<グローカルの眼(67)> アメリカにおけるヒスパニック系の潜在力 小倉英敬 『タイム』誌の1990年4月9日号は、同年の国勢調査の速報値に依拠してアメリカ 人口の将来予測を行い、2056年には白人人口が過半数を割るという衝撃的な予測を発 表した。2006年にアメリカの人口は3億人を突破し、2007年5月国勢調査局はマ イノリティの総数が1億人を越えたと正式に発表した。特にヒスパニック系は全人口の1 4.8%で4430万人に達し、白人に次ぐエスニック集団としてその増加がアメリカ社 会に与える影響が注目されている。本稿では、ヒスパニック社会の動態を整理しておきた い。 1.ヒスパニック社会の推移 ヒスパニックという用語は1980年度の政府統計資料から「スペイン語系・ヒスパニ ック系」と使用され、一般にスペイン語を母国語とする集団で、メキシコ系、プエルトリ コ系、キューバ系、中央・南アメリカ系などが含まれると理解されている。しかし、ヒス パニックという表現では不十分であるとして、特に先住民やメスティソ(混血)なども含 むラテンアメリカ出自の民衆の伝統や文化を表す「ラティノ」という用語を意識的に用い る人々もいる。ブラジル系や旧イギリス植民地出身者は、ラティノに分類されるが、厳密 にはヒスパニック系に分類されない。 そもそも現在のアメリカ合衆国の領域内にヒスパニック系の人々が存在するきっかけと なったのは、いうまでもなくスペイン人による北米地域への探検とその後に続いた小規模 ながらの植民地化、そして1840年代に生じたテキサス併合と米墨戦争の結果としてカ リフォルニア州などがアメリカに割譲されたことに起因する。 その後、メキシコからの移民の大量流入は、アメリカの工業化と西部フロンティア開拓 が進んだ1870年代に始まり、1924年に公布された移民帰化法によって包括的な移 民規制の枠組みが形成され、それが1960年代前半まで基本原理として定着したため、 米墨間の経済格差は大きかったものの、メキシコ人移民が急増する事態にはならなかった。 しかし、1965年に公布された移民帰化法によって移民規制が緩和されたのを契機とし て、メキシコからの移民は増加に向かった。この移民法が既存の移民の家族を優先的に受 け入れる措置を導入したことから、移民血縁者の急増を招いた。また、1964年に終了 した「ブラセロ計画」 (第2次世界大戦中に不足した国内労働力を補完するためにメキシコ などから非熟練労働者を一時契約で導入した制度。1964年まで延長された)により流 入した契約労働者の多くがそのまま不法移民に移行した。 不法移民が増加する一方で、不法移民の雇用が長期にわたって違法とならなかった の は、 「雇用」行為は処罰の対象外とされてきたためであった。そして、雇用者罰則の法制化 が1970年代以降の移民法改革論議の具体的争点となった。1987年に施行された「移 民改革統制法」は、一部不法移民の合法化を容認するとともに、新たな不法移民の流入に 対する取締りの強化を規定した。この法律によって約300万人が合法化されたにもかか わらず、新規の不法移民の流入を阻止する効果は上がらなかった。1990年代に入ると、 不法移民問題は別の要因と相まってより重大な事態をもたらすことになる。この間、ヒス パニック系の人口は、1970年には907万人、1980年には1461万人、199 0年には2235万人に増加していた。 1990年代初頭、不法移民の最大の目的地であったカリフォルニア州は、湾岸戦争後 の不況に加え、冷戦終焉の結果として軍需産業の需要減によって厳しい不況に直面した。 このような不況下で、不法移民に対する排斥の機運が中間層を中心に強まった。反移民団 体が次々に結成され、州の財政窮迫化の原因を不法移民の存在と結びつけ、 「提案187」 と呼ばれる住民直接請求と、不法移民を社会的サービスから排除する法律が成立する。こ のような「草の根」的な中間層の保守化傾向の中で拡大した移民排斥の機運は、国境管理 の強化と移民たちの社会的な領域からの排除をもたらした。後者に関しては、1996年 に合法移民の規制強化を目的とする「福祉改革法」と、不法移民の規制強化を目的とする 「不法移民改革法」が成立した。 規制強化策は、不法移民や合法移民を吸引する社会的なサービスの持つ吸引力を抑制す ることを目的としていたが、実際には不法移民の越境の減少も、帰国の増加も生じなかっ た。また、合法移民の入国数も1990年代を通して高い水準で推移した。結果的に見れ ば、規制強化の主眼は新たな移民の流入を抑制したり、既存の移民を排除・送還すること にはなく、移民を労働力として利用することを否定せずに、負担の軽減を図ることにあっ たといえる。逆に言えば、移民労働者に対する需要は引き続き存在し、その一方で社会福 祉・教育面での負担の軽減が求められた。 2.人口動態におけるヒスパニック系の重要性 1990年から2000年までの10年間のアメリカの人口増加率は全米平均で13. 1%であった。しかし、この人口増加は全米各地で均等に起きたのではない。この10年 間に人口増加が顕著であったのはネバダ州、アリゾナ州、コロラド州、ユタ州、アイダホ 州、ジョージア州の6州でいずれも25%以上増加した。 人口増加が顕著な州の人種別比率には2つのパターンが存在する。1つのパターンは、 ヒスパニック系人口の割合が際立って高い州が存在する。アリゾナ州およびネバダ州では その割合が全米平均に比べて極めて高い。カリフォルニア州の人口増加率はほぼ全米平均 並であるが、ヒスパニック系人口は州人口の3分の1を占めている。カリフォルニア州に 隣接するアリゾナ州およびネバダ州でヒスパニック系人口が大きな比率を占めている。 もう一つのパターンは、白人人口は全米平均を大きく上回るが、ヒスパニック系人口の 比率が低い州である。アイダホ州、ユタ州、コロラド州では白人人口が全米平均を大きく 上回るが、ヒスパニック系人口は少ない。これは、従来住んでいた州のヒスパニック系人 口の増加に伴い、近隣の州に移住した白人が多いためと解釈される。また、ヒスパニック 系人口が既に全人口の3分の1及び、全米平均の約3倍を占めるカリフォルニア州では、 アジア系人口の占める割合も高く、全米平均の3倍である。現状では、カリフォルニア州 を除いて白人人口が過半数を占めるが、ヒスパニック系人口の急増は、アメリカの人口の 将来ビジョンを大きく変わらせる可能性があることをうかがわせる。すでに、ヒスパニッ ク系人口の急増が、白人及びアフリカ系人口の双方に他州への人口移動をもたらす傾向が 見られ、 「人種別棲み分け」とも言いうる現象が生じている。 2007年5月、アメリカ社会は白人人口が総人口の66.4%の1億9800万人で、 ヒスパニック系が14.8%の4430万人、アフリカ系が13.4%で4020万人、 アジア系が5.0%で1490万人が続いている。さらに不法移民が1200万人いると 推定されているが、その多くがヒスパニック系と見られる。また、ヒスパニック系は「合 計特殊出生率」(一人の女性が一生に生む子どもの数。自然増と自然減の境目は2.08。 日本人女性は2007年に1.32)においても3.0人と、アフリカ系の2.2人、白 人の1.9%と比較しても高く、増加する非白人人口の中においても最も人口急増が見ら れるエスニック集団である。 2007年8月には全米3141郡のうち、ほぼ10%に相当する303郡で、ヒスパ ニック系、アフリカ系、アジア系などのマイノリティが多数派居住者となっていた。移民 の増加やヒスパニック系の高い出生率によって、白人は多数派から転落する地域が増え続 けており、アメリカ社会が人種・文化摩擦を拡大する懸念が生じている。2008年2月、 民間調査機関である「ピュー・リサーチ・センター」は、ヒスパニック系人口の割合は、 2005年の14%から2050年には29%へと飛躍的に増加するとの予測を発表した (白人は67%から47%に減少) 。 3.2008年大統領選挙とヒスパニック系社会 ヒスパニック系は民主党色が強いと言われるが、2000年及び2004年の大統領選 挙におけるフロリダ州の選挙結果に見られるように、必ずしもそうではない。穏健なカト リック信者の多いヒスパニック系は、社会格差の問題には敏感ではあっても、政治意識の 面では保守的な一面もある。また、ヒスパニック系の政治参加は低調であった。本年11 月に実施される大統領選挙には、4年前の大統領選挙時よりも約100万人増えて、過去 最高の865万人が投票行為を行うと推定されている。 2000年の国勢調査においてヒスパニック系人口がアフリカ系人口を上回って最大の マイノリティ集団になった頃から、ヒスパニック系の政治的存在感がアメリカの政治面で 拡大している。特に2005年12月に不法移民の規制を強化する法案が下院共和党より 提出されて通過し、ヒスパニック系を中心とする大きな抗議行動に拡大して以来、ヒスパ ニック系の人々の政治意識が従来よりも鮮明になってきていると言われる。 下院共和党が提出した「不法移民取締り法案」は、不法移民対策の強化を目的として、 国境警備に関してはメキシコ国境での約1120キロのフェンス建設、不法移民の法的地 位に関しては不法滞在を重罪とみなして雇用した者に罰則化するという厳罰主義に基づく 法案であった。これに対してヒスパニック系の人々は人権団体などとも連携して翌年3月 から抗議行動を開始し、4月にはアフリカや東欧からの移民労働者も加わって、全米で1 00万人が参加する抗議行動を展開した。このような「不法移民取締り法案」に対する反 発が強まると、上院共和党が不法移民をゲストワーカーとして一定期間の滞在を認めて、 将来的には市民権取得の可能性も与える「包括的移民制度改革法案」を提出し、同年6月 に可決された。こうして共和党は上下両院において異なる傾向の不法移民対策法案が提出 することになり、両院議員団の間で調整が行われたが、最終的には両案ともに廃案に追い 込まれた。 不法移民対策に関連する法案が廃案にまで追い込まれた背景にはヒスパニック系社会全 体の危機感があったことは確実であるが、他方で政治意識の覚醒に大きく影響したと言わ れる。このような政治意識の鮮明化の延長線上に、今回の2008年大統領選挙がある。 現時点ではヒスパニック系人口は、民主党予備選挙においてヒラリー・クリントン上院議 員を候補者指名レースに踏むとどまらせる原動力となっている。 4.ヒスパニック社会の潜在力 ヒスパニック系が政治的存在感を強めていることは確実である。他方で、その存在感は 経済面にも表れている。平均年収は20年間に倍増、購買力も1990年から2005年 の15年間で3.5倍の7350億ドルに達している。この市場規模は、新興諸国である ロシア、ブラジル、インド、メキシコに次ぐ大きさであり、いかに巨大な市場であるかが 認識されよう。 このような市場規模の拡大と相まって、ヒスパニック系人口のメディアに占める重要性 も増大している。例えば、スペイン語メディアへの広告費(2005年)は34憶ドルで、 10年間の3.2倍に増加した。ヒスパニック系最大のテレビ網ウニビジョンは62局を 傘下に平均視聴者は370万人で全米第5位のメディアに成長している。ラジオ局も全米 に750局あり、新聞は2005年に日刊・週刊紙あわせて約400紙が発行されており、 発行部数は計1200万部を突破している。 ヒスパニック系の中で最大の集団は63%を占めるメキシコ系である。メキシコは、1 836年のテキサス独立、1846~48年の米墨戦争によって、当時のメキシコ領土の 半分以上をアメリカに奪い取られた過去もあり、アメリカに流入するメキシコ系の人々の 中には、メキシコ系人口のアメリカ領内への浸透を、「レコンキスタ(再征服)」と意識的 に呼ぶ人々がいる。また、米墨の国境の両側に、国境を越えたメキシコ系の人々の相互扶 助を目的としたネットワークが形成されているが、メキシコ系の人々が形成する越境的で 国境を希薄化させる実態は、アメリカの「国民化」の理念を崩壊させかねない潜在的な起 爆力をも秘めていると言える。 他方、移民が増加すれば犯罪も増加するとの固定観念が存在するが、ハーバード大学社 会学部長のサンプソン教授が2008年3月にアメリカ社会学会の機関誌『コンテキスツ』 に発表した論文は、アメリカでは1990年代以後、不法を含めた移民が増加するにつれ て犯罪は減少しているとの調査結果を示している。同教授に拠れば、第一世代の移民は、 移住してから3世代目のアメリカ国民に比べ、犯罪件数が45%も少なく、アメリカに長 く住めば住むほど犯罪に関わる率が高まる傾向が存在する。ヒスパニック系の増加がアメ リカ社会の犯罪増加には直接的にはつながっていないのである。 白人人口と非白人人口が逆転する2040年代に向けて、政治面でも経済面でも、非白 人人口の中でもヒスパニック系人口の存在力が顕著に強まっており、アメリカ社会の近未 来を制するのはヒスパニック系人口であることは疑いない。 (4月30日記、常磐会学園大 学教授)
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