地球環境特論 井手慎司 8.人口爆発と『性と生殖に関する権利・健康

地球環境特論
井手慎司
8.人口爆発と『性と生殖に関する権利・健康』
人類みな兄弟(ミトコンドリア・イブ仮説)
ミトコンドリア――高等生物の細胞質中に存在する
小器官.クエン酸回路と電子伝達系を司り,グルコー
ス 1 分子あたり 36 分子の ATP を生産する(これに対
して,外部の解糖系で生み出される ATP はわずか 2 分
子にすぎない).
ミトコンドリアはわれわれの遠い祖先が,光合成に
よって生まれた新たな好気的(酸素)環境に適応する
ために今から 15 億年前,細胞内に共生させた真正細菌
だと言われている.そのためミトコンドリアはわれわ
れの細胞内にありながら独自の mtDNA を持つ(もっ
ともかなりの部分は核へ移動しているが⇔葉緑体の
DNA).さらにこの mtDNA は母系遺伝(非メンデル遺
伝)のみする.父系の mtDNA は,受精卵の発生初期
に何らかの排除機能によって消失してしまう.ミトコ
ンドリアの宿主としてのわれわれの細胞が,寄生させ
ているミトコンドリア同士の DNA 交配(進化)を恐れ
ての戦略だとの説もある.この特徴を利用して,現在
の人類のミトコンドリア DNA をさかのぼっていくと
10~30 万年前のアフリカの女性にたどり着く.この仮
説を「ミトコンドリア・イブ仮説」と呼び,すべての
人類の祖先であるこの猿人をミトコンドリア・イブと
呼んでいる1.
ミトコンドリアが宿主であるわれわれ人類についに
反乱を起こしたとするのが小説「パラサイト・イヴ」
(瀬名秀明著,角川書店,第二回日本ホラー小説大賞
受賞作).あるいはニコライ二世一家の mtDNA 鑑定.
食糧と人口(環境決定論)
最終氷河期の 2 万 5 千年~2 万年前を利用して 1 万
年前までに人類は世界各地に……1 万 4000 年前の最終
氷河期の終焉→狩猟採集生活→人口圧2 →地球寒冷化3
が生み出した農業 4 →定住農耕社会 5 →9000 年前ピプ
1 1987 年,米カリフォルニア大のアラン・ウイルソンと同僚
レベッカ・キャン,マーク・ストーンキングは「人間のミト
コンドリア DNA の遺伝子配列の違いを世界の様々な人種間
で比較し計算した結果,現代人は約 20 万年前アフリカのた
った一人の女性から生まれた」とする学説を発表した.ミト
コンドリア DNA が母系遺伝しかしない事実と,mtDNA の突
然変異の速度を「分子時計」として利用することによって人
類の共通の祖先を推定したものだ……「イブと 7 人の娘たち」
ブライアン・サンクス
「植物にもイブがいた」
:米国,日本,英国など 12 カ国の科
学者約 200 人が参加した「緑色植物系統研究チーム」による
と,草木や花,シダ,コケ類などの陸上のすべての植物は,
約 4 億 5000 万年前に淡水に生息していた,たった一種類の
原始植物から分化したらしいことを発表した(8/4/99).
2 ブッシュマンのカロリー摂取量は今日の必須栄養水準と比
較しても必要水準を上回っており,タンパク質摂取量にいた
っては必要量を三割以上上回っている.しかもそれら食糧を
調達するために必要な労働時間は平均で週に二日半程度にす
ぎない.
3 1 万 2800 年前の寒冷化(ヤンガー・ドリアス)
「環境考古
学のすすめ」安田喜憲,丸善ライブラリー,2001
4 出産間隔が狩猟採集生活の 4 年から定住農耕社会では 2 年
に.
5 定住化により家畜から伝染病が……天然痘,ハシカ(犬か
ら?),結核,ジフテリアなどは牛から,インフルエンザは豚
21
シ・サーマル(気候最適期)→寒冷化によるアナトリ
ア高原の積雪量増加(6300 年前+5700 年前のノアの
大洪水)+メソポタミア南部低地の乾燥化→大河流域
への人口集中(牧畜民と農耕民との接触)→灌漑文明
「水力社会(カール・ウィットフォーゲル)」の誕生→社
会の階層化と支配の中央集権化→貧富の誕生,人口増
(しかし食生活と栄養事情はかえって悪化:貧困→労
働力をもとめて)→気候に左右される農業→飢餓と隣
り合わせの歴史(食糧の絶対量の不足+分配の不衡平
性)→耕地の拡大をめざして(森林破壊,干拓→植民
地政策)→近代→輸送機関や加工,冷凍・冷蔵技術の
発達,農業の機械化と集約化→耕地の疲弊,土壌浸食,
砂漠化→……【二十世紀の飢餓は,食糧の絶対量の不
足を意味するものではなく,貧困のために食糧を入手
できないことによる】「緑の世界史(上下)」クライブ・
ポンティング著,朝日選書
人口抑制法
・双子,障害児などを対象とした選択的な子殺し.
・1930 年代でもイヌイットは生まれていく女児のおよ
そ四割を間引いていた.中国,韓国,ボンベイでも.
く ぶ ら ば り
・与那国島の人頭税,幅 3.5 m の断崖(久部良割)を
跳ぶ妊婦(薩摩藩による支配の時代から明治 36 年まで)
・中国の一人っ子政策6
・日本の人口は江戸時代の 1700 年に 3000 万人に達し
てから 1850 年までまったく増加がなかった(間引き)
人口が爆発する(ネオマルサス主義)
・人口論モデルの系譜:マルサスモデル/ベルハルス
トのロジスティックモデル/ロトカ・ボルテラモデル
/メイのカオスモデル
・ポール・エーリックの方程式:I = P・A・T
こ こ で I = Impact of Human Activity, P =
Population, A = Affluence, T = Technology.I が地球の
能力(E)を超えたとき(E < I),環境問題は起こる.「人口
爆弾」(1968),「人口が爆発する!」ポール・エーリッ
ク,新曜社(1990)
・人口転換理論:多産多死→多産少死→少産少死(し
かし人口学的慣性力が)
・出産率低下のための要件:
「十分な栄養」「衛生設備」
「基本的ヘルス・ケア」「女性の教育」「女性の権利平
から,風邪は馬から,ハンセン病は水牛からヒトに移ったと
いわれている.ちなみに家畜がいなかった南北アメリカ大陸
にかつてハシカや天然痘は存在しなかった.それらを新大陸
へ持ち込んだのはヨーロッパ人.また都市における人口集中
がコレラや赤痢を蔓延させる素地となり,特に人から人へ伝
染するハシカやおたふく風邪,天然痘などが生存できる条件
を整えた.あるいは灌漑の発達によって住血吸虫症が……ち
なみにコレラ,ペストはインドの風土病だったが……
6 1979 年 4 月,中国政府は人口が 11 億人に達したことを
発表.これと同時に今世紀末までに人口を 12 億人以内に抑
えるとする「一人っ子政策」(「晩婚」「晩産」「少産」「稀」
「優生」および「七優先」)を宣言した.当初,欧米からは人
権問題として非難された.しかし政策の実効はあがらず,95
年 2 月には 12 億人を突破,黒孩子(ヘイハイズ,ヤミっ子)
や女児の選択的堕胎などさまざまな弊害が指摘されている.
しかしその一方,ワールドウォッチ研究所所長のレスター・
ブラウンなどのように,この政策によって 3 億人以上の人口
増加が抑えられ,中国が 12 億人となるのを 9 年以上遅らせ
ることになったと評価する声もある.
等」
人工中絶(えい児殺し)について
現在,われわれの身のまわりには「環境ホルモン」を
はじめとする,さまざまな有害化学物質が蔓延してい
る.それらはわれわれの身体に蓄積され,場合によっ
ては,世代をこえて受けつがれ,人類を徐々に蝕んで
いく.このため,産まれてくる子どもが障害(生殖異
常や行動異常などもふくむ)をもつ確率は,昔にくら
べて,はるかに高くなっているのではないか.将来に
わたって,ますます高くなっていくことが予想される.
しかし,科学技術の進歩はすさまじく,現在では,
胎児の段階で,あるいは受精卵の段階ですら,産まれ
てくる子どもの先天的異常をある程度,予見できるよ
うになっている7.技術の発展とともに今後ますます,
胎児について,より詳細で正確な情報が得られるよう
になっていくだろう(また,そのニーズも高まってい
くだろう).
すると,これからの妊婦(およびその夫)は,妊娠
のかなり初期の段階で,産まれてくる子どもの先天的
障害,あるいはその可能性を医師から告知されるケー
スが増えてくるのではないか.少しでも危険性があれ
ば,ただちに堕胎し,つぎの妊娠のチャンスを待つ,
という選択が日常的に行われるようになるのではない
だろうか.
この場合の堕胎は一種の「あきらめ」の解決策では
あるが,それによって個人に対するリスクが軽減され
ることは間違いない(ただし,ここでの個人のリスク
と,緩慢な絶滅過程にあるかもしれない人類全体とし
てのリスクとは別問題である).
しかし,障害といっても千差万別だろう.外見はな
んら一般人とかわらなくても,生殖器が正常に機能し
なければ,種としては,生殖能力がないりっぱな奇形
児だ.あるいは,ただ人よりちょっとだけ,情緒不安
定であったり,過敏症であったり,勉強ができなかっ
たりするかもしれない.どこで,堕胎の線引きをする
のか……あるいは,あきらかな異常が見つからなくて
も,母体中の有害化学物質量が,ある基準値を超えて
いたら,リスクが高いとして堕胎を勧告されるような
日がやってくるのか8.
受精卵の遺伝病診断は 89 年に英国で初めて実施され,現
在,欧米では不治の遺伝性疾患に限定して臨床応用されてい
る.日本でも 98 年 6 月に,日本産科婦人科学会が,重い遺
伝病に限り,学会への事前申請の義務づけなどの条件をつけ
た上で,「受精卵診断」を承認した.
また,「母体血清マーカーテスト」という診断方法がある
(日本に導入されたのは 94 年).このテストは,妊娠 15-17
週の妊婦の血液中に含まれる胎児由来の三種類のタンパク質
を測定し,胎児がダウン症や開放性の神経管欠損症などの先
天的障害を持つかどうかを判断するための出生前の診断法で
ある.その結果は確率で示される(例えば,ダウン症の確率
が 295 分の 1 以上とか).すでに日本でも 43,000 人以上が
検査を受けているという.優生学とナチズム(→2013 年から
新型出生前診断がわが国で認可された.)
ダウン症の検査方法としては羊水検査もあるが,米国の一
部の州では,医療や福祉の予算を抑えるために,この羊水検
査に補助金をだし,個人負担なしに受けられるようになって
いるという.(ちなみに羊水検査による流産の可能性は 300
分の 1).
7
8
ただし,堕胎をはじめとする人口抑制そのものを否
定することはできない.「人口爆発」とすら表現される,
現在の途上国における人口の異常なまでの増加をくい
止めないことには,人類に未来はない.できるだけ子
どもは少なく産んで,大事に育てることを理解しても
らわなければならない.その意味でも,妊娠初期にお
ける,胎児の検査は今後ますます重要な手段となって
いくだろう.
極端な話をすれば,近い将来において,強制的な人
口制限が人類全体の合意となるかもしれない.そうな
ったとき,たとえ夫婦が障害児をもつというリスクテ
イキングを決意したとしても,社会がそれを許すのだ
ろうか? ……あるいは,それでも重度の障害児が産ま
れてしまったら,社会はその障害児を受け入れるのだ
ろうか?
人工中絶(堕胎)の問題は,宗教観のとぼしい日本
ではすでに解決済みの感があるが,世界の多くの国々
では,いまだ論争のたえない難しい問題である.堕胎
をよしとする日本人ですら,「えい児殺し」と聞くと,
眉をひそめるのではないだろうか.
しかし,ピーター・シンガーは「実践の倫理」のな
かで,えい児殺しについて,つぎのように指摘してい
る.
【えい児殺しは,タヒチからグリーンランドにいたる
まで,あるいはオーストラリアのアボリジニから古代
ギリシアや清朝中国の洗練された都市市民にいたるま
で,さまざまな社会において行われてきた.それらの
社会では,えい児殺しは単に許されるだけでなく,状
況次第では道徳的な義務とすら見なされていたのであ
る.
えい児殺しは最初の,いくつかの社会によっては唯
一の人口抑制施策だった.スパルタ人は丘の中腹にえ
い児を置き去りにしたというが,それはスパルタだけ
の話ではない.プラトンもアリストテレスもまた国家
が奇形のえい児を殺すよう命じることを勧めた.セネ
カのようなローマ人もまた,えい児殺しが自然で慈悲
深い解決策だと考えていたのだ.
えい児の生命(無垢のいのち)の保護を至上のもの
とすることのは,けっして普遍的な倫理観ではない.
西欧におけるこの「人間生命の尊厳」という教義は,
じつはキリスト教によってローマ時代以降にもたらさ
れものだった9.
現代ですら,重度の障害えい児に対して,可能なか
ぎり苦痛や不快を緩和する処置はとられるが,外科手
術や他の積極的な治療が行われることはない.それが
医療慣行なのである.】
もちろん,わたしは,無差別のえい児殺しや堕胎を
容認するものではない.しかし,少なくとも堕胎が,
れた.
9 西欧ではキリスト教の浸透以来,人口抑制のための手段と
して,堕胎やえい児殺しが放棄された.唯一とれたのは,晩
婚化や結婚しない(させない)という選択肢であった.西欧
にかぎった話ではないが,人口増加と飢饉とは表裏一体の関
係にある.ヨーロッパにおいても,飢饉時の人肉食の記録が
16 世紀までのこっている.
新潟水俣病では,頭髪水銀濃度が高い妊婦に中絶が勧告さ
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これからの人類にとって,重要な選択肢になるであろ
うとの確信をもっている.しかし問題は,そのとき,
人類の繁栄を守ろうとするための積極的な人口調節と,
「環境ホルモン」などの有害化学物質を野放しにする,
消極的な人口調節との間に,どれほどの明確な違いが
あるのか…….
底なしの深淵をのぞいてしまったようで,わたしに
はまだこのパラドックスの出口が見えていない.
(注意)ここでは人工中絶(堕胎)とえい児殺しを意
図的に同一視している.
ダウン症
ヒト 21 番染色体の異常に起因する症候群の一つ.
1866 年,J.L.H.ダウンが特異な顔貌をもつ精神遅滞と
して初めて報告したところからこの名前が付いた.か
つては蒙古症(モンゴリズム mongolism)と呼ばれた
時代もある.
ダウン症候群の症状としては内臓(消化器や心臓)
の疾患や精神発達遅延などがある.しかし症状の程度
には個人差があり,現在では早期発見,早期療育によ
って通常の社会生活を送っている人もたくさんいる.
出生頻度は日本人では 1000 人に一人くらいと言われ
ている.
同染色体上には,ヒトの遺伝情報を司る約 30 億の塩
基配列のうち 1.5%にあたる約 5 千万個(600~700 種の
遺伝子)が存在する.ダウン症の他にもアルツハイマ
ー病や筋萎縮性側索硬化症,急性骨髄性白血病,てん
かんなどがこの染色体に関連すると見られている.ヒ
トゲノム計画の中で,日本とドイツチームが 2000 年に
全解読を完了した(2000 年 5 月 8 日に完成論文が
Nature 誌に掲載).
母体年齢別ダウン症児出生確率
Hook EB: Rates of chromosome abnormalities at
different maternal ages. Obstet Gynecol, 58; 282285, 1981.
10
5
40
38
36
34
32
30
28
26
24
22
0
20
出生確率 (出生1,000に対して)
15
母体年齢
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