松本侑壬子(まつもと ゆみこ)のプロフィール

*松本侑壬子(まつもと ゆみこ)のプロフィール*
映画評論家/ジャーナリスト。
鳥取県生まれ。中学、高校時代は映画少女でした。
1962年 津田塾大卒。特許事務所(翻訳事務)を経て在日ブルガリア大使館・大使秘書。
64年の東京オリンピックで、同国選手同士の結婚式に振袖で選手村に入る
という面白い経験をした。
2年後、両親の同時入院で退職、帰郷。2年間家事・看護の合間に開いた英語塾が大繁盛。
小学1年生から大学浪人まで数十人を一人でこなす。英語を忘れないために
購読していた英字新聞Japan Timesの3行広告で、東京の共同通信社の英文
記者募集を知る。腕試しに受験したら受かった。幸い両親も回復し、嫁の
貰い手のない田舎(当時は4大卒、20代後半女子はよほどの美人か金持ちの
娘でなければ、結婚相手がいなかった)より都会へ行け、と快く再々々就
職を応援してくれた。
1968年 共同通信社国際局海外部に英文記者として中途入社。後で知ったが、当時はオリ
ンピック村取材用の例外以外はマスコミでは新卒女子はどこでも採用していなか
った。女子の中途採用も前例がなかった。しかし、英語で記事を書くことにもど
かしさを感じ(英語力不足)、自ら申し出て2年後に編集局文化部へ移動。
1975-81年 念願の映画担当記者。黒澤明監督のソ連映画「デルス・ウザーラ」、やくざ
映画から足を洗ってからの高倉健さんの「新幹線大爆破」「八甲田山」「野生の
証明」「幸せの黄色いハンカチ」などの代表作のロケ同行取材、吉永小百合さん
の役作りへの協力など映画製作の現場取材を楽しむ。
その間、カンヌ、仏クレテイユ、東京などの国際映画祭も取材。
1980~90年代 移動で女性問題担当となり、1985年男女雇用機会均等法成立や国連世界女
性会議(1985年ナイロビ、2000年北京)特派員など大きな仕事を通じて
世界的な女性問題に開眼した。最後の5年間は編集局調査部部長職。
1999年 共同通信社を定年退職。自分へのご褒美に娘・孫(4歳)と女三代で“ニューヨー
クの夏休み3カ月”を楽しむ。
2000年4月―2009年3月 十文字学園女子大社会情報学部コミュニケーション学科教授。
既定の科目に加え独自の「映像女性論」講座が人気科目に。他にも女子美
短大、恵泉女学園大、津田塾大などで「女性学」の非常勤講師。
一般向けにも、70年代から映画を通して女性の問題を考える映画評論や女性セ
ンターなどでの家族問題・映画講座で知られ、現在、月刊誌「婦人之友」
「女性情報」
「We Learn」でいずれも10~20余年間映画評を長期連載中。
著書は、高度経済成長期の働く母親とその娘へのインタビュー集「母娘の風景」、
映画誕生100年を機に「映画をつくった女たち~女性監督の100年」、映画
評論集「シネマ女性学」(以上単著)、「女性監督映画の全貌」「女性映
画がおもしろい」(1~12巻)、「ジェンダー白書 メディアと女性」、「非
婚・崩壊・少子化 どこへ行く日本の家族」「リドリー・スコット」「テ
レビ報道職のワーク・ライフ・アンバランス~13局男女30人の聞き取り調
査から」(以上共著)など。
今春、映画女性史的アプローチの「銀幕のハーストリー」を出版予定。
所属は日本記者クラブ、日本映画ペンクラブ、日本ペンクラブ、リーダーシッ
プ111など。
(了)