4 タイピストとして母として −橋本富喜子のライフヒストリー− 聞き書き:資料収集調査員 佐藤 倫子 在りし日の富喜子(平成16年1月撮影) 橋本富喜子(はしもと ふきこ)の略歴 大正5(1916)年3月 みなみ かつ しか むこう じま てら しま むら 東京府下 南 葛飾郡 向 島寺島村に8人姉弟妹の長女として生まれ る 昭和8年(1933 年) 佐藤高等女学校を3年で退学。日本タイピスト女学校を1年で修 了し、陸軍省兵器本廠[注]にタイピストとして就職 とうあん 昭和 13(1938)年 満洲国東安省公署のタイピストとして渡満 昭和 20(1945)年8月 タイピスト仲間の女性3人で逃避行 昭和 21(1946)年1月 李芝田と結婚。以降 10 年の間に3男2女を出産 昭和 32(1957)年5月 一時帰国[用語集→] 昭和 33(1958)年頃 夫が病に倒れる 昭和 43(1968)年2月 夫死亡 昭和 59(1984)年4月 永住帰国[用語集→] 平成 17(2005)年4月 永眠 り し でん [注]明治 30 年9月に設立された陸軍兵器廠は、4つの本廠(東京、大阪、門司、台北)と各管区内 の師団司令部、要塞司令部に置かれた支廠から成り、兵器弾薬、器具、材料の購買、貯蔵、保存、 修理及び支給交換を行い、要塞の備砲の工事を掌った。明治36年4月の改正条例により、4つの 本廠を廃して東京の兵器本廠に統合、支廠は各師団司令部所在地と台北及び門司(後に、龍山、旅 順、平壌などを追加)に置かれた 88 はじめに 就職先が満洲だった。橋本富喜子は女子美術専門学校(現在の女子美術大学)付属の佐 藤高等女学校を3年で退学し、タイピングを学んだ後、17 歳からタイピストとして働いた。 に に ろく 22 歳までは陸軍省のタイピストとして三宅坂の兵器本廠に勤務し、二・二六事件[昭和 11(1936)年2月 26∼29 日に、 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが 1483 名の兵を率い、 ご いち ご 「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件]や五・一五事件[昭 和7(1932)年5月 15 日に、急進派の海軍青年将校らが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動 いぬかいつよし の旗頭ともいえる犬養 毅 首相を暗殺した事件]を身近に体験している。22 歳で満洲国東 安省公署にタイピストとして就職し、渡満した。その7年後、終戦を迎え、タイピストの 同僚たちと避難した。途中、開拓団[用語集→満蒙開拓団]からの避難民と行動を共にした。30 歳で結 バ イ ノォン ケ ヌ ダ シュエ 婚。以降、38 年間を中国で暮らした。国交回復[用語集→日中国交回復]後は八一 農 墾大 学 にて日本語 会話の講師を務めた。 1.生い立ち 東京生まれ東京育ち:幸田露伴の隣人 大正5(1916)年3月、橋本富喜子は東京府下南葛飾郡向島寺島村に、父長次郎、母ふく の長女として生まれた。弟4人、妹3人の8人姉弟妹であった。 父は長野県上田の出身で、徴兵されて北海道の旭川にいたこともある。入り婿として橋 本家の家督を継いでいた。父の旧姓は横山という。母は千葉県の運河の出身であった。 4人の弟のうち、1人は近衛兵、1人は早稲田大学を卒業後、航空学校に入り、整備兵 となった。4人全員が兵役を勤め上げたが、1人は戦死、1人は捕虜となって生きて帰っ た。近衛兵は3代罪人を出していない、よい家柄の子息でないと勤められなかったそうだ。 近衛っていう兵士があったんですよ。近衛は、家柄のいい、3代前から罪人の出ていない家の息 子。そういう人じゃないととられないのよ。天皇陛下のお守りだから、近衛兵はね。だからね、 うちの弟は近衛にとられたんですよね.4人いた弟が、1人は戦死して、1人は捕虜になって帰 ってきて、もう1人の弟は、早稲田を出てから、航空兵になったけど,航空学校を卒業するとき 89 に、終戦になっちゃったの。だからちょうどよく、決死隊にも入らずに、命助かって今 80 になり ますけど、生きてます。 こ う だ ろ はん あや 生家の向かい側には、作家、幸田露伴の家があり、娘の幸田文とは懇意の間柄だった。 あお き たま 文の写真や、文の娘、青木玉が富喜子に宛てた手紙なども残されている。 うまいでしょ。字が。文さんの娘よ。「幸田のところのたまでございます」って。書いてあるで しょ。うちへ来たんですよ。あたしの留守にね。うちの玄関のところに手紙と、持ってきたもの 置いて、帰っちゃったのよね。あとでお目にかかりましたよ。 女学校を3年で退学 タイピングを学ぶ 数えの7歳で第一寺島尋常高等小学校[旧制小学校で、尋常小学校[用語集→]と高等小学校の 課程を併設した学校]に入学し、6年で卒業して東京本郷菊坂の佐藤高等女学校に入学し た。佐藤高等女学校は、東京女子美術専門学校付属の高等女学校だった。 今の女子美ね。そのころは、東京女子美術専門学校。家政科があって、絵画科があって、 彫刻科があって。3階にね、モデルが来るの。裸のモデルが。そういうのね、みんな見たくてし ょうがない。(笑)「ちょっと、今日ハダカが来てるよ。」(笑)おもしろかった。まだ13歳 ぐらいだったでしょ。見たことないじゃないですか。自分の父親だって、裸の恰好なんか子ども に見せない時だからねぇ。今はへっちゃらだけどね。 すすむ 佐藤高等女学校ってのは、順天堂病院の第2代院長が佐藤 進 さんていう男爵で、その方の奥様が、 し づ 志津さん。奥様がたてた学校だから、佐藤高等女学校っていうの。女子美の付属高女なのよね。 女子美の中にあった。だから、女子美の教室を通り抜けないと、下の雨天体操場までいかれなか ったから、毎日毎日、絵を描いてるところ見て、「おねえさん、その絵ちょうだいよ」って。も らったりなんかしてた。シスター、エス(S)っていうのが流行ってたの、そのころ。「おねえさ ん、おねえさん、あたしを妹にして」(笑)「絵かいたらちょうだい」。 家庭の事情で3年で退学し、東京京橋の日本タイピスト女学校に入学した。早く就職し 90 て、家計を助けようと思ったのだそうだ。そこで4ヶ月から半年の間、タイピングを学び、 引き続き速記も学んだ。 うちは暮らしがたいへんみたいだったから、タイピストになれば就職できるでしょ。だから、東 京京橋にあった、日本タイピスト女学校に入学しちゃったの。タイプは6ヶ月くらい勉強して、 それから速記科も修了したの。1年間で。 陸軍兵器本廠に就職 17 歳の時、母方の叔母の友人の世話で、陸軍兵器本廠のタイピストとして就職し、日中 はタイピストとして働いた。夜は和裁を習ったりもした。日給は1円 40 銭だった。男性の 事務職で当時の日給は1円 50 銭、大卒男性でも月給が 60 円程度だったとのこと。相当の 高級待遇であったといえる。叔母(母の妹)の夫が憲兵隊長で、その友人が陸軍省に勤め ていた縁での就職だった。 わたしの母の妹が、職業軍人のとこへ嫁いでた。憲兵さんだったの。憲兵隊長だったのね。叔母 の夫のお友達が、陸軍省に勤めてたの。「俺が、あんたんとこの姪っ子さん、世話してやるよ。」 って。わたし、富喜子っていうから、ふーさんって呼ばれてて、「ふーさん、頭よさそうだし、 背も高いし」って。わたしは体格がよかった。はきはきしてたから、だから、すぐ雇ってくれた。 背が高かったの。わたし、1メートル 62 あったの。今 52 しかないの。10cm 縮んじゃったの。 なが た てつざん ま さき 富喜子が陸軍省に勤めている最中に、永田鉄山暗殺事件[皇道派の中心人物であった眞崎 じんざぶろう あいざわさぶろう 甚三郎教育総監の罷免に相沢三郎陸軍中佐が憤激し、統制派の中心人物であった陸軍省軍 務局長永山鉄山少将を昭和 10(1935)年7月、陸軍省軍務局長室で斬殺した事件。「相沢事 件」ともいう]、二・二六事件が起こった。永田鉄山陸軍軍務局長が陸軍省の中で相沢中 み やけざか ち よ だ はんぞう 佐に殺害され、戒厳令が布かれる中、富喜子は毎日三宅坂[東京都千代田区にある坂。半蔵 もんがい こうきょうちぼり 門外から警視庁付近まで、皇居内濠に沿って続く緩やかな坂道]の兵器本廠に勤めに出て いた。五・一五事件も、富喜子が三宅坂で勤務中のできごとだった。 91 2月のね、26 日よ。2月の 26 日に雪が降ってたの。足駄はいて、雪を払いながらね。雪がつまっ て転びそうになるから、足駄なんか脱いじゃって、裸足で陸軍省のほうに歩いて行ったら、剣付き 鉄砲持った軍人さんが、「どこいく!」「どこいく!」って言うのよ。わたしはね、三宅坂の兵器 さくら だ もん 本廠に勤めてますから、行かせてくださいって言ったけど、 桜 田門のあたりはもう通してもらえ ひ び や こうえん なかった。だから、日比谷公園の中を通ってね、お役所の裏から入っていったのよ。そうやって、 やっと入った。そしたら、1晩缶詰にされて。それから家へ帰った。すごかったわよ。その時にほ おか だ けいすけ さいとう ら、岡田(啓介)総理大臣(第 31 代首相)が、お風呂場の中に隠れて、助かったり。それから、斉藤 まこと さいとうまこと ないだいじん 誠 [正しくは、「齋藤 實 」。当時の内大臣(第 30 代首相)]さんかなんか、殺されたでしょ。そ ういう時のことよ。 二・二六事件の起こりは、陸軍省の軍務局長をしてた、永田鉄山ていう人が、軍人さんに殺された のよ。陸軍省の中で。相沢中佐かな。そういうような時がちょうど、あたしが陸軍省で、働いてる 時だったのね。 2.渡満から終戦まで タイピストとして満洲に 22 歳の時、母方の叔母の夫の薦めで渡満した。この叔父は、初代満洲国長官、駒井徳蔵 の随行員として日本に来たこともあり、その折りには当時 16、7 歳だった富喜子に、帝国 ホテルで豪華なディナーをごちそうしてくれたそうだ。 おじさんはね、わたしにおいしいものを食べさしてやろうと思ったけど、しきたりや礼儀なんて、 わたしわからないじゃないですか。そんなすごいもん食べたことないから。こんな大きな鶏の、ま るごと揚げたんだか焼いたんだか知らないけど、日給1円 40 銭しか取れない時に、5円もするの をうわっと持ってきた。それからぷるんぷるんのデザートだの、スープだの、いろんなもの持って きたけど、どうやって食べたらいいかわかんないじゃないの。パンだってね。少し食べたけど、鶏 はもう、手がつけられなかった。怖くて。 この叔父のすすめで満洲国東安省公署のタイピストとして就職することになり、満洲に 92 こくりゅうこう 渡った。東安省は、現在の黒 竜 江省に当たる。 22 歳の時に、渡満したのよ。日支事変[昭和 12(1937)年∼昭和 20(1945)年の間に当時の大日本帝 国と中華民国の間で行われた事変及び戦争。「支那事変」、「日中戦争」、「日華事変」、「中国 抗日戦争」(中国側の呼称)などの表現がある。]が始まったあと。おじさんが、満洲国の省公署の タイピストとして就職すると、お金が、2、3倍とれるよって。そいで行ったほうがいいよって。 まんしゅう り おじさんはその時もう転勤して、満 洲 里、満洲のずっと北のはじっこの方ね。そっちの方にいて。 駒井長官と一緒に来た時に、わたしに、「おいでよ、俺がいいようにしてやるから」って。わたし は飛ぶ女だったんだね。そのころね。おとなしくなかった。昔だったらそんなの怖くて行かれない のに、わたしはもう、行くわって言って、さっさとお役所やめちゃってね。パスポートやなんか、 全部自分でとって、行ったわよ。おてんばね。わたしもね。今の黒竜江省なんですけど、そのころ は東安って省があって、そこの満洲国東安省公署。東京都だと、都庁みたいなところね。そこに、 タイピストとして就職して、終戦までそこで働いてた。 日本の倍くらいもらえるからね。辞める前で、日本で月給が 53 円だったんですよ。大学出でも月 給 60 円くらいの時 53 円もらってたんだから、女としては割合に多い収入だったでしょうよ。満洲 に行ったら、初任給が 80 円くらいだったんですけど、それに僻地手当とか、いろいろな手当がつ くんですよ。その手当が給料の倍くらいになるのね。だからいろんな手当も合わせると 200 円くら いになったの。そこから 50 円くらい、毎月毎月日本へ送ってたの。親のため、妹弟のためね。 逃避行−手榴弾を抱えて 1945 年8月。ソ連軍の侵攻とともに、避難を余儀なくされた。タイピスト仲間の女性3 人での逃避行。このとき富喜子は 29 歳になっていた。 逃げる時に、途中で、軍人さんと会ったのよ。その軍人さんも、敵地の、国境から逃げてきた人な のね。手榴弾[用語集→]もってたのよね。 くれたの。ひとり1つずつ。3人に。 その後、長野県の開拓団の人たちに会い、女3人では危険だからと行動を共にすること になった。 93 途中で開拓団の人たちに会ったの。わたしの父は出身が長野県でしょ。「父は長野県の上田の出で す」って、話したら、「それじゃ、俺たちと一緒にいればいいよ。いろんなことされないで済むよ」 って。 開拓団の人たちと一緒に収容所[用語集→難民収容所]に入り、言われるままに労働に出向いた。夜は 収容所で寝泊りするわけだが、そこにはロシア兵が女を探して入ってきていた。 収容所で毎日毎日、労働に行かせられた。今日はあそこのお掃除に行け、今日は県公署の床はいて こい。夜は、収容所に寝かしてくれたんだけど、その時、ロシア人(ソ連兵)がたくさん入ってき てたの。もうほんとにロシア人(ソ連兵)て獣と同じよ。人間と思わないのね。わたしたちをね。 だからもう、無差別に、往来の真ん中で強姦すんのよ。人のいる前で。見てる前で。 だから、若い人なんか、自殺した人いっぱいいたわよ。そういうのに耐えかねて。強姦されてから 死んだ人もいる。 収容所にて−2 度の自殺未遂 富喜子も、2度自殺を図ったのだという。逃避行中、軍人から譲り受けた手榴弾で。 自殺は失敗に終わり、収容所での生活を続けることになった。富喜子の手首には、その時 の傷が残っていた。 よその家で破裂して、そこのうちの人が死んだりなんかしたら申し訳ないでしょ。だから、ずっと 畑のほう行って、誰もいないとこで死のうと思ったからだめだったのよ。外に出ようと思ったら捕 まえられちゃうもん。出さないもの。ひとりでは。だから、死に損なった。その時死んじゃえばも う終わりだったからね。 夜中にロシア人(ソ連兵)が来たときに、捕まったのよ。わたし。だけどね、開拓団の人たちがね、 子どもをつねってね、泣かせるの。ロシア人(ソ連兵)だって、子どもにぎゃーぎゃー泣かれたら 困るから、逃げちゃったの。そういう風なことが何回かあったの。 94 中国人の番人のおじさんが2人いたの。そのおじさんが、わたしのこと、「おまえはなあ、おかみ さんじゃなくて、娘だからかわいそうだよなあ。おかみさんはね、そういうことを知ってるからい いけどね。おまえたち娘はそういうこと知らないのにね、そういうことされてかわいそうだから」 って、ロシア人(ソ連兵)が来ると、おじさんたちが、何回か隠してくれたの。押入の中に天井の 穴があって、そこに押し込んでくれたの。 収容所は日本の軍隊の宿営地跡だったのか、軍隊が残していったお米や味噌、醤油、塩 などの調味料、小麦粉などがたくさんあり、庭で炊き出しをして、毎日ご飯とお味噌汁、 香の物くらいは三食、食べられていたそうだ。ロシア人(ソ連兵)は取り締まりの強化に より、だんだん寄り付かなくなっていったが、今度は嫁や働き手として引き取りたいとい う中国人が収容所を訪れるようになる。 公安局[用語集→]の人たちが来て、だんだん取り締まるようになって、そういうことをされることはよ くないことだから、中から太い木でしんばりにして、中に入れさせないようにしなさいって。ロシ ア語もわかる人たちがいるから、ロシア語でもそういうふうに言ってくれて、だんだん、ロシア人 (ソ連兵)は来なくなった。日本人だって、そういう所で毎日毎日こわい思いするの嫌だから、だ んなさんがいる人でも中国人の奥さんになって出て行ったり、女中がわりにつれて行かれたり。だ んだん人数が少なくなっていった。若い男の人が、「じゃあ俺のとこおいでよ。俺が助けて世話し てやるよ」って、娘さんたちはそういう人と結婚しちゃった人がいっぱいいる。 結局ほら、みんなが毎日毎日、あの女の子いいから、俺んちの息子の嫁にもらっていっちゃおうっ て。そういう時だったの。誰でも連れてってもだいじょうぶだったのよ。それでも、そういうこと をさせないようにって、警防団みたいの作ってね。みんなを見てくれてたんだけど、連れて行っち ゃえばわかんないじゃない。連れてっても、悪いことするんじゃない、そこのお嫁さんにするんだ からいいじゃないかって。特別なお役所がないから、連れてってかわいがってもらえばって。連れ てかれちゃったのよね。 縁談は「配給」だった:結婚するまで 95 富喜子にもやがて結婚の話が舞い込んだ。それは結婚でなく、「配給」されたのだとい う。 結婚したって言ったら人聞きいいけど、配給されたのよ。捕虜になって。自殺やって。自殺2回や って、死に損なって、死ねないで、この人に配給されちゃったのね。 結局、わたしが好きでなくても、あんたはあの人と結婚しろって、こういうふうに配給されるの。 人間を配給したのよ。 敗戦国の人間だから、 殺そうと生かそうと勝手よ。 殺されても仕方がないの。 みんな毎日見物にくるのよ。中国の人はお金ないとお嫁さんもらえないの。昔はね。日本だってそ うですよね。結納金とかなんとかってね。売買婚って言うんだけど、結婚は、お金でお嫁さんを買 うわけよね。だから、お金のない人は、30 になっても 40 になってもお嫁さんもらえないわけよ。 だから収容所の娘さんたちなら連れてってもだれもなにも言わないから。そうやって結婚していっ た人もたくさんいる。 相手には、山東省に既に妻がいた。山東省から黒竜江省に単身赴任してきていたが、身 の回りの世話をしてくれる女性もいた。けれども子どもがいなかったので、子どもを産ん でくれる人を探していた。 うちのおやじさん(夫の李芝田のこと)は、自分の友達に頼んで、「あの人はやさしい人だし、年 取ってるけど、奥さんいない」って言わせて、わたしに嘘をついたんだ。奥さんは山東にいるのに ね。 その人は、日本語が少しわかる人で、「あの人だったら奥さんもいない」。いないって言ってたん だよ。嘘ついて。奥さんもいない。ひとりでとってもおとなしい人だから、すぐにお嫁さんになら なくてもいいから、 つきあってみてよかったら一緒になってあげなさい、丈夫な子どもが欲しい って言ってるって。そういって、わたしを連れてったの。 事務所みたいな所へ毎日寝かせてくれた。11 月頃行って、12 月過ぎて、次の年の1月になって、 96 お正月、旧正月が来る頃になったら、まあ、向こうも焦ってきたんでしょ。自分の家に連れていき たいから、一緒に暮らしてみなさいって言った。 だけど、わたしは、ちゃんと結婚式をしないと日本の親は許さない。日本てとこは、結婚なんて勝 手にできないところだから、ちゃんと筋道をたてて、仲人さんをたててくれるなら、結婚するって 言ったの。1月の 19 日に、お友達を 10 人ぐらい呼んで、仮のお役所だけどね、お役所に全部届け て、結婚するっていうことを書かせて、それで、結婚したのよ。 最終的には結婚を承諾した形だが、本心は結婚はしたくなかったのだと言う。満洲に渡 る前に、軍人だった許婚者が戦死していたのだ。 もう、結婚しないしないしないって言ってた。わたしには許婚がいたの。だけどその人、中尉だっ たんだけど、出征して、腿に貫通銃創受けて、そこから毒がまわって死んじゃったの。だから、し ょうがないねぇ。結婚もできないで死んじゃったでしょ。わたしは1人で中国、満洲国に行っちゃ ったからね。結局、中国妻。夫はわたしより 15 歳も年上で、その時 44 歳で、わたしが 29 でしょ。 寝泊りしていた事務所を離れて、ようやく一緒に暮らすことになったわけだが、最初は 夫の義兄弟夫婦と同居していた。夫の義兄弟の妻が、普段の面倒をみてくれていた。 そこには、義兄弟の男の人がいて、その人とその人の奥さんと一緒に暮らしてるって言うのね。い つもいつもうちのだんなさんと、だんなさんの義理のお兄さんと、同じ着物着てるの。同じズボン 履いて、同じ綿入れ着て、同じブラウス着て、靴も同じ靴履いてるの。いつも同じ恰好してるの。 よっぽど仲いいんだと思っていたのよ。 そしたら、 そのおかみさんがみんな作って、 着せてたのよ。 わたしが行ったら、向かい合わせのオンドルの、一方にわたしを寝かせて、自分たちはこっちで。 夜だってうっかり寝たりなんかできないじゃない。そうやって監視しながら、わたしをそこに置い といたわけね。 そいで結局まあ、 しばらくしてから別々に住むようになった。 わたしたち夫婦はね。 夫のこと 97 夫はとてもやさしく、大切にしてくれた。夫は医者の息子で、裕福な家の出であった。 屋敷には 20 人もの雇い人がおり、学校には行かず、家庭教師によって教育を施されたそう だ。当時の中国の裕福な家では、複数の妻をもつことはあたりまえだったのかもしれない。 15 歳くらいの女の子を女中として雇い、10 歳くらいの息子の嫁として宛てがい、気に入ら なければ他にも妻を迎えてよしという習慣があったらしい。 シアオヌゥシュイ 昔の中国は、お金がある人は、「 小 女 婿 」って言ってね、10 か 11 くらいの男の子と 15、6 とか 17、8 の女の人を結婚させちゃうのよ。お金持ちの人はそういう女の人を買ってきて、自分の息子 の女中がわりに使うの。17、8 の女の子だったら働けるでしょ。縫い物させたり、お掃除させたり、 女中がわりに使って、もし、自分の息子がその人が気に入れば、ちゃんと結婚させるし、気に入 らなければお妾さんのひとりにして。第二夫人、第三夫人にするの。昔の中国はね。今はだめで すよ。一夫一婦制だからそういうことできないけど、昔はできたのね。 夫はとってもやさしい人だったから、わたしのことは大切にしてくれたの。子ども5人産んだんで すよね。10 年間に子ども5人。長男、次男が4歳違い。長女と次男が3歳違い。長女と次女が2 歳違い、次女と最後の男の子が年子。 3.中国での生活 10 年間工場で働きながら5人の子育て 男・男・女・女・男の3男2女の母として、奮戦する日々が続いた。夫は4、5人で鋳 もうたくとう 物工場を共同経営していた。毛沢東[中国の政治家、軍人、思想家。中国共産党の創立党 員であり、中華人民共和国の建国の父とされている。]の中国平定により、個人の商店、 工場がなくなり、すべて国営となったため、工場経営はできなくなり、地方国営の鋳物工 げん 場の倉庫係の職に就いた。1ヶ月 68元[平成 18(2006)年1月∼平成 20(2008)年2月の為 替レートは、1元=14∼16 円程度で推移]の月給で7人家族の生活を支えてゆかねばなら なくなった。当時としては高給であったが、生活は楽ではなく、富喜子も工場に働きに出 て、コークスの粉を作ったりしていた。昭和 35(1960)年頃には工場内の2つの食堂の切り 盛りを任されるようにもなっていた。毎日大変な疲れ方だったという。そんな中でも富喜 98 子は工場で出された食事を食べずに持ち帰り、子どもたちに分け与えたのだという。 鋳物工場ではコークスをつぶして、粉にするんだけど、もう真っ黒よ。毎日そういう中で暮らして ると鼻の頭からパンツの中まで黒くなっちゃう。お風呂へなんか入れないのよ。お風呂なんかうち にないもん。風呂屋へいかないと入れない。風呂屋だって、高くて入れない。そのころのお金で 60 銭ぐらい。60 銭払ってお風呂に入ったら、ごはんが食べられなくなっちゃう。だから、1ヶ月 に1回ぐらいしか入らない。夏は行水して、体拭くぐらい。冬なんてお風呂に入らないわよ。1ヶ 月も2ヶ月も。中国の人なんか、生まれた時と、結婚式の時と、死んだ時じゃなきゃ風呂入んない って。昔は、そういう国だったの。貧乏よ。お金持ちならおうちに風呂もあったでしょうね。 夫の病気 工場をやめて仕立物の在宅仕事 末っ子の三男が4歳になる頃、夫が腎臓病で倒れた。10 年間、看病と子育てをしながら 生活を支えなければならなかった。それまでの夫が勤めていた工場からは、月給の6割が 支給されたものの、暮らしはさらに苦しくなった。夫の看病のため、富喜子は工場をやめ、 家で仕立て物の仕事をするようになっていた。 下の子供が4歳になった頃に、夫は腎臓病になって、10 年床について、最後は2年半寝たきりに なって、死んだのね。10 年も病気したから、仕事に行けないでしょ。月給下げられちゃうのよね。 死んだ頃には1ヶ月の収入が 42 円よ。7人家族で。生活もどん底ね。 1960 年頃は中国全土を大飢饉が襲い、さらに食べ物に苦労することになった。黒竜江省 だけでも何万人もの餓死者が出た。そんな中、富喜子は必死で食べものを調達して子ども たちに食べさせた。仕立て物の仕事で家計を支え続けた。富喜子の指には大きなタコがで きていた。何百、何千もの洋服を仕立て続けてできたものだ。 父親(夫の李芝田のこと)が 10 年病気したの。2年半は立つことも歩くこともできない。寝たき りだから、わたしは中国で暮らしてる間は、看病しながら、働いてたの。大変だった。わたしは、 独学で洋裁をマスターして、中国の綿入れとか、いろいろな中国服の仕立物やってたの。よその人 のものを縫ってたの。 99 病気の夫と食べ盛りの子どもたちのためにがんばって働いていたのだが、個人開業の形 で仕事を請け負ったことで、工商局からにらまれることになってしまった。個人での商売 は当時、「資本主義への道」だとして禁止されていたのである。 中国の農村の人はみんな困ってて、洋服なんかの布買っても、縫い賃がない人もいるんですよ。そ うすると、自分の豚を殺して豚の肉持ってきたり、自分でしぼった油を持ってきたり、縫い賃のか わりにそういうの持ってくるのね。わたしは「じゃあ、お金いりませんよ」って、油もらって、洋 服作ってあげてたの。そういう点ではとてもわたしはみなさんによくされた。まあ、わたしもよく してあげたわけだけどね。そういうこともあったわ。 そしたら、税務署から、「ただでやってはだめだ」って。ただで縫ってあげちゃいけないのよ。お 金とらなくても、税金払わなきゃならないのよ。それはほら、税金泥棒になっちゃうじゃないです か。わたしはお金もらわないから税金払わなくていいと思ったけど、野菜もらっても油もらっても、 肉もらっても、そういうものをお金に換算して、税金出せっていうわけ。税金泥棒扱いよ。わたし はね。 さんざんいじめられて、県政府に泣きついて行った。「相手がかわいそうだと思うから、(代金の かわりに)お肉ももらったり、お野菜ももらったりして(服を仕立てて)あげたのに、どうしたら いいでしょ」って。 「あなたはかわいそうだと思ってやってることだけど、これ(仕立て分)は ちゃんとお金とらなきゃいけない。 税金払わなきゃいけませんよ。 それが、 国としての規則だから、 ちゃんとしなさい」って。「いじめられたんじゃない、相手はちゃんと規則通りにやってるんだか ら、相手の言うこと聞かないあなたもよくない」って言われた。「そういうことはね、当たり前の ことだからね、ちゃんと受け取りを作って、帳面を作って、今月は何十円受けとったか、書きなさ い」って。そういう受け取りも書かせられたしね。いろんなことされたわ。 文化大革命の頃 飢饉を乗り越えたかと思ったら、文化大革命[用語集→]が始まった。病気の夫と幼い子どもた ちを抱えての極貧生活は続いた。 100 中国に資本家や地主をこの世からなくする、文化大革命ってのが流行りだした頃でしょ。それから 清算運動ね。大地主は殺され、資本家や富農は家も財産もみんなもっていかれて。 残されたもの は、お椀、箸、鍋、1個、ふとん1人分、食料なんにも残してもらえなかった。全部もっていかれ ちゃって。5人家族でも6人家族でも、お茶碗1人にひとつ、それからお箸、鍋1個にふとんが1 人分だけよ。5人家族でも1人分しかくれないよ。冬は、零下 20 度にも 30 度にもなるから、凍え 死んじゃうわよ。 冬は,そこらへんの草でも刈ってきて、燃やさないと、家の中凍っちゃう。死んじゃう。私の主人 は、トラック持ってたのよ。家も自分の家があって、ガソリン、ドラム缶に3つか4つ持ってたけ ど、幸い、こういう運動が起きるちょっと前に全部八路軍[用語集→]に持っていかれちゃったの。何に チョン シ ピ ヌ ミ ヌ ピヌピヌミヌ もなかったの。だから、 城 市貧民(都市貧民のこと)。貧貧民って、貧乏人として扱ってもらっ たから、助かったの。そうでなかったら叩かれたりなんかしたわよね。 なにしろまあ、病人をかかえての7人暮らしだから、薄いトウモロコシの粉のおかゆが、食べ盛り の5人の子供に、お茶碗に1、2杯が1日の食料。おかゆよ。トウモロコシの。どろどろじゃない、 しゃばしゃばのおかゆよ。水の中にね、トウモロコシが浮いてる、みたいなもの。野の草、おおば ことか、食料になる草はなくなるまでみんな、刈っちゃうの。刈る草がなくなるほど、みんな毎日 のように摘み草に行って。辛い毎日だったのよね。 夫の死 食べ物もなく、寒さを凌ぐ手段にも事欠く中、富喜子一家7人は、何とか病気もせず命 をつないでいた。夫は 10 年間患った後、69 歳で永眠。昭和 43(1968)年2月 20 日のことだ った。零下 30 度の凍土では土が掘れず、埋葬は春先まで待つことになった。一度埋葬して からも、都合で2、3回も墓所を変えなければならなかった。 2月といえば、何もかも凍って、毎日の温度は零下 20 度から 30 度。夜中は 30 何度、40 度近くな るのよ。零下よ。凍っちゃうとコチコチになっちゃうし、第一、土が凍っちゃって掘れない。だか ら、4、5人の人がお棺をかついで、埋めるとこまでは持ってったけど、何もできないでそのまま。 101 手伝いの人はそこへお棺置いて帰ってきちゃったわよ。4月か5月、氷が溶けてから、息子たち、 1番下の子が 12 歳ぐらいだったかな。みんな大きくなってたから、みんなでお棺をね、埋めたわ けよ。穴を掘ってね。 そのお墓を、政府の都合で余所へ移さなきゃなんなかったの。2、3回掘り起こした。今の日本だ ったら大変でしょうよ。あの頃は、まだ「おまえ、そこのところの骨、みんな余所へ移せ」って言 われたら、移さなきゃなんない。みんな政府の言うとおりだから。だから、2∼3回、引っ越しし たよ。お墓。だから骨だけねぇ、箱に入れて、また他の所へ行って、また埋めて。そこは農地にな るとか、家たてるとか、政府から通知がきて。でも、通知が来るだけいいじゃない。黙って掘りか えされちゃったら、なくなっちゃったけどさ。 一緒に日本に来ることはかなわなかったが、夫のお骨は今は千葉県の墓地に眠っている。 5人の子どもたちがお金を出し合って用意してくれた、富喜子と夫の終の棲家だ。「もう 暴かれることのない場所に落ち着かせました。 5人の子供たちが、父親孝行をしてくれま した。わたしも近く、夫と同居することになりそうです」と、手記には記されている。 なにしろ、骨だけは持って帰ってきた。千葉県にお墓買ったの。メモリアルパークっていうところ にね。子ども達が大きくなってから。お父さんの骨も持ってこないんじゃ、かわいそうだねって言 って。うちの次男のお嫁さんが中国へ帰った時に、わたしが全部、日本の政府に手続きして。千葉 の県庁に話したら、向こう(中国)が許可してるなら、千葉県の方は入れますよ、って。わたしが 書いた書類を全部持っていかせて。それで、骨を無事持って帰ってきたのよ。絹の、赤い布よ。日 本は黒だの、白でしょ。向こうは真っ赤なきれいな布の中に、骨を入れて、ちゃんとして持ってき たわよ。お嫁さんと孫と2人がね。それを今度、メモリアルパークっていう、何万坪もあるお墓が あるのよ。畑やなんかを全部、お墓にしちゃったの。そういうところにうちは、入り口が2m、奥 行き3mの買えたのよ。買ったのよ。(墓地の値段は)5、6百万ね。長男、次男、三男、長女、 次女、5人が、2年間でお金払って、作ったわよ。お墓を。 4.一時帰国から永住帰国まで 102 日中国交回復 スパイの嫌疑で遅れた帰国 夫の死後、 富喜子は日本のスパイの嫌疑をかけられた。 日中国交が回復した昭和 47(1972) 年。帰国の話も持ち上がるなか、富喜子の帰国は7年遅れた。 わたしが、日本のスパイだって言うんだわ。わたし、少し学校行ってるでしょ。知識階級のスパイ だって。だからもうたいへんだったね、その時はね。いろいろなことがあったけど、7年間帰国さ せなかったの。日本へ。みんな帰っちゃったのよ。わたしの友達は、みんな日本へ帰っちゃったの。 わたしだけ帰さない。 帰国の話はこの時が初めてではなく、三男が生後5ヶ月の時に長女、次女と三男の3人 を連れて、昭和 32(1957)年に一時帰国している。夫はもう富喜子が中国には帰ってこない のではないかと案じていたそうだ。これは日本政府による公式の里帰り[用語集→]だったとのこ とで、9ヶ月ほどの間、日本で暮らした。この時、幸田文さんが空港で富喜子を出迎え、 再会を喜ぶ2人の写真が昭和 32(1957)年5月 26 日の夕刊に掲載されている。 第1回の里帰り、日本が計画した里帰りがあったでしょ。その時に、わたし、1回、帰ってきたの よ。日本へ。長男と次男を残して長女と次女と、三男を連れて。うちの主人は男の子2人、渡さな いもの。自分の子でしょ。連れてって、帰ってこなかったら子どもいなくなっちゃうでしょ。だか ら男の子は渡さないの。だから、長女と次女。三男はしょうがないわね。まだ生後5ヶ月で、お乳 飲んでたからね。連れて帰ってきたわよ。9ヶ月ぐらいね。いたかな。日本に。長女が4歳、次女 が2歳、三男が5ヶ月の時。長男、次男のことがやっぱり心配でね。結局、(中国に)帰ってきた んだけど。中国に、5つか6つ、7つか8つの子を置いてきちゃね、かわいそうだから。やっぱり 中国に戻ったのよ、わたし。 スパイの容疑をかけられたのは、この時の里帰りも影響したのだろうか。一時帰国後、 日本から電報や手紙が来るようになったり、叔父からも送金があったりしたことも一因で あったようだ。長男が大学に合格したときも、母親が日本人でスパイの嫌疑があるからと、 合格を取り消されそうにもなった。 103 長男は大学、西安の交通大学を出てるの。黒竜江省で2人しか受からなかったのよ。その大学。そ こ受かったの。長男が。日本人の母親もった子がそんな大学、受かっても入れないのに、大学の入 学を決める委員会みたいのがあって、 その中に、もののわかった人がいて、 いくら母親が日本人で、 ウ ハオシュエション 海外関係があるといっても、そういうことには関係なく、そういう頭のいい子、「五好 学 生 」(ベ スト5)のひとりを入れないっていうのは間違いだって。平均点が 80 点ぐらいとれたらしいのよ。 それで、なかなか受からない交通大学に入れたの。そしたらもう、それこそ町中の評判になっちゃ ったの。あそこのうちの、日本人の母親の息子が入ったってね。 国交回復から8年、昭和 55(1980)年にはスパイの容疑を解かれ、次女だけを連れて、2 度目の一時帰国を果たした。 2度目の帰国は中国政府が、わたしのスパイ嫌疑を晴らして、次女を連れて、帰してくれたのよ。 うちの娘も 20 いくつになってた。弟も妹も結婚して、頼る人はなかった。みんな自分の家庭があ るからね。でも、一番下の弟が、アパート借りてくれて、5ヶ月間の生活費は、弟が見てくれた。 生活はたいへんだったけど、親切な日本の方のおかげで、なんとか生活保護を受けながら暮らして、 ひきふねちゅうがく ぶん か ちゅうがく 娘は、日本語学校、曳舟 中 学 、今、文花 中 学 になってるね。あそこの夜学に通ったのよ。その時 に、新聞に出たり、テレビに出たりしてたいへんだったの。わたしたち。 八一農墾大学で日本語講師に:日本事情研修のための自費一時帰国から永住へ バ イ ノォン ケ ヌ ダ シュエ 中国に戻ってからは、1982 年頃から請われて黒竜江八一 農 墾大 学 で日本語会話の講師 を勤めた。学生は、日中合弁企業の社長や来日を控えた大学教授、企業のエリートたちば かりだった。富喜子は学生たちからたいへん尊敬され、慕われたそうだ。中国での生活で は一番よかった時期である。 日本語のテキストに「東京タワー」や「サンシャイン 60」という言葉が出てきた。戦中 に日本を離れた富喜子には未知の語彙である。日本語教師なのだから、日本語だけでなく 現在の日本事情にも通じていなければと、富喜子は大学の休暇を利用して、1984 年4月、 3度目の帰国を果たす。この帰国が永住帰国となった。 北京で、わたしが日本語教えた学生たちがたくさん訪ねてきてくれて、方々を見物させてくれたの 104 ね。みなさん、よくしてあげれば、向こうもよくしてくださるってわけですね。 長男の博幸氏によると、富喜子はこの時、永住しようとは考えておらず、日本語教師と して研鑽を積むのが目的で、中国に戻って日本語教師を続けるつもりだった。ところが、 日本滞在中に心臓に疾患がみつかり、治療のために永住を決意したのではないかという。 昭和 61(1986)年 7 月27日の新聞には、日本に帰国した残留孤児の方々の通訳として役 立ちたいと語る富喜子の記事がある。 富喜子自身は、日本で中国語や中国事情についての知識を生かしたいという思いもあっ たようだ。日本に帰国した残留孤児の通訳を買って出たり、中国出張に出かける社員のた めの研修会の講師を務めたりもしている。 子どもたち家族を自費で呼び寄せ 日本語教師としての研修目的の帰国だったので、富喜子は自費で帰国していた。永住を 決めてからは、次々に子どもたちを自費で日本に呼び寄せた。 だから、今みんな、日本へ来てますよ。全部日本へ呼んだから。わたしのお金で呼んだのよ。わた し馬鹿なのよ。ほんとはね、政府の力を借りて呼べば、自分も政府のお金で帰ってくれば、永住帰 国証明書っていうのもらえるのね。そういうのもらえたらね、ほんとはとってもいいのにね。自分 のお金で帰ってきたほうがいいと思って帰って来ちゃったら、そうじゃなかった。自分のお金で帰 ってこないで、国のお金で帰ったら、ちゃんと寮に入れてくれて、6ヶ月教育してくれて、全部、 日本がね、国費でやってくれるのに。やっと通信が許されて、日本の、わたしの父親の妹が、10 万(円)送ってくれたのよ。そのお金でね、帰ってきたでしょ。だからね、政府から何の手続きも してもらえなかったの。だけど、永住帰国証明書っていうのはね、もらえたの。後から。だから、 それは持ってるけど、結局わたしは、中国に、日本のために行って、働いて、日本の戦争の犠牲者 ってことにはなってる。そういうのは厚生省[用語集→]からもらってる。総理大臣から感謝状もらえる のよ。申請すれば。めんどくさい。もらったってしょうがないと思ってもらってない。申請しない。 現在は、5人の子どもたちとその家族は全員日本で暮らしている。子どもも孫も、皆日 105 本籍をとっている。 なんとか、生活保護受けながら、苦労しながら、お手伝いやいろいろなことをして、日本政府、法 務省、法務局、入管やなんか行って、手続をして、子供たち5人は、それらの嫁、婿もみんな、東 京、日本へ呼び寄せた。手続きはたいへんでしたけど、中国人の婿と嫁は、日本の永住権をとった のね。そうすると帰らないでいいのよね。 わたしが、中国の人と正式な手続きをして結婚してないから、だから、親がいないの。1人で産ん だことになってる。子ども。戸籍の上では、私生児。認知のない子どもっていうことなってるの。 だってもう父親が死んじゃって、どうやって結婚したかわからないでしょ。子どもも孫もみんな、 日本籍。わたしの籍に入った。日本籍に入って、日本人。子どもや孫たちみんな努力してくれて、 孫も日本の中学、高校、大学と入学してくれて、なんとか、今日が無事に送れています。ありがた い毎日です。 自慢の子どもたち・孫たち 孫が9人、ひ孫が2人。孫たちの成長ぶりを誇らしそうに語り、成長が楽しみだと目を 細めた。成人式や結婚式、七五三などの写真をたくさん見せていただいた。 長男、次男、三男、ともに旋盤や電気の溶接などの仕事に就いている。日本に来てから 職業訓練校に6ヶ月通い、資格を取得したそうだ。長女は鮮魚市場の売り場主任、次女は 新聞社の経理の嘱託社員として働いている。成人した孫たちは、印刷会社社員、薬剤師、 通訳などとして立派に働いている。 うちの子たちだって、日本語をマスターするのはたいへんだったろうなぁと思う。うちの子たちな んか、みんな、大人になってから日本に来たけど、日本語ペラペラだもん。中国では日本語なんか 全然知らなかったのに。 次男は勉強が大嫌いで。親としても恥ずかしくてね。人の前に出られないくらい恥ずかしかった。 中国で、学校行くのが嫌でね。勉強が嫌い。頭は悪くないのよ。結局、妹が6年生になって、兄貴 がまだ6年生で。それでいやになっちゃって、学校やめちゃった。6年も卒業してないのよ。だけ 106 ど、今家中で一番お金たくさん稼いでるのがその子。おもしろいでしょ。頭はいいのよ。手先が器 用なの。何でもできるの。見ただけでできちゃうの。電気のこと全部わかるの。どうしてでしょう ね。アルバイトやってるうちに、おぼえちゃうの。今の仕事も、不景気でどんどんクビを切られて 2人しか残ってないけど、次男はクビにならないの。日本の人でもできない仕事、できちゃうんだ って。 次男の次男は、今年東北大学の薬学部を卒業して、現在仙台で働いてる。その孫がとてもいい孫で ね。わたしがねぇ、気管支炎で咳が出て、痰が出て、すごいのよ。今はちょっと、こういう風に、 落ち着く時間ができたの。3時間か4時間。夜、そうね,夕方の5時頃になると、咳が出てくるの。 そしたらね、薬剤師でしょ。ほうぼう探して、薬を買って、送ってくれたの。お金、払うよって言 ったら、ぼくが学生の時、いつもいつもおばあちゃん、帰ってくるとお小遣いくれたから、もうぼ くはお金たくさん稼いでますからいりませんってね。(笑) わたしの長男のところには娘と、息子。2人とも、結婚していますよ。次男は妻、息子2人。それ から長女は、夫と娘が1人、息子が1人ね。2人とも結婚してそれぞれ子どもがあって、わたしか らすると、ひ孫よね。娘には女の子が1人ね。それから息子にも女の子が1人いるのね。わたしに は、だから、ひ孫が2人いるわけよ。 次女には夫と息子。男の子がひとりね。高校卒業して、印刷会社で働いてる。親が、高校卒業して ね、専門学校か大学行けって言ったらね、「俺、親のお金使って学校行くのやだから、俺は自分で 1年働いて、その金で学資作って、専門学校か大学入る」ってそう言って。自分で探しちゃったの。 高校卒業してから印刷会社へ入って、とても成績がいいの。「高校だけだって、なんとかなる」っ まつしたこう の すけ てね、「松下幸之助[松下電器産業を一代で築き上げた日本屈指の経営者で、経営の神様と称され た。]なんて、三畳一間で、なんにもわかんないで、電器屋やっててね、それで日本一になったん だから、俺だってね、やればできる」ってそう言ってんだ。そういう風に考えるってことがね、た いしたことだわね。 三男の長男は専門学校出て、山形県の会社に就職した。なんか大きな会社らしいわよ。東京の出張 所で働いてるの。中国語がぺらぺらでしょ。この子は、中国で生まれて小学校1年生ぐらいで日本 107 に来ちゃったね。日本語は日本人と同じよ。それでも中国語ぺらぺら。会社が、中国と商売してる のよ。中国から代表が来るのよ。そうすると、通訳して歩くのよ。この子が。まだ 20 歳か 21 歳の 子よ。中国の字は書けないかもしれないけどね、言葉はわかるじゃない。ボーナスいっぱいもらっ てわたしにごちそうしてくれたわよ。この子の今 10 歳の弟が、頭がいいの。どういうわけかね。 「去年の3月 30 日何曜日?」って聞くと、「金曜日」ってすぐ出てくる。どうやってでしょうね。 それがね、だんだん大きくなったら、できなくなった。ただ頭はいいから、90 点以下がないのよ。 ひとつも。字が上手なんだって。字をね、よく覚えてるらしいわ。この前は、95 点だか 98 点が一 番下で、全部 100 点だった。数学は全部 100 点だって。 うちの長女っていうのが、すごいやり手なの。曳舟っていう所にね、生鮮市場っていうのあるんで すよね。主任とか店長は、よそから来た人だから、ここでどういうものよく売れるかなんてわから ないの。うちの娘、みんな頭の中に入ってんの。だから、2時間ぐらいで全部伝票作っちゃうのよ。 定価表をね。仕入れ値がいくらで利益がいくらで税金がいくら、って全部計算してね。それできる 人が誰もいない。うちの娘1人しか。売り場の主任なの。 長女ね。朝の7時に出勤して、早い時は3時、遅い時は5時までやって、家に帰ってくるでしょ。 そうすると7時まで休んで、7時からね、自分の家から自転車で 10 分、15 分ぐらいのところの、 飲み屋のね、板前半分、皿洗い半分。お客さんの相手半分。そういうのやってね、餃子作るのがう まいのよ。餃子 100 個ぐらい作って、お客さんに出すの。うちの娘が行った時はお客さんが増える の。餃子食べにくる人たち。中国風の餃子だからね。夜中の2時半まで働くの。1週間に4日。4 日間、夜中の2時半まで働くの。だから寝る暇がないじゃない。それでね、7kg減ったのよ。目 方が。それでもなんでもないみたいよ。もうすごいわよ。 どの子もどの孫も、皆優秀で、日本で立派に暮らしていることを、富喜子は繰り返し語 った。誇らしく、満足そうな表情だった。 平成 17 年4月 永眠 昭和 59(1984)年に永住を決めて以来、心臓を病んでおり、心臓にはペースメーカーが 入っていた。また、気管支喘息で苦しい状態が続いていた。平成 17(2005)年4月、急性 108 心不全で富喜子は 89 年の人生の幕を閉じた。中国でも日本でも、家族のため、子どものた めに懸命に生きた一生であった。 ◇◆◇◆◇◆◇ 聞き書きを終えて すみ だ インタビューは、東京都墨田区の橋本富喜子さんのご自宅にて、2004 年1月15日の午後2時から 4時 30 分と、同年1月17日の午後2時から4時の計2回、のべ4時間30分にわたって行いました。 気管支喘息で、午前中と午後の遅い時間は調子が悪いとのことで、午後の訪問となりました。インタビ ューの間は咳き込むこともなく、江戸っ子らしいちゃきちゃきした調子でお話下さいました。 1回目のインタビューでは、たくさんの貴重な写真を見せていただきました。幸運にも向島の家に あった家族のアルバムが焼け残っていたそうです。富喜子さんの七五三の写真や女学校時代の制服姿、 陸軍省入省の折の記念写真、向かいのお家にお住まいだった幸田文さんの写真など、次々に見せていた だきました。そんな折りに、「ここにペースメーカーっての、入ってんのよ。わかるでしょ。ちょっと さわってごらんなさい。手出して。」と左胸に私の手を宛がって、いたずらっ子のように笑っておられ た様子を懐かしく思い出します。 永住帰国を決めて以来、ずっと心臓を患っておられるとのこと、インタビューもお体に障るのではと 心配しましたが、「おしゃべり大好きだからだいじょうぶ」と笑って受けてくださいました。心から感 謝いたします。 1度目のインタビューの次の日、富喜子さんから電話をいただき、2度目のインタビューに伺いまし た。日記をつけておられたとのことで、日記を見せていただく約束もしていましたが、「どこにしまっ ちゃったかわからなくなった」とのことで,大学ノートに6ページほどの手記を用意して下さっていま した。2回目は、その手記を見せていただきながら、お話を伺いました。 「いちご食べなさい。お砂糖かけるでしょ」とお皿にたくさんの大きないちごを盛って、持ってきて くださり、「食べてくれたら、あたし喜ぶわよ」と、笑顔で勧めて下さいました。実の祖母に会った時 のような懐かしい気持ちになりました。週に何度か通ってこられていたヘルパーさんにも「かあちゃん」 と呼ばれて慕われている様子でした。面倒見がよくて、人を気遣うやさしいお人柄が偲ばれます。 2 度目のインタビューの後、再会はかなわず、平成 17(2005)年の春に富喜子さんは帰らぬ人となりま した。原稿の内容確認は、ご長男の橋本博幸氏にお願いしました。文中の新聞記事は、博幸氏が提供し 109 てくださったものです。お忙しい中、快くお時間を割いて下さいました。記して感謝の意を表します。 「どこにいったかわからなくなった」日記の束は、今は博幸氏が保管されているそうです。終戦時のこ とや、一時帰国のこと、帰国後のことが事細かに記録された富喜子さんの日記は、資料価値の高いもの でしょう。博幸氏はこの日記をまとめておきたいと仰っておられました。ご健筆を祈ります。 今は千葉のお墓でご主人とふたり、ゆっくり休まれていることでしょう。この記録の完成まで、お話 を伺ってから4年もの月日を費やしました。「遅いわよ。今ごろ何やってんの」というお叱りの声が聞 こえてきそうです。拙稿をせめてものご供養として捧げ、心からご冥福をお祈り申し上げます。(さとう ともこ) 110
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