フランス文学研究 IVb:「パリの美術界 —その 2(ゾラ)」(11/11/11) 1 旧市街の中心部(エミール・ゾラ『制作』清水正和訳、岩波書店(岩波文庫)、上 巻、1999、pp.9-10) クロードは市役所(オテル・ド・ヴィル)の前を歩いていた。そのとき、大時計の 鐘が午前二時を打った。と同時に、雷鳴がとどろきわたった。 七月の、熱気がさめないこの真夜中、彼は中央市場(レ・アール)のあたりを無我 の境地で歩き廻ってきたのだった。夜のパリを愛し、芸術家らしい感興にひたってぶ らつくのが好きな彼だった。 急に、大粒の雨がはげしく降ってきた。彼はあわてて駆け出した。グレーヴ河岸を 夢中に突っ走った。ルイ・フィリップ橋まで来たとき、さすがに息切れして立ち止ま った。雨ぐらいにおどろいてあわてたことが、ばからしくなった。彼は、深い闇の中 を、ガス灯を水浸しにしている土砂降りの雨に打たれながら、両手をだらりとさげた まま、ゆっくりと橋を渡って行った。 それにクロードは、あと少しだけ歩けばよかったのだ。 サン=ルイ島のブルボン河岸に足を踏み入れたとき、鋭い稲妻が走り、セーヌ川に 面した狭い通りに建ち並ぶ古びた邸宅を照らし出した。よろい戸のない高窓のガラス が明るく反射した。もの寂しげに建っている古風な大きい建物の前面、そしてそこの 石造りのバルコニー、テラスの手摺、切妻壁の花飾りの彫刻など、細部まではっきり と見えた。画家のクロードは、ここラ・ファム・サン・テート通り(現在のル・ルグ ラティエ通り)の角に建つ古いマルトワ館の屋根裏にアトリエをもっていた。稲光で ちらっと見えた河岸は、すぐに暗闇に戻った。ひきつづき、ものすごい雷鳴が響き渡 り、寝静まっている街を打ちゆるがした。 2 左岸のブールヴァール(同書、pp. 112-113) 「ああ、おまえもうまく行かないんだな。…出よう。元気づけにひと廻りしてこよ うじゃないか」 […(サンドーズの住むアンフェール街から)]表に出た二人は、動物がなにか臭い をかぎわけるかのように左右を見渡してから、通りを天文台(オプセルヴァトワール) 広場まで歩いて行った。そのあと、モンパルナス大通りに出るのだった。これが二人 のきまった散歩道である。気楽に歩くことのできるこのパリ外郭の長い大通りを二人 はこの上なく愛しており、いつも並木の尽きる所まで、歩き続けるのだった。 3 アンヴァリッド広場(同書、pp. 126-128) 四人(クロード、サンドーズ、彫刻家のマウドー、ジャーナリストのジョリー四人) は無心に歩き、幅広いアンヴァリッド大通りをわが物顔に進んで行った。 […]一行は、意気揚々、パリごときは片手でひとつかみにし、ポケットに落ち着き はらって収めるかの勢いである。 ここアンヴァリッド広場は、彼らの気に入りの場所だった。南の方角を廃幣院(ア ンヴァリッド)の巨大な建物でさえぎられている以外、大空の下、はるか遠くまで展 望の広がる広大で静かな場所であったため、大げさな身振りを自由にできたからであ る。 4 コンコルド広場(同書、pp. 129-131) […]彼らは橋を渡って行った。やがてコンコルド広場のどまん中に来たときには、 皆、だまりこんだ。 時刻は四時になっていた。輝く日差しは黄みを帯びはじめ、晴れわたった一日も暮 れようとしていた。 右と左、マドレーヌ寺院と立法院のあたりは、公共建造物がはるか遠くまで連なり、 その稜線が大空にくっきりと浮き出ている。それらの間に、チュイルリーの庭園がひ ろがり、そこの巨大なマロニエの森が、まるい梢を空に向かって重なる波頭のように 積み重ねている。緑の並木で縁どった二つの側道を両側に持つシャンゼリゼ大通りは、 目もかすむばかりのはるか遠方の高みにまで、一直線にのぼりつめ、無限に向かって 口を開けた巨大な凱旋門に達していた。二本の大河がその大通りを流れていた。生動 する人馬のひしめく流れ、疾走する馬車の波だ。[…]そして、中央の大噴水は、それ らの燃えるような生命の大河に、ひとすじの涼味を投げかけ、照りかがやいていた。 クロードは身をふるわせてさけんだ。 「ああ、このパリ……パリはおれたちのものだ。征服せずにおくものか!」 5 バティニョール大通りのカフェ・ボードケンからの散策路(同書、p. 140) 一行は、クリシー大通りを下ってから、ショセ・ダンタン街、つづいてリシュリュ ー街のコースをとり、セーヌ川に出るや、学士院(アンスティテュ)を侮蔑するため に芸術橋(ポン・デ・ザール)を渡ったあと、セーヌ街を通ってリュクサンブール公 園にたどり着いた。そのとき、三色で彩ったどぎつい広告が目にとまり、彼らは喝采 をあげた。巡業サーカスの広告だった。 すでに夕暮れだった。路行く人の波がゆるやかに流れていた。闇の訪れるのをただ 待っている疲れた町、その姿は、だれでもいい、最初に現れるたくましい男に身を委 せようとしている疲れ切った女の姿さながらだ。 6 クロードとクリスティーヌの別れ際の散歩道(同書、p. 186) 二人が歩みを進めるにつれ、左側の暗い家々の稜線の上、燃える夕日は、あたかも 二人を待っていたかのように、しだいに赤みを増しはじめる。そして、前方に川幅の ひろがるのが見えてくるあたり、ノートルダム橋を過ぎるころには、太陽は、はるか 遠くの家並みの連なる方に大きく傾き、ゆっくりと沈んで行く。学士院のドームの背 後に沈む落日ほど栄光にみちたものが他にあるだろうか。それは、樹齢数百年を経た 森、また山々、また平原の牧場など、いかなる場所での落日よりもはるかに勝るもの だ。そして、この栄光の中に眠りにつく者、それはパリなのだ。
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