Title 『ごん狐』試解 : 「ごん」への鎮魂歌(レクィエム) Author(s) 西原, 千博 Citation 札幌国語研究, 20: 1-15 Issue Date 2015 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7764 Rights Hokkaido University of Education レクィエム ――「ご ん」への鎮魂歌 ― ― 『ごん狐』試解 Ⅰ 西 原 千 博 した。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると土間に栗 が、かためておいてあるのが目につきました。 「おや。」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 」 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。 ( 「赤い鳥」昭和七年一月)については、 新美南吉の『ごん狐』 これまで多くの論及がなされてきた。そして、その多くが作品 の最後の場面に注目したものであった。 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、ま だ筒口から細く出ていました。 い」が通じたのだから)ハッピイエンドに終わる話と考える 劇的な話と考えるかそれとも逆に(自分の死と引き替えに 「思 これが『ごん狐』のすべてである。「ごん」の思いが兵十 に通じたところで話は終わっているように思える。これを悲 大貫徹氏は次のように述べている。 この最後の場面について、 そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけま した。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の 裏口から、こっそり中へはいりました。 そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へは いったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがった あのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 かはそれほど重要なことではない。むしろ重要なことは、こ のきわめて短い話の中にどうにも理解できない点がいくつか 」 「ようし。 兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、 火薬をつめました。 ( 「 『ごん狐』論─他者論的な視点から」─「名古屋工業大学紀 あることだ。 そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとす るごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれま -1- このことを問題にすること自体に無理があるのではないかとさ まりに漠然としていて、 なおかつ個人差が大きすぎるのであり、 どのような関係をさして言うことなのだろうか、その定義はあ とされてきたのである。 しかしながらそもそも心が通じるとは、 しろ、「ごん」と「兵十」とが心が通じ合ったかどうかが問題 「ごん」の思いが通じたかどうかについては、これ た だ し、 までも必ずしも通じたとばかり読まれてきたわけではない。む 死という結末は私をテクストの冒頭へと立ち戻らせたのであ り継がれてきた、「ごん狐」という非業の英雄の伝説なのだと。 ごんの想いを理解した兵十によって語られ、村人によって語 に聞いたというこの話は、ごんを撃ち、ごんの死に立ち会い、 と。 (中略)語り手が村の茂平というお爺さんから小さい時 送りされ、兵十はごんの思いの全てを、一瞬のうちに悟った はりきり網の一件からの、一連の出来事が走馬燈のように早 づいた瞬間から、火縄銃を落とすまでの間、兵十の脳裏には、 要」平成二十年三月) え思えるのである。また、これが悲劇的かどうかについては、 る。 ごんの「死」という結末に行き着いた時、私は、兵十はこ の瞬間にすべてを悟った、と何の根拠もなく思った。栗に気 当然ながら読者個々の判断によるしかないだろう。例えば、三 ( 「 『ごんぎつね』の引き裂かれた在りよう─語りの転位を視座 好修一郎氏も類似の指摘をしている。 いつも栗をくれたのは」という了解は成立した。しかし、兵 「何の根拠もなく」ということなので、果たして解るのか解 らないのか、判断が難しい。先にあげた大貫氏は先の引用に続 出版) として─」─田中実・須貝千里編『文学の力/教材の力』教育 十が、ちょうど、 ごんが穴の中で想像力を働かせてたように、 けて、 だが、こうした相互理解の成立の有無や、幸せ・不幸せの 議論は、不毛ではないだろうか。 「ごん、お前だったのか。 ごんの真実に自らの想像力や認識力を向けていくのは正にこ じたのかについては、これからだとしている。 「兵十」がこれ 成立した」ということになる。持ってきた相手は解ったが、理 とも述べているのである。大貫氏の先の論で「『ごん』の思 いが兵十に通じた」とあったのは、三好氏の言う所の「了解は かったのではないか。 たとえば兵十はたしかにこの狐が自分に届け物をしてくれ た こ と は 分 か っ た と し て も、 そ の 理 由 ま で は 結 局 分 か ら な れからである。 (「新美南吉『ごん狐』の読みと教材性」─「国語科教育」平 成十一年三月) から「ごん」の真実・思いを想像することになるのである。 由までは解らないということである。そして、言うまでもなく 三好氏も悲劇かどうかなどについては問題としていない。ま た、「了解は成立した」けれど、果たして「ごん」の思いが通 一方で、鈴木啓子氏は「兵十」は解ったとしている。 -2- ず、これまで狐が人間の言葉を理解するというような話はいく である。 らでもあった。例えば、田中俊男氏は小学校国語教科書の物語 重要なのは理由の方である。また、府川源一郎氏も同様の指摘 だが、あえていうならば、兵十はごんの思いの何ほどを理 解できたであろうか。ごんの内面に寄りそって物語を読んで 教材で「きつねが主要な登場人物として活躍する作品」につい これまでこのことについては、あまりに当たり前すぎて特に 取り上げて言及したものはないのではないか。この作品に限ら きた読み手は、ごんの反省や、兵十に対するひたむきな接近 をしている。 行動に潜む感情を十分に知っている。が、ごんのむくろを抱 て、 「一〇作がのべ一八回使用されている。」とした後で、次の ように述べている。 いた兵十にごんの心中は伝わるはずがはない。 では古来説話や伝承の中できつねは特別な存在であり、また (『『ごんぎつね』をめぐる謎─こども・文学・教科書─』教育 稲荷神社の使いとして広く信仰の対象となっていたという事 出版) 一瞬にして解るが作中の人物である 「兵十」 読み手であれば、 に解るのだろうか。ましてや、狐と人間である。狐の行為の意 では、なぜこれだけ教科書の中できつねが愛されているの か。 (中略)そもそも民俗学や文学的知見をたどれば、日本 味、狐の気持ちといったものが人間の「兵十」に解るのだろう 実がある。 ( 「教科書・『赤い鳥』という場─新美南吉『ごんぎつね』論」 か。 また、 ─「島根大学教育学部紀要」平成二七年二月) うなことをしたのか。そして、この最後の場面の最後のところ しかしながら、だからこそ「兵十」はその理由を知りたいと 思うのでもある。切ない疑問を抱く。なぜ、 「ごん」はこのよ にこの疑問への糸口があるのだ。それは「兵十」のことばに「ご 想像できるのではないか。言葉が解るということは、また人間 子屋と会話をしている。読者には、言葉が解ることや感情を持 年生用。因みに、 『ごんぎつね』は四年生用。)では、小狐が帽 とも述べている。確かに、同じく教科書に掲載されている新 美南吉の『手ぶくろを買いに』 (平成二十四年度版東京書籍三 仲間ではないという地点が出発点になっている。 以上見てきたように、きつねは言葉を話し感情を持つとい う意味では擬人化されつつも、異類として差別化されている。 ん」がうなずいたことである。ここに「ごん」と「兵十」を繋 の生活についても解る可能性があるのだ。人間の論理で想像す ぐ唯一のものがあった。 「ごん」は人間の言葉が解るという発 ることも可能になる。いや、少なくとも、この「ごん」が人間 つことは違和感のないものであろう。しかし、「兵十」にとっ 見である。人間の言葉が解るのであれば、 「ごん」の気持ちも の言葉が解るという一点しか、この理由を考える糸口はないの -3- 「ごん」が言葉が解るとはっきりと解るのは、この最後の場面 てはどうだったのか。この作品において、「兵十」たち人間が、 こととする。 (なお、 本文の引用は 『校定 新美南吉全集第三巻』 による。ただし、新字新仮名遣いになおした。 ) 本稿ではあくまでも「赤い鳥」掲載のものに基づいて考察する とである。なぜ「ごん」がこのようなことをしたのか、という 抱いたであろう疑問から始まっているのではないか、というこ る成立事情ということである。この作品は、 「兵十」が最後に とではない。あくまでも、このテクストだけに限って考えられ べられているような作者がどのようにして書いたのかというこ さらに、このことはこの作品の成立に繋がる。といっても、 例えば、かつおきんや氏の『 「ごん狐」の誕生』 (風媒社)で述 から叫んでいるわけではあるまい。 トでどのような意味を持つのか、ということを明らかにするこ たい。また、それは狐が言葉を解るということが、このテクス 「兵十」の疑問の答え、という視点からもう一度読み直してみ の作品が「兵十」が「ごん」の行為の理由について考えた結果、 「ごん」が人間の言葉を理解しているという点にこだわり、こ の視点から語られていたのだいうことになるだろう。ともあれ、 だろう。と言うよりも、そもそも「書き換え」ではなく、「兵十」 「日本文学」平成十四年八月)と同様な方向からの読みになる また、このような読み方は結果として、高木まさき氏が指摘 しているような「兵十の視点から物語を『書き換え』よう」 ( 「ふ だけなのではないか。 「兵十」が「ごん」に向かって「ぬすっ 疑問について、 「ごん」が人間の言葉が解るという発見を糸口 とでもある。 とぎつねめ。 」と叫んだとしても、 「ごん」が人間の言葉が解る として考えたもの、それこそがこの作品だったということであ の で あ る。 」と述べていることと方向性は同じなのだが、本稿 木氏が「死という結末は私をテクストの冒頭へと立ち戻らせた は、 兵 「 十 」 に よ っ て 語 ら れ た、 書 か れ た も の と は 言 え な い こ とにもなる。しかし、一方で「うなぎ」のエピソードは「兵十」 知ることができなかっただろうことも書かれている。このこと 作品には「兵十」が話を作った、あるいは語ったとは書かれ ていない。また、「兵十」 が知ることができたことだけではなく、 Ⅱ たりの犯罪者から─人としての必要な言葉の力とは何か─」─ る。つまり、「兵十」の疑問の答え、「兵十」が想像した「ごん」 の理由ということになる。 鈴木氏の論であれば、 一瞬にして解っ たことが語り継がれたものがこの作品ということになるが、三 では「兵十」の最後の発見、言葉が解るという発見が、 「兵十」 好氏の指摘のようにそれは「正にこれから」だろう。また、鈴 を冒頭に立ち戻らせるのだと考える。 がれてきた」と述べているように、「兵十」の語りを元に発展 以外には知らない話でもある。鈴木氏が「村人によって語り継 無論、これまで指摘されてきたように、 新美南吉の原稿と「赤 い鳥」掲載のものとでは、 この最後の場面に違いがある。 (注1) -4- これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんか らきいたお話です。 十」の視点にこだわって読んでいくこととしたい。 されたものという見方もできるだろう。とはいえ、まずは「兵 ることがすでに人格化、すなわち人間らしく捉えられているこ 「兵十」の視点から離れて、読者という点から、この「一人 ぼっち」というのを捉えると、これは、「ごん」の人格化ともなっ の一人ぼっちという思いが、「ごん」 にも投影されたことになる。 ただし、 これを「兵十」から捉えると、 順番は逆になる。「兵十」 ている。 (作者による擬人化。)いや、そもそも名前を持ってい むかしは、わたしたちの村のちかくの、中山というところ に、小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、お とになる。さらには、この後「ごん」の心理まで語られるので はたけへはいって芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほして も昼でも、 あたりの村へ出て来て、 いたずらばかりしました。 しげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜で 「ごん狐」という その中山から、少しはなれた山の中に、 狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱい てからかなり時間がたっていることも示されている。 のか、誰かから聞いたのかも不明である。そして、 事件が起こっ 「兵十」との 作品はこのように始まる。先に述べたように、 関係は語られていない。このお話は、 「茂平」が自分で作った この後に「うなぎ」の話となる。 最後の場面に悲劇性を感じるのである。 ては「ごん」はどんどん人間化・人格化されていているので、 はただの狐ではなく「ごん」だということである。読者におい ないだろう。そして、人間の言葉が解ることも、同様に人格化 している狐に対して寂しそうという見方は必ずしも当てはまら それは、寂しそうなどの読みにも繋がるのである。単独行動を あり、人間に近い存在として読者には捉えられることになる。 あるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんが 「兵十だな。」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの 黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりなが られたそうです。 らしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。 はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、 0 0 0 一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、 何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。 (中略) 大きな黒子みたいにへばりついていました。 ら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。 0 になる。このことは作品の最後にも繋がっている。殺されたの 「ごん」のいわば生態というようなものは、どの程度知られ ていたものか。 ( 「兵十」はどの程度知っていたのか。 ) ここで「一人ぼっちの小狐」とあることに注意したい。狐は そもそも単独行動をとるものではないのか。 (注2)作品にお いて、「一人ぼっち」というのは、 「おれとおなじ、ひとりぼっ ちの兵十か。 」という「ごん」の思いへの伏線になっている。 -5- ぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごん ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うな いない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおも とができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちが てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせるこ いながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしな の首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、 けりゃよかった。」 この「ごん」の想像にはかなりの飛躍がある。人間のことは 解っているようでも、 「おっ母」がそれほど食べ物に固執して 」と、どなりたてました。ごんは、びっ 「うわアぬすと狐め。 くりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようと いたかどうかは解らず、「ごん」自身の食べ物への気持ちが反 ための一番の理由として考えたことということになる。 わるのはこの時だけなのであり、 「兵十」が自らの疑問を解く の事だったということになる。 「兵十」と「ごん」が直接かか 「兵十」がなぜ「ごん」がこのような 作品の最後の場面で、 ことをしたのか、 と思った時、 真っ先に浮かんだのが「うなぎ」 すれば、「ごん」の行為の理由が、何らかの命にかかわることだっ (償いになった)ことを踏まえて想像していることになる。と のことを想像しているということである。さらに、 「兵十」か ということである。つまり、実際の話を元に「兵十」は「ごん」 「おっ母」はうなぎを食べたいと言いつつ死んだかもしれない 像 だ と し た ら、 逆 に 全 て 事 実 と い う こ と に も な り か ね な い。 しましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれま せん。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめ 別の見方をするならば、「ごん」 には多くの逸話があったろう。 その中からなぜこの逸話が語られるのか。それは「兵十」とい たと想定することはあり得るだろう。 映していると読むこともできる。しかし、これが「兵十」の想 いに、にげていきました。 う個人に係わるものだからである。言い換えれば、作品の最後 らすれば、このあとの「ごん」の行為が命がけの償いであった を想定して選択されたということである。 できなかった」という「兵十」に対してのもの、 兵 「 十」の親 孝行ができなかった事への後悔。そして、もう一つが「うなぎ ただし、この場面には「ごん」の後悔の元が二つ読み取れて しまう。 「だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることが を考えたり、 葬 「 式 」も理解している。人間の生活についてか なり詳しいことになる。 への後悔。「しんだんだろう。 」のすぐ後に「ちょッ」とあるの この後に「兵十」の家の葬式の場面があり、「ごん」の「兵十」 についての思いが書かれる。 「ごん」は「おはぐろ」から 祭 「り」 「兵十のおっ母は、床についていて、うなぎが食べたいと 0 0 0 0 言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網をもち出した で「おっ母」への方だと読めるのだが、償いの相手は「兵十」 が食べたいとおもいながら、しんだんだろう。」 という「おっ母」 んだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来 -6- ちになりたい、というようなもう一つの意味があることによる これは、「ごん」の行為が単なる償いではなく、 「兵十」と友だ にお供えをするということは考えないと言うことなのか。 無論、 うこともないのだろう。 「葬式」を理解できる狐であっても墓 いう概念はないのかもしれないし、死んだ者に何かをするとい を捕まえることはできないのだろうけれど。 )狐にとって墓と などの行為は語られていない。 (さすがの「ごん」も「うなぎ」 であり、どこかずれている。 「おっ母」の墓にうなぎを供える ということである。 なぎ」しかなかったのであり、そこからしか想像できなかった ないか。前述のように「兵十」と「ごん」の直接の接点は「う いるが、作品の最後から想像した結果がこれだということでは 『償い』をしようとしていることなど」思いも寄らないとして 解ではないかもしれないということである。大貫氏は「兵十に である。極端なことを言えば、これは「兵十」の想像であり正 この事実から想像されたのが、この言葉ではないかということ の前に「兵十」のとった「うなぎ」を盗んだことだけである。 Ⅲ とも考えられる。しかし、それはむしろこのようなずれをあえ て埋めようとしての解釈としても捉えられる。また、先にあげ た大貫氏はこの場面について次のようにも述べている。 場面から語られたものとしたらどうだろうか。償いは前提とな 由になり得ているか疑問でもある。しかし、この作品が最後の いまでも先の償う相手のことを踏まえても「ごん」の行為の理 確かに、この「おっ母」の死についての「ごん」の思いとそ の後の「ごん」の償いには飛躍がある。想像の埒外とは言わな か、これは謎として兵十の心に永久に残るのではないか。 したがってどうしてこの狐はそのようなことをし続けたの ようとしていることなど、 兵十には思いも寄らぬことだろう。 所詮狐は人間の世界は理解できない、ということである。では、 ともできる。 「ごん」 がどんなに人間世界に近づいたとしても、 にはなる。あるいは、ここから狐と人間との違いを読みとるこ るので、狐の視点からするとそのように捉えられるということ とりぼっち」とは言えない。ただ、狐は家族単位で活動してい 後で登場する「加助」や村の人たちなどがいて、必ずしも「ひ じとしているのだから、「ごん」の人格化・擬人化ということ は甚だ疑問だが、作品としてみれば、「ごん」と「兵十」を同 「おっ母」が亡くなり「兵十」も一人ぼっちになった。先に 述べたように狐に「ひとりぼっち」という概念があるかどうか 「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か。」 るのではないか。いや、実際に「ごん」がどのようなつもりで しかしうなぎの件と自分の母親との死が結びつくことなど 想像の埒外である。ましてや「ごん」が兵十に「償い」をし このことをしたのかは、 実は誰にも解らない。解っているのは、 これを「兵十」の側から考えるとどうなるのか。 「兵十」は最 になる。ただし、すでに指摘されているように、 「兵十」には、 「兵十」の所に栗などを運んだことだけである。さらには、そ -7- もある。また、これは、一見、償いというのは、このような安 「秋祭り」や「葬式」さらにこの後の「おねんぶつ」なども 理解できる「ごん」が、盗みが理解できないかどうかには疑問 いったんだろう。おかげでおれは、盗人と思われて、いわし なる理由を想定したとすることもできるだろう。そして、それ 易な方法ではだめであり、自分で努力をすべきだとということ 後に命がけになったことを知っているので、 「うなぎ」のこと は、「ごん」の「兵十」に対する思いを想像することでもある しで失敗したからではない。 屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言ってい のだ。 つぎの日には、ごんは山で栗をどっさりひろって、それを かかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ます ます。 ごんは、その、いせいのいい声のするほうへ走っていきま した。と、弥助のおかみさんが、裏戸口から、 と、兵十は、午飯をたべかけて、茶椀をもったまま、ぼんや だけでは不十分で、 「ごん」がこんなことも考えたのではない 」と言いました。いわし売は、いわしの 「いわしをおくれ。 かごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを りと考えこんでいました。へんなことには兵十の頬ぺたに、 かと想像したということになる。確かに、 「うなぎ」を盗んだ 両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごん かすり傷がついています。 盗むという安易な方法ではなく、自分で努力すること、ある いは、いわし売りという人間的なものではなく、自然の中にい ことと、命がけの償いでは、後者が重すぎる。そのためにさら はそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつか る狐にふさわしい自然のものを選ぶべきということになるはず を示しているとも解釈できるのだが、栗を持ってきたのはいわ み出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家 もどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十 ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをした と思いました。 伝えるものとなっている。しかし、 作品の中で語られている 「ご わし」の挿話は単にそのような事件があったという事実だけを それが、順番に行ったのではなく、重なってしまっているため の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向ってかけ がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えまし が、どこかでずれてしまっているのではないか。 「いわし」の 「兵十」がとばっ 言うまでもなく、この盗みはばれてしまい、 ちりを受けることになる。そして、ここに明確に「うなぎのつ 挿話はこのような解釈にも繋がるはずのものではなかったか。 た。 ぐない」と書かれている。 ん」の挿話は意外に少ないのであり、この「いわし」の挿話も にその点が曖昧になってしまっているのである。結果として「い 「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんで -8- いささか脱線するのだが、教科書の挿絵に注目して考察してみ ここで単純な疑問を一つ。狐はいわしをつかむことができる のか、ということである。この点について、本稿の論旨からは かえって解りにくくなってしまうのではないか。 何か特別な意味があるかのように読まれるのである。 その結果、 ているのである。(注3)最初にも述べたように「ごん」は人 ことにも関係しているだろう。この作品では動物そのものとし と、つまり、人間と密接に関係し、人間的側面を内包している であり、二面性を示している。それは、そもそも狐が伝説や物 とりぼっち」という表現もまた、動物を人間的に捉えているの ている絵になっている。これは、この後の栗などを運ぶ場面に 小学国語四年下」 (挿絵・箕田源二郎)では、 両手で抱えて走っ かんでいる絵が描かれている。また、教育出版「ひろがる言葉 り二重性をというべきかもしれないが、表していたのである。 間の言葉を理解する狐という設定も、この二面性を、というよ た。 (人間の言葉を話すことはできなかったと考えられる。)人 間の言葉は解るが、そのことを人間に伝えることはできなかっ ての狐と、物語や伝説に描かれている狐のイメージとが混在し 語に描かれていること。人に化けたり、人を化かしたりするこ たい。学校図書「みんなと学ぶ 小学校国語四年下」 (挿絵・ 松永禎郎)では、本文通りに右手に一匹左手に三匹いわしをつ も関連する。そちらでは、 東京書籍 「新しい国語 四下」(挿絵・ いるのである。 二本脚で立って歩くことはできない。つまり、この挿絵は動物 に風呂敷包みをくわえている絵となっている。動物の狐は通常 い鳥」の挿絵(深沢省三)である。ここでは、四つ足の狐が口 あるいは、どこかに齟齬があったとも考えられる。 (本稿の齟 論にあったように、語り継ぐうちに発展したとも考えられるし、 知り得なかったと考えられる。ただ、最初に引用した鈴木氏の この後に「おねんぶつ」の場面が来るのだが、ここでは「ご ん」は隠れていたのだから、 「ごん」がいたことを「兵十」は Ⅳ そして、あえて言えばそのことがこの作品の悲劇の源となって 黒井健)では両手で抱え込むようにしている。光村図書「国語 四下 はばたき」 (挿絵・かすや昌宏)でも同様の絵になって いる。(この両書ともいわしの挿絵はない。 )そして、どの絵で も狐は二本脚で立っている。栗については「かかえて」とある としての側面が描かれていることになる。しかし、一方で口に 齬かもしれないし、作者の齟齬かもしれないが。) のでその通りになっている。 ここで注目したいのは初出誌の 「赤 は風呂敷に包んだものをくわえている。これは明らかに人間的 ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話 声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助というお 百姓でした。 である。(どうやって風呂敷に包んだのだろう。 )そして、この 動物的側面と人間的側面の両面を持っていること、この二面性 こそがこの作品の「ごん」の特性を表しているのである。 「ひ -9- 」と、兵十がいいました。 「そうそう、なあ加助。 ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれ が、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼 「うん。」 な想像をしてみる。というのは、「ごん」が最後の場面において、 「兵十」の視点から捉えるとどうなるのか。本 さて、では、 文にはそうではないと書かれていることを承知で、あえて勝手 窺えるのである。 注意したい。 「おっ母」への償いという想像の理由がここから 二人とも気づかなかったはずのこの挿話はなぜ書かれたのか。 ただ、その前にここで「おっ母が死んでからは」とあることに 合わないなあ。 をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃァ、おれは、引き 「ああん?」 」 「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ。 「何が?」 「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やま つたけなんかを、まいにちまいにちくれるんだよ。 」 「ふうん、だれが?」 「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていく んだ。」 ごんは、ふたりのあとをつけていきました。 「ほんとかい?」 からである。それまでは、物置の入口にくりなどをおいていっ それまでとは違う場所に栗などをおいていったことに注目する た。それに対して、この日は「家のうら口から、こっそり中へ 「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。その 栗を見せてやるよ。 」 」 「へえ、へんなこともあるもんだなァ。 はい」っていった。そのために、「兵十」に見つかった。しかも、 (中略) 入口ではなく家の中に入ったのだから撃ち殺すことのきっかけ も可能ではないかと言うことである。では、なぜ見つかるよう らすると、わざと見えるようにしたのではないか、という想像 となったのである。この違いはなぜ起こったのか。 「兵十」か 「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、 人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になっ 」 「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ。 「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。 たのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下 にしたのか。自分だと解って欲しかったから、つまり「引き合 ということである。)しかし、言うまでもなく、この日の置く る。 (もしかしたら、「加助」 との話を聞いていたのではないか、 わない」からわざと見つかるようにしたということも想像でき さるんだよ。 」 」 「そうかなあ。 「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいい よ。」 - 10 - 場所が変わったのは、 「兵十は物置でなわをなっていました。 兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、 火薬をつめました。 」 「ようし。 そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとする ごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれまし それで」いつもと違う場所におくことになったと明確に書いて ある。先のような想像は勝手な妄想に過ぎないことになる。 (ただし、いままで家の中に入らなかったのが、わざわざ家の 中に入ったことは、何らかのアピールとして捉えることもでき 「おや。」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。 た。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗 思い上がりだろう、やはりこちらの齟齬とすべきだろう。とす 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」 るのであり、このような想像もあながち全くの妄想とは言えな ると、これはやはり全体を「兵十」の語りとするのに無理があ ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。 が、かためておいてあるのが目につきました。 るということなのか。 「兵十」の語りを元に語り継がれていく 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、ま だ筒口から細く出ていました。 いのではないか。 )この妄想を作者の齟齬とするのはあまりに 間に、話がふくらんでいったとすべきだろうか。 いうことについて考えることもできるだろう。偶然「兵十」が 合ったかどうかを問うものになる。あるいは、ここから偶然と ども、それを問うのはかなり困難である。むしろ、逆に、なぜ がたいものであるならば、引き合うはずは無いのである。しか 「ごん」は引き合ったのかどうか。しかし、それは命の重さ をどのように捉えるかという問となる。命がなにものにも代え 「おねんぶつ」の話は、 「ごん」の最後の場 また、この結果、 面への伏線ということにしかならなくなる。作品の最後で引き 物「置」にいたこと、それが悲劇の理由ということになる。偶 然がうんだ悲劇ということになる。 のはなぜなのか。単純に考えて作者は答えがあると考えていた たではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあの そのとき兵十は、 ふと顔をあげました。 と狐が家の中へはいっ 裏口から、こっそり中へはいりました。 これまで指摘されてきたように、この最後の場面だけは「兵 といって読者がそれに納得するかどうかは別であるが。 でなかったら、 このような終わり方にはならないのではないか。 からだと想定される。つまり、引き合ったということである。 湧く。このような大きな問を作品の最後に残したまま終わった 作者はそのような問題をそのまま投げ出したのかという疑問が し、命より重いものがあるのなら引き合う可能性はある。けれ そして、最後の場面となる。 そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけま した。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の ごん狐めが、またいたずらをしに来たな。 - 11 - ここでは「兵十」の想像ということから離れて、この作品にお ても、「ごん」 が撃たれたのは、 事実ということである。そこで、 ということである。言い換えれば、他は「兵十」の想像であっ に つ い て、 「ごん」の立場から想像したこととして捉えられる はないかとも解釈できる。この場面以外は「兵十」が「ごん」 したことで、ここは「兵十」が実際に体験したこととの違いで 十」の視点になっている。これは、それ以外が「兵十」が想像 確かに府川氏が指摘するように、「ごん」はいつも裏にいる。 この裏と表の対照というのはとても魅力的な捉え方であり、本 を巡る謎─子ども・文学・教科書─』教育出版) ( 「 『ごんぎつね』はどのように読めるか」─『『ごんぎつね』 い る。 ご ん が あ <な に > 住 み、 兵 十 が 家 に 住 ん で い る の は、 それなりの必然性があったのだ。 間世界と正式に立ち交わりのできない世界として設定されて た。このときタブーは破られたのである。ごんの世界は、人 ではなく、母屋《表》へくりを運びに入ったのが、 間違いだっ た判断も、物置の「後ろ」からなされたものであって、兵十 も動物としては最初から不可能なのである。本稿では、このこ な存在であれば、人間世界に混じることはできるが、あくまで 静に考えれば、所詮 ご「ん は 」 狐なのだから穴に住むのであり、 人間の家を表から訪問することなどはできない。飼い犬のよう 世界に入り込んでしまうと、正にこのような解釈となるが、冷 稿も基本的にはこの考え方に賛同するものである。ただ、作品 ける「ごん」の死について考察してみたい。 「ごん」が撃たれたことについて、まず 「 府川源一郎氏は、 人間世界」と「ごんの世界」について次のように述べている。 と正対した結果ではない。 (中略)すなわち、ごんは母屋の 人間の世界に、 常に裏側から参加せざるをえない。 ごんは、 ごんが兵十の姿を見て「おれと同じひとりぼっち」だと下し 表口から正式の客として兵十を訪ねることのできる存在では とに係わってこれまで述べてきた「ごん」の人格化・二重性と いう点から考察してみたい。 なかったのである。 空間を異にしているのだ。ごんと兵十とは、別の空間の住人 じ村」という地域社会の中に生きていながら、その居住する このように、ごんは人間世界に表から参加することができ ない存在として描かれている。いうならば、 ごんと兵十は 「同 し、 人間の言葉は解るが人間の言葉を話すことはできない。 「ご を持ち、何よりも人間の言葉が解るという特性があった。ただ れて暮らしている。けれども、 「 ご ん 」 は「 ご ん 」 と い う 名 前 その外側の「山の中」に住んでいるのである。動物と人間は別 「わたし 本来、狐である「ごん」は人間世界の外側にいる。 たちの村」とはあくまでも人間達が住む村である。「ごん」は なのである。一方が表ならば、一方は裏である。裏が表を侵 ん」は人格化されているがそれは中途半端なものである。それ 「ごん」が撃たれたという悲劇の原因について説明 さ ら に、 している。 略しようとしたとき、 悲劇が起きる。 ごんがいつもの物置 《裏》 - 12 - 言葉が解ること、 そのことからすべてが始まっていたのである。 いう二重性にあったと言えよう。すなわち、 「ごん」が人間の このように考えるならば、この「ごん」の悲劇の原因は「ご ん」が動物としての側面を持ちながら、人間的な行為を行うと 人間世界による動物の侵入への拒絶としても捉えられるだろう。 間の世界を代表する武器によって殺されたのである。それは、 その結果、鉄砲という動物の世界には存在していない、正に人 川氏の論における裏から表を侵犯しようとしたことである。 ) 境界を越えようとしたこと、境界侵犯にあたるのである。 (府 たのではないか。これが「ごん」が人間の世界と動物の世界の はしないが、 「ごん」は人間の概念において償いをしようとし な行為ではないのか。動物は償いをするのかしないのか判然と じり合っているのではない。しかし、償いというのは、人間的 に入り込む。いたずらはまだ人間と動物の対立を示すもので混 捉えられるのである。人間の言葉が解る「ごん」は人間の世界 は、動物でありながら人間的なものを持つという二重性として 二重性こそが最後の悲劇の理由なのである。 言葉が解ることによってもたらされた「ごん」の動物と人間の ねようとするのもまた人間に近づきすぎたということになる。 ということだけではなく、償うという行為が人間の世界に近づ のである。それは、物理的に近づきすぎた(家の中に入った) たと考えた。言葉が解ることにより、人間世界に近づきすぎた れる理由として、この言葉が解るということが一番の理由だっ 読むことができるのではないか。さらに、「ごん」が撃ち殺さ そのように考えれば、「兵十」自身による謎解きとして何とか のでなく、 その後語り続けられるうちに加わった可能性もある。 たが、すでに述べたように必ずしも全部が「兵十」の語ったも 特に「おねんぶつ」の場面の読みなど、いささか無理な点もあっ ということにもなった。「兵十」の視点から読み直すというのは、 いう問の答えとしての読みであり、「兵十」の視点からの読み たであろう疑問、なぜ「ごん」がこのようなことをしたのかと そして、この「兵十」が語ったということは同時にもう一つ の捉え方にもなる。 「ごん」を撃ち殺してしまった「兵十」が、 か、自ずと、違った解釈もできるのではないか。 によって語られたとしたらどのように捉えることができるの の場面だけではどちらとも言えないが、この作品全体が「兵十」 のか、作品全体を通して考えるのか、ということである。最後 きすぎた行為だったのである。あるいは、「兵十」と自分を重 (この点から言えば、言葉が解るということが、この作品の鍵 また、このような捉え方は、最初にも触れた心が通じたのか どうかということにも関係する。この最後の場面だけで考える なのであり、この作品を動かしているエンジンなのである。 ) Ⅴ 作品の最後の「兵十」の言葉に「ごん」がうなずいたことに より、「ごん」が人間の言葉を理解するということに注目し、 というよりその一点にこだわってこの作品を再度読み直してみ た。それは、同時に、この作品は作品の最後で「兵十」が抱い - 13 - 語ることではなかったか。そう考えるならば、この作品は「兵 たかということである。あるいは、それを「ごん」の視点から 為をなぞること、 「ごん」の思いを想像することでしかなかっ 唯一「ごん」にしてあげられたのは、 「ごん」のこれまでの行 というよりは、シンボルでありキャラクターなのである。 れたきつねはあふれている。きつねは現実に存在する動物 の石像があり、絵(本)・アニメ・マンガの中に視覚化さ 現在でも辞書に載っている。しかし「鎮魂」の本来の意味 最近あまり目にしないが、「鎮魂曲」あるいは「鎮魂歌」 という言葉がある。(中略)レクィエムの日本語訳として いて次のように述べている。 4 井上太郎氏は、『レクィエムの歴史─死と音楽との対話─』 (河出文庫)において、レクィエムを鎮魂歌と訳すことにつ 俗学の影響もあるだろう。 ないが、本文中の田中氏の引用にもあったように、文学や民 対する違和感というものは、地域差と個人差があるのは否め じめとして実物を見る機会もある。狐がものをつかむことに また、キタキツネであれば、映画の「キタキツネ物語」をは であれば、キタキツネを見る機会は、かなりの頻度である。 確かに、狐はあまり動物園にはいない。なかなか実物に会 う機会はないかもしれない。ただし、地域差もある。北海道 レクィエム 十」による「ごん」への鎮魂歌(注4)として読むことができ るのである。 注 1 『校定 新美南吉全集 第十巻』の「スパルタノート」に ある「赤い鳥に投ず」と付記された「権狐」では、「権狐は、 ぐったりなったまま、うれしくなりました。 」 (新字、新仮名 遣いになおした)とある。これでは「兵十」の言葉が解った かどうか、外からは解らない。 「赤い鳥」の変更は外から解 2 狐の子別れというのは有名である。狐はある時期になった ら母狐が小狐を本気で噛むことにより独立させる。 とはいえ、 るようにしたとも解釈できる。 このようなことをどの程度「兵十」が知っていたかは疑問で は「レクィエム」のそれとは全く逆なのである。(中略) つまり生者のための祭りであって、死者とは無関係なのだ。 もあるが。 現代人にとってきつねとは不思議な生き物である。われ われの大半は、きつねの実物を見る機会はほとんどない。 安息が与えられることを祈る」ものであることを知らずに、 者の生前に犯した罪が、神の慈悲によって許され、永遠の 田中俊男は先の論文で次のようにも述べている。 3 小学生が実物の狐を見る機会はどの程度あるのだろうか。 動物園にはおらず、テレビの自然番組でもきつねが映し出 レクィエムの冒頭に出てくる 「永遠の安息」という言葉を、 それではこの訳語はいつ頃作られたのであろうか。(中 略)しかしこの訳語はレクィエムの本来の意味である「死 されることはまれである。その一方で、稲荷神社にきつね - 14 - 死者の魂が祟らないように鎮める意味に取り違えたのであ る。「荒ぶる魂」や「怨霊」を鎮めるために生者が祈ると いう考えは、日本には古くからある。その中でレクィエム の意味に一番近いのは、仏教における「回向」であろう。 これは「阿弥陀仏の功徳によって死者の極楽往生を祈る」 ことなのである。 「永遠の安息」を祈るということだけではなく、鉄砲で殺さ れた「ごん」の魂を鎮めるという意味においても、「鎮魂歌」 というのはふさわしいかと思う。あえて、取り違えよう。 - 15 -
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