ベトナム戦争の歴史的概観 フランス⇒16世紀にインドシナに進出→18世紀までにインドシナを掌握→1887年、 ベトナム、ラオス、カンボジアを「仏領インドシナ連邦」とする→ゴム、コーヒー、茶、 綿花などのプランテーションによって莫大な利益を上げる(世界の米の4分の1を輸出、 天然ゴムの3分の1を産出)←「フランス帝国の宝石」 第二次世界大戦中、日本軍の占領によってフランス支配が中断→戦後、フランスは再支 配を試みる ↑ ホー・チ・ミン、 「ベトナム独立同盟(ベトミン)」を組織し、1945年9月2日、 ベ トナム民主共和国の独立を宣言←フランス軍はハノイなど主要都市を制圧 1946年末、戦争勃発(第一次インドシナ戦争) 当初はフランスが快進撃を続けたがやがて戦争は膠着状態に→事態の打開を図る フ ラ ン ス は 1 9 4 8 年 に 臨 時 中 央 政 府 を 樹 立 、 フ ラ ン ス 連 合 内 で の ベ ト ナ ム の 独 立を認める→49年、ホー・チ・ミンの対抗馬として前アンナン皇帝バオ・ダイを擁立し、 傀儡政権を樹立(ベトナム国)←ラオス・カンボジアとともにフランス連合樹立 1950年1月、中国とソ連が民主共和国を承認、北朝鮮や東欧諸国も追随 アメリカ→ヨーロッパの冷戦を考慮し、フランスを刺激することができなかった 1950年2月、イギリスとともにバオ・ダイ政権を承認、5月に対インド シ ナ 1 0 0 0 万 ド ル の 軍 事 援 助 に 踏 み 切 る → 朝 鮮 戦 争 が 始 ま る と 、 イ ン ド シ ナへの援助も強化される、50年9月米軍事援助顧問団が発足 インドシナ=米ソの代理戦争の場になっていく 「ドミノ理論」→インドシナを失えば、西側は東南アジア全体、またインドや中東、さ らに太平洋まで失う アメリカ→戦費の78%を負担、フランス→バオ・ダイ軍の増強、ディエン・ビエン・ フーを舞台にベトミンを粉砕する計画を立てる→ベトミンは強力でフランス軍は危機 にさらされる→1954年3月、フランスは米軍の空からの介入を求める 議会内の反対などもあって米軍は介入せず→54年5月7日、ディエン・ビエン・フ ー陥落 ↓ ジュネーブ会議→北緯17度線で南北に分断 北 - ベ ト ナ ム 民 主 共 和 国 ( ベ ト ミ ン は 不 満 、 国 土 の 4 分 の 3 を 掌 握 し て い た が 、 中 国 は 強 大 な 隣 国 が で き る こ と を 恐 れ て い た → ベ ト ナ ム 分 割 を 支 持 、 ソ 連 も 平 和 共 存 の 考 え か ら 分 割 を 支 持 → ア メ リ カ も分割を認めるようになる) 1 南-ベトナム国 南ベトナム-ベトミンが活動を継続、中央政府は麻痺状態、80万人にも及ぶ難民の流 入 アメリカ→民主的改革によって農民の支持を得て南ベトナムの立て直しを考える→アメ リ カ は イ ン ド シ ナ に お い て 共 産 主 義 勢 力 を 封 じ 込 め る 任 務 を フ ラ ン ス に 変 わ っ て引き受けることになった ↓ 1955年、南ベトナムで国民投票実施→ゴ・ディン・ジエム(反共・反仏の民族主義 者)が圧勝→ベトナム共和国を樹立し初代大統領に就任 ゴ・ディン・ジエム政権→秘密警察やカトリック教会を用いて独裁国家を作り上げる 農地改革も進行せず アメリカ→南ヴェトナムのゴ・ディン・ジエム政権を援助し、その強化に努める 1 9 5 5 年 か ら 直 接 援 助 を 始 め 、 1 9 6 0 年 ま で に 援 助 額 は 1 8 億 ド ル を 超 える ↓ ゴ・ディン・ジエム政権の恣意的独裁的政治→国民の支持を失い、共産主義者やその他 の反政府勢力の組織した革命運動(南ヴェトナム民族解放戦線=ベトコン)の台頭を促し た←アメリカ政府はこれを北からの間接侵略とみなした フルシチョフ→1961年初め、民族解放戦争への支援を表明(第三世界こそ米ソの主 要な戦場である) 1961年、ケネディー政権誕生する頃までにジエム政権は存続が危ぶまれるに至る →ケネディーは南ベトナムへの援助を増やし、軍事顧問を800人から1万6500人 に増員する→南ベトナム政権が解放戦線の武力闘争に対処できることを望んだ→アメ リカのベトナムに対する介入が強化されていった ベトナム→1963年11月にクーデターが起こり、軍人政権が成立→軍人政権も動揺 を続け、指導者の後退が相次ぎ、1964年初には南ベトナムの3分の2はベトコンが支 配→南ベトナム政権の崩壊、解放戦線(ベトコン)の勝利が予想されるに至る ※トンキン湾事件(1964年8月2日)=トンキン湾上の米駆逐艦が北ベトナムの魚 雷艇に攻撃された事件(実際は、領海を侵犯して諜報作戦を行っていたのはアメリカ側だ ということが後に判明、北ベトナムはアメリカの挑発への反撃を行う) ジョンソン政権→1965年初めに本格的な軍事介入に踏み切る→空・海軍をもって北 ベトナム爆撃(北爆)を開始するとともに、南ベトナムの戦闘に地上兵力を含むアメリカ 軍を投入 2 北爆の目的=北から南への補給路(ホー・チ・ミン・ルート)を分断して戦局をアメリ カ に 有 利 に 展 開 さ せ る → 1 9 6 7 年 ま で に 太 平 洋 戦 争 で 用 い た よ り も 多 く の 爆 弾 を ベ ト ナ ム に 投 下 → 6 8 年 末 に は 第 二 次 世 界 大 戦 全 体 の 爆 弾 投 下 量 を超える ジョンソン政権の本格的軍事介入→アメリカが撤退すれば解放戦線の勝利は必至であり、 それは東南アジア各地の武装左翼運動を刺激するのみならず、この地域の共産主義国 家である中国の影響力を著しく強めることになると判断したからである ↓ ベトナムの共産主義者は強固に民族主義者であり、中国に対しては特に独立性を保持し ようと努めていた アメリカの政策決定者→北ベトナムは中国の影響下にあると見なしていた (北ベトナムの勝利は中共の革命理論の勝利であり、アメリカの威信の低下、中国 の地域における影響力を高めると考えていた) アメリカ→解放戦線の後ろ盾である北ベトナムは小国であったから、アメリカにとって たいした負担でないと考える ソ連もベトナム問題でアメリカと軍事的に対決することはないと予想された。 北爆の反復→北ベトナムの士気を阻喪させることはできず、南における大規模な作戦 も解放戦線の抵抗力を弱めることはできなかった 1967年には南ベトナムに派遣した米軍の兵力は50万人を越える→南ベトナム政府 の政治的な弱さは、アメリカの軍事力によって十分補いうるものではなかった ベトナム戦争に対するアメリカ国内の一般的なムード→敗北は望まなかったが、勝つな らば早く楽に勝つべきであり、それができず今のような状態が続くのであれば、介入か ら 手を引くべきだと感じられるようになった 解放戦線は戦闘能力を失いつつあるという政府や軍部の楽観的言明にもかかわらず、1 968年1月解放戦線が激しい攻勢に出る(テト攻勢)→アメリカ国民に大きな衝撃を 与 えた ※テト攻勢=ベトナムのテト(旧正月)を期して解放宣戦側が総反攻に出て(攻撃開始 は1月30日未明)、一時はサイゴンのアメリカ大使館を占拠するなどアメリカ側を震撼さ せた軍事作戦 アメリカ国内→人種対立の深刻化、国際収支の著しい悪化などの事態も、戦争を続ける べ き は な い と い う 世 論 を 強 め た → ベ ト ナ ム 反 戦 の 急 先 鋒 ユ ー ジ ン ・ マ ッ カ ー シ ー 上 院 議 員 が 大 統 領 選 挙 出 馬 の 名 乗 り を 上 げ 、 予 備 選 挙 で 人 気 を 3 集 め る → ケ ネ デ ィ 前 大 統 領 の 後 継 者 と 期 待 さ れ て い た ロ バ ー ト ・ ケ ネ デ ィ 上 院 議 員 も 大 統 領 選 出 馬 を 声 明 す る ( 現 職 の 大 統 領 が 再 出 馬 の 意 思 を 示 し て い る と き 、 同 じ 党 に 属 す る 政 治 家 が 大 統 領 の 政 策 を 激 し く 批 判 し て 立候補表明し、それが多くの支持者を得ることは異例のことであった) ジョンソン大統領→1968年3月31日、テレビ演説を行い、北爆の停止を発表する と と も に 、 北 ベ ト ナ ム 政 府 に 和 平 の た め の 交 渉 を 開 始 す る こ と を 呼 び か け た → 大 統 領 選 へ の 不 出 馬 も 表 明 ← ベ ト ナ ム 戦 争 政 策 の 挫 折 を 認める ↓ 休戦交渉がパリで始まり、アメリカは10月に全面的に北爆を停止 軍事的圧力の強化によって南ベトナムにアメリカの平和をもたらそうとしたジョンソン 政権の試みは終わりを告げる ・ニクソン政権→戦いの主役を南ベトナム軍とする→装備や武器を供給し、空軍の支援を 与えるにとどめる←「ベトナム化」政策 ↓ 名誉ある休戦を考えるようになる→北ベトナムからベトコンの補給ルートを断つ目的で カンボジアも爆撃 カンボジア→70年、クーデターが発生し国家元首シアヌークは北京に亡命→親米のロ ン ・ ノ ル 政 権 → 国 境 地 帯 を 支 配 す る 共 産 勢 力 を 駆 逐 す る た め に ア メ リ カ の 支援を求める→70年4月、2万の米軍、南ベトナム軍がカンボジアに侵攻←アメリカ議 会、カンボジア撤退を決議 1973年1月、議会は在ベトナム米軍の爆撃ための支出を停止←アメリカの戦争を終 結させる→北ベトナムとの休戦協定に調印、5月に完全撤退 米議会→南ベトナムへの軍事援助を削減→軍事力の低下→75年4月、サイゴン陥落、 南ベトナム降伏→1976年6月、ベトナム社会主義共和国成立 アメリカ→1500億ドルを超える戦費を要し、5万7000人の死者を出す ※ベトナム戦争の最大の意義→世界で最大・最強の経済力と軍事力をもつとされたアメリ カが初めて事実上敗れたことである。これによってアメリカは対東側政策をデタント(緊 張緩和)の方向にもっていく ↓ ニクソン政権下のキッシンジャー外交→現実主義的な外交を展開し、米ソの共存や米中 復交などに、少なからぬ成果を残した 4
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