ごんぎつね

ごんぎつね
1931年(昭和6)年の「スパルタノート」と称されている作品ノートに、「権狐」の草稿が書かれています。「権
狐」のタイトルの下に、「赤い鳥に投ず」と18歳の南吉の心意気を示すメモが付されています。400字詰原稿用紙15
枚前後のこの草稿の中で、小さな推敲まで含めると、170箇所に及ぶ推敲が加えられています。推敲が加えられたものは、
1932年(昭和7年)の復刊「赤い鳥」の1月号に「ごん狐」として掲載されました。「赤い鳥」掲載にいたっては、主
宰者の鈴木三重吉の添削が行われたというのが伝説になっています。
南吉が「赤い鳥」に登場するのは、1931年(昭和6年)5月号に「窓」が掲載されたのが最初で、以降、毎号のよう
に、「正坊とクロ」「張紅倫」が掲載されるようになりますが、三重吉にとって南吉は有望ではあるが、まだまだ無名の投
稿少年でした。投稿されてきた「権狐」に三重吉の朱が加えられたことは十分に考えられます。
以下に、表現の違いを比較してみます。(一部)
権狐 (南吉の草稿)
(本文での呼び方)
一貫して「ごん狐」
(本文の書き出し)
茂助と云うお爺さんが私達の小さかった時、村にゐました。・・・若衆
倉の前の日溜で、私達はよく茂助爺と遊びました。・・・私が次にお話す
るのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。
いささぎのいっぱいしげったところ
(日当たりのよいところに生える)
(最後の文)
権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました
ごん狐(三重吉が手を加えた)
最初は「ごん狐」
2回目からは「ごん」
これは、わたしが小さいときに、村の茂平という
おぢいさんからきいたお話です。
しだのいっぱいしげった森の中
(じめっとしたところに生える)
ごんはぐったりと目をつぶったまま、うなづきました
「作品が洗練されたという程度で、南吉の文学の本質は変わっていない」(浜野卓也)、「作品の本質を歪めるものでは
ない」(斎藤寿始子)と、三重吉が改稿することで、文章は簡潔になり、芸術的価値は向上したと一般的に評価される。ま
た、ごん狐の性格についても、「『孤独でかげがあり、内向的な性格』から『いたずらっこ』で『さびしがりやで愛すべ
き』イメージになった」(佐藤通雅)と言っています。しかし、他方で、筆者の意図や作品の舞台になった「岩滑(やな
べ)」の地域に関し、無視・無知で行われたという意見があることを知っておかなけばなりません。
教科書 ~ごんぎつね~
「ごんぎつね」が初めて小学校の教科書に掲載されたのは、昭和31年(1956)の大日本図書版である。その後、各社
も追随し、最大手の光村図書版や学校図書版など、日本で発行される全教科書に掲載されることになった。それ以来、全国
の小学校4年生に親しまれています。
〈採用年〉
○昭和31年(1956年)
○昭和43年(1968年)
○昭和46年(1971年)
○昭和52年(1977年)
○昭和55年(1980年)
○昭和64年(1989年)
大日本図書
日本書籍
東京書籍
光村図書
教育出版
学校図書
大阪書籍
文学教材として採録された作家としては、その作品の篇数においても、採録期間においても、群を抜いています。
その魅力は、
●大変分かりやすいストーリーであり、読者をハラハラドキドキさせるような巧みな展開になっており、別世界に生きるも
の同士(兵十:人間
ごん:動物)が対立・矛盾・葛藤を起こしながらドラマ性を高めていく。
●昔、囲炉裏を囲んで、子どもが語り部の話に耳を傾けていた民話的雰囲気を懐かしく感じさせてくれる。
●この話は、「ごん」がこっそりと自分の罪滅ぼしをしようとするが、なかなか兵十には気づいてもらえない。最後に兵十
に撃たれて息をひきとるという極限の間際になって、自分のしたことだと分かってもらえて満足する。この姿に人は惹き
つけられる。
と考えられます。
南吉の文学
南吉は、すぐれた文学の要件として、「簡潔・明快・生新しさ・内容のおもしろさ」を求めた。このような物語観は、
当時の写実的リアリズムに陥っていた文学への批判でもありました。
南吉の作品の魅力とは・・・
①郷土性
南吉は、日記に「ぼくはどんなに有名になり、どんなに金がはいるようになっても、華族や都会のインテリや有閑マダムの出てくる小
説を書こうと思ってはならない。いつでも足にわらじをはき、腰ににぎりめしをぶらさげて、乾いたほこり道を歩かねばならない」と記
しています。どこにでも見られる典型的な農村を舞台にして、どこにでも起こりうるような身近な事件が語られることで、読者は親しみ
や、懐かしさを感じるのです。
あれほど、実人生において郷里を愛し、農民に献身した宮沢賢治が、作品世界においては無郷土性の無国籍童話を書いたことときわめ
て対照的です。
②豊かな物語性
〈主題〉
生存所属が異なるもの同士の心の触れ合いや通い合いをテーマにしています。これは、南吉の幼少時代の複雑な家庭環境による体験や、
人より弱く生まれたことで他人との間に大きな壁を作っていると考えられています。
• 人間と動物(ごんぎつね)
• 日本人と外国人(張紅倫)
• 魔界と人間界(巨男の話)
• 善人と悪人(花のき村と盗人たち・牛をつないだ椿)
〈主人公〉
南吉の描く主人公は、ストーリーの進行とともに心の変質をとげていきます。南吉にとっての登場人物は、「人間とは何か」を問う格
好の材料であり、かれらの行動や心理を追うことで、人間の中に潜む孤独やエゴを発見しています。これは、南吉の自画像が投影してい
るのかもしれません。
〈主人公の周辺にいる人物〉
登場人物たちにアクセントをつけるために、奇妙な人物たちを周辺に配置しています。たとえば、左右目の大きさの違う嘘つき、死ん
だふりのうまいほらふき、いく種もの屁を鳴らすことができるなど、主人公とのかかわりでは重要な役割を果たしていました。
③少年心理の描写
子どもの内なる視点から見た世界の描写が、的確で鋭い。読者はかつての生活経験が呼び起こされて、思わず「なるほど」と共感を覚
えてしまいます。
たとえば、「耳」という作品で、いつも友達に大きい耳をいじられていた花市君が、あるとき「いやだよ」とはっきりした声で拒絶し、
子ども達は呆然となります。
このように、子供同士のやり取りの中で、突然相手がまるで別人のように見えるという場面が作品によくでてきます。これは、子ども
のかわりやすさ、うつろいやすさを敏感にキャッチできる子どものナイーブな心性をあらわしています。