明治草創期,政府測量機関での暗闘

明治草創期,政府測量機関での暗闘
国土環境株式会社(もと国土地理院)
長岡正利
この連載において,筆者は,地図を中心にその周辺事情
を担当します。
明治の新政権下においては,科学技術に限らず社会の全
般分野が,それまでの江戸三百年の泰平の世とはまったく
隔絶した環境下に,突然に花開いたかにみえます。
「文明
開化」のことばのもとに,そのことが何の不思議もなく行
われたかに思いがちですが,ごく短期間で西欧列強に伍す
ようになったのは,それまでの徳川治世下における深い蓄
積があってのことでした。地図についても同様で,まずは
その辺りから話を進めましょう。
明治初期の地図
明治初期の転変相次ぐ行政組織にあって,各省はその施
策実施の必要のために中小縮尺の地図を次々に作り,また,
民間においても需要に応じて地図出版が急増した。下の彩
り豊かな地図はその1 つで,廃藩置県によって中央集権体
と うが い
制が整い始めた明治4 年に,川上冬崖によって編纂された
ものである。早期に,このような地図の完成を見ていたこ
事件を報ずる「東京日日新聞,明治14 年2 月4 日」
(日本放送出版協会(1988)より)
とは驚きである。
一方で,その冬崖(万之丞,寛)らがたどった数奇な運命
に触れないわけにはいかない。冬崖は信州松代の山岸家に
生まれて,幕府御家人であった川上家の養子となり,才を認
められて幕府蕃書調所(開成所から後に東大)へ。さらに,
山縣有朋が設置した陸軍参謀局に明治9 年に迎えられた。
地図のフランス式とドイツ式
地図史上でよく言われることに,
「明治前期に陸軍軍制
がフランス方式からドイツ方式に変更されたことに伴い,
初期の迅速測図彩色原図から印刷された発行図は一色・線
号方式とされた」などとある。
明治初期の陸軍は,幕府陸軍が範
としていたフランス軍制をそのまま引
き継いでいたが,特に初期の地図作
成部門においては,その中枢部はこ
れを学んだ経験を持つ旧幕臣らで占
められていた。
川上寛(明治4 年)
「大日本地図」と,編纂者の川上冬崖(その生家,長野市の山岸昇氏所蔵)
樺太千島交換条約(明治8 年)以前の国土を表すため,樺太の全域が描かれている。
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ところで,これを成した人々はど
うなったのか。
警視庁を整備する
などし,軍でも憲
兵隊の設置など綱
紀粛正に努めてい
た。そのような中
で,文人墨客と交
遊し仮想敵国の公
使館に出入りする
ような自由主義的
風潮を持った軍高
官は捨て置くわけ
にはいかず,折し
も二度目のプロシ
ア留学から帰って,
陸軍参謀局(明治 10 年)
「大日本全図」とその凡例等 明治 8 年の条約により千島全域が日本領となった。
凡例中に,左記事の木村信卿と澁江信夫の名が見える。
参謀局において続発の怪事件
明治維新において実権を握ったのは西国諸藩出身者であ
国家主義的思想の
もとに参謀本部の
設置等に絶大な権力をふるい始めた桂太郎(後に総理大
臣)にとっては,幕府以来のフランス軍制の中心人物であ
った木村が目の上のこぶであったことは想像に難くない。
ったが,当時急務とされた欧米文化の吸収や,国家中枢の
加えて,木村が仙台伊達藩の出身で薩長閥の新政府人脈と
行政機構の確立のためには,前述の蕃書調所などに属した
は一線を画していたこと,幕末の奥羽ノ役で桂を敗走させ
知識層や技術者が必要とされて,旧幕臣らが新政府の要所
た経歴などを考えれば,事件は当然の帰結でもあった。
を占めた。
惨事はこれにとどまらず,この年,参謀本部地図課を舞
しかし,維新後10 年以上を経て,彼らが育てた若手や
台として,庁舎からの職員墜落死を皮切りとして,出張中
欧米帰りの層が漸次増加して,陸軍においてはそれらの階
の測量技師の切腹,そして,8 月号で紹介予定の関東平野迅
層が次第に抬頭していた。やがて,初期の地図作成に携わ
速測図を指導した川上冬崖の,同年5 月の熱海出張先にお
ってきた旧幕臣につながる人々は,軍制変更とともに粛
ける「逆上発狂死」などと,不審・悲惨な出来事が続いた。
正・更迭されて,無慚の死を遂げた人もあった。
前ページの新聞記事はその事情を語る例で,当時言われ
た「地図密売」事件である。報ずるところによれば,
「木村
残された地図群
歴史の闇に葬り去られた歴史は,人々の記憶に長くはと
のぶあき
信卿は…御用の筋ある旨にて陸軍裁判所へ拘引なりし…風
説には同省にて彫刻せられし日本全國圖を清國公使館に密
賣したることの發覺したるなりと云へど如何にや」とあり,
判決は「外國人ノ嘱ヲ受ケ忌憚スル所ナク猥リニ軍事ニ關
どまらなかった。陸地測量部の正史『陸地測量部沿革誌』
(1921)も,その事情は語らず,守秘義務を盛り込んだ「服
務概則」制定を同年の項に記載しているのみである。
地図にまつわる歴史はそれとして,伊能図を基礎として
スル圖ヲ製造ス」として閉門(自宅謹慎)
,半年後に停官。
列島の輪郭を描き,内容は諸藩が遺した国絵図などに拠っ
もう一方の澁江は,拘留中の陸軍裁判所で縊首自決した。
たこれらの緻密な地図を見るに,明治初期に奇跡のように
上図は,事件の3 年前に発行されていた『大日本全図』
である。記載されている参謀局地図課長・木村信卿と,製
図・銅版彫刻の担当者・澁江信夫が事件の当事者である。
作られた高精細な地図として,今日なお異彩を放っている。
実測図である5 万分1 地形図の全国概成は明治も末期で
あり,それに先立つ30 年程ほど前の出来事であった。
事件の内容は,軍の駐屯地などの「国家機密」を表示した
地図を清国に売り渡そうとしたとされるものである。しかし,
その鎭臺・分營などは所在が一般にも周知のもので,前述の
地図などにも既に表示されているように,秘密というべき
ものではなかった。木村らは,かつて自らが作成し,一般に
も販売されていたこの地図と同内容の図を作ることが罪に
問われようとは,思いもしなかったものであろう。
事件のあった明治14 年,自由民権運動は激しく,政府は
掲載の図ほか関連資料を,6 月中旬以降にホームページ版の「測量情報
館」で拡大してご覧になることができます。
■ 参考
井出孫六(1970 初出):『アトラス伝説』
,文春文庫(1981)ほか
日本放送出版協会編(1988):『NHK 歴史ドキュメント8』
師橋辰夫(1991):迅速測図原図の諸考証.
『明治前期手書彩色關東實測
圖 資料編』
,日本地図センター
長岡正利(1999):『国土地理院所蔵 地図・史料展観』
,国土地理院技術資
料 A・1-No.213
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