マルホランド・ドライブの謎解き

 マルホランド・ドライブの謎解き
そもそも何が「謎」で、「謎を解く」とはどういうことなのか。
それをハッキリしなければ謎解きそのものが始まらない。
僕は、「実際に何がいかに起こったのか」が謎で、謎を解くとは、それを「完璧に
説明できる映画の仕掛けを見抜くこと」と捉えた。
最後になってようやく分かったことだが、完璧に説明できる映画の仕掛けは、「映
画の映像の順序で実際にすべての現象が起こっていること」だった。
デビット・リンチの頭の中にだけある正解を万人が納得するためには、個々の恣意
的な解釈によって映像の順序を入れ換えて説明可能ということでは収拾がつかない。考
えてみれば、非常に単純でしかも唯一の映画の仕掛けだ。
映画の最初のシーンは、「この映画はこういう構造でできていますよ」というヒン
トになる前振りであり、映像の全体構成を象徴していたように思う。くねくねと曲がり
くねった山道を走る車。そのライトが道路を照らしそして虚空の闇に吸い込まれる。こ
れは、意識の世界と無意識の世界、現実原則と快楽原則、現実と夢の対立の反復を象徴
していたように思う。
ライトは光であり、目に見える現象を物語に紡ぐ人間の意識や無意識でもある。
それは、映画が映像という光により何らかの感情体験を人間の意識や無意識に生じ
させることの似絵でもあったようだ。
映画のラストのシーンでは、主人公はある目的で屋敷にいくのに、その正面玄関ま
で行かずに手前の道路で降ろされてしまう。道端に裏口があり下っていくと屋敷の裏庭
のプールに出てくる。これも、明るい理路整然とした正面入口が意識、暗中模索でいく
裏口が無意識を象徴している。
パンフレットでは、ベティとリタという「2人の女性の内の片方の夢と現実」とい
う筋書きとして説明している。この説明を鵜呑みにすると、ふつうは「その夢の中で、
2人の内の夢を見ていない方が記憶喪失になっている」というふうに理解するのではな
いか。ベティが夢を見ていて、その夢の中でリタが記憶喪失になっているふうに。
しかしそれでは、映画の最後で本当にあった現実がなぜ遡って出てくるのか、説明が
つかない。それを正当化する解釈は、最期に回想の映像があったのだというふうに、い
かようにもできるが、そんな構成はリンチもそして謎解きをする私たちも納得できない。
ということから、僕は、「現実には2人の女性の内の片方が記憶喪失になって、そ
の記憶喪失になった方の夢の中で、自分ではない片方の女性が記憶喪失になって自分が
[1]
助けるという夢をみた」とまず仮定した。つまり、ベティが現実に記憶喪失になって、
そのベティの夢の中で、リタが記憶喪失になって自分ベティが助ける。
では、なぜそんな夢を彼女は見たのか?
僕の推理は、深い眠りの中の夢の過程が記憶を回復させる自然治癒として生じた。
やがて浅い眠りへと移行していき、記憶を回復しつつみる覚醒夢(夢と意識してみる超
リアルな夢)に至る。そして最期に、理想と現実のあまりのギャップに驚愕して目覚め
るが、現実を認めたくない恐怖感からベティ本人は発狂する、しかしベティの頭の中の
現象としては記憶(あるいは感情)の再現が最期を飾ることになる。これであれば、映
画の映像の順序はすべてベティの頭の中で起こった現象の順序であり納得できる訳だ。
オープニングは深い眠りに入る所で、老夫婦が出てきた。そして、ラスト近くの眠
りから醒める時にも、老夫婦が出てきてエンディングとなる。
現実のベティの憎しみという感情は、自分が殺し屋に依頼して殺させてしまったリ
タを助けるという夢で相殺される。現実のベティが本当にしてしまったことを思い出す
ことの恐怖は、リタの不安として受容される。そんな夢の回路をつかって、何らかのショッ
クから生じたベティの記憶喪失という状態は自然治癒された。
なぜか深夜の2∼3時にいくことになった劇場のシーンは、映画中盤でリンチが絵
解きをする部分だ。
舞台で「音は録音で舞台の演技は演技だけだ」という説明を司会者がする。
それは夢つまり映画の説明であり、「録音の音は本当にあった現実の記憶だが、し
かし夢の中での配役と演技は虚像でしかない」という絵解きをしている。音は感情、演
技は映像上の物語を意味している。
この説明を客席できいたベティとリタの2人は、女性ボーカルが唄って失神するこ
とに出会いともに泣く。映像上の物語つまり夢の中では、記憶喪失ではない本来正常で
あるべきベティ本人までもが、この時はじめて不自然にショックを受ける。映画を見な
がら推理する私たちが「あれ、どうしたのかな?」と思う展開点でもある。その直後だ。
バッグの中に青い箱が入っているのを発見し、急いで家に帰ってリタの持っていた鍵で
開けようとする。その寸前、夢を見ている本人ベティが映像上の物語からいなくなる。
これが、「覚醒夢」のはじまりだ。夢をみるベティ本人が夢の舞台から退場したのは、
彼女が夢を客観的に意識する<意識そのもの>となった現象である。
つまりベティは、記憶を回復し追体験する過程に入ったのだ。青い箱の中には、夢
をみていたベティ本人の記憶がはいっていた。映像上の物語り、つまり夢の中では記憶
喪失になっていたのはリタの方だったが、けっしてリタの記憶ではない。リタがもって
いた箱にも関わらず、というところを、パンフレットは解説していないが、それは夢の
中でベティの感情をリタに投影して相殺したり受容する記憶回復の過程にあったためだ。
[2]
夢をみていた本人ベティこそが、じつは記憶喪失になっていた。
それを深い眠りの夢において自然治癒が生じて、浅い眠りの覚醒夢で追体験して、
目覚めとともに意識がすべてを思いだし発狂した、が本人が狂人となっても頭の中では
かつての感情のよすがを象徴するような映像上の物語り、夢が展開した、という筋書き
なのだと思う。これなら、映画の映像の順序がそのまま実際の現象であり納得できる。
最後の屋敷でのパーティのシーンは、リタの殺人を依頼するに至ったベティの怒り
や嫉妬の映像化であり、死ぬ間際の残留思念のようなものではないか。現実に人が死ん
だ後も、脳の中では脳神経の電気反応がしばらくは残っているのかも知れない。
(ちょっとオカルティックな演出として、彼女の最期の姿が、予知夢として織りまぜ
られている。脳の外の世間の現象としては、発狂した後に死に絶えるのだから、時間の
推移からいったら一番最期の筈だ。しかし頭の中の夢では、過去、現在、未来という時
間が相互乗り入れしているのでけっしてオカルトではない。明らかにリンチが観客に現
実をオカルトのように思わせる演出をしている。これはツインピークス以来の彼の遊び
ではないか。)
ほんとうの現実で、ベティは最期のシーンのような結婚披露のパーティに誘われた
のだろうか?を問うてみる必要がある。
ベティは映画監督とさほど親しい訳ではなく、自分のキャストを奪って監督と結婚
して幸せになろうとするリタとも、顔見知りですらなかった、とも考えられる。
断定はできないが、可能性として、彼女はストーカー的な恨みを顔見知りですらな
かったリタに抱いたということも否定しきれない。
パーティのシーンは、夢の中での「現実の象徴」だから、世間の噂が再構成された
ものでしかないということもある。前半の深い眠りの夢の過程で屋敷の玄関側からのア
クセスするシーンがある。これは<意識=現実世界への想い>だが、監督の妻が浮気し
ていた。追い出されるのが彼の方だったから、屋敷は彼のものではない。一方、
最後の覚醒夢の過程で屋敷の裏口からアクセスするシーンがある。これは<無意識=幻
想世界への想い>だが、彼の母上がいて婚約を発表する。屋敷は彼のものである。
もし夢の中で、屋敷が記憶や感情の容物である脳を象徴し、映画監督が脳の持ち主であ
る主体を象徴するとすれば、脳の主導権が、現実の歪曲をする快楽原則からしない現実
原則に移行したことを表わしている。記憶喪失とは、脳の現実原則からの逃避であった。
覚醒夢は青い箱を開けた所から始まる。その映像が「本当の現実」なのか、あるい
はベティの残留思念のような「感情を象徴する現実らしきもの」なのか。
映画監督の婚約披露のパーティにオーディションに落ちた女優が同席している、し
かもそんな女優がくるのを監督の母上が待っていて食事の始まりを遅らせていた、など
ということは「現実には有りえない」ことから、後者の考え方をとるのが妥当だ。パー
[3]
ティのシーンでリアルなことは、ベティのリタに対する嫉妬と憎悪という感情だけなの
だ。ちなみに、リタは、映画監督と対になって快楽原則を象徴している。ベティが理想
としてこうありたいと望むエネルギーであり、ナルシズムの源泉ないし対象である。ベ
ティがリタに同性愛的な思いを寄せて関わるシーンは、傷ついたナルシズムの深い夢の
中での治癒過程なのだろう。
(ちなみに映画では家が3つ出てくる。ベティが以前住んでいて近隣の住人と取り換
えて後そこで死に絶える彼女の本当の小さな家、映画監督とリタの結婚披露が行なわれ
る屋敷、ベティが仮住まいする映画女優の伯母のアパートだ。これらはそれぞれ、リア
ルな肉体としての脳(生前と死後)、ヴァーチャルな精神としての脳、リアルな肉体と
ヴァーチャルな精神の乖離を修復する夢の機構としての脳を、象徴していると解釈でき
る。伯母のアパートの管理人であり映画監督の母でもあった典型的ハリウッドマダムは、
ヴァーチャルな精神としての脳と夢の機構としての脳の管理者として登場することは興
味深い。「ヴァーチャルな精神としての脳」により映画が創造され、「夢の機構として
の脳」により映画が鑑賞され、相まって映画都市ハリウッドが息づいているからだ。)
ただ、ここで重大なことに気づかざるを得ない。
以上の推論の限界は、「恨んだ相手を殺し屋に殺してもらっておいて後で罪悪感に
かられて発狂するようなことが、仮に記憶喪失になっていて思い出したからと言って、
実際にあるだろうか?」ということだ。記憶が回復して「殺されて当然、殺して当たり
前」と思いなおすくらいの最初からの憎悪だった筈ではないか。殺意とはそういうもの
だろう。
じつは、この辺りのことを解明するのに、検討しなければならないのが、ベティが
殺しを依頼したダイナーやその裏手での出来事だ。これは青い箱が登場する覚醒夢に移
行するずっと前の段階の、映画の最初の深い眠りの段階の夢のストーリーだ。
ダイナーの店内や裏手のシーンが、その辺りの謎を解く鍵だと思う。
ダイナーでの精神病の患者のような男と担当医のような男、そして店の裏手で患者
にしか見えなかった鬼のような乞食は、ある構造を示している。
僕の推理は、ベティが二重人格を患っていて、通院していたのではないか、という
ものだ。そもそも、なぜ憎んだ相手を登場させて役割を入れ換えるような込み入った夢
をみたのか?それは、ベティが二重人格だったとすれば理解しやすい。
そして現実に生じたベティの記憶喪失は、じつは二重人格の他方の人格にとって片
方の人格のしたことが分からないということだったのではないか。
過度にお嬢様的な心やさしい人格と、過度にネガティブで破壊的な人格に分裂して
いた。前者が後者のしたこと(リタ殺しの依頼)やしようとしていること(後者が前者
を抹殺するつまり自殺)を知って、発狂したと考えられる。この場合、予知夢のような
[4]
ベティの死は、これからもう一人の自分がしようとしていることのイメージであって、
正確には一般人の予知夢とは違うことになる。破壊的な人格が、最後に健全な人格に過
酷なショックを与えて人格破壊をくわだてた、ともとれる。ベティの頭の中で起こって
いることの内、無意識および前意識でみる夢は、2つの人格が交流する回路になってい
たのではないか。
それを示唆するのは、ベティが死の恐怖に脅えながら自慰をするシーンである。ベティ
を演じたナオミ・ワッツ自身がこのシーンが最も辛かったと言っている。なぜこのよう
なシーンをリンチは必要としたのか?またもっとも辛い心理状態で演技させたのか?
僕の推理は、ベティの生きようとする人格が、死のうとする人格の表出を食い止め
るために、忘我つまりエクスタシーの状態を必死で求めて回路を遮断しようとした、と
いうものだ。この行為が肉体としての脳を象徴する小さな家、しかも近隣住人と取り換
えたボロ家で行なわれたことは、すでにその映像上の物語が、死んだ後の脳の中の脳神
経の電気反応であることを暗示しているのかも知れない。
ごみ捨て場にいた鬼のような乞食の顔が黒く塗られていたことは、仮面をはいだ下
の陰をイメージさせる。つまり、患者の男が表側のペルソナ=仮面とすれば、裏側のペ
ルソナ=隠された人格を象徴する。全体の様子は秋田地方の鬼のようなおどろおどろし
さと死のイメージであった。そして患者は乞食を見て怖れおののくが、精神分析医は何
も見えない。
このシーンで、精神分析医のように推理する私たちにはそれと知れないだろう、ベ
ティがそもそも二重人格であったことを、リンチが伏線として示しているように思う。
カウボーイは何なのか、小人は何なのか?
おそらく、リンチが映像上の物語の光と陰で、意識と無意識、創造的な人格と破壊
的な人格を表現するのと同時並行して、私たちに映画の銀幕の表の世界と裏の世界とを
垣間見させようとして、裏の権力や暴力を象徴させるべく登場させたのではなかろうか。
これは、ツインピークスの時にも見られたリンチの「商業至上主義と悪魔的官能を
皮肉に重ねあわせつつ、作品を商業ベースに乗る映像展開にする」という、テレビ番組
向けの彼独特のシニカルなストーリーテクニックだろう。マルホランドドライブの脚本
はテレビ番組として作られそれが映画化された訳だが、その経緯に関係するのか。
カルトに思わせる演出同様、カウボーイや小人は「謎解き」には無関係な「created
by David Lynch」の心理学的ミステリー作品の刻印になっていることだけは確かだ。/
[5]