昭和天皇 は生 まれた 瞬間か ら、陸海軍の統帥権者 と しての人生 を宿命づけ られていた。それでもなお、平 和 を願い続 けた。 国際関係史研究者の山内昌之 さん (67)は 、その思いの原点 は、二 十歳の青年皇太 子時 代 、裕仁親王がベ ル ギーの戦場跡 に立 つた瞬間だ つ た と分析 する。 々 イす 英国王ジ ョージ 5世 は、 若き皇太子 に、あ る帝工学 を伝え て いました。 0日、 英国滞在中 の5月 1 英国王は、英国 の現状 や第 1久世界大戦中 の国 の様子 を伝えたあと、 ベルギー訪 問 の際 には、イー ペルの戦 場を視察す ることを勧 めて います﹁イー ペルは、第 1 次世界大戦 で英国を含む連 たダーウイン、 リンカーン、 ナポレオンの胸像 、 の ま す。﹁予 ガ件立 スルロ前 ノ光景 、陛下 ノ予 一 ハ 二ロゲ 給 ヒシ如 ク ﹃ イーテ ル戦場 合国軍がドイ ツ軍を 迎え撃 った激戦地 です。 こ の戦聞 では、ドイ ツ軍が史上初 め 7 ふた つの異なる憲法。 つ ま り 大 日 本 帝 国 憲 法 と日本 国憲法 のはざま で、 一方 は 立憲君主として、もう 一方 は象徴 天皇とし て生きた方 の軌跡。それが ﹁ 昭和 天皇 実録﹂ です。私は国際関係 史を専門とす る歴史学者 で す から、﹁ 世 界史 におけ る 昭和 天皇﹂ の姿 に興味を持 ちました。 0 ︵ 皇太子持代 の大正1 1 921︶年 3月から6カ月 間、英仏伊など欧州各国を 訪れました。途中、英領 の 香港やシンガポール、セイ ロン、 エジ プ ト やジ ブ ラル タ ルなどを経由 しな がら見 聞 し た旅 は、従 来 の皇 太 子 や歴代 天皇 にはな い経 験 で し た。 日本 と共 通 した立憲 君主 国 であ る英国 に感 じた皇 太 子 の親 近感 は、 そ の後 の昭 和天皇 の思想や価値観を決 定づけるも のにな つたと思 います。 そ のひと つが、英 国 王室 と国 民 の距離 の近 さ でし ょ う 。英国 滞在 中 に、各 地 を 訪 問 す ると出 迎え た市 民 た 英国王の教え 終生 の根本に 9 ︵ 4︶ 振り出しに、昭和 2 5 年 8月 の北海道ま で、米国 の施政権 下にあ つた沖縄を 除 い て 全 国 を巡幸 します。 2 ︵ 7 昭和 2 4︶年 には大阪府 を訪れます。 6月 5日、昭和天皇 が大 阪府庁を訪れた捗面は、昭 和天皇 が国民統合 の象徴 に な つてゆくプ ロセ スで、国 民と触 れ合う様子を伝え て います。 32 2014.117 ち の人混 みで、あふれかえ ります。 5 0日 エド ワード英皇 月 1 太子 ︵ のち の英国王 エド ワ ード8世、 ウインザー公︶ と ウィンザー市庁舎を訪 れ た際 は、﹁周 囲 に は市 民、 郊外 より集 った民衆、イー ト ン校生徒、市内小学校児 童 等 が密集 す る﹂。庁舎 内 で歓 迎 式 が始 ま ると、﹁群 衆が式場 に雪崩れ込 み、皇 太子 ・エド ワード親王等 は、 一時ま つたく群衆 の裡 に没 せられる﹂。 昭和 天皇 が車寄 せ で下車 す ると、﹁ 約 四万 人 の市 民 が御身辺 に押し寄せ御歩行 不能 の状態 に陥られたため、 警行中 の米軍第 二十五師団 のMP ︵ 憲兵隊︶が空 に向 け て拳銃を 三度発砲し、そ の間に庁舎内 にお入りにな る﹂。な か で昼食 をと つて いると、 1500人 の子供 たちに よ る 奉迎歌 が流れ一 て き ま す。﹁ 食事 を 中断 さ れ、 再びバ ル コニーにお出まし の思 召 しを 示 さ れ るも ﹂、 混乱を憂慮 した侍従らに止 められます。 、 翌1 1日も バ ツキ ンガム 宮殿を出た エド ワード皇太 子と裕仁皇太子が ロンド ン 市内を通ると、多く のロン ド ン市民が、帽子を振り、 歓呼 し て奉迎します。 この光景 は、敗戦翌年 に ﹁ 人間宣言﹂をした昭和天 皇 の姿 に重なります。 昭和 天皇 の脳裏 には、英 国 での記憶 が浮 かんで いた のではな いでし ょゝ つか。 一木 は、弟子 の美濃部達 吉ととも に天皇機関説を唱 えた人物 です。昭和 天皇 は、 天皇機関説 に対し て賛成 で で ば いるよう き だ け る そ に に、と伝えます。 一木 はこ の日から3月 8日ま で宮城 皇居︶ に宿泊します。 ︵ 和 天皇 に面従腹背とも いう べき態度を取り続けます。 これには、陸軍全体 の性格 がよく出 て います。同時 に 真 の意味 で昭和 天皇を輔弼 す る側近が いかに限られ て いたか、と感じました。昭 和 天皇 は事件発生当 日に、 一木喜徳郎枢密院議長に、 6 6 昭和 n ︵ 3︶年 の2 ・2 事件 は、顕著な場面 です。 関東軍司令官を経 て侍従武 官長 にな った本庄繁 は、昭 ペルの戦場が端緒とな って、 昭和 天皇 の平和 への信念と 同時 に、陸軍 の天皇 不信と いう相反す るふた つの感情 が生まれた のです。 昭和 に入 ると軍、特 に陸 軍 にな いがしろにされ、慣 る孤独な天皇 の姿を、実録 から読 み取 る ことも できま す。 戦災 の復興状況を視察す るため、昭和天皇 は昭和 2. 6 ︵ 4︶年 2月 の神奈川県を ノ流血凄惨﹄ ノ語 ヲ痛切 ニ 日 の記者会見 で昭和 天阜 が、 想起 センメ、予 シテ感激 ・ ワ ﹁ 英国国王ジ ョージ五世か 敬虔 ノ念、無量 ナ ラシム﹂ ら立憲政治 のあり方 に つい 英国王 の答電からは、皇 て聞 いた ことが終生 の考え 太子 の成長を見守るような の根本 にあ る﹂と述 べた こ 温かさが伝わ ってきます。 とが記録され て います。 ﹁ 殿下ガ此 ノ戦場 ヲ訪問 セ 特 に、戦場を訪 れたこと ラレタル コト ヲ欣喜 スルモ は、大事 な教訓 にな ったと ノナリ﹂ 思 います。戦争 とは悲惨な も のであり、起 こし てはな ﹁ 機関説﹂に賛成 らな いと の感想を持 った の は、しごく健全だ ったと い 立憲 主 君 を 意 識 えまし ょう。 こ の気持ちは、 皇太子が欧州訪問をした 一 開戦と終戦時 にも吐露 され 大正 0年 は、 第 1 次 大 戦 の て い ます。 1 終結から 3年を経た時期 で 一方 で、陸軍は これを面 す。 この大戦は、世界 の軍 白 く 思 わな か つた。﹁天皇 事技術を飛躍させましたが、 ハ陸海 軍 ヲ統帥 ス﹂。大 日 、 大日本帝国 と そ の 軍 部 は 本帝回憲法 の■条 によ つて、 そ の裏側 に大量虐殺と いう 皇太子は生まれた瞬間から、 影 があ ること を 十 分 に 認 識 統 帥権者 にな ることが宿命 し て いません。英国王は、 づけられて いました。陸軍 日本が ﹁ 平 は無 で 和 傷 手 に にと つて天皇 の平和主義 は 歓迎す べき こと ではありま せん。皇太子 の考えを知 っ た陸軍は、す こぶる惰弱だ、 と不満を持 つた のでし ょう。 こう した感情が、陸軍 によ る昭和天皇 への横暴な態度 の伏線 にな つてゆく。日本 史と世界史が交差 したイー X路ガスを使用し 繋燐な 入れた﹂と いう幻想を抱き 殺妖が撫り広げられました。 続け て いることを見抜 いて 、 6月3 いた。それ で、皇太子 に戦 1日に イー ペルを 訪 れた皇太子 は、英国王 に 場を見 ろと伝えたんですね。 次 のような電報を送 って い 昭和天皇 は、 二十歳あま り で得 た経験をず つと、胸 に刻 んで いました。実録 に 4 ︵ 9︶年 8丹 9 は、昭和 5 7 2 山 内昌之 が 語る 1946年 、吹上・御文庫の書斎で過ごす昭和天皇。飾台の 上にリンカーン(上 )、 ダーウイン(下 )の 胸像が見える やまうち・ まさゆき 1947年 生 まれ。東大名誉教授。国際関係史研究者。近著に『中 東国際関係史研剣 (岩 波書店)、 『歴史 とは何か』(PHP文 庫)。 211116年 に紫綬褒章 .7 2014.1可 33 日増大号 IH膚 圏 朝 醐 週 T川 朝日 国家を法人と考え、天皇 は、 は主権者 の地位 から離 れま そ の法人 の機関とし て主権 す。ナポレオ ンが消えた の を持 って いると位置づけま は、統帥権者 でなくな った した。 と いう意味もあ るでし ょう。 戦後 になると、昭和天皇 最後 に、実録 の編纂 に つ Uが多 いよう です の はなお のこと新憲法を尊重 いて批半 ‘ しながら政治 に関わ る象徴 で、私見を述 べた いと思 い とし て、 リ ンカー ンを近く ます。 論争 にな るテー マに つい に感 じた のかもしれません。 軍務 の象徴 であ るナポレ て、踏 み込 んだ記述がな い オ ンの胸像もあまり語られ と の批判があります。たと ませんが、実 は書斎 にあ つ えば、天皇 が靖国神社 に参 たと い は、 味 点 興 深 い う 話 拝しな いのはA級戦犯 の合 です。 祀が理由だと天皇自身 が話 、 一 民 であ で え、 し 市 る 我 さ た と す 富 田 々 る 朝彦宮内 ひと つの人格を毎 日、 コン 庁長官 が残 した﹁ 富 田 メモ﹂ ト ロー ルし て生きる のは大 に いて、 の記 はあ つ 直 接 述 変 です。昭和天皇 は、三 つ り ま せ ん。 し かし、﹁ 富田 の異な る立場を 一個 の人格 メモ﹂ の存在と内容を報じ に統合し統御しながら、﹁ 元 た報道を記述して います。 首﹂として生きた。そし て、 実録 の基本的な編纂 はい 最後 には終戦 の御聖断と い 年代順 に記述す る編年体 で う極限 の状況 にま で追 い込 すから、議論 にな る事柄 は、 まれるわけ です。 触 れなければす みます。し 戦争 が終 わると、ナポレ かし、実録は特定 の出来事 オ ンの胸像 はなくなりまし を 1カ所 にまとめ て記述す た。昭和天皇 が戦争責任を る紀事本末体 の様式を用 い 逃れようとしたからだと い て、 この件 に触 れました。 った批判もあります。しか 実録 の編修者たち の、歴史 一 し、 こ携わる専門家としての し、 陸 軍は 海 体 日 本 解 国 等 I し 憲法 の発布 により昭和天皇 冷持な のでしょう。 ﹁ 昭和天皇と私﹂手記募集 ヽ 読者の皆さんから昭和天皇につ いての思 い出を募集します。氏 名、住所、年齢、職業、電話番 号を明記。手続かファクスで隻 け付けます。 ︻ あて先︼〒10418011 東京都中央区集地SI3,2 週刊朝日編集部 ﹁ 昭和天皇﹂係 31554lIB ク ァクス︼0 ︻ ﹁ 正史﹂ に近 い実録 は、個 人 による 一冊 の歴史書とは 異なります。宮内庁 により 実録 に書 かれた ことは、内 外 で政府 の公式見解と受け 止 められる可能性が高 い。 仮 に靖国 の話を書けば、す ぐ に政治 に影響 します。手 元 の史料だけ では不十分 で、 歴史 では世代 が変わ ってよ う やく、別 の歴史家 が記録 とし て残す ことも珍しく は ありません。 それ でも実録を丹念 にた どれば、実録 が遠回しに語 るも のが見え てく るはず で す。われわれ受け手 が、編 修者 の意図を読 み解 いてゆ く。それよ歴史 の学びな の です。 構成 本誌 。永井責子 宜 妻 F q 棄 蘇 営 予 丁 患g 幸らの Y η二疋 両陛下の133首を画伯が読む 文や 画 安 野光 雅 定価18 0 0円+税 好 評発 売 中 ︹国脚国因 0 5 した。前年 の昭和 1 え方 は、合理的な常識人 で ︵ 3︶ 9日 の記述 には、本 年 3月 2 す。加え て、幼 いころから 庄侍従武官長を呼 んでこう 動植物 に対す る慈しみ の念 話す場面があります。 を持ちながらも、冷静な目 ﹁ 天皇機関説 に つき陸軍が で物を観察 でき る資質 です。 ダーウィンには尊敬 の念を 内閣総理大臣 に迫り解決を 督促す るのではな いかと御 抱 いた のでし ょう 。 下問 になる。また、憲法第 リ ンカー ンは、立憲主義 一章第 四条 ﹃ 天皇 国 元 を尊重し てきた天皇 のギリ ハ ノ 首 ニンテ統治権 ヲ総悩 シ此 ギリ の立場を象徴し て いま す。 ノ憲法 ノ条規 二依 り之 ヲ行 フ﹄ に つき、すなわち機関 説 であると のお考えを示さ 書斎から消 えた れる﹂ ナポ レオン胸像 軍部と の軋蝶 に苦しんだ 昭和天皇。私 は昭和天皇を 大日本帝国憲法 の第 4条 説明するとき、 いつも ﹁ 引 には、﹁天皇 ハ国 ノ元首 ニ き裂かれた人格﹂と いう言 シテ統治権 ヲ総悔 シ此 ノ憲 葉を使 って います。昭和 天 法 ノ条規 二依 り之 ヲ行 フ﹂ ′ ありました。主権 は在民 皇 の人物像を知 るヽ と ?えで興 味深 い話があります。時期 でなく在君だと定 めら れる の詳細は不明なと ころも多 なか で、政党政治 や議会、 いのです が、昭和 天皇 の書 内閣とどう折り合 いを つけ 斎 には、ダーウイン、リ ン てゆく のか。 東京帝国大学 ︵ 現東京大 カー ン、ナポレオ ンの胸像 。 学︶ の吉野作造博士は、民 が られ 飾 て い た と い い ま す この3人は、昭和天皇 の 主主義とは言えな いが民本 本質をよく体現し て います。 主義 であると唱え、帝国憲 ダー ウインが象徴す る のは、 法と民主政治 に折り合 いを 自然科学者とし ての昭和 天 つけました。 一木 や美濃部 皇 です。日常的なも のの考 は、天皇機関説を唱えます。 34 2014.11.7
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