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﹁英 ・ 独 ・ 日 ・ 韓 ・ 中 、 用語辞典 ﹂ をまと め 終えて

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森鉄工 ㈱ 取締役
林
一
雄
﹁英・独・日・韓・中、ファインブランキング用語辞典﹂
をまとめ終えて
明治から昭和の初期まで日本ではドイツ語
Blanking という三通りの言葉を使って我が
を学ぶ人は多かったが、1945 年以後になると、
国に最初に紹介した記事を目にして間もな
ドイツ語を学ぶ人が少なくなり、英語が共
く、博士が帰国したので学識者が集まって帰
通語として社会でも広く使われるようになっ
国歓迎会を開催し、その会場で数個のサンプ
た。しかし、機械、音楽、医学などの資料を
ルを手にした。
参考にする者は、例外的にその後でもドイツ
その技術をもう少し知りたいと訪ねた東
語、フランス語を用いた。
京大学の前田禎三博士、能率機械 ㈱ の大木
1958 年に工学部の機械科に入学してドイツ
重 吉 社 長 か ら 譲 り 受 け た Werkschtad und
語に魅力を持ち 4 年間は継続してドイツ語を
Betrieb などはドイツ語で書かれていたので、
受講し放課後には、近江兄弟社で行っていた
ドイツ語なら判ると読み始めたところ、2 日
学生向けのドイツ語教室に通ってドイツ人宣
かけても 1 頁を訳すのが限度であったが、マ
教師からドイツ語の会話を学んだ。
イプレスの輸入代理店であった海外通商 ㈱
あるとき、日頃からお世話になっていた教
では、上出来だと喜んでくれた。
授からドイツ語を学ぶ良い機会だから春休み
間もなくすると社長の工藤峻氏から呼ば
に工作機械の名門の貿易商である海外通商 ㈱
れ、ご息子の歓迎会に出席したことに感謝さ
でアルバイトをしてみないかと紹介され、見
れ、精密打抜の開発されたスイスに駐在しな
本市の機械出品の準備から撤収までスイス技
いかと誘われ、半月ほど後に「行かせていた
術者の手伝いをすることになった。
だく」と返事をした。
順調に見本市を終えた時には、その貿易商
就職先が決まると気楽になったので学校で
の社員とスイスの機械メーカーの駐在員とも
授業のない日には会社に出社することにし
親しくなり、社長の工藤峻氏から卒業したら
て、英語は苦手であったので女性社員も全員
入社しないかと誘われた。まだ 2 年になった
が流暢な英語を話していたのには劣等感を
ばかりで漠然とではあったが将来は大学院に
感じていたある日、男性のセールスエンジ
進学しようかと思っていたので即答はせず、
ニアたちが外出した留守に電話のベルが鳴
春・夏の休暇になると出社してスイス人技術
り、近くにいたので応対に出たら不幸なこと
者の通訳として過ごし、アルバイトの報酬の
に英語で話しかけられ、驚いて受話器を落と
一部でドイツ語の機械関係の書籍、独英・英
してしまった。先輩格のお姉さんから「Just
独辞典などを購入していた。これらは、1909
moment please と言って他の人に替わって貰
年に Cassel 社、1929 年に Langenscheidts 社、
いなさいね」と優しく指導して貰った直後に
1933 年に Otto Spamer 社から出版されたの
また電話のベルが鳴り、「May I speak with
で、最新の用語は出ていなかったが機械の基
Julius Muller ?」と言われたので、教えに忠
本を学ぶには好都合で、さらに前出の 2 冊は
実に「Just moment please」と受話器を丁寧
Fraktur:フラクトゥーアと呼ばれるドイツ
に置くと、先刻英語を指導してくれたあのお
文字を使っていたので、記号のような難しい
姉さんに「重役の三浦さんに電話です」と言っ
文字まで覚えることになった。
たら、「ジュリアス・ミュラー会長ね」と返
購入した書物の中には数少ない日本語でか
事して電話に出てくれた。悲惨な日々であっ
か れ た も の も あ り、E.Krabbe と W.Sellin の
たが、徐々に英語にも慣れ、優しいお姉さん
論文を昭和 21 年(1946 年)に海輪利正氏ほか
たちに囲まれてスイスからのお土産の美味し
が訳した『プレス仕事』(機械製作資料社)
いチョコレートを食べることが魅力で約 1 年
は貴重でドイツ語・日本語の対照表がまとめ
実習をさせて貰い、1962 年に大学を卒業する
られていた。
と早速スイスに駐在することとなった。
1958 年からヨーロッパに滞在した工藤英
ドイツのゲーテ・インスティチュート、ス
明博士が、塑性加工学会の会誌の『塑性と加
イスのベルリッツなどの語学学校でドイツ語
工』第 1 巻 2 号に塑性加工見聞記を寄稿し、
を勉強した後に、チューリッヒ工科大学と国
その中で Feinstanzen 、 精密打抜 、Finish
立材料研究所で塑性加工の講座を受講し、日
66|素形材 2007 .5
本領事館のシェパッハ博士の紹介でファイン
ランキングの普及に携わってきた。
ブランキングを考案したシース氏に合うこと
ファインブランキングプレスの営業活動で
になった。
1960 年代には時計、ミシン、カメラ、事務器
シース社での金型製作現場とファインブラ
などの部品製造に販売できたがある程度の企
ンキング工場の見学はとても興味深かった
業に行き渡った 70 年代の半ばからは順調で
が、ご本人や従業員の話しはドイツ人でも難
なく、しかも在来のプレスに類似した金型を
しいと言われるスイスの方言であったので、
付ければ単純な形状の製品なら加工が可能と
大部分を理解することができなかった。
なってしまった。何度か挫折しそうになった
シース社の見学から戻ると 1961 年に Albert
が、次第に厚板の加工、高度な応用と分野を
Weber がまとめた Zuericherdeutsches Woer-
拡大し自動車産業での実用が始まり、情報提
terbuch(チューリッヒドイツ語辞典)を買う
供は従来よりも必要となった。
とそれを片手に若い女性をつかまえて積極
近年は、複合成形加工が増加し、さらに韓
的に話す時間を作ってスイス語の勉強を始
国、中国とも交流が深まったので、韓国語と
めた。
中国語の指導を受けているが、68 才と言う年
この他、スイスに居住していた間にはファ
齢では語学を習得するには頭脳が思ったよう
インツール社に頻繁に通訳として訪ねること
に機能してくれないのが悩みである。
になったが、滞在した Biel 市はスイス国内で
どこの国でも技術者は語学が苦手な人が多
もドイツ語とフランス語との境界であったの
く、国・人・時代によって専門用語は著しく
で、その機会を生かしてフランス語にも挑戦
異なり共通性がなく、さらに略語・造語など
し、金型製造設備として脚光を浴び始めた時
も混じっているので、友人たちに助言を受け
に何度か通った AGIE 社はイタリア語地区の
てファインブランキング用語の整理をしよう
Locarno 市にあったのでイタリア語を教えて
と考えた。
貰う機会にも恵まれた。
仕事納めの前に入学した日本工業大学の専
こうして、スイス、ドイツ、イギリス、フ
門職大学院で、塑性加工の権威者である松
ランス、ベルギー、デンマーク、オーストリア、
野建一、村川正夫両教授に励まされて関連用
スウェーデン、イタリア、スロベニア、スペ
語を整理し「プレスフォーミングジャーナル
イン、オーストラリア、アメリカ、カナダ、
誌」の松尾編集長に誘われ、代表的用語の解
メキシコ、中国、韓国、台湾、シンガポール、
説を連載した後に、内外の関係者の協力を得
マレーシア、タイ、インド、イランなどの 23
て「英・独・日・韓・中、ファインブランキ
の国で、ファインブランキングに関係のある
ング用語辞典」としてまとめることができた。
人たちとプレスの機能に対する希望、金型の
ファインブランキングに携わる技術者の中
材料・設計・製作・熱処理・表面被覆処理、
で最高齢者となったが、これまでお世話に
加工用潤滑油、被加工材、周辺設備機械、部
なった社会に還元することができたら幸せで
品生産など幅広い情報交換を続けファインブ
ある。
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