を、満ち満ちて生きるために、自分の霊的生活に配慮 し、それを育んだのです。 さらにドン・ボスコは、この「聖霊の冒険」が、少 数 の 卓 越 し た 少 年 た ち の た め の 体 験 で は な く 、責任を免れる楽な道でもないと理解していました。オラトリオに入るすべて の少年は、それぞれの立場や状況にかかわりなく、完全なキリスト者としての生活を生きる ように招かれ、聖霊による生活を喜びにあふれて生きるよう、呼びかけられました。 ドン・ボスコの最も見事な洞察、功績の一つは、日々の司牧活動に霊的生活の味わいとい う考えを導入したことでした。ドン・ボスコはあの少年たちの生活に、あふれ込む流れのよ うに、光、色彩、キリスト者の生活の喜びあふれるさまざまな側面をもたらしたのです。オ ラトリオで、少年たちは手に職をつけ、責任感を身につけただけでなく、それと共に、生き ることの霊的次元が美しく示され、“引き出された”のです。 6. 挑 戦と提案 ここまで、イエスと一緒に旅に出かけるために根本的と思われる事柄に、できるかぎり考 察を傾けるようにしてきました。その旅が、本物の聖霊における旅となるためです。私たち 自身が人生への情熱を持ち、若者と私たちの人生を豊かに意味で満たすことのできる、まこ との「聖霊の冒険」を若者たちと共に歩むよう、導いてくれる旅です。 私たちはサレジオ家族として、“私たちの暮らすさまざまな世界”の若者と共に旅をする 中で、彼らと出会う場所で、ドン・ボスコが私たちに教えたように多くの善良さの種を内に 秘めながらも、傷を負い、途方に暮れ、神だけが持っておられるやさしさにあふれたまなざ しで見つめてくれるそ の 方 を 求 め て 飢 え 渇 く 少年少女たちを、悲しいことに少なからざる 機会に見てきました。それは、抱えている恐れや不安を取り除いてくれる方、最良の力や頂 いている賜物を解き放たせてくれる方、置かれている状況のために隠れてしまっているけれ ども、若者たちの人生を豊かで意味あるものにできる、貴重な真珠を明らかにしてくれる方 です。 ここまで振り返ってきたところで、大きな挑戦として投げかけられているのは、ある道を たどるために集まろうと若者を招くことができるように、その方法、手段、具体的な提案を 見いだすことです。まことにいのちの息吹、神のさわやかな空気、若者の人生に共に おられる聖霊の息吹である道を、たどるため です。 11 私 た ち の 旅 路 の た め の 道路標識 となるさまざまな考えを通して私たちを助けてくれる かもしれない、い く つ か の 行 程 を 提 案 したいと思います。 A 自 分の内を見つめる 自分の内を見つめることを学びましょう:内的生活を発見し、より豊かにするために、実 践練習し、自分を教育しましょう。人生の始まりのとき、幼い子どものときから、思春期の ときから始めましょう。私たちのもとにいる若者たちが、さまざまに気をそらさせる文化を 前にしても、内的生活を成長させるようにと挑戦を投げかける人が必ずいてくれると感じま すように:現実逃避の風潮を前にして、生きることの意味を真剣に考える人がそこにいると 感じますように。 自 分 の 内 な る 世 界 に 入 る 能力、力を身につけるよう、若者を助けましょう:耳を傾ける こと、沈黙を味わうことを教えましょう;観想、驚き、感嘆の力を培いましょう;自分を忘 れる無私の体験を味わいましょう……これらの能力を身につけることを提案し、実践的に練 習するべきです。 心の深みにおられる神 の 現 存 を探 求 す る よう、若者を助けましょう。神は愛、いのちで あり、常に新しい方です。共に探求しながら、私たちの内なる自分自身よりも私たちに近い 方、私たちの存在の頂点よりも高い高みにおられる方を発見し、認める体験をしましょう。 21 自分の限界、これまでの人生、罪を謙遜に受けとめることによって、神のうちに生きる生 活において成長することを学びましょう。 B 神 を探し求める 神 を 探 求 す る 者 に な る こ と 、 人 生 を 神 の 祝 福 と し て と ら え る こ と 、共におられる神 の現存と私たちの中に残された神の足跡に感嘆すること、そして私たちを探し求める方、こ こにおられる方、私たちの中に生きておられる方として神を認識することを、若者と共に学 びましょう。 私たちがしたり、しなかったりすることが、私たちの中に住まわれる神‐愛の、み旨に従 うものであるかどうか、祈りのうちに自問する勇気と力量を持ちましょう。そしてこの同じ 作業を若者に提案しましょう。 神を慕い求める生き方の教育を促進しましょう。それは、生きることの宗教的意味の探求 と、「生ける水の井戸、すなわちイエス」22 のもとで飲むことへと導く教育です。 C. イ エスと出会う 21 参照 聖アウグスチヌス『告白』第 3 巻, n.11 Renata BOZZATO, FMA: Educare i giovani a “vivere nello Spirito”. In Atti della XX Giornata di Spiritualità della Famiglia Salesiana: Riscopriamo con i giovani la presenza dello Spirito nella Chiesa e nel mondo. Rome 1998, 110 22 12 イ エ ス と の 親 し い 出 会 い へと導く体験を若者に提案するのに、大胆でありましょう。私 たちを魅了し、私たちの人生の真価を問わせる出会いです。「キリストを知れば知るほど、 私たちはキリストに従い、聖霊は私たちの中に入られ、私たちの目はキリストを見ることが できるようになる」23 と私たちは知っています。 イ エ ス と の ま こ と の 友 情 を 育 て る ための方法を若者に提案しましょう。イエスとのま ことの友情は、まちがいなく若者たちのものの見方、考え方、価値観を形づくるでしょう。 D. イ エスのものとなる イエスに従う私たちの喜びを若者にあかしし、キリスト者であることがどれほどすばらし いことか、若者に語りましょう:「キリスト者であることがどれほどすばらしいか、若者の 皆さんに理解してもらうようにしたいのです! そして信じることも、美しく、正しいとい うことを!」24 聖霊にゆだね導いていただきましょう。神 の も の と な る 決 定 的 な 選 択 を 行 う よう、聖 霊は私たちの心、若者たちの心を動かします。祈り、神のことば、ゆるしの秘跡、聖体を通 して神との絆を養い、心にかけて育みましょう。 E. 基 本的な価値を自分のものとする 幼い、若い頃から「人生のあらゆる側面、家 庭 、 友 情 、 苦 し む 人 と の 連 帯 、 他 者 に 仕 え る た め に 自 分 を さ さ げ る こ と 、 知 識 や 芸 術 、 自 然 の 美 し さ へ の 愛 を」尊び、「味わ う」25よう、自分たちを教育しましょう。 人間性のすべてを引き受け、被造物の仲間となられた神を信じる大きな喜びを告げ知らせ ましょう。すべての人がこの世における神の現存に気づき、神の現存を観想し、益を得る妨 げとなるあらゆる事柄を告発するために、大胆でありましょう。 若者がキリストのうちに生きる生き方を発見し、その生き方を成長させるすばらしい機会 として、キ リ ス ト 者 共 同 体 、 教 会 共 同 体 の 中 で 生 き る 信 仰 体 験 を、若者と共に歩みまし ょう。 人 生 を 贈 り も の 、 奉 仕 と し て 受 け 入 れ る と い う 挑 戦 を、若者に示しましょう。私たち を利己主義から解放し、生きることに意味を与えてくれる奉仕です。神の霊は、自分をささ げるよう、いつも私たちを促し前進させます。それが「神の論理」だからです。 F. 生 き方の計画を育むこと 23 J.E. VECCHI, ”Nella Speranza siamo stati salvati” (Rm 8,24): riscopriamo con i giovani la presenza dello Spirito nella Chiesa e nel mondo per vivere e operare con fiducia nella prospettiva del regno. In Atti della XX Giornata… o.c. 151 24 ベネディクト十六世, 第 20 回世界青年の日ケルン大会前,バチカン・ラジオへの最初のインタビュー。 パスクアーレ・チャーベス, CISM(イタリア修道会総長協議会)の会議で引用, in Luis Fernando GUTIÉRREZ: Discepoli e apostoli di Gesù Cristo, CCS Madrid, CCS 2014, 222 25 ベネディクト十六世, 同, 3 13 若者が旅を歩みながら生き方の計画を育むことができるように、若者と共に、信仰と深い 確信をもって取り組みましょう。どのような奉仕や仕事においても、人生を贈りものとして 生きながら、若者たちは、最初の意味深い体験から、たとえ初めは限定的なものであったと しても、神の呼びかけに応えて人生を全面的にささげることへと進むことができるでしょう。 聖霊の道に歩み出す人は、誕生日のプレゼントのようにさまざまな資質を受け取るだけでな く、「それに従って成長を続ける遺伝子コードを持っているかのように」 26 なります。 結び 世界各地の実に多様な地理的、司牧的状況の中、サレジオ家族の皆のための助けになるこ とを期待して、私はこれらの挑 戦 と 提 案 を進路として示しました。すべてではないにして も、経験されている司牧状況やその場所の福音宣教、要理教育、司牧を取り巻く状況に関し て、適切あるいは時宜にかなうものがこの中にあるかもしれません。 まさに神の体験のうちに私たちが歩み始めたこのいつくしみの聖年をたどろうとする努力 に光を投げかけうる、三つの簡単な提案をもって締めくくりたいと思います。神は、いつく しみを発揮するために、私たち‐私たち自身と若者‐と、神を探し求める心と、出会わなけ ればならない、そのような神です。 最初の提案はこれです:「イエスに会いたい」という若者の願いがすでに私 た ち に と っ て キ リ ス ト の 弟 子 に な る 根 本 的 理 由 であるという前総長の考えと思いに、私は全面的に 賛同します。前総長はこのように自問します:誰が若者たちの夢や必要とすることをイエス に伝えるだろうか? 誰が若者たちを導き、イエスに会えるようにするだろうか?と。私た ちの存在は、若者の同伴者となり彼らの傍らを歩むことに根ざしており、そのことによって 私たちは、本当の若者の仲間、使徒へと変えられます。27 第二の提案はこれです:私たちが提案する歩みにおいて、「これ以上にできる良いことは ありません:それは若 者 を 聖 性 へ 導 く ことです」28。信仰における成熟、高い目標に向か う旅路を若者たちと共に歩み、私たち自身、この旅を真っ先に信じるものとなることです。 私たち自身が人生の目標としてとらえるこの旅では、私たち一人ひとりのあかしが決定的な 要素となります。ドン・ボスコはすべてをかけて、若者のための夢(神のドン・ボスコのた めの計画)を実現するために、このことを行ったのです。 最後に、歩みはゆっくりと進むものであり、神の忍耐と教育法そのものが示してくれるよ うに、漸進的でなければならないことを忘れないようにしましょう。この点についてヨハ ネ・パウロ二世は、『若者の父ドン・ボスコ Juvenum Patris』のこの言葉をもって、私たち に思い起こさせました。「人類を教育するにあたって神ご自身が示される限りない忍耐から 力を得ましょう。神はその教育において、教師と牧者であられるキリストの派遣を通して、 また、世界を変革させるために遣わされた聖霊の臨在によって、ご自分が父であられること 26 J.E. VECCHI, “Nella speranza siamo stati salvati…”o.c. 159 参照 最高評議会報 406 (2010), 16 28 フアン・ベッキ, “Nella speranza siamo stati salvati…”o.c. 174 27 14 を絶えず示しておられます。隠れた形で力強く働かれる聖霊は、人類がキリストを手本とし て成熟していくよう助けてくださいます。聖霊こそ、新しい人間、新しい世界の誕生を促進 される方なのです(ローマ 8・4‐5 参照)。皆さんが教育に際して忍ぶ労苦は、神への協力 となり、確実に実りをもたらします。」29 私たちの母、扶け、神の霊を心と人生にお迎えし「はい」と応えた方、マリアが、今日、 私たちがサレジオ家族として教会の中でいただいている若者のためのすばらしい務めにおい て、私たちを助けてくださいますように。そして、教皇フランシスコがドン・ボスコ生誕 200 周年という歴史的な年にくださった書簡の終わりに私たちに願われた一つの願いが、実 現しますように。 「若 者 の 深 い 希 求 を 落 胆 さ せ る こ と が な い よ う に 、ドン・ボスコが皆さんを助けてく ださいますように:その希求とは、生きること、心を開くこと、喜び、自由、そして未来; より正義にかなう、兄弟愛のある世界を築くため、すべての民族の発展向上を育むために、 自然と生活環境を守るために、共に働きたいという若者たちの願いです。皆さんはドン・ボ スコの模範に倣い、恵みのうちに生きること、すなわちキリストとの友情のうちにあって、 はじめて人は最も真正な理想に到達するということを体験できるよう、若者を助けるでしょ う。皆さんは、若者たちが大事な決断をするとき、あるいは複雑な現実を解釈しようとする とき、信仰、文化、生活の統合を探求する彼らの歩みに同伴する喜びを得るでしょう。」30 主が皆さんを祝福してくださいますように。 心から親しみを込めて。 2015 年 12 月 31 日 ローマにて 総長 アンヘル・フェルナンデス・アルティメ神父 SDB 29 ヨハネ・パウロ二世, 『若者の父ドン・ボスコ Juvenum Patris -‐ 教育の福音』, 20 (注:斜体は筆者に よる) 30 フランシスコ, 「ドン・ボスコのように、若者と共に、若者のために」, o.c. 9 15
© Copyright 2024 Paperzz