読書紹介文 - 麻布学園

二○一二年度麻布中学校二年「現代文」夏休み課題
「読書紹介文」
〈一組〉
『こころ』を読んで
井上 健
正直僕は、今まで「有名な人が書いた本」というものにあまりなじみがなかった。いままで
読んでいたのはほとんど最近の(宮部みゆき、東野圭吾など)やライトノベルだけだった。親
書はたまに読む程度で、岩波文庫の緑にあるような本はほとんど読んだことがなかった。
結果から言うと、今回読んだ「こころ」(夏目漱石)はそんなに面白くなかった。だが、ほか
に面白いのを知っているわけでもないのでこれで書いてみようと思う。
まず私はこの本を二回読んだ。最初の印象としては「なんか男がウジウジ悩む話」だっ
た。ここで少しあらすじを入れたいと思う。
私が先生と初めて会ったのは、鎌倉の海岸だった。先生にひかれた私は、東京へ帰っ
てからも、頻繁に先生の家をたずねるようになる。しばらく時がたち、私は父親の病が悪化し
たというので里帰りする。親族が集まる中、先生からの手紙が届く。そこには自殺するような
内容が書かれていた。急いで電車に乗った私は、車中で手紙を読む。その手紙は先生の
遺書だった。そこには先生の過去が書いてあった。(私=主人公)
二回目に読んでみると、その時の時代背景などがわかってよりわかりやすかった。ただ、
やはり著者が何を言いたいかはわからなかった。
けれど、精一杯感想(考察?)を書いてみようと思う。
まず私(主人公)についてだ。この私は、物語の前半、つまり先生にひかれ遺書を読む
までのところで重要な人物だ。私と先生の会話や、付き合い方を出して、先生の遺書(過
去を語る)の伏線にしている感じだ。たとえば、先生が私に言った「しかし君、恋は罪悪です
よ。わかっていますか」というセリフ。これは当時の時代背景などもあったのだろうが、先生
の過去が大きく影響していると思う。先生は過去に、痴情の縺れ(?)によって親友を自殺
に追い込んでしまった。それが影響して、こんなことを言っているのだと思う。
先生は故意ではないにせよ、親友を自殺に追い込んだ。そしてその責任を抱えたまま自
殺する。
加害者側のつらさというのは、時に被害者よりも大きいのかもしれない。
自分のせいで親友を追い込み、そして自分は生きている。そんな鎖に縛られながら生き
ていくというのは、想像を絶する。
ほかの本に比べて、人間を「ありのまま」描いてる気がした。
大人になったらまた読み返してみたいと思う。
◆◆◆
『銀の匙』を読んで
岡田涼
皆さんは自分が小さかった頃の思い出を覚えていますか。
この物語はおそらく作者本人の幼少期の回顧録である。この本の題名にもなっている
「銀の匙」とは、物語の中で育ての母である伯母が、幼少の「私」に薬を飲ますために使わ
れた匙で、子がいなかったため「私」を溺愛した伯母との思い出の品である。
主人公は伯母に我が子のように可愛がってもらったのである。つまりこれは、私達にとっ
て祖母もしくは祖父に近い存在であり、その愛情は主人公の受けたものと類似していると思
う。どの大人もそんな経験があるだろう。
皆、成長するにつれて薄れていってしまう少年時代の思い出、それが「銀の匙」にはあ
る。病気がちだった主人公が、伯母に慈しまれて育てられ、近所の幼馴染の少女との楽し
く、また美しい思い出、別れなどが、今の自分にとって難解なほど、綺麗な言葉で書かれ
ている。また、「あの静かなる後の日の遊びを心から懐かしく思う」「幾千の虫達は小さな鈴
をふり、潮風は畑を越えて海の香と波の音を運ぶ」など、美しい描写がちりばめられている。
昔の少年時代はこんなものだったのかとか、晩年の伯母に再会する「私」とは大人にな
る自分の「未来」なのかとか、色々思った。
特に大きな事件もなく淡々と幼少時代が語られていく。読後に、何だか懐かしいような
祖母に会いたくなるような、幼いころに戻ってみたくなるようなそんな物語である。
もしかしたら、大人になってからまたこの本を読み返してもいいかもしれない。
◆◆◆
『坊ちゃん』
菊池 舜
今から夏目漱石の「坊ちゃん」を紹介したいと思う。夏目漱石の代表作の一つだが、僕
はまだ読んだ事がなかったので、ここで紹介したいと思う。
「坊ちゃん」は夏目漱石が実際に教鞭をとっていたころの体験をもとに書かれた作品であ
る。無鉄砲な性格の坊ちゃんが、数学教師として松山の中学校に赴任し、山嵐や赤シャ
ツといった教員に出会う。そこである日宿直をしていたところ、寄宿生にひどい嫌がらせを受
けてしまう。そこで多くの教師が穏便に事を済まそうとしている中、寄宿生に処分を下すべき
だという山嵐に関心を抱き始める。やがて赤シャツが英語教師のうらなりの許嫁であるマド
ンナと不倫し、うらなりをたこうへ転校させようとたくらんでいる事を知る。そのことが許せない
坊ちゃんは、やがてそのことで山嵐と意気投合する。しかし、赤シャツの陰謀により、けんか
の仲裁をした二人の事を新聞に悪く書かれてしまい、山嵐は責任を取って辞めさせられてし
まうこととなってしまう。そのことに怒った坊ちゃんたちは、芸者遊びから帰ってきた赤シャツた
ちを襲撃し、その後ふたりでふるさとに帰った。坊ちゃんはその後街鉄の技手となり、子供の
ころ自分を世話してくれた下女の清と彼女が死ぬまで暮らした。最後は清の墓が小日向に
ある坊ちゃんの家の墓がある養源寺にあることが書かれている。
この本は最初から最後まで読みやすかったのが印象的だった。話がテンポよく進む為、
ふだんあまり本を読まない僕でもすらすらと読む事ができた。また、教員一人ひとりにあだ名
がついていたり、坊ちゃんの心情が面白く書かれていたのも読みやすかった原因の一つだ
と思う。
一方で、この話は単なる正義感を持つ坊ちゃんが赤シャツたちを倒すといった単純な話
ではなく、むしろ親譲りの無鉄砲で実際に損をしてしまった坊ちゃんの人生を描いた作品だ
と思う。しかし、後味がわるくなるといった事は無く、読んだ後の一種の達成感のようなものを
味わう事ができる。このように、あまり本を読むのが好きでない人にも読みやすいので、読ん
だ事のない人にはぜひ読んで欲しい作品である。
◆◆◆
『坊っちゃん』
清水木楠
親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしていた坊ちゃんは家族全員に嫌われ、使用
人の老婆である清だけに好かれていた。清からもらったお金で物理学校に入学し、四国の
中学校の教師になることになった。学校の他の教師にいろいろなあだ名をつけた坊ちゃん
は、数学の教師から学校の不平を言うなと注意されるが気にせず、自己流を通していた。
教頭に釣りに誘われ、画学の教師と三人で行くと二人の会話から数学の教師が悪いと
思い込みお互いに口をきかなくなってしまう。しかし新しい下宿先の人から教頭と画学の教
師が話していたマドンナが英語教師の嫁であることを聞いて教頭がマドンナを嫁にするとい
う企みを知ってしまった。また、悪いのは数学教師ではなく教頭と画学の教師なのではない
かと坊ちゃんは思い始めた。ある日湯に行った帰りに教頭とマドンナが二人で歩いているの
を目撃し、教頭に次の日聞いてみると知らないと嘘をついてきたので悪いのは教頭だという
ことを確認した。教頭はマドンナを嫁にもらうために校長と協力して英語教師を転任させ、事
実がばれている数学教師に学校を辞めさせようとする。それを知った坊ちゃんは辞めさせら
れるのを覚悟で数学教師と協力して張り込みをし、ついに教頭と画学の教師が芸者と一
緒に宿に入っていくのを目撃し、出てきたところに卵を投げつけて襲撃する。文句があるなら
警察に訴えろと彼らに言ったが彼らはついに降参した。
真正直で正義感がとても強い人は何度苦しめられても必ず最後には勝ち、悪いことをし
た人は必ずそれが自分に降りかかってくるということを表現した話だと思う。
◆◆◆
『猫町』を読んで
豊福 理央
僕が紹介する本は、「猫町・他十七篇」だ。この本は三部で構成されている。一部目
は、表題作「猫町」を含む三篇で、いずれも短篇小説である。二部目は、小説的な散文
詩又は教訓的なもので、三ページほどの短い話が十三篇入っている。三部目は小説に
近い随筆文で、「秋と漫歩」「老人と人生」の二篇が入っている。
作者は萩原朔太郎で、彼が三十代後半から五十代前半くらいに書いた作品が多く収
録されている。この頃の彼には色々あり、作品に大きな影響を与えていると思うので書いて
おく。一九二五年、三十八歳の萩原は前橋から近代的な東京へ行くという夢を叶えるた
め、父から自立して大井町へ妻・二人の娘と引っ越す。その後、何度か引っ越して室井
犀星や芥川龍之介、宇野千代、三好達治らと近所になって親しく交わり、馬込村で暮ら
す。友人がいて、経済的にも安定してきたのだが、芥川の自殺を知らされる。さらに、ダンス
パーティに溺れた妻が家庭を軽視するようになり、離婚。そして、前橋に戻り父を看病する
が、友人の生田春月の自殺を知らされ、さらに父も死去。父は自立後も彼を支えてくれて
いた。この辺りまでの作品がこの本に収録されている。なお、その後彼は母や兄弟、娘達と
平穏に暮らした。ちなみに、彼が離婚前後に書いたのは第一部の三篇と第二部の「虫」
である。
さて、そろそろ中身の紹介をしたいと思う。まずは、表題作の「猫町」だ。主人公の「私」
は、二つの方法で不思議な旅行が出来る。一つは薬物で、もう一つは迷子になって方角
が分からなくなることで一瞬見慣れた町が非常に珍しく素晴らしい光景に見えるというもの
である。ところで「私」は、温泉に滞留していて、よくU町へ行っていた。この地域では、犬や
猫に憑かれた村があると言い伝えられていた。「私」は山道を歩くのが好きだったが、その日
はU町へ歩く途中で道に迷ってしまった。ようやく麓へ着くと、そこは近代的な大都会で、とて
も素晴らしかった。しかし、見とれているうちに不吉な予感がし始め、周りの風景が異常化し
てくる。そして、黒い鼠のような動物が走るのを見た瞬間、町が人の姿をした猫ばかりなのに
気付く。戦慄する「私」だが、次の瞬間、全ては消えていて、自分はいつも通りのU町を歩
いている。僕はこの話を読んだ時、とても怖くなった。自分もこの裏の世界に迷い込むので
はないかと。それから、二つの疑問が湧いた。一つは、このような常識では考えられない光
景に会った時、幻覚だったとして、「見た」という事実を疑うか、「見た」という事実は不変だ
からと常識を疑うか。二つ目は、作者は「猫町」で何を暗示しているのか。他にも、謎はたく
さん出てくる。皆さんもぜひ、読んで考えてみてほしい。
第二部は、詩や教訓だ。僕は、「群集の中に居て」が気に入った。これは、都会の生活
の自由さ、群衆の中に居る自由さについて書いてある。群衆の中では、誰も自分の生活
に交渉せず、自分の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、人々と楽しんで共
に居る。この詩には僕は共感できた。たしかに、群衆は素晴らしく、群衆の中に居られる都
会は素晴らしいと思った。
僕は二篇しか紹介していないが、残りの話も読むと良いと思う。もちろん、第三部も面白
かった。「老年と人生」は、年が老いるごとの変化を、主に日本人と西洋人を比べて考え、
そして作者の意見が述べられている。僕の言葉では伝えきれないが、絶対に読んだ方が
いいと思う。この本は、詩的・哲学的な表現が多く、一部僕には理解出来なかったが、読
みだすと止まらなくなる、素晴らしい内容だったと思う。ぜひこの本を読みながら世の中の様
々な事について考えて欲しい。
◆◆◆
『草枕』を読んで
錦谷達貴
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を
通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」このくだりで始まる、「草枕」。この物語の作
者は、明治の文豪、夏目漱石である。この、「草枕」は、1906年に「新小説」に発表さ
れ、「坊っちゃん」と並ぶ初期の代表作とされている。この物語の主人公は、三十年の間、
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりをし通して、飽々したと思っている、ある画工だ。画
工は、「いやな奴」でいっぱいの東京を脱出して、「煩い」から逃避するべく、非人情の旅に
出る。僕が思うに、画工は、人間不振に陥っていたのではないか。なぜなら、画工は物語
の中で、「人は必ず探偵的となり泥棒的となる。」と言っているからだ。また、これは漱石自
身も思っていたことなのではないか。「我輩は猫である」の中でも、主人公の「猫」がこのよう
なことを言っているからだ。とにかく、画工は旅に出て、人里離れた温泉場で那美さんという
才知あふれる美しい女性に出会う。彼女を描こうとするが、何か足りない。思いあぐねた結
果、「憐れ」の情緒が欠けていて、描けない。ある日、元夫と再会した那美さんの顔に「憐
れ」を感じ、画を完成させる。というようなあらすじである。僕が一番好きなくだりは、「人の世
を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人
である。ただの人が作った人の世が住みにくいとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの
国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」だ。このくだりは、至極
当たり前のことを言っているが、しかし、人は他人とは切っても切れない関係にあることが分
かり、また、これが、「煩わしさ」であると思う。僕は、この本を読んで、漱石の熱い想いが感
じられる作品だと思った。
◆◆◆
『川釣り』
堀部将広
この本は井伏鱒二の人生での釣りに関しての本です。
僕はなんてしないのでよくわかりませんでしたが、この本は釣り好きな人にはおもしろいかも
しれません。
この本のいいところは井伏鱒二の釣り場、釣り方が書いてあり、釣りをする人にとってはた
めになるかもしれません。一方悪いところは釣りをしない人にとっては釣りの解説などをされて
もよくわからず、ストーリーしか楽しめないということです。
この本の見どころは釣りと思う人もいると思いますが、一番の見どころは色々なことの表
現の仕方がおもしろいことです。
この本は、二二個のエッセイに分かれています。例えば、ひとつのエッセイは、井伏さんの
佐藤垢石老やカワセミのおやじとの出会いやつきあいについて書かれています。このエッ
セイは個人的には好きでもなく、嫌いでもありません。
二つ目のエッセイは釣りをするにあたって危険なことなどが書かれています。例えば井伏
さんは神経痛があり崖を登って釣りをしないで安全な場所で釣りをする、ということです。他
にもマムシやクマやサルについて書かれています。
このようなエッセイがあと二十個で作られている本です。
僕の読解能力が低いだけかもしれませんがこの本は結構内容が分かりにくいです。ま
あ、そのぶん読みがいがあるのかもしれません。
僕はこの本を読んで前までは釣りなんて糸を水面に垂らしてるだけだと思っていましたが、
意外と奥が深いということをはじめて知りました。
この本を読むとあなたの知らなかったことを知ることができるかもしれません。なのでぜひ
読んでみて下さい。
◆◆◆
『銀座復興』
森映樹
この本「銀座復興」はその場の通り銀座復興について書いた本だ。
時は1923年9月1日、関東大震災の地震と火災で一面野原となった東京。
いつも銀座で遊んでした牟田は震災後初めて銀座に訪れる。そこでは驚くことに明日か
らまた再開するという酒屋があった。
そして牟田は次の日も次の日も通うようになる。そこで出会う客や酒屋の夫婦との会話を主
にした心温まる話。
震災後でも前向きに考えて明るく元気に生きていく人々の様子が上手に書かれていて、
とても元気がもらえる本だ。
またそれぞれの客や酒屋の夫婦などの一人一人の個性があり、読んでいてとても面白い。
この本の作者である水上滝太郎は実際に関東大震災を経験している。そこで自然に対
して何もできない人間の弱さと、それでも前向きにがんばっていこうとする人間の強さを知っ
た。しかし、復興に人々がどんなに苦労したかを見ていた筆者は、東京はすでに回復し過
去とは全く違う繁栄が現れてきていた昭和6年ほどになってから、この本のような人々の作
品化を図れるようになった。
この本を読んで僕は東日本大震災について思う。東北で被災された人達にこの本の人
達のように前向きに生きてほしいと願うとともに、たぶん東北の人達も前向きに生きようと努
力しているのだと思う。
優しい気持ちになりたい。勇気をもらいたいと思う人にはでひ読んでもらいたい本だ。
◆◆◆
『夜叉ケ池・天守物語』
湯川直旺
僕が読んだ岩波文庫の小説は、泉鏡花作の「夜叉ケ池・天守物語」だ。
「夜叉ヶ池」は、越前の琴弾谷に住む晃と百合という夫婦の物語。一昨年の夏、琴弾
谷を訪れた晃は、鐘楼守の老人から、夜叉ヶ池にまつわる物語を聞く。昔、竜神が池に
封じ込められた時、二度と洪水は起こさないと約束したこと。その約束を思い出させるため
に、日に三度鐘を鳴らさないといけないこと。一度でも鐘をつくのを忘れると、約束の効力
はなくなり、竜神は解放され、すべてが水の底に沈んでしまうこと。
それから老人が亡くなり、晃は村に住む百合を守るために、新しい鐘楼守として琴弾谷
にとどまり、百合の夫になった。けれど日照りが続き、村人達は百合を生け贄にしようとし
た。そのせいで百合は、自らのどを突いて死に、晃は鐘をつくのをやめてしまう。とたんに洪
水が起き、村をのみこんでしまった。
「天守物語」は、播州姫路城の天守に住む、伝説の金の眼の獅子頭とその不思議な
力で生きる魔性の女たちの主人・富姫と、下界の人間である図書之助との愛の物語だ。
秋のある日、富姫は下界の人間たちの鷹狩りの騒々しさに怒り、夜叉ヶ池に住む、雪姫
に嵐をおこさせ、それに困惑する人間たちの姿を見て楽しんでいた。そんな彼女のところへ
妹の亀姫がやってきた。彼女との楽しい一時を過ごした富姫は亀姫に、鷹狩りの一行から
奪った獲物の鷹を渡した。
そしてその晩、百年もの間、誰も近寄ったことのない天守に、鷹を探しに図書之助がやっ
てきた。富姫を前にして動じないその態度に、一度は帰したものの、途中で明かりを失って
戻ってきた図書之助を今度こそ殺そうとした。しかし、人間界の理不尽さに同情し、それは恋
になった。再び人間界へ図書之助を帰すのだが、理不尽な理由で窃盗の容疑をかけら
れたため、同じ命を落とすなら、と富姫に殺されに行こうとした。
しかしそこで富姫は図書之助を守り、追ってを追い払おうとした。その際に獅子の眼を傷
つけられ、富姫と図書之助は失明してしまうものの、老工・近江之丞桃六が現れ、獅子の
目を彫り直したことにより二人の視力は回復し、互いに永遠のい愛を誓い合った。
この「夜叉ヶ池」と「天守物語」という二つの話は、終わりかたが全く違う話だが、共通す
る点がいくつかある。
まずひとつ目は、「夜叉ヶ池」にでてくる、池に住む竜神の姫・白雪と、「天守物語」に出
てくる富姫だ。白雪は別の池に住む恋人に会いに行きたくてたまらないが、約束のせいで
池から離れられない。自分の恋のためだったら、村に住む人々などどうなってもいいと考え
た白雪は、手下の妖怪たちに鐘を落としてしまうように命じた。しかし、晃を待つ百合の歌声
を聞いて思いとどまった。
富姫は、妹の亀姫からお土産に生首をもらって喜ぶような性格だが、本来だったら殺し
ているはずの図書之助を二度も人間界に帰してやっている。
このように白雪と富姫は、残酷でとても恐ろしい一方で、主人公に対しては、まるで母親
のような優しさを持っている。水が人にとって恵みにもなり災いにもなるような危うさを、白雪と
富姫はもっているのだ。
二つ目の共通点は、異界のものについてかいた妖しさの中に、美しい恋があるということ
だ。
鏡花というペンネームの由来となったのは、鏡花水月という言葉である。鏡花水月と
は、鏡に映る花のように、水に映る月のように、見ていてきれいだと感じることはできても、ふ
れることのできない、儚い美しさを表す言葉なのだ。この表現が、鏡花の物語にはふさわし
かったのである。
鏡花の物語は、確かに儚い美しさだが、儚いからこそ、読者の心にその美しさがいつま
でも残っていくのだ。
人生も同じだ。人はいつか死んでしまう。そんな儚い命だから、今を一生懸命に生きよう
としているのではないか。だからこそ人が懸命に生きよとする姿は美しいのだ。今までの文
章では、評論家の意見などを参考に僕が共感できると思ったものを書いていたが、人生と
鏡花の作品を重ね合わせた考え方は、僕が読んでいて感じたことなので、全くの見当違い
かもしれない。だけど、もしもそうだとすれば、自らの母親を殺した菌に怯え、ひたすら清潔さ
を求めているだけになってしまっていた鏡花も、人生に美しさを見出だせていたことになるの
だろうか。
◆◆◆
〈二組〉
『三四郎』
磯田健人
主人公の小川三四郎は熊本第五高等学校を卒業して、東京帝国大学に入学するた
め上京する学生だ。この中で三四郎は、与次郎や広田達と出会い学園生活を送り、東
京の広い世界と熊本の狭い世界との違いに戸惑いながら、新しい世界や女性とふれあ
いながら生活していく。
この物語でまず、おもしろいと思ったのは、大学がはじまる日に三四郎が行って待ってい
ても生徒も教師も誰一人としてこず、十日ほどしてからやっと始まったものの三四郎にとって
はつまらなく物足りず与次郎と共に電車に乗って満足しようしたことだ。自分は今の学校生
活に満足しているのでこうは思わない。このようなことは、今の日本では起こらないことだと思
う。僕が一年ほど前に京都から東京に引っ越してきたとき、最初は交通機関が発達してい
ることや気候の違いや人の数が多くてなれなかったけれど、半年ほどしたら慣れてきて生活
リズムが整ってきて、生活が楽になっていった。
熊本から東京に移動する汽車での三四郎と男の会話の中で、日露戦争に勝ち喜んで
いる国の中で冷静に世の中をみてこのままでは日本は滅びると言葉がある。これはイギリス
に留学したことのある夏目漱石だからこそ書けたのだと思う。この男はこれから三四郎がお
世話になる広田であった。
三四郎は里見美禰子に恋に落ちたが、美禰子にあそあばれ、結局、美禰子は嫁にもら
われ、夢はおわった。どうして、三四郎は美禰子に恋をしたのだろうか。それは彼女が今まで
の偽善者でなく露悪者という新しい人の性質を持った人の象徴であるイプセン流の女だっ
たからである。イプセン流というのはそれまでの封建制から解放された自由、自立に目覚め
た女という意味である。美禰子は三四郎の眼に、そのような女性として映ったのだ。そして、
三四郎はそんな女性が理想的に見えたのだ。
「どうだ、森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃなんとすればよいのだ」
三四郎は何とも答えなかった。ただ、口の中でストレイシープ ストレイシープと繰り返し
た。
これで三四郎は終わる。なぜ stray sheep が結びの言葉になったのだろうか。どうして羊
でなければならないのか。ストレイシープというのは森の女のモデルの美禰子のつぶやいた
言葉なのだ。彼女は讃美歌の流れる教会に通っていたのだ。だから、彼女はマタイの福音
書やルカの福音書の「迷い出た羊」の例えを知っていたのだ。
何を迷っていたのだろうか。明治維新後欧米に追い付き追い越せと頑張っている日本
で、自由と自立を知った知識人である漱石も迷っていた人間の一人であったに違いない
が、どのように生きていけばよいのかとまよっていたのだろう。それがこの本の主題なのだと思
う。
◆◆◆
トンネルを抜けると雪国であった
稲津遥太郎
私はこの課題をするにあたって「雪国」という本を選んだ。この本は文豪川端康成の代
表作で、今までに何度もドラマ化や映画化されている。この川端康成はすごい人で、ノー
ベル文学賞日本人初の受賞者になった。私がこの「雪国」という本を選んだ理由もそこに
ある。
「雪国」の魅力的な点は非常に丁寧に情景描写がなされている点である。主人公や登
場人物の気持ちが見えるような川端康成の書き方には個人的に感動を覚えた部分も多
かった。
また、この話を読んで私は日本の良さを再確認する事が出来た。都会ではもうあまり見る
事が出来なくなってしまった日本の美しい冬をこの「雪国」という本を読む事によってさも体
験したかのような気分になる事が出来た。描写がとても細かいのに全くしつこさを感じさせな
い川端康成の書き方には、さすが世界に認められた作家だなと、とても驚いた。
またこの「雪国」という物語は書き出しが印象的である。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」というこの一文はこの物語の始まりを見
事に飾っている。
ところで、この物語は終わり方もまた印象的だ。一言で言ってしまうと、展開が急なので
ある。終わりも最後まで詳しく書かれていない。この書き方は読者に選択肢を与えるという
意味ではいい終わらせ方なのかもしれない。まあ個人的には火事で二階から落ちてしまっ
た葉子の生死が気になるところではある。
この物語は登場人物の関係が複雑で、読み終わった私も未だによくわからない節があ
ったりする。この話はあれこれ複雑に考えたりせずに主人公の心情や風景を心で感じる事
が一番いいと私は思う。そうする事でこの「雪国」という物語を存分に楽しめる、それがこの
物語の魅力であろうと私は思った。
◆◆◆
「先生」の自殺
大和田湧
「こころ」は、「先生」の死後、「私」が書いたという形式で書かれている。
「先生」と「私」は暑中休暇で訪れた鎌倉で出会い、その後親しくなっていった。「先生」
は毎月親友の墓参に行っている。だが、まだ誰とも一緒に行ったことがないらしい。また、
「先生」は、自分は世に出る資格のない人間だと言い自分のことを軽蔑している。更に、
自分も他人も信用することが出来ないと言う。しかし、「奥さん」は昔はああではなかったと
言い、毎月墓参に行く親友の死が原因なのではと言う。そのことを「私」が「先生」に問い
詰めると、「先生」はいつか必ず教えると約束する。
「私」は父親の病気のため田舎に帰ることになった。最初、父親は元気そうだったが、徐
々に元気をなくしていく。父親は自分と同じ病気の明治天皇が崩御するとすっかり元気をな
くしてしまい昏睡状態に陥り、いつ死んでもおかしくない状態になってしまう。そんな時、乃木
大将が明治天皇に殉死するという事件起き、「私」のところに、「先生」から長い手紙が送
られてくる。
それを読み、「先生」の遺書だと直感した「私」は列車に飛び乗り東京へと向かう。
手紙には「先生」がいつか必ず教えると約束したことが書かれていた。信頼していた叔
父に騙され両親の遺した財産のほとんどを横領され他人を信用できなくなったこと。恋のた
め親友を裏切り自殺に追い込んでしまったこと。「先生」は自分の人生を教訓としてもらう為
「私」に手紙を書いたのだ。
「こころ」は「先生」の自殺について書かれた本である。最近、学校でのいじめを苦にした
自殺が話題になっているが、「先生」の自殺はそれらとは違い、何十年も悩んだ末の答え
であり、今話題になっている自殺とは意味が全く違うのではないかと思う。また、自殺という
重い題材にもかかわらず、さっぱりしていて読みやすい。自殺が増加している今だからこそ
読んでほしい。
◆◆◆
『山椒大夫・高瀬舟』
栗原 在
山椒大夫とは1915年に森鴎外が発表した小説である。子供の頃、「安寿と厨子王」
の話は聞いたことがある人も多いかと思う。
白河天皇の時代に父・正氏が罪を得て左遷され、筑紫の安楽寺に流される。正氏の
妻は、十二年間帰らない正氏を訪ねて、姉・安寿、弟・厨子王と共に、女中の姥竹を連
れて旅に出る。
今の福島市から新潟県上越市の近辺まで来た時、旅人を泊めてはいけないとする土
地に着く。掟を破って、親切に泊めてくれた様に思えた男は、実は人買いで騙された母は
佐渡に、子供二人は丹後の山椒大夫に売られてしまう。ただ道を歩いていただけで売られ
てしまうなんて理不尽なことだと思いませんか?親子は引き裂かれ、安寿と厨子王は奴隷
にされてしまう。悲惨である。
奴隷として働きながら安寿は厨子王を逃がす計画を立てる。安寿は長いつやのある髪
の毛を切られてしまっても、決心を変えない。厨子王は無事に逃げることができるのか?こ
の場面は読んでいてハラハラして先が気になってしかたありません。
守本尊の力で厨子王は、関白師実と知り合い、元服して丹後の国の国守となるが、一
番にしたいことは人の売買の禁止であった。ここで強者と弱者の立場が逆転する。山椒大
夫の所にいる奴隷は解放される。いままで悲しくつらい気持ちだった読者も気分が晴れ救
われる。
厨子王は自分達を助けてくれた人への恩返しをした後、母を探しに佐渡に渡る。果たし
て彼は母親に再会できるのか?
「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しやほうやれほ。」という有名な詞が最後に登場す
る。ラストシーンの一文一文は、まるで映画のワンシーンのように劇的で感動させられる。
最近親子関係で苦労している方、神様なんて信じないと思っている方、一読をおすすめし
ます。
◆◆◆
『斜陽』
末増将大
この本は題名の通り、世の成り行きにより没落してゆく、とある貴族の一家を美しく描いた
ものである。この文章は女性目線であり、残酷な場面でもそれを残酷だとは思わないよう
な、むしろそれを受け入れやすいような美しい表現で書かれている。また、この文章には没
落しているようなイメージは感じられず、むしろ美しくなっているように感じられる。
この文章を読んでいると「人間の本当の姿」というかなんというか、自分でも分からない
でいるが、説明できない何かを感じ取った。
そのなんとなくを少しでも理解してもらうために、ここで、僕の印象に残った部分を書こうと思
う。
「僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を早熟だと噂した。僕が、なまけものの振りをして
見せたら、人々は僕をなまけものだと噂した。僕が小説を書けないふりをしたら、人々は僕
を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕
が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども僕が本当に苦しく
て、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。どうも、くいちがう。」
この文は自殺した、麻薬中毒で苦しんでいる直治(登場人物)がまだ生きている時に書い
た文の一部である。この文の前後にも少し考えさせられることがたくさんあったが、今は書か
ないでおく。
これだけではいまいち「なんとなく」が分からないと思うが、このことに関して少しでも伝わっ
ていれば嬉しい。気になる人は読んでみて欲しい。
『斜陽』は貴族であるがゆえに味わう苦しみを経て、自ら破滅へ向かっていった直治、恋
と自身の道徳革命に生きていこうとするかず子、「最後の貴婦人」であり、天爵をもち、
どんな時でも「美し」くある母、の三人の貴族一家の哀しくとも美しい生き様を描いたもので
ある。それをかず子の視点、手紙や、直治の夕顔日誌、遺書を通じて感じる事のできる作
品である。
最後に、『斜陽』には「世の成り行きにより没落してゆく」という意味の他に「西に傾いた太
陽。また、斜めにさす夕日の光」という意味もある。この文章を読み、思ったのだが、この題
名は「沈みゆく太陽のように没落する貴族。しかしそこには没落へと進みつつ、沈みゆく太
陽、すなわち夕日と同じように、その人間性、あるいはその死に様が美しく、そしてそれがどん
どん深くなって行く」そんなイメージがあるのではないだろうか。これは読んでみないと分から
ないことであるが、ぜひ、このイメージをこの本を読むことで感じてみて欲しい。
◆◆◆
『宮沢賢治童話集』を読んで
高橋脩
宮沢賢治の童話は、よく「特異」と評される。
では何処がどのように「特異」なのか。
それを意識しながら読んで見たのだが、まず第一印象としては、自然界を舞台とし、その
様子を描いていくことで何かメッセージを伝えようとしているなと感じた。
鶴やら象やらドングリやら猫やらねずみやらカラスやらと、それらのおかれている環境と、
彼らにおこる日常や事件を描いてあるものが多く、また印象的であった。
メッセージ性は、分かり易いものもあったが、深い難解且つ面白いようなものも多かった。
そして、全体的に、何か不思議な雰囲気が漂っていたのは確実だ。
ほかの童話とはどこか違うような、一種不気味なような感覚さえ感じさせられた。
だがしかし近寄り難いかというとそうではない。サクサク読めるようなスピード感と面白さが
あった。また、文学によくあるような堅苦しさというものはなかった。暗い雰囲気とも違う。
けれども何となくちょっと違うな、と思った。その違うな、が「特異」なのだと思う。
つまり、言葉では上手くは言い表せないような宮沢賢治独特の世界観と独自性によっ
て描かれるため、他の作家とは一線を画すようなジャンル分け出来ないようなワールドとなっ
ているのだろう。上手く言い表せないからこそ、「特異」と表しているのだろう。いや、「特異」
としか言い表せないのだ。
なのに割に分かり易くサクサク読ませるところが凄さなのであると思った。
そこのギャップに皆が魅了されているのかもしれない。
僕もその一人だったのかもしれない。
オススメだ。
◆◆◆
『川釣り』を読んで
深澤崇史
僕は、井伏鱒二著「川釣り」という本を紹介する。この本は、短編集になっていて、釣り好
きな筆者が旅した各地での釣りにまつわる愉快なエピソードが沢山つまっている。
筆者は、1898年に裕福な地主の子として生まれた。まったくひどい時期に生まれたもの
だと思う。16歳の時に第一次世界大戦が始まり、41歳の時に第二次世界大戦を経験し
ているのだ。身近に置き換えてみると、16歳といえば高1・2年生として大いに青春を楽しん
でいる時期だ。しかし筆者は、そううかうかしていられなかったのだ。さらに太平洋戦争では、
軍に徴集されて従軍記者となり大変な思いをしたと思う。このように、暗い時代に生まれ育
った筆者だが、作品にはユーモラスで飄々としたものが多い。この「川釣り」もそんな作品の
一つである。
今回は、短編集の中で特に面白かった二編を紹介する。
一つ目は、「白毛」だ。この話では、筆者の自分の髪を抜いて釣り糸のように結ぶ、という
奇妙な癖がテーマとなっている。筆者のこの癖は、疎開先から東京に転入する直前に、
追い剥ぎに会って白髪を抜かれたことが原因でできたのだが、その時の筆者の心情描写
が実に面白く読みごたえがある。また、その癖によって禿げてきた筆者の髪との向き合い方
にもついつい笑ってしまう。
二つ目は、「片棒担ぎ」だ。この話の中で、筆者は釣りに行った先の宿で金庫破りの犯
人と会ってしまう。はじめは、相手を罪人と知らない筆者は、犯人と仲良くなってしまう。犯人
が去った後、筆者の元に刑事が訪れ、犯人探しにいやいや付き合わされてしまう。話の流
れはありきたりだが、筆者の卓越した「読ませる力」によって、気づくと読み終わっている。
他にも面白い話が沢山つまっている。独特で、愉快な井伏作品に、皆さんもぜひ触れ
てみて欲しい。
◆◆◆
し
ら
が
〈三組〉
ドストエフスキー『罪と罰』
小尾賢生
この物語は、主人公のラスコーリニコフが老婆の殺人を計画するところから始まる。ラス
コーリニコフは、凡人と非凡人に人間を分けることが出来、非凡人は考えを貫く時に罪を
犯しても良いという考えを持っていた。そして、今回の計画を決行してしまう。見つかりそうにな
りながらも逃亡に成功し、 家に帰る。他人に警戒しながらも朝を迎えると、友人のラズミー
ヒンが訪ねてくる。その後、ラスコーリニコフは熱病にかかるがラズミーヒンとその友 人のゾ
シーモフによって助けられる。
ラスコーリニコフが熱病にかかってからしばらくたつと、彼の家に妹のドゥーニャと母のプリ
ヘーリヤが訪ねてくる。そしてドゥーニャと弁護士のルー ジンが結婚すると知り、ラズミーヒン
と共にルージンが悪人だと証明する。これにより、結婚はなくなり、ルージンから恨みを買うこ
とになった。
やがてラスコーリニコフは家族と友人に警戒を抱くことに疲れ、ラズミーヒンに家族を任
せていなくなってしまう。ラスコーリニコフはラズミーヒン達 と別れた後、知り合いのマルメラ
ードフの娘であるソーニャと出会う。そして、ラスコーリニコフはソーニャと親しくなる。そのこと
を知ったルージン は卑劣な工作を行い、ソーニャを窮地に立たせる。ラスコーリニコフはソ
ーニャを助けることに成功した後、ソーニャに自分の罪を告白する。ソーニャ はラスコーリ
ニコフに自首するよう勧めるが、ラスコーリニコフはまだ戦うことを誓う。
一方、ラスコーリニコフが事件の犯人ではないかと疑い、さまざまな手段でラスコーリニ
コフを追い詰めるペトローヴィチが登場する。これにより、ラスコーリニコフはペトローヴィチと
戦いながら生活していくことになる。
また、ラスコーリニコフの罪の告白を聞いてしまったスヴィドリガイロフも登場する。スヴィドリ
ガイロフはドゥーニャに恋をしている上、ラスコーリニコフのように自分に罪の意識を持ってい
る。やがて、スヴィドリガイロフはドゥーニャに愛の告白をするが、その際にラスコーリニコフの
罪を話して 嫌われてしまい、彼は自殺をしてしまう。これにより、ラスコーリニコフは妹であるド
ゥーニャに犯した罪がばれてしまう。
果たして、ラスコーリニコフはどうなってしまうのか。ソーニャに言われたように自首するの
か、ベトローヴィチにつかまってしまうのか、スヴィドリ ガイロフのように自殺をしてしまうのか、
ぜひ読んで確認してほしい。
◆◆◆
『タイム・マシン』
木目田賢一郎
この本には「タイム・マシン」の他に「水晶の卵」「新加速剤」「奇跡を起こした男」「マジッ
ク・ショップ」「ザ・スター」「奇妙な蘭」「塀についた扉」「盗まれた身体」「盲人国」の合計
10 個の話がある。この 10 個の話の作者はハーバート・ジョージ・ウェルズである。
「タイム・マシン」はタイム・マシンを作った男が未来に行き、エロイとモーロックという2つの
種族にわかれた未来の人類を知る。そして自分がいた時代に戻る前に未来へと行き、地
球が終末へと進んでいく過程を見ることになる。また、解説によると「タイム・マシン」の未来
は人類の最盛期を過ぎ、退化していく様子をかいた小説であるらしい。
「水晶の卵」は不思議な水晶を持った人がその水晶を他人の手に渡さないようにする話
である。
また、「新加速剤」は加速剤」加速剤を作り、飲んだ2人の行動が描かれている。「奇跡
を起こした男」には超能力を手に入れた男がその超能力をどう使ったかが描かれている。
「盗まれた身体」は精神が身体からでて、他の人の精神に身体を奪われてしまった男の話
である。
ここのようにこの『タイム・マシン』にある話は「マジック・ショップ」や「ザ・スター」なども異常
な状況での人の行動について描かれている。
◆◆◆
『幕末百話』
久米遼大
幕末と言えば「維新が行われ、政治や人々の暮らしなど、様々なものが変わっていった
激変期」というイメージが有ります。今回は、そんな幕末の動乱期の日本社会を人々が語
る実話集、『幕末百話』を紹介したいと思います。
まずは,この作品の概要を紹介したいと思います。
明治も半ば過ぎたころ、この作品の著者である篠田鉱造氏(1871-1965)は、幕末の
古老の話の採集を作ろうと思い立つ。廃刀から丸腰、ちょんまげから散切り頭、士族の商
法、殿様の栄やく、お国入りの騒ぎ、辻斬りの有様、安政の大獄、安政の大地震......。幕
末維新を目の当たりにした人々の話、想像もつかない面白いことずくめでした。激変期の
日本社会を庶民が語る、実話集です。
この短篇の中で、特に面白かったものを一つ紹介したいと思います。
生涯に、八十一人を斬った,岡部という男がおり、その男は、人を斬るのが飯より好き
で、新刀を求めると七人を斬らねば本当の斬れ味が解らないと言っていたほどだ。
ある日、岡部は、馬場湯へ行ったが、湯銭を払わないので、「払って欲しい」といわれ、
その日は無難に帰り、何か意趣返しをしようと考えたが、人でも斬ろうという男の考えは別
だ。その夜小塚原へ赴き、死罪囚の死体を掘り出し、その腕を一本切り取って帰宅に及び
これを銭湯へ入れてやろうという悪さ、湯屋こそたまらない。その腕は長過ぎるというので、
手首だけに斬って、それを手ぬぐいでクルクルと包んで、翌朝馬場湯へ何食わぬ顔をして
往き、朝湯へ入ったがまだ2、3人しかいない。その内に土地柄とて侠気な神田っ子達もは
いりにくる。岡部は例の手首を中に沈ませて大急ぎで登って服を着ていると、「手首が浮い
ている!」という声が湯から聞こえてくる。
「本物な訳無い」と投げ出したものもいるが、疑う方なき人間の手首であったので、大変
だと一同青くなって騒ぎ出した。岡部はこれを見済ましてワザと驚いた振りをして、「縁起でも
ない、怖いこった」といいつつ溜飲をさげて帰ってしまった。この事が評判になって、馬場湯
は化け物湯とよばれ、一時さびれたそうだ。
しかし、その事は応報の数に漏れないのか、この人かく豪胆で無茶であったが、ちょうど
松坂屋の土蔵のうらのところで按摩を斬ったときに、きりそこなったため、按摩が「目の見え
ぬものを、斬ったな、お前の家へ祟ってやるぞ」と悲しい声を放った。その声が耳を離れない
で、ついに病みつきになり、死にましたが、いや一種人殺しの癖とでも言うのでありましょう
か。
この話は、岡部という殺人者の話でしたが、このように、『幕末百話』は、人斬りや、幽霊
や、お国入りなど、どれもおもしろおかしく、素晴らしい話ばかりが詰まった短篇集です。短
篇集で、とても読みやすいので、是非、読んでみてください。
◆◆◆
森鴎外『最後の一句』
原文聖
この作品は、大阪で新七という男を船頭として雇い、自らは大阪にいて運送業を営んで
いた桂屋の太郎兵衛の子ども達と大阪奉行所の役人との会話を中心に描いている歴史
小説である。
桂屋太郎兵衛はいつも正直に商売をしていたが、あるとき魔がさしたのか、新七とともに
詐欺まがいのことをしてしまう。そしてそれが露見し、奉行所から死罪の判決を受ける。
太郎兵衛の妻は、夫が「災難」に遭って以来夜も眠れず情緒不安定な日々が続いて
いた。そして、夫の死罪を自分の母から聞いた日、太郎兵衛の五人の子どものうちの長
女、いちがその事実を知ってしまう。母からは「父は遠くへ行って帰ってこない」と聞かされて
いたにもかかわらず。
その夜、いちは父をどうにか救おうと一計を案じる。それは、自分達太郎兵衛の子どもを
太郎兵衛の代わりに処刑してくれと直訴することだった。いちはその夜のうちに直訴状を書き
上げ、朝一番に次女、長男とともに大阪奉行所へそれを持っていった。最初は門番に門
前払いされるが、いち達はめげずに粘り、するとついに直訴状を受け取ってもらえた。
その直訴状は西町奉行の佐々に渡された。佐々はこの内容が嘘かもしれないと思い、
太郎兵衛の五人の子ども全員を白州に引き立てることにした。
ここからがこの作品のクライマックスである。まず佐々は拷問道具を白州に並べ、五人の
子ども達とその母を尋問した。全員に尋問した後、佐々はいちに「お前達は父に会えずに
殺されることになるが良いのか」と聞く。いちは「よろしゅうございます」といい、少し間を置いて
から「お上の事に間違いはございますまいから」と冷ややかな目で言った。
その言葉を聞いた役人達は、いちの言葉に献身の中にある反抗を感じ、ずっと胸を刺さ
れたかのようだったという。
結局大嘗祭という天皇家の祝い事が理由で太郎兵衛は追放に処されるだけで済ん
だ。
この話からは、いちのお上に対する憤りが、献身という建前のうちに隠されて伝わる。最
後の一句から。
◆◆◆
〈四組〉
『こころ』
有安建人
「こころ」は、夏目漱石の代表作となる長編小説だ。1914年に岩波書店から出版され
て以降、名作として読まれ続け、今では「こころ」を知らない人の方が少ないだろう。
家族からの勧めもあり、僕は「こころ」を読んでみることにした。
主人公の「私」は鎌倉で「先生」と出会い交流を深めるようになる。「先生」は、妻の
「静」と2人で暮らしていて、人との付き合いはとても少なく、終始静かだった。
「先生」は月に一回、墓参りに雑司ヶ谷へ出かけている。よほど思い入れがあるのか、
誰の墓なのかは言わず、同行するのも拒否された。
また、「静」の話によると「先生」が大学にいた頃、大変仲の良い友達が死んでしまった
らしい。それ以降、「先生」は変わってしまったという。死因や動機などの詳しいことは「静」も
知らされていないらしい。
「私」は大学卒業後、病気をしている父親を心配して、帰郷することにした。
もういつ死んでもおかしくない父親を病院でかかさず看病する日々。そんな中、ある一通
の「先生」からの手紙が届いた。読んでいくと、ある一句が目に入ってきた
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世に居ないでしょう。とくに死んでい
るでしょう」
この手紙は「先生」の遺書だったのだ。
遺書には、「先生」の過去の出来事が細かく記されており、それは「先生」の不可解だっ
た行動を理解する糸口となった。
「先生」は大学に入学するために上京した時、「お嬢さん」(静)の家に下宿させてもらうこ
とになった。次第に「お嬢さん」に恋心を抱くようになってきた頃、大学の同級生で親友の
「k」も下宿するようになる。
ある日、「先生」は「k」から「御嬢さん」のことが好きであることを打ち明けられた。
先を越されてはならないと思った「先生」は「お嬢さん」と結婚の約束をする。すると、それ
を知った「k」が突然自殺してしまったのだ。
死んだ理由を僕はこう考えた。信頼していた「先生」に裏切られたうえ、恋人まで失い、あ
まりの孤独さに耐え切れなくなって、死んでしまったのだと思う。
「先生」はこの事件を「お嬢さん」には偽って伝え、「自殺」であることを告げなかった。その
後、「k」の墓参りを続け、世間と関わりもしなくなった。
明治天皇の崩御時、自殺を図った。「先生」が死んだ理由も同じようなものなのだろう。
「k」を裏切り、自殺においこませた「先生」には信頼できる人がいなくなっていた。次第に孤
独に耐え切れなくなり、自殺を図ったのだ。
「こころ」は読者の心に疑問や引っ掛かりをあたえる。細かい動作や言葉尻から、読者
は何かを感じるのだ
「k」が死んでいるのを、「先生が発見する時の場面で、「襖が少しあいている」と書かれ
ている。ここから、僕は「k」は自殺する前に「先生」のことをじっと見ていて、「先生」に対する
憎しみと寂しさを感じながら、死んだと予感した。
また、「k」の死をみんなが悲しんでいる場面における「私の胸はその悲しさのために、どの
くらい寛いだか知れません」という表現からは、僕は「先生」の「k」の死に対する悲しみはど
うだったのだろうかと考えさせられた。
そして何より、「先生」がこのような過去のつらいことを、鮮明に記憶し手紙に著しているこ
とだ。ここから僕は、数十年間ずっと「k」の死を考えてきた「先生」の深い苦悩を感じた。こ
の苦悩から逃れるためには、手紙と自殺しか手段がなかったのかもしれない。
「先生」と「k」が自殺した理由について僕と他の人では全く違う答えを持つのかもしれな
い。それが「こころ」が名作として読まれ続けている証だと思う。人それぞれ読んだ後の感想
は違ってくるのだ。それはきっと、自分自身でもいえるはずだ。僕が大人になった時、もう一
度この本を読んだら、また違うことを感じるのかもしれない。
◆◆◆
『こころ』
吉住僚太朗
誰もが心の奥深くに暗い闇を持っている。それをトラウマと言い、その後の人生に大きな
影響を及ぼしたりもする。人の一生は、考え方次第でいくらでも変わる。
「私」が先生と出会ったのは鎌倉へ海水浴に行ったとき。夏休み、友達に誘われ、鎌
倉で遊んでいた「私」は、友達が国に帰った後、見ず知らずの人と交流ができ、先生と呼
ぶようになった。それから、学校の帰りや、休みの日を利用して、先生と度々会ううちに、先
生の心の闇を目の当たりにする。暗い過去を持つがために表に出て活動ができない先
生。不可解な行動が多く、毎月一人で、ある人のお墓参りに行ったり、「私」にいきなり財
産の話をするなど、そんな一面が「私」をより一層、先生の虜にした。
―最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです―
―あなたは本当に真面目なんですか。実はあなたも疑っている。私は死ぬ前にたった一人
でいいから、他を信用して死にたいと思っている。あなたは腹の底から真面目ですか―
―もし私の命が真面目なものなら、私の今いったことも真面目です―
このような言葉や会話から先生の闇が窺える。「私」はそんな先生の行動の理由や闇を
知りたいと考えるようになる。そうすると、先生が、「私」の真面目さを認め、いずれ、教えるこ
とを約束する。そんな中、父が急病のため国元へ帰ることを余儀なくされる。そこで、明治
天皇、乃木将軍らが共に亡き人となり、「私」と父に死を強く意識させた。大学卒業後、ま
た国元へ戻り両親へ卒業を報告した。職を探す際に先生に手紙を出したら、帰ってきた手
紙は予想を遥かに超えていた。それは、遺書だった。先生に信用され、明かされた奥さん
へも話すことのできなかった心の奥深くに潜む暗い闇が全て綴られていた。「私」は死を目
の当たりにしている父からはなれ、先生の元に向かった。だが、「私」がこの手紙を読む頃
には、既に先生は、自分のせいで死に追いやった友人、明治天皇、乃木大将を追って、
この世を去っていた。
「私」の話した「真面目」の素顔とは何なのか。そして、死を知らない「私」の父の死に対
する軽さ、そして、甘さ。先生の心の闇とは一体どのようなものなのか。夏目漱石の美しい
文章が、孤立し寂しく生きる近代人の乾ききった心に問いかける。「真面目」とは。死とは。
そして、「こころ」とは。夏目漱石の代表作。
◆◆◆
『坊っちゃん』
内山貴裕
「坊っちゃん」は言うまでもなく夏目漱石の名作の一つである。読んだことがある方も多い
のではないだろうか。
「親譲りの無鉄砲で……」という有名な冒頭から始まるように、この物語は正直で単純
な主人公の幼少期から中学の教師をやるまでを描いた物語である。
なんといっても面白いのは、主人公が単純であるが故に周りの教員たちのドロドロした世
界に巻き込まれ、翻弄されながらも正しいと信じる行動を行いつ続けることだ。全体的にみ
るとこの作品は教頭と校長対主人公と一人の数学教師という形になっていて、教頭の行
いによって迷惑している主人公らが庇い、自己犠牲を顧みずに教頭の弱みを握り、対決
する。僕は何と言っても主人公のこれほどの覚悟の大きさに感動した。主人公は教頭の差
し金で学校から去らせるようなことを何度も起こすが、主人公は耐えて最後まで耐え抜く。
それと、主人公の心のもう一面として、身内で一番やさしくしてくれた清という年配の下人
への甘えがある。両親や兄からは全く可愛がられなかったが、清からはとっても可愛がられ
ており、中学は清の住むところから離れているからか、中学の教師になってからは強く会い
たがっていて、ほんとうの親のように心を許している。中学に旅立つときには泣きそうになり、
久々に再会した時には涙の再会となっている。やはり身内で唯一優しくしてくれた清は主人
公の心の大きな部分を占めており、清のために主人公が動くこともたくさんある。このように清
はとても重要な人物なので、注意して読んでほしい。
「坊ちゃん」」は有名な小説だが、読んだことがないひともいると思う。それに、読んだこと
があるひとでも、もう一度、各人物に注意したり、主人公の気持ちを想像して読んでほしい。
◆◆◆
「無思考」の恐怖
大澤悠翔
僕は今回ジョージ・オーウェル作の「動物農場」を読んだ。まず話のあらすじを書こう。
舞台は人間であるジョーンズさんが経営する荘園農場。そこで飼われている豚、メージャ
ーじいさんは自分達の立場の悪さを指摘し皆に「反乱」をいつか起こすべきだと語った。そし
て、偶然「反乱」が成功し動物たちは荘園農場を動物農場と改名しメジャーじいさんの後
継者であるスリーボールとナポレオンを中心に農場を経営していく。農場の経営は最初こそ
皆の意見を取り入れていたが段々と豚が中心となっていく。さらに意見の対立が原因でナ
ポレオンは強い犬を使ったクーデターを起こしスノーボールを追い出して、独裁者となる。独
裁者となったナポレオンは恐怖政治を始め最後には動物農場の経営者になり動物農場の
名前も荘園農場に変えてしまう。
「動物農場」のあらすじはこの様なものだ。ここで僕が気付いたことはこの話にはたくさんの
比喩がふくまれているということだ。例えばナポレオンの配下である犬は明らかに軍隊を表し
ている。その後詳しく調べることでこの話はソ連のことを表しているとわかった。メジャーじいさ
んは革命の創始者であるレーニンを、ナポレオンはソ連の独裁者であるスターリンを表してい
るそうだ。
次に僕が考えたことを書きたいと思う。なぜ動物農場は独裁者を生み出してしまったのだ
ろうか。僕は豚以外の動物が「無思考」だったからだと思う。最初から他の動物はほとんど
自分から意見を出さず豚の意見に賛成か反対かを示すだけだった。そのせいで豚が私利
私欲に走り出した最初の段階でも自分の頭で考えて意見を発表し豚達の横暴を止めると
いうことができなくなってしまったのだ。
「無思考」の怖さは動物農場の中だけの話ではないと思う。例えば政治の世界でも自
分で考え意見を発表することがなければ動物農場の様に独裁者が出てきたり、まったく政
治が動かなくなってしまうだろう。さらに身近な例を上げるなら麻布の自治についても同じこと
が言える。今の麻布は皆「無思考」になっているのではと少し思う。中二の学年集会は学
年全員で三百人もいるのに出席者は三十人位だった。これはかなり危険だと思う。今すぐ
にでも「無思考」を直した方がよい。
◆◆◆
『透明人間』
太田
圭
一度くらい透明人間になってみたいとおもったことはありませんか。
この本は透明人間になった男の人の話です。寒くわびしい二月の上旬のある日、村に全
身を服で隠した怪しい男がやってきた。その男は暖かい部屋に入っても外套や帽子をして
いて、誰かが部屋に入ろうとすると必ずマフラーを深く巻いて顔を見えなくするという変な男
だった。
実はその男こそ自分の研究で開発した薬によって透明人間になってしまった男だった。そ
の男は元に戻る薬を作るためにその村に来た。だが、男は透明人間なので周囲の人にば
れるわけにはいかなかった。そのため服を着込んでいたがそれが原因で村で問題を起こし
ていく話です。
この話にも少し書いてありますが透明人間は便利なだけではありません。外を出歩くときは
服を着込むか、裸で出かけなくてはいけません。そうするとはだしで足が痛かったり、外が寒
いときは風邪をひいてしまいます。ほかにも自分でも手足の場所がわからないため物をつか
むのに苦労したり階段を上るのも足が見えないので、階段を踏み外しそうになったりして大変
ですほかにもまだ消化し終わってないパンやチーズが浮いているといったリアルな描写もあ
って面白いと思います。
このようにデメリットもある透明人間ですが一度くらいは僕も透明人間になってみたいと思
いました。
◆◆◆
『江戸川乱歩短篇集』
川崎哲太
では、紹介文を書いていくわけだが……いきなり壁にぶつかった。
何を隠そう、僕が今回、紹介文を書く上で選んだのは「江戸川乱歩短篇集」だ。あの、
乱歩である。乱歩といえば当然、言わずと知れた推理小説家である(この時の僕の中で
は)。つまり、恐らく収録されている小説の多くは推理小説である。
「推理小説のネタバレ」は僕のポリシーに反するところなので、この紹介文は一気に難易
度が上がってしまった。まあ、とりあえず書いていくとしよう。
さて、先ほど「乱歩だから推理小説」といった意味のことを言った。しかし、その認識は大
きく間違っていた。
事実、いわゆる「推理小説」の類は短篇集全体のおよそ半分程度で、残りの半分は何
とも奇怪なものたちだった。そして、その推理小説以外の半分の内のさらに半分、つまり全
体の四分の一程を占めるのが、この本の解説者の言葉を借りるなら、「犯罪小説」と呼ば
れるものだった。
犯罪小説とは、物語の中で犯罪が起き、探偵が登場することなくそのまま完結するとい
うものだ。推理小説が好き(というか探偵が鮮やかに事件を解決していくのが好き)な僕とし
ては、この種類の小説は物語が起承転結の「転」で終わっているような感じがしてあまり好き
になれない。
また、そんな乱歩の推理小説以外の小説には、僕には理解出来ない、不思議な、本
当に不思議な世界を紡いでいるものがいくつかある。その作品たちは短編の中でも特に短
いものが多いにも関わらず、僕にとても強い印象を与えている。そして、そんな不思議な世
界を持つ作品の一つは「乱歩の最高傑作」と呼ばれていると言う。残念ながら、僕の読解
力ではその作品から「最高傑作」と呼ばれる程の魅力を導き出すことは出来なかったが。
さらに、乱歩の作品には、鏡を主題に据えたものがいくつかある。鏡の魅力に憑りつか
れ、発狂した男の物語、望遠鏡で異世界に旅立った男の物語、など、それらの物語の数
々は、乱歩自身の鏡への畏怖の念からきているのかもしれない。鏡を使ったトリックを扱った
推理小説には乱歩本人が登場人物として出たくらいだ。
さて、この紹介文を書き終えて、僕はこの本をまだまだ理解出来てないということが分かっ
た。それは、初めにも言った通り、僕が乱歩という小説家を推理小説家だと決めつけて読
んでいたからだろう。
では、乱歩を推理小説家として決めつけず、ジャンルに縛られない一人の小説家として
見て、この本をもう一度しっかりと楽しんでこようと思う。
◆◆◆
『トロッコ』を読んで
神足 光春
「トロッコ」は、主人公の良平が八歳のとき、小田原から熱海あたりで経験したことについ
ての話である。「トロッコ」の著者 芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」や「羅生門」など誰もが一
度は聞いたことのある名作を書いた。「トロッコ」も名作に違いないだろうと思い、僕はこの「ト
ロッコ」を選んだ。
「トロッコ」が書かれたのは、大正十一年の二月で、「トロッコ」の作品内でも二月の初め
という設定になっている。「主人公の良平が八歳の時」と書いたが、八歳というと小学三
年から四年で、当たり前だが知識は僕より劣る。「トロッコ」では良平自身の目線で書かれ
ているので分かりやすい。
良平が、弟と弟の友達を連れてトロッコを見に来たのは、トロッコに対する興味、すなわち
好奇心によるものである。僕から見れば、トロッコというと古い、あまり見かけなく珍しいという
印象だが、興味を持つほどではない。遊び道具が少ない昔の子供は、何物にも興味を持
つ好奇心が、今の子供より高いのだろう。ただ、乗り物となると、僕も小さいころ興味を持っ
たことがあるので、その点ではトロッコに興味を持つことは不自然ではないように思う。
良平たちは、土工がいないのをいいことにトロッコに乗り、後から来た土工に怒られてしま
う。一時はトロッコに近寄らなくなったのだが好奇心、トロッコに乗ってみたいという気持ちに
なり、トロッコを見に行く。この時、良平一人だけだが、弟たちは怒られたことで近づかなくな
った。好奇心より、恐怖心が勝ったのだろう。しかしながら、良平は好奇心が勝った。
トロッコを押している土工に良平は声をかけている。普通だったら怯えてしまうが、良平は
「親しみやすい気がした」と思っている。子供は大人の気持ち、考えを探るのがうまいとどこ
かで聞いた覚えがある。これもそうなのかもしれない。
良平は土工とトロッコを押していくうちに、もう押さなくていいと言われることを恐れている
が、その後もう押さなくていいと言ってもらえないかと念じるようになる。これは、二つの事が関
係していると思う。一つ目は、家から離れすぎてしまったこと、二つ目は日が暮れ始め、暗く
なってきたことだ。夕方になると、夕焼け小焼けのメロディーが流れ、帰宅を促すが、当時
はそんなものはない。よって、気づいたら暗かったなんてことが多かったのだろう。そこに、家
から遠いということが加わり、良平は心細くなっている。
来た道を戻る良平は、暗い森を見てさらに心細くなっている。暗くなり始めた森は非常に
怖い。僕も、家の前にある原っぱの木は小さいとき怖かったのを覚えている。
良平は家を見たとき少し泣きそうになる。緊張の糸が切れると安心して泣きそうになってし
まうことはよくある。
良平は現在、東京のある会社に勤めている。ふと思い出すこの出来事を良平は今の自
分と重ね合わせている。僕は、頑張って走り続け困難に打ち勝つという良平を暗示してい
ると思う。もしかすると道に迷い、家につけない良平がいたのかもしれないが、ここでは単純
に走り続け、家につき、困難に打ち勝った良平を表していると思う。 この「トロッコ」の良い
点は、常に良平の目線から物をとらえている所だ。当事者自身の目線から「トロッコ」を読
めるため、分かりやすかった。
◆◆◆
『蜘蛛の糸』の紹介
佐藤佑真
蜘蛛の糸は、大正文学の中心作家の一人である芥川龍之介が書いた有名な作品で
ある。
この話は、お釈迦様が天国にある蓮池から地獄を見下ろす場面から始まる。お釈迦様
は地獄にいるカンダタという男の善行を思い出しカンダタに蜘蛛の糸をたらした。しかしカン
ダタは、そのチァンスを自分ノエゴイズムにより台無しにしてしまった。お釈迦様は、その様子
を悲しそうに見ていたという所で終わる。
この話は、「いいことをすると自分に返ってくる」という教訓が描かれている。僕は、この教
訓は、間違っていると思う。なぜなら今まで生きてきた中で人にいいことをしても半分は、自
分にとって悪い方向になって返ってきたからだ。悪いことをすれば必ず自分に悪い方向に
返ってくるのにいいことをしてもいい方向に返ってこないのは、本当に残念な話だと思う。あ
なたもこの教訓について考えてほしい。
僕は、正直本を読むのはあまり好きではない。たくさんの文字が並んでいるのを見るだけ
で読むのがおっくうになってしまう。でもこの本は、5分程度で読めてしまい内容も簡単でおも
しろいので僕のような人でも本が好きになるきっかけになると思う。本があまり好きではない
人なんかはぜひこの本をよんでみてほしい。
◆◆◆
『破戒』を読んで
篠崎慎一郎
「我は穢多なり」
穢多とは、日本においての身分制度のひとつで、士農工商に分類されない最下層の
身分を意味する蔑称である。平安時代までに始まったとされ、江戸時代に確立され、呼
称は明治時代に廃止された。穢多という言葉をもって身分差別されていた部落民を解放し
て、平民と同じ地位につける解放令が出たが、表面的なもので形式的であり、市民的権
利を保障する行政処置はなかった。
主人公の瀬川丑松は、穢多であった。しかし、その父親が、子供のことを思い周囲には
穢多であることをひた隠しに隠し、丑松にも絶対に周囲にさとられないようにと言い聞かせて
いた。
一方、猪子廉太郎は同じ穢多で思想家であった。著書に自ら穢多であることを書き、そ
れを知られることをはばからなかった。同じ人間なのに、差別される道理はないと思ってい
た。丑松は、そんな廉太郎を慕い、なんども自分も穢多であることを告白しようとしたが、この
社会から捨てらたら、なんとも情けない。放逐されれば、一生の辱めである。自分はまだ青
年だ。望みもある。願いもある。野心もある。捨てられたくない。いつまでも、世間の人と同じ
ようにして生きていきたい。と言う考えが頭をよぎり、なかなか告白に踏み切れなかった。文
頭のたった6文字の文章が、どんなに重い言葉なのかがわかる。
廉太郎が支援している弁護士が選挙に出馬することになったが、廉太郎は、反対者か
ら刺殺された。それを知った丑松は、最後まで穢多であることを恥じることも無く正々堂々と
生きていた廉太郎をうらやましく思った。なぜ、穢多ばかりが、普通の人間の仲間入りがで
きないのであろう。なぜ、穢多ばかりが、この社会に生きながらえる権利がないのであろう。
自分は教師として、生徒達に新しい社会を目指すように指導したかった。しかし、それに立
ちはだかる封建的な社会であった。
「破戒」は、穢多が差別されるという社会の改変を目指す小説であり、穢多は平等な世
界を目指して努力し、ようやく地位を得たのだと思う。
◆◆◆
『山椒魚』
世良裕朝
この本を書いた井伏鱒二(本名井伏滿壽二)は釣りが好きであったため、筆名に「鱒」と
いう文字を入れた。また、作品でも、魚などに関連するものをいくつも残している。
「山椒魚」もその中の一つである。この作品は彼の中学校の池で山椒魚が飼われてい
たことがきっかけで生まれた。
「山椒魚」という作品では、主人公が山椒魚である。その山椒魚が、住み家にしていた
岩の穴にこもっていた。すると、いつの間にか体が成長し、大きくなってしまっていた。外に出
ようとしても頭がつかえて出ることができず、困り果てていた。そんな時、外から一匹のカエル
が入ってきたのである。そこで山椒魚は自分の頭で出口を塞ぎカエルをとじこめてしまうので
ある。カエルは岩穴の天井にあるくぼみに隠れ、山椒魚と口論を始める。その口論は二年
間に及んだ。しかし、不覚にもカエルが嘆息を漏らしてしまう。山椒魚がそれに気づき、口
論が終わり、仲直りするという話である。
実は「山椒魚」には「幽閉」という原題がある。「山椒魚」と違うところは、山椒魚とカエル
が口論をしている場面で話が終わってしまうというところだ。
なぜ「山椒魚」という作品では「幽閉」という作品にカエルとの和解の場面が加えられた
のか、それを彼の人生をもとに想像した。
彼は中学三年生の時に画家を志し、卒業後奈良・京都を写生旅行した。その際、橋
本関雪の知人と出会い、橋本関雪への弟子入りを頼んだが、断られた。その後、文学好
きの兄に勧められ、文学に転向、早稲田大学文学部に進み同学科の青木南八と親しく
なる。しかし、教授と衝突し中退、そこに親友青木の自殺が追い打ちをかけ美術学校も中
退してしまう。そんな、絶望の中書いたのが「幽閉」であった。だから、山椒魚とカエルが口
論をしたまま終わり、これからどうなるのかという不安を表しているのではないかと思う。その
四年後、彼は結婚する。その二年後に書いたのが「山椒魚」であった。岩穴という限られ
た空間から抜け出そうとするもあきらめざるを得ないということを、人生という期間の中では挫
折もあるが所詮そこからは出られないのだということと重ね合わせているのではないだろう
か。
僕はこのように考えた。この作品は主人公が人間ではないので、これといった正しい答え
はないが、それを考えるのも面白いので、是非読んでみてほしい。
◆◆◆
『山椒魚戦争』を読んで
曽我鷹平
ほとんどの生物は、日々争いながら生きている。小さな虫でさえも、食物や縄張りをめぐっ
て争い、時には殺し合うこともある。しかし、人間ほど無意味で醜い争いをする生物は他に
ない。
地理の夏休みの課題で、映画を見て感想文を書くというものがあった。僕は初め、「ホテ
ル・ルワンダ」という、ルワンダ紛争を描いた映画を観た。とても悲しい映画だった。外見は
ほとんど変わらない、同じ国に住む二つの民族が、歴史上の理由で対立し、そしてある
日、一方がもう一方を虐殺し始める。しかも殺すのは軍人だけではない。一般市民が一般
市民を殺すのだ。年齢、性別関係なしに。残酷すぎて、僕はこの映画の感想文は書けな
かった。
しかし、なぜ人間はこれほどまでに醜い争いをするのだろうか。それには、二つの理由が
あると思う。一つは高い技術力だ。もし、銃もナイフもなければ、大量虐殺は起こりえない。も
う一つは、思想・感情を持っていることだ。もしこれがなければ、意見の違いも、相手を憎む
気持ちも生まれない。人類の起こした戦争の原因のほとんどに宗教がからんでいると言わ
れるが、その宗教も生まれないのだ。
この二つは、人間特有の性質だが、もしこれらの性質を、人間以外の生物が持ったとし
たらどうなるだろう。やはり、人間と同じように無意味で醜い争いをするようになるのだろうか。
それを描いたのが、「山椒魚戦争」だ。
作中では、山椒魚は生活圏である海の拡大を求めて人間との戦争になり、洪水を起こ
して人類を征服する。しかし、山椒魚内部の民族の対立から、山椒魚どうしの戦争が始ま
り、ついに山椒魚は全滅してしまう。これは、近い未来、人類が競うように強大な兵器を開
発し、地球を何回も破壊できるような力を持つことを予期して、筆者が発した警告なのでは
なかろうか。これは、この作品が出版されたのは、一九三五年で、世界が戦争に向かって
突き進んでいた時期だったことからも裏付けられる。
ではどうなれば、人間も山椒魚も争うことなく暮らせたのだろう。それには二つのケースが
あると思う。一つはそもそも人間が山椒魚を発見せず、教育して知能をつけさせることもなか
ったという場合だ、これは作中でボヴォンドラ氏が語っていた。だが、この作品は人間が山
椒魚を発見しなければ成り立たないので、これについて追及するのは意味がない。もう一
つは、人間と山椒魚が打ち解け合い、共存するという場合だ。前に、人間が醜い争いを
する理由は、高い技術力と思想・感情だと述べたが、この二つは争いの理由となるだけで
はない。平和への足掛かりともなるのだ。高い技術によって、せまい面積により多くの山椒
魚が暮らせるようにすれば、山椒魚は海の拡大を求めなくなり、戦争の原因もなくなる。互
いに思想・感情を持った人間と山椒魚ならば、相手の気持ちをわかり合い、共存すること
も可能であろう。
このように、人間はむごい戦争を起こすことも、互いに理解し合い共存することもできる。
「山椒魚戦争」では、争うことを選んでしまい、滅んだ山椒魚や人間を描くことで、争いの道
を歩みつつあった当時の人間たちに、このままでは山椒魚と同じ道をたどることになると、警
告していたのだと思う。
◆◆◆
『銀河鉄道の夜』
永久井 駿
「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治によって書かれた童話です。この話は主人公であるジョ
バンニが夢の中で親友カムパネルラと汽車に乗って宇宙を旅するという物語です。その旅
の中でジョバンニは自分自身、また全ての人のための幸福を探そうと決心します。そして、そ
のためには何でもしようと思ったのです。
ジョバンニは汽車の中で様々な人々に出会いました。まず鳥を捕る人です。この人は鳥
を捕って商売しているのですが、その捕り方が現実とは全く違います。次は、男の子と女の
子とその家庭教師の青年に出会いました。その人達は乗っていた船が沈んでしまいました
が男の子と女の子の母が亡くなっていたため、三人で死んだほうがこの子供たちのためだ
ろうと青年は思い、死にました。そして、再びジョバンニとカムパネルラは二人になりました。
カムパネルラは自分の母親に会うために今までに出会った他の人々と同様にして消えてし
まいました。ジョバンニはとても悲しみました。しかし、消えていった人々は自分や家族などの
ために消えていきました。そして、ジョバンニは幸福を探し求めようと決心したのです。
やがて、ジョバンニは目を覚まし、川に向かうとそこに人だかりができていることに気づきま
す。カムパネルラが川に落ちたのです。人々はもう駄目だとか、ひょっこりあらわれるのでは
ないかと思っていました。ところが、ジョバンニは、カムパネルラは銀河のはずれに行ってしま
ったような気がしていたのです。ジョバンニは、孤独になってしまったように思えて、とても悲し
い気持ちになりましたが、カムパネルラが何かを幸せにしようとした分まで、自分が何かを幸
せにしようと思いました。ジョバンニは誰かのために幸せを探し求めるということをより強く決心
しました。
宮沢賢治はこの物語を通じて、自分自身の理想的な姿を描いたのではないかと思いま
す。僕も全ての人の幸せのために行動していきたいです。
◆◆◆
『銀の匙』
楢葉大誠
僕は「銀の匙」という本を読んだ。本の名前は全く知らなかったので最初はどういうものな
のかとても気になっていた。
ある日、主人公は書斎から引き出しにしまってあった小箱を見つける。その中に珍しい形
をした銀の匙があった。その銀の匙は主人公が小さいころ、脾弱でできものだらけだった自
分を産後の具合の悪い母に代わって伯母が薬を飲ませてくれていた匙であった。そして、
主人公が伯母との少年のころの思い出を書いている。
僕はこの本を読んで感じたことは、病弱で外に出るときは必ず伯母にくっついていくとき周
りの子供たちがいじめてきて悲しい思いをして帰って、そしてまた伯母と二人きりで遊ぶという
ところがとてもかわいそうだと思った。しかし、後に神田から山の手に引っ越してきて少年も大
きくなって周りの子供たちと遊び始めるようになる。そこが少年の成長だと感心しました。
少年はすくすくと大きくなって十七の時、友達の家の別荘にすごすことになった。そして突
然友達の姉が別荘に二三日泊まることになった。友達の姉は非常に美しく主人公が、思
い出そうと思っても思い出せない夢のような人だということがわかる。そして主人公は友達の
姉と別れるときに二回涙を流した。一つは、もう会えないのに挨拶する事さえもできなかった
という後悔の涙、もう一つは洋菓子の甘い匂いをかいで友達の姉との思い出を思い出し、
別れが悲しくなったからだと思った。
最後に僕がこの本を読んで全体的に思ったことは、主人公の言動や思っていることや、
相手の表情がとても詳しく分かりやすく書かれていたので、自分が少年になって今とは違う
もう一つの世界が楽しめることができたと思う。ぜひこの本を読んで、もう一つの少年時代を
味わってほしいです。
◆◆◆
中勘助『銀の匙』の紹介文
藤村柊吾
僕の読んだ「銀の匙」という作品は、「それまでにない方法で子供時代の思い出を美しく
描写している」と夏目漱石に高評価された、作者の自伝的小説である。
主人公である「私」は、生まれた時から体が弱く、母も出産の後体が弱っていたので、
伯母さんにとても大事に育てられる。伯母さんと、黒塗りの土製の子犬と丑紅の牛だけが
友達で、同世代の友達はなかなかできなかった。
やがて、神田から小石川に引越すと、伯母さんの知恵で、おとなしく体の弱いお国さん
という友達ができ、仲良くなる。二人は小学校に通い始める。「私」は当初、小学校に通う
ことを嫌がっていたが、伯母さんの仲介によってなんとか行くようになった。
お国さん一家が引越してしまうと、お恵ちゃんとよく遊ぶようになる。学校での勉強につい
ていけない「私」はお恵ちゃんに「びりっこけなんぞと遊ばない」と言われてショックを受けた。
その日から「私」は予習復習をしっかりやって、勉強ができるようになり、相撲、旗とりも強くな
り、立派な餓鬼大将となった。
しかし、お恵ちゃんの父が亡くなってしまい、一家は故郷へ帰ってしまう。ここまでが前編
である。
後編では、戦争により学校でも軍事教育が始まり、デリケートな「私」はこれに拒否反応
を示し、同級生や先生を軽蔑し困らせる。この時にはもう泣き虫で臆病だった幼少期の面
影はなく、「自分」が確立されていたのだと思う。
しかし、デリケートで悩みの多かった「私」は京都の大好きな伯母さんのもとを訪ねた。そ
の後間もなく伯母さんが亡くなってしまった時、「私」は深い悲しみを覚える。
十七歳の夏のある日、「私」は友達の別荘に一人でいたところ、たまたま訪れてきた友
達の美しい姉に会う。しかし、面と向かってはあいさつもできず、その姉が去ると、別れのあ
いさつもできない自分が悔しく、涙を流した。
ここで物語は終わっている。
ふがいない自分を恥じ涙を流す所で、「私」の成長がうかがえる。
自伝的小説ということで、寡作である中勘助の人物像が垣間見れる貴重な作品であ
ると思う。
◆◆◆
『歯車・或阿呆の一生』
宮嶋優大
「歯車」は、芥川龍之介の代表作の一つで、自死の直前に書かれ、死後一九二七年
に発表された最後の短編小説である。
小説家であった主人公は、目の中でたびたび半透明の歯車が回って視野がふさがれ
てしまう。暫くすると、その歯車は消えて代りに頭痛がする。主人公は芥川自身だろう。
ある日、主人公は知り合いの結婚披露式に出席するために鞄を一つ下げて自動車に
乗る。乗り合わせた理髪店の主人から妙な話を聞いた。それは、昼間でもレインコートを着
た幽霊が出るという話だった。その後、電車の待合室で主人公は、レインコートを着た男に
会ってしまう。それからも、行く先々で何度もその男をみかけた。レインコートを着た男は一体
何者なのか。目の中にたびたび現れる歯車は何を表しているのだろうか。推理小説のよう
に読み進めていく。死を感じさせる無気味な現象と、精神を病んでいる主人公の不思議な
幻覚が表れた奇妙な作品だ。
「或阿呆の一生」も、芥川龍之介が晩年に書いた遺作である。芥川の友人に向けた
遺書のようなものだ。芥川自身の何気ない出来事や感情が、五十一の短い文章で書か
れている。芥川の日常が見えてくる。僕が一番印象に残ったのは、三十三の「英雄」であ
る。この中の一つの詩を紹介したい。
誰よりも十戎を守った君は、
誰よりも十戎を破った君だ。
誰よりも民衆を愛した君は、
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上がった君は、
誰よりも現実を知っていた君だ。
君は僕らの東洋が生んだ
草花の匂いのする電気機関車だ。
この詩は芥川にとっての英雄を書いている。僕はこの英雄は芥川の理想だと思う。芥川
は理想が高すぎたために死を選んだのだろう。
◆◆◆
『人間失格、グット・バイ、』他一遍の紹介文
渡邊大祐
この本には太宰治が最晩年の昭和二十三年に執筆した「人間失格」、「グッド・バイ」、
「如是我聞」の三篇がのせられている。
「人間失格」は太宰治の代表作である。話は人間の生活を理解できず、悩む葉蔵の三
つの手記と小説家の「私」の「はしがき」、「あとがき」から構成される。「はしがき」では「私」
から葉蔵の不思議な顔の写真が三枚示され、それぞれ三つの手記に対応しているよう
だ。「第一の手記」では葉蔵の幼年時代を中心に、葉蔵は人間生活が理解できず人を
恐れていること、道化を使うことで人とつながっているという葉蔵の真の姿が語られる。「第
二の手記」では葉蔵の中学高校時代での思い出や女との自殺について語られる。中学
では道化をクラスメイトに見破られ苦悩する。上京し高校に入学するも上手いかずに酒と煙
草と淫売婦と左翼思想に出会い没頭する。しかし次第に疲れ女と自殺し、自分だけが助
かる。「第三の手記」ではその後の二人の女性との生活や帰郷した後の生活が語られる。
女性とその娘と同棲するが、迷惑で不幸にすると考え、抜けだす。飲酒を楽しみとする生
活の中でヨシ子に出会い、心の美しさにひかれ結婚し大きな歓楽を得る。しかしヨシ子の
信頼の強さが災いしヨシ子とその信頼が汚されると麻薬中毒になり病院へ入院。父の死
後帰郷し手記は終わる。「あとがき」では「私」が手記を手にした経緯が話され、葉蔵を知る
マダムの「私たちの知っている葉ちゃんは(中略)神様みたいないい子でした。」という言葉
で終わる。葉蔵の人間への恐怖は次第に少しずつ弱くなるが、ヨシ子がおそわれてからは
逆に底知れず強くなってしまった。このように「救い」がないのが葉蔵の不幸さのように思う。
唯一のたのみの美質さえ、「世間」にうばわれてしまったのだ。僕はこれを読んだとき、葉蔵
がきらいだった。しかし人や世間に恐怖しながらも道化によってこれに近づこうと努力したの
は葉蔵ではなかったのか。それに殻を閉ざし逆に痛みつけ、欺いたのは自分達世間ではな
かったのかと思った。葉蔵が努力し続けたのは最後のマダムの言葉にも表れているように
思う。
「グッド・バイ」は未完のまま作者が自殺したため絶筆となっている。家庭を持つ男が愛
人と別れるためにヤミ屋の女と愛人を訪問するという内容で「人間失格」とは一変して明る
い雰囲気になっている。最後にはなんと自分の女房にグッド・バイされるという構想であった
らしい(解説より)。作者自身の言葉ものっており、「別離の傷心は深く、私たちは常に惜別
の情の中に生きている。(中略)さまざまの別離の様相を写し得たら、さいわい」としているが
作品中で別れたのは一人だけだった。男の愛人への律儀さや、女へ次第に丁寧になる
様子が面白く楽しかった。
「如是我聞」は「自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを(中略)書
いて行かねばならぬ」という言葉の通り痛烈な評論である。これも連載四回で未完となっ
た。志賀直哉を名指しで批判するものもあったり、内容も「私達には、自殺以外ないように
実感」などと過激なものも多かった。うち三回は自らの先輩にあてたものだった。「若いもの
の言い分も聞いてくれ!考えてくれ!弱き、苦悩は罪なりや」という言葉からは必死さや苦
悩する作者が思われ、強い説得力を持つように思った。
◆◆◆
〈五組〉
『李白詩選』
大久保 和
僕は岩波文庫の「李白詩選」を紹介する。盛唐の時代の人物で「詩仙」と称
されるほど優れた詩人、李白の詩の中から主要作品120首を松浦友久が選び、
編訳した本である。
この本では、まず120の詩をその形態別に10の章に分けている。五言絶
句、七言絶句、五言律詩、七言律詩、五言排律、五言古詩、七言古詩、雑言古
詩、賦、序の10章だ。そして、それぞれの章の中に詩型ごとの詩が書かれて
あり、白文、書き下し文、和訳や単語の解説という構成になっている。これに
よって、漢文や漢詩に全く触れたことが無い人でも簡単に読めるのだ。
登場する詩を少し紹介する前に、先ほどの10の詩型について説明する。五
言、七言、雑言というのは一句の文字数を表す。五つなら五言、七つなら七言、
決まっていないのが雑言である。また、全体の句数を数えた時に、四句のもの
を絶句、八句のものを律詩、それ以外を古詩という。賦とは比較的長い韻文の
ことで、規律性は特に無い。序は詩集などの序文として作られる。これらの中
で李白は、七言絶句、五言絶句、雑言古詩が得意だと評されている。さらに李
白の詩は漢魏六朝以来の詩歌の集大成とされ、変幻自在で多彩な世界を生み出
している。
それでは、2つほど詩を紹介しようと思う。まずは五言絶句の詩「王昭君」
だ。白文と書き下しが対応している。
昭君拂玉鞍
上馬啼紅頬
今日漢宮人
明朝胡地妾
昭君 玉鞍を払い
馬に上りて紅頬に啼く
今日 漢宮の人
明朝 胡地の妾
王昭君
王昭君は白玉の鞍を軽く手で払い、馬の背に乗って紅い頬を涙で濡らす。
今日までは漢の後宮の人だったのに、明日の朝には胡の地の妾となってしまう
のだ。
この詩では、前漢の女性、王昭君が登場する。中国4大美人の1人に数えら
れるほど美人であったという王昭君が、自らを描く画家に賄賂を渡さなかった
ために醜く描かれ、異国の地に妾として送られてしまうという悲劇性を詠った
作品だ。
次は、李白の詩の中で特に秀でた詩型だとされる七言絶句の「早發白帝城」
を載せる。
朝辭白帝彩雲間
千里江陵一日還
兩岸猿聲啼不住
輕舟已過萬重山
朝に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼いて住まざるに
軽舟 已に過ぐ 万重の山
朝早く白帝城を出発する
朝まだき、白帝城の彩雲の間から辞れ去れば、千里の彼方江陵までわずか一日
で還りつく。
両岸で啼く野猿の声がまだ耳から消えぬ間に、軽やかな小舟は、畳なわる山峡
をすでに通り過ぎていた。
この詩で出てくる白帝城というのは、三国時代、夷陵の戦いで陸遜に敗れた
劉備玄徳が諸葛亮孔明に蜀を託し、息を引き取った場所として有名な城である。
李白は朝廷内の争いに巻き込まれ流刑になったが、白帝城付近でその罪を許さ
れ都に戻る舟で詠んだ詩が「早發白帝城」だ。李白は自らの喜びや軽やかな気
持ちを、景色や速く流れる舟に例えて表現しているのだ。まさに見事だと思う。
本の中の詩に限らず、すべての詩を読む上で意識しなければならないものが
あると思う。詩を受けて、自分なりに想像を膨らませてみるのだ。時代の背景、
作者の心情、周りの景色などを思い浮かべる。その理由は、想像によって個人
の解釈が生まれ、詩が面白味を帯びてくるからだ。古代中国の詩は基本的に、
他人に読ませて自分の気持ちを伝えるためではなく、ただ単に思いを表現した
いだけなので、それをどう捉えるかは自由だし正解は無いのだ。僕も「王昭君」
「早發白帝城」について考えてみた。「王昭君」は李白が王昭君を心から可哀
そうに思っている。また、美人にも関わらず汚い金を渡さなかっただけで妾と
なってしまう無情さを嘆いているともとれよう。「早發白帝城」では、李白の
弾む心が読み取れる。どんどん景色が過ぎていく様子からして、嬉しさや喜び
のあまり落ち着いていられなかったのだと思う。
このように、何でも自由に想像できる上に、考えれば考えるほど新しい世界
が見えてくる漢詩の世界が、僕は大好きだ。
◆◆◆
江戸川乱歩は面白い
河内昂輝
僕は今回「江戸川乱歩短篇集」を読みました。以前「少年探偵団」や「鉄人Q」や「怪
人二十面相」など、江戸川乱歩が書いた本を読んでおもしろかったのでこれを選びました。
今回は短編という事で三十~五十ページぐらいの話が十二個載っていました。どの話
も最後の最後でまさかの展開が待っていたり、途中で暗号のようなものが載っていたりして
いて、本をあまり読まない僕でもどんどん読むことが出来ました。
読んでいて気に入った作品が3つありました。そのうちの1つが「D坂の殺人事件」という
話です。「私」という人と「明智小五郎」という人の推理のやり合いが面白く、「私」が、「明
智小五郎」が犯人だという推理をして僕が「なるほど」と思い、「面白い話だったな」と思っ
て残りのページ数を数えると十ページ程残っていたので読み進めると、「明智小五郎」が自
分の無実を証明し、真犯人を突き止める、という驚きの展開だったのでびっくりしました。
2つ目は「心理試験」という話です。この話は人の心理を利用して犯人を見つける刑事
と、その刑事を知り尽くしている天才の大学生の犯人の騙し合いや、相手の行動の読み
合いが、読んでいておもしろいです。天才大学生が、刑事の行動を読んでいたのはよかっ
たのですが、それに対する準備をやりすぎてそれが裏目にでてしまうという終わり方が面白か
ったです。
最後は「人間椅子」という話です。これは推理小説ではなく、今まで読んだことのないタイ
プの話でした。この話は、全て手紙に書かれているという設定で、初めてこういうタイプの話
を読んだので印象に残りました。僕は、皆がこの本を読んだらこの話が一番最後の展開が
驚くと思います。
載っている十二個の話全てが驚きの連続で、読んでいてとても楽しいので、本が好きな
人も嫌いな人もぜひ読んでみて下さい。
◆◆◆
『銀の匙』
金城 恒
『銀の匙』は主人公の成長物語である。
主人公の「私」は虚弱児として生まれ、当時「私」の家に厄介になっていた伯母さんの
手一つで惜しみない愛情をかけられて育つ。「私」は外に行くときは必ず伯母さんの背中に
かじりつく。伯母さんは「私」に怪我をしないようお守りを、また目が悪いためもしはぐれたときに
音を頼りに探せるよう鈴をもたせる。神社仏閣に行くとなによりもまず「私」の体が丈夫になる
ことを願い、家では遊び相手となった。作中には家族の話は滅多に出ず、伯母さんとの思
い出ばかりが書いてある。
また、驚くほど博覧強記な伯母さんが夜な夜な聞かせてくれる古今東西の話によって
「私」は感受性豊かな少年に育ち、自然を見てその美しさに清純無垢な喜びを感じ、一方
で恵まれない人々のために深い同情心を持つ。知識も増えていき正しくないことを正しくな
いと思えるようになる。
いつしか「私」は虚弱児から早熟なたくましい少年、青年へと育っていく。
この作品は文章、特に情景描写や自然の描写が詩的ですごくきれいだ。適切なところ
にうまくひらがなや擬音語を用いている。これによって、「私」が少年時代に見、そして思った
事を上手く表せていると思う。
Born with a silver spoon という慣用句がある。これは恵まれた境遇の下で生まれた、
つまり小さいころから銀の匙で離乳食を食べさせられるような裕福な家で大切にされながら
育ったという意味である。作者が意図したかどうかはわからないが、虚弱児に生まれて毎
日薬を飲まなければいけなかった「私」が薬を飲みやすいように伯母さんが探してくれたもの
が銀の匙である。
伯母さんからの深い愛情、そして私の成長に加え、文章の美しさに注目しながら読んで
いただきたいと思う。
◆◆◆
『坊っちゃん』紹介文
護摩堂正樹
あらすじの前に、登場人物について書きたいと思います。
・坊っちゃん
今回の主人公です。本名は明らかにしていません。この呼び名は、清に呼ばれている。
・清
坊っちゃんの家の下女です。坊っちゃんをかわいがっている。
・山嵐
名字は「堀田」。数学の主任教師です。坊っちゃんと友情を得る。
・赤シャツ
坊っちゃんが数学の教師として赴任した旧制中学校の教頭です。文学士。
・野だいこ
名字は「吉川」。画学教師です。
・うらなり
名字は「古賀」。英語教師です。
・マドンナ
名字は「遠山」。本の中でセリフはなく、出番もわずか。うらなりの元婚約者。
・狸
坊っちゃんの学校の校長先生
〈あらすじ〉
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」坊っちゃん。母と父と兄と四人で暮
らしていた。「おやじは些ともおれを可愛がってくれ」ず、「乱暴で乱暴で行く先が案じられる」
と両親に言われていた。そんな中、母が病死し、父が脳卒中で死んだ。親の残した遺産
のうち兄から六百円渡された。その金で坊っちゃんは物理学校に入学。見事卒業したもの
の、どこで働くかに困る。そんな中母校の校長に「四国辺のある中学校で数学の教師が
要る。」と誘われ、旧制中学校の数学の教師として赴任した。しかし、ここに来て悪いことが
続く。赴任先でてんぷらそばを四杯食べたことや団子を二皿食べたことなどを生徒に冷や
かされたり、宿直のときに布団の中にバッタを入れられたりされ、寄宿生らの処分を訴えた
が、赤シャツやその他大勢の教師が反対した。しかし山嵐のみが賛成した。
ここで坊っちゃんと山嵐が仲良くなる。
しかし、赤シャツの陰謀で、山嵐が辞職に追い込まれる。坊っちゃんは、山嵐に協力した
が、結局負けてしまった。坊ちゃんはすぐに辞職し東京に戻り街鉄の技手となった。
◆◆◆
『こころ』
辻田旭慶
僕は今回、夏目漱石作の「こころ」という本を読みました。
まず、大体のあらすじを書きます。
「私」は海で「先生」に出会う。「先生」と話をかわすうちに、「先生」に暗い過去があるこ
とを悟った「私」は それを知ろうとするが、急に故郷の父の容体が悪化し、「先生」に会うこ
とのできない日々が続く。父が昏睡状態に なり、余命があと 1 日、2日となった時、突然
に「先生」から長い手紙が届く。それは「先生」の遺書だった。中には、自分が恋人を手に
入れたいがために親友を裏切り、死に追いやってしまった過去が書かれていた。「私」はそ
れ を見た瞬間に家を飛び出し、その足で東京行きの列車に乗ってしまう・・・。
次に、この本の中で僕が最も印象に残った場面について書きます。それは、「私」が実
の父をおいて、「先生」の所 へ行く場面です。
もし、僕に同じ事が起きたら、間違いなく父の最期を見届けると思います。そうでなかった
「私」はやはり、「先生」 の事を心の親と思っていたのだと思います。
また、作者が最も想いを込めて書いたと思われる、親友が自殺するまでの経緯を描い
た場面では、たとえ親友でも 人間は、お金など自分の利益になることのためには裏切って
しまうという、人間の心の不気味さを描いています。
そして、命を引きずるようにして生きる「先生」が「私」に過去の出来事を伝え、死んでしま
う場面では、孤独な 人が多い現代人に向けて、漱石が、おのれを自決に追い込むだけ
の力があった世代の存在を伝えたかったのだと思います。
最後に、この本の題名である「こころ」は漢字で表すと「心」か「情」のどちらになるのかと
思いました。どちらの 要素も文中に多く表されていました。
僕は「心」と「情」をつなげて、心情(当て字ですが)と書くのだと思いました。
皆さんも是非読んでみてください。
◆◆◆
『雪国』
東郷祐典
この本は、あの有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」から始まります
が、この作品にはこの作品にはいくつか大きな特徴があります。
一つ目は、物語に出てくる場所の風景やその時間ごとのその場の状況、登場人物の行
動や心情をとても細かく書いてあることです。このように書いてあることによって、少し読みにく
くはなっているものの、より臨場感が増したり、より多くのことを考えたり感じることができます。
二つ目は、表現がとても抽象的な部分があるということです。例えば、「しかも人物は透
明なはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け会いながらこの世ならぬ
象徴の世界を描いていた。」というような文です。このような文がたくさんでてくるので、物語
の流れや登場人物の心の状態や変化をいろいろな風に読み取ったり想像することができ
ます。
三つ目は物語の進行する場所がほとんど動かないことです。どういう事かというと、主人
公が行きに乗った電車の中と途中違う村に行った時以外は、ずっと雪国の物語の舞台と
なっいる村で、できごとがおきているということです。ここからは、自分の予想になってしまいま
すが、川端康成がこのように物語の進行を一つの村にしぼったのは、ここでの出来事をより
しっかり描きたかったからだと思います。
この三つの大きな特徴からも分るように、この物語は一つ一つの場面がとても長く、表現
もとても細かく、かつ難しいです。そのため、途中で物語の流れや状態がつかみにくくなりま
す。僕も読んだ感想としては、不思議な表現や細かい設定のために、普通に読んでいる
だけでは難しくて楽しくありませんでした。しかし、集中して内容をしっかり理解できるように読む
と、とてもおもしろい本です。
◆◆◆
『こころ』で考える
永山聡一朗
これから、夏目漱石が書いた「こころ」という本を紹介したいと思います。
この本は、「先生」と呼ばれる人物と出合うところから始まり、語り手の「私」はその先生の
家に通うようになります。そこでいろいろな話をするわけですが、やがて先生が何か隠し事を
していると「私」は気づきます。しかし、父の体調が悪くなり、国元へ帰り、そこへ先生の遺言
とも言える先生のすべてが記されている手紙が届き、心の父親である先生のもとへ急いで
帰っていくという話です。
この本を読むことによって、多くのことを考えたり学んだりできます。
先生の手紙に書いてあるように、先生は叔父に自分の財産をごまかされ、すべての人
々を疑うようになります。やがて、上京して、ある人の家に友人を誘って住み始めました。ある
日、日ごろ好意を抱いていた御嬢さんのことが好きだとその友人から言われます。私は先を
越されまいと御嬢さんをもらいました。その後、その友人は自殺をしてしまいました。
このように、「私」が最低だと思い続け、疑い続けている叔父のような人間達の性格は人
間誰にでもあり、自分も同じ人間だと気づいてしまったらどんな風に思うだろう。
先生はこの後、死んでいるつもりで生きるといっていました。死んでいるつもりってどんなこ
とだろう。そんなことが出来る人なんているのだろうか。
そのようなことを学んだり、思ったり出来る本です。
◆◆◆
『三四郎』
西尾博道
僕が紹介する本は夏目漱石作の「三四郎」である。夏目漱石は「坊っちゃん」など多く
の有名作を創作した、日本を代表する作家である。「三四郎」はその中でも「坊っちゃん」と
共に親しみやすい作品として知られている小説である。
「三四郎」という小説は、九州から東京に出てきた主人公、三四郎が与次郎や野々宮
さんなどの様々な人々とふれあうことで経験を積んでいくという内容である。その中でも僕は
「迷羊」(ストレイシープ)という単語が気になった。これは迷子という意味で時々使われてお
り、三四郎を迷子にたとえて使われている。他にも僕は与次郎の人柄が面白いと思った。
与次郎は後先のことを何も考えずに行動しているようで実際は他の人のことを考えていたりし
ているので、面白いひとだと思った。
僕が「三四郎」を読もうと思ったのは、著者が有名であるという理由もあるが、読んでみ
たところ本当に面白い話だと思い、紹介しようと思った。
今まで書いてきた他にもこの話には面白いことがたくさんある。たとえば人間関係がそうで
ある。「三四郎」にはいろいろな人が登場するが、人々のつながりも面白いと思った。
僕はこれまで夏目漱石が書いた作品を読んだことはなかったが。しかし「三四郎」はとて
も面白いと思ったので他の夏目漱石の作品の「坊っちゃん」なども読んでみたいと思った。
僕は「三四郎」の中でまだ主人公の三四郎に触れていなかった。三四郎は大学に入る
ために九州から東京にやってきた人である。僕が三四郎だったら大学に入るだったらわざわ
ざ上京しないと思う。だから僕は三四郎は勇気のある人だと思った。
「三四郎」は時々難しい言葉が出てきたりするが、これまでに書いたようにとても面白い
作品である。是非読んでみてもらいたいと思う。
◆◆◆
『三四郎』
西川 貴章
皆さんは『三四郎』という本を読んだことはあるだろうか。東京大学の『三四郎池』は知っ
ている人も多いかと思う。東京に来て間もない頃の僕は、名前を知っていても詳しくは知ら
ず、せっかく東大見学に行ってもあまりイメージがわかなかったが、『三四郎』を読み、改め
て東大を見学に行きたい、と思った。
この物語において三四郎の心の中は、ある三つの世界によって描かれている。
まず、一つ目は、故郷と、そこに封じ込められた過去である。この部分は、僕にも共感で
きる箇所がある。例えば、僕の場合は大阪に家があり帰ることもできるが、麻布にいたいの
で戻らない決断をしたということだ。しかし、僕にとって大阪は、『立ち退き場』でもなければ、
脱ぎ捨てた過去でもない。その点で異なると言える。
第二の世界とは、学問の世界である。三四郎も僕も、運動ができるわけではないから、
勉強の世界に身を置くしかない、という共通点があるので、非常に共感できる。
最後の世界は、恋愛の世界である。
三四郎は、美禰子という一人の女性しか知らずにこの世界にはまっているし、本人もそ
れを自覚しているが、なんにしろ、今の僕には全く無縁の世界だ。
このように、青春の一時期において誰もが経験すると言われている、これらの世界への
不安や戸惑いを、ここまで単純な構造の小説の中に、素直に描くのは難しいと思うし、夏
目漱石はすごいと思う。
最後に、この小説は非常に示唆に富んでいると思う。特に、恋愛関係に於いては三四
郎のようには決してなってはならない。要するに、思い込みだけで恋愛をすると、幻滅するも
のかもしれない、という教訓めいたものを強く感じた。他にも、友人とお金の貸し借りをしない
ほうがよいということ、むやみに馬券を買っては損をすること、所持金もないのに金遣いが荒
いと人間性が疑われるということ等、大学生になり親元を離れて生活する際の注意事項
を、わかりやすく示してくれているようだ。
現代と明治、仮名遣いが違ってめちゃくちゃ読みにくかったが、時代が多少違っても、同
年代の人間が感じる物事には、そんなに相違ないのかもしれない。
◆◆◆
『芋粥』を読もう
東野 昌伸
この物語は、芥川龍之介が一九一六年に発表したものである。まず、あらすじを説明し
ようと思う。
この物語の時代は、摂政政治が行われていた平安時代である。主人公は摂政藤原
基経に仕えている五位の侍だ。五位は、周囲から馬鹿にされ、意気地のない、臆病な人
物だ。五位には、これといった強い欲求はない。唯一挙げるとしたら、腹いっぱいで飽きる
まで芋粥を食べることだ。当時、芋粥は天皇の食膳にも上せられる無上の佳味とされてい
た。五位がその芋粥を食べられる機会は一年に一回の臨時の客の折にしかなかった。し
かも、五位が飲める量はごく少量だった。
ある年の正月に臨時の客が来た。その時は人数が少なく、五位はいつもより多くの芋粥
を飲むことが出来た。飲み終えた五位は、自分の唯一の欲求が芋粥を腹いっぱいに飽き
るまで飲むことであると話した。すると、基経の家臣である藤原利仁が、その欲求を叶えて
あげると五位に言ってきた。結果的にそのうち芋粥に誘うということになった。
後日、利仁は、遠慮深い五位を芋がたくさん採れる敦賀に連れ出すため、別の案件で
五位を郊外まで連れ出した。そこで、敦賀に行くことを知った五位は、遠いため引き返そうと
思ったが、芋粥に引きつけられ敦賀に行く。実際に敦賀で大量の芋粥を見た五位の心の
中では葛藤が生じる。
これが、大体の話の流れである。この話の世界観は、同じく芥川龍之介の「鼻」と同じだ
と思ってもらって構わない。
この話の面白さは、実際に好きなだけ芋粥を食べられる状況になった五位の心情にあ
る。また、様々な局面で出てくる五位の消極的で意気地がないにも程がある言動や行動
が面白い。例えば、五位が、悪い子供を注意して反発されたことで注意したことを悔やむシ
ーンなどだ。
近年、ブータン国王の来日などで物的な豊かさと心の豊かさの違いや、本当の幸せと
は何かが注目されている。この本を読むと、物的な豊かさと心の満足度についての理解が
深まると思うので、皆さんに是非読んでもらいたい。
◆◆◆
『人間失格』
福山遼平
「人間失格」は「恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、
見当つかないのです。」という始まり方で主人公である葉蔵が人間の営みを理解すること
ができず、絶えず戸惑いや恐怖を抱き苦しんできた自身の生涯を告白する話です。
この話は太宰の最晩年に書かれています。また太宰らしい複雑な仕組みの小説で、一
人称語りという愛用の手法も使われています。
この話は「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」と大きく三つに分けられていま
す。
まず「第一の手記」は葉蔵の、正体のつかめない不可解な人間たちへの怯えと、道化
による人間に対する必死の求愛について語られています。葉蔵は人間を極度に恐れてい
ながら、それでいて人間をどうしても思いきれませんでした。そこで道化によって人間とつなが
ることができました。しかしそれも苦しいことで表では絶えず笑顔でいてもそれをわざとやってい
ることがばれたらどうしようと常に怯えていました。
次に「第二の手記」は旧制高校時代の酒、煙草、左翼思想などの記憶について語ら
れています。これらは昭和初年代当時の旧制高校の若い知識人たちのありふれた通過
儀礼のひとつでした。それに加え女と心中し、自分だけ生き残るという特殊な体験も語られ
ています。この体験は太宰が実際に体験したことがあり、そのことが相当心残りだったのだと
思います。
最後に「第三の手記」は信頼に満ちた妻との別れと、麻薬中毒についてが語られてい
ます。これも太宰が体験したことで、太宰は薬を使って何度も心中を試みました。
このように「人間失格」は太宰の実体験をもとにつくられたところもあり、最期の作品という
感じがします。
◆◆◆
『僕らはガリレオ』
堀江耕平
皆さんは、「王冠の謎」という話を知っていますか。そう、アルキメデスがお風呂から裸の
まま出て行ったことで有名な話です。簡単にまとめると、王様が純金のみで作れと命じたは
ずの王冠に、銀が混ざっているという噂が流れ、アルキメデスが同じ重さの純金、銀、王冠
の三つを水に入れあふれた水量を比べ、見事噂が本当であることを確かめた、といった内
容です。
普通ならここで納得して終わってしまうでしょう。少なくとも、僕はそうでした。しかし、ガリレオ
・ガリレイは違いました。ガリレオはアルキメデスなら、何%銀が混じっていたというところまで
求めるために、細かい計算をしていたに違いないと考え、ガリレオ自身が実験を始めるので
す。
この本は、板倉聖宣さんの「僕らはガリレオ」という本で、ガリレオの実験した内容を子供
たちの対話形式でわかりやすい作品です。
ほかにも、あのピサの斜塔で有名な物体の落ちる法則があります。これは僕がこの本の
中で一番興味ある内容でした。
また、振り子の法則などは小学校や、塾などでやる時とは、違う視点で読むことができま
す。
この本は、現代社会に生きるぼくたちの「あたりまえ」、つまり「常識」は、昔の人々からす
ると、とても難しい問題でありガリレオのような発明者たちがいなければ、今の「あたりまえ」は
「あたりまえ」にはなっていなかったのです。つまり、ガリレオたちによって、今の「あたりまえ」が
あり、今の私たちを作っているということを感じさせられます。
ぜひ読んでください。
◆◆◆
子供の気持ち
松元耀久
色々ながらくた物などが入った本箱の抽匣に一つの小箱が入っている。その中に一つ、
銀の小匙が入っていた。それは昔、家の茶箪笥のなかの小箱にしまってあり、母からもらっ
たものであった。その銀の匙は私の育っていくなかで由緒のあるものだった。
この作品は、一冊の本の中で前篇と後篇で分かれており、前篇は主に少年時代の事が
書かれていますがそれに対し後篇は、主人公がだんだん大人になっていく姿が描かれてい
ます。
描写が見事で細かいのに、真実を曲げたり描きすぎたりせず、文章の響きが良くて、とて
も読みやすい本です。
ある 1 人の脳の悪い人間の大人になるまでが自伝風に描かれていて、子供の頃のなん
のたわいもない日常が描かれています。子供自身の気持ちになって書かれているため読
んでいて自然に故郷を思ったり、昔の事が懐かしく感じられたりする。そんなところが僕自身
が読んでいてひかれた点です。大きくなるにつれて子供の頃の気持ちというものはどんどん
薄れていきます。何かをするときに、まずこの事をすることによる利点があるのか考えたりし
て、子供の心を忘れてしまいがちです。この作品は何の心配もせずに無駄なことばかりして
いる子供の気持ちが良く理解できるようになっています。
それが前篇で、後篇では幼いころにお世話になった伯母さんとの再開や、一人で旅行に
行くことなど、前篇寄りもはるかに成長した姿を見ることができます。
またこの作品は日清戦争の頃の日本の話で出てくる言葉や固有名詞などが古文に近
いため、一回読み終えるだけで昔の世界に行ってきたかのようにも感じられます。昔の遊び
や教育、おもちゃ、行事など今の生活とは違うことにあらためて実感させられます。
この「銀の匙」を読むことで、自分の昔などをもう一度見直すことが出来て、心にゆとりを持
つ事が出来ます。
だから私は「銀の匙」を紹介します。
◆◆◆
『羅生門・芋粥』の感想
柳瀬達矢
この本には、題名の通り、「羅生門」、「鼻」、「芋粥」、「倫盗」、という四つの物語が書
かれている。
今回はその中でも最も有名な「羅生門」について紹介する。
この話は、大昔の京都が、多くの自然災害の被害を受け、大飢饉に陥る中、働いてい
た主人からクビを言い渡された下人が主人公である。この男はこれにより、餓死するしかな
い状況に追い込まれる。そして、餓死を避けるには盗人になるしかないのに、その勇気を出
せない男が盗人になるまでの経緯と心の動きを描いた作品である。
クビになった下人は雨の中、当時死体置き場と化していた羅生門へ、寝場所を探してやっ
てくる。そこで、死体の山の中で一人だけ動いている謎の老婆を発見する。その老婆はか
つらを作るために死体から髪の毛をむしり取っていた。そのことを、老婆を問いただして知った
下人はさらに怒り、責めた。すると老婆は、自分が生きるために犠牲にしているのだと説明
する。それを聞いた男は、自分も老婆を犠牲にしなければ自分も生きられないのだから良い
だろうと、盗人になることを決意する。そして、ひはぎする。
この話自体は非常に短いので、残りの 3 つだけでも十分に楽しめる。また、420円という
お手軽なお値段なので、買いやすい。
◆◆◆
『働かないアリに意義がある』
山下響生
僕が紹介したいのは、進化生物学者の長谷川英祐著「働かないアリに意義がある」で
す。この本はアリやハチなどの社会性昆虫の最新の研究結果を人間社会に例えて説明し
ている本です。
第一章では働き者のイメージが付いている働きアリが実は七割ほど何もしていない事や外
にいるアリが年寄りで若いアリは巣の中で仕事をしていて人間と逆のような社会性があった
り、コロニーの中に頭の悪いアリがいた方がエサを持ち帰る効率が上がったり、兵隊アリは
実は戦わず、大きな食べ物を運びやすいようにかみ砕くのが仕事だということが書いてありま
す。働きアリや軍隊アリは勝手に人間が付けた名前だということがわかりました。
第二章では働かないアリが存在する理由としてアリにも過労死があるという事や、仕事に
対しての反応が鈍く働けなかったり仕事に気づけなかったりするために、他の働きアリが倒れ
た後でも働けるアリを残しておけるようになっている事などが書いてあります。僕は仕事に対し
ての反応が鈍いサボりアリの分類に入ると思います。
第三章ではなぜワーカーというアリが女王アリのために働くのかを解明するために登場した
新しい理論について説明されています。この章で説明されている理論は途中で絵も入ってい
るのでわかりやすく書かれています。
第四章では侍アリが同じ種であるはずのアリを裏切って他のコロニーから働きアリを連れて
きて奴隷として使っている事が書いてあります。
第五章では庭のネコの生物的見分け方や、群れる事での集団としてのメリット、あえて群
れない事でのメリットなどが書いてあります。
この本にはいずもり・よう著のマンガ版もありそちらも面白かったです。ぜひ読んでください。
◆◆◆
『蟹工船』
吉田武史
僕は、「岩波文庫」の緑判の中で、「蟹工船」、「1928・3・15」の二作品が入っていか
にこうる本を買うことにした。「蟹工船」は親からもすすめられていたし、読んでみようと思い、
この本を買った。この本の作者、小林多喜二は1923年に死んだ人で、東北の方言が使
われていたり、昔の言葉が使われていたので、読むのが、とても難しかった。
「蟹工船」のあらすじは、次のようなものだ。蟹を取って、蟹の缶詰を作るために集められ
た人々が、その船を指揮する監督にひどい仕打ちを受ける。過酷な労働で、皆、疲れ果
ててしまい、最後には、病気になり、死んでしまう人まで出てくる。このままでは、自分も死ん
でしまうと思い、残りの人は、ストライキを起こすという物語だ。また、「1928・3・15」では、過
酷な労働条件に耐えられなくなり、労働組合を作り、ストライキを起こそうとする。しかし、警
官に検束されてしまう。組合員は拷問を加えられたりした。牢獄の中で組合員たちは、安賃
金で巡査たちも苦労していることを知り、どんな社会も上の人は苦労しないが、それ以外の
人は苦しんでいることが分かった。そして、組合員たちは、検束された、1928・3・15日を忘
れないように牢獄の壁に刻む。
この本の作者小林は、小樽における「3・15」の経験者であり、作者自身の見聞と憤激
を基礎として書かれたものである。「1928・3・15」は、この小樽における逮捕と拷問を主題
としたものだと思う。拷問の内容も色濃く書かれていた。実際、小林も拷問の被害者だし、
最後に拷問を受けて、亡くなってしまった。僕は、この作品の書かれた時代のことは知らな
かったが、命がけで国に反抗している人もいることがこの本を読んでわかった。正義感が強
く、本気で国を変えようとした人がいた。小林もその一人だと思う。一方で、命や人生をかけ
て、国を変えようと頑張っている中で、そういう社会情勢を気にも留めない人がいる。同様
に、上の雇い主は、雇っている労働者を虫けらのように扱っている。こういうことは許してはい
けないと思った。この二作品を読んでみて、どちらも共通して、主人公が一人ではない。み
んなが主人公なのだ。そして、みんなで立ち上がっていくことが、書かれている。他の小林
が書いた本は、どうなのかとおもった。気になるので、もっと小林多喜二の書いた本を読ん
でみたいと思った。
◆◆◆
普通が一番
劉 弘毅
僕は、夏目漱石の「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」が好きで、この夏は「門」という作
品を手にとってみた。だが、この作品は前述の二つとは明らかに違う。暗い。そして平坦だ。
序盤から、その暗さはある。そして、その理由も文章からは読み取れない。なんだかもやも
やして、気持ちの悪いものだった。
しかし、この暗さの原因がわかった時、そのもやもやは晴れた。不倫。そんな後ろめたい
過去があるから、宗助たちは暗いのである。納得した。それと同時に、この作品の面白さが
少しずつわかってきた。
妻が寝込んだり、妻の元夫、安井がやってきたり。様々な出来事の中で揺れ動く宗助
の気持ちが静かに、丁寧に描かれている。宗助は、それほど大きな行動を起こさないのだ
けれど、なんだか引き込まれてしまう。
そして物語はなんの進展もなく終わる。安井と宗助は結局再開しないし、最後に宗助が
訪れる鎌倉でも、何かが得られたわけではない。
結局、夫婦は最後まで心に闇を抱えたままである。不倫という行動を起こしてしまった以
上、明るい日々には戻れないのかもしれない。
僕は、この本を読んで、普通に生きてゆける幸せを感じた。宗助たちに比べれば、僕の
普通な今は、どんなに素晴らしいだろう。人目を避けることも、誰かに怯えることもない。
何も面白いことが起こらなくても、何も素晴らしいことができなくても、「生きている」というた
だそれだけで素晴らしいと思えた。少し大げさだけど、そういう部分は確かにあった。
今まで僕は、なにか目立つことをしようとして、一生懸命になっていた気がする。だから、
少し気が楽になった。
これからは、普通である喜びを噛みしめていきたい。こんなことに気づかせてくれた「門」
と出会えて、良かったと思っている。
◆◆◆
〈六組〉
『五重塔』
植地勇斗
紹介文の書き方なんてわからないので、自分的に書いていきます。
五重塔あらすじ
江都に住むとある大工十兵衛は、技術は一流のものに勝るとも劣らない程であり、仕事
も誠実にこなすが、ただただ世渡りの才能がないがために「のっそり」というあだ名をつけられ
た。そんな大工がとある寺の塔を建てるために一念発起して努力するお話。
技術はあるが知恵がなく、そのせいで馬小屋を作ったり、長屋の壁や戸を直したりするく
らいの仕事しかできず挙句の果てには「のっそり」と言われて馬鹿にされる日々を常々悔しく
思っていた十兵衛。
その十兵衛が、後世に名を残したいと考え、数百年に一度あるかないかの塔の建立を
チャンスと考え、元々塔を建てる予定だったかつての師と争い、塔を建てようと寺の上人様
にお願いしに行くのであった・・・
五重塔を読んだ感想
後にも紹介するが、なかなかに文章が読みにくく、読むのに時間がだいぶかかってしまっ
た(具体的には2,3日程)。
そして、師に天才と褒められるほどの才能が有りながら、今で言うコミュニケーションが下手
なために満足のいく仕事ができないという主人公。このように考えてみるとなかなかどうして
親近感がわいてくる(そんなたいそうな才能があるわけではないが)。
また、現代にもこのような人はたくさんいるのだと思う。それこそ麻布生の中にも、たくさんいる
だろう・・・むしろ麻布生だからこそたくさんいると言ったほうがいいのか?
まぁそんなことは置いておくとして、その十兵衛が納得のいくものを作った時には、その作っ
た塔が嵐という自然の猛威の前にありながらも堂々と建ち壊れなかったことから、十兵衛
の意志、心意気の強さや建立に傾ける情熱の大きさが伝わってきます。そして、作者の細
かく、しかし大胆に表現する嵐がさらにそのことを強調しています。
僕はそれを実感させるような表現ができる作者が純粋に凄いと思います。いつか僕自
身もそんな表現ができるようになりたいです。
最後にお勧めのところを
読みにくかったと先ほど書きましたが、その文章を引用します。
『木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく
唯一人、少しは淋しさうに座り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日掃いしか剃
つたる痕の青々と、見る眼も覚むべき……』
読み方も一応
『もくめうるわしきけやきどう、ふちにはわざとあかがしをもちいたる頑丈づくりの長火鉢に向
か居て話しがたきもなくただひとり、すこしはさびしそうにすわりいるさんじゅうぜんごのおんな、お
とこのようにりっぱなまゆをいつはらいしかそったるあとのあおあおと、みるめもさむべき……』
これが冒頭の百文字です。
そしてこれがずっと続いていきます。なので根気のある人とこういう文章が好きな人にはお
勧めです。ただ、文体がこうなだけであり、内容は面白いです。
十兵衛の心の中の葛藤、そして心情の吐露、筆者の細かな表現によって描かれていま
す。
このあたりがお勧めです。
◆◆◆
『三四郎』
伊藤 統
この本は熊本(田舎)の高等学校を卒業した青年、小川三四郎が東京(都会)の大学
に入るために上京し、そこで都会というものにふれ学んでいく物語です。
都会の人というものはたいてい冷静で物事にあまり動じず、はっきりものを言う堂々とした
態度の人々であった。それに対し田舎者の三四郎は都会の珍しい物を見るとすぐはしゃい
でしまうような感じでした。
大学で三四郎はとても素晴らしい勤勉ぶりで、都会に来てからの親友である佐々木与
次郎もあきれていた。東京に来て様々な考え方を知り、勉強も普通の人並みになり、三四
郎はだんだん都会人らしくなっていきました。
東京に来た頃、母の友だちの親戚である野々宮さんを訪ねた帰りに出会った美禰子に
人目惚れしていた。その後複雑な人間関係の中で話は進んでいき、結局その恋が実るこ
とはありませんでした。
ここまでのように一見ただの三四郎の日々を書いただけの物語であるが、本の中では様
々な事柄を別の言葉に置き換えて何かを暗示していたり、同じ言葉を二度使うことでその
言葉の意味や登場人物の心情を間接的に知らせていたりする表現が数多くちりばめられ
ています。その他にも脇役のような感じで登場した人の言葉や行動が、他の登場人物の
態度と共通していたりし、文章のいたるところに伏線があり後に上手く繋がっていたりするよう
に書かれています。
このため、この本を読む際にはあらかじめ何かが隠れていると思って注意深く読んだ方が
様々な仕掛けに気が付くことも出来る様になっていて、普通に読むことと合わせて二通りの
楽しみ方が出来るため面白いです。是非読んでみてください。
◆◆◆
『三四郎』の紹介
遠藤康矢
「三四郎」は、主人公である小川三四郎が美禰子に恋をするも、結局その恋は成就せ
ぬまま終わるという、ある意味では後味の悪い作品である。
作中では三四郎は美禰子に恋焦がれていたが、美禰子の気持ちは果たしてどうなのだ
ろうか。
僕は、美禰子も三四郎のことを少なからず好いていたが、いつまでも告白しない態度に
辟易したが為に他の男にしたと解釈している。
根拠は、美禰子が中盤出した絵葉書で、「羊を二匹寐かし」ているという描写の通り、そ
のうち一匹が三四郎で、もう一匹が美禰子であることを暗喩してあるためだ。この絵葉書に
対する「返事」、つまりは告白をしなかったため、美禰子は愛想を尽かしたのだろう。
始めの方の描写で、「よっぽど度胸のない方」とまで言われているから、無理もないだろ
う。ちなみに、後述する「偽善を行うに露悪を以てする」やり口に美禰子を当てはめても、
「測り切れない所が大変ある」という表現も判断材料になった。
ここからこの二人がどうなるか。恐らくは離れ離れになって両者とも不完全燃焼に終わる
のではないだろうか。
三四郎は、自分自身の度胸の無さゆえに「第三の世界」にいる権利を失い、女性恐怖
症にでもなってしまうのではないかと思われる。
一方美禰子はどうかというと、直前まで野々宮との結婚の話も出ていた程なのだから、
夫に対し、特別に好意を持ってはいない様に思われる。そのため、恐らくは三四郎に対する
未練も少しは残っていただろう。
こうして、本来くっつくかもしれない関係だった二人が分かれる運命に置かれたことで、三
四郎は一人「 stray sheep 」となり、美禰子も「 stray sheep 」となったろう。そのため、最後
の場面では迷羊(ストレイ シープ)と繰り返したのだろうと思う。
では作者の伝えたいことは何か。それは恐らく広田先生の主張していることだろう。
例えば、「自我の意識が強すぎ」る青年のことを「露悪家」と呼び、「今日では各自同等
の権利で露悪家になりたがる」とした上で、「尤も悪い事でも何でもない」としている。
なぜなら、利己主義と利他主義のせめぎ合いにより進歩していくものと考えているためで
ある。その後に、「偽善を行うに露悪を以てする」やり口のことを話した。これは恐らく相手の
ことを弄んで楽しむ者のことだろう。
「極めて神経の鋭敏になった文明人種が、尤も優美に露悪家になろうとすると、これが
一番好い方法になる」という通り、否定はしていない。利己主義と利他主義のせめぎ合い
による副産物であり、進化の産んだものだからであろう。
作者は、自分の価値観を広田先生に喋らせ、具体例を三四郎とその取り巻きで提示し
たかったのではないだろうか。そう僕は思った。
◆◆◆
『こころ』
小田拓主
僕は、夏目漱石の『こころ』を読んだ。
この話は、幼少期両親を失い、東京の学校を卒業した『先生』と、鎌倉へ旅行した時に
出会った大学生の『私』との物語である。先生は叔父に両親の遺産をだまし取られ、故郷
を出て、『奥さん』と『お嬢さん』の住む下宿で生活を始める。
しばらくして『先生』は、勉強を優先し、俗物を好まない友人『K』を柔らかくするためにも、
同じ下宿に住ませた。すると『K』は、『お嬢さん』に、恋心をいだいていったのである。しか
し、同じくお嬢さんに恋心を抱いていた『先生』は、先を越されまいと、『奥さん』に『お嬢さん』
との結婚の了承を得る。すると『K』は、数日後に自殺をしてしまった。
そしてその後は、結局利己的になる自分は憎き叔父と同類であるという嫌悪感と、『K』
への罪悪感で苦しんでいた。そんな中、自分と同じような境遇にたっている『私』に対し、人
は結局利己的であると忠告し、今まで誰にも明かさなかった自分の過去の出来事を手紙
に書いて『私』へ送り、自殺してしまう。
この話は、叔父の利己的な行動を憎んだ自らを結局利己的になってしまう愚かさが描
かれていると思う。自分は、いざとなるとどうするか分からないが、自分が幸せな道を選ん
でも、その幸せ以上の罪悪感による苦しみがあるということを知った。
◆◆◆
『蟹工船』
櫛部泰弘
「国策」の名の下に非合法な操業をする蟹工船「博光丸」では、会社から派遣された
監督の浅川が漁夫たちに対して過酷な労働を強いていた。そのために労働者は「焼き」を
入れられたり、殺されたした上にろくに葬式さえされない者もいた。当然労働者たちはこの非
人間的な労働を強いられ、耐えかねて、反抗するものも出てくる。しかし、浅川の搾取はエ
スカレートしていく。
そこへ暴風雨で流された一隻の川崎船が戻ってくる。その川崎船の漁夫たちはロシアへ
漂着し、ロシア人によって「赤化」を受けていた。彼らはその経験を「蟹工船」の漁夫たちに
話し、影響を受けた漁夫たちは浅川に対してストライキを起こす。そして、浅川をたたきのめす
ところまで行くが、今まで自分達の味方だと思われていた軍の水兵がやってきて首謀者達
を連れ去ってしまう。
ついに、漁夫たちは信じられるものは自分たちだけであり、それは皆で力を合わせなけれ
ば強い力となりえないことに気づく。そして、彼らは立ち上がった・・・もう一度。
この「蟹工船」は多喜二の信条を表す「プロレタリア」を表現しやすい、主人公の存在し
ない小説になってる。同編の「一九二八、三、一五」に比べると「赤化」の実態がリアリティ
ーを持って現わされているので、面白いので是非読んでください。
◆◆◆
島崎藤村『破戒』
黒澤太朗
「破戒」とはすなわち戒めを破ることであり、禁止されていたり制限されていることを行うと
いう意味である。一方「破壊」は打ち壊すことであり、「破戒」と微妙に違う。また「破潰」と
いうものもあり、敗れついえる意味である。
ここまで三つも同音異義語を並べてきたのにも訳がある。この作品は、話の中にこれら三
つの「はかい」があると僕は考えているからだ。
主人公瀬川丑松は、長野から千曲川(信濃川)を下流の方へ少し進んだ長野県北部
の飯山の小学校の教員である。師範校を優秀な成績で卒業し、正教員として学校へ来
た。しかし、丑松は実は「穢多」なのである。
穢多は中世・近世の賤民身分の一つである。江戸時代には非人とともに「士農工商」
より下の地位におかれ、人として認められないほどの差別を受けた。
そんな丑松には、父からのある戒めがあった。それは、自分の生まれ、つまり穢多である
ことを告白するな、というものであった。
また丑松には尊敬している人物がいた。同じ穢多出身ながら、その素性を告白して差別
制度と社会に立ち向かっている思想家、猪子蓮太郎である。この作品に描かれている明
治初頭は、「四民平等」を掲げながら、実際は差別がかなり残っていた時代であり、その矛
盾を鋭く指摘する蓮太郎の姿に丑松は感銘を受け、蓮太郎が出した本や演説・インタビュ
ーなどをすべてチェックするほどであった。ちなみにその後丑松は蓮太郎に偶然会い、面
識を持つようになる。
丑松は大人になるにつれ、自分の素姓が気になるようになってくる。そんな中、前に下宿
していた寺に泊まっていた別の男が穢多だと知れ渡ったことで放遂させられてしまった事件
や、学校で同じ新平民である生徒が受ける差別などを知る。さらに、父の死によって、改め
て自分が穢多であるということを隠そうと決意する。
しかし、尊敬する猪子蓮太郎の本を読み、同じ人間でありながら、自分たちのみ差別さ
れるのはおかしい、と考え始め、新たな人間主義を生徒たちに説き始める。これに優しい人
柄もあり、生徒たちから支持を集める。
一方、それを気に食わない人物もいた。封建的な軍国主義を唱え、名誉の金牌まで授
与された校長である。丑松との教育観の衝突を理由に、校長は人気のある丑松を学校か
ら追い出し、さらに学校を自分と同じ思想を持つ人間で固めようとする。
その頃、丑松は自らの中で葛藤していた。自分自身を偽り、封建的な社会で父の戒め
を守って生きるのか。それとも、父の戒めを破って自分の思想を貫くのか。告白すれば、社
会の迫害を受ける。この町にはいられなくなるし、無論仕事も恋もできなくなり、この後の人
生すべてが無くなったといっても過言ではない状況に陥ってしまうのである。
しかしそんな葛藤とは裏腹に、丑松の素姓はいつの間にかうわさとして流れ、次第に周
囲の者に知れていってしまう。これを聞いた校長とその補佐で丑松の同僚である勝野文平
は、これを利用して丑松を追い出そうと企てるのである。
二人の術中にはまり、追い詰められていく丑松。しかし心の中ではまだ葛藤が続いてお
り、自らの素姓は頑なに言わないでいた。
しかしそんな丑松を変える出来事が起きた。丑松と親密に付き合い、また丑松が神のよ
うに慕っていた人生の師者、蓮太郎が殺されたのである。
丑松は蓮太郎に会うたび、自分が穢多であることを告白しようとしていた。しかし毎回言
えずじまいで終わっていたのである。
蓮太郎の死により、丑松はこう決意する。
「思えば今までの生涯は虚偽の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ─何を
思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか」と。
その後丑松は生徒に自分の素姓を告げ、土下座をして謝った。そして進退伺を提出し、
同じ穢多で迫害を受け渡米した、という人の紹介で、アメリカのテキサスへと足早に旅立っ
て行った。
丑松はこの話の中で、人生の崩壊を覚悟して父との約束を「破戒」し、同じ人間でありな
がら差別される、という社会の不条理に立ち向かい、それを「破壊」しようとした。この人生を
かけた挑戦で、確かに丑松の輝かしい未来は「破潰」してしまった。しかし、人間世界の矛
盾を真っ向から突いた丑松の思い、そしてこの作品は、差別の問題を考える上で、とても重
要なものであることに変わりはないのである。
最後に。初めは話の長さに唖然としたが、日本近代文学に触れられたうえ、差別問題
をも考えられる素晴らしい機会だった。我ながら貴重な体験だったと自負している。
◆◆◆
『破戒』無知は罪なり
小杉麟太郎
「破戒」。読んで字のごとく戒めを破ること。
この作品の主人公である瀬川丑松が破った「戒」とは、彼の父から戒められた「たとえ如
何なることがあろうとも穢多の生まれであることは隠しとおせ」というものだった。
「穢多」とは、江戸時代の身分制度において「士農工商」の更に下に置かれ、蔑まれ差
別されていた人々のことである。明治時代になると解放令が出され四民平等の世となり、
表面上は差別がなくなったかに見えたが、旧穢多の人々の居住区は「部落」と呼ばれて
敬遠され、彼らが社会的地位を得ることは依然として困難を極めた。
丑松の父は向上心溢れる人で部落の長だったが、世間の部落差別の深さに失望し、
せめて息子には幸せな人生をと願い、部落との関わりを断ち山間で独り隠遁生活をおく
る。一方、丑松は父の戒めを守ることで、部落民にとっては夢のまた夢の人気教師という
地位を得て、充実した日々をおくっていた。だが、「隠せ」という戒めは逆に「部落民」である
ことを丑松に強烈に意識させ、片時も自分の素性を心から離せないという異常な劣等感
となり丑松を苦しめる。更に丑松の心を揺るがすのは、自ら部落民であることを公表し部落
差別撤廃を訴える社会運動家の猪子蓮太郎という存在だ。丑松は彼の著作に影響をう
け、生き方に憧れながらも、父の切なる思いを無にする決断はできない。そんな折、父が
急逝し、帰郷する途中で蓮太郎と出会う。自分も部落民であることを伝え、心の底から分
かり合いたいと敬慕の念が募る丑松は、蓮太郎に告白したいとの思いを強める。だが、遺
言でまで「(戒めを)忘れるな」と言った父の思いと呪縛は強く、やはり告白することはできな
い。懊悩が一層深くなっていく中、丑松が部落民であることが、元より丑松を排斥しようとし
ていた校長らの知るところとなり、時を同じくして蓮太郎が暴漢に殺されてしまった。打ちひし
がれた丑松はここに至り、自らの「隠す」生き方は虚偽の生き方であることを確信し「我は穢
多なり」と胸をはって生きる決意をする。そして遂に、生徒たちに真実を告白して学校を追わ
れてしまう。生徒をはじめ、信頼していた人々が変わらず接してくれたことは丑松を感動させ
たが、それでも新天地に旅立とうとするのである。
猪子蓮太郎と瀬川丑松には「大江磯吉」というモデルがいる。長野県の小諸で7年間
教員をしていた藤村は、彼が世間から迫害されるのを見て「破戒」の執筆を決めたという。
「破戒」は発売当初、全国水平社などから「藤村は部落をよく理解していないため差別的
な小説になっている」として強烈な批判を受け、一時絶版にまで追い込まれている。丑松
が生徒に告白する場面で「私は不浄です」と謝罪している点、新天地テキサスに逃げるよ
うに旅立つことを暗示している点など、なぜ正々堂々と不条理な社会と闘わないのか、卑
屈なままで何も変わらないではないかと思わせるのは確かだ。だが、「破戒」が執筆された
明治 38 年当時、穢多という素性を知られた者が、そこから奮起し堂々と生きることなど現
実では考えられなかったのであろう。未来を壊してしまうのか、心を壊してしまうのか……「破
戒」は「破壊」に通じたであろうことは想像に難くない。
当時、日本各地に散在する部落民自身でさえも「破戒」を読んで初めて部落のことを深
く知ったということは驚くべきことだ。「破戒」という小説そのものに「戒めを破る」という意義が
あったのだと思う。
僕たちは社会科の授業で、江戸時代に「穢多、非人」という身分が存在したということは
習う。だが、「部落」と呼ばれる根深い差別が、江戸時代の終わりから三百年以上経ち、
「破戒」執筆からも百年経た今もなお綿綿と続いているという現実を知っている人はどのくら
いいるのだろう。すべてを「隠す」ことで差別は自然消滅するのだろうか。だが、それでは「破
戒」における父の「戒め」と同じことになるのかもしれない。
「無知は罪なり」。今を生きる僕たちが「破戒」を読むことには大いなる意義があると思う。
◆◆◆
『藪の中』
後藤 光
藪の中とは、誰もが知っている芥川龍之介の不朽の名作である。芥川龍之介の、唯
一のミステリーと言っても過言では無い。何故、この小説は今日まで名作として賞賛されて
いるのであろうか。
まず、この小説の大きな特徴を挙げようと思う。それは、ストーリーが全て数人の登場人
物の語り口調で進んでいくという事だ。つまり、ナレーションの居ない劇の様なモノだ。このよ
うな手法を小説に盛り込むのは非常に難しい事なのだ。心情描写や周りの景色の描写は
普通会話の中には出てこないだろう。つまり、この書き方だと、其の類のモノを使いにくい。
非常に書く側としては書きにくいのである。これが、名作として言われる理由の一つではない
だろうか。
次に登場人物並びにあらすじを説明しようと思う。主人公は、名高い盗人である多襄丸
と、若狭の国府の侍である武弘とその妻の真砂の三人である。ある日の朝、木樵りが藪
の中にある死体を発見した。そして、そのことを検非違使に告げる。そこから物語は始まる。
証言者達により、死体は武弘で同伴していた妻の真砂が失踪してしまった、という事が分
かった。
丁度その時捕らえられていた盗人の多襄丸が、自分があの男を殺したと自白した。しか
し、本当は付き人の真砂を奪おうとしただけで殺そうとは思っていなかったらしい。多襄丸は
武弘を木に縛り付けて真砂をおびき寄せ、我がものとした。しかし、手ごめにした真砂に、ど
ちらか一方に死んでもらい、生き残った者に連れ添いたいと言われた。そして武弘と太刀
打ちをして相手を殺した訳であったが、真砂には逃げられてしまったという事らしい。これで事
件は終わった筈だった。
行方不明だった真砂が清水寺で発見され、事態が一変する。なんと、真砂も自分が
武弘を殺したと供述し始めたのだ。多襄丸は、真砂を手ごめにした後直ぐにその場から去っ
たという。真砂は、武弘が真砂を蔑んで見ているであろうことをその目の輝きから感じ取っ
た。そして、真砂は夫と共に心中することを決意する。まずは自分の小刀で夫を殺した。し
かし、自殺をする力はもう残されて居なかった。
多襄丸と真砂の証言は食い違っていた。検非違使は真相が分からぬままか、と途方
に暮れていたに違いない。そして、せめて武弘の証言が聞けたら、と。しかし、何と武弘の
証言を聞くことが出来たのである。どこから呼んできたのやら巫女を連れてきて、武弘の霊
を呼び出す事に成功した。武弘の霊は巫女の体を借りて語りだした。盗人は妻を手ごめに
すると、妻を慰めた。自分に付いてこないか、と。すると、妻は何と「では何処へでもつれて
行って下さい。」と言ったのだ。さらに、武弘を指して「あの人を殺して下さい。」と何度も叫び
立てるのだった。盗人は妻を蹴り倒して武弘にこの女を助けるか否かと聞いたそうだ。妻は
武弘がためらう内に逃げ、盗人も「今度はおれの身の上だ」と言って、一箇所だけ武弘の
縄を切った。そして、武弘の道具を持って去ってしまった。武弘はいつの間にか泣いていた
らしい。そして、妻が落とした小刀で一突きに我が胸へ刺した。静けさに包まれる中、誰か
が忍び足で近づいてきた。周りには暗雲が立ち込めていて顔は見えない。その人がそっと
胸の小刀を抜いた。武弘はそれきり永久に、意識が闇へと沈んでいった。
物語は武弘の証言と共に終わる。余韻の残る終わり方だ。まさに真相は藪の中である。
この物語の風変わりな点は事件の関係者それぞれが、自分が犯人だと主張し結局謎のま
ま終わってしまうところである。誰の証言が真実なのか。多襄丸、真砂、武弘の内の誰か
なのか、それとも木樵りや旅法師など別の人物が犯人なのか。この読者に投げかけられた
謎は多くの人々が推理しているが結論は未だ出されていない。というより、結論など無いの
だ、という研究者さえいる。ネットで調べてみると沢山それについての資料がある。どうかこれ
を読んでいる君にも沢山の研究者達の考えを参考に真相を考えて欲しい。
読者の諸君、「藪の中」を読んでみたくなってくれたであろうか。小説とは、人の紹介文
やあらすじを見るだけで全てが読み取れる訳では無い。この紹介文を読んで「藪の中」に
少しでも興味が湧いてくれたのなら是非読んでもらいたい。そして、前述の通り真相を考え
てみて欲しい。答えを出せ、とは言わない。自分の頭で考える事が大切なのだ。これをきっ
かけに本そのものを好きになってくれる人が一人でも増えれば良いと願っている。
◆◆◆
『吾輩は猫である』
澤柿大介
この小説はどちらかと言えばストーリー性を重視したものではなく、明治時代日露戦争前
後の日本における庶民の会話を書き表した、社会風刺の作品であったと感じる。しかし庶
民と言っても、偏屈な苦沙弥先生や法螺吹きの迷亭などの登場人物は皆どこか滑稽で
あり、彼らのおかしな会話もまたこの作品の見所である。
さて、この小説の主人公は題名からも察せられるとおり、猫の「我輩」である。彼は猫とい
う人外の立場から、苦沙弥先生の家や庭、町や風呂などいたるところを歩き回りながら人
間を観察し、自分の哲学をもってそのやること為すことにいちいち考察を加えている。ここで
注目すべきなのは、「我輩」は猫であるが故に、よくよく考えてみるとおかしな人間の行動を
冷静に観察し、例えば、苦沙弥先生が自分の顔のあばたを鏡で眺めその酷さを認めた様
子から、自己の理解という話題に発展させるなど、大げさに、ユーモラスに話をつらつらと
述べているところだ。これは猫という人間の常識が通用しない存在の視点から描かれるこ
とにより皮肉がより効いており、これもまたこの作品の面白さの一つとなっている。
この作品は著名であり、文学的作品として社会に認知されているのかも知れないが、私
はあえてその見方を推奨しない。なぜなら、前述したようにこれの見所は皮肉が効いた文章
であり、この作品は言わばコメディのような笑うために存在する、ふざけたものであると私は思
う。小説というなんとなく堅苦しい感じがする媒体を通してはいるものの、本質は落語などと
大差ないのだ。
だが、ただ笑えるだけではないところがまたこの作品の特徴でもある。
最後に「我輩」は甕に落ちて死んでしまうのだが、その際あがいたところで苦しいだけだと
気づき死を受け入れている。これは今までのおかしなストーリーとは対照的に、しんみりとした
落ち着いた感触が感じられる。今まであれほどユーモアに富んだ文章がつづられていたの
に、普通の物語と同じように、読み終わった後の置いて行かれるような感覚が残る。この作
品は先ほど書いたようにあまり真面目なものでないと思われるし、筆者も通常の物語として
書こうと思っていないことは数々のふざけた言い回しからも見てとれる。だが、このように普通
の小説のような読後感が残るのは事実であり、あの文章からこのような感覚を抱かせる結
末に転換させた技術は、この作品の本題とは少しずれるものの、優れたものだと思う。
そもそも、散々言ったようにこの作品は硬派なものではなく、紹介文を書くこと自体が私に
は馬鹿らしく感じられる。だが、それは恐らく小説とは真面目な主題を持っていなくてはならな
いという偏見を私が持っていた結果である。それを除けば圧倒的な量の語彙による独特な
言い回しと皮肉はとても濃密であり、ストーリー性を無視してユーモラスな文章を書くことだけ
を目指しているのに、読書感想文を書かされるような、社会に許された作品はそうそうあるも
のではない。だから、ふざけているとは書いたものの、洗練された文章という文学の大きな
目標の一つに近いものを持っているのは確かであり、文学界の奇作として是非一読される
ことをおすすめする。
◆◆◆
『蟹工船』
鈴木慶司
僕はこの紹介文を書くにあたり、何も読もうか悩んだが「蟹工船」を選んだ。小学校の時
の受験勉強でこの物語自体は知っていたが、プロレタリア文学という漠然とした知識でしか
なかったのでどんな作品か知りたいと思ったのだ。
大体のあらすじを書こうと思う。舞台はカムチャッカの海で蟹を採る船である蟹工船であ
る。この船には函館の貧民窟の子供達や秋田、青森、岩手などから来た漁夫や鉱夫な
どのいわゆるプロレタリアの人々がいた。つまり、自分の労働力を資本家に売ることで生活
する人々のことだ。人々は賃金を得るために必死に働いたがそこの環境は飯は茶碗一杯
分、風呂は月に二回などそれはひどいものだった。
ある日、船の一つが荒波の中、行方不明になった。その船はロシアに漂着した。そこで
船員達は現地のロシア人と中国人にプロレタリア階級の人々が団結すれば上の立場の
人間も倒すことができると教わった。その話は船員達により瞬く間に全員に伝わった。そし
て、それまで自分の不幸な境遇を嘆くだけだった人々は徐々に上の立場の人間に不満を
抱き、団結するようになった。人々は「赤化」した。人々は一向に変わらない劣悪な環境に
しびれをきらし、ついに集団ストライキを行い、人々の代表 9 人で船長や監督に要求をし
た。人々は歓喜した。しかし、数日後、船に駆逐艦がやってきた。その艦長は監督らと結
託していたため9人は捕らえられてしまった。人々は計画の失敗を嘆くが彼らは生死のはざ
まにたたされていたのでもう一度抗議を行うことを決意したのだった。
この物語の作者は小林多喜二である。多喜二はなにを思ってこれを書いたのだろうか。
多喜二自身も貧しい家に生まれ、窮迫した状況に生きていた。そんな中で書いたのだがこ
の蟹工船なのだろう。この時代は大戦景気によって、資本主義がもてはやされていたところ
であるが蟹工船でおこなわれているような労働者の支配やそれらへの虐待が本当にあっ
て、その行為によって金を搾り出し、都会で何の苦労もしない上の立場の人間つまりブルジ
ョワジーが富を得る。そんなプロレタリアートとブルジョワジーの理不尽な構図が本当にあっ
たのなら、それは資本主義ではなくただの拝金主義でしかない。多喜二はこれを書くに当た
り、取材をして、蟹工船の惨状を知った。だから、多喜二は最初は国家的事業という言葉
を信じて、無批判に働いていた労働者が過酷な労働によって、意識や行動を変え、上の
立場の人間に立ち向かう過程を描きたかったのではないか。拝金主義や労働の過酷さへ
の怒りが蟹工船での労働者たちが団結する核になりひいては多喜二の物語を描く原動力
になったのだと思う。
日本は今でこそ、資本主義国だが、何も考えずに社会主義を批判するひとをメディアで
よく見る。そういう人にこそ、この蟹工船を読み、社会主義とは何か、多喜二が伝えたかった
ものとは何かを今一度考えてもらいたい。
◆◆◆
『こころ』
妹尾朋樹
書生であった「私」は、旅先で後に「先生」と呼ぶ男に会う。二人は年も立場も違うが、
いつしか奇妙な友情のようなもので結ばれていく。しかしそんなある日、「私」のもとに届いた
のは、恋のために友人を裏切り、彼を自殺に追い込んでしまった過去が綴られた、「先生」
の遺書であった、というのは、明治、大正の文豪として名高い夏目漱石の代表作のひと
つ、「こころ」のあらすじである。この作品では、人間の身勝手さが「先生」の遺書に表され
ている。友人であったKを、現在の妻である女性と結婚したかったがために、同じく彼女に恋
していたKを裏切って彼女と婚約してしまった「先生」。もちろん、友情を裏切るというのは最
低である。しかし、友情を裏切らねば恋が実ることもなく、それはつまり、自分自身の気持ち
を無視することになってしまう。恋と友情の板挟みとなり恋をとった彼を、責められる人は少
ないのではないか。
人間というものは、「自己犠牲」の美談を好むものが多い。よくテレビなどでは、誰かを助
けるために命がけで云々といった話をよく放送している。自分もそういった番組を好んで見て
いるので人のことは言えないが、実際のところ、結局可愛いのは自分、ということになってし
まうのだろう。事実、「先生」と同じ立場に立った時、いったい何割が友情をとるだろうか。
自分がもし、自分の心と他人の心のどちらかをとれ、と言われて、他人を選べる自信は
ない。そう考えてしまうと仕方のないことではあるが、いざというとき自分の幸せしか考えられ
ないという身勝手さに我ながら呆れてしまう。しかも他人を傷つけたという事実は残るわけ
で、もしKのように自殺などされようものなら、一生その罪悪感を背負っていくことになり、かと
いって自分の気持ちに嘘をついて後悔するのも後味が悪い。どうすればよかったのか悩
み、直接KはないもののKを殺してしまったという罪の意識を持ちつつ、毎月Kの墓参りに行
った「先生」のどうしようもない辛さというのもわかる気がする。そして「先生」は、そんな自分を
友情の芽生えかけていた「私」に知られたくなくて、それまで「私」に過去を語ろうとしなかった
のかと思うとこちらまで苦しくなってくる。
長く、苦しい物語だが、そんな時自分はどうするだろうか、などと考えてみたいのなら、こ
の物語を読んではいかがだろうか。
◆◆◆
『小僧の神様』を読んで
藤島卓朗
僕が今回紹介文を書くにあたって読んだ本は、志賀直哉作の「小僧の神様 他十篇」
である。この中の短編のうち、僕は「小僧の神様」について書こうと思う。
この話は神田のある秤屋の店から始まる。この店に奉公している仙吉は、番頭たちがあ
る寿司屋の話をしているのを聞き、寿司が食べたくなった。二・三日後に使に出されたとき
に、貰った電車賃でその寿司屋で食べようとするが、ふと別の屋台が目にとまりそこに入
る。一度寿司を手に持つも、値段を言われ、電車賃では払えないことに気付き、寿司を置
いて仙吉は出て行ってしまう。
その一部始終を見ていた貴族議員議員のAは仙吉を哀れに思う。後日、体量秤を買いに
偶然仙吉のいる店へ来たAは、同情から仙吉にご馳走してやろうと考える。Aは秤を買い、
番頭に仙吉にお供してもらうことを願い出た。その際、名前と住所を聞かれるが、名を知らし
てご馳走するのは危険な気がしたAは、出鱈目な名前と住所を教える。
秤を買い終えると、Aは仙吉に寿司屋でご馳走し、お金を置いて帰ってしまう。
一方の仙吉は、ご馳走してもらった寿司屋が番頭達の話にあった所だったため、番頭達
が寿司屋の噂をしていた事や、自分が寿司屋で恥をかいた事、そして自分の思いを見透
かしてご馳走するという神業をAがやってのけたと思い込み、想うだけで慰めになる程仙吉
の中でAが神格化されるという内容である。
Aが仙吉に寿司を御馳走する場面では、仙吉に御馳走した後にAが抱いた「淋しい気
持ち」が細かく描かれている。このAの「淋しい気持ち」は、自分が良心を満たすという自己
満足のために仙吉に御馳走したのではという疑惑から生まれたものなのかもしれないと思っ
た。
さて、この物語は先ほど述べたあらすじの部分で完結しているが、作者はこの後に『実は
小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と、名前を教えてもらって其
処を訪ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人
の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった小僧は吃驚した。-とこういう風に書こうと思っ
た』とつづっている。しかし、そう書くのは仙吉に残酷な気がしてやめたと述べている。何故
作者は仙吉にとってこの事を書くのが残酷と思ったのだろう? 僕は、本当は人間のAで
ある「あの客」の正体を、想うだけで慰めになる程「あの客」を崇拝している仙吉が稲荷様と
勘違いしてしまうことを、作者はかわいそうに思ったのではないかと考えている。
この「小僧の神様」のような意味深長で面白い短編が盛り沢山なので、この本を是非
読んで欲しい。
◆◆◆
怪談「牡丹燈籠」と落語
藤本 崇史
明治一七年、有名な落語家であった三遊亭円朝が落語として上演した「牡丹灯籠」を
同年、若林 玵 蔵・酒井昇造の速記本として出版されたのが本作である。円朝はこの作品
を十五日間かけて上演しており、またこれは明の瞿宗吉の「剪燈新話」中の「牡丹燈記」
に由来したと言われているが、これは本作中の一部にしか見られず、作品の多くが彼自身
の創作であり、また後半に見られる復讐劇の部分は円朝自身がよく出入りしていた家に伝
わっていた話を元にしたものなのである。大きく分けて、前述の「牡丹燈記」を元にしたお露
の死霊と新三郎の怪談の部分と、後半の復讐劇の部分とこの話は二つに分ける事が出
来る。怪談の部分は、飯島平太郎の娘お露の死霊が、牡丹柄の燈籠を下げ、下駄をカ
ランコロンと鳴らして、愛する恋人である荻原新三郎の元に通い、新三郎は生気を奪われ
死に至るという有名な怪談であるが、円朝の語り口そのままに書かれて居る為、米とお露
が伴蔵に萩原新三郎に逢いたいからお札を剥がしてほしいと頼み込む場面などとてもリア
ルな描写で描かれている。また、お露が死ぬまでの経緯もしっかりと書かれており、完成度
が非常に高くなっていることも挙げられる。一方で復讐劇の方は、れっきとした勧善懲悪の
話ではあるが、主人に仕えた新参者の家来である孝助が、源次郎とお国が度々主人に
不義を働こうとするのを止めようとするが、孝助は二人に嵌められて過って主人に致命傷を
与えてしまい、結果的に源次郎が主人を殺すという結果になったことで激昂した孝助が、
二人に復讐をするという波瀾万丈な展開のストーリーに仕上がっており、二つのストーリー
が組み合わさったものが、この三遊亭円朝の最高傑作である怪談「牡丹燈籠」という作品
に詰め込まれている。また、この岩波文庫の「牡丹燈籠」には中国文学家・随筆家で一
九六八年に亡くなった奥野信太郎が解説文を載せており、こちらもとても解りやすく、面白く
充実したものとなっている。落語としても、文学作品としても緻密で完成度が高く、また充実
した作品に仕上がっているとつくづく感じた。
◆◆◆
夏目漱石『こころ』紹介文
松尾太陽
僕はこの紹介文を書くにあたって、ふつふつと沸き立つ妙な感動を覚える。なぜなら、僕
が紹介する作品は、「こころ」―漱石の代表作のひとつであり、今も多くの人に愛され続け
ている不朽の名作―であるからである。僕は多様な「世間的評価」を得ているものに対し
て、過去にそれを読み解き、解釈していった大勢の人々に自分が列することに、何とも言い
難い興奮を覚える性質なのである。そして、他の誰のものでもない、独自の見解を編み出し
たい、という激しい衝動に駆られるのである。だから、こういう機会が与えられてとてもうれしく
思う。それでは、まずは要約から入ろうと思う。
この作品は、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部構成になっている。「先生と
私」は、大学生の「私」が暑中休暇中に鎌倉で「先生」に出会ったところから始まる。東京
にもどった後私は先生と交流を重ねるようになるが、先生の態度のそっけなさや交流の狭
さ、孤独な隠遁生活を送っていることに不審に思う。やがて先生は私に度々教訓めいた
談話を口にするようになるが、その談話は大抵、不得要領に終わってしまうのであった。それ
らの教訓はすべて実体験に因ると考えた私は、或るとき遂に先生に過去の告白を迫る。す
ると、先生は自らの人間不信を打ち明け、死ぬ前に、自分がたった一人信用できる人に
なれますか、と問う。先生は、私のなかの「真面目」さを認め、いつか、過去をすべて告白
することを誓う。
「両親と私」は、私が大学卒業後、病に倒れた父の見舞いで帰郷するところから始ま
る。しかしながら、私は父の「無知から出る田舎臭さ」に不満を感じ、それと対比してひそか
に先生を敬慕する。このころ明治天皇が崩御し、明治の世が終わるのだが、それと同時期
に父の容体も悪化していく。やがて父が危篤となり、帰京を先延ばしにするが、先生からの
手紙をめくり読みするうちにそれが遺書であることを知り、父を差し置いて東京行きの汽車へ
飛び乗ってしまう。
「先生と遺書」では先生の壮絶な過去が、遺書という形で明らかになる。先生は幼くして
両親を失い、のち叔父の後見で上京するが、叔父に遺産をだまし取られていたことが発覚
し、若くして人間不信に陥ってしまう。その後、叔父とは縁を切り、「奥さん」と「御嬢さん」の
住む家に下宿するようになる。先生は次第に御嬢さんに恋心を抱くようになる。
同時期に、先生は養家を裏切って勘当された友人、Kの生活を思いやり、同じ下宿に住
めるように取り計らう。Kは宗教観に基づいた理想主義者であり、ひたすらに艱苦を繰り返し
修羅の道を進むがごとき硬骨漢であったが、やがて奥さんや御嬢さんと交流するうちに打ち
解け、柔らかくなっていった。
ある日、Kは先生に御嬢さんへの恋心を打ち明ける。先生は先を越されて焦り、Kに、恋
愛が否定される「精進」を信条としていたことを指摘するなど、Kを精神的に苦しめる。
そして、私はKがいない間に奥さんの承認を得て、御嬢さんと婚約してしまう。Kは一時平
常を装うも、一週間たたずに自殺するのであった。
大学卒業後に先生と御嬢さんは結婚したが、Kに対する罪悪感や自分も叔父同様裏
切り者だという自己嫌悪に苛まれた先生は、まるで生命を引きずるようにして生きるようにな
る。
それから長い年月を経て、明治天皇が崩御し、乃木大将が殉死すると、先生は遂に死
を決意する。そして、私宛に遺書を残し、「明治の精神」への殉死を決行する……
この小説には三人の青年が登場する。むろん、私、若き日の先生、Kの三人である。彼
らにはいくつかの共通点がある。まず、大学生であること。大学生といっても、当時の帝大
は現在の東大である。非常に優秀な青年たちである。それから、理想主義者だという事。
言い換えれば、精神の向上心が強い、という事である。また別に言い換えれば、世間の現
状に対して厭世的、ともいえるかもしれない。それから、叔父と決別して東京で孤立の生涯
を送る先生と勘当を甘んじて苦学に就いたK、それに父の危篤を差し置いて心の親である
先生のもとに駆け付けた私、いずれも親族より自らの理想を優先している点も似ている。
先生が私にすべてを打ち明けようと決心した時、私に「あなたは真面目ですか」と云った
が、この「真面目」というのが即ち理想を追求することであり、精神の向上心であり、この小
説の重要なテーマになってくるのではないかと思う。そう、このテーマは若者とは切っても切り
離せないものだと思う。いつの世も彼らは社会に対する理由なき反抗を感じ、自分の理想
を追求しようと思うもの。たとえば六○年代の学生運動の指導者、たとえば連合赤軍、たと
えば尾崎豊。それだけではない。ニーチェやマルクス、吉本隆明らに傾倒する若者はいま
でも多くみられるし、麻布生はとくにそういう面が強いと思う。「真面目」から生じる理想主義
というのは若者にとって普遍的な問題だと思う。
しかしながら、この理想主義がほとんどの場合挫折してしまうのも宿命だと思う。Kは今ま
で精進に努めてきた。しかし、恋心という抗えぬものを経験してしまった。自分の理想主義と
相反する欲―彼はどれだけ苦しんだであろうか。そしてそれに精神に向上心がないのは馬
鹿だ、といってのける先生もまた、自分は、自らを人間不信に陥らせた叔父のようにはなり
たくないという一種の理想主義が、絶対に御嬢さんを手に入れたいという欲望のあまり親
友を裏切り、死に追いやってしまったことで崩壊してしまう。すべての悲劇は、理想主義の終
焉に因るのだと思う。
そして、先生の死。先生は、「明治の精神」に殉死した、という。これは筆者自身が原稿
用紙上に先生という名の自分を投影し、自分の中の「明治」を葬り去ろうとしたのだと思う。
だとすれば、先生は明治の象徴である。話は飛ぶが、司馬遼太郎は「坂の上の雲」のな
かで明治を楽天家たちの時代、一朶の雲を追い続けた時代、と評した。これは、先生に
見られる精神の向上心の強さや理想主義に近いものがある。そして、先生が死んだそのと
き、漱石の中の夢見る時代、輝ける時代は終焉を迎えたのである。
◆◆◆
『食道楽』
杢 健人
「食道楽」は、一九〇三年一月より「報知新聞」上で一年間連載された新聞小説であ
る。作者は当時の「報知新聞」編集長であった村井弦斎。彼は「食道楽」のほかに、「酒
道楽」や「女道楽」といった道楽小説を書いているが、「酒道楽」は飲酒を、「女道楽」は
妾をつくることをいましめる内容となっている。「食道楽」も、村井弦斎自身は美食小説や
食通小説として書いたものではないと考えられる。二十一世紀になって世間に普及してき
た「食育」という言葉を百年ほど前の当時から作者は使用していた。作者は、全ての教育
の根源となる「食育」を重視し「食道楽」を執筆したと思われる。
内容についてだが、本作は小説としてはとても変わっており、本文はほぼ料理の紹介とレ
シピの解説を登場人物が行うという構成になっている。物語の形をとってはいるが、小説と
いうよりは、数多のレシピを擁する料理本という方がふさわしいかもしれない。
この作品は、大食漢の文学者である主人公の大原満が、友人の中川の妹で、容色も
よく料理もできるお登和との結婚を考えるが、二人の縁談がまとまってきたころに、郷里の従
妹であるお代との結婚を伯父に無理矢理持ちかけられ、両者の板ばさみとなって苦悩す
るというストーリーになっている。その中で、お登和が客人のために料理を拵えたり、ほかの
人にレシピを教える時などに料理の話題が出てくるのだ。本作に出てくる料理の種類は実に
豊富で、肉料理、魚料理、野菜料理、和菓子、洋菓子、果物などすべてのジャンルを網
羅しているといってもいい。
また、作中人物の意見に作者の主張がよく表れている作品でもある。例えば、高級な絵
を買うことに高いお金をかけ、安い台所用品に金を惜しむことを作中で中川が嘆いている
が、これこそ、贅沢品ではなく毎日の食事に金と手間をかけるべきであるという作者の強い
主張が伺える。
世相も取り入れており、作中で問題となっていた血族結婚による生理上の害は、連載し
ていた当時に注目されていたことであった。
この作品は「食育」に重点を置いて書かれている。現在「食」というものをおろそかにして
いる人も多いだろう。そういう人に、「食」について見直すために読んでもらいたい作品であ
る。
◆◆◆
〈七組〉
『三四郎』
宇田航希
「三四郎」は明治時代、日露戦争が終わったころの物語である。
主人公の小川三四郎は大学入学のために熊本から東京に来た。東京へ行く途中で
出会った婦人や男の行動や考え方が自分の今までの常識と違うことを感じ、「現実世界」
を知ることが必要だと思う。
そして東京についた三四郎は光の圧力を研究している野々宮宗八、その妹のよし子、
大学で隣の席の佐々木与次郎、その佐々木が師事していて三四郎が東京へ出る途中
で出会った広田先生、そして後々三四郎が興味を持つようになる美禰子と出会う。
この話は、ごく日常の事を書かれている。そのため読みやすくなっている。
この話の最初の読みどころは東京に出てきた三四郎が自分の生まれた熊本とのギャッ
プに驚いていることだろう。これはたとえば熊本で日本の悪口を言うと国賊扱いされるが、
広田先生は平気で日本は滅びると言っていて、三四郎は自分も広く物事を考えなければ
ならないと思ったことなどだ。
また与次郎や広田先生の話も面白い。与次郎が書いて雑誌に投稿している「偉大な
る暗闇」という文章は全く実がないが、勢いがあるのでなぜかしっかりと読んだなという気分
になってしまう。
この話の中で三四郎は美禰子に恋心を持つようになる。美禰子は不思議な人間であ
り、迷羊(ストレイシープ)という難しい言葉を使ったりする。
結局美禰子は嫁に行くことになるが、この時三四郎に言った言葉が「われは我が咎を知
る。我が罪は常に我が前にあり」である。これは旧約聖書にある言葉で三四郎との別れの
時に三四郎の心を惑わしたことを自認している。
そしてこの物語の一番の特徴は「絵」を題材にした話が多いことだろう。それは原口という
画家が登場したり、西洋絵画について議論したり、美禰子の肖像画が展覧会に展示され
たりすることだろう。どれも読んでいるだけでその絵が浮かびあがってくるようだ。これはこの話
全体に共通していることで、話を読みやすくしている理由になっているだろう。
このように三四郎は一見単純に見えるがさまざまな不思議な仕掛けがたくさん施されてい
て読む人を最初は親しみやすくし本の中へ連れ込んで、そしてだんだんとその仕掛けで奥
深くまで引きずりこんでいる。
◆◆◆
『マクベス』の紹介
加納裕士
『マクベス』とは、シェイクスピアの代表作の一つです。本屋で気になったので、紹介した
いと思いました。
『マクベス』は、シェイクスピアの中ではとても短い劇で、『ロミオとジュリエット』と同じく悲劇
の物語です。
世界ではスコットランド軍とノルウェー軍の戦争が起き、勝利の報告を受けたスコットランド
の王ダンカンは、将軍のマクベスと、マクベスに就いたバンクォーの戦いを讃えました。しか
し、マクベスとバンクォーはある三人の魔女に出会います。魔女は、マクベスは王になり、そ
の後、バンクォーの子孫が王になると予言して去っていきます。勝利の宴会では、予言の
一部が実現し、マクベスは、魔女の予言を妨げになるダンカン王を、夫人と協力して、暗
殺します。それに恐れたダンカン王の息子たちは逃亡したので、それを利用し、マクベスは
暗殺の罪を逃亡した王子に着せました。こうしてマクベスは王になります。しかし、予言には
バンクォーの子孫が王になるとあったため、それを恐れ、マクベスはバンクォーとその家族の
暗殺を実行します。
バンクォーは死に、息子のフリーアンスは逃亡します。マクベスは安堵しますが、バンクォ
ーの亡霊の姿をみてしまい、不安に陥ります。マクベスは再び魔女を訪ね、予言を聞きまし
た。その内容は、「森が進んでこない限り安全」というものと、「女の股から生まれたものには
倒されない」の二つで、起こり得ない二つの言葉を聞き、またも安心します。
しかし、有力な豪族のマクダフが亡命してきたのを聞くと、マクダフの家族を次々に殺し
ます。すると、国民からの支持は減り、ついにマクダフはマクベス討伐に向けて行動し始め
ます。マクベスは予言を信じ、立てこもりますが、マクダフ軍が森のように木の枝に隠れなが
らやって来るのを見ると、自暴自棄になります。それでももう一つの魔女の予言を信じて戦
場に出ますが、最後は、帝王切開によって生まれていたマクダフに殺されて、ダンカン王の
息子であるマルカム王子が王になります。
シェイクスピアは、心理を文に表すことにとても優れていて、その作品は数多くのオペラや
ミュージカルで上演されています。
シェイクスピアが亡くなってから五百年という長い年月が過ぎた今も、とても人々に愛され
ています。
僕もこの本や僕の所属する演劇部を通じて、シェイクスピアにとても関心を持ちました。
◆◆◆
『灰色の畑と緑の畑』
後藤龍太
この本は、子供たちが主人公で、離婚や戦争、貧富の差に共働きなど、世界で起きて
いることを題材とした十四編で構成されている。道徳的な本で、小学校高学年から中学
生までが、主人公の気持ちを読み取りやすい本だと思う。そのうちの半分の七編を紹介す
る。
「よその子供たち」は、池通りの子供たちと、汽車道の子供たちの関係が変わっていくスト
ーリーである。汽車道は車の通る道で古い砂利穴に通じて無料宿泊所が三軒しかなかっ
た。池通りは新しい住宅地だ。池通りに新しい人が引っ越してきた時、二つの地域の親
は、子供に「汽車道の子供とは遊ぶな」「池通りの子供とは遊ぶな」と互いに言っていた。
初めは、言われたとおりに遊ばず仲が悪かったが、池通りのカルステンと汽車道のフレディ
ーたちが、トルコの祭りで一緒に遊んだことがきっかけで、仲良くなっていった。皆さんも小さ
い頃のことを思い出す話ではないだろうか。
「灰色の畑と緑の畑」は、水が流れなくろくな物が育たない灰色の畑を持っていて、山の
上で貧しい暮らしをしているフワニータと、水が十分に流れ、緑色の畑をたくさん持ってい
て、谷で裕福な暮らしをしているフワニータ。この二人のフワニータが主人公である。この
二人は三度会ったことがある。一度目は山の上フワニータが谷に下りて、白い塀に登った
時に、プールや大きい家とブランコに乗りながら本を読んでいた谷間フワニータが見えた
が、気付かれて「すぐに下りろ」と谷間のフワニータに注意されてしまった。二度目は、谷間
のフワニータが馬に乗って、山を登ってきた時、山のフワニータは道端で遊んでいた。その
時、谷間のフワニータのしゃべり声が聞こえてきていた。これが二度目だ。三度目は山のフ
ワニータに弟ができ、その祝いのときに父と村の人が、「谷間の人たちのために働かずに
自分たちのために働こう」と話していたことを、誰かが領主に告げ口をしたために、父と母は
職を無くし、しょうがなく谷に下りて町に行く事にした。その道中に、谷間のフワニータを見た。
その時、谷間のフワニータは「何かあげて追い払ってよ」と兄に言い、兄はお金を投げつ
け、近くにいた男の子が集まって奪い合いとなり、それを見ていた谷間のフワニータに笑わ
れ、お金をとり、谷間のフワニータの顔面に投げつけた。この話は、貧富の差が題材だ
が、貧富の差が広がるとこうなるのかと感じさせられる話ではないだろうか。
「夜の鳥」は、少しこわがりな男の子が主人公だ。その男の子は、夜、両親が出かけて
いる時に夜の鳥が窓に留まっていると言うが、親は気の所為で、思い込んでるからだと言
う。ある夜、いつものとおり、両親はいなかった。両親はカギをわすれたのでベルを鳴らした
が、男の子は怖がって無視をした。親は聞こえなかったのかと思い、工事場から棒を持って
きて、男の子の部屋の窓を叩いたが、それを男の子は夜の鳥が壁を上ってきて、窓をつつ
いていると思い、花瓶を投げて、窓を割ってしまった。親に怒られたが、その日以降夜の鳥
はいなくなった。これを僕は、男の子が鳥を追い払ったと思い込んだことによるものだと思う。
「お茶の時間」は、ディウというむじゃきな少年が主人公だ。川岸にある小さい村の一つ
の家、ディウの家では、うちの家から出る細い煙なんか見ないと、飛行機の飛んでくる時間
に、お茶を入れるため、火をおこしていた。飛行機が飛んできた時に外に出ていたディウとデ
ィウの兄ソンとディウの父の三人のうち、ソンとディウが撃たれてしまい、ソンは死に、ディウは
歩けなくなってしまった。この話は戦争が題材だ。戦争の悲惨さを感じさせられる。
「ハンネスがいない」は、おとなしいハンネスが主人公の話だ。みんなは遠足にきてい
た。町に戻ろうとしたとき、先生がハンネスがいないことに気づく。そこで、先生とバスの運転
手が探しに行った。その間はみんな静かにして待った。ハンネスが帰ってきて、みんなはハン
ネスのことを不思議に思い注目していて、ハンネスはみんなが注目してくるのを不思議に思
った。この話は、ハンネスという子は、このクラスにもとからいたのかと疑問に思うところがいく
つかある不思議な話だ。
「ぶす」は、姉のコリナと妹のギギが主人公だ。コリナはききわけが良くなくてはならなかっ
た。そして、小さいものが好きだった。対するギギは大きいものが好きであった。ある日、おば
さんが好きなおもちゃをそれぞれに買ってくれた。コリナは小さい折りたたみ椅子と人形、ギギ
はその店で一番大きな人形を買ってもらった。家に帰るとギギはコリナの折りたたみ椅子に
人形を座らせようとしたため、椅子が壊れてしまった。コリナは怒るが、結局は許す。兄弟が
いる人は、コリナやギギの気持ちがわかるのではないだろうか。
「マニのサンダル」は、精神貧弱のマニが主人公だ。マニは体が大きく、ひげがある。マ
ニは新しいサンダルをもらった。マニはそのサンダルが気に入り、子供たちにもサンダルのス
ベスベした皮をなでさせたかったのだが、逆にいじめられ、サンダルがぼろぼろになってしまっ
た。家で洗ってもらって、また外に出るとさっきの子供たちがいた。この話に出てきたマニは、
うまくしゃべれず、体は大人のようだが、口の利き方は幼いので、いじめられてしまったのだ。
いじめがあった時、止める人はいたのか。あなたは止められるだろうか。そんなことを感じるよ
うな文章だった。
「双子の魔女」は、ある町に住んでいる年取った二人の女の人マルタとヘルミーネが主
人公だ。町の他の人がどうしていたかを知りたがっていた。二人は別々の店に行っていたの
で、お互い違う情報を手に入れられていて、よく通りに面した窓際に座り、目で情報を確か
めた。マルタとヘルミーネは向かいのカトリンとレナーテを家に呼ぼうとしたが、人形でもあめ
でもガムでもアイスでも失敗し、カトリンたちはマルタたちの家の前をこっそりと通るようになっ
た。それをなぜか聞いたら、「窓から乗り出して見ないと見えないことじゃない」と聞き返され
た時、「それが見えるのよ、曲がった所も全部。」と答えたため、二人は、子供たちから魔女
と呼ばれるようになってしまったので、二人は一緒にしか買い物に行かなくなり、窓際にも座
らなくなった。そして、マルタが死んだ時、ヘルミーネは引っ越してしまった。そしてその村に
は、窓を開けなくても、通りの様子が全て見えてしまう、窓鏡だけが残ったということを耳にし
たカトリンとレナーテは、それを教えてくれた人に、あの人たちは耳がよく聞こえたかを聞いて、
近くにいる女性が知っていたが、「もう遅い」と言われ、教えてくれなかった。この話は老人の
孤独さが伝わってくる。
まだ他にも七編あるので、ぜひ読んでみてください。
◆◆◆
寺田寅彦短文集「柿の種」~過ぎ去った時間の中で
小西雅浩
書店で手に取ったこの本のカバーに「なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のある時
に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」とあった。夏休みの読書にはもってこいだ。随筆
なので読みやすい。僕は即決した。
著者は一八七八年(明治一一年)生まれ。物理学者であるとともに、夏目漱石からも
教えを受けている。よく文系と理系がお互いにわかり合えず、対立している模様を見かけ
る。
この人たちはどこまで平行線を辿るのだろうかと思ったりするが、著者のように両方の分
野に長けていると、物を見る時あらゆる方向からの視点があることは、より良き創造、より良
き選択ができるのではないかと思う。
この作品が書かれた大正九年から昭和十年というのは、関東大震災が起こり、世界
恐慌を発端として暗黒の時代へと突入していく時で、そんな中、日常の一コマ一コマが優
しい目で書かれている。今読んでみると、自然に対する描写は現在とはさほど変わったとこ
ろ
がない印象だ。震災から復活していく様子が書き留められていることに、僕は少なからずホ
ッとした。
全部を通して読んだ後に気が付いたのは、著者の死の直前、昭和十年に死を予感さ
せる文章をいくつか残していることだ。人柱、絡み付く女の髪の毛、死刑囚の顕微鏡写真
の標本、交通事故、見世物などたくさんあった。病魔に襲われながらもこの文章を書いたと
き、いったい作者はどんな気持ちだったのだろうか。こんなことを考えていると、胸が締め付
けられるような気がする。
最後に、僕が一番心に残った「三から五を引くといくつになる」という文章について書い
ておきたい。三から五を引くとマイナス二というのは代数の約束。この約束を知らない
小学生がゼロとだと答えると間違いだ。しかし小学生が小学生なりに解釈した結果であ
る答えは、小学生にとっての正解であり真実である。数学に限らず、約束を無視し型から
外れた解釈もありといえるが、一般的な見方ではそれは間違っていると言われてしまう。芸
術などでは、常識にとらわれない考えでいろいろなことをしている人がいる。しかし、それはな
かなか常人には理解されない。
僕にもいろいろなことを考えさせてくれたこの著者を、僕はもっと知りたいと思うのである。
◆◆◆
志賀直哉『小僧の神様 他十篇』について
椎名達郎
昨年現代文の授業で、志賀直哉の書いた『赤西蠣太』と『清兵衛と瓢箪』を読み、登
場人物はみんなまじめで、ストーリー展開も重苦しいものなのに、読後に何かおかしみを感
じる文章が印象的に思っていた。
『小僧の神様 他十篇』の表紙には、「志賀直哉は他人の文章を褒める時“目に見え
るようだ”と評したという。」と解説が記されてあった。この短編集はその通り、日常生活で起
こったちょっとした微妙な心の変化をとらえて、それを端的に物語にしている作品ばかりだっ
た。
ぼくは特に志賀直哉の代表作で、この本の表題にもなっている『小僧の神様』に興味を
引かれた。
秤屋の小僧の仙吉は一度思い切りすしを食べてみたかった。ある日、仙吉は思い切って
すし屋に行くが、にぎった鮪の値段を聞いて、払えず、食べずにすごすごと店を出て来てしま
った。それを見ていた貴族院議員のAは、なぜ自分はおごってやらなかったのだろうと後悔
する。その後、Aはたまたま仙吉を見かけた。Aは仙吉をうまく連れ出しすし屋へ連れて行っ
た。Aはすし屋にお金をたくさん払い、仙吉だけ店に入って腹一杯すしを食べた。仙吉はA
が払った分のすしを食べることができなかったため、すし屋のおかみにまた来るよう言われた
が、その店に行くことはなかった。Aも小僧にすしを食べさせたいという思いを達成したという
のに寂しい気持ちになった。
この作品の中でぼくは二人の心の対比に注目した。Aはすしをおごった後に「この変に寂し
い、いやな気持ちは。なぜだろう。何から来るのだろう。ちょうどそれは人知れず悪い事をし
たあとの気持ちに似通っている。」と思う。しかし仙吉はAに対して「神様かもしれない。それ
でなければ仙人だ。もしかしたらお稲荷様かもしれない、と考えた。」「彼は悲しい時、苦しい
時に必ず“あの客”を思った。」という。Aは「一種の寂しい変な感じは日とともにあとかたなく
消えてしまった。」というのだが、仙吉はAのことが「ますます忘れられないものになって行っ
た。」と、Aに対する思いはつのる一方である。ぼくは二人のこの相反する心情がおもしろい
と思った。
志賀はお金に困らない裕福な家庭に育ったという。そのためか文章が心に余裕のある、
おおらかなものに感じられる。そこが「おもしろい」と感じる理由だと思う。
志賀はこの文章の終わりを「仙吉はAの住所に訪ねて行ったが、そこにはAの家はなく、小
さい稲荷の祠があるだけだった。」というような結末にしようとしたらしい。しかしそうしなかった。
もし、その結末にしていたら、空想的な、おとぎ話のような話になっていたと思うが、志賀は
現実を重視し、わざとらしい技巧を嫌った人だったから最後の場面を書かなかったのだと思
った。
志賀はどんな小さな、普通なら見逃してしまう出来事も真剣に見つめ、そこからすばらし
い作品を生み出した。だから、ぼくらには見えないものも見えていたのかもしれない。そんな
志賀が自ら選んだという十篇はとても読みごたえがあり、現在あまり感じられない感情をぼく
に教えてくれた。
◆◆◆
『新美南吉童話集』を読んで
竹田慎次朗
この作品はあの「ごんぎつね」を書いた新美南吉の童話集です。
この童話集は僕が小さいときから親によく読み聞かせてもらっていて、漢字が読めるよう
になってからは自分でも読んでいました。この童話集の童話は結末が分かっていても不思
議と飽きなかったので何度読んでも楽しめました。
この童話集にはハッピーエンドだけでなく、物悲しい作品なども多く納められています。
その中でも僕が好きな作品は「鳥右エ門諸国をめぐる」と「小さい太郎の悲しみ」です。
「鳥右エ門諸国をめぐる」は、主人公の武士、鳥右エ門がある日今までの行いを反省し
て人の役に立とうと旅に出るというお話です。鳥右エ門は犬追物という犬を射殺す遊びが
大好きで、ある日その犬追物をして遊んでいるときに召使いの平次が自分のことを責めるよ
うに見てくることが気に入らず、彼の片眼を射つぶしてしまいます。それからしばらくして、鳥右
エ門は屋敷を出た平次に出会います。平次はここでも鳥右エ門のことを鳥や獣の命をとる
ことが偉いものかと責め、人のためになることをしてこそ偉いと説きます。それを鳥右エ門は
自分に悪口を言ったといい平次の残った片眼も射つぶしてしまいます。しかし鳥右エ門は
平次の言葉が耳に残り、人のために生きようと旅に出ます。
この童話の中で鳥右エ門が坊主になって、釣鐘を村に作ろうと諸国をめぐっていたとき
に、ある村が洪水に襲われ、人々が苦しんでいるという話を聞きます。その時の鳥右エ門
の自分の村に帰って鐘を作るか、その村の人々に金を恵みに行くかという葛藤は共感でき
ました。
他にも、この童話集には子どもから大人になってしまう悲しみや、子どもの純粋さ故の残
酷さなど様々な心が描かれていて、どの話にもどこかしら共感できる部分があります。そうい
ったところもこの童話集に飽きない理由なのかもしれません。
◆◆◆
『暗夜行路』を紹介する
平澤陸
今回僕が紹介する本は、岩波文庫、志賀直哉咲くの「暗夜行路」という小説の前篇で
す。なぜ僕がこの本を選んだかというと、去年、志賀直哉の短篇集の中の「赤西蠣太」と
「清兵衛と瓢箪」という短編を読み、志賀直哉に興味を持っていた、というのが大きな理由
です。他にも、有名な小説だったので読んでみたかった、というのもあります。
「暗夜行路」は、主人公、時任謙作が六才の頃の祖父、母、父に関する追憶から始
まり、ます。謙作は六歳のころ、他の兄弟が全員家に残っているのに、一人だけ不意に現
れた祖父に引き取られます。祖父の家は、全てが貧乏臭く下品に謙作の目には写りまし
た。面白くはありませんでしたが、このような不公平には幼児から慣らされていました。しかし、
この不公平には出生からの理由が有りました。その後、この物語は追憶から普通の物語
に戻ります。おそらく謙作は社会人になっており、小説を書いています。そして、小説つなが
りの友人とはじめての吉原に行き、そのあともよくいろいろな友人たちと行くようになります。そ
こでの出会いが、謙作を動かします。
しばらくした、謙作は尾道に仕事のために一時的に住みます。しかし、一人になることを
望んで移ったものの、心からの孤独を感じ、また、あることと中耳炎により、東京に帰ります。
そして古本屋に行き、吉原に一人で行き、女の乳房を揺すぶり、それが彼の空虚を満たし
てくれる、何かしら唯一の貴重な物、その象徴として感じられた、というところで終わっていま
す。
この本の最大の読みどころは、謙作が恋をしたり、しかけている場面だと思います。謙作
の心情が詳しく書かれていますが、難しいという訳ではなく、どちらかというと楽に読むことが
できました。おすすめの一冊です。後篇も早いうちに買い、読んでみたいなと感じました。
◆◆◆
『生れ出ずる悩み』
永田哲也
私は、自分の仕事を神聖なものにしようとした。ーこの作品は語り手、私が綴る「君」の物
語だ。
私が君にはじめて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。
ある日、君は自分の描いた絵を見てもらいたいと訪ねてきた。
ぶっきらぼうに差し出された絵には不思議な力がこもっており、その才能に驚かずにはい
られなかた。
君は北海道の岩内出身で、家の都合で帰ってしまう。
やれるでしょうかと君は問う、君の絵で生きていけるかどうかを。私には答えられなかった。
また見せに来ます。君はそう言い立ち去った。
十年の歳月が過ぎ再び君と会った。その頃私には妻子がおり、文学者となっていた。
ある日私に魚臭い小包が届いた。干物か何かと思い開けてみると君からの三冊のスケ
ッチ帳と手紙で、北海道の風景画だった。
それは本当の芸術のみが見得るものだった。
君に会いたくなって私は北海道へ行き、私の農家へと呼んだ。
十年ぶりに会った君はあまりにも変わり果て、屈強な男になっていた。
君と夜明けまで話し、君に起こったことを知った私。
君はもともと東京の学校に通えるほど裕福な漁師の子だったのに、魚がとれなくなるにつ
れ貧しくなり、
自分も漁師にならざるを得なかったということを。
君と何度となくやり取りした手紙によって私は再び語りだす…。
そこには厳しい北海道の気候の中、君たちが一生懸命漁をしていることが私により描か
れていた。
ある日、君は遭難しかけたが死にはしないぞという執念のもと無事生還した。
君の心の中では絵が描きたいと叫び続けていたが、家での貧困により働かざるを得なか
った。
春になり君にいくらか自由な時間を得られると君は再び絵を描きはじめるがまわりに笑わ
れる。
ある日君は山を描いていたが、この時間にも家族が働いていると思うと罪悪感を感じ、
いてもたってもいられなくなり、追い詰められて自殺しようとする。
地球上にはこの瞬間、君と同じような苦しみを持つ人がたくさんいる。そして地球は生きて
呼吸をしている。
-冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春が微笑めよ
かし・・・僕はそう心から祈る。
そんなある青年の苦悩を描いたものだったが、あなたは自分の夢と家族どちらを選ぶの
だろうか。
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『「富嶽百景」「走れメロス」他八扁』
野谷拓夢
今回、僕が紹介するのは、太宰治の『「富嶽百景」「走れメロス」他八扁』である。
この本は、題名からも分かるように、「魚服記」「ロマネスク」「満願」「富嶽百景」「女生
徒」「八十八夜」「駆け込み訴え」「走れメロス」「きりぎりす」「東京八景」の十作品を集録し
た短篇集である。この本を紹介しようと思った動機は、一学期に「走れメロス」を学習し、太
宰作品に興味を持った事にある。本来ならば十作品、全てを紹介したいが、長くなってしま
うことを考慮し、太宰作品の代表作ともいえるニ作だけを紹介しようと思う。
「富嶽百景」のあらすじは、思いを新たにする覚悟で旅に出た小説家の「私」が、富士
山が見える茶屋のニ階で秋から冬にかけて一つの小説を書いていく、というものになってい
る。
太宰作品といえば、苦しむ人間の姿が描かれたものが多いが、この作品は、どちらかと
いうと明るいイメージを持った作品だ。「私」が見る富士山の外見的変化を繊細かつ雄大
に描写することで、富士山に関する嫌な思い出を持っていた「私」の内面の変化を表現し
ており、まさに素晴らしい出来となっている。この作品は死ぬまでに一回は読んでおいた方
がいい作品だろう。
次に「女生徒」を紹介する。この作品は、十四歳の「私」の視点で、戦時下における彼
女の日常を描いたものだ。
この作品の良さはやはり読みやすさだろう。執筆されてから約七十年経った今でも、途中
でページをめくるのを止めることなく読むことができた。「私」のものの捉え方は、単純だが複
雑な部分もあり、おもしろく、戦時中であることを感じさせない生命力を持っている。性別と
時代は違うが年齢は同じ僕にも共感できることがいくつかあり、些細なことに対しても喜怒哀
楽を感じる彼女の姿は現在の中学生にも通じるものがある。
この本に集録された十篇は、四度もの自殺未遂を乗り越え、結婚し、生活が安定してき
た三十代前半の太宰によって書かれたものだ。だから、「人間失格」といった、人間の苦
悩を描いた作品ばかりと思われがちな太宰作品が苦手な人にも、読みやすい作品が多
いだろう。太宰作品を始めて読む人には、この本に集録されているもののように明るい作品
を読み、その後で「人間失格」などの暗い作品を読むことを僕はお勧めする。
太宰は人間の内面を映し出すことに長けている。もちろん今回の十作品もそのような作
品がほとんどだ。太宰作品の主人公と自分を照らし合わせ、共感することができれば、あ
なたも本当の自分を発見することができるかもしれない。
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『人間失格』
馬目博志
この作品は四つのまとまりに分かれている。「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第
三の手記」の四つをそれぞれ紹介する。
「はしがき」はこの作品の主人公の三枚の写真について、著者が自らの考えを述べてい
るものである。
「第一の手記」は主人公の幼少時代が主にかかれており、主人公の少し変わった性格
や、主人公が人の感情を恐れること、主人公の道化に対する周囲の反応などがテーマと
して、かかれている。
「第二の手記」には中学校以降の事が書かれており、前半は道化を演じ切るために主
人公がいろいろな画策をしたこと、後半は堀木という友人が出来、その頃から、世の中の
営みの不可解さに恐怖感を覚えるようになって、ある事柄をきっかけに、付き合っていた女と
共に、海に入水し、女だけが死んでしまう。その事から、主人公は罪人扱いされてしまい、
監禁生活を強いられるようになったことが書かれている。
「第三の手記」には罪人とされ、後悔をして生活していた主人公が、また自殺を図り、
失敗して狂人とされてしまい精神病院に入れられてしまった主人公の姿が鮮明に書かれて
いる。
この話は、太宰治が人生の中で感じてきた、人間の本来の姿や、世の中の営みの不
可解さなどについて書いているものである。人間の苦悩やもともと持ち合わせているエゴが
よくわかる作品である。
自分は内容も知らず、興味本位で、この作品を選んだのだが、なかなか奥が深い作品
であることが分かった。道を間違えたら見るも哀れな姿になってしまうことが、身に染みて分
かった。
この作品はなかなか面白いので、一度読んでみるとよいと思う。
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『山椒大夫』を読んで
村越裕太
ゆたかな情景描写と時代の情緒あふれる文章に、どんどん惹きこまれてしまう作品だ。
この小説のルーツは、中世末から近世初めにかけて庶民の間に流行した「さんせう大
夫」という説教節だそうだ。母親との再会をはたす感動的な結末ながら、原作では、厨子
王を逃がした安寿に厳しい拷問が行われたことや、出世して丹波の国司となった厨子王
が、山椒太夫一族への復讐としてのこぎり引きの残酷な刑に処する模様が語られていると
いう。
二人に課せられた苛酷な労働や安寿に対する拷問などの話からは、当時人身売買
がふつうに行われていた事実や、その買主の残虐非道な姿が浮かび上がってくる。また、
厨子王の復讐談は、抑圧に苦しめられていた中世社会の庶民の「解放」への強い願望
が察せられるところだ。
鴎外によって、原作の雰囲気は一変させられた。国司に出世した厨子王によって人買
いを禁じられた山椒太夫一族が更に栄えていくさまは、ちょっと興醒めの感があるものの、
恩人の曇猛律師を僧都に任じ、安寿をいたわった小萩を故郷に返してやり、また、安寿が
入水した沼のほとりに尼寺を建立するなどの徳目の施しが、やがて厨子王を母親との再会
へと導いていく。
山椒太夫一族を罰しなかったのは、人買いは何も彼らだけの悪事ではなく、当時のふつ
うの社会現象だったという冷静な判断か。それに、原作のままだと、厨子王の単なる意趣
返しの物語になってしまう。
「山椒太夫」を読み終えてひたすら思うことは、安寿のこよなき存在感とその魅力に尽き
る。少女でありながら終始ただよわせる大人びた憂い、同時に凛とした気丈さを兼ねそなえ
た安寿は、鴎外の作品のなかでもっとも魅力的な女性像と評される。
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『こころ』を読んで
山本零
主人公の『私』は鎌倉で『先生』と出会う。『私』は夏休みの帰省先で『先生』の遺書を
読む事となる。『先生』は学生時代、一緒に泊まっていた友人のKを泊まっていた家の『お
嬢さん』の奪い合いで自殺に至らせた。『先生』はKを自殺に至らせた事を苦にして自殺し
てしまう。以上がこの物語のあらすじである。
僕はこの物語を読んで、『先生』がなぜ自殺に至ったのか考えてみた。『先生』はKが自
殺した直後、Kの自殺動機を失恋によるものと簡単に決めつけてしまった。しかし、『先生』
はKの自殺動機を寂しさだと理解する。そして自分もいつかそうなってしまうのではないかと思
ったのだ。その思いが『先生』を罪滅ぼし的な行動へと誘ったのだと思う。そして、世の中が
嫌いになり、周囲が嫌いになり、遂には自分までもが嫌いになってしまったのだ。
この物語に於いて悪役は登場しないが、強いて言うならば『お嬢さん』は悪役である。
『お嬢さん』が『先生』とKの間でどっち付かずの対応をせず、『先生』なら『先生』、KならK
が好きだとはっきりしていれば、Kが理解しようの無い孤独感を得る事は無かったのではない
か。
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