日本ヘーゲル学会 第20回研究大会プログラム

日本ヘーゲル学会
第20回研究大会プログラム
2014 年 12 月 20 日 ( 土 ) ・ 21 日 ( 日 )
静岡大学(グランシップ)
第 1 会 場 : 904 会 議 室 ( 大 )
第 2 会 場 : 909 会 議 室 ( 小 )
理 事 会 会 場 : 9 0 9 会 議 室 ( 土 曜 1 2 : 0 0 ~ 14 : 0 0 )
会 員 控 室 : 9 0 9 会 議 室 ( 土 曜 1 4 : 0 0~ / 日 曜 )
懇親会会場:グランシップ内レストラン「オアシス」
開催校責任者連絡先
静岡大学
山﨑
純
〒 4 2 2 -85 2 9 静 岡 県 静 岡 市 駿 河 区 大 谷 3 6 静 岡 大 学 人 文 社 会 科 学 部
松田純 研究室
T EL & F AX 0 5 4 -238 -4 4 90
E-ma i l : j sj ma tu@ ipc. shi zuoka . a c. j p
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【第1日】2014年12月20日(土)
■ 理 事 会 : 12 時 00 分 ~ 13 時 30 分
会
場 : 909 会 議 室
■ 緊 急 報 告 「 ヘ ー ゲ ル 自 筆 本 の 発 見 に つ い て 」 : 14 時 ~ 14 時 15 分
会
場 : 904 会 議 室
報告者:寄川条路(明治学院大学)
■ シ ン ポ ジ ウ ム : 14 時 15 分 ~ 17 時 15 分
会
場 : 904 会 議 室
ヘーゲルと新プラトン主義
報告1:伊藤
功(横浜国立大学)「ヘーゲルと一者論」
報 告 2 : 山 口 義 久 ( 大 阪 府 立 大 学 ) 「 プ ロ テ ィ ノ ス 発 出 論 の Dialekti k」
報告3:加藤尚武(人間総合科学大学)「同一性の変貌と発展」
司会者:山口誠一(法政大学)
■ 臨 時 総 会 : 17 時 15 分 ~ 17 時 45 分
会
場 : 904 会 議 室
■ 懇 親 会 : 18 時 00 分 ~ 20 時 00 分
会
場:グランシップ内レストラン「オアシス」
会
費 : 一 般 5, 000 円 、 院 生 3,000 円
2
【第2日】2014年12月21日(日)
■ 個 人 研 究 発 表 : 10 時 30 分 ~ 13 時 30 分
会
場 : 904 会 議 室
発 表 1 : 10 時 30 分 ~ 11 時 15 分
中島
新(一橋大学)「自然哲学における「化学論」の意義――ヘーゲルとシェ
リングの比較を通じて」
司会者:岩佐
茂(一橋大学)
発 表 2 : 11 時 15 分 ~ 12 時 00 分
真田美沙(一橋大学)「量における質の回復について――ヘーゲル『大論理学』
における定量の「無限性」を中心に」
司会者:竹島尚仁(岡山大学)
(休
憩 : 12 時 00 分 ~ 13 時 00 分 )
発 表 3 : 13 時 00 分 ~ 13 時 45 分
後藤正英(佐賀大学)「ヤコービの哲学小説における相互承認論」
司会者:入江幸男(大阪大学)
■ 合 評 会 : 14 時 00 分 ~ 16 時 00 分
会
場 : 904 会 議 室
石崎嘉彦『政治哲学と対話の弁証法――ヘーゲルとレオ・シュトラウス』
( 晃 洋 書 房 、 2013 年 )
質 問 者 : 飯 島 昇 蔵( 早 稲 田 大 学 )、杉 田 孝 夫( お 茶 の 水 女 子 大 学 )、高 田 純( 札 幌
大学)
司会者:山内廣隆(広島大学)
3
【展示と緊急報告】
日本で発見されたヘーゲルの自筆本について
寄川条路(明治学院大学)
ヘーゲルの自筆書き込み本が都内の古書店で発見されました。発見されたのは、
『 フ ィ ヒ テ と シ ェ リ ン グ の 哲 学 体 系 の 差 異 』( 1801 年 の 初 版 本 ) で す 。 本 の 見 返 し
( 遊 び ) に は 、 『 エ ア ラ ン ゲ ン 文 芸 新 聞 』 ( 1802 年 ) に 掲 載 さ れ た 同 作 へ の 書 評 が
書き写されていて、筆跡鑑定の結果、ヘーゲルの自筆本と確認されました。ヘーゲ
ル研究の第一級資料です。
本の見返し(きき紙)には「今泉博士寄贈」とあり、元陸軍獣医学校校長の今泉
六郎がドイツ留学中にベルリンの古書店で入手し、帰国後に神奈川県立小田原中学
校(現・小田原高校)に寄贈したものであることがわかりました。また、本のとび
らには小田原中学校の前身「神奈川県立第二中学校」の印が押されていて、「廃棄
分」と手書きされて処分されていたこともわかりました。
今回の緊急報告では、自筆本の実物を展示して、転写したテキストと
その翻訳もお配りして、ヘーゲルが自著に書評とコメントを書き込んだ
ようすをお話しします。
なお、ヘーゲルの自筆本は来年 1 月にドイツのヘーゲル文庫に寄贈することにな
りましたので、今回の展示が自筆本を見ることのできる最後の機会になります。ヘ
ーゲル文庫の地下室にある金庫で永遠の眠りにつくまえに、ヘーゲルの自筆本を手
にとって自分の目で見てください。写真撮影も可能です。
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ヘーゲルと一者論
伊藤
功(横浜国立大学)
ヘ ー ゲ ル は 総 じ て 新 プ ラ ト ン 主 義 を 高 く 評 価 す る が 、プ ロ テ ィ ノ ス に よ り も プ ロ ク ロ
ス に よ り 多 く の 完 成 度 を 見 る 。二 人 の 違 い は 体 系 的 な 思 考 が ど れ だ け 徹 底 さ れ て い る か
と い う 点 に あ る 。ヘ ー ゲ ル に よ る と プ ロ テ ィ ノ ス は 一 者 が「 還 帰 」す る も の と 考 え た 点
で す ぐ れ て は い る が 、そ の「 発 出 」の 捉 え 方 に 難 が あ る 。彼 は 一 者 に つ い て 具 体 的 な 規
定 を 与 え る こ と が な く 、そ の た め に 一 者 か ら 多 へ の 展 開 を「 流 出 」と い う 画 像 的 な 表 象
に 頼 っ て 語 ら な け れ ば な ら な か っ た 、と い う の で あ る 。一 者 が そ れ 自 身 の 必 然 性 に 従 っ
て 多 を 自 分 自 身 か ら 展 開 す る 、そ う し た「 哲 学 的 な い し 弁 証 法 的 」な 説 明 が で き て い な
い こ と 、そ れ が プ ロ テ ィ ノ ス の 否 定 的 一 者 論 に ヘ ー ゲ ル が 比 較 的 低 い 評 価 し か 与 え な い
理由である。
い か に し て 無 限 な も の か ら 有 限 な も の が 出 て く る の か 。こ う し た 発 出 論 の 難 問 は ヘ ー
ゲ ル 自 身 の 抱 え る も の で も あ っ た 。『 大 論 理 学 』で は 次 の よ う に 言 わ れ て い る 。「 哲 学
..
の 本 質 は し ば し ば〔 … … 〕次 の 問 題 に 答 え る こ と に あ る と さ れ て き た 。す な わ ち 、い か
.............................
...
にして無限なものはそれ自身から出て有限性へとやって来るのか?――これを概念的
.....
に 理 解 可 能 ( begreiflich ) に す る こ と は で き な い と 人 は 考 え る 。 〔 し か し 〕 無 限 な も の
...
〔 … … 〕は こ の〔 論 理 学 の 〕叙 述 が 進 行 す る な か で さ ら に 規 定 さ れ 、自 身 に 即 し て 形 式
のあらゆる多様性を尽くして提示されるだろう。それは、もしそう言いたければだが、
..........
無 限 な も の が 有 限 性 へ と や っ て 来 る と い う こ と で あ る 」 ( GW 21, 139 f.) 。
無限なものからの有限なものの発出をプロティノスは概念的に理解可能なものにし
ていないが、プロクロスは違う。そう考えるからヘーゲルはプロクロスを高く評価す
る 。で は 、こ の 評 価 は 何 を 志 向 し て の も の な の だ ろ う か 。何 を 視 線 の 先 に 置 い て い る か
ら こ の よ う に 評 価 さ れ る の か 。こ の こ と を 考 え る た め に は そ も そ も な ぜ 新 プ ラ ト ン 主 義
が 評 価 さ れ る の か 、そ し て プ ロ ク ロ ス に つ い て は 何 が 不 十 分 で あ る と 指 摘 さ れ る の か と
いったことをも考えあわせる必要がある。
哲 学 史 講 義 で ヘ ー ゲ ル は 新 プ ラ ト ン 主 義 が「 イ デ ア 的 な 知 性 界 」を 築 き 上 げ た こ と を
も っ て ギ リ シ ア 哲 学 の 完 成 と 見 る 。そ し て 新 プ ラ ト ン 主 義 に お い て 自 己 意 識 が 思 惟 を つ
うじて自らが絶対的なものであることを知る見地に達したとする。しかしその反面で
Subjek tiviät の 欠 如 が 新 プ ラ ト ン 主 義 の 欠 点 で あ る と し て 、 こ れ を 哲 学 史 の ス テ ー ジ が
ギリシア哲学からゲルマン哲学へと進まなければならない理由とする。
こ の よ う な 新 プ ラ ト ン 主 義 理 解 と そ の 位 置 づ け か ら は 何 が 見 え て く る だ ろ う か 。最 も
単 純 な も の か ら 叙 述 が 始 ま り 、次 第 に 複 雑 さ を 増 し つ つ す べ て を 経 巡 っ た あ と で 、再 び
最 も 単 純 な も の へ と 還 っ て い く 。し か も 俎 上 に の せ ら れ る も の は た ん に 羅 列 さ れ る の で
は な く 先 の も の か ら 後 の も の が 順 次 導 出 さ れ 、叙 述 が ひ と つ な が り の 全 体 を 成 す 。ヘ ー
ゲルの著作や講義に見られるこうした構想に新プラトン主義に通じるものを指摘する
こ と は 容 易 い 。は た し て 新 プ ラ ト ン 主 義 と ヘ ー ゲ ル 哲 学 と の 間 に は ど の よ う な 関 係 が あ
る の だ ろ う か 。『 論 理 の 学 』の「 論 理 」な ど ヘ ー ゲ ル 哲 学 の 主 要 な 論 点 の い く つ か に つ
いてこのことを検討してみたい。
5
プ ロ テ ィ ノ ス 発 出 論 の Dialektik
山口義久(大阪府立大学)
周 知 の よ う に 、ド イ ツ 語 の Dialektik は 、ギ リ シ ア 語 の διαλεκτική( 問 答 法 )を 語 源
と し て い る 。 ヘ ー ゲ ル が 自 分 の 考 え を Dialektik と い う 言 葉 で 表 現 し た 背 景 に は 、
διαλεκτική と の つ な が り あ る い は 共 通 性 の 認 識 が あ っ た の で は な い か と 考 え ら れ る 。
ま ず 最 初 に 、 古 代 ギ リ シ ア に お け る διαλεκτική 概 念 の 内 容 を 確 認 し 、 そ こ に 含 ま れ
る 意 義 に つ い て 考 察 す る 。ア リ ス ト テ レ ス に よ れ ば 問 答 法 は エ レ ア 派 の ゼ ノ ン か ら 始 ま
る と さ れ る が 、ア リ ス ト テ レ ス は( プ ラ ト ン 経 由 で )知 っ た ソ ク ラ テ ス の 問 答 の や り 方
を 、ゼ ノ ン に 近 い も の と 考 え た の だ と 推 測 で き る 。プ ラ ト ン は 、師 の や り 方 を 念 頭 に 置
い て 、問 答 法( διαλεκτική )を 哲 学 の 方 法 と し て 提 唱 し た 。プ ロ テ ィ ノ ス の διαλεκτική
理解も、プラトンの考えを継承している。
問答あるいは対話をもっと一般的に見た場合でも、対話の効用は明確に認められる。
対 話 が 創 造 的 な 意 義 を も つ 場 合 に は 、異 な っ た 視 点 と の 出 会 い が 重 要 と な る 。一 人 で 考
え る 場 合 に も 、一 つ の 視 点 に 固 着 し て い て は 、考 え を 先 に 進 め る こ と は で き な い 。複 数
の 視 点 を も つ こ と に よ っ て 、は じ め て 対 象 を 立 体 的 に 捉 え る こ と が で き 、そ の 対 象 を 分
析することが可能になる。プラトンが思考とは自己自身との対話であると言うときに、
その背後にあるのは、そのような事情であろう。
ヘ ー ゲ ル の 弁 証 法 が デ ィ ア レ ク テ ィ ケ ー を 語 源 と し て い る こ と も 、そ の 事 情 と 関 係 し
て い る と 思 わ れ る 。An sic h と für sich か ら 、an und für sich へ 移 行 す る と い う こ と は 、
対話が意義をもつ場合の進行と同型であるからである。
し か し 、 そ の こ と は 必 ず し も プ ラ ト ン や プ ロ テ ィ ノ ス の 考 え る διαλεκτική が ヘ ー ゲ
ル の 弁 証 法 と 直 結 し て い る こ と を 意 味 し な い 。ヘ ー ゲ ル が プ ラ ト ン 的 な 意 味 で の( 哲 学
の 方 法 と し て の )問 答 法 に つ い て 語 っ て い る の か ど う か に か か わ ら ず 、少 な く と も 、そ
の問答法と弁証法が同じでないことは誰の目にも明らかである。
こ こ で は 、ヘ ー ゲ ル の 語 る 弁 証 法 的 な 展 開 に 対 し て 、プ ロ テ ィ ノ ス の 発 出 論 の 説 明 が
持 ち う る 親 近 性 に つ い て 考 察 す る 。そ の よ う な 親 近 性 を ヘ ー ゲ ル は 、プ ロ ク ロ ス と の 間
に は 感 じ て い た が 、プ ロ テ ィ ノ ス に 対 し て は 感 じ て い な か っ た よ う で あ る 。そ れ は な ぜ
か を プ ロ テ ィ ノ ス の 側 か ら 考 え て み る 。プ ロ ク ロ ス の 説 明 の 仕 方 は 、ヘ ー ゲ ル の 評 価 を
得 て い る の で 、プ ロ テ ィ ノ ス と プ ロ ク ロ ス を 比 較 す る こ と に よ っ て 、同 様 の 考 え 方 が プ
ロティノスにもあったかどうかを考察することができると思われる。
プロティノスの発出の説明を簡単に説明すると、まず上位の原理が留まったままで、
そ こ か ら 溢 れ 出 る も の が あ る 。そ の も の が 上 位 の 原 理 に 向 き 直 る こ と に よ っ て 、上 位 の
原 理 か ら 限 定 を 受 け 、下 位 の 原 理 が 成 立 す る と い う も の で あ る 。こ れ と プ ロ ク ロ ス の 発
出の説明との違いに目を向け、ヘーゲルとの関係について考える。
6
同一性の変貌と発展
加藤尚武(人間総合科学大学)
二 十 世 紀 末 の「 徳 倫 理 学 」は 、カ ト リ シ ズ ム を 離 れ て 純 粋 に『 二 コ マ コ ス 倫 理 学 』の
読 解 に 明 け 暮 れ る 人 生 を 楽 し む 人 々 の 登 場 を 告 げ て い る 。も と も と ヘ レ ニ ズ ム( プ ラ ト
ン、アリストテレス)とヘブライズムの統合は無理だった。無からの創造、霊魂不滅、
肉 の 復 活 、最 後 の 審 判 、三 位 一 体 は 、ギ リ シ ャ の 自 然 哲 学 と 存 在 論 に 照 ら せ ば 不 合 理 そ
のものである。この無理すじとの付き合いで人生を終えたくはない、のだろう。
新 プ ラ ト ン 主 義 は そ の 無 理 す じ の 大 潮 流 で 、 ア ヴ ィ ケ ン ナ ( イ ブ ン = シ ー ナ ー 980 1037) 、 ア ヴ ェ ロ イ ス ( イ ブ ン = ル シ ュ ド 1126 -1198) の 巧 妙 な 工 夫 は 、 結 局 は 影 響 力
を失って、ヘレニズム抜きの荒っぽい原理主義を現代イスラム世界に残している。
キ リ ス ト 教 文 化 も 結 局 は ヘ レ ニ ズ ム 抜 き の 原 理 主 義 に 帰 り 着 く の だ ろ う か 。キ ル ケ ゴ
ー ル 、ブ ル ト マ ン 、バ ル ト 、終 末 論 は 、い ず れ も 原 始 キ リ ス ト 教 へ の 回 帰 で あ る と す れ
ば 、こ こ に も ヘ レ ニ ズ ム と ヘ ブ ラ イ ズ ム の 統 合 の 流 れ は 途 絶 え て い る 。そ の 統 合 の 伝 統
の 存 在 を よ り ど こ ろ に し て 、キ リ ス ト 教 と イ ス ラ ム 教 の 和 解 を 未 来 に 望 む こ と は 、で き
ないだろう。世界の平和は、世界全体の世俗化によってしか達成できないのではない
か。
プ ラ ト ン 自 身 に「 イ デ ア 論 批 判 」の 後 期 が あ っ て 、ア リ ス ト テ レ ス の「 イ デ ア 論 批 判 」
は 、そ れ を 引 き 継 い で い る 。こ の「 イ デ ア 論 批 判 」を 乗 り 越 え る よ う な 哲 学 ・ 新 プ ラ ト
ン 主 義 を つ く る な ら ば 、そ こ に ヘ レ ニ ズ ム と ヘ ブ ラ イ ズ ム の 結 合 の 別 の 可 能 性 が 開 け て
く る 。後 期 プ ラ ト ン 、ア リ ス ト テ レ ス 、新 プ ラ ト ン 主 義 の 混 合 思 想 の 影 響 は 、啓 蒙 主 義
の 時 代 に ま で つ づ き 、へ ー ゲ ル と 同 時 代 の 文 献 学 に よ っ て 、テ キ ス ト の 確 定 が 行 わ れ る
ようになっていったが、ヘーゲル自身は文献学の完成の結果を知っていたわけではな
い。
た と え ば シ ェ リ ン グ の『 テ ィ マ イ オ ス 論 』( 1794 )に は 、「 テ ィ マ イ オ ス が プ ラ ト ン
の 著 作 で は な い 」と い う 説 へ の 言 及 が あ る 。文 献 学 が ま だ 確 定 し て い な か っ た 。ヘ ー ゲ
ル 固 有 の 思 想 が 確 立 さ れ る の が『 自 然 法 論 文 』で あ る と す る と 、こ こ に は『 テ ィ マ イ オ
ス 』の 影 響 が 見 ら れ る 。当 時 の 自 然 哲 学 に は『 テ ィ マ イ オ ス 』の 影 響 が 、さ ま ざ ま な 形
で残っていたのでヘーゲルがそれを受けいれていた可能性は大きい。
『 体 系 断 片 』に は 、
特 定 は で き な い が 、ル ネ サ ン ス 以 来 の 新 プ ラ ト ン 主 義 の 影 響 が 見 ら れ る の で 、ゆ る や か
な 意 味 で の ヘ ー ゲ ル 哲 学 の 母 体 を『 テ ィ マ イ オ ス 』と 新 プ ラ ト ン 主 義 の 間 に 見 て お く こ
とができる。
ヘ ー ゲ ル が プ ロ テ ィ ノ ス を い つ 読 ん だ か 。す で に ゆ る や か な 形 で は 新 プ ラ ト ン 主 義 の
影響を受け入れていたのだが、『精神現象学』の執筆の途中でプロティノスを読んで、
「実体主体説」としてその内容を表現したという可能性を考えてみたいと思う。
7
自然哲学における「化学論」の意義
――ヘーゲルとシェリングの比較を通じて――
中島
新(一橋大学)
本 発 表 の 目 的 は 、 180 0 年 前 後 に ド イ ツ で 大 き く 展 開 し た 「 自 然 哲 学 」 の 潮 流 に お い
て 、 「 化 学 Che mie」 が ど の よ う な 評 価 ・ 位 置 づ け を 受 け て い た か を 、 主 に ヘ ー ゲ ル の
『大論理学』における「化学論」の考察を通じて明らかにすることである。
当 時 の 化 学 分 野 は ラ ヴ ォ ア ジ ェ に 代 表 さ れ る よ う に 大 き な 変 動 期 を 迎 え て お り 、ド イ
ツ の 哲 学 思 想 分 野 に も 影 響 を 与 え て い る 。例 え ば シ ェ リ ン グ は 、自 我 哲 学 期 を 経 て 、自
ら の 独 自 思 想 の 展 開 を 試 み た 際 に 、「 自 然 哲 学 」と い う 形 で 理 論 形 成 を 行 い 、そ の 構 想
の な か に 化 学 の 原 理 を 問 う こ と も 含 め て い る 。観 察・実 験 と い う 経 験 的 手 段 に よ っ て し
か 検 証 が で き な い「 化 学 」は 、一 度 は カ ン ト に よ っ て「 厳 密 な 科 学 で は な い 」と の 評 価
を 下 さ れ た 。し か し 実 験 技 術 の 向 上 や 新 理 論 の 提 唱 と い っ た 急 速 な 発 展 を 受 け て 、シ ェ
リ ン グ や ヘ ー ゲ ル の 時 代 に は 、化 学 を「 学 」と し て 新 し く 位 置 づ け る 機 会 が 訪 れ て い た
こ と は 間 違 い な い 。そ う し た 時 代 の 要 請 を 受 け て 、シ ェ リ ン グ が そ の 自 然 哲 学 期 の 著 作
に お い て 化 学 を 取 り 上 げ た こ と は 不 思 議 で は な い し 、そ の 問 題 意 識 は ヘ ー ゲ ル も ま た 持
っていたと考えられる。
し か し 、時 代 の 要 請 か ら 化 学 の 再 考 が 試 み ら れ た こ と 以 上 に 、シ ェ リ ン グ や ヘ ー ゲ ル
が自身の哲学体系の構想においてそうした問題を引き受けている点に注目する必要が
あ る 。た ん に 時 代 の 要 請 に 答 え る た め だ け で は な く 、当 時 の 化 学 理 論 の 中 に 、彼 ら の 思
想 展 開 に お い て 積 極 的 に と り い れ る べ き「 哲 学 」上 の 何 ら か の モ デ ル を 見 出 し た の だ と
考えられる。
以 上 の 観 点 か ら 本 発 表 で は 、シ ェ リ ン グ の 化 学 論 を 概 観 し た う え で 、そ の 影 響 を 踏 ま
え 、ヘ ー ゲ ル が 自 身 の 思 想 展 開 に お い て 化 学 を ど の よ う に 位 置 づ け て い た の か を 、『 大
論 理 学 』で の 化 学 論 を 中 心 に 検 討 す る 。『 大 論 理 学 』 で は 存 在 論 、本 質 論 、概 念 論 の そ
れ ぞ れ に 化 学 分 野 を 扱 っ た 箇 所 が 見 受 け ら れ る が 、と り わ け「 概 念 論 」の 第 二 篇「 客 観
性 」に お い て 、化 学 論 は 独 立 し た 章 と し て「 機 械 論 」 と「 目 的 論 」の 間 に 位 置 づ け ら れ
ている。しかし機械論と目的論は自然把握の方法としては対立するものだとされるの
で 、『 大 論 理 学 』が 一 貫 し た プ ロ セ ス の 展 開 を 叙 述 す る も の で あ る な ら ば 、化 学 論 は そ
の 対 立 す る 両 論 の「 橋 渡 し の 役 割 」を 担 っ て い る と 考 え ら れ る 。本 発 表 で は こ の「 橋 渡
し の 役 割 」と し て の 化 学 論 に 着 目 し 、機 械 論 や 目 的 論 と の 関 係 を 含 め 、こ こ で の 化 学 論
が ど の よ う な 議 論 を 展 開 し て い る の か を 確 認 す る 。そ の う え で 、ヘ ー ゲ ル が 化 学 と し て
理 解 し て い た も の が ど の よ う な 内 実 を 持 つ も の で あ る か 、そ し て い か な る 点 で 化 学 に そ
うした橋渡しの役割を見ていたのかを明らかにする。
8
量における質の回復について
――ヘーゲル『大論理学』における「定量の無限性」を中心に――
真田美沙(一橋大学)
ヘ ー ゲ ル は そ の 体 系 の う ち に 数 学 を 位 置 付 け な か っ た 。だ が 私 た ち は 初 期 の シ ュ ト ゥ
ッ ト ガ ル ト 時 代 に 書 か れ た「 大 き さ の 表 象 に 関 す る 若 干 の 覚 書 」の う ち に 大 き さ や 量 に
つ い て の 哲 学 的 な 思 索 を 、そ し て『 大 論 理 学 』第 二 版 存 在 論 の 改 訂 箇 所 の な か に は 、註
釈 2・ 註 釈 3 の 長 大 な 追 加 を 見 る こ と が で き る 。 ヘ ー ゲ ル は 、 数 学 の 領 野 と 接 す る 大 き
さ(量)の問題について生涯にわたって取り組んでいたと考えられる。
『 大 論 理 学 』量 論 に お い て 量 は 、限 界 に 対 し て 無 関 心 な も の と し て 規 定 さ れ る 。そ し
て「 量 」の 段 階 に お い て は 、定 量 が ど れ だ け 増 減 を 行 っ て も そ れ に よ っ て 質 の 変 化 は 起
こ ら な い の だ が 、度 量 論 に 推 移 す る と 量 の 増 減 に と も な っ て 質 の 変 化 が 起 こ る 。こ の よ
う に 量 と 度 量 の 両 者 は 、増 減 に 伴 う 質 の 変 化 の 有 無 と い う 点 で 区 別 さ れ る 。し か し「 量 」
から「度量」への推移が行われるためには、幾つかの契機が経られなければならない。
こ の こ と を 明 ら か に す る た め に は 、量 論 に お け る「 定 量 の 無 限 性 」の 箇 所 を 中 心 に 見 る
必 要 が あ る 。そ こ で 本 発 表 で は 、こ の 量 に お け る 質 の 回 復 が 具 体 的 に ど の よ う な も の と
して考えられているのかを「定量の無限性」を中心に考察する。
量 論 の「 定 量 の 無 限 性 」の 前 段 階 に お い て は 、量 の 無 関 心 性 ゆ え に「 量 的 な 無 限 累 進 」
が 生 じ る 。そ こ で は 、定 量 は 自 ら の 限 界 を 越 え て い き 無 限 を 目 指 す の だ が 、無 限 が す ぐ
に 定 量 に す ぎ な い と み な さ れ る こ と で 、さ ら に そ の 先 へ 進 む こ と を 促 さ れ る 。こ の よ う
な過程は「悪無限」と呼ばれるのだが、これは質論におけるのと同様に「否定の否定」
と し て の 「 真 無 限 」 あ る い は 「 定 量 の 概 念 の 回 復 」 、「 質 の 回 復 」 の 契 機 を 経 る こ と に
よ っ て「 量 的 比 例 」へ と 推 移 す る 。そ し て こ の 推 移 の 段 階 に あ た る の が 、「 定 量 の 無 限
性 」と い う 節 で あ り 、そ こ に お い て 真 無 限 に 到 達 し た 後 に は「 量 的 比 例 」が 展 開 さ れ る 。
「 定 量 の 無 限 性 」と「 量 的 比 例 」と は 、量 に 質 を 回 復 さ せ る と い う 意 味 で は 、量 か ら 度
量への推移を行う上での重要な役割を果たしていると考えられる。
「 定 量 の 無 限 性 」に は 長 大 な 三 つ の 註 釈 が 付 さ れ て い る が 、そ の な か で ヘ ー ゲ ル は 高
等 解 析 学 に お け る 無 限( 変 量 関 数 の 無 限 )を「 真 無 限 」と み な す 。そ し て こ う し た 「 真
無 限 」に よ る 質 の 契 機 の 回 復 は 、冪 比 例 や 度 量 論 に お け る 絶 対 的 無 差 別 に つ い て の 基 盤
を 用 意 し て い る の だ が 、こ の こ と は シ ェ リ ン グ 哲 学 に お け る 問 題 連 関 か ら も 捉 え 返 さ れ
る必要がある。
そ こ で 本 発 表 で は 、ヘ ー ゲ ル『 大 論 理 学 』「 定 量 の 無 限 性 」に お け る 質 の 回 復 の 問 題
が、同時代的な議論としてどのような意義をもつのかということを明らかにしたい。
9
ヤコービの哲学小説における相互承認論
後藤正英(佐賀大学)
本 発 表 で は 、ヤ コ ー ビ の 哲 学 小 説『 ヴ ォ ル デ マ - ル 』の 中 で 展 開 さ れ る 友 情 論 を ヤ コ
ー ビ の 相 互 承 認 論 の 原 型 と し て 解 釈 し た う え で 、そ の 独 自 性 に つ い て 、ヘ ー ゲ ル と の 対
比の中で考えてみたい。
最 初 に 、こ の 哲 学 小 説 を 取 り 上 げ る に あ た っ て 、ヤ コ ー ビ の 特 異 な 哲 学 的 表 現 方 法 に
つ い て 考 え て お く 必 要 が あ る 。ヤ コ ー ビ は 、文 学 と 哲 学 の 分 断 を 自 明 な も の と す る 発 想
を も っ て い な か っ た 。彼 は 、二 つ の 哲 学 小 説 の 書 き 手 で あ り 、そ の 理 論 的 著 作 で は 中 心
的な発想をしばしばメタフォリカルな仕方で表現した(死の跳躍、毛糸編みの靴下な
ど )。さ ら に 、ヤ コ ー ビ の 著 作 の 大 半 は 論 争 的 な 作 品 と し て 書 か れ て い る が 、そ れ は 彼
の 哲 学 が 本 質 的 に 対 話 的 性 格 を も っ て い た こ と に 起 因 す る 。ヤ コ ー ビ が 書 簡 体 や 対 話 形
式 の 哲 学 小 説 を 執 筆 し た こ と や 、そ の 著 作 に 対 し て 繰 り 返 し 改 定 を 加 え る こ と に な っ た
ことも、彼が対話の哲学者であったことと関係している。
さ て 、ヤ コ ー ビ の 哲 学 小 説( 特 に そ の 初 版 )は 、『 ス ピ ノ ザ 書 簡 』に 先 立 っ て 執 筆 さ
れ た 作 品 で あ る が 、 こ の 小 説 に は 80 年 代 以 降 の 理 論 的 著 作 に お い て 開 花 し た 発 想 が す
で に 内 在 し て い る 。『 ヴ ォ ル デ マ ー ル 』は 、主 人 公 の ヴ ォ ル デ マ ー ル が 、女 性 の 友 人 ヘ
ン リ エ ッ テ と の 間 に 発 生 し た 不 信 の 危 機 を 乗 り 越 え て 、そ れ ぞ れ に 個 別 性 を も っ た 人 格
としての友人関係を構築する過程を描き出している。この物語の主要なテーマの一つ
は 、ヘ ン リ エ ッ テ と い う 他 者 を ヴ ォ ル デ マ ー ル が ど の よ う に 受 け 取 り 直 し た の か と い う
点にあり、ここにはヤコービ流の「相互承認論」の原型を見出すことができる。
ヘ ー ゲ ル は 、テ ュ ー ビ ン ゲ ン 時 代 に 、177 0 年 代 に 出 版 さ れ た『 ヴ ォ ル デ マ ー ル 』の 最
初 の 版 を 読 ん で お り 、1796 年 に 登 場 し た 最 後 の 改 訂 版 も 、お そ ら く は『 精 神 現 象 学 』を
執 筆 す る 前 に 目 に し て い た 。過 去 の 研 究 に お い て 指 摘 さ れ て き た よ う に 、『 ヴ ォ ル デ マ
ー ル 』の 中 で 描 か れ る 問 題 群( 良 心 、行 為 、和 解 な ど )は『 精 神 現 象 学 』の 筋 立 て の 中
に吸収されている。ヘーゲルはヴォルデマールを典型とするような主観性に固執する
「 美 し い 魂 」の 持 ち 主 を 批 判 す る わ け だ が 、ヤ コ ー ビ 自 身 も「 美 し い 魂 」に つ い て は 両
義 的 な 評 価 を 下 し て い る 。ヘ ー ゲ ル は 一 貫 し て ヤ コ ー ビ 哲 学 の 主 観 主 義 に は 批 判 的 で あ
っ た わ け だ が 、ヘ ー ゲ ル と ヤ コ ー ビ は 、カ ン ト と 疾 風 怒 濤 以 後 の 人 倫 の あ り 方 を 模 索 し
て い る 点 で 共 通 す る 問 題 意 識 を 抱 え て い る と こ ろ が あ る 。 本 発 表 で は 、 1817 年 の 「 ヤ
コービ批評」まで続くヘーゲルのヤコービ評価の変遷についても視野におさめながら、
『ヴォルデマール』でのヤコービの相互承認論の独自性を浮かび上がらせてみたい。
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【合評会】石崎嘉彦『政治哲学と対話の弁証法――ヘーゲルとレオ・シュトラウス』
ヘーゲルの弁証法を「近代的」というとき、それには「古典的」弁証法が対置されている。それにまたそ
れ が「 近 代 的 」で あ る と い わ れ る と き 、そ れ に は「 科 学 」や「 歴 史 」と い っ た 観 念 が 関 わ り 合 う と と も に 、そ
れに対する反動として生じた新たな哲学的思考がそこから派生したわれらが時代を代表する哲学という意味
が 含 意 さ れ て い る 。 ま さ に そ の ゆ え に 、 20 世 紀 の 「 全 体 主 義 」 や 「 孤 独 な 群 衆 」 の 世 界 の 出 現 さ え 、 そ こ に
起 因 す る と さ え い わ れ た り も す る の で あ る 。そ れ ゆ え に 今 、そ の 現 代 的 意 味 が 再 考 さ れ る 必 要 が 生 じ て き た 。
拙著は、古典的弁証法に注目した政治哲学者レオ・シュトラウスに触発され、それを再考しようとする試み
である。
弁証法の再考は、冷戦終結とともに一層その必要性が増したと言ってよい。というのも冷戦とは、欲求の
自由な追求による幸福の実現かその人為的調整と制御による幸福の実現かをめぐって闘わされたイデオロギ
ー闘争に他ならなかったが、それの終結後の世界に出現したのは、冷戦の当事者たちに共有されていたテク
ノロジーとそれに対向して出現してきた新たな極が作り出す、新たな対立であったからである。
「和解性」と「同一性」原理に支えられた啓蒙と近代弁証法の立場からすれば、冷戦の終結とともに到来
するはずであったのは、対立が解消された明澄で平安なポスト歴史の世界であったはずである。ところが実
際にわれわれが目にした世界は、ただ単調に推移するだけの虚無的世界とそれに対向して闇の世界が立って
いるような、新たな二項対立の世界でしかなかった。それはヘーゲル的弁証法の破産を物語っているのでは
ないか。拙著は、新たな弁証法的対立の出現とともに見えてくるヘーゲルの公教的な弁証法的思考の限界を
超える道を、シュトラウスの秘教主義的思考を手がかりに探り出そうとしたものでもある。
ヘ ー ゲ ル の 弁 証 法 的 思 考 は 、 シ ュ ト ラ ウ ス の 言 う 「 近 代 性 の 第 一 の 波 」 と も 呼 び う る 「 現 実 主 義 的 」「 実 証
主義的」科学や社会理論への批判として提出されたものであった。しかしその批判は、それが超えようとし
たものと同一の地平からの批判でしかなかった。そしてそのことのなかに、ヘーゲル的弁証法の近代性批判
の限界があったのではないか。このことをシュトラウス的に言い換えれば、ヘーゲルは霊と無知を超え絶対
自 由 の 恐 怖 か ら 解 き 放 た れ た と 考 え た と き 甲 冑 (armor (Rüstung), PAW,18)を 脱 い で し ま っ た 、 つ ま り 政 治 的
なものが解消されたと考えたのではないかということである。拙著の議論が依拠するシュトラウス的政治哲
学の対話的弁証法は、この甲冑を弁えた弁証法であるということができよう。
シュトラウスがそれとの対決を通じポスト歴史の虚無的世界の革命を考えてみなければならなくなったコ
ジェーヴの普遍同質国家は、闘争と労働の限定的否定によって否定し尽くされた後に実現されるべき世界で
あったが、それは哲学的には知恵の探求が知恵そのものに達した世界、したがってもはや知恵の探求を必要
としない世界であった。この知恵の探求つまり哲学が終わりを告げる世界が、またぞろ無知と闇の恐怖の世
界であるとすれば、それは依然として政治的なものの再生される世界である。その世界も、ヘーゲル‐コジ
ェーヴがそれを身につける必要を感じなかった甲冑を必要とする世界なのである。拙書は、ヘーゲル‐コジ
ェーヴのこのような近代の目的の国に対するシュトラウスの批判が示唆する、それを取り戻すことによって
得 ら れ る 、 ポ ス ト モ ダ ン 的 ロ ゴ ス 発 見 の 試 み で あ る 。 そ れ は ま た 、「 調 和 」 や 「 和 解 」 や 「 平 和 」 の 概 念 に よ
って理解される共同性ではなく、非和解的対立を孕みながらその中に統一を作り出す共同性議論の基礎とな
る、政治哲学的思考を提示することでもあると言えよう。
こ の よ う な 論 点 は 、 1948 年 以 降 に 公 表 さ れ た シ ュ ト ラ ウ ス の ク セ ノ フ ォ ン 読 解 と 、 そ れ へ の コ ジ ェ ー ヴ の
注釈等を通した論争の中で、コジェーヴ批判という形でシュトラウスによって表明されていた。拙著は、こ
の シ ュ ト ラ ウ ス に よ る ヘ ー ゲ ル ‐ コ ジ ェ ー ヴ 批 判 の 論 点 を 明 ら か に す る と と も に 、 そ れ を 踏 ま え て 、「 闘 争 」
と「労働」による自然の「手なづけ」によってなされる共同性実現という近代のプロジェクトの限界を確認
することを第一の課題とする。そして、シュトラウスの古典的政治哲学研究の鍵となった「著述技法」の何
であるかを明らかにし、それによる「思想史」研究から得られる時間的制約を超えた対話的弁証法の輪郭を
描き出すことが第二の課題とした。そしてそのような弁証法的対話による合理性概念と、それに基づく「異
種 混 合 の 知 」、 あ る い は 「 コ ン ス キ エ ン テ ィ ア 」 の 知 を 、 ポ ス ト モ ダ ン の 世 界 に 必 要 と さ れ る 知 と し て 確 認 す
ることを第三の課題とした。
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■大会会場
静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」
〒 4 2 2 -8 0 0 5 静 岡 県 静 岡 市 駿 河 区 池 田 7 9 ‐ 4
Tel. 054-203-5710
http://www.granship.or.jp/
■ 懇 親 会 場 : 2014 年 12 月 20 日 ( 土 ) 1 8 時 00 分 ~ 20 時 00 分
会場:グランシップ内レストラン「オアシス」
会 費 : 一 般 5,000 円 、 院 生 3,000 円
■会場へのアクセス
東海道新幹線(ひかり)東京から 1 時間/大阪から 2 時間、静岡駅下車
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東海道本線
上り方面に乗換、東静岡駅まで約 3 分
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東静岡駅南口からメインエントランスまで徒歩約 3 分
http://www.granship.or .jp/parking/index.html#p003
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