愛の本質について

水曜3限 比較文化論
愛の本質について
生活文化学科 3 年
0118108
山本聡美
1、愛の概念
愛にはいくつもの形があり、ここですべての愛について定義するというのは決して容
易いことではない。それぞれに固有の特徴を持っており、その概念も様々な解釈がなさ
れるためである。けれども、愛は本質的に無限のものである。限りなく、永遠なるもの
である。
生きとし生けるものすべてに愛は存在し、繋がっていく。愛には物質的な要素がないか
らこそ、目には見えないものとして永遠に続いていくのである。では、愛とは具体的に
どういったものであるのか。
愛は、主に「自己実現的な愛」と「他者志向的な愛」という二つのタイプに分類され
る。「自己実現的な愛」は、ギリシャ時代、プラトンが唱えた「エロス」の概念がその
始まりであった。それはエロスの性的・身体的な要素を捨象し、イデアに向かって上昇
し続け自己実現を目指す精神的な欲求を示すものである。また、アリストテレスに積極
的に取り上げられ、優れた資質を持った者同士が理性に基づいて共通の理想を抱くよう
な友情的愛「フィリア」が生まれ、自己実現的、自己充実的な愛の概念が定着した。こ
れらは、向上的愛であり、優れた者同士を励ます愛であるが、自己の下位者とか仇敵と
か資質に恵まれない者まで包み込むような愛ではない、という特徴もあった。
そこに、それまで存在しなかった新しい愛の観念が誕生し、後に「他者志向的な愛」
を生み出すきっかけとなった。それが、キリスト教によって唱えられた「敵を愛し迫害
する者のために祈れ」という人類愛、敵愛としての「アガペー」である。それは自己を
充実させるというより、自己を無にし報酬を求めない犠牲的愛、また他者に向く愛であ
り、それは第一に人間に対する神の愛であるが、神を信じることによって初めて人間に
も持つことが可能になる愛とされた。
一方、東洋では西洋とは異なる愛の観念が説かれ、古代インドでは自己愛は渇愛、愛
執として、これを苦悩の源として否定し、むしろそれらの精神的な束縛を乗り越えるた
めの解脱が説かれた。そして、解脱者が苦悩する衆生への愛として「慈悲」という愛の
観念が生まれたのである。それは人間だけではなく、すべての生命へ向けられるものだ
った。
また、古代中国では、愛に相当するさまざまな観念が登場するが、中でも有名なのは
儒教によって説かれた「仁」である。これは、親子兄弟の血縁関係における親愛の情を
基本としてそれを広く社会に及ぼすことを目指すものだと言える。
聖徳太子の十七条の憲法の中核的な思想である「和」はこの概念に大きな影響を受け
ているが、日本の伝統的な愛の観念は、仏教の「悲」の思想により深く影響を受けた。
また、それは他者に対するやさしさや思いやりという共感的愛を基調とするものだった。
2、永遠なる愛とは
1で、愛は永遠なるものだと定義したが、では実際、日々の生活の中でそれを垣間見
ることが出来るかと言ったらそれは難しい。なぜなら、当然のことであるが人は永遠な
るものではないからである。人が命を失えば、その記憶も感情も同じように消えていく。
プラトンやアリストテレスの説いた「自己実現的な愛」は、自己の愛ゆえに自己と共に
失うものである。自己があってこそ、自己実現は可能となる。それを他者に任せること
は出来ないし、ましてや他者が引き継ぐことも不可能である。つまり「自己実現的な愛」
は永遠ではない。けれども、「他者志向的な愛」はどうだろうか。他者の記憶というの
は、たとえその人物が亡くなったとしても、別の他者によって記憶は受け継がれる。そ
してまたその人物が亡くなったら別の他者が受け継ぐ。というように何度も何度も繰り
返され、続いていく。まさに永遠なるものである。それは愛するというよりは、むしろ
繋ぐという感覚に近い。
何百年、何千年も前に生きた人々が今も語り継がれているのは、こうした愛の繋ぎが
永遠と繰り返されてきた証拠である。「他者志向的な愛」の中心的存在はキリスト教で
あるが、では具体的にどのような宗教観であるのか。キリストが人類の罪をすべて背負
い十字架に掛けられたことから、自己を犠牲にして他者を守るという救世的な愛を重要
視していると考えられる。ただそれはキリスト教に限らず、日常の生活にも随所に現れ
る愛である。子供を庇う親、友達を守る友達など、人が人を想い合って生きているので
あれば、当然の行為とも言える。よって、それよりもキリスト教が永遠の愛を持ってい
ると定義させるのは、「神」という存在が非常に大きく影響している。神は現実的では
ない存在であるがゆえに、永遠なるものである、という感覚が無理なく観念の中に組み
込まれる。神様が世界を創った、と言われるようにすべては神から始まって、それは永
久に続くものだと信じられているのである。では、そのような宗教観から実際、永遠な
る愛と日常の生活とはどのように関わっているのだろうか。
3、愛の本質
今回はキリスト教を例にとって考察する。西暦2004年が訪れた現在、その2千年
も昔の時代を生きたキリストを崇拝する信者達が今もなお大勢いる。これはまさに永遠
なる愛の実証である。つまり、キリストが自ら愛を降り注いでいるわけではなくとも、
語り継がれてきた大いなる愛の逸話が、愛を創り出し、またそれを信じる者に幸福を呼
び寄せている。
宗教とは、人々の生活に多大な影響を及ぼす文化である。神がすべての中心だとする
キリスト教の観念は、生活をも変えていくものである。例えば、神に祈る、神に誓う、
神頼みなど神に関する言葉はそれだけで希望を与える。また教会に行くことや聖書を読
むことで、神の存在を再確認し、神の恩寵に感謝する。しかし、それはすべて自己の中
に存在する感覚であって、現実的なものではない。空想と現実を折り合わせた自分自身
によってのみ確信される希望、期待、奇跡。こういった、曖昧でありながら、しかしは
っきりとした形を持つもの。想像的現実とでも言うべき信念が、生活の中で自然に関わ
っているキリスト教こそ、愛は本質的に無限のものであり、限りなく、永遠なるもので
ある、という定義をするに相応しい観念である。
また、もうひとつ愛の本質を付け加えるとするなら、愛はつまり与えるものであると
いうことである。愛とは代償を求めるものではない。見返りを求めたりする打算から出
ている行動は愛とは言えるものではないということである。愛が永遠なるものであると
するなら、そこに不の要素が含まれてはならない。純粋に、ただ真っ直ぐに繋がってい
くもの。それが愛の本質なのである。