教会は癒しの場所です

使徒言行録 5 章 12~16 節 「教会は癒しの場所です」
教会は癒しの場所です。そして、教会が癒しの場所である時、その教会に集まる人々は
皆、癒される必要のある、病んでいる、傷を持った人々です。体に受けた切り傷、擦り傷
は、時間が経てば、次第に癒されていきますが、心の傷は、時間が経てば治るようなもの
では、必ずしもありません。
今日も私たちは、癒されるべき心の傷を持って、ここに集まり、教会の椅子に座ってい
ます。疎外された時、孤立した時、離別した時、私たちの心には、傷が入ります。その患
部に、時々ズキっと痛みが走ったり、長い鈍痛がずっと続いたり、いつまでも消えない違
和感が心に残り続けて、胸がつかえたりします。
自分で静かに静まって、自分自身を顧みながら、その自分の心の傷口を、改めて丁寧に
指でなぞる時、その傷口は、孤独というかたちをしていることに、ふと気付きます。孤独
は、更なる孤独を誘発し、傷は傷を生みます。
癒しという言葉が市民権を得て、日常的によく使われるようになりました。そして本当
に色々な癒しや、癒し系と称されるものが生活に溢れています。温泉、エステ、グルメ、
カフェ。けれども、単純にそういうことだけでは癒されないものが、心の奥底にあるとい
うことを、私たちは知っています。
何年か前にテレビで作られた、無縁社会という造語がありましたけれども、私たちのこ
の社会は、周りはいつも人で溢れていて、人と人との物理的な距離感もとても近いのです
けれども、どこに居ても、都会のど真ん中でも、絶望的な孤独をすぐに体感することので
きるような、体感させられるような社会です。もうそこでは、孤独が日常化され過ぎてい
て、孤独でいるのが、異常なことなのではなく、むしろ普通で、私たちの心は、もはやそ
れを傷だとも何とも感じなくなるほどに、麻痺してきているとも思います。
けれども、意識するしないにかかわらず、孤独は、私たちの心の奥深くにまで達する深
い傷です。ですから多くの人々が、孤独から解放されるために、愛を求め、友情を求め、
親密さを求め、自分がどこかに属しているという所属意識を求め、あるいは孤独から目を
背けて、束の間の時間、癒し系の何らかを求めます。
そしてこれは、今の時代に始まったことでは全くなくて、主イエスがおられ、使徒たち
が生きた、この聖書の時代にも同じようにしてありました。今朝の御言葉を見ると、弟子
たちの周りは、この時代の教会の周辺には、癒しを求める人々が溢れるようにいたという
ことが分かります。
主イエスの弟子たちは、多くのしるしと不思議な業を、人々の間で行っていました。そ
してこの今朝の御言葉が語られている直前には、アナニアとサフィラという夫婦が、サタ
ンに心を奪われて、献金の代金をごまかした結果、息絶えて葬られたというショッキング
な事件も起きていましたので、その事件からの余波が、今朝の御言葉にも及んでいます。
教会全体は、アナニアとサフィラの件によって、益々神様にあって一致し、神様を深く畏
れ敬うことへと導かれましたが、その真剣さと厳粛さは、教会の周辺にいる人々にも伝わ
っていたようです。今朝の 13 節に、
「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはし
なかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
」と記されています。人々は、神様を、人
間に勝って、非常に厳粛にまた明確に、畏れて歩む。そこで一致するという、世間一般の
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価値観とは別の価値観で生きている初代の教会の人々から強いインパクトを受けて、
「この
教会の人々は、何という変わった、特別な人たちなのだ」と、自分たちと教会の人々とは
ちょっと違うということを知らされつつも、しかし人々は、そういう教会の人々のあり方
に、神様を心から崇めて、その神様の力を受けて生かされている教会の人々の姿に、深く
感銘を受けていた。そういう意味で、人々は一目置いていたわけです。
そして、このような教会の人々の証しは、14 節にあるように、実際に多くの人々に感化
を与え、多くの男女をその救いに招き、主なる神様への信仰を持って生きる人々の数は、
ますます増えていきました。
「地の塩」という主イエスの言葉が、弟子たちを形作り、この教会を形作っていたわけ
ですが、伝道とは、いたずらに世間に同調していくことなのではなくて、世の中に対して
塩気を利かせる、スパイスを利かせる。違った価値観、違った生活スタイル、違った信念
で世間に相対することなのだ、ということを、ここから改めて確認できます。塩気の利い
た証しによって、良い意味で、教会の存在が世の中に浮き上がる。悪い意味で世間から浮
いてしまい、世の中から切り離されてしまうのではなくて、例えば塩が塩味を利かせるこ
とで、お肉という料理全体の味をさらに引き締め高めるように、世の中に繋がりながら、
世の中との違いを証しすることで、教会は人々に対して貢献可能な、救いを提示すること
ができる。伝道を考える時に、人々に伝わる方法は何かということはたゆまず追求してい
きながらも、伝える福音の内容については、それを薄めてはならない。このことが、ここ
から改めて確認できます。
そして教会が、特別に他の場所と異なっているからこそ、人々は、周辺の町々からも、
このエルサレムに誕生したキリスト教会に、多くの病人と共に押し寄せ、また肉体的な病
気のみならず、16 節にありますように、霊的な問題、心の問題を抱えた人々も、教会を目
がけて押し寄せてきました。
そもそも、病を癒す病院と言う場所は、教会の働きから始まったとも言われています。
また、このプロテスタント、改革派教会が、その発端である宗教改革の時代から重要視し、
強調してきたことも、人々を癒し、ケアしていくためのディアコニア、執事的な奉仕と働
き、ということでした。
教会は、病院だった。癒しの場所だった。そこに集まっていたのは、健康な人ではなく、
病を負い、傷を負い、疲れ、力を失った、力づけられることを必要とする人だった。今も
同じです。だから逆に言えば、元気がないから教会に行けないのではなくて、元気がない
からこそ、教会に集い、そこで癒され、力を回復して送り出される。そういう教会になっ
てなければならない。もし今の教会がそうなっていないのであれば、教会が大切にすべき
原点はここにあったのだということを、私たちが絶えず聖書から教えられて、そこに立ち
帰っていかなければならない。
では、より具体的に、教会はどうやって、癒しの場所になるのでしょうか。癒しはどの
ようにして起こるのでしょうか。教会は病院だったという時の病院と言う言葉は、ホスピ
タリティー、もてなしという言葉から来ています。現代においては、病院というところは、
もてなしをしてくれるところと言うよりも、病気を除去してくれる場所、病気を取り去っ
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て、新しい健全な臓器、骨、器官を体に埋め込んでくれる。自動車の整備工場のような、
そこでパーツを新しく入れ替えてもらう場所のようになっていますけれども、教会にはそ
のような、健康を切り売りできるようなストックはありませんし、全ての問題を解決して
くれるような牧師がそこにいるわけでもありませんし、もの凄く理想的な人間関係がそこ
にあり、全てに満足できるコミュニティーがそこにあり、人生をバラ色に変えてくれる運
命的な男女の出会いがそこにあったり、自分にぴったりの仕事がそこに用意されていたり、
ということも、必ずしもありません。
では教会には何があるのか。
今朝の 12 節には、使徒たちの手によって、という言葉が最初にあります。使徒たちは、
人を癒す時に、その人に、手で触れました。なぜでしょうか。主イエスも、いつも同じ様
にされたからです。
例えば、マルコによる福音書 7 章 31 節からの場面では、主イエスは、耳が聞こえず、舌
の回らなかった人が連れられて、この人の上に手を置いてほしいと依頼された時に、主イ
エスは、その人だけを別のところに連れ出して、指をその両耳に差し入れ、それから唾を
つけてその舌に触れられ、天を仰いで深くため息をつかれました。そのあと、
「エッファタ」、
「開け」と言って、耳を開き、舌のもつれを解き、話せるように癒してくださったのです
けれども、最初に主イエスがされたことは、その人だけを連れ出して、一対一で、その人
だけを見て関わるということでした。これぞもてなしだと思います。指をその患部の両耳
に差し入れ、それから唾をつけて、その舌に触れられました。この動作はなんだろう、と
思います。人の耳の中に指を入れたり、入れられたりということは、普通はしないことで
す。さらに主イエスは、その人の舌に、自分の唾液を付けて乗せるということまでされま
した。何のためにでしょうか?なぜこれほどまでに、主イエスがこんな、効果があるのか
ないのかよくわからないことまでして、この人とべったりしておられるのでしょうか。
恐らくこれは、この人と一体化するためにです。普通では考えられないぐらいの距離感、
近さがここにあります。その証拠に、そのあと主イエスは、天を仰いで、深いため息をつ
いた。それは、深くうめいたという言葉です。主イエスは、この人を胸に抱きながら、天
を仰いで、
「ううっ」と呻いた。この人が抱えてきた痛み、孤独、本当に言葉にならないう
めきを、主イエスは一緒に感じ取って、彼と体を重ね合わせて、彼の言葉にならないよう
な苦しみ呻きを、一緒に呻いてくださったのです。こんな共感の仕方があるでしょうか?
外がからではなくて、この人の苦しみの内部に主イエスは入り込んで、それを味わってく
ださった。
主イエスの癒し方は、孤独を取り去り、病巣を摘出するのではなくて、そこに触れ、そ
こに届き、傷を一緒に分かち合ってくださって、私たちが、独り孤独に傷ついているとこ
ろから、私たちを、独りにならないように守ってくださる。そのもてなしと寄り添いの結
果、孤独が癒され、傷が癒されていく。それが主イエスの癒し方です。旧約聖書のイザヤ
書も、十字架に架かって、心身に傷を受け、渇くと言って息を引き取られた主イエス・キ
リストを指して、「彼の受けた傷によって、わたしたちは、いやされた」と語っています。
ヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭の著作に、このような言葉があります。
「分
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かち合われた苦痛は、それが解放への道として理解される時、もはや麻痺させるものでは
なく、人を前進させる。キリスト者の共同体が癒しの共同体であるのは、そこで傷が癒さ
れ、痛みが緩和されるからではなく、傷や痛みが、新しいヴィジョンの生ずる場や機会と
なるからにほかならない。
」
癒しを必要とする人々に、私たちが差し出すことのできるものは、私たちも受けたもの。
主イエスが共にいてくださる。私の傷を主イエスが知っていてくださる。主イエスが共に
傷を担ってくださるという福音です。そしてこの福音には、病を癒すどころか、死を突き
破る、永遠の命の力が宿っています。
今朝の御言葉の最期に、
「一人残らず癒してもらった」という言葉がありますが、これは
嬉しい約束の言葉ではないでしょうか。ある牧師が「癒されるとは、自分が愛されている、
と知ることなのだ」と語っていましたが、キリストの体である教会に人々が招かれ、そこ
に主イエスがかたちづくってくださったもてなしを受ける時、全ての人が、あなたは愛さ
れている。だから一人ではない。孤独ではないと言っていただけて、実際に、永遠に、癒
され愛される。それをしてくださる主イエス・キリストとの出会いと救いを、一人残らず、
経験できるのです。
教会は癒しの場所です。教会こそが癒しの場所です。全ての人がイエス・キリストに癒
される、そのような人生が、ここにあります。
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