放蕩息子を待ちわびる父

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R特別伝遥試写子
201 2年 10月 21日説教要旨
ルカ福音書 15章 11-24節
「放蕩息子を待ちわびる父」
宮 I~ ヤ1:
7~f
(_B ;f. 霊.~五11fl、品ー関毛主金)
人と人が出会うことが、出会いでありますが、それは人の人生においては、まず子供が
親に出会うことから始まります。そして兄弟があれば、その兄弟との関係が生まれます
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さらに保育園や幼稚園に入る、あるいは小学校に入札だんだん社会での生活が広がって
いき、深まっていく。そしていろいろな出会いがあり、個人を中心にして社会的関係、環
境は一気に広がっていきます。出会いによって社会での関係が深まるのですが、その人間
の関係性というものは、いつも順調に成長していくとは限りません。今日の「放蕩息子と、
彼を待ちわびる父親」の警え、物語は、関係の破れと、その回復について語るものです。
今日の「放蕩息子を待ちわびる父Jは一つの誓え話で、あります。
この放蕩息子という警え話は、聖書の中でも最も有名な響え話のひとつであるといって
もよいでありましょう。放蕩息子とは、道楽者、どら息子のことであります。
ある人に二人の息子がし、て、弟のほうが父親に言います。それは唐突な話です。財産の相
続の話なのです。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をわたしにくだ
さしリと言います。父親がまだ健在であるのに、財産を分けてください、というのは少々
問題です。財産の相続とは、普通は親が亡くなって、残された家族が親の財産を配偶者や
子供たちが分けるというのが普通で、あり、イエスの時代のユダヤでもそれが普通のことで
した。ですから、ここで暗示されているのは、息子と父親の聞の関係性のねじれ、ゆがみ
ということです。
それまで親のところで暮らしていた二人の息子の一人が、突然遺産を分けてくださいと
父親に申し出たのです。息子の一人、それは弟の方でしたが、その動機、目的はすぐには
わからなかったのですが、物語が展開すると明らかになってきます。
これに対して、父親は何と言ったでしょうか。息子に対して、なぜそのような申し出で
をするのか。貰った財産をどうするつもりなのか、というような質問は一切しないのです。
そして弟息子が言うとおりに財産を分け与えてやるのです。子供が親に財産を分けてほし
いというからには、その背景には、それだけの意味、動機、目的があるはずです。それら
をいちいち問いたださないで、父親は息子の要求に従うのです。これではし、かにも甘い父
親ではないだろうか。父親の内心には、何らかの葛藤や困惑がなかったのでしょうか。こ
の父親の素直な対応の仕方に、わたしは大きな疑問符をつけないわけにはいきません。
これに対して,一方わけでもらった息子の側の事情も詳しくは書かれていません。わた
したちは、それ以後に起こってくることから想像する以外にはありません。弟の動機、あ
るいは目的はなにだ、ったのでしょうか。わたしは、それを息子に同情的に考えて、束縛さ
れない自由への欲求と考えます。いままで父のもとで暮らしてきた。そして物質的には何
一つ不自由はなかった。しかし、これからの自分の人生を考えたとき、果たして自分はこ
れでいいのかという思いが膨らんできたのではないでしょうか。そして、父親に財産を分
乙
、
けてほしいと申し出たのでした。自由を求めて父親のもとから飛び出す。それも遠い国に
向かって旅立っていくというのです。自由という立派なキ}ワ}ドに導かれて旅立った彼
の先には何が待ち構えていたか。それは物語の展開が簡潔に記しています。
弟は父親からの財産をすべてを金に換えて、遠い固に旅立ってしまいます。そしてその
遠い土地で放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまうのです。
彼は遺産として受け継いだ十分な財産を持っていました。それは持ち運びのできるお金
でした。知らない遠くの国に行っても、お金があれば安心です。彼はそのお金で放蕩の限
りを尽くしたというのです。どんな風にお金を使ったのでしょうか。先日の日本のニュー
スでは、 30代の男が 10年余りの聞に会社の金をごまかしてなんと 5億円以上の金を遊
興費と使い込み訴訟になったとしづ事件が報道されていました。この遠くの国に行った弟
も自分の自由になるお金とはいえ、自分が汗水たらして稼いだお金ではないことから湯水
のように使い果たしてしまったのでしょう。ここでわたしたちが知らされるのは、弟息子
が求めていた自由とは、その内実は目に見えるもの、消費すればなくなってしまう、消費
的な、物質的な自由だ、ったのではないでしょうか。!日約聖書の簸言 29章には「知恵、を愛
する人は父を喜ばせる。遊女を友とするものは財産を失う j と書かれています。全財産を
お金に換えて持って行った弟は、遠い国の町で、人気者になったことでしょう。大勢の友達
ができ、金を目当てに集まる男たちがおり、女たちがいたのでしょう。
何もかも使い果たして無一文になった時に、この地方にひどい飢僅が起とったのです。
弟は食べるにも困るようになりました。遠い国に来て、お金があるうちは寄り集まってき
た連中たちは、今では皆どこかへ去って行ってしまいました。そうして、この放蕩息子に
は、親しい知人もいなければ親戚もいない。彼の当惑と狼狽ぶりは十分想像できます。自
向を手に入れたと患って遠い国にやってきた。しかしお金は使い果たしてしまい財布はす
っからかん。そこに大変な飢俸がおこった。まさに八方塞がり、泣きつ面に蜂という状態
です。弟は、その地方に住むある人のところに身を寄せて助けを求めます。その人は恐ら
く農場の所有者でもあったのでしょう。彼を畑にやって豚を飼う仕事を与えてくれたので
す。パレスチナ地方に住むユダヤ人にとって豚はけがれた動物として嫌われていました。
豚がし、るということは弟が母国からはるか遠い国にいるということも推察させます。ユダ
ヤ人にとって械れた動物である豚。その豚の餌になるいなご豆を食べてでも飢えをしのぎ
たいと思ったが、食べ物をくれる人は一人もいなかった。文字通り彼は極限の状況に追い
詰められてしまったので、す。
そんな時に、この弟は我に返って言ったのです。「あの父のところには、あんなに大勢の
雇い人がし、て、しかも有り余るくらいの豊富なパンがある c それなのに、私はここで独り
さびしく飢えて死にかかっている。さあここを立ってあの父のところに行って言おう。『お
父さん、わたしは天に対しでも、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼
ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』
人は限界状況に至って初めて人生の真実に出会うのです。これは、この物語のクライマ
フ
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ックスです。一人の人が、人生のぎりぎりの状況で、人生の冷厳な真実に身を以て向き合
わなければならない場面です。
わたしたちの人生は、人それぞれのものであり、人それぞれに違っています。まったく
同じ人生を歩むことはありません。ある人は恵まれた幼少年時代を過ごし、また他の人は、
苦しみ悩みながら波乱万丈の一生を送るかもしれません。あるいはとても健康で穏やかな
人生を歩む人もあるでしょう。そして時代も環境も変わり、人の生涯は百人百様です。そ
うは言うものの、どのような人生を歩むにしても、いっその人が人生の真実に触れるか、
人生の真実に出会うかによって、その人の価値は変わってくるのではないでしょうか。そ
れは別の言葉でいえば、人が人生においてのあるべき本来の関係性を持てるかということ
です。
一旦は破れ、壊れてしまった関係性を、どのようにして取り戻せるかということで
す。この放蕩息子は異郷の地にあって極限状況に際して、人生の真実を初めて知ることが
できました。この苦しい状況があって初めて人生の意味を知ることができたのです。
さて、そのようなときに、故郷にいた父親は何を考え、またどのように振る舞っていた
のでしょうか。私は最初に、父が息子の言うなりに、財産分割の要求を受け入れたことに
大きな疑問符をつけておきました。それが父親の態度として良かったかどうかにいささか
疑問を感じていたのです。しかし今息子が帰ってきたときの父の態度から、すべてのこと
が明らかになりました。息子が帰ってくる姿を見つけた時、父はまだ遠く離れていたのに、
息子に駆け寄り,あわれに思って、息子の首を抱き、接吻したのです。父親が、どのくら
い自分のもとを去って遠くの国に行ってしまった息子を決して忘れずに、一日千秋の思い
で息子の帰郷を待ちわびていたことか。それが痛いほど強く想像されます。息子は親から
自立しなければならない。またそう思って息子は財産をお金に換えて旅に出て行った。そ
れは多分良いことだ、った。けれども息子が幸せに暮らしているかどうかは分からない。見
知らぬ土地で、どんな苦労を経験しているだろうか。しかしまたいつかきっと帰って来るの
ではないかと、地平線の彼方に目を凝らして待ちわびていたのでしょう。そして今日の息
子の帰郷となったので、す。
限界状況に遭遇して、初めて人生の真実に立ち戻って、心を 180度転換して父のもと
へと足を向けた息子。息、子の帰りを待ちわびていた父親。ここに第二のクライマックスが
訪れました。父の喜びょうはほかに例えようがありません。父親は僕たち、召使たちに指
示します。「急いで、一番良い服を持ってきなさい。また指輪をはめてあげなさい。足には
履物をはかせなさい。それから肥えた仔牛を殺して料理しなさい。そして食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。さあ、
祝宴を始めよう。そう父親は言うのでした。
この物語、警え話は、主イエスご自身が語られたものです。それは見失った羊、と無く
したけれど見つかった銀貨の警え話の後に語られたものです。息子と父の再会は、人間と
神との再会を意味していると考えられます。主なる神は、自分を見捨てて遠い国へ去って
行った息子、しかもすべてを無駄に使い果たしてしまうような道楽息子、放蕩息子をいっ
までも見捨てずに、その帰りを待ちわびているのだと語っておられます。ここにわたした
ちが気付かされるのは、人の思いを超えた神の恵みがあるということです。それは別の言
葉でいえば、「先行する神の恵み J ということです。そして、その先行する神の恵みに出会
うには、人それぞれの道があるということです。放蕩息子の場合には、遠い異国での限界
状況の体験がありました。私たちにはそれぞれの定められた道筋があるのでしょう。それ
を神の定められた計画、神の摂理と呼ぶことができるかもしれません。
ヨハネ福音書 3章 16節には、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 J
、と記されて
います。きょうの放蕩息子と彼を待ちわびる父の嘗え話からわたしたちは、この聖書の言
葉の深い意味を、思わされるのです。
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