抽 象 と 現 実 小田垣雅也 何 が真 実 か、ということについて考 えてみたい。テキストは旧 約 聖 書 の「箴 言 」一 九 章 の一 節 「貧 乏 で も、完 全 な道 を歩 む人 は、唇 の曲 がった愚 か者 よりも幸 いだ」を選 んだ。 「箴 言 」というのは、旧 約 聖 書 の中 の、モーセ五 書 に代 表 される「歴 史 書 」、イザヤ、エレミアを初 めと する「預 言 書 」と並 んで、「知 恵 文 学 」、つまりイスラエルの民 がユダヤ社 会 の中 で生 きていくに当 たって の実 践 知 を語 った文 学 類 型 に属 する。その代 表 がヨブ記 、詩 篇 、コヘレトの手 紙 などであるが、この知 恵 文 学 はその性 質 上 、古 代 オリエントの、主 として教 養 階 級 に向 けて書 かれたものである。その内 容 はイスラエルの伝 統 に、時 として抵 触 する傾 向 さえある。知 恵 とは本 来 伝 統 を鵜 呑 みにしないことだろう。 だから現 代 の東 洋 人 であるわたしたちには、かえって分 かりやすいともいえる。箴 言 という語 は分 かりに くいが、これはアフォリズム、警 句 のことである。「唇 が曲 がった愚 か者 」とは、その語 る言 葉 が曲 がって おり、真 実 ではないことを言 う人 のことであろう。 最 近 、対 照 的 な画 風 の、二 人 の人 の展 覧 会 を見 て、真 実 とは何 か、ということについて考 えた。一 つはギュスタヴ・クールベ(1819-1877)展 であり、もう一 つはヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1891)展 で ある。クールベ展 は三 鷹 の市 立 美 術 館 で開 催 されており、そこを探 しだして観 てきたのだが、なぜクール ベかと言 えば、夏 目 漱 石 の『三 四 郎 』の中 にクールベのことが出 てきて、それがその後 、半 世 紀 以 上 、 ずっと気 になっていたからである。それによると、小 説 の中 の画 家 の原 口 の感 想 として、「おそるべきクー ルベという奴 がいる。ヴェリテ・ヴレイ(本 当 の真 実 )、何 でも事 実 でなければ承 知 しない」という。モロー (1826-1898)を引 き合 いにだして、クールベとは反 対 のモローのような者 もいる、と原 口 は言 う。モローは よく神 話 を題 材 にした幻 想 的 な絵 を描 く画 家 で、倉 敷 美 術 館 には、モローの、たしか『雅 歌 』いう幻 想 的 な絵 があり、学 生 のころ倉 敷 へ行 ったときにその絵 を観 てわたしは強 い印 象 を受 け、その絵 の複 製 を買 ってきて、しばらく家 に飾 っておいたことがあった。だからクールベの写 実 、つまり「本 当 の真 実 」とは どんなものかと、気 になっていたのである。それは確 かに無 駄 の無 い写 実 的 な絵 で、或 る意 味 では写 真 よりも現 実 味 がある。ビュッフェは若 い頃 クールベを崇 拝 し「クールベはわたしにとって、正 真 正 銘 の画 家 である」と、『クールベのために。ヴェルドン川 の峡 谷 』という絵 の解 説 の中 で言 っている。クールベの 写 実 は、ビュッフェの線 描 の絵 と矛 盾 しないのかもしれぬ。あるいはそれは、ビュッフェの抽 象 的 線 描 を 凌 駕 した写 実 であるのかもしれぬ。 それに対 してゴッホはどうか。ゴッホは普 通 、表 現 主 義 の作 家 だと言 われている。表 現 主 義 とは感 情 と観 念 の複 合 を追 及 し、実 証 主 義 に対 して烈 しく反 対 する。したがって芸 術 における写 実 主 義 、自 然 主 義 的 態 度 を軽 蔑 していた。ゴッホは一 八 八 八 年 、弟 であるテオに宛 てた手 紙 の中 で、「ぼくは目 の前 にあるものを正 確 に表 わそうと努 めるかわりに、烈 しく自 分 を表 現 するために、色 をもっと気 ままに使 っ ているのだ。・・・・・いよいよ仕 上 げというときになって、ぼくは気 ままな色 彩 画 家 になっていく。ぼくは髪 の毛 のブロンドを誇 張 し、ついにはオレンジのトーン、クロームと薄 いレモン黄 に達 するだろう」と言 ってい る(『西 洋 思 想 大 事 典 』第 四 巻 、一 九 九 〇年 、三 四 頁 )。実 際 、一 八 八 八 年 に描 かれた『芸 術 家 とし ての自 画 像 』では、短 い頭 髪 は赤 、青 、ブロンド、茶 色 などによって彩 られている。 一 八 九 〇年 の、ゴッホのおそらく最 も有 名 な絵 『糸 杉 と星 の見 える道 』を眺 めながら、わたしは表 現 主 義 というものをつくづく考 えた。ゴッホにとって糸 杉 とオリーヴの木 は南 フランスを象 徴 するモティーフだ が、この絵 には、糸 杉 を中 心 にした風 景 に託 したゴッホの「感 情 と観 念 」が描 かれていると思 われた。異 常 に大 きい星 と三 日 月 、真 中 の糸 杉 と右 下 の灰 色 の道 。道 の上 の二 人 の男 と馬 車 、遠 景 のアルピー ユ山 脈 、道 端 の葦 。空 の雲 。これらの描 写 はゴッホの心 情 と観 念 であって、写 実 からは遠 い。糸 杉 を 中 心 にした現 実 の風 景 は描 かれる対 象 として存 在 しているが、それを「正 確 に表 わすこと」にゴッホの 関 心 があるのではない。大 体 、星 と三 日 月 が中 天 に出 ている時 刻 に、このような風 景 は、暗 くて見 えな いはずだ。星 は何 重 にも円 で囲 まれて太 陽 のように輝 いている。わたしは、この絵 はたそがれではなくて 昼 間 の絵 だろうと長 い間 思 っていた。 それよりもわたしが強 い印 象 をもったのは、ゴッホの筆 遣 いの不 可 思 議 さである。この絵 の複 製 は何 回 か観 たことがあるが、それは糸 杉 の緑 も、空 の青 も、右 下 の道 の灰 色 も、すべてが短 い線 で描 かれ ており、ゴッホの狂 おしい内 面 の感 情 が現 れているようで、観 ていると目 が廻 りそうになってくる。原 物 で は(複 製 ではなく)絵 の具 が濃 く使 われて線 が描 かれているのが分 かり、それが原 物 特 有 の迫 力 をもっ て迫 ってくる。しかしこれは写 生 画 であり、写 生 の対 象 は「糸 杉 と星 のある道 」として、厳 として存 在 して いる。それがゴッホの狂 おしい感 情 と観 念 とに結 びついて表 現 されているのである。 要 するに、何 が真 実 か、ということであろう。この糸 杉 の絵 は、ゴッホの単 なる空 想 ではない。これは 言 うところの抽 象 画 ではない。描 く対 象 はある。しかしそれが、ゴッホの感 受 性 を通 して、或 る意 味 では 対 象 の糸 杉 の原 物 よりも真 実 味 を帯 びているのである。しかしそのことは、クールベの写 実 主 義 につい ても同 じであろう。写 実 には、その写 実 を可 能 にするものとしての、画 家 による対 象 の抽 象 と把 握 が必 要 である。以 前 、『イタリア素 描 展 』という展 覧 会 があり、そこでミケランジェロ、ダヴィンチ、ラファエロな どの素 描 を観 たことがあるが、そのときにもつくづく悟 ったことは、これらの恐 るべき写 実 の背 後 には、画 家 の対 象 の把 握 、つまり強 力 な抽 象 がある、ということであった。実 際 、現 実 の裸 婦 の体 には、どこに も線 などはない。あるのは温 かい肉 体 である。それを線 で描 き出 す。それには抽 象 が必 要 であろう。描 く 対 象 が一 度 画 家 の心 の中 で抽 象 され、それが指 の先 から流 れでたものが写 実 である。それがそもそも 絵 というものだと思 う。そしてそれは、クールベの写 実 主 義 にしても同 じなのである。ビュッフェがクールベ を「正 真 正 銘 の画 家 だ」と言 ったのも、この対 象 の抽 象 ということに感 動 したのではなかろうか。 「裸 の事 実 」というようなものは、絵 にかぎらず、人 間 の文 化 全 般 にわたって、無 いのである。文 化 と はいうものは、たとえ近 代 ・現 代 の自 然 科 学 にしても、それは人 間 を通 して成 立 したものである。だから その現 実 は、いつもかならず、人 間 の主 観 と結 びついている。自 然 科 学 的 真 理 にしてもそうだ。「裸 の 客 観 的 事 実 」といわれているものも、あくまでも主 観 に対 応 した客 観 なのであって、事 実 そのものではな い。そして主 観 によって把 握 され、主 観 の抽 象 作 業 と結 びついた事 実 が、「現 実 」とうべきものだろう。 だから「烈 しく自 分 を表 現 する」というゴッホの表 現 主 義 の方 が、クールベの写 実 主 義 よりも直 截 である。 写 実 主 義 には、そのことが自 覚 的 でないところがある。クールベの写 実 主 義 が、ゴッホの表 現 主 義 より も「真 実 だ」ということはない。しかし絵 画 が絵 画 であるかぎり、それは両 者 とも、常 に主 観 によって抽 象 された「現 実 」なのである。 近 代 歴 史 学 を確 立 したと言 われているレオポルド・フォン・ランケ(1795-1886)は、「事 実 を、それがあ ったように再 建 すること」が歴 史 学 だという意 味 のことを言 っているが、歴 史 学 ではなおさら、裸 の事 実 というものはない。歴 史 的 資 料 がすでに、その資 料 を残 した歴 史 的 主 体 の主 観 によって選 ばれている ものだからである。その歴 史 的 資 料 を、さらにわたしたちの主 観 によって解 釈 するのが歴 史 学 だ。イエス 伝 をふくめて伝 記 というものは、その資 料 を残 した歴 史 的 主 体 の主 観 と、それを解 釈 する伝 記 作 家 の 主 観 という二 重 の主 観 によった「現 実 」なのである。これまで多 産 されてきた『イエス伝 』を読 むたびにわ たしはそう思 う。井 上 洋 治 神 父 の近 作 『わが師 イエスの生 涯 』を最 近 読 んだが、そこには「わが師 」イエ スへの、井 上 の傾 倒 が描 かれており、決 していわゆる「史 実 のイエス」ではなかった。 わたしたちが人 と交 わる場 合 にも、クールベ的 な写 実 主 義 に傾 くよりも、ゴッホ的 な表 現 主 義 の方 が 現 実 的 ではあるまいか。交 わる相 手 への理 解 は、事 実 としての相 手 と、わたしの主 観 的 判 断 が交 じり 合 った「表 現 主 義 的 」なものだ。決 して、事 実 としての相 手 そのものではない。もともとそのような写 実 主 義 はない。そのことを認 識 していることが大 事 であろう。さもないと、自 分 の主 観 的 判 断 で相 手 をしばり、 相 手 に対 して偏 見 を持 つ。それは「唇 の曲 がった愚 か者 」の言 葉 になる。そのことを自 覚 していないと、 しばしば不 幸 な結 果 になるのである。 (05530)
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