新型呼吸器症候群コロナウイルス:SARS と MERS 鹿児島大学名誉教授 岡本嘉六 コロナウイルスによる新たな病気 コロナウイルスは、ウイルス粒子表面の エンベロープが太陽のコロナ(光冠)のよう な外観を呈することから命名された。哺乳動 物や鳥類に様々な疾病を引き起こしている が(動物衛生研究所「家畜・家禽のコロナウ イルス病」)、それぞれの動物に固有の病気で あり、種の壁を越えて動物からヒトに感染す るものはなかった。 コロナウイルスは、αからδの 4 種のサ ブグループに分けられるが、ヒトに軽度の上 部気道炎を起すαとβサブグループ・ウイル スが 1960 年代に 4 種類知られていた。 ところが、2002 年に中国で重症急性呼吸器症候群(SARS: Severe Acute Respiratory Syndrome)ウイルス、2012 年にサウジアラビアで中東呼吸器症候群 (MERS: Middle East Respiratory Syndrome)ウイルスがヒトで流行し、その由来が動物であると疑われている。 いずれもβサブグループに属するが、このグループにはマウスとともにコウモリが罹患する ウイルスが複数あり、新たに出現した両ウイルスもコウモリ由来と疑われている。 重症急性呼吸器症候群(SARS) WHO が 2003 年 10 月 17 に発表した「SARS の疫学に関する合意文書(Consensus document on the epidemiology of severe acute respiratory syndrome)」を基に概要を整理 する。 2002 年の 11 月に広東省で発生したと考えられ、発症日が 2003 年 2 月以前の初期の症 例の 1/3 以上が食品取扱者(食用動物を取り扱う、屠殺する、売買する者、あるいは食事を 調理または配膳する者)であった。このことから SARS ウイルスが動物由来であると疑わ れ、ヒト食用に野生動物を販売している中国南部の市場から採取された野生動物が調べられ た。ハクビシン、タヌキ、イタチアナグマから近縁のウイルスが分離され、さらにキクガシ ラコウモリが大元の保有動物として注目されている。野生動物由来だとすると今後の発生対 策がきわめて困難であることを意味し、その後の流行がないこともあって、結論は出ていな い。ただし、感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)第十三 条では、SARS についてイタチアナグマ、タヌキおよびハクビシンの感染を疑った獣医師は 都道府県知事に届け出なければならないと定められている。 -1- SARS 症例数の国別集計;2002/11/1~2003/8/7 (Summary table of SARS) 発症日 国 発症数 死亡数 致命率 (CFR) 第 1 症例 最後の症例 中国 香港 台湾 カナダ シンガポール 米国 5,327 1,755 665 251 238 33 349 300 180 41 33 0 7 17 27 17 14 0 2002/11/16 2003/2/15 2003/2/3 2003/2/3 2003/2/3 2003/1/9 2003/6/25 2003/5/3 2003/6/3 2003/6/3 2003/5/3 2003/4/14 ベトナム フィリピン ドイツ モンゴル タイ フランス オーストラリア マレーシア イタリア 63 14 9 9 9 7 6 5 4 5 2 0 0 2 1 0 2 0 8 14 0 0 22 14 0 40 0 2003/2/3 2003/2/25 2003/3/3 2003/3/3 2003/3/11 2003/3/21 2003/3/24 2003/3/14 2003/3/12 2003/4/14 2003/5/5 2003/5/3 2003/5/6 2003/5/3 2003/5/3 2003/4/1 2003/4/22 2003/4/20 英国 インド 韓国 スウェーデン インドネシア マカオ ブラジル コロンビア フィンランド 4 3 3 3 2 1 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2003/3/1 2003/4/25 2003/4/25 2003/4/25 2003/5/3 2003/4/3 2003/4/2 2003/4/30 2003/4/1 2003/5/6 2003/5/10 2003/5/6 2003/5/3 2003/4/3 2003/4/2 2003/4/30 クウェート ニュージーランド アイルランド ルーマニア ロシア 南アフリカ スペイン スイス 1 1 1 1 1 1 1 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 100 0 0 2003/4/9 2003/4/20 2003/2/27 2003/3/19 2003/5/5 2003/4/3 2003/3/3 2003/3/9 2003/4/9 2003/4/20 2003/2/27 2003/3/19 2003/5/5 2003/4/3 2003/3/3 2003/3/9 計 8,422 916 11 WHO は、2003 年 7 月 5 日に感染が終息するまでに、全世界で 8,422 例の可能性例と、 -2- 916 例の死亡が 29 ヵ国から報告され(2003 年 8 月 7 日現在)、5,327 例の症例と 349 例の 死亡が中国本土から報告されたとしている。集団発生期間においては、患者の感染力のある 呼吸器飛沫の粘膜(目、鼻、口)への直接接触、または媒介物への曝露が主要な感染経路の 様式であった。呼吸器飛沫や下痢便からのエアロゾル発生が空調設備を介してホテル全体に 広がった「スーパー・スプレディング事例」が、中国、香港、シンガポールなど複数の国で 観察された。また、航空機に同乗した旅行者の感染も確認され、海外旅行が激減した。 SARS の自然経過としては、発病第 1 週に発熱、悪寒戦慄、筋肉痛など、突然のインフ ルエンザ様の前駆症状で発症する。発病第 2 週には非定型肺炎へ進行し、咳嗽(初期には乾 性)、呼吸困難がみられる。下痢は発病第 1 週にもみられるが、一般的には第 2 週目により 多く報告されている。最大 70%の患者が、血液や粘液を含まない大量の水様性下痢を発症 する。致命率は、年齢、基礎疾患、感染経路、曝露したウイルスの量、国によって大きく異 なるが、全体としてはおよそ 11%と推計されている(国立感染症研究所 感染症の話)。 発症日別の世界の SARS 可能性例数(n=5,910) (2002 年 11 月 1 日- 2003 年 7 月 10 日) 日本では、2003 年 4 月 3 日に SARS を新感染症として取り扱うこととし、原因が判明 した 4 月 17 日に指定感染症へ切り換えた。その後、5 月になって、台湾で SARS 治療にた ずさわっていた台湾人医師が観光目的で訪日し、近畿地方を観光後、帰国してから SARS を発症していたことが明らかとなり、厚生労働省がその全旅程と立ち寄り先を発表、それら の施設で消毒をおこなう事態へ発展した。この事例を含めて、感染の可能性が疑われた事例 の追跡調査において、SARS 感染の可能性は全て否定されている。 (つづく 2015/5/20) 中東呼吸器症候群 (MERS) MERS 発生の WHO への最初の報告は 2012 年 9 月 22 日に英国からであった(WHO DON)。それまで健康だったサウジアラビアに旅行歴のあるカタール人男性が 9 月 3 日に腎 不全を伴う急性呼吸器症候群を発症し、Doha の集中治療室に収容されたが、9 月 11 日に救 急飛行機で英国に搬送された。英国健康保護局が新型のコロナウイルスを分離・同定し、そ -3- れを契機として WHO 専門家チームによるウイルスの特性解明、診断技術の開発、各国の調 査に対する指針作成などが始まった。 その後の保存血清の調査によって、このウイルスの発生が、サウジアラビアとヨルダン で 2012 年 4 月に発生した肺炎症例のクラスターにまで遡ること、およびヒト・ヒト感染の 可能性が判明した。しかし、2012 年末までに確認された症例数は、カタール 2 名、サウジ アラビア 5 名およびヨルダン 2 名、合わせて 9 名に留まった。内 5 名が死亡し致命率が高 いものの、2003 年の SARS 流行に比べて伝播が緩慢であった(WHO, as of 21 December 2012)。2013 年 2 月末でも 7 名の死亡を含め 13 名と、発生は散発的であった(WHO, 21 February 2013)。3 月になってアラブ諸国の外に北アフリカ、英国、フランス、ドイツで 輸入症例が見つかり、13 名の死亡を含め 50 名まで増加し、院内感染と基礎疾患に注意喚起 が行われた(WHO, as of 31 May 2013)。 MERS-CoV ヒト症例の発症週別推移、2015 年 2 月 5 日現在(n=971) MERS-CoV: Summary of current situation, literature update and risk assessment – as of 5 February 2015(pdf, 245kb) 4 月以降も毎週発生報告が続き、WHO は国際保健規則に基づく MERS-CoV に関する 緊急委員会(IHR Emergency Committee concerning MERS-CoV)を 2013 年 7 月に設置 した。2013 年 12 月の第 4 回委員会では、報告された MERS-CoV 症例の大多数はヒトから ヒトへの伝播によって起きているけれども、最初の症例はラクダを含む未知の動物感染源と の接触によって発生した可能性が高いとした。そして発生が今後も続くと予測されることか ら、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC: Public Health Emergency of International Concern)」には至っていないが警戒を高めるよう加盟国に要請した。動物感 -4- 染源については、サウジアラビアのヒトコブラクダ(Camelus dromedarius)の鼻腔スワ ブから分離された MERS-CoV が遺伝子解析によってヒト由来株と同じであり(American Soc. Microbiol.)、ラクダからのヒト感染が確認され(Camel origins of the Jeddah outbreak)、少なくとも 1992 年から循環してきたことが 2014 年前半に学術誌に報告され た(American Soc. Microbiol.)。 2014 年 4 月以降症例報告が急増したが、大多数はサウジアラビアを中心とする中近東 諸国であり、世界最大の宗教的なイベントであるメッカ巡礼による人口移動が影響している と考えられた(Emergency Committee, 1 October 2014)。旅行者による輸入症例がアジア、 ヨーロッパ、北アフリカの国々でも報告され、それによる二次感染も発生したが、市中にお ける伝播には至っていない。また、未発見の軽症者の存在が指摘され、発生動向調査の強化 が要請されている。 MERS-CoV 感染を報告した国、2015 年 2 月 5 日現在(n=971) 赤は症例数、黄色は輸入症例のみ 日本では中東呼吸器症候群が確認されていないが、アフリカ(アルジェリア、チュニジ ア、エジプト)、欧州(オーストリア、フランス、ドイツ、ギリシャ、イタリア、オランダ、 トルコ、英国)、アジア(マレーシア、フィリピン)および北アメリカ(米国)に輸入され ており、中近東との経済的繋がりがある日本に侵入するのは時間の問題だろう。 SARS が野生動物由来だったのに対し、MERS は家畜のラクダに由来している(さらに コウモリまで遡る?)ことから、不顕性のラクダに対する予防対策が確立しない限りヒトで の発生は止まらない。日本の感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関す る法律)第十三条では、MERS についてヒトコブラクダの感染を疑った獣医師は都道府県 知事に届け出なければならないと定められている。SARS やその他の伝染病を媒介する動物 は「指定動物」として輸入が禁止されており、この規定は動物園や研究用として特別許可さ -5- れた動物に関する条項である。 出来事の背景 SARS や MERS が出現する以前は、ヒトのコロナウイルス感染は軽度の風邪症候を起 すだけで問題とされてこなかった。しかし、動物ではブタ伝染性胃腸炎、ブタ流行性下痢、 ニワトリ伝染性気管支炎、ネコ伝染性腹膜炎など頻繁に耳にする病気が知られている(家 畜・家禽のコロナウイルス病)。コロナウイルスの種を越える伝播は初めてのことであり、 その由来がコウモリのウイルスにまで遡ると考えられていることは、コウモリを含む各種動 物の生態系が近接し、ウイルスが機械的に体内侵入することで馴化するチャンスが増えてい ることを反映しているのかもしれない。こうした生態系におけるウイルスの動態を調べるこ とはきわめて困難であり、SARS や MERS の由来が明らかになる日は遠いだろう。 差し当たって可能なことは、ヒトに直接曝露する動物(SARS のハクビシンや MERS のラクダなど)を制御することが重要である。中近東ではラクダの乳を生で飲用する習慣が あり、それが感染原因となった事例もあることから、大衆の衛生教育(加熱調理)が重要で あろう。また、MERS については院内感染がきわめて多いことから、医療機関の改善も必 要である。 -6-
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