2014年11月7日増大号32‐34頁に、<昭和天皇実録を読み解く⑦

昭和天皇 は生 まれた 瞬間か ら、陸海軍の統帥権者 と
しての人生 を宿命づけ られていた。それでもなお、平
和 を願い続 けた。 国際関係史研究者の山内昌之 さん
(67)は 、その思いの原点 は、二 十歳の青年皇太 子時
代 、裕仁親王がベ ル ギーの戦場跡 に立 つた瞬間だ つ
た と分析 する。
々
イす
英国王ジ ョージ 5世 は、
若き皇太子 に、あ る帝工学
を伝え て いました。
0日、
英国滞在中 の5月 1
英国王は、英国 の現状 や第
1久世界大戦中 の国 の様子
を伝えたあと、 ベルギー訪
問 の際 には、イー ペルの戦
場を視察す ることを勧 めて
います﹁イー ペルは、第 1
次世界大戦 で英国を含む連
たダーウイン、
リンカーン、
ナポレオンの胸像
、
の
ま す。﹁予 ガ件立 スルロ前
ノ光景 、陛下 ノ予 一
ハ
二ロゲ
給 ヒシ如 ク ﹃
イーテ ル戦場
合国軍がドイ ツ軍を 迎え撃
った激戦地 です。 こ の戦聞
では、ドイ ツ軍が史上初 め
7
ふた つの異なる憲法。 つ
ま
り
大
日
本
帝
国
憲
法
と日本
国憲法 のはざま で、
一方 は
立憲君主として、もう 一方
は象徴 天皇とし て生きた方
の軌跡。それが ﹁
昭和 天皇
実録﹂ です。私は国際関係
史を専門とす る歴史学者 で
す から、﹁
世 界史 におけ る
昭和 天皇﹂ の姿 に興味を持
ちました。
0 ︵
皇太子持代 の大正1
1
921︶年 3月から6カ月
間、英仏伊など欧州各国を
訪れました。途中、英領 の
香港やシンガポール、セイ
ロン、 エジ プ ト やジ ブ ラル
タ ルなどを経由 しな がら見
聞 し た旅 は、従 来 の皇 太 子
や歴代 天皇 にはな い経 験 で
し た。
日本 と共 通 した立憲 君主
国 であ る英国 に感 じた皇 太
子 の親 近感 は、 そ の後 の昭
和天皇 の思想や価値観を決
定づけるも のにな つたと思
います。
そ のひと つが、英 国 王室
と国 民 の距離 の近 さ でし ょ
う 。英国 滞在 中 に、各 地 を
訪 問 す ると出 迎え た市 民 た
英国王の教え
終生 の根本に
9 ︵
4︶
振り出しに、昭和 2
5
年 8月 の北海道ま で、米国
の施政権 下にあ つた沖縄を
除
い
て
全
国
を巡幸 します。
2 ︵
7
昭和 2
4︶年 には大阪府
を訪れます。
6月 5日、昭和天皇 が大
阪府庁を訪れた捗面は、昭
和天皇 が国民統合 の象徴 に
な つてゆくプ ロセ スで、国
民と触 れ合う様子を伝え て
います。
32
2014.117
ち の人混 みで、あふれかえ
ります。
5 0日 エド ワード英皇
月
1
太子 ︵
のち の英国王 エド ワ
ード8世、 ウインザー公︶
と ウィンザー市庁舎を訪 れ
た際 は、﹁周 囲 に は市 民、
郊外 より集 った民衆、イー
ト ン校生徒、市内小学校児
童 等 が密集 す る﹂。庁舎 内
で歓 迎 式 が始 ま ると、﹁群
衆が式場 に雪崩れ込 み、皇
太子 ・エド ワード親王等 は、
一時ま つたく群衆 の裡 に没
せられる﹂。
昭和 天皇 が車寄 せ で下車
す ると、﹁
約 四万 人 の市 民
が御身辺 に押し寄せ御歩行
不能 の状態 に陥られたため、
警行中 の米軍第 二十五師団
のMP ︵
憲兵隊︶が空 に向
け て拳銃を 三度発砲し、そ
の間に庁舎内 にお入りにな
る﹂。な か で昼食 をと つて
いると、 1500人 の子供
たちに
よ
る
奉迎歌 が流れ一
て
き ま す。﹁
食事 を 中断 さ れ、
再びバ ル コニーにお出まし
の思 召 しを 示 さ れ るも ﹂、
混乱を憂慮 した侍従らに止
められます。
、
翌1
1日も バ ツキ ンガム
宮殿を出た エド ワード皇太
子と裕仁皇太子が ロンド ン
市内を通ると、多く のロン
ド ン市民が、帽子を振り、
歓呼 し て奉迎します。
この光景 は、敗戦翌年 に
﹁
人間宣言﹂をした昭和天
皇 の姿 に重なります。
昭和 天皇 の脳裏 には、英
国 での記憶 が浮 かんで いた
のではな いでし ょゝ
つか。
一木 は、弟子 の美濃部達
吉ととも に天皇機関説を唱
えた人物 です。昭和 天皇 は、
天皇機関説 に対し て賛成 で
で
ば いるよう
き
だ
け
る
そ
に
に、と伝えます。
一木 はこ
の日から3月 8日ま で宮城
皇居︶ に宿泊します。
︵
和 天皇 に面従腹背とも いう
べき態度を取り続けます。
これには、陸軍全体 の性格
がよく出 て います。同時 に
真 の意味 で昭和 天皇を輔弼
す る側近が いかに限られ て
いたか、と感じました。昭
和 天皇 は事件発生当 日に、
一木喜徳郎枢密院議長に、
6
6
昭和 n ︵
3︶年 の2 ・2
事件 は、顕著な場面 です。
関東軍司令官を経 て侍従武
官長 にな った本庄繁 は、昭
ペルの戦場が端緒とな って、
昭和 天皇 の平和 への信念と
同時 に、陸軍 の天皇 不信と
いう相反す るふた つの感情
が生まれた のです。
昭和 に入 ると軍、特 に陸
軍 にな いがしろにされ、慣
る孤独な天皇 の姿を、実録
から読 み取 る ことも できま
す。
戦災 の復興状況を視察す
るため、昭和天皇 は昭和 2.
6
︵
4︶年 2月 の神奈川県を
ノ流血凄惨﹄ ノ語 ヲ痛切 ニ
日 の記者会見 で昭和 天阜 が、
想起 センメ、予 シテ感激 ・
ワ
﹁
英国国王ジ ョージ五世か
敬虔 ノ念、無量 ナ ラシム﹂
ら立憲政治 のあり方 に つい
英国王 の答電からは、皇
て聞 いた ことが終生 の考え
太子 の成長を見守るような
の根本 にあ る﹂と述 べた こ
温かさが伝わ ってきます。
とが記録され て います。
﹁
殿下ガ此 ノ戦場 ヲ訪問 セ
特 に、戦場を訪 れたこと
ラレタル コト ヲ欣喜 スルモ
は、大事 な教訓 にな ったと
ノナリ﹂
思 います。戦争 とは悲惨な
も のであり、起 こし てはな
﹁
機関説﹂に賛成
らな いと の感想を持 った の
は、しごく健全だ ったと い
立憲
主
君
を
意
識
えまし ょう。 こ の気持ちは、
皇太子が欧州訪問をした 一
開戦と終戦時 にも吐露 され
大正 0年 は、
第
1
次
大
戦
の
て
い
ます。
1
終結から 3年を経た時期 で
一方 で、陸軍は これを面
す。 この大戦は、世界 の軍
白 く 思 わな か つた。﹁天皇
事技術を飛躍させましたが、 ハ陸海 軍 ヲ統帥 ス﹂。大 日
、
大日本帝国
と
そ
の
軍
部
は
本帝回憲法 の■条 によ つて、
そ の裏側 に大量虐殺と いう
皇太子は生まれた瞬間から、
影 があ ること
を
十
分
に
認
識
統
帥権者 にな ることが宿命
し て いません。英国王は、
づけられて いました。陸軍
日本が ﹁
平 は無 で
和
傷
手
に
にと つて天皇 の平和主義 は
歓迎す べき こと ではありま
せん。皇太子 の考えを知 っ
た陸軍は、す こぶる惰弱だ、
と不満を持 つた のでし ょう。
こう した感情が、陸軍 によ
る昭和天皇 への横暴な態度
の伏線 にな つてゆく。日本
史と世界史が交差 したイー
X路ガスを使用し 繋燐な 入れた﹂と いう幻想を抱き
殺妖が撫り広げられました。 続け て いることを見抜 いて
、
6月3
いた。それ で、皇太子 に戦
1日に イー ペルを
訪 れた皇太子 は、英国王 に
場を見 ろと伝えたんですね。
次 のような電報を送 って い
昭和天皇 は、 二十歳あま
り で得 た経験をず つと、胸
に刻 んで いました。実録 に
4 ︵
9︶年 8丹 9
は、昭和 5
7
2
山 内昌之 が
語る
1946年 、吹上・御文庫の書斎で過ごす昭和天皇。飾台の
上にリンカーン(上 )、 ダーウイン(下 )の 胸像が見える
やまうち・ まさゆき 1947年 生 まれ。東大名誉教授。国際関係史研究者。近著に『中
東国際関係史研剣 (岩 波書店)、 『歴史 とは何か』(PHP文 庫)。 211116年 に紫綬褒章
.7
2014.1可
33
日増大号
IH膚
圏
朝
醐
週 T川 朝日
国家を法人と考え、天皇 は、 は主権者 の地位 から離 れま
そ の法人 の機関とし て主権
す。ナポレオ ンが消えた の
を持 って いると位置づけま
は、統帥権者 でなくな った
した。
と いう意味もあ るでし ょう。
戦後 になると、昭和天皇
最後 に、実録 の編纂 に つ
Uが多 いよう です の
はなお のこと新憲法を尊重
いて批半
‘
しながら政治 に関わ る象徴
で、私見を述 べた いと思 い
とし て、 リ ンカー ンを近く
ます。
論争 にな るテー マに つい
に感 じた のかもしれません。
軍務 の象徴 であ るナポレ
て、踏 み込 んだ記述がな い
オ ンの胸像もあまり語られ
と の批判があります。たと
ませんが、実 は書斎 にあ つ
えば、天皇 が靖国神社 に参
たと い
は、 味
点
興
深
い
う
話
拝しな いのはA級戦犯 の合
です。
祀が理由だと天皇自身 が話
、
一 民 であ
で え、 し
市
る
我
さ
た
と
す
富
田
々
る
朝彦宮内
ひと つの人格を毎 日、 コン
庁長官 が残 した﹁
富 田 メモ﹂
ト ロー ルし て生きる のは大
に いて、
の記 はあ
つ
直
接
述
変 です。昭和天皇 は、三 つ
り ま せ ん。 し かし、﹁
富田
の異な る立場を 一個 の人格
メモ﹂ の存在と内容を報じ
に統合し統御しながら、﹁
元
た報道を記述して います。
首﹂として生きた。そし て、
実録 の基本的な編纂 はい
最後 には終戦 の御聖断と い
年代順 に記述す る編年体 で
う極限 の状況 にま で追 い込
すから、議論 にな る事柄 は、
まれるわけ です。
触 れなければす みます。し
戦争 が終 わると、ナポレ
かし、実録は特定 の出来事
オ ンの胸像 はなくなりまし
を 1カ所 にまとめ て記述す
た。昭和天皇 が戦争責任を
る紀事本末体 の様式を用 い
逃れようとしたからだと い
て、 この件 に触 れました。
った批判もあります。しか
実録 の編修者たち の、歴史
一 し、
こ携わる専門家としての
し、
陸 軍は
海
体
日
本
解
国
等
I
し
憲法 の発布 により昭和天皇
冷持な のでしょう。
﹁
昭和天皇と私﹂手記募集 ヽ
読者の皆さんから昭和天皇につ
いての思 い出を募集します。氏
名、住所、年齢、職業、電話番
号を明記。手続かファクスで隻
け付けます。
︻
あて先︼〒10418011
東京都中央区集地SI3,2
週刊朝日編集部 ﹁
昭和天皇﹂係
31554lIB
ク ァクス︼0
︻
﹁
正史﹂ に近 い実録 は、個
人 による 一冊 の歴史書とは
異なります。宮内庁 により
実録 に書 かれた ことは、内
外 で政府 の公式見解と受け
止 められる可能性が高 い。
仮 に靖国 の話を書けば、す
ぐ に政治 に影響 します。手
元 の史料だけ では不十分 で、
歴史 では世代 が変わ ってよ
う やく、別 の歴史家 が記録
とし て残す ことも珍しく は
ありません。
それ でも実録を丹念 にた
どれば、実録 が遠回しに語
るも のが見え てく るはず で
す。われわれ受け手 が、編
修者 の意図を読 み解 いてゆ
く。それよ歴史 の学びな の
です。
構成 本誌 。永井責子
宜 妻 F q 棄 蘇 営 予 丁 患g 幸らの Y η二疋 両陛下の133首を画伯が読む 文や
画 安 野光 雅 定価18 0 0円+税 好 評発 売 中 ︹国脚国因
0 5
した。前年 の昭和 1
え方 は、合理的な常識人 で
︵
3︶
9日 の記述 には、本
年 3月 2
す。加え て、幼 いころから
庄侍従武官長を呼 んでこう
動植物 に対す る慈しみ の念
話す場面があります。
を持ちながらも、冷静な目
﹁
天皇機関説 に つき陸軍が
で物を観察 でき る資質 です。
ダーウィンには尊敬 の念を
内閣総理大臣 に迫り解決を
督促す るのではな いかと御
抱 いた のでし ょう 。
下問 になる。また、憲法第
リ ンカー ンは、立憲主義
一章第 四条 ﹃
天皇 国 元
を尊重し てきた天皇 のギリ
ハ
ノ
首 ニンテ統治権 ヲ総悩 シ此
ギリ の立場を象徴し て いま
す。
ノ憲法 ノ条規 二依 り之 ヲ行
フ﹄ に つき、すなわち機関
説 であると のお考えを示さ 書斎から消 えた
れる﹂
ナポ レオン胸像
軍部と の軋蝶 に苦しんだ
昭和天皇。私 は昭和天皇を
大日本帝国憲法 の第 4条
説明するとき、 いつも ﹁
引
には、﹁天皇 ハ国 ノ元首 ニ
き裂かれた人格﹂と いう言
シテ統治権 ヲ総悔 シ此 ノ憲
葉を使 って います。昭和 天
法 ノ条規 二依 り之 ヲ行 フ﹂
′ ありました。主権 は在民
皇 の人物像を知 るヽ
と
?えで興
味深 い話があります。時期
でなく在君だと定 めら れる
の詳細は不明なと ころも多
なか で、政党政治 や議会、
いのです が、昭和 天皇 の書
内閣とどう折り合 いを つけ
斎 には、ダーウイン、リ ン
てゆく のか。
東京帝国大学 ︵
現東京大
カー ン、ナポレオ ンの胸像
。 学︶ の吉野作造博士は、民
が られ
飾
て
い
た
と
い
い
ま
す
この3人は、昭和天皇 の
主主義とは言えな いが民本
本質をよく体現し て います。 主義 であると唱え、帝国憲
ダー ウインが象徴す る のは、 法と民主政治 に折り合 いを
自然科学者とし ての昭和 天
つけました。
一木 や美濃部
皇 です。日常的なも のの考
は、天皇機関説を唱えます。
34
2014.11.7