オペラの風景(26)マリア・カラスの「椿姫」 本文 1955年スカラ座でのカラス 椿姫の話は単純ですが、実在の女性がモデルのせいか、カラス=椿姫のイメージにた どり着くには幾つもの駅に止まらなくてはなりません。 実在の椿姫はマリー・デュプレシー。彼女は高級娼婦といわれていますが、物腰だけ でなく、言語は文法上の誤りや品の悪さもなく、繊細な心使いと本能的なこまやかさ をもつ憧れの女性だったそうです。デュマ・フィスやフランツ・リストの恋人となり、 1847 年 2 月 3 日パリで死にました。1824 年 1 月 24 日生まれですから 23 歳でした。 デュマ・フィスが彼女をモデルに作品として 1948 年に書き下ろした小説が「椿をも つ女」、彼と付き合っていた範囲の出来事を扱っています。デュマは彼女の死を異国で 聞き、葬儀にも立ち会わなかったそうです。 彼がその小説を戯曲(5 幕もの)としたのは 1849 年です。 ヴェルディはこの戯曲を 3 幕のオペラ「トラヴィアータ」 (道を踏み外した女)としま した。主人公の名はヴィオレッタ・ヴァレリーです。彼はデュマの戯曲の1,3,4, 5幕を僅か 10 曲に整理し、2 幕は 5 場でのヴィオレッタのモノローグ部だけをとりあ げ、これをオペラ 1 幕の最後の長いシェーナとアリアとしました。 小説から戯曲への改変の際、デュマは父ジェルモンの役を重くし、戯曲の 3 幕には小 説にはなかった「ヴィオレッタとジェルモンの会話」を入れましたが、そこをヴェル デイは殆んどそのままオペラの2幕に使っています。オペラではそれ以後も要所要所 にジェルモンを登場させ、ヴェルディ特有の主役の3角関係(チャンバイ説)をつく り、恋を社会の制約と規範で挫折させます。 ヴェルデイの大抵の悲劇のように「椿姫」にも死が待ちうけます。 普通は愛の死は天上で二人を結びつける筈ですが(例ドン・カルロ、仮面舞踏会) 、 「椿 姫」では少し違います。不運な一生でやっと見つけた彼女の「愛」と「恋」 、それは余 りにも短い間に打ち切られます。 「神様こんなに若いのに死ななければならないの、これほど苦しみ抜いた私は!」 (3 幕最後) 私は《椿姫》を見るたびに彼女の孤独を終始感じます。1 幕の最後狂ったように、 「ど うかしている、どうかしている、妄想だわ」と恋を否定。2 幕真ん中で「美しく清ら かなお嬢さんにお伝え下さい、ひとりの生贄の不幸が始まって」 。3 幕末尾に「もし、 清らかな乙女が若いさかりで、あなたに心をささげるとしたら」と歌い、最後には天 に立ち昇るようなカンテイナーレも一人で歌い、こときれます。残された 4 人とは距 離をおいて。こう取り上げれば、彼女の愛の死は孤独な死で天上でも結ばれない、従 来のヴェルデイには無い死であるのが理解いただけましょう。 こうしてヴェルデイはデュマが作れなかった、時代を超越した新しい女性をつくりあ げたと、マルセル・プルーストが讃えたのも、その通りだと私はおもいます。 自宅のマリア・カラス マリア・カラスは19世紀半ばの名ソプラノであるのは日本でも広くしられています。 今でも日本では大変な人気でCD屋には必ずあるし、通販のアマゾンの中古書リスト には関連書が50種近くあります。彼女はプリマドンナの代名詞ですし、我々の「椿 姫」像は強く彼女に負っているようです。今回はカラスの椿姫に焦点をあてます。 彼女は「椿姫」を指揮者トリオ・セラフィンに学んだそうです。セラフィンの言葉があ ります。 「ヴィオレッタは、いかがわしい享楽の対象となる女としての姿を少しもさらしてい ない。それどころか女性としての魅力と苦悩に満ちた気高い心と愛ゆえの崇高な献身 に溢れた女性として、舞台に立っている」。彼女のまわりには「神話的な雰囲気」が漂 っているとさえセラフィンはいいます。 カラスがはじめて「椿姫」を歌ったのは 1951 年 1 月 15 日フィレンツエのテアトロコ ムナーレでした。 「およそこの世にはまり役というものがあるとしたら、それはカラス のヴィオレッタである」。これはこのとき録音された「椿姫」に添えて、J.アードイ ンが書いた文章の冒頭です。(メキシコシテイ、ベラス・アルテス劇場) 彼女の「椿姫」のスタジオ録音は一つチェトラ盤があるだけです。全てが隠し撮りさ れた私家盤で、それらは後日公開されています。本論ではそれらの録音と写真をネタ にしています。結論を先にいえば、ヴェルデイがデュマの椿姫に何かを加えたように、 マリア・カラスはヴェルデイの《椿姫》に新しい何かをくわえた、ということです。 残念ながらカラスを映像でみるのは殆んど不可能です。DVDは数枚ありますが、 「椿 姫」はありません。それらで感じるのはカラスの動作がはっきりしていることです。 役者の演技のように後ろを振り向いたり、下をむいたりという単純な動作がすっきり 明快です。 写真は比較的沢山あります。「マリア・カラス舞台写真集(アルファベータ社、主婦の 友社、富山房など)」などにあり、私のもっている CD 全曲盤はトリノ・イタリア放送 盤(1953) 、ミラノ・スカラ座盤(1955)、リスボン・サンカルロ盤(185 8) 、コヴェントガーデン盤(1958)の四つです。一番好きなのはリスボン盤です。 (カラスは生涯で 64 回「椿姫」を歌っています。 それらによると、彼女の声が繊細なのに驚かされます。細い感じさえします。それで いて、ピアニシモでも劇場の末端までレーザー光のように突き抜けたことでしょう。 勿論ドラマティックソプラノですから、強烈な歌も聞こえてきます。晩年ほど声が細 く感じます。 写真は 1 幕最後のシェーナとアリア「ふしぎだわ、ふしぎだわ。」 この場面でのカラ スは思い深げな動作と、恋に狂う喜びで烈しい動きを見せたのが残っています。 第3曲シェーナとアリアはこんな文です。 不思議だわ!・・・・不思議だわ!・・・・こころにあの言葉が刻みこまれてしまっ た! まじめな愛は私にとって、わざわいになるかしら?何を決心したの、ああ、私の乱 れた心よ -------略ーーーーーー (ありあ)ああ、きっとあの方なのね!私の心がひとり寂しく胸をときめかせ、しば しば・・・ 不思議だわ。不思議だわ(コヴェント・ガーデン) カラスは何んと伸びやかに演技していることでしょう。しかもクールであす。良く見 掛ける恋に狂った女性の姿はありません。ロッシーニの時代の女性に戻った感じさえ あります。これはコヴェントガーデン盤ですが、残念ながら、この公演以前の例えば 有名なスカラ座(1955年)の写真はありません。 これこそ、ヴェルデイの椿姫に彼女が加えた何かではないかと私は思います。実在し たマリー・デュプレシーがどこかにもっていたクールさ?歌に絵に、私は感じます。 彼女が表現した椿姫はクラシックなものではなかったか、と感じます。 ヴェルデイは原作の2幕を殆んどカットして、 「椿姫」の性格を示す部分をここに集め たのは前にのべました。マルグリッドのような複雑な、つまり恋の手管を知り尽くし た女と聖女とが一つの肉体に同居しているという女をここで示さなければ、オペラの 次の進行が予測できない筈、それをカラスは読んでいて、写真のような演技になった のではないでしょうか。 カラスに目立つのはシェーナ-つまり、会話の部分が大変丁寧に、一語一語明瞭に喋ら れていることです。フレーズがはっきりわかり、そこに神経が行き届いているのです。 オペラの白眉である、2 幕の父ジェルモンとの「シェーナと 2 重唱」は劇的なクライ マックスです。そこはこんな会話です。 J「ヴァレリー嬢ですね」V「そうですわ]J「アルフレードの父親が私です!」 V「貴方様が」J「そうです、破滅した無分別ものの父親です、あなたに誘惑されて」 V「私は夫人でございますよ、貴方様、しかも私の家でまたなにを、もうお相手はい たしませんわ、私のことより、あなたのおためにも」 これはオペラの台本であり、カラスは毅然として娼婦とは思えぬ応対をします。 ヴァレリーは少しずつジェルモンの説得に納得させられるときの演技は見事です。 (3 連写真) ジェルモンは彼女と彼の息子との交際が、彼の未来だけでなく、彼の妹の未来を危う くしている、妹に差し迫った結婚が醜聞で破談になるだろうという。この場面はスカ ラ座の上演では写真に残っています。ヴィオレッタはそういう真実を聞きたくなくて、 喉にやっていたのが、やがて《身を支えるためかのように、椅子の肘掛を握り、やが て手を膝の上に移して開き、諦めの気持ちを示しています。 ヴァレリーはすこしずつ諦めていきます。 (スカラ座) 2幕1場の最後はマルグリッドが自分の不運を嘆く場面です。自分の不幸を呟いた あと、気持ちをきりかえ、ジェルモンに向って訴えます。言葉にもならない、空をさ すらうような声、この長さは格別です。それが言葉になっていく様は、涙なしには聞 けません。 ( むかしおちこんだ不幸から抜け出すのぞみは こうして失われてしまったのだわ たとえめぐみ深い神様が寛大でいらしても こういった人間は決してゆるしてくださらないわ) 《ここま では独白》 (ジェルモンに向ってなきながら) 「美しくきよらかなお嬢さんにお伝え下さい。 一人のいけにえの不幸がはじまって残されたたった 一すじのしあわせな光を・・・・ あなたにおささげして、死んでいくのだと」 ジェルモンに訴えるヴィオレッタ (コヴェンド・ガーデン) パーテイ会場に逃げてきた2幕第2場では事情を知らないアルフレッドのせいで晒し 者になってしまいます。客達のアンサンブルでの助けでためらいがちに歌う訴え、こ こに深い愛を感じない観客はいるでしょうか。はにかみがちな性格から滲み出た愛の 賛歌です。マルグリッドの性格をカラスは推察して見事に表現しているアリアだと私 は感じます。 アルフレード、アルフレード、この心の愛の全てを わかってくださらないのね。 あなたのさげすみをかってまでも、 この愛を明かしていることを、 あなたは御存知ないのね。 ・ ・・ ・・・ ・・ ・・ 「 アルフレード、アルフレード・・・・」(コヴェント・ガーデン) 第3幕、死の場面での「もし、清らな・・・」というアリアの写真はありません。カ ラスの演技についてかいた舞台装置担当のピエロ・トーシ文を主婦の友社盤「マリア・ カラス」からとります。 「死の瞬間、ヴィスコンティ(演出家)はカラスの女優としての天才に全てを求めま した。自分の運命を受け入れてアルフレードに自分の肖像を渡し、ヴィオレッタの最 後の詩句となる。 もし、清らかな乙女が 若いさかりで、 あなたに心をささげるとしたら・・・・・ いっしょになってくださいな・・・・きっとね この肖像をそのひとにさしあげて、 贈り物だといってほしいの 天国で天使にまじって そのひととあなたのためにお祈りしている女の贈物だと。 はれやかに、彼女は、アルフレードに、苦痛がやみ、昔の力が甦り、新しい命がうま れようとしていると語り、 「おおこの喜び」と絶句して死にます。 おおよろこびよ(コヴェント・ガーデン) カラスが作り上げたヴィオレッタ像は写真を見ながら CD をきくと、自ずと私には浮 き上がります。それがカラス以降の歌手の演技にみえてくるのを次回に述べます。
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