≪聞き慣れた、しかし、厄介な問い≫ 「もし今度生まれ変わるとしたら、あなたはどうしますか?」。 「もしあの時決断していな ければ、今のあなたはどうなっていたでしょう」…。このような問いかけを、私たちはしば しば耳にしますし、自分に向けて語られることがあります。そして、私たち自身もそのよう に自問することがあります。 「もし…したら、どうする」。他愛ない日常のおしゃべりの範囲 内であれば、そのような問いによって話は盛り上がるでしょうし、あるいは想像の翼を広げ る(?)こともできるかもしれません。 けれども、私たちの生活や国の行く末に深くかかわるところでは、むしろこの聞き慣れた 問いは厄介な問いに変わってしまうことがあります。「もしどこかの国が攻撃してきたら、 あなたはどうしますか?」、 「もし明日からの家計がこんなにも悪くなるとすれば、あなたは どうしますか?」。そのような問いが毎日のようにテレビから流れてきたり、政治家等の口 から発せられています。 それが私たちにとって「厄介」だというのは、そのような問いにおいて前提になっている のが「ワタシ」の決断次第ですべてが決まってしまうかのように考えられていることです。 それほど私たち一人ひとりは周りの状況を動かせるほどの力をはたして持っているのでし ょうか(普段の自分を考えてみればよく分かることだと思うのですが…)。そして、 「もし…」 という問いの中で考えられているように、私たちの生きている現実は、「あれかこれか」の 物差しで計ることのできるものなのでしょうか。しばしばこの問いが口にされるところでは、 「現実的」という言葉が添えられて語られます。けれども、自分の前には相反する二つの道 しか選び取ることができず、その選び取る道によってすべてが決まってしまうと考えること の方が、むしろ非現実的であり、現実を機械的にしか理解しようとしない態度なのではない でしょうか。もはやそこには、別の可能性を見出そうとする努力も、この世界が自分たちの 思いもしなかった驚きに満ちており、私たちの生はそのような驚きを経験するために与えら れている場であるという期待も無いように思えます。 キリスト者とは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこ とを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(1 コリント 2:9)ということを真剣に受け留め ている人のことです。そして、 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」(詩編 118:22) という事実がイエス・キリストの死と復活において確かに起こったのだということを知って いる人のことです。それゆえ、私たちはこの世の判断によってもたらされるどんな結果にも 絶望しませんし、キリストに基づく命と平和の道を指し示すよう招かれています。 (藤井和弘)
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