法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会

十 月
Eコ
.
.
法然上人鎖仰会
τヲ
昭和十月五月廿 n 常一日.幅四廊便物組可《毎
-M
月- 現行 V
臼
昭和二十四 H 四月二十八日淵品開省【特別級車叙輔副m耐
- 克二時'v
mm 四十年九月二十五
n 印刷閉山咽如四十年十月-日発行
ーー
鎌倉
浄光明寺 減
・
、
わた
。子供の乙る総父は胡制限時の勤行
次
1)
…………...・ H ・..…...・ H ・.. 井原貫録 ・ 戸川、霊俊 ・ 店舗Ili瞳…… ( 2 )
ぉ十夜に寄せて ・・...・ H ・..……...・ H ・ H ・ H ・. .
.
.
.・ H ・..…. (
秋川仏心
4)
•1 続発ランド法要記念特集
.
.
.
•:
…… (8)
• 法要供茶式に当りて …………….. .・ H ・..平林牒久
.
.
.
.
8)
仏t貨と 生活 ・ …・ H ・ H ・.
. ・ H ・..…...・ H ・ -… 件:1.勝
2tha総 …… (6)
読売ランド法要随行.te ...・ H ・-……...・ H ・ - … H ・ H ・.
.・ H ・. (
::::::・::::::::::::::
一文不知…. .
.・ H ・...・ H ・...・ H ・...・ H ・-…. .
..・ H ・-… (
一・ ー ・ ー ・ ー ・ 一
すばらしい訪天の法カ… …...・ H ・..松崎仁三郎 ・ 中Rl1E方…… (11)
芸名Z 名越隆成僧正 … H ・ H ・-…・・… H ・ H ・-…・・高婿
良和…… (16)
…. .
.
.・ H ・ . .
.
.
.・ H ・..… ・ ・ 室田
浄上のこよみ ………. .
.
.・ H ・. .
.
.
.
.・ H ・.. .
..・ H ・-・・大僑
正道 …… ( 18 )
俊敏… … (2 1 )
-fÁO法談往生できない人……...・ H ・..……渋谷
賢応…… (22)
仏教人生書11
赤子念仏
家艇と 三河一梗…….. .・ H ・..…...・ H ・ . .
.
.
.・ H ・..鶴 田湛必l ・ h ・ .. (24)
ベトナム 便り
..,・ H ・ H ・ H ・. ..・ H ・. .
.
.
.・ H ・村瀬秀:I1t ... … (32)
… ・ H ・ H ・ H ・ H ・. .
.
.
.・ H ・. .
.
.
. ・ H ・..山本雄被…… (27)
編集後記 …………...・ H ・..…...・ H ・..….. . ・ H ・. .
..
.・ H・..… ( 33)
一・ ー ・ ー ・ー・ー
n 本浄土教
物語
j争七索中興の学的~ 問・ H ・ H ・..……鈴木
成元 ・・・・・・ (28)
・
•
••
••
ご法務をいた だく
表紙の 解説
阿保陀 如米仙川
と んな m
品川
V凶がある
にはうらめし〈
わ るはず
アミダさまについて多〈を跨る必要はな v。けれども
〈しには
き
Vるアミダさまは変
、
ときどきお蛸酬を変え 子供のわた〈しに何かを話
をし Vた。お緩をあげながらアミダさまはと
、
見えたものである。毎朝見 上げて
がないのに
にあ
しかけているかに 凡えたとき、古川Vょうのない気持ちに打たれ
、
と
たととを紀憾している。そのとき わた〈し自身の内拠に変化
ド仏と わた 〈しの交流は清かにそのと合そ
があったのであって 、ア ミダさまに変化があったはずではなか
、
の不思議な朝間
p かけが今のわた〈した作り上
ζ
、
目
った。どが
ったのである・
げているととになる。
、乙 のアミグさまはま
鎌倉に渓存ずるアミダさまは数少いが
、
.
をつけ
さにその代表の一つで 、山本
師制後式として知られgmm
鰭
Vず れも鎌倉
tf'~のこと ば
•,
、
応
卵形の女性的なお績と着衣にある花模後の土絞
1
{
.
、
、わ た〈しに 何 かを教え主として〈どさるよ・つであ
《行
上
る
帥判官官のお安である。よ品中止{の印を絡んh
でw
おが
ら とれは
たまた
。
当時の説法印であみうか。銚めてあきるア ξダさまではない。
ま
る
号
月
十
、
文不知
おちついた雰囲
「判例磁の秋」といわれ、
る十
と月おはり
、 でも統んでくらすにはまことによい時候で
気で本
、
、
、
、
もとま
E近は週刊紙をよむ人はあってま
、
、
心の例措としてじっくり読むことこそ其の蕊
、
ぬげよ宗の人々は宗総のお常必「-文不知の
、
鈍の山河」を浪解しているようである。《NV
どうも
当はつく。
海えてみれば 、わが「浄土」誌の状況をみれば大体の見
こと。わが浄土宗の名が出なかったのは残念である
、
百洞宗、日蓮宗だとの
よく本を山出し、売れるのは宵抽象
、
各家
ある仏む専門の本屋さんにきいたとこ
ろの中で
ある。
持ちで
迫られてよむのは 、正しい銃密とはいえない。静かな気
った本をよむ人は余りない。またや生阜、文筑家
ところが
つもりで教糞の寄り高い新書版が乎に入る。
、
十年二十年かかった世帯い研究諭文が
安価なものはない。
ネクタイ一本ぐらいの低段で買える映
し画を-度見た
ると
銀総小説もあればむずかしい
本にもいろいろあって
研究論文もある。-Bで-冊よめてしまう本もあれば
読み切れねのもある@しかし考えてみ
十日間かかっても
本ほど多くの人の努カのこも価
っ格
たの割には
一ー一
有智無嗣U 持戒破戒をきらはず 阿弥陀
ほとけは来迎し給付"にて候なり。
法然よ人御法語
一
投身謝 罪 の誠
、
弁
原
文雄
ハ柳井清相守往旗)
ほやほや M
"の頃で
ρ
、
こんなに云うて聞かせて
こんな話をしてくれた。
、
私の師僧であり 父で も ある
瑞相寺住臓を拝命し た
、
ある。ある日
先代が
弘の師匠 がなあ
下 さったことがある。
更に総本山知恵院第七八世の法燈をつ
、
師匠というの は、 この寺から増上寺の御法
主に
、
お品すを焼かずに
、
がれた党批西大僧正
眠時上速海上人のことであ
る。
、
びんからきりまで。あ
8
住職一代の問
、
お寺の住臓にも
る。だが
人問
、
ア生滋の聞には いっ
、
、
どん
、
し ろ に威儀を正して
川霊俊
《鳳谷西住民住厳)
低
、
戸を和し
く
、
たいてい私ひと
私が 大学に 入 る頃 、そ の家 も相恩寺醇の
う
救
し、
2 高は
皇
あ
塁橋 る
i信 か
く
、
ではな
く
て
も ないのに
、
、
と
愚
て生まれ て含たのでは
て生んだので
く
日 も念頭を緩
ということである。私は僧侶と
、
生み皮
、
、
仏教者と し てこのこと が-
、
母娘
、
、
、
し て は閤る子供の寝
、
している母娘が 弘の
師酬を見て夜相時波を統
、
それは平安に充ちた状品川である。が
我ヱずの明日を考え
、て
ほほ えみながら眠る
た子供 が存在 し ているのである。
にかく百 人に三、四人 の制合で知恵のおく れ
なく
鈍その もの、 生れた
れない。 皿
思鈍の身になし て
し
であろうか
て考える こ とは 精神簿弱児に も救いがある
精神薄弱児と共に八年閉幕 し て き た。 そし
薄
児
我予の抑制途を場、成
ぇ長
毎年盆の栂経を八月八日に
、
しつけということ
そ の家だけは
、
多る のが例であった。父に伴われるのである
が
塔の段に移ら れ た頃からは
、
りであった。この若僧の寵経の問 あるじ夫
妻は
いろいろのお鱈がはずむ。私
は、
、
て象っていられた。
滞むと
中学の
、
いささかの
と対般で含る光栄に感激しつ
、
この天下 の大学翁 先生 ーーその名は
||
地羽の教科容の著者として とっくになじん
でいたので
、
精
、
年令も殆んど私と相前後
する
、
静かに
、
が 肉親の背後に神妙に鐙えて 絡が終
あるじの自合図にしたがって
、
何をどう教えたらいい の か どう教えたら
知
も遊ぶことさえ も
この子供たちが将来世の中に出て生きて行け
り
るであろうか。そ れよ
、
ると
らね子供たちと今日 一 日 を何 を して遊んでや
、
一札し て仏聞を去ってゆく姿が 今なお強く
ー ー
l l
絡が始玄るころ、袴に服袋 ψ整えた学生跡公 知る範闘でも数多くいるという現実である。
酬の泌さも感じさせられない。
、
御・本尊織のお給仕を完うすることが出来た
つ者その門紙納税のお結ぶりに
、
は「一人前の住駿」である 。
然し
隣りからの類焼もあれ
、
な災難にあうことがあるかも知れ向。お点すか の子息たち
ら火は出きなくとも
ば、飛火もある。
、
曹道
想
不審・にして万て火災という非常なこと
ー
-2
戸
随
、
、
がおこ?た ら 金融制といも
うの は 先ず本裳
?いるか
印象にmmて
その子息たちとは、後年の小川(芳樹、
貝塚ハ茂樹〉湯川ハ禿樹〉小川ハ環樹)惇土
にとびこんで 、御本柑時価仰のお供をすること
過去帳を出すことであ
、
、
、
beつ
このことありと
、
この
。そして、この家のあるじとは、地質学
、
覚えさせられるものがある。
さる年の夏 、「 兄たちは
今年は帰省せね
研究旅行に出ている者もあっ
、
、
績とに思う時 小川家の仏聞に垣間みたその
ろうか、毎日思いなやんでいる。そして更に
この子たちにも救いの遊があるであろうか
と。 山川草木悉有仏性といわれる。が彼等に
も仏性があるであろう。それならばどんな手
唯 一向に念仏 す ベし
、
、
と観法然は教えて下
さった。しかし 日本の公教育の中では宗教
して伝えること以外に道がない。
、
へ 毛穴から毛穴へ 、人間愛情のぬくもりと
それをしも、身体から身体へ、皮府から皮膚
ら念仏の中に阿弥陀大怒悲の慈悲をいただき
、
今日只私の出来ることは 私自身がひたす
知らない。 しかし三博士の人となりとその業 とができるであろう。
今日の三博士それぞれの信仰のいずれかは うその慈悲をどうこの子たちに感得させるこ
の機戚如品川小川琢治博士その人なのである。 生向は許されていない。仏心者大慈悲、とい
il
教授 ・機械工学〉だけが数年前に長逝された
だ。 ||うち、惜しくも長兄芳樹きんハ京大だてで仏になれ るであろうか。
住職が身をもって衆さねば ら所繍小川学者兄弟の若かりし自の姿なの
、
だ。 それ が す んだら
る。これだけは
という
火災に由討
、
このことが出来ないとしたら せめ
、
、
お供を
御本尊様の「おつむ」だけでも
、
もし
ならぬ大切な「つとめ」である。
て
ー ー
も出来ないという場合には
申しあげることだ。
それ
、
者もあったり
、
、
、
-3-
を投じて謝罪す べきである
い「いましめ」である。
、
、
この寺に
そんなことが:とさえ思って聞いた私
、
一昨年-月 出咽相寺は隠居所の短憶からか
火みのしつけ?の}川崎に 私は深 く感慨を
、
、
陣複が全焼した。
を発 し て 本堂 書院 、師
師父は
!
ことばをのこしてくれたのであろうか。投身
謝罪
、
たりしますので」と 務何僚のあとで母堂に紹 悩める母と共に泣き ささやかな子供たち
の成長にも 共に笑って今日を 叉明日を過
、
介されたひとりの少年 その人は 四 兄らの辿
住職として
、
す以外に方法はない。そして稔の人の仏心の
不思議なことに
である。だが
る学問の道とは集り、大学の法科を了えると
、
の「つとめ」だけは来す ことが出来ていた。
支えの中に、共 々に手を取ってこの子供たち
はたらき M
"ではない。
M
、
この 一曲家が筏 を拳舗にしてやりたいものである。
さぎの大戦に
の末弟こそは
l l
英軍なの
図に鯵げた喰一人の尊い犠牲
だ。
、
すぐ鉱業界に入ってゆかれたのであるが、こ
それは私の
、
半人前になりさがった今 高僧ののこされ
‘
、
涙する 思いの消えやらね私である。合掌
、
想
た教に生かされている わが身のありがたさ
に
随
、
i育
b
ー l
仏
十
d心
夜
寄
ば
せ
、
倒れずにすすむことができる。
て
寂静の境地は
、
、
、
、
つねに正しい信仰をもち 正法
、
、
、
、
、
、
句
心は次第にひらかれてゆく。念仏の 叩
、
、
見たことの悦び
、
、
このことである。
身を正し
、
、
心を調えれば
、
、
このとこ
柔かくとけこんでしまうもの
、
v
身口意の三業は念々に正され 伊
、
、
、
人の 病いによって見直された健康はありがたく死に …
よって見直された生は尊い。人の
念仏によ って見直され 〈
てゆくのである。
日
それらはすべて ~
~
聞いたことの悲しさ い
、
いかに頼もしくカづよいことであろう。
一
、
、
終日に
、
、
夕べの念仏称名のまえには
為したことの誇り 誤まれることの悔い
自分が
功績は
… っている。凡夫のかなしさである。なかなかにこころ安ら 気はおのずから澄み
しかし
伊 いだ寂静の境地のえられないのが我々のすがたであろう。
山
、
廻転している機関のためである。
航海中の汽船が波浪にもまれながらも 沈没をまぬかれ
V のも
ザ
〆
、
同じように 、人生の波浪にも信心の機関がありさえすれ
山 るのは
~
、
~ だげは つねに信仰の方向へ廻していることが肝要である。である。念仏称名は正業であるといわれるのは
} 「信仰はつねに心の態度を確立たらしめる」といわれろ
るであろう。
、
一 を護念している人には 容易にえられる心境である。人は
… 行住廃臥 なにをしている時でも して いない時でも 心
4
、
~ 人のこころは常に流転動揺する。そのたびに他の人の心 いま みのりの秋と共に 念仏信仰の秋でもある。燈下一
V をきずっけ やがて自らのこころもきずつけて空段さを味 のもと 仏前にひざまずき 経を悶し 明名を称えれば、ん
‘
-
ー
秋
一
,
,
,
,a
,
「なるようにしかならぬ」生活が「思うままになる」生
ハた生活は奥ゆかしいものである。
ん
lll
噌冒
.
調
1
抑制回開閉 1
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F
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一
4・・・F・岡
M・・
4・・ョ・豆町
q M凶圃盟可 a'
f 凶EE'守幽門
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J4J 一一発
刊
祥
副圃田園圃・周a
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、組開祖国・
・E a圃 幽 門嗣J
圃品寸
冶諸国掴冨品開
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1
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詞 君斗 一- 圃光
5
.
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町函圃
圃.畠澗炉二
主一4
圃陣三
…二
三一 ω
泊幅圃圃圃圃圃
晦副置圃帽M------E
… き方に変るのは 、念仏信仰によって転ぜられるすがたであ
v ろう。
、
んこ
ん 桐-…娘行なく放る
…すがたに警をきく。
、
、
~ うたた勿忙の枇のなか
、
か
明臼とも計曜
、
、
また同時に
‘.
5ha'--
いつまでも生きぬくとい
いかなるところで死んでもよいとい
、
ものが
念仏のニ字である。
、
散乱動転して生きている 、 今のこの身
、
、
このままのこ
ん
一
念仏の念は「今の心」といわれる。生死にさまよいなが 明
ら
、
内
ころに安心立命をうることこそ 実はいちばん大切なこと 一
であろう。
、
、
おのずから仏心のささやきが問えるであろう。行一
基
、ひとり念仏をとなえるな
…
秋の夜半、ひそかに夢さめて
らば
菩躍は
、
秋風にあうて其如を念ぜざるは 信心のうときなり
、
明
の
といわれた。
いくたびか、月に波き
風雨に
~
、
政木に仏相を観じ
、
秋風に心を乱し
俳人一茶も
た。
、
もろもろの患者も月さす十夜かな
仏性は天地の風物にやどり
、
気は澄み
ん
、
"
一
風は渡る。秋ふけゆくと共に ~
、
説法を聞く 、 これはみな如来の換喚のすがたである。
いま月は さ え
、
刊
仏の道にいそしむ。念仏の声ひときわ高まるお十夜の意 ~
殺はふかく尊い。
ー
5
-
~ においては 我れや先
v き 人や先き 今目と
川 もしれず
干 ることのできない
、
… げろうのような露命で
め はあるが
知れぬ生命でもあろ
ぅ。
、
いつまでも長らえるかに甑圃圃W牒
川
γ
~
、
いっ
また
この 二 つになくてはならぬ
>
したがって
、
、
M
目
ザ う党倍は大切であろうが
、
死由る覚悟 生きうる用意
•
,
い う用意も肝要なのである。
山
<
.
、
活
ていて
、
そこでこの日を迎えた
。
通信兵と
して
、
@
弘は召集を
二等兵という}響
、
仏砲の仏兵の震まの多 いことを競ってい
戦争で刷闘がいない
、
坐 す るのであった
、
。
然
し弘と悶街の兵士の六名は、そ
雑談 をし
の仏境のあ る
、
私が 説経が終ると村上家の朝茶のサ ー ビスを受け るのであ
、
度数に宿泊しているのであるが 私の読経中 は庭に出て
て居て
る兵士途が庭で雑談
私の読経中に 家人がお歩り し
その家に 厄介になってい る客であ
、
る。そ れから神社に集ま って点呼 と体操があっ て、大 隊の食事場で
、
朝食となる。老人に気に入ら ね のは
ているのに
をしていることである。この地
方 で は、そ の家にぎ た客 人は先 ず仏
7
、
。
そ こで
、
突 は兵士述が
トであ る
mを持 し てから家人にあいさつを す る。 まし て そ の家の主 人等が仏
岨唱を持
する時に は客人 も 礼持 す るの は エチケ
必 人の「臼本が欺ける筈だ」という大げさな発宮は
、
その聞に
、
、
終戦後 も復 nH
m務がお くれ て九月十 五回まで
し て いるのを
この村の人途が仏と俄なる生活を
、
羽起きると仏岨唱を明け
ず必
仏船舶に仏飯を供
え、通 常 は主 人 が
。
る し、
、
贈物等 は必 ず仏前 に供 える
。
半聞きにして一日中仏峻 は あ け ら れ てあり
、
ば先ず礼拝す
から
客 人等 が来 たれ
家族 はひるは農場
、
正信備を読み、出家族は来って 倶に礼符 し念仏 する @こ れ が終って
見た
いたが
私はここにいる問
ようになった@
仏績を押 しない非礼とその宗教をおそ
れない不心得をとがめたかっ
、
資材が来ないので 村の鎌家に分宿 し てそれ
、
兵 が 二人口
刑死したが この州式 は弘の仕壌 で
、
二副月の間に村に布市し
仕て聞のな取りをニ向相似 押 す る
す ることであったが
がなく
仕柑ゆ
たのである。このことあって以来 兵士遣 は毎日引仙の統絡中仏澄を
、
、
うが
またこの間に
村の戦死者の家へ命日にお移り
するのも私の品添
川になっ
、
この村は浄土真宗仏光守派の門徒然であってどの家にも自慢
、
。
.
、
の仏纏があり 各家では
た
あったし
した
を待っていた。人放は -似中隊であるから二百 人似であったかと悶ゅ
、
下 の階級であった。弘共の仕 事 は北九州に束尚縦
断 の屯術的悼を架設
•
ド法要記念特集
雄
(大正大学学長}
密
二十年前の大策秘戦の終戦の日であっ
法要導師
、
、
本人が初めて敗殺を迎えて 一戸
惑った回である
B
藤
受けてプ央 官Fとして九州にいた。熊 本県の今藤という村に配位され
て
ン
佐
フ
生
読売
と
昭和二十年八月十五日は
壇
る ように見えた。勿諭村には教会も寺もあるが
、
6 一
-
仏
ので阿弥陀経の絞める弘が その代理をつとめ た のである。 K\
、
私が分宿した家は村上箆記さんという家、
で此処 にも大ぎな仏壇
、
、
、
、
一日の働き
のが一自の順序である。こ
一日中仏に授られて働き
この生
仏と m
酬に休養につく生活をしている のであ
仏と倶に起き
別々に仏前に礼
に居るが、娩は夕食前に灯明がつけられて、主人が御文章を読み上
、
げ家怯脱会員で聴聞
する。そして就寝前には各人が
弘のよ官の上等兵搬は 越後の
、
なる」と告げた
の村の人は
があった。この家へ私共が入る時
よく
し、 最後に主人が仏績の間仰を閉
すという
、
すれば、此家の私共に対する待巡も
う
染物回隠さんだったが信心深い人で
私に「あの仏沼にお絡を統んで
呉 れ、そ
、
が終ると仏に感謝して
、
私は阿弥陀緩と一枚起諮文とを読み 念仏を椙えた。効来は
、
ので
、
私の生家で経験したことを思い出
る。その村に慈事の起らないのもその為であろう@しそ
て
、
、
てき商というべきか、私が説絡をしてる間に家族の人は築って
読
富 山 の高岡で
させた。弘の生家は函ム本願寺の門徒、父が死んで母
しが
たが
蒋、
婚
、
活は私が少年降
、
家で
族から
経の切り自に念仏するのであった。私が僧俗であるの
、
大切にされ 同宿の兵にもそれが及んだ。
、
、
各隊の食事場で 震大
その時に不敬にならね態度であるよう
命令は十 二時前に各隊が食事を終って
、
、
し て十二時に聞かれたものは天阜の終戦
、
村上卓也人が庭先に
、
、
、
実際は案外堅実に 社会生活も
私がこのようなことをいうのは 戦後の日本が大混乱 し、 道徳論
理 も失わ れ たように言われつつも
、
、
日本人の生活の根底に 私が九州で見たような、又 私の幼
正常に発展しているのは何によってであるかと考えたからである。
これは
、
少年時代に経験したような 仏教的生活があって、こ
れ が見えない
カとなり 、行き 過都世の防衛となっているからであろうかと考える。
、
そして
-7-
、神 社の広場に金中隊員が
終戦の目、十 一時に非常呼集があって
そこも問じ門徒であった。父も義父も母もよく正信用閣と御文訟を読
集められた。其処は、私共第}大隊の食容する場所の近くであった んだので、その戸が今日でも耳についている。
が
放送を聞けというのであり
にという注意があった。そ
の、い わゆる玉音放送であった。
、
、
私共は放送をきいて 安心とも不安ともつかね気持で 各自の宿
、
舎に帰ったが 私が宿舎である村よ宅に帰ると
、
わた が、弘は現 代
いて私を大きい戸で呼び 「日本が敗ける僚だ」と叫んだ。それか かつて 日本怒の支柱は農村の生活であるといれ
、
私は 、そ のことを意外にも感じたが、またそこに見えざる仏教 のカ
依然として、地方にも 部会に も仏壇が盛んに先れていると聞い た。
。
見る。去る九月五日に私は京都の『アパ
ートに行われた 仏壇の展示会
ら老人は私を炉辺につれ込んで冷酒を呉れた。当時としては袋にの
資日本の道徳的エネルギーは 臼本家庭にある仏壇と倶なる生活だと
、
毎朝点呼前に阿弥陀絡を鋭んだ。その問村
、
に招か れ たが 極々な新型一の然も荘厳な仏墳が山
沢あった
まして勝利等はないというのである。やがてどうして老人
重な泌を飲み乍ら老人の語る、
に神は仏を信じない兵にmm戦は出来
ないし
、
がそんなことをいうかということが判った。
私はその村上宅で
上家の人々は私の管後に坐ってお参りし、出かける人は礼拝しての
中あるを思って、た のもしくも感じた。(当日の織淡より)
,
法要供茶式 に当りて
、
炎天 下、 青空を切り落した姿の天幕の降 大
林
正大学 h長、融輔衆議大徳
読、
売社主、大 血熱粛
、
、
然注目の桐憶に池遊紬天目茶碗に点ぜられた
。
-一般の茶。大導師領下の御加持を得 仏前へ
供せられて緊張の一瞬が終る
此の供養式幽仕斡綾の労を頂いた学長先生
、
を始め 特mB頃何くれとなくお世話頂いてい
、
、
念品川総巡兵の捌途に奔走された部長
、
る学生課長安居谷山先生 、そ してこの出仕に
当り
、
先生に 品開茶施茶共無魔終了の綴併の由来
、
る絡しいひと時である。尚一前内山秀給
治仕
、
、
大滝伝子外猛容を限わず 汗まみれの 稿・町内
、
企画、湘
中仰の毎日 部口一人一人の努力が今
、
、
糠
久
V自問削
〔火反大令官需噛則
売
-フ
ン
八月十五日。それは誰も忘れ ることので晶ぜ
記
1
f
、
、
、
この日であった。
T度 、日 曜日であった。世界 一
、
、
災
った。進か彼方にまで モノレ
、
、
ー
ルの軌道が
ラン
し い泉水や沌
、
一杯に遊覧客がみちみちて 阪やかであっ
、
吻ぃ地公
耐旬池公附がある@陽光門とな
、
、
、
セイロン
ニ0 メートルほどの釈迦如来般があり、さらに
、
、
仏舎利は
釈迦如来殿には 仏舎利と型一郎官がまつられ
、
中仰には 観点目堂 八角朱般の妙見裳がある。
、
開である。こ れを過ぎ て泉石段かな道を歩いて行くと、海抜一一 0
づけられる大名 m般
mの大門円三百年前のもの V をくぐると
この-角に
た。
ド
が 涼しい告を立てていた。このロは
円弧をえがいて走っており
、
忽そのもののごとく ランドは献酬に広大であ
のランドをという正カ 総太郎社主の雄大な槍
この日は
的にみな彦っているのも
悲劇を繰り返すまい。こうした決意が全国
ない終戦記念日である。二度と 、こ の よ うな
随
読
法
周到な準備 充分な首相古の全てを終った時 メートルの山上に
、
供茶式に限らず、大寄茶会をこう思う。成功不 成功の帥艇は、
、
述せら れた感激の瞬間でもある。
私は
当日にあるのではなく
、
にあるのだと@剣 居合では 紛の械の勝利とか。剣を抜かず勝敗
、
を決する。これは相手のカを知る以上に 己れのカの限界を知る必
-8-
要
量を
風
要
法
平
•
、
、
要があろう。茶会も会く同様でここで相手所茶会とすれば 己こ
茶道部の茶道に対する理解とそれを茶会を借りて表現する
政府からm
、
ら れ たむのであり
、
、
蜘官製はパキスタンより贈られ た芸家
まばゆい ばかりに仏舎利絡
・
、
、
・
、
、
自惑の各師が 側性
、
仏教七宗の開銀像がならび 伝教
栄凶 ・相崎健・遊先
・
伝法 ・法
地公闘をかぎっている。さらに 下の方には
、
著書隠像をまつり
いずれも災被をもって 聖
、
観点目堂には 国宝菊一観
回世・行審麗をまつり
妙見裳には 国宝妙見
は仰いている・
、
である。堂そのものは小造りではあるが 大理石を敷きつめた殿内
、
こでは
。
Kt
1
-z
月遅れ孟繭盆の十五目
、
宮司書t ・日
式然
ゆたかに並んでいる。まことに此の山一仰は
、
、
特異な地域として 砂拝
、
日本仏教を烏敢闘にしたような景観で 四間
茶の遊同地の中では
串告があとを絶たない。
、
、
各宗管長 各本 山法主
、
毎月十五日には 此の釈迦塗を中心として
供大法要がいとなまれ
、
等が海師となり 盛大な式典が附加れ
さる。今
、
年の八月十五日は 大正大学学長の佐藤密錐
、
博士が導師となり 大正大学関係者が随喜し
、
町
岬m博士は正
HM
更に厄伶法聞の人々が多加し 盛大に行われた@仲.
に
ph陶酔伊叫
、
には
、次々と高
〆函・ 4 盗
A
a-J 一
聞円 d
h
働畠F
記剛司
h1E
H
ル「
大きなガラス製のドl ムがあり
能カとでも云おうか。
、
ここに採鉱を彼き茶会は企品附
れる
さ。今阿の供ぷ式税制町A
占mm
ハ施
、
茶 V は八月初旬出仕依頼を受け 当日が
、企副都器
問者中休暇中帰省館員約半数の条件が出ると
部長先生 、俳雲
が実行さ れ準備される。私はこの企画に即し
。
た点前を指摘即すれば良い
供茶台ヱずの貸人点、野点(ぬぎ岨冨抑制静脈U
yp枯渇諸国
EE-園開3 ・
d
舗闘訓
皐吻亀・圃
tF
-fb
-pardbnzh 向島ド
、
、
、
、
、
ら山出発した・陽光は燦 として制き 補地公団内での行列は 花厳で
、
、
、
て康博
絡が行われた。 そ して 最後 の畑地師像前での錠絡が終っ佐
、
ンのカーペットは芝生に見立て 鵠毛織とのコントラストが良い。
、
あった。正カ社主も白から迎え 祖師像前へと進み、ね んごろな税
、
気楽に茶が飲める配慮が鏡、える。
、
全体に旅先での気純な=殿考結男女 茶の経験の布織にかかわり
なく
- 9-
テ 17
行脚の勧告と決まり、特に野点では、仏教大
学ならではの企画が生まれてくる。
、
き、客室町
W恥耀
直閣時
凶
丞の十五臼とて 一尺凶寸巾のマコモハ部話 園開Hmv加
j-盟
員の手編〉を風炉 、益率に敷
、
、
・
担先発の患をふ謁蛸圏
安一宇のけの然一個に見立托
て鉢笠に色紙を併
け建問のかわりとして
茶席に迄取り入れ、 見事 に表現している。
、
、
組相柑の無い様との配地肌
制で
の
金子良議長先生の机従来に依り 野点府に『
、
一 一一I
麗
グつ
リー
簿板を敷き組問釘を打ち茶袋を立てる@水崎叩は白木の
るベ 威儀をただして行列の中に入り 随背骨僧十数人を従えて陽光門か
は、多少の風でも茶袋がとばぬ様
•
•
後日の反省会では
、
供茶式列席の帥朗代に供茶侠了後w
そw
で
の茶瓜
上は簡単な濃淡をした。終戦記念日をえ
迎ての感銘深い穏であった・
、
、
、
茶誕の悼鉱山町を凶米なかった 大正大学茶道郵が この法務に診加し、献茶をし 更に多列の人
。
多く の遊覧客 は、
ライクを通じて この戸は全ランドに滅れた。
の締応をする案。大 描帯師を始め間輔衆消火徳二十分に一息る炎天下のマ
それぞれの位置でこれを聞をながら、感慨深げであった
、
て
内線行で潟しているに違いないし、泌をいやす為の置茶いを
ンド
外にない。従って当日供茶式h喝
Hにて
この 一連の行事 は
始めて
海え
、
、
、
、
、
まことに些細なことで
、
今
、
自本において
なかなかに愈緩深いこと
中簡を巡って
、
ようによっては
、
その真価を発悔し 民衆の生活の中に生きている。そして
、
である@仏教がインドに発生し
ある。しかし、 -歩
i 巡んで湾えてみると
、
々に
不備を反省し次会を期している。又水田血と席中の連携動作の不援
等茶をすす めた。法要中の行事 として 異彩をはなった。真夏の
反省の帥同点は明日の茶会への紛進の織として不可欠のものであ陽
る光
。は、敷含つめられた真赤な館穫を いぞが上にも赤くし 自に
、
、一茶会でも
此度の供茶式は誠に得難い
関東総本山光明守の 一隅を借りて行なわれた
、
茶を単なる崎市好円聞としてでなく、茶の湯を自己を見つめる近でしあみるようであった・
、
ると する部の方針のよに
あった。
七月初旬、鎌倉
、
第六回合宿のテーマが供茶と緒茶である@一週間早朝勤行御
の折
、
、
勤行の折 、一 回無事初進の感謝を念じて 茶を 下 げる。この日
、
持茶をポイントにした 茶巡伝簿 、本 尊
、
、
考えも及 ばな かった出来ごとに違いな
、
インドに
仏教徒同志が相
、
仏教は 平和を本旨とした民衆の信仰である。今 世界
、
ている。そ れは、 渡来当初
v
さらに
必ずしも平和でない@ベトナムに
、
、
本噂阿弥陀仏へ供茶@共余徳を、初古の析に銘茶として取扱し、仏
夕舎利と型援を迎えた 日本の地のこの一角で、そ の祭砲が行われ
刻
、
、
自の行業が 晴 れ の槍舞台を得て見事結災した感が深い。
次の時点ではこの供茶
別府にて施茶 ・治山首「簡単な茶の点て方飲み
・
、
は
法活
・
法mm・供茶式
討ちをしている・m に釈尊の教えにそむくことも甚だしい。釈柑号白
、
、
方」の要項が討餓されている。テストケースとして、二三の寺院
供茶参衆に施茶の接待が部員 の手で行なわれ、
から悲憤しておられるに違いない。時あたかも 、日 本においては
、
の施餓鬼会に於て
戦争はも ういやだ M
Mと叫びたくな
MH
、
顔わずにはいられない。〈編集部〉
、
単にこれを形式的な法要にとどめず 其に
こうした時に、ここでこの綾な法要が行われ事
るは、何としても
るときである。
終戦記念日である@縦し もが、
、
共感を呼んでいる@
、
多少 の問題点も在り討議されているようだが部長先生 弱良の
比例実行される穫も述くはあるまい。月例法要供茶式と、続茶
手で A
、
世界平和の礎となるよ うに
野点仰の岡町は大正大学茶道館、仏教系大学の指針とも云える多く 愈災深い@われわれは
の問題を含んでいる有意綾な茶会に外ならない。
のυ
.
恵太郎の発心
Bb し
ば
し、
祐
、
、
町 とにした。紡天は
、
、
の法力
、
どこ
二十}の若年で風釆もよらず 製裟衣
、
、
、
、
思えなかった程である。そ
途中まで出迎えに来ていた僧途も 御名代とし
、
、
普山城田〈京都府)に猟師がいた。家業がら生物の命を
Vい
取ること仇
腕。彼には者母がいたが 、もとより親孝行
、
、
、
他人に対しても 非袋持道の
、
吋も聡野みたものを用いてちい
たとか
ら
ょっ
比る
と
、
… かの乞食幼主位にしか見えない。今度認天守に参るにしな
てどは拶にも知らぬ人間 で
摂錦が数えきれない。その名を水次郎と申したが余りに
、
築の入仏供養を行うことになったので本山の飯沼弘経守れ
にで参詣人の中には初め軽蔑していた者も相当あったが
指搬を迄うべく相談に参った。住職極通和尚は騒々協議だ
をんだん話をして見ると結天の人柄がわかってきた。説教
する度毎に人々は驚きの邑を見張って尊敬の度を泊した。
司 した結来 和尚は結願の日に十念回向に臨む事として 名
話も進んで五日自のこと 次の様な因縁結をした。
目 代並びに説教伯としては 勘当中であるが祐天を追わすこ
て本山から遣わされた方とは
未だから
郎
方
一
一
一
正
仁
〈ニ)
崎
島
松
中
一 も 、ふだん活のままに草鞍ばきで 岩谷えさえ持たない始
- 11 ー
す
本堂改
明暦 J一年(一六五七〉下総の国守谷忠天守では
天
司肱
._・_.,・----司恥・円・.....・-・"
、
、
その僧は回毎に怠らず
、
、
、
、
いう寺がある。彼の僧は その守の客殿に入ってしまっ
、
た。悪次郎は 守に参り案内を乞い 、山
、
お名前は何と申されますか。
た〈 U勺
M
一か
このt
すからい毎日托鉢にお出、で
御な
出さ
家る
にお自に
少
、
又怒った気色もなく立ち
、
その僧は
取次の僧も不審に思い
、
n
…
四
一
一
日
一
その
たしかに客殿に入られたのです。 四
、
お隠しなさるな。唯今これまで後を慕って参 叩
いやいや
、
、
その御出家にお話承りたく参ったのです。
りますと
、
返すがえすも申すので
私は
、
、
、
、
その証拠を見たものがないのだ。或は本
、
ただれて血がにじんでいる。住僧始め僧迷悪次郎皆奇異
引
V
一
悪次郎を伴って本堂に行って見る 円
、
一
この守の本尊は 托鉢に出られると 普から言い伝えが 円
みろ〈惨さ。
住持も不審に思い
、
尊であるかしら。
ある。しかし
と
w
一粒の施しもしな
、
尋ねた。すると内から申すには
、
かりたいのですが
と
と 、悪次郎は重ねて、
めしがない。それは守違いじゃないか。
、出たた
不思議なお尋ねじゃ。この守からは托鉢の僧は
と
又刻限もたがわず訪
たくはつに来る僧があった。悪
大感無道なので 附近の人は悪次郎と呼んだ。すると 悪
次郎の家へ毎朝まいあさ
、
あいにく一匹の獲物もない。腹を立てて帰って来
それが一年余りに及んだ。或時悪次郎は朝早く狩りに
、
次郎は仏法はいまいましいと言って
、
い。しかし
れ
出たが
、
た処へ いつもの僧が来たので悪次郎はその僧を散々にな
ぐってしまった。
、
毎日まいにち来て銭を乞うが 私は仏教が大きらいだか
aTWE
、
重い火備をした。その恐ろ
、
、
m
u
ら一粒だって施さないのだ。それなのに性こりもなく釆
るとはどんな訳か。よろしい。これからは二度と来られ
、
、
側に鉄火働省の焼けていたのを見付けてこれを僧の額に
通り和尚・に申し上げた。和尚、は
ない様にしてやる。
と
おし当てた。煙が立ち上って
、
又驚いた綾子もしないで いつものように
、
しさは身の毛もよだっ許りである。しかし その僧は
しもさわがず
念仏をとなえて帰って行った。さすがの悪次郎もその不思
少しも顔色をかえず
、
、
、
…
議さに驚いてしまった。焼けた鉄火働者を当てられて煙が立 と 、本尊弥塁間醸の御額に 、焼け火築の跡が二本あって 、
ったのに
、
、
細川るとは どんな方かしらと思い
後からついて行った。
の思いをなした。さすがの悪次郎も
始めてもったいない
悪次郎の花所から三里程隔った 部甘野に光明寺と という事を知った。
すると
n
,
、
、
和尚に向い
、
、
、
、
、
、
、
今迄の不孝 何卒ごめん下さい。
、
、
川
- 人の性は普である。ただ人それぞれの生活環境によってのだ。よろしい。仏前で剃援してつかわす。
一
とあって 仏前に毒り剃妥して黒衣の身となった。悪次郎
日 悪に陥り 性悪を恩わせる場合も往々ある。しかし 機会
一
引 が到来すると 必ず瞥発されるものである。悪次郎はこれ は 本尊に三押九拝し 住持にも厚くお礼して、急いで我一
町 までの態療を悉くざんげして 仏前にひれ伏して泣いた。 が家に帰り 右の次第を一々老母に語り
川
m そして
私が
、
日
、最染の衣に替っている
一
今迄の大悪無道はあげて数えきれない。老母には と 、打ってかわった有様。その上
一
ので、母は鴛き 、
不孝の罪を重ね 仏道のありがたさなど夢にも知らず唯
、
E
m
目
叫
却
御本柑悼の御奇瑞は恐ろしい。お前が悪心を忽ちひるがえ
、
めでたく出家となられた事は
この上もない歓び
このたびは
々殺生を業として暮していた。その悪心を
、
、
して
、
尼法師になり、共に後世を大事と 墨染の衣姿とな
光明寺本線へ参詣者が群 引
、
親子蹄枠内念仏三昧に暮した。この事はたちまち泣郷近川
、
、
だ。広も決してお前に負けてはおられない。
と
り
在に知れ渡 った。そんな所から
った。すると
、
ある夜夢に
、
、
}
光明寺の本尊が現れて慈司
綿し 、また悪次郎親子の庵室へも 、 ついでに立寄る者が多一
くな
、
、
仮りの勧めによって 悪心が忽ち答心となり 母 引
、
次郎に告げられるには
私が
-13-
、
善心に立ち直らせようという 御本尊のお怒悲から仮り
ったのに
、
品
民
、
に僧の裟となって あらわれて下さ
、
われと我が身をもだえ苦しんでいる。
、
知らぬと
閣
はゆせ御仏体に傷をつけ誠に巾し訳ありません。
と
、
、
叫
日
、
、
『悪に強いものは やはり普にも強い。』とか 悪次郎
同 真に
占
、
、
ひたむきに
岬 は これまでの生活を一切清算して仏に仕えまつろうと
、
、
山 この座で剃妥させて頂き 第子になりたいと
、
住職の中されるには
諸共に無二の信心まことに殊勝である。それでお前に 川
山 申し出た。それで
、は
尤 も至極である。
これを機会に善心に立ちかえる志
、
叫
。普から行きなれている猟場へ
一物を与えようと思う
世
一
『
仏の御怒悲は大悪人をわけてもふびんに思し召されるの
、
-
夜が明けたならば卒く行って 、光のある所へ網を投げて
、
です。放がご本尊の奇瑞によって 一念発起して出家に
くれ。
-
仏縁の切れない証拠 有り難い御加護な
、
なりたいとは
、
四
•
・
と
、
そのまま夢がさめた。悪次郎は不思議に特
思脱させたのによる。と官っても過言でない程有名であ
同
、
、
、
、
此処ではほんの概略に止める。
一
お教えに従って まだ夜のあけきれぬうちに猟場 る。それに就ては 拙著『実説かさね物語』に詳説してあ
即
で
す,
一
助という一二才の男児をつ
隣村横同日間制定右衛門の娘杉を後長にした。時に鹿
川長十
、
泉の殺は与宿衛門である。与お衛門は女速が悪かった
川の
網を持って小船の中から水中をみつめていた。た るので
、
教えられ
、
ったが
に行き
金色もまばゆい阿弥陀如来
、
いよいよ信心肝に銘じ 急いで我が家に立
、
しかに一ケ所光っている所がある。此処ぞと思って網をお
、
ろした。引き上げて見ると
悪次郎は
、
、
、
、
凡俗でない詐りでな
、
hvs
,w
ゆ
、
その上蹴寸あった。与店街門はこれを援度に
~
1嫌
、
後ま
杉はっ
身重
にな
とうとう杉に殺させ代し
た
。一
その
、
盟年女児を産んだ。泉と名づけ一
たぺ吋
、
、
助そっくりなので 村 人 は 助がかさねて生れ変って 川
、
、
拾てる
日
相
か怠ねと呼ぶようになってしまった。助より門
、
て夫婦は相次いで死んだ。
、
一
泉は孤独となった。何分無類の醜婦なので雄一人とし 吋
、
ことも人にやることも出来ず 苦悶のうちに育てた。やが 引
与宕術門は 、我が子であるから醜いと言っても
は遥かに鴎い。
来たと言い
て
、
四年三六 O 九)である。杉は
、
倣
、
れて来た。この児は何の因釆か ふた固と見られない聴い日
、
ち帰って大切におまつりし 新たに一字を建立して この
、
顔で
、
弥陀仏を安置し 念仏三昧怠りなく 目出度親子諸共に往
て
お年はまだお若いが
り
生を遂げた。
悪次郎は問心しての名を罫海と申した。また京の阿陀
弥
、
今もなお光明寺に保存されてある。それであるか
@から
、
成仏するのは決して疑いない明だ。と 様々
、
三悪道に沈む輩でも十八願の念仏にすがり未来を願
、
如来は
ら
ったならば
、
、
の因紘を引いて説法されたから 群集した老若男女は 涙
を流して
、
年と共に大善智識となられるお方だ。鳴呼有り難い
祐天様は
く
話だ。
と
、
、
、
、
国
て相手にしてくれる者もなく 三十三まで一人淋しい暮しw
知るも知らぬもおしなべて尊び合う詐りであった。
をしていた。その時 谷五郎という浪人がこの村に来て
かさ勿す旬
薬及び 助の怨霊得脱
熱病にかかり動けなくなってしまったの
村れを念一
人で
はこ
仏設に入れて世話した。かさねの家はその近所だっ叩
たの
、
祐天上人が天下に名をなした端緒は 累及び助の怨霊を
- 14 ー
.
i・』・F咽h制問・h・F・・4・・咽
釦
一
一一一
一一一一一
、
、
名主
、
、
、
、
は
給天は三十六才の血気盛り これは衆生一済度のため且つ町
祐天上人に
よく倉設してやっ は落付いて仕事も出来ずそれで 当時飯沼弘経寺に居た一
川 で 、朝夕見舞ってやり医者まで呼んで
累の怨霊を得脱して頂きたいとお願い
日した。
、
、
ニ郎方衛門の骨折りで、谷五郎はかさねの饗となり ニ代
一 た甲斐があって全快した。それでそれが縁となり
ア
、
なく若者遂に
、
、
、
『
村中を探させて空木を切り輪切りにして M
・
2Avse
一
、快く承諾した。即ち三月十日
会もあると
~ 目与右衛門と改名した。この男は恩義などを知るわけの 法カを試す機で
A
から
にかかろうとしたが 大切な大珠数がない。止む
の修
で行あ
A分った者ではなかった。唯累の財産に自をくれた
、
一 る。累の醜いのは承知の上でしたがいくらもたたない中
、
、
、
、
、
一 に、外 の女にだまされて 累をじゃまにした。体の具合が 角を丸め 心に麻の緒を過して 長さ一文余りのを作らせ山
た。そして祐天が先遂となり、大衆はこの大珠数川
を繰り
川 悪いとか 頭や腹が痛むとか言って プラプラしている回
、
、
、
、
、
、
、
、
近頃
信に
心な 日
一 が多く しまいには累を鬼怒川に押し込んで殺してしがまらっ和して念仏した。会く道俗一体不離の
い盛
一た。時に正保四年ハ一六四七〉八月十一日であった
。事であるが 累の怨霊は執鋤 に菊にとりついて 離れ ­
体をも
一 累の最期の様子は 同村の者も-二名知っていたがよ ない。さすがの祐天も手を焼いてしまった。菊は五【
な苦しみ
ム く知っているのは 報恩寺生れでその時 中妻の露仙寺に んで床から-尺余りも、浮き上がり、世の中にこん四
、
、
対岸の柳の木蔭から 累が川に押し込まれ
、
、
、
ロに弥陀本願の密究と 陀羅尼を摘して
退散間違いなし」
。と、叫んだ。
、
水晶の珠 山
、
、
数で菊の体を撫でられた。暫くすると、官制は気却
抜けし
「怨霊日
な顔で 辺りを見張っている。これを見た結天は
-
いで
かと思われるほどだ。しかし循天は少しも周M
しな
右あ
衛ろ
門うは
山寺男として働きに行っていた清方衛門である。清が
、
… 水汲みに来て
で
一 てもがく有様を 見るとはなしに見てしまった。
、 どれもこれも不縁
一 その後 、与方衛門は後聾を貰ったが
六人目のきょが菊を産んだ。
訓
日
、
M にあ 同
黒一一族の華は現旋水海道市羽生町宝蔵寺境内
、
四
寛文十二年(一六七二)正月十四才になった菊が病そ
んの後助の怨震も 祐天の供養によって消え失せた。九
目
月十九日菊は全く本服し 七十二才まで長生した。
、
一 だ。狂乱の末与右衛門が 来を殺した時の有様を口走って
、
m 始末にならない。与方衛門は身に党えがあるかひ
らたす
日。
… ら悌一倍したがそれだけでは菊の狂乱はやまない。村人時遂作った大珠数は室物として向島寸に保存されてある
、
-1
5-
]互[EBEERg:
名越隆成僧正
、
島綬の隠岐の烏に行くために境港から汽船に乗ると約四
時間半にして汽船は西郷港につく。その西郷港に入る汽船の
山い
寺に一きわ立派な
目標が菩立寺というお寺である。小高
った。
本堂がみえるこの菩立寺の住職であったのが名越隆成僧正で
あ
.
って
島前
、
、
、
った。隠
どうしてどうして
、
そのぬの
島後とニツに別れている
、
ったのであ
戦時中は従写僧として北
、
この名越隆成僧正は社会事業家としてもまた宗教家とし
てもなかなか活躍した人であ
済南に浄土家の別院をつく
、
って
と いうのは離れ島のように思えるが
支にわたり
岐島
なかなか大きな島であ
が、群少のぬを併わせると百いくつかあるらしく
、
急ぐときなら 玉造温泉から
、
なかでの 一ばん大きい寺が善立寺である。今でこそ京都から
、
十二 三時 間 あれば行けるが
ったものである。
の飛行機だと二十分かからぬうちに行くことが出来る。然し
名越僧 正 の在世当時はなかなか時間 がかか
、
った。
結論の早い人であ
戦争 中 であ
、
った。
って
っ
ってロを
それだのにこの名越僧正はまるで近所でも散歩するような手
、
っかちであ
ったから
軽さで京都や 東京 にあらわれたものであ
割合にせ
とがらせて話す独特の話し方に魅
力 があ
なんでもデタカイことがすきな人であ
た沼南の別院に来いというのでつい僧正の厚意に甘えて上挙
- 1
6-
和
良
橋
両
( 中外臼報取締役〉
したら
、
なんとすばらしい学校の雄物を寺にして 教線を張
、
、
ぬに釆いと度々すすめられて 他正生前中のいつかの夏
、
このぬを訪ねたことがあった。するとこの僧正はわたしのた
、
そのよ中国僧などをどんどん
っているのにはおどろいたし
、
知
77 イトマンのこ
一見一
の人望がわかったような気がしたのである。
この名蹴他.止
飢閣議の走り書きで遣い北支から度々たよりを
、
地方にあってたよりをいただく人は多いが
、
そんなことから随分
あと始末の悪いものも頼まれ
、
人を信頼する心の強い人でもあった。
難儀した経験を何度も聞かされた。それほど善人であっ
、
、
てなす
、
、
、
よく兵隊と間違えられたことがあったのであ
これがこの僧正の世波りであった。
、
、
せるのが習慣であったが 人に接待しても 梢足ゆくまでも
へくる度にそれらの中国僧をつれて中撃料穫をたら腹食べさ
、
る。あの頃つれてきた中国的はどうしているだろうか 京都
浴でもすると
戦時中であったからカーキ色の服をきて 府民靴を履いて入
たし
て
あるが
熱血漢であったからなんでも頼まれるとひきうけたもので
もらったものである。
もその一人で
、
島に赴いてみてさながらこの名越僧正
めに島板県の保育講習会を計画してわたしの旅費をつくって
つれてかえったり
、
、
日本につれてきて交流をはかった手腕は大したものであっ
、
スケールの大きさでは一寸ケタは
知恵院の門来会議凸になっては
、
くれたものであるが
、
た。
このようであったから
ずれの人であったので
特に当時ラマ僧を招いて訓育する制度などはこの僧正の
、
恵院の経営の続想についてもなかなか意見を吐いたのであっ
て
怠比が反影したものである。
、
、
激しい戦争の最中 何十回となく北支と日本を往復して留
学僧をつれてきたり
その上限がギ・ロとしていたから
、
の僧正にしてはじめて出来たことである。
、
僧正の鼻の下には思いヒゲがあったし あごにも濃いヒゲ
が生えていたし
寸おそろしい感じであった。一寸気にさわると口角泡を飛ば
、
して談議風発 そのあとで「行こう」と人をつれて呑ますこ
とを忘れなかった。失礼ながらそんなにあり余った金をもっ
、
ての事業でもなかったろうに 隠岐ぬに共生学凶をつくって
一度隠岐ぬにも出かけたいと患 っている。
この孤島の社会事業の先鞭をつけた功績は立派であるといえ若くして逝っただけに心残りも大きかっただろうと思う。
、
る。おそらく今生きていても七十五 六才ぐらいじゃないか
と忽うのである。
17 ー
-
子
ベ2h、
イム
t与
赤
十月 の巻
〈仏教人生記'1 ~
•
のごとし。
ll
、
ったり 別れた恋人をし のんでギターをかき
、
う
、
秋の夜祭をひ とり祭
、
ならしたりして感傷にふけるのも、秋なれば
、
物思いに沈んでいる時など
、
さんの心に、われわれはどんなにうれしい思
まみ菓子などそえてもって来てくれるおかみ
「熱い番茶でも一一杯召し上れ」といって、つ
併をしたり
す ら寒い下宿の一室で
人は狐独では生きられない というが
小児の母をたのむは、またくその放をしら こそひとしおに味わい深い。
く
一宮芳験
ず、ただたのもし含心あるなり・名号を信
敬せんことか
ーー
朝夕めっきりと涼しくなった。さすがに秋
企
旬め3・・
「ああうらさびし天地
ろう。
ことだ
の気配が忍びよって、な聞にすだく虫の戸も いをかみしめたことか。若かった品目のことを
、
ほそぼそと物悲しげにきこえる昨今である。
想い出して共感して下さる絞者も多い
藤村の狩ではないが
その茶の味こそ、まことに意味もなく悶舎
、
、
、
ある。即興郷に透く学ぶ友に便りを書いたり兼
、 好法師の『徒然本』にこれを引用している
故郷に残した老父母をなつかしんで窓辺に
と鈴
ころから 建武年・聞こ一
一三四| 三六〉の
、
がりつぎたい衝動にかられることがしばしば
いるものである。編者は般かわからないが
、
ある。
『}富 芳談』という曾物からとったもので、
こんな時 人間はふと何かカ強いものにす 同じ遁世者の顕性間
仰の言楽として採択されて
、
木の楽に つくづくと人生の無常を感ずるひ
ここに掲げた一句は 鎌倉末期に 法然上
ととぎも多いことであろう。心細いか相官りで
人以下二十数名の念仏者の
心得を集録した
をたてて冷たい之地に洛ちてくる二楽の桐の
びこんでゆくように他愛ない感激である@
、
風の行方を設か知 る」と口ずさみたくなる よ
の母の味であり 遠く掛離れた友の味でもある。
うな叙災の日々である。人は溜息のような普 まるで子供が、わけもなく母のふところにと
の奴の中なる秋の日や落楽と共に刷る
-18 ー
道
正
田
宝
(中央公論社編集 ・ 宣伝技術部長〉
頃の作と考えられている。
、
の餅などというのも ともに甲乙つけがたい
母を慕う心は、どんな学者向ヤを術家にもある
、
それはともかく、後世を願う者にとって 両者に平等の価値を与えるための便宜上の
自用
然の情である・そういう気持で疑いながら
組問であって 素朴でまじり気のない繁人や索でも申せば往生できるというのであるから
、
、
あかが すなわち白木または串冊子と命名する 最初にも述べたように、秋こそひとしおも
ゆえんである。人工を加えない、繋がで油川 ののあわれが身近く感ぜられる時である。館
、
、
まことに適切な先訟の格言集であり この
焼きのしろ 赤心毅聞や丹脊の誠をあらわすまったくやさしい念仏行である。
、
他にもいろいろな名言が収められている。
、
句意は、念仏をゆす心機えとして ただ
、
・ を信
たのもしさに母を恋う予のように 仏
、
行無常の蛸測の戸は、身辺いたるところで耳に
というこ
純な心持で由干す念仏
わけもわからず母親を
、
じてその名号を唱えるにしかず
、
Bが多 いであろう。そして、「今日は人
する
、
世帯う気持で信す敬る念仏 それが白木の念仏
、
とを説いているのである。他の項に明郷
の身の上 明日はわが身の上亡にそれが圃吸って
、
来ようとは 殺にも分らないところである。
、
とかく学問をした人間や智恵を虫んずる人
われわれは 白木の念仏や赤子念仏の愈の
、
法師の言葉として「赤子念仏がよ容なり」 であり 品冊子念仏である。
、
赤ん幼のように 純粋で索直に念仏を
、
という句もあるが、同じ危旨を云ったもの
で
19 ー
。
、
、
、
人は ものを理解するのに闘なおや原理を先
申せといっているのである
あに
るところを滋みとって この秋こそ、すな
法然上人も、「申せば生ると信じてほれ ぎかないと納得しない。法然上人が常にいお
まに念仏の申せる習慣を身につけ、血忠信捌に
圃忠晴聞に還るとか、厄入
る道
莫衡を心から味わいたいものである・
しめられたように
の無智の畿と同じ心境
ぼれと南無阿弥陀仏ととなふるが本販の念
仏にてあるなり。これを白木の念仏とはい
業 界一の銅友及び 銅蔓一一般金具 一式:::弘の先制旭の
いうこと
になるとか
電話 (812) 1551
、
うなり」といわれたハ効修御伝巻四十七三
、
市の其中の宮及び寺 六角堂 納骨堂及び錨綬の銅
、
は、なかなかできにく
、
、
化人から見ると 念仏
入、大エ等大勢。
滋々たる定評ある当方へ御相談願います。他所では
出来ない卓越せる妓衡を以て設計等一切無料。世相
では年々破獄手入れで大変、板コンクリートに新開
場納。神機仏様への朗報恩の総仕故、安〈良〈数度く、
、
この「白木の念仏」という意味はやはり
、
官の中央で板壁
い。その点、近代の文 並び手間代一式寄進いたしてお#市
、
「赤子念仏」と同じく邪心のない 前〈
生のま玄の念仏ということである。
白木といい、品冊子という、これはともに N口
M制行ではなく緩行で
、
純料無垢という意味である。源氏の白旗に あると鉛覚しやすいか
対して平家の赤旗と並べるのも、運動会で
もしれない。しかし
白線広範に分けるのも、紅白歎合戦や紅白 理店なしに母をたのみ
股針及量笛
石黒 工 業
銀::at也会
'目録後・悶
日 1 丁目 9
-
、
怖の突が色・つぎ 稲穂が賛金色にかわる頃
町々では「共悶募金にご協力を」という戸
、
この頃であ
、
その間に兄の失脚
、
り
、
みむ冶 bA
荘夜にしめぞかに楓師文を}本一本よむ
、
の深いことをほめ 「逝批は三日終つように」 双銭十夜 戸と朗唱の技巧に秀いでた僧によ
と陶・された。
せるかな
mx
、
s
y
U
家巡はすこぶる繁栄したという・回咽夢 ように
、
、
山の
品世詣の附叶然が
沢繕滋をあげて
、
、
、
がよ聞に逃したとき 更に七日七夜の念仏を 先包の供養をする絡婆十夜などがあり門前
なり
が聞かれ 浄土宗の寺々ではお十夜がいとな がもとで 必の民国は家相日をついで執権威と八ヱ寺大苔寺の獄筋文十夜。又湖制批勝願寺の
"
、
、
修した。議し阿弥陀如来に対してのお礼報謝
に市がたち 遠近からやってきた人たちによ
これが
、
ってにぎわいを竪する。本来 十夜は陰暦十
、
の意味を もった念仏であったろうが
今からおよそ
、
月の六日から十五日までおこなわれ 満額の
、
縁となり 以来十日十夜の念仏が 東山のふ
、
五百年ほど前の
、
そ
もと熊谷真如堂で修せられることになった。 自は十五夜にあたり まんまるい月を背にし
、
永事年中(一四
、
、
て帰っていった。しかし 今では新暦で
、
その後明応四年二四九五)十月鎌倉光明寺
、
二九'一四四三
平山H国
、
「引戸
、
、
一時は八
ここで修した十夜悼円安の法慢
、
、
交に 一般寺院では儲か一
、
自にすらなった。時代の進Mm
にマッチさせた
となり三日となり
で古式にのっとった引戸念仏の十市民法要を修 も今は管江戸時代までのことで 今では五日
,
れも月とは関係なしにおこなわれ 十日十夜
のこと
は真如盆にこも
、
の俳陀w
憶は希代の勝
事 なり」とおほめのき楽
した。時に天皇 は殊のほか御感を線
念仏をしてい
をたまわり
していたから
十余りナの学践を宥しかなりの修行僧が窓山
、
、
、
「どう
スイスの成る匁村の一牧師は哀れな多く
十夜とて袖ふりあふもたのもしや
十夜とてかしこ曾法の教えかな
極策はいつも月伎にト佼かな
よ ってこの十市民法要を祐銭 つもりであろうか。
川仰に
た。点閣は若年
の住寺光明寺に帥惨されたという@
、
の頃から 念仏
って三日三晩の
hん
vじ a
の観晶画仲間終後
はムム御門天皇に召され宮中
も
まれる。ウチワ太奴のカ強い普の聞こえるの
土
浄
光明北すといえ
ば十八機林の}で
、
一線
生活にいそしん
でいたが
聞におこった不
彼等修行僧によって地方に弘められた。
、
は
、
散の無常を玄ざまざと感じ 別
和がもとで
しかし 、十夜にも地方により寺によって特色 の旅人から助けを求められるたびに
、
行がすんだら遁世したいと願い静かに別時
、
、
がある。引筒阿弥陀絡を筒すると共に信者
して多く持てる者は何物をも持たない貧しい
念仏を修していたのである。ところが 消搬
倉た光
明
の夜の明け方夢枕に立った僧は、後の信仰心 たちの乎によって町内猷念仏する鎌者
ちを
助寺
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うとし な いのであろうか」と
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-
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、
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、
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、
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志遂 の業を助けた
、
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、
めて
、
た末 路傍の立木に患のおを結びつけて そ
この月に忌日をもっ筒僧に総本上人がい
阿弥陀仏」の六字名号療が建てられているの
、
のよに「与えよ、とれよ」と持きこみ 道行
を凡かけることがある。教化が広く しかも
、
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とがで含ょう。その間 wr和元年二八
た@この思いつきは、多くの人たちの反穏を 時日rくも無常を感じ、出家の官むをもちながら ひなびた山用品にもおよんでいたことを知るこ
呼び、持てる人々はこの紛の中にお金を入
十 二月小石川伝通院の智厳について宗戒雨脈
、
六十一才で世を去ら れた
@
行誠によって築れたが、浄土宗偲の伝を編集
徳本行者伝は、しばしば泌総につらなった
-a
、
推されて中興関山となり 文政元年こ八一
山
八V十月六回
、
同十四年小石川一江附の再興なるや
O 一)
れ 食しさに悩む人はこの箱の中からお金を
をうけ
、
出すようになったという。これが共同募金の
、
嚇矢であり それを組織的な巡励にをりかえ
たのは-八七三年のイギリスにおけるリパプ
ールプランであった。日本では大正十年長崎
、
で始め 同十二年には神祭川市川市が「社会事業
局地的には行われ
、
会図的な動きをするようになった
、
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、
、
・
わざるに伶土のm告をきわめ
、
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、
、
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珂磁の伝をあみ 又作土伝灯ω
古水実録十五島ぜをはじめ、忍縄・綬
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、
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。
、
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、
七十七才で
、
二十七日から諸税週間
史伝の編集に会心を傾けたとい
延率二年三七四五
編集するなど、そのX は八十数巻におよび、
山
した人に珂然がいる 彼は大阪生玉法泉寺に
住し 院を大蔵転経院と号し 室を傍受室と
l
もしたが
呼んで
、
、
はじ
ま山
る。首
一品配然知して、文が字
を
明治二十四年十月におこった
mMM いてぽ行をかさね、
二十日が怠比須議
なかろうか。志還は尾張三河の雨闘を巡錫し も許されないままに日夜念仏を口ずさみ二
、 殺 するまで
五悠所に慈無企業を創立し 浴中から背骨 十七才にして漸く繁みをとげ 仲代金寺の大円 惨句J
、
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給された金円聞を食しさに悩む人たちに分けあ について山出家した。以来千体
川・ 須ヶ日付にお
て
を求めるとすれば、三河の符刷旧深見ぶ巡では
浄土宗でさしずめこのような蜘ぎをした仰
神父の勧めによる・
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のは、回和二十二年四月来朝したフラナカン
、
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明寺 E基
大地従には 病をおして救媛につとめ、時に
21 ー
-
よ
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生
長ch ハ明
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、
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。
集会堂一
の視ごしに聞いていると次のよう
な対話を耳にした。
賢
応
、
、
かちんとっき当るも
弘はこの腎を間白く開くと同
時に何か
のを感じたのである。
、
現代の大釆仏教に於て 成仏
、
、
ここに
安易に使いす
、
とか往生一とか言うことばをあ
まりにたやすく
ぎているのではないか
現代仏教のカの盛り上らない一
、
広大無辺の思徳をいいことにしこ
てのことばのみを大写し
特に浄土宗に於ては罪悪凡夫も往生すると言う元組
因があるのではないか と言う問題である。
茅野市仏教会会長
谷
ある寺の五重相伝の初霊往生記 法説分の勧誠の中休みの
往
あ。」
忠っとったが
、
」
、
」
、
、
「おらあのは心じ干あ あるが如くなきが如き人
なもんだでなあ
、
・ぁ 」
「そうさなあ 」
、
くれえ
「ほんとに往生できんとなるとこれはちょっと考えるな
、
、
かわれすぎている。
-般の人たちは浄 t門の京慢はどんな人でも往生するもの
、
、
、
、
、
、
ではないか。本宗元祖上人も 往生記の官顕に先ず「幾遂往
生機」を挙げて十三の不合格者
つまり往生できない人を手
、
のである。当り前となったら何の感激も
求道も欣求もない
、
の語録 法穏を拝するとぎ 必ずしもはじめから 無条件に
往生を 成仏を だれもがみな得られるとは税かれていない
、
「おらあ今までどんな人でも往生するのが吋り前みただ
いとに説明せられ 型遊門のん水野はどんな人でも成仏するもの
だと思っている。本米の商口はその通りである。しかし決
「うん そう宮っとった。」
、
「今日のお説教じ守あ往生できん人があるって言ったな にして 往生できない人の分析があまりに軽々しくとりあっ
-22 ー
i 一言法 談 |
しろそれは
、
それでは納得できないから極楽へ往生
骨も失せたときには 、人 は身心ともに滅ん
、
そ
、
、
それよりも自分が
、
商と向っ
呪いのことばとも受けとれる程に学諌である。
自分の近親が
、
位 財産によって償うことのでき得ない至上命令であるから
、
ないことを決定づけるからである。それはこの世の名誉 地
仏罰が当る」などと言うことばの比ではない。死後、数 いの
「題目を唱えなければ不幸がくる」「正宗に入信しなければ
てこのことばを受けたときの気持はどうだろう。これこそ
、
きびしく指摘せられている。このことの意義は正に重大であ
自分の知人が
肉も消え
、
る。〈私は往生記を元祖撰述と信じている)
、
大衆が往生を受取る場合 先ず死後はどこへ行くのか知ら
んが
でなにもなくなるが
、
、
すると言う思想が生れたのだ などと漠然と考えている。往
、
生できない人があるなどとは夢にも思ったことがないし
れ故 に
、
、
「六に信心一ならず
、
決
u 定せ
他人にこのことばを投
、
、
元秘上人は 往生
、
げると言うこと は不可 能 に近い。特に患鈍念仏の本義よりし
し磐石 の信心を決定し得たと し ても
と言うことは容易なことではない。いかに念仏三昧 の中に住
、
往生を軽蔑さえしているのである。だから往生を説 である。いかなるものを以てしでもごまかしおおせな い苑の
ひいては仏教そのものさえうとんじて真剣 削顕であるからである。このことばを他に対して官い得る
く僧をさげすみ
に耳をかたむけようともしないのである。
、
このことは往生記の「五に信心深からず存るが如く亡き
が如き人」と言うことになり
「七に僧心相続せず間 断あるの 人」となり
てなすべきわざではない。しかしながら
、
ざる人」となり
記の巻頭にこのことを言明し 伝灯 の祖師はこれ宏五重相伝
、
ついには「八に常に疑煩悩を生ずる人となり「四に (この世
の初震に配された。この難遂往生機の至上命令は
自分にも
、
、
=一界をかけてもどこにも逃げ場はないわけであ
、
、
って布施において食 を生ず
る人」突に峻烈 以て己が信に銘すのみである。
る放に諸人これに帰依す、之 に依
「こに道心あり誠心もあり日夜念仏す共の徳他に勝れた
、
宗復の真骨頂として頂鍛しなければならない。三
、
に)献般の心強しといえども〈彼の世に〉欣求の忠甚だ弱き
他人にも
、
人」と言われるような無気 力な現代 人の通幣を生じて 幾遂
世にわたり
っていた人にも
、
往生の機となり了るのである。つまりこのようなことでは所
っていた人にも
疑
る。そう思うとき 浄土宗とは実に恐るべき祭であるのだ。
往生を願
否定していた人にも痛烈である。む
、
、
詮往生はむずかしいのである。
、
「あなたは往生できません。」
この こ とばは
さげすんでいた人にも
。a
内,“
返り忠
、
家康と
五
、
ーー・・圃.
幾度か評定が喰ねられた・
、
かつて今川義元が対たれ
、
、
もはやこのままにす
、
断乎膚懲の態度に出で 十月二十
、
泉
酒井左近将監忠次に手兵を怒いせしめ
、
湛
れ
更に加勢として本多 広場も紛兵を叡いて
、
、
、
佐崎の上宮寺に 戸悶三郎左ヱ門
、
来て 共に攻め立てたが降すに至らなかっ
た。
その頃
忠次という武じがいた。元は家山崎の家箆であ
ったが、事情あって浪人していた・たまたま
、
佐崎に来た臨吋}授が起ったので
す す められ
るままに心ならずも彼等に与して佐鶴岡の怨に
立縫っていたのであった。
戸
一 国が依附に立縫ったことをきいた家肢は
、
「一戸田は浄土宗で 一向門徒でなかったはず
我が命をきかずに出仕も
、
し ても
先に召 し 出
、
たわけた奴め
!
」
すすめられて彼等に与す
しないでいながら
、
と居間弁正殺に掛川猿を洩らしたことがあっ
先ず世田政援昭の立関る東条の械を攻めき るとは
、
したのであった・
て
回目
にして虫話一向柏崎行して何とか収拾策がない
ものかと
、
田
吉良の一味したことによってその懸念
、
々していたのに
、
、
自分の身の上をそれほどま
たが
、
信長鈴に考を取り阻まれた時 登誉天安上人
、
でに案じてくれ
・ る問主家泌が私になっかしく
、
そうした心持がいつしかや動に顕われて米
、
て
来て滑弁忠次も乎を焼かさ
、
じっとしていられなくなったのか 何と
らんものと唯一の頼りと思っていたほどであ
か返ヲ忠をしたいものと計画を廻らしてい
、
ったから 城兵は頑強に挑戦して来た。
烈しく反黙して
攻略事情串は手強く攻め立てたが、同嶋中からたも
。
、
も無くなったと大いにカを得 万}・ヱロ針
円
、
‘F
a-
から激励のため賂られた厭雌陣織欣
土求浄土
-句'e,,
後きを厭っ
、
なり、又絞った数々の主患が思い幽されて来
ウム
この家艇の新しい
、
大路械を脱出して主従十八時制大樹寺に立寄り 僧徒も農民も初めは十分武口封は揃わなかっ た。このことを伝えきいた戸闘は 長らく浪
その自家康は
挨
鶴
秩序を立てるためにも
河
こんな状勢になっても 尚昆つ家間械を中心 まされず
一
と鍛太にのしたあの時の抑酬を、仏聞にかかげ 蛸の両寺が枇問e
難
占い時には 東条の械に立彼
て凝視していた。
、
、
(厭雄被土 欣求浄土
、
、
•
24 ー
-
ー~‘
・ーーーー・
と決意したのか 家中の
、
伶をを欣う〉それが
、
-e
銚印であったはず
て
,.a
たものか
、
「あやしい奴?」とにらまれ出し
いつ氾われつ入り乱れての混戦となった。
戸田が mm
かに返り忠をしたように
、
、
いよい
矢作川の東の野羽の宮城は 当時夏目次郎
たのであった。
て、自己の立川崎の矛加に快悩している者もい
している者もいた。俄仰と家臣という点に於
は軽はずみではなかったかと、心に動絡を来
、
戸悶は腕町削の中をあちこち走り剣って下知 よ戦が初まると、織代の者など主家から受け
、
、
身の危険を必ずると せめて返り忠のよ厳に
一祭の兵が
戸聞を逃
た父徳代々の意思を考えて 一援に与したの
していたが、かねて彼の留'をきき知っていた
、
、
、
コ戸閉め 寝返りおったぞ、
」
::
或夜佐崎の外四輪に火を紋ち清井正殺
もと
の宅に駈け込んで
、
「それがし ただ今佐崎の外回輸の門に火
!
「ズドン」
と奴鳴った。
を放ちました故、御人数含袋遣わされますれ がすなッ
ば御案内申し上げ先手を仕りまする」
と陶・し入れた。
、
、
開制はよしと酒井は
、
国光の脇差を与えてその功をね
、
、
894h
・ e'v
,, .5
'
、
、
一祭の僧
と敵側から放った矢文を持って来た。
、
「殿 こんなものを」
そんなところへ、一人の家臣が、
な綾子もなく主殿助も歯切りしていた。
一 しかったので容易に務ちそう
防戦探も仲々厳
俗は鉄砲で応戦して来た@何分要容笠間なよ
乙郎 大津両人の下知によ って
は+ロ凶械をはげしく攻め立てた。
家康の命によって 深海の松平主殿効伊忠
、
-援の兵を郁いて夏目の加努に来ていた。
、
立縫っていた浪人者の大津半左エ門と共に
。,u
FD は、
夏目の知己であった乙貯八兵ヱ
己が居宅を併として立鈍った。
の度び憶なる懲罰却にあって}撲に与すると
、
戸田の 下知する戸を狽って聞に鉄飽をぶつ 志ヱ門吉備の居宅であったが 彼は酒井将監
で
とかくするうち早や夜も白みかけて来たの
に倒れてしまっ た。
目見世V兜を射刊日かれた戸間は
どっとその場
酒井左エ門印刷忠次が将となって夜討
放った者がいた.
、
正貌は直ちに馬を馳せ家康にこのことを告
げると
に馳せ向った。
、火 の手
早や外幽給の門は焼き務ちたのか
は見えなかった。
戸聞は勝手知ったこととて佐崎の鰐に忍び
「地乎へ采り姻って、はやばぞ引長官あげよ」
、
寄ると 繊手の方へ創ってひらりと土携を然
と下知した。
と引きとって行った。
ev
へ引き上げて来た。
たたえた上
戸田を召し出した家康は 彼の掛聞きをほめ
、
一戸田の山慨は串中い得手だった彼
のも
で附附
、
味方の面々討ち取った首を提げ意気揚々
、
り越え門をきっと聞いた。
、
スワとばかり酒井の準いる兵は寺内に雪
掛川れ入った。
」
!
「それタ夜震だぞ! 」
「各々出合え
時ならねどよめきが寺内に起って、上を下
への駁ぢとなった・
忽ち出合って来た一綴方と、陥聞の中で迫 ぎらつた。
、
、
、
しかし間もなく夏目は捜し出され て 主殿
助の前に引き幽さ れ て来た。
、
の乙部が鍛えている療を見ると、ハッと驚い
、
、
、
計りおったなフ! 」
につくき夏目め、ほ宏、くな
!」
、
一刀両断せんとした。
、
、
傭ったのであった@しかし彼は この古械を
且つ夏目ほどの夜間拘の武士が、主
とうてい守り抜くことが出来ねことを見抜い
、
、
a
u
して今一度主君の御用に立たせたいものと思
、
ったので内応したのであると 若裂のほどを
打ち明けて
「かような次第でございますれば、まげて
と欽服したのであった。
乙部が貌友をそれほ どまでに思う友情には
、
主殿劫込胞に銘じるほど感動したし且つ彼
、
ことを考えたが 自分-人で計りかね、家箆
その腕に、必死にすがりついたのは乙部で
の内応の功もあったので械もたす
やく 落ちた
「何卒 お待ち下さい」
その瞬間、
をつがさ な いうち
主殿助は矢庭に刀を放いて、夏目に次の句
裏目の命をおゆるし賜われ」
「侭ヲ!
とにらみすえた.
ッ !
た様子であったが 忽ち滅菌朱を殺め怒気を えても忍び熊く
、それ故 、何とかして助け出
に巡ってむざむざ滅亡して行くことはどう考
夏 g は あにはからんや主殿助の傍に盟友 ていたし
、
矢文には
ためか 兵柏田を納めてある土蔵の中に岬
身
を 乙部はもともと一向門徒ではなかったが
・憎
「明夜半 寄古ずを引き入れましょう。そのめていた。
夏目とは無ニの知己であったので古城に立て
時刻には必ず合図の提灯をさしょげまする」
と認めてあった。
、
矢文の主は 外ならね乙部であった。彼は
、
自分の取った行動が経拶であったと 後悔し
始めていたのであった・
どっと関の戸をあげてはげしく攻め立て
「おのれ
更に彼は災心なきを一訴すため、自分の子の ふくんで
太郎を入賞にさし出して来た。
、
その翌夜、合凶の火を今やおそしと待ち設
、
けていた主殿助は 灯があがると 部下回十
余名を乙留の手引によって首尾 よく 廷に忍び
、
一方袋町手を二手に分ち鐙の
Pを
木打
一ち破っ
込ませた・
て
た。
った。
不窓に市民個震をかけられたこととて、寝耳あに
に馬を走らせて仔細を家康に告げしめて裁可
、
「とめるな夕 放せッ」
を乞うた。
、
水の減兵は 身を武具に閉める暇もなくおっ
主殿助は 叱りとばした。
、
とり万で立ち向ったが、散々に斬り立てられ
、
「何本 何本、弘の的・しょげることを先ず 「-たん土澱の中にかくれた者を斬るのは
、
と寛大な沙汰であった。
せ」
慌の中の烏を殺すに似ている。助けてとら
て行った@大崎仲は今は抗し鯵きを悩る曲
と山
、
哀願する乙部の目には 涙がキラリと光っ
おきぎ下され」
兵をまとめ防相にまぎれて針崎きしてさっさと
逃げのびてしまった。
この時逃げ場を失った夏目は、符起を計る ていた。
n
,“
、
れ られ て 夏
乙揮の歎願がぎぎ入
ヴ
トナム便り
ェ
、
、
弘が訪越数し ま し てから ロ「くも三十日を過ぎピエンホアの基地をはじめに
、
フエ
ダナ
・
γ ・ダ
災と
にしている
は形
ラトと樹ヴ品トナムを縦断致しました。各地での仏教信仰の厚いことは日
本を等
目の身柄は主殿助があずかることと
れか
なった。助命の骨臼柑棋をき
た夏
さ
、
be
な問題を持ち
とても及びません。戦況益々一激仏
化教訴は人命の尊底、反共とニつの大
、
。しかし国民の指濠者としての自俗は忘れず伝
ながら苦悩しているのが現状の様に見受けられすま
、
とは中せ
、
gはどっかと大地に膝まずくと、岡
崎の方を伏し符んで
、
、
、
、
、
、
、
、
、
曾となって敵の中に脱り込み給の
、
、
であり
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
@
、
康を 夏目が無理に洛ちのがしめ身 国へ仏替を附呈する逮動がありましたが今越爾の乏しい大学の厳容から見て非常に歓迎されること
加えて先般大正大学を筋問 学生交流の絡しがありましたが戦乱に次ぐ戦乱で 世界の知
、
ど惨々な敗北となった時 敵兵にと
は 仏教界ではやはり g本が 一番の様であり
はもと よ りで す が 世界に平和解決の促進を訴えるの
り図まれ既に危くなり討死覚悟の家 叉ヴ Zトナムの仏教徒途も臼本の鋤きが一番良い嫌に思っており
す。
ま先般仏教タ イムス社主催の稼
、
が武田信玄と味方ケ原で戦って近
仏教界は日本の仏教界の授助を切望しており特 に浄土教の新しい思想が よ い様に思えます。それ
侍の家臣のすべてが馬のなくなるほ はこちらの仏教は大部分が浄土と嫌であ今
りで は浄土教が圧倒しているそうです。物心両面の援助
、
出来ま
校 無料の夏李総座 学校 念仏道場の建設と骨身をけずって尽力されていることが見聞す
このおの れ のおろかさ よ」
めそ の表情 に も かなり
国民の表情は各地で兵りま
す が ダナンに於ては戦争の町と化しているた、
し慨憾の謂献をし ば たいて
と 断固
ま す と大砲の・首のもの
すごいことは全 くどぎもをねくが
暗い函がうかがわれ 、 ここ は夜十一時を遜 MC
いた。家康に畏敬 の念をいやましに
如きで これに加えてジエフト機の発進は大変数
なです 。この こ とはサイゴンのタ ンソン ニユヲ ト飛
篤くした夏 g は 共の後寺院に詣で
行場でもいえることで 、私がフエに行きかえり し ま し た時はダナン程のす ごさ はありませんでしたが
た時など本線の前で
大型の給送織 大
ダラト市 より帰った時は 会〈戦争の鉱大され ているのをまの当りにみるごとく
同
μ
「何卒ぞ 般の御為に この命を
小の最新鋭機がところ狭しと並べられて居り常に 響戒の小型機 ヘリコプターが旋回して 飛行
・
且車
に祈ること
姶てさせ給え」と WH
爆件
発が
す。サイゴン市内はこのところ二回の$
場入口の答仰もすごく厳虫でニ聞も検聞がある援で
が常であった。後年一冗亀三年家出械 ありましたが 市氏の愛情は平険 繁穆衡のにぎわいからは戦争を感じさせません@
、
「かかる怒愛深き般に幅仰をつい道
たに 社会事業にと怠ってはいません。例えば図舎の小さな寺を訪問しても必ず狐児院とか小さな
,
以上要を得ませんが所感乱怨しました。
ハ掛柑上寺出仕》
.
裁死
に乏しい越陶国民に新しい見織を紹介する意味を含めた殺曾も良いのではなすいかと痛必数
柄の齢別れるほど戦って花々しく忠
この患に報いんがた
毅
、
山
雄
を遂げたのは
めであったという。
2転
学僧聖問
。化、
木
成
〈大 正大学鱗師〉
.
.
.
、^"、,、^"、,、向、,、,、
フE
、
今の地に移して再建した。
、
子の型間が法灯を継いたが 嘉鹿二年三一-xc民家の出火で
会焼し
、
、
、
、
年ハコヌぎには了突の後をついで常福山サの住持になりその
、
決して安穏な日が続いたわけではなかった。高
、
後二十年問 寺の復興はもちろん 道俗貴践の教化に努めた
で城
あ主
るか
聖聞は眼前応四年内一富一〉佐竹の一一族である久滋郡岩の瀬
、
度二年ハ一一夫。二月型聞が住職して聞もない常福寺は流失
、
の子として生れた。良和元年三茜軍)五成のと父
きは流れ矢
、
によって焼失した。その時 寺領の寄進状など全て焼失した
、
周囲年に常
、
6
‘,げい
で死に 域は臨時われ 母とともに山に隠れたが
e ,、どし・
、
時代は南北朝の争乱期
、
並大
『往生記投機紗』『領解授手印徹心
紗』 『決容授手
、
聖聞は寺門の復興ばかりでなく弟子も
、
寺は徐 々に復興に 向 っていった 。どのぐらいの 規模
、
、
ところがこの中で
抵の苦労ではなかったろうと祭せられる。
であ ったかは明らか でないが
たため
、
福与の了突のもとで仰何度し派閥と名のったという。出羽瀬が城枇
れ下い寺領を似犯するものもなく従来通りの収入もあっ
、
常福寺十八祉の相附代に起てられた誕生
、
規模からいっても城らしいものではなく
、
は国岡の -m
にe
あり
寺が現存するが
、
必然的なものであったと思って
地方議放の館社であろう。何にしても期間の出家は 法然の
、
養成し
-ーー ー~ケー
-
-
~ 宇
叩)
本浄土教物語 (
日
宗中興の
、
、
鈴
聖聞は了実ばかりでなく
関東の名剥瓜速の常徳寺は 了実が延文三年内一一
-E
常陸
鐙倉光明寺の定患にも師事して
一C
記ん骨 A7
太田城主佐竹義教を栂越として草創した守である。その後鈴 勉学にはげみ
『浄七述間口決紗』を授与された が 五位二
土
それと相通ずるものがあり
よい。
28 ー
-
浄
•
、
いわゆる『七巻古』が完成するの
印疑問紗』『決答疑問銘心紗』『授乎印伝心紗』を若わして
伝法に閲する整備を行い
である。
、
五キロ弱離れた阿弥 陀 山の巌穴に身を隠し
F年三究
応水 .一
一 開)佐竹の乱のときは m 内の人々とともに
、
、
これは直牒澗と呼ばれて現存するが 彼は少しばかりの
む ,てつゐ俗
聖問も雛をさけ
。
、
白い亀が背中に鏡
そ こで聖聞はその鏡に自分の姿を写
。
この縦穴の広さは四平方メートルぐらい。正面に不純一汗磁
、
の倣が浮き彫りしてある 伝説によると
、
この浮き彫り像を不
。
いくらけずっても消えないと不思議がっている 阿弥
。
山引に倣を彫ったという上地の人々はこれを不軒脊慨と
、
をつけて聖問に献じた
し
呼び
、
、
その当時は 巌穴に 賛同地して
陀山は一名不峰山とも呼ばれている が
と伝える。そうすれば
、
この椎の実も蛍居して餓に脊しむ聖
穴の前には大きな維の十日木がある。土地の人々は当時のもの
、
純菩随と呼ぶのは後慌 で あり
盟問上人木像{常鍋噂断滅〉留山知州中
、
滴に
を受けて『山際』十
乾柿をもって餓をしのぎ 出取ん八の硯
イトには
7
いた聖問自身を不経菩離と呼んでいたのではなかろうか。厳
、
古物を読めなかったと述懐しているが 盟問のフ
驚くものがある。
、
聞を救っ たに相違ない。老いた体を静かに横たえながら あ
弟子の
了智が師恩に報いるために呑仙寺を建立した
たかも厳穴を隠しているようである。ここは絵板というとこ
、
、
地名通り松におおわれた山々にかこまれ 水は豊富で気
、
ろで
が
。
。
か し "で
しかし
候はよく 、帆山
居するには好適 のぬ所。土 地っ子 の盟問なれば
こそと着眼に感服させられる
、
瓜連制辺の人々は仏教に対する関心が非常にぷい
っ
で あり
、
、
彼出でもお盆でも 他所の
、
ておまいりする現状である。それはそれでもよいが
ポ ンポンと拍手
神道に対する関心は絡別で おれ寸に来ても
を打
あまり守へこないところ
寺院のように多忙ではないらしい。これは水戸学の影涛によ
nwd
内,“
帖を書いたという。法然は木曽義仲が京都に乱 入し た日だけ
A
た
,
ることは勿論であるが
それ以前にもそれほど信仰のあった
、
土地とは思われない。だからこそ盟問も庶民の布教には熱を
本地垂迩の説で神道の共通点を主張する
。
。
経済的な裏付けと
、
顕の切れ
、
、
彼の環境がそ
、
実際に聖聞 の学問は広く
儒学や説話にもカを入れて多くの若述を物する結
、
入れたのであろう
とともに
来になったのであろう
るのも無類ではあったが
うさせたことを忘れてはならない。この功績から考えると
、
彼が浄土宗の中興上人とあがめられることは 維がみても兵
胎のないところである。
、
応永二十年三園芸聖聞は復興の成った常徳寺を弟子の了
、
智に譲り 同二十二年江戸に上って入寂するのであるが 聖
、
問を江戸に迎えたのは増上守の尉山となった鈴子の聖聴であ
る。型邸は戦乱の最中にも常陸に下って型問の安否を与ね
限りである。
一般の人々に盟問とい
ったところでわかる人は
少ないであろう。的上れサ
を開削した盟聴のお師匠
さんといってもぴんとは
こない人が多かろう。浄
土宗を中興した大切な人
であるのに何故このよう
な状態なのであろうか。
同じ状態にある真家の蓮
如などとは比較にならな
い。-M
しさこの上もない
時聞がたてば記憶が縛れるのは当然のことであり時代と
、
徹夜で法談を聞くこと再三に及んだ。このようなことは何も
ともに社会も思想も変るのは当然である。だからといってわ
、
聖腿だけに限ったことではなく 飯沼の弘経守を開削した良
れわれは会てを忘れることはできない。価依ある歴史的事実
多くみられるところである。弟子逮はお互いに
、
盛をはじめ
学問的には解釈が変るのはいうまで
。
は消え去ることはない
、
連絡を取り合って師盟問の慰問を続け 勉学にはげんだ。そ
史的事実そのものは永久に変るものではない。そ
としてその中に姶て去ることのできない何物かを含んでいる
、
もちろん伝説は史実ではありえない。しかし 伝説は伝説
れを認鞭するのが健史学である。
、
もないが
、
こには何ものにもたとえがたい史しい愛情と会びしい礼儀と
があった。こうして鋭利な顕脳を持った型聴は江戸に出て
、
t
堅実型の了践は常徳守を 発Mm的な良犠は弘経
ずから小間原
に上って確固とした地盤を築き上げていった。
30 ー
-
綱〈密仙寺〉
燦
底
高
お。人間で
祭とのはあ
りく称、不る
盟毎も菩仏
間年通臨教
っ二週が行
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注晩とま軽
意にしたん
、
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盟関白銀液状情御守所蔵〉
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乞.
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川叫
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U今 、,吹川
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仲ダ
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手久治
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う犠
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合?
うい上聖の
の彼こ事れとえとあ大とし陀のじまな六こ歌方
。して。はけこ考つで盛神説弥方信ついな月'
、
おもしろい
などといって片
、
もう一度考えてみる必要があるであろう。
、
珍らしいとか変っているとか
づける前に
しかしその批難は全てを指すもの
、
新宗教乱立の現代社会において 仏教はその無能 ・無カを
。
それらは仏教の教義に対するものではない。そ
、
裂をかえせば関心を持っているということでもあ
、
痛いほど批難されている
で はなく
る。つまり
の多くは僧侶の日常生活や檀信徒に対するカ の不足をいって
いるものである。普と今とは社会も思想も生活も大変な違い
近世に入ると宗教よりも分家の政
、
それが一般の聞 に普及するのは箆町時代に
、
、
一週など 鎌倉時代の祖師方が出て庶民仏教を説いた
・
である。だから昔の人は信仰があったから寺が栄えたと簡単
・
に制切って考えたらとんでもないことになる。法然 ・親鴛
回選
ことは$突でも
入ってからのことであり
、
治が優位に立ち 政治的な庄カのもとに統制されてくるので
、
ある。だから信仰のために檀家になるわけではななく
にが
しかの檀家にならざるをえなかったのである。そして明治に
なりはじめて信教の自由が認められてくるのである。教義の
。
、
こう考えてくると 盟問の足跡が一段と印象づけ
。
方法なくして何務も成就しないか
、
顕揚も大切には相速ない だからといってその教殺を広める
である
ことを忘れてはならない
ら
られてくるのである。
句。
ご法語をいただく
、
「深心というのは 深く信ずる心というこ
た。それは
す。このように惑をするな、拙曹を行えという
大幅削は深心に二週りの怠味があるとされまし
ことは -見したところ簡単で明際なことのよ
うに忠われます@しかしこの句のように努め
この勾の通りに慈してゆ
とであるが
、
、
、
自分自身がまさしく罪
次のニ般のことを深く信ずるの
ることはでぎても
である。その}には
、
廃怒修警は、諸 仏の通戒なり。しかれども
くことは実際には至簸のことといわねばなり
、
当世のわれらは みなそれにはそむ念たる
別意弘願のむね
悪生死の凡夫であって 現在の流転の世界か
ただひとへに
、
ません。
、
ら脱れることが絶対にできないということを
身なれば
まして末世に生れ、しかも非カな怠
・
どもにはとうてい望めないことであります。
をふかく信じて、名号をとなへさせ鈴はん
にすぎ候まじ。有管無智、持戒破戒を含ら
、
、
、
なるほど廃惑修警は仏教のおきてではあり 深〈信ずるのである。そのこには 阿弥陀さ
それはそれとして、只今は阿弥陀さ まはどんな者でも必ず救って下 されるので
はず、阿弥陀ほとけは来迎し給容にて候な ますが
り
弘樹臥
は伝く十方 の衆生を救うべくお客い
、
ているので信じて錠わないのである」
り。〈百四十五箇条問答)
まがいかなる凡夫も救って下きるという答い お念仏を申せば疑いなく往生できると深く信
を深 く信じてお念仏を申すより外はないので ずるのである。またこのことはお釈迦さまが
ある人が法然上人に「お念仏を申すのに当 あります。別意は特別な趣意ということであ お勧めになり 、十方 の路仏が証明して下され
、
って 制芯をぞめ警をはげもうと努めながらゆ
というのでありま す
。
になった阿弥陀さまの本願のことですから
、
すのがよいのか、又はそんな心づかいをやめ
難しい学聞に専念でをない人たち苦しい
、
修行を続けられない人たち 日々の生撲に追
、
お念仏を唱える者は必ず往生させるというこ
、
とであります。
ただひたすら本阪を信じて申すのがよい
て
のか、どちらでしょうか」と質ねました.こ
、
、
ば往生できると寄わ丸ました。従って有智の
、
ここでも相官導大筋の新解釈が当然に
陀含
さまは二僚に臓外することなくお念仏によ
、
、
経典には単に深心とある言一識に対し普
て描帯
(村瀬 秀雄)
まれているとみるべきでありましょう。即ち
ってお数い下さるのであります。
ので
普捕時大附仰の下された説を土台とされてい
す智の人も持戒の人も破滅の人も 阿弥
人ま
も無
、
解してよろしいわけですが 法然上人は常に
れに対するお答えが、この御法紛であります きてご法おに「ふかく信じて」とあり玄す われている平凡な人たちを往生させるために
古くから《同会経〉七仏の通戒という侭が これは心の拠隠から信ずるという意味に位く阿弥陀さまが長年苦労され お念仏を唱えれ
あります。それは
、
「もろもろの惑はなすなかれもろもろの
、
かつ有名な勾でありま
、
警は邸中行せよ自らそのこころを滑くする
これ締仏の教なり」
という緩いもので
32 ー
-
、
世界 で は
、
、
真に 平和
の
常に 熱 V久
と と はい まさ
、
ら述
と です
。
旦 夕 yの品
TV
Vと
仏教発 生
y ドH
M
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パキ
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ま で も な いので すが
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一日も ヰ
O
、
、
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切 胡思
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、
本当に批凶介
の
、
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平和が〈る
〈
の地だ け に われわれ 仏教
徒としては
何4
F昨明
い気持
ならざるを得ませ ん。
と〈にイ
、
HM 民に悲
イ
べる
トナ ム の
が吹 き山附さ れ て V ま ず 。ベ
に
ある
を渇忽 し て V る 情円で
O 世界 の人 身は
肥
、
し た
@
、
九月五日 羽図 を山例
、
ご行 われ る銃数時「
会に 多
めゆ土関係者 が出席 され
〈
るため
発さ 丸ま
、
、
、
さ れま
。
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。
なん
と
「変貌寸 る創価学会」
・
純の 各先 生で す 多大 の成
、
m
棋 を期待 し 酔路上での報告
み にして Vまナ
を期揮し
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最近の創価学会の動向が一目で分る必見の好著
第 l 章
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