血みどろ博士

■連載小説『血みどろ博士』
第
血みどろ博士
「ああ、よく死 ん だ 」
回(最終回)■
ふいに、肉の塊が甲高い声をあげたので、博士はぎょっとする。
「えっ、なんだ っ て ? 」
「よく死んだといったのですよ、博士」
遠藤徹
endou touru
「ああそういうことか。君は、自分を食らって死んでしまったのだったね、人食
い牧師」
「人食い牧師? いったいなんのお話でしょう?」
怪訝な調子で問うてくる血みどろのかたまり。
「わたしはあくまでわたしであって、たとえ死んでいた間とはいえ、人食い牧師
などという名称をおびたことがあるとは到底信じがたいのですが」
「ほんとうかね 」
血みどろのかたまりがあくまで血みどろのかたまりとしての同一性を主張する
ので、博士は、少し歴史的意識というものについて語りたくなる。
「つまり、こういうことなんだよ」
血みどろ博士は、血みどろの両手を盛んに動かしながら、経緯を説明する。血
みどろの両手からは、いまだに動きに伴って血しぶきが乱れ飛ぶ。
君が死んでから、人食い牧師が現れて君を食った。わたしと語り合うなかで、
互いに自分を物語る可能性を探ろうということとなった。その物語を通して人食
い牧師は家族を得たが、その直後に自ら屁理屈をこねてそれを失った。その悲し
みのなかで牧師は自分を食らって果てた。神への絶対帰依を達成して、血みどろ
のかたまり、つまり君へと変性したのだ、といった概略を血みどろ博士は語って
聞かせる。
「ふうむ、それ は 興 味 ぶ か い 」
血みどろのかたまりは楽しそうにその話を聞く。
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「わたし自身の感覚としては、とうてい受け入れがたい物語ですがね、それは」
「なんと」
博士は驚愕を 禁 じ 得 な い 。
「君はいまのが物語だと、人食い博士の出現と消滅そのものが、わたしがでっち
上げた物語だと い う の か ね 」
「まあ、いずれとも言い難いですね」
なにしろ証拠がありませんから、そのなんとか牧師がいたという証拠ですよ。
「そうでしょ」
問い詰められると、確かに人食い博士には、反駁のよりどころとなる証拠がど
こにも見出せな い の だ っ た 。
経験と物語の境目、現実と虚構の境目が定かでなくなってしまった博士が、自
分の実在を疑い始めたとき、血みどろのかたまりが陽気に声をかける。
「ところで、どうなのです、博士はどんな物語を紡がれたのですか」
「いや、実はわたしはまだなんだ」
ほんとうは、物語ることが怖かったのだとは、博士は告白できずにいる。人食
い 牧 師 の あ の 末 路 を 見 て し ま っ て、
物語の力の恐ろしさが身に染みたか
らだ。
「ああ、そうだったのですか」
それよりむしろ、わたしは君の話
が聞きたいのだが。君にわたしのこ
と を 教 え て も ら い た い。 あ る い は、
わたしという存在を作り出してもら
いたいのだ、と博士は懇願しようと
する。けれども、血みどろのかたま
りは、そんな博士の内面のうろうろ
に気づいているのか気づいていない
のか、あるいは気づいているのに気
付 い て い な い ふ り を し て い る の か、
まったく頓着しない感じで、問いか
ける。
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「じゃあ作りましょうよ、あなたの家族を。あなたの妻を」
その口ぶりにじゃっかん意地悪いものがこもっているのを博士は感じ取る。や
はり、この血みどろのかたまりはわたしに対してなにかふくむところがあるのだ
と気づかざるを え な い 。
「 い や、 わ た し は ど う も 、 家 族 と い う 方 向 に は 想 像 を 巡 ら せ る こ と が で き な い よ
うなんだ。血みどろ博士という名前のせいかもしれないな」
博士はかまをかけてみる。何かこの血みどろのかたまりから言葉を引き出せな
いかと期待するのだが、あっさりと無視されてしまう。
「じゃあ、どんな方向なんです。博士の想像が巡っていく先は」
「そうだな、私の場合、むしろ、マッドサイエンティスト的な物語なんじゃない
かな」
「ほほう」
これまたかまをかけたわけだが、血みどろのかたまりはただ興味深げな声をあ
げるばかりだ。
「それはなかなか気宇壮大ですね」
「うん、そうなんだよ。たとえば、どうかな。わたしは人類血みどろ化計画をた
くらむ狂った科学者である、という
のは」
「うーん、いい感じですね。イメー
ジが湧きます」
つ ま り、 そ う い う こ と な の か い。
わ た し が 君 を こ ん な 風 に し た の は、
そういう流れがあったからなのかい
と博士は表情をうかがおうとする
が、何しろ相手はただの血みどろの
かたまりなので、どんなにふるふる
揺れようが、そこに表情的なものを
うかがい知ることはできない。
「だろ?」
仕方なく博士は、話を前へと進める
ことにする。
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「たとえば、なんというのかこう、感染性のある細菌とかウイルスを作ってばら
まこうとしているというのなんかどうかな」
「エボラ出血熱的なあれですか」
「そうそう、マールブルグ病、ラッサ熱、クリミア・コンゴ出血熱といった類の
やつだよ。でも、それをさらに劇症化したものでなくちゃならないね。なんとい
うのかこう、全身からびゅっつびゅっびゅびゅーっと血を吹き上げながら、体が
本来のかたちを失っていくという風なビジュアルイメージが欲しいところだよ」
そして、最後には血みどろのかたまりになるっていう風な、とつづけようとし
たのだが、あまりにも相手への配慮に欠けるような気がして、博士は口をつぐむ。
けれども、博士は自分が興奮し始めていることに気づく。うっとりとなって、想
像が風船のように膨らむのを抑えることができない自分に気が付く。
「いいかい」
「さきほど例にあがったエボラにせ
気づけば、博士はまた話し始めている。ああ、わたしは饒舌になっているなと
博士は気が付くがどうしようもない。
よマールブルグにせよ、ウィルスの
側 に は 別 に 悪 意 な ん て な い ん だ よ。
ただ生存のためにがんばっているだ
け。自分の種族を保存するために努
力しているだけなんだ」
「なるほど、彼らは彼らなりに一生
懸命生きているのだと、そうおっし
ゃるわけですね」
「そうそう、そうなんだ」
博士はうんうんとうなずく。
「でも、わたしが作るものは違うん
だよ。なぜなら、そこには明らかな
意図が、あるいは明らかな悪意が潜
在しているからね」
「最初から人を血みどろにするのが
目的だという点ですね」
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「そうそう、そ こ な ん だ よ 」
やっぱり君はわかっているねと、博士は笑顔になる。
「あるいは美学とこれを言い換えてもいいかもしれないな。というのも、わたし
には人類を恨むような理由はとくに見当たらないからなんだ。むしろ、人が人と
してのかたちを失い、最後には小さな肉の塊となり果て、そして出血の勢いでさ
らにそこから肉片を吹き飛ばしながら死んで行く。そのイメージを美として崇め
ているということなのかもしれないよ」
ふいに、びゅっびゅっと血しぶきがあがる。血みどろのかたまりが、全身から
血をふいたのだ。博士は気が付く。それが血みどろのかたまりなりの賛嘆の念の
表現なのだと。いわばそれは、血みどろのスタンディングオベーションなのだと。
「なるほど、つまり博士はアーティストだというわけですね」
「うん、そうだ。そうなんだよ」
芸術は血みどろだ! と博士は叫んでみる。なんとなく、様になっているよう
な気がしてくる 。
「もしかしたら、あなたは完成したウィルスの実験に使うのかもしれませんね、
助手だった人物を」
来た、ついに来た、わたしの誘導に
ひっかかったぞと博士はほくそ笑む。
「そうだよ。そうなんだよ。わたしは
助手を、いや恋人であり愛人ですらあ
った共同研究者を非道にも被験体に選
んだんだ。その背徳。その外道。その
自責の念。せめぎあう後悔と美学、崩
壊する魂の恍惚。ああ、その胸の痛み
と苦しみ、それにもかかわらず、いや
もしかしたらそれゆえに、わたしを駆
り立ててやまない究極のウイルス開発
への衝動!」
うっとりとなって博士は叫ぶ。
『どうして、先生。どうしてわたしな
の』
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そんな風に、悲しげな目で見上げる助手あるいは共同研究者の女性。そのつぶ
らな瞳はそれでも語っている。愛しています。だからわかってます。わたし先生
の大義のために、なんの意味もない人類血みどろ化だけれど、そこに先生が命を
張っておられることはわかっています。そして、実験体を必要としているという
ことも。
『すまない。すべてはわたしの我儘のためなんだ』
わたしはそう答える。その言葉にも嘘はない。わたしは彼女を愛しているけれ
ど、実験をやめることもできないのだから」
身振りをつけて、血みどろ博士は口ずさむ。まるで恋愛詩を口ずさむように。
「そうだ、そういうことなのだ」
血みどろ博士は狂喜して叫ぶ。
「なにしろ、わたしはマッドサイエンティスト。狂える科学者血みどろ博士なの
だから」
思わず血みどろ博士は血みどろのかたまりにすがりつく。そして、血みどろの
頬を血みどろのかたまりにこすりつける。愛しげに、そして切なげに。
「どうでした」
血みどろのかたまりが問う。
「満足したよ」
「それはよかった」
「満足だとも。とてもとても満たさ
れた」
血みどろ博士はけれども次の瞬間
に愕然となる。すりつけた頬が血み
どろのかたまりから外れなくなって
いることに気が付いている。
「おや、これはどういうことだろう」
「別に、どういうことでもありませ
んよ」
「まさか、君は」
「ええ、そうですとも」
ふるふると血みどろのかたまりが
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震える。震えるたびに博士の頭部は、血みどろのかたまりの中へと吸い込まれて
いく。
「おいしくいただきましたよ。博士の物語。実においしかった」
いいながら、血みどろのかたまりは博士を呑む。頭部を失った博士はすでに、
博士ではない。血みどろのかたまりの一部となり、徐々に吸い込まれて消えてい
く。首、肩、胸、腕、胴、下腹部。足。そして、血みどろの足首がすういっと飲
み込まれていく。血みどろのかたまりの中へと。
けれども、血みどろ博士の顔に恐怖はない。むしろ喜びが、解放されたものの
感謝の念すら浮かんでいる。ようやく忘れることができる。自分というものを。
その果てしない恍惚。これぞ、救済である。なぜなら自我こそが地獄なのだから。
自我こそが地獄だったのだから。
一人の少女が、不思議そうに見回している。
部屋を。
7
血みどろの。
血みどろで。
ふいに少女が、嘲るような笑みを浮かべる。
「ばかばかしい 」
少女は、部屋 の 壁 を に ら む 。
「なあにが、切 り 裂 き 少 女 よ 」
すると、
そこにのわりと扉が現れる。
さらにも眼光するどく、壁をにらみつける。
「あたしはひっかからないわよ」
回 最終回 了)
ドアノブをまわして扉を開くと、眩しい光がさしこんでくる。
少女は光のなかへと歩み出る。
(第
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