ここ数日間で何度となく繰り返され - 基本的にdbookPROで作成した算数

カナダの小学校
金井信夫
はじめに
「いいや、明日で。」
ここ数日間で何度となく繰り返されてきた台詞を吐きながら、ため息と共にパソコンを閉じる。
文集「大杉」の原稿の依頼を受けたものの、何について書いたらいいものかなかなか思い付かな
い。それでも、いくつか思い付いたものを書き始めてはみたものの、気に入ったものは出来ず、む
なしくDEL(削除)キーを押す日々が続いた。
締め切りまであとわずかに迫ったある日、(今日こそ書くことを決めるぞ)と、日々の生活を振
り返っていると、記憶はどんどん過去にさかのぼり、ふと思った。ああ、去年の今頃俺はカナダに
いたんだ・・・
カナダの記憶は、まだはっきりと残っている。しかし、これも時間と共に次第に色あせていって
しまうのだろう。そうだとしたら、これを機会にカナダでの体験を文章として残しておくのも良い
のではないだろうか。それを「大杉」の原稿にしてしまうのはちょっと厚かましいかもしれないが、
背に腹は代えられない。いや、ちょっと待てよ。カナダでの体験なんて、とてもじゃないけど1ペ
ージや2ページで終わる代物ではないな。そんなに書いてもいいのだろうか。
そんなふうに、「大杉」の原稿をめぐって取り留めもないことを考える日々が続いたのですが、考
えているだけではらちがあきません。とりあえずわたしは、原稿の長さについて、担当の阿部先生の
ところに相談に行きました。
「制限は得にないから、長くてもかまいませんよ。」
いつもと変わらぬ素敵な笑顔でそう答えてくれた阿部先生を見て、とりあえず、わたしは席に戻りま
した。喉まで出かかった一言を飲み込みながら。(阿部先生の「長い」とわたしの「長い」の間には、
きっととてつもない距離があると思いますよ。)
許可は得たものの、その距離を少しでも埋めておいたほうが賢明であろうと思い、結局、カナダで
の体験の中でも小学校でのボランティアの体験のみに絞って書くことにしました。小学校での話であ
れば多少は興味を持っていただけるのではないでしょうか。しかし、このように、自粛の努力をした
ものの、実際に出来た原稿を見たときの阿部先生の驚きの顔を見て、(ああ、やっぱりあの距離は埋
めがたいものだったんだ)と納得せざるを得なかったのであります。
ここまでしつこく書けば、わたしの原稿がどれほど常識を逸した長いものなのかお分かりいただけ
ると思います。普通の人であれば開いたとたんに読む気をなくしてしまうでしょう。ですから、章立
てを行いました。そうすれば、章の項目を見てもし興味があれば、そこだけでも読んでいただけるの
ではないかと思ったからです。
これからお話しすることは、すべてわたしの生の経験を基にしています。しかし、わたしがカナダ
に行ったのは、あくまでもカナダの小学生と何らかの形でふれ合いその経験を少しでも今後に生かし
ていきたいと思ったからであり、カナダの教育制度を調べに行ったわけではありません。ですから、
内容に対する客観的な裏付けはありません。わたしの思い違いが少なからずあるとは思いますが、そ
このところはあらかじめご了承願いたいと存じます。
それでは、金井ワールドへようこそ。最後まで、ごゆっくりご堪能していただければ幸いでありま
す。
1996年2月
金井信夫
1、カナダの小学校で
カナダに滞在していた1年間の内の6カ月あまりの期間を、幸運なことにわたしは、バンクーバー
という町の中心部にある公立小学校でボランティアとして過ごすことができた。
カナダで何らかの形で子どもと関わりの持てる経験をしたいと思い日本を飛び立ったわたしである
が、小学校で実際に子どもたちとふれ合うことは不可能であろうと思っていた。何しろ英語をまとも
にしゃべることはできないし、自分が日本の小学校に勤めていた経験上そういったこと(訳も分から
ぬ外国人をボランティアであってもスタッフとして加えること)は想像すらできないからである。し
かし、わたしが夏休み中にボランティアをしていたYMCAのスタッフの紹介でその公立小学校で恐
る恐る面接を受けてみたところ、事はあまりにも簡単に動き出してしまった。
面接当日、(やっぱり無理をしてでも日本からスーツを持ってくるんだったな)と後悔をしながら、
ジーンズの穴から露出した膝小僧をかきかき事務室で校長を待っていた。そこにさっそうと現れた校
長=ロブは、前頭部が薄く成りつつあるものの、ハリウッドのスターを思わせる紳士であった。年は
40前後というところだろうか。びびりまくるわたしを尻目に、ロブは「初めまして、わたしが校長
のロブ・~です。ロブと呼んでくれ。ロード・ロバート小学校へようこそ・・・」と英語でさわやか
にまくしたててきた。おきまりの挨拶をすませた後で、ダメでもともとと、さっそく、日本で必死に
なって用意した履歴書、カナダにきた目的を書いた手紙、紹介状等を見せながら、「ここでボランテ
ィアとして働きたい」とつたない英語で訴えた。ロブはそれらの紙にさっと目を通しながら「まあ、
とにかく来週から新年度が始まるから月曜日から学校に来なさい。パートタイムかい、それともフル
タイムでできるかい。」と、いとも簡単に言ってきた。(おいおい、本当にいいのか、俺は英語あん
まりしゃべれねえんだぞ、話してりゃわかるだろ、どうなったって知らねーぞ、・・・)と、自分で
O
頼んでおきながらあまりに唐突の
Kの返事にすぐには現状を把握できないでいるわたしを尻目に、
「履歴書によると君は体育が専門のようだから体育の授業を手伝ってもらおうかな、それとも特別に
日本の文化を教えてもらおうかな・・・」などと相変わらず英語でまくしたててくる。どうにかこう
にか冷静さを取り戻したわたしは、校長の気が変わってはたいへんと「サンキュウ、サンキュウ」と
作り笑いと共にお礼を言い、フルタイムでのお手伝いの約束と共に校長室を後にした。
こうして、これ以上は望むべくもないような公立の小学校での生の体験の約束を手中にしたわたし
は、有頂天になってそのことを知り合いに自慢しまくった。しかし、次第に冷静になり事の重大さを
ぼちぼち認識し始めてくると、不安が募ってくるのであった。英語がまともに話せない自分にいった
い何が出来るというのだろう。こうして、学校が始まるまでの数日間、眠れない夜を過ごすことにな
ってしまうのであった。
2、学校の1日
カナダの場合、各州によって教育制度にかなりの違いがあるようである。とりあえず、バンクーバ
ーのあるブリティッシュ・コロンビア州(以下B・C州)では7・5制を取っており、小学校は7年
生まである(日本の中学校と高等学校にあたる学校はセカンダリー・スクールと呼ばれ、ここまでの
12年間が義務教育である)。そして、同じB・C州内でも、校長の考え方によって学校の運営の仕
方が大きく異なる(注1)。そのため、これからわたしが話をするこの小学校の現状をすなわちカナ
ダの一般的な小学校の現状ととらえることには語弊があるかもしれない。その事をふまえた上で、以
下の文を読み進めていただけると幸いである。
この学校は9時に始まり15時に終わる。1年生から7年生まですべて同じである。始業前、各教
室にはかぎがかかっており、5~10分前に担任がかぎを開けるまで児童は廊下で待っている。2校
時と3校時の間にいわゆる休み時間があるが、この間も教室にはかぎがかけられ、子どもたちは教室
の外に追いやられる。たとえ雨が降っていてもである。この時間は子どもたちにとってはおやつの時
間でもあり、家から持ってきたお菓子を遊びの合間に廊下や校庭で思い思いに食べている。4校時が
終わるとランチタイムである。この学校には、日本の給食に似た制度があった。1カ月千円程度払え
ば割とおいしいランチを食べることができ、わたしも利用した。9割程度の子どもたちと数名の教師
が利用しており、残りの子どもたちは弁当を持参するか自宅に帰って食事をしていた。しかし、この
制度は、この学校の位置している地域の事情(ダウンタウン《街の中心部》の高層アパート群の中に
あり、共稼ぎの家庭が割と多い)を考慮した特例的措置であるようである。聞いた話によると、一般
的には昼食は家庭に任されており、弁当を持参するか自宅でとるのがほとんどであるそうである。
業間の休み時間とランチタイムは、教師にとっても完全な休憩時間である。中には、近くのレスト
ランで昼食を取る教師もいる。そのため、スーパーバイザーと呼ばれる人たちが雇われ、その間子ど
もたちの監督(監視)をしている。教室にかぎをかけるのも、このことと関係しているようである。
ある日、こんな事があった。休み時間が終わり教室に戻ってきた子どもが、担任の教師に、休み時
間に誰かにいじめられたというようなことを訴えていた。その時の会話。
担任
「スーパーバイザーの人にそのことを言ったかい。」
子ども「いいえ。」
担任
「休み時間に起きたことはスーパーバイザーの人に相談しなさい。」
すべての教師が同じような対応をするかどうかはわからないが、責任の所在を常にはっきりとさせ
ておかなければならないという雰囲気は感じた。話が飛んでしまうが、YMCAでの子どものキャン
プにボランティアとして参加したとき、子どもたちは「どんな事故が起きても主催者の責任をいっさ
い問いません」といった感じの誓約書を片手に参加していた。
ランチ後、3時限授業を行い放課となる。午後に3時限というと多く感じるかもしれないが、13
時から15時まで40分ずつ3時限である。間に、休憩時間・掃除・帰りの会といったものは一切入
らないのである。そして、3時限の間、子どもたちは勉強漬けになっていると言うわけでもないので
あるが、そのことについては後で触れたい(7章)。
注1・・・校長の考え方により学校の指導方針が大きく異なるということは、それに賛同している父
母にはいいが、賛同できない父母にとっては困ったことである。そのため、学校の指導方針
に賛同できないという理由だけで、簡単に転校することができるそうである。もちろん、住
所を変える必要はない。
3、驚きの学級編成
このような学校でのボランティア生活がいよいよ始まるのであるが、初日から、見ること聞くこと
が驚きの連続であった。まず最初の日、職員たちと顔を合わせたのであるが、どうも職員たちはこの
日自分が何をしたらいいのかを把握していないようなのである。後から分かったことであるが、2カ
月半にも及ぶ夏休みの間、一般の職員たちは1日たりとも出勤する必要がないのである。9月は新年
度なので日本で言えば4月にあたり、日本の教師たちは新しい学年になる子どもたちを迎えるための
準備で4月1日からてんてこまいである。しかしこの学校では(たぶんカナダでは)、教師の初めて
出勤する日が子どもの初めて登校する日なのである。だから、教師たちはスタッフルームで、「今日
はいったい何をすればいいんだい。」などとのんきにすっとぼけた会話を楽しんでいる。子どもたち
がすでに教室で待っているのにである。クラス替えも行われていなければ、担任も決まっていない。
結局、クラス替えが行われたのは1週間後のことであった。それまでの間子どもたちは、前学級のま
ま新しい勉強にも入れず何となく過ごしているように見えたのである。
1週間後、いよいよ新しい学級編成が行われたのであるが、これにもまた驚かされた。1学級の人
数はうらやましいほどに少なかった。正確な人数をはっきりとは覚えていないが、下学年が25人、
上学年が30人以下といったところでほぼ間違いない。しかし、その1学級の上限の人数を各学年ご
とで割り振るのではなく、全学年を通して割り振るものだから事は難しくなる。簡単に説明するため
に、1学級の上限の人数をすべての学年で30人とした場合、全校生徒が310人いたとすれば、3
10を30で割って、学級数は11になるのである。各学年に何人の児童がいるのかということは一
切関係ない。例えば、1年生が50人いて、2年生が44人いて、3年生が72人いたとしよう。日
本式で考えれば、各学年ごとに30人以下という事になるので、1年生が25人のクラス2クラス、
2年生が22人のクラス2クラス、3年生が24人のクラス3クラスという事になる。しかし、その
学校においては(たぶんカナダでは、少なくともB・C州では)1年生の内の30人で1クラス、1
年生の残りの20人と2年生の内の10人で1クラス、残りの2年生の内の30人で1クラス、余っ
た2年生4人と3年生の内の26人で1クラス・・・という具合になるのである。もちろん、全体の
数が単純に割り切れるということはまずないので、30人ずつに割り振るというような単純な計算に
はならないのであるが、とにかく全学年を通して、各学級の人数がほぼ等しくなるようにして(上記
の全校生徒310人の場合、全学年を通して各クラスの人数は28人が9クラス、29人が2クラス
になる)一生懸命に学級編成が行われるのである。
そうすると、例えば同じ2年生であっても、1年生と一緒に勉強する子と2年生だけで勉強する子、
そして3年生と一緒に勉強する子が出てきてしまうのであるが、それをどのような方法で割り振るの
か(例えば、成績の悪い子は1年生と一緒、いい子は3年生と一緒)は聞こう聞こうと思っていて忘
れてしまった。
このように、簡単に複式学級を作ってしまっては、授業の進め方において担任が苦労するのではな
いかと思われたのであるが、どうやらそうでもなさそうなのである。基本的に指導要領というものが
ないため、学年の差などほとんど気にせずに同じ学習を行わせているようである。さすがに英語と算
数だけは別々の教材を用意していたようではあったが。
こうして、無事学級編成が行われ、担任も決まり、子どもたちは自分の教室へ散っていったのだが、
この散り方もまた興味深かった。
日本では教室の場所は学年ごとに決める。例えば、1階が低学年、2階が中学年、3階が高学年と
いうように。しかし、この学校では(たぶんカナダでは)、教師に教室が割り当てられる。その教師
がどのクラスの担任をするかという事には関係なく、同じ学校に勤めている限りその教師はずっとそ
の教室を使い続けるのである。その結果、1年生の隣が6年生の教室、その隣が3年生の教室でその
また隣が1年生の教室などということが起こり得るのである。
クラスが決まり、教室へ散っていく子どもたちを眺めていると、同じ1年生でも、ある1年生はA
校舎の3階へ、別の1年生はB校舎の1階へと向かっていくのであった。
4、たくさんの職員によって支えられた学校
そういった感じで、学校が始まってからの数週間は学校全体があたふたしているため、校長も、わ
たしの処遇について考えている余裕がないということであった。そのため、その間わたしは、スタッ
フルームで英語の勉強などをして過ごしていた。スタッフルームとはいっても日本でいうところの職
員室とは違い、だだっ広い部屋に丸テーブルと椅子がいくつか置いてあるだけの殺風景な部屋である。
片隅にコーヒーが置かれており、職員がこの部屋を利用するのは、ランチを食べるためと休憩の時コ
ーヒーを飲むためぐらいである。あまりにも暇そうにしているわたしに同情してか、「体育の授業を
手伝ってくれ」と個人的に誘ってくれる教師も時々いたが、1日に1~2時間程度で、後はもの寂し
いスタッフルームで気まずい時を過ごしていた。
そのスタッフルームの片隅に、板で区切られた小さな部屋があり、そこに一人の職員がいた。彼女
には毎日のように数名の来客があり、スタッフルームの中で何やら話をしている。そして、その隣で
毎日一人寂しそうに本を読んでいる青年をかわいそうに思ってか、わたしも時々声をかけられるよう
になり話に加わるようになったのである。そこで交わされる会話は、一般的な世間話に加え、子ども
の話、教員の話等、学校に対する愚痴のようなものが多かったが、時には、PTA関係の行事の打ち
合わせのようなこともしていた。
わたしが、スタッフルームでの事の成り行きをすべて把握できたのは、9月も終わりに近づいた頃
であった。彼女はPTA関係の仕事を専門にする職員(事務職員は別にいる)であり、来客は児童の
父母だったのである。その部屋で、彼女は、PTAに関する事務的な仕事一切をこなしながら、午前
中はスタッフルームを父母に解放して彼・彼女らの相談に乗っていた。日本では考えられないことで
あったので、このことを知った時はちょっとした驚きであった。そして、改めて学校の中を見渡して
みると、この学校には職員が驚く程たくさんいることに気付いた。
この学校は、全部で13学級と中規模の学校であったが、職員は40人近くいた。わたしが以前勤
めていた学校(28学級)とほぼ同じ人数である。担任を持っている教員以外に、校長・副校長(教
頭)・事務職員・養護教諭・用務員と、ここまでは日本と基本的には同じであるが、それ以外にもた
くさんの職員がいる。その中のいくつかについて説明をしてみたいと思う。
まず、図書の司書。これについては、日本においてもその必要性が指摘されつつあるが、その役割
の大きさは実際に接してみてよく解った。図書室は、常に整理されたくさんの児童に利用されていた。
教師が司書に学習する内容を知らせておけば、司書は、その学習に関係のある図書を教室に届けてく
れる。学校の図書室にその学習内容に関する十分の数の図書がなければ、市内の図書館に問い合わせ
取り寄せてくれる。それ以外にも、図書室の利用法や図書の探し方の指導などたくさんの仕事をして
いた。
次に、ESL(English as a Second Language)クラスで英語を母国語としない児童に対して主に
英語の指導をするための教師が数名。カナダは移民の国である。この学校においても、半数以上の児
童はカナダ生まれではない。移民してきたばかりの児童の中には、ほとんど英語を話すことが出来な
い児童が多い。そのため、このような教師が必要なのである。
次に、学習の遅れ気味の児童を個別に指導するための教師が数名。毎時間、数名の児童を自分の教
室に呼び個別指導を行っていた。日本には、学習についていけない児童が算数や国語の時間だけ養護
学級に通う、「通級」という制度があるが、それに近いものがあるかもしれない。しかし、この学校
には、養護学級のような特別なクラスがあるわけではなく、あくまでも子どもの遅れを取り戻すため
の指導として行われていた。そのため、子どもは定期的にその教師のところに通うのではなく、遅れ
の激しいときは頻繁に、そうでないときは少なめにというように、その教師の判断でその回数が調整
されていた。
最後に、これは非常に説明が難しいのであるが、児童の相談にのったり問題のある児童の生活指導
をしたりするような職員が3人。彼らが何と呼ばれていたかは忘れてしまったが、スチューデントア
ドバイザーとでも呼ぶとしっくりくるかもしれない。しかし、彼らは、教員やカウンセリングなどの
特別な資格を持っておらず、専門的な相談にのるというよりは担任の負担を少しでも減らす為に、担
任には手に余る児童を預かって面倒を見るといった感じの役割を担っていたようである。多動気味の
児童は、ときどき担任の了解の元、教室を抜け出して体育館にやってくる。そして、この職員たちと
バスケットボールなどをしてエネルギーを発散させて、さわやかな顔つきで教室に戻っていくのであ
った。
このように、カナダでは、教育費に、特にその中でも人件費に多額の予算を費やしているようであ
る。学校の中に存在する様々な仕事はそれぞれの仕事を専門的にこなす職員に割り振られて、日本の
ようにいくつもの校務分掌を抱えてんてこまいしてしまう教師というものは存在しない。担任を持っ
ている教師は、それ以外の仕事は一切しなくてもいいようになっており、自分の持っているクラスの
ことのみに専念出来るようになっているのである。このことについてよりいっそう強い実感を持った
のは、10月に入り転入生の数の累計が各学級の児童数の上限をオーバーしてしまい学級編成をもう
一度やり直さなければならなくなったときであった。このとき、スタッフルームに新顔の職員が加わ
った。彼女は、なんと、学級編成を行うためだけに臨時に雇われた職員であった。1週間後、新しい
学級が決められると、彼女の顔を見る事もなくなったのであった。
5、カナダの臨時採用事情
人件費と臨時採用の話が出たところで、カナダの臨採事情について話をしたいと思う。日本におい
て臨時採用の教員というと、赤ちゃんを生む教員の代わりに来る、いわゆる、産休先生のイメージが
強いのではないかと思う。もちろん、それ以外にもいろいろな形で臨時に採用される教員がいるので
はあるが、とにかく日本の制度の特徴として、臨時採用というものはある程度の長期に渡るものしか
存在しないということがある。例えば、ある教員が病気やけがなどによって学校を休まなければなら
なくなった場合、その期間が2カ月以上に渡る場合は補助として臨時採用の教員が配当されるが、そ
れ以下の場合はすでにいる職員たちでその学級の補助をしていかなければならない。この場合、まわ
りの職員の負担も相当のものであるが、それ以上に、休まなければならない当人の心理的負担は想像
しがたいほど大きなものがあるのではないだろうか。実際、わたしは、栃木県で新規採用になってか
ら退職するまでの3年間、風邪をひいて何度熱が出ようとも学校を完全に休んだことがなかった。そ
れは、もちろん子どもたちのこともあるが、まわりの教員に出来れば迷惑をかけたくないという気持
ちが強かったからであった。結果的には、治りが遅くなったり子どもや教員に風邪をうつしたりで良
いことは何もなかったのではあったが。たかが1日休むだけでもこれなのだから、それが何週間にも
渡る場合の気遣いは想像しただけで恐ろしい。
カナダの場合、この点で日本とは大きく異なる。カナダの臨時採用の教員は、教員が何日休もうと
やってくる。たとえ1日でもである。いや、驚いたことに、たとえ半日でもやってきた。だから、子
どもにとっては自習というものが基本的にあり得ない。臨時採用で来た教員にしてみれば、初めて会
った名前も知らない子どもたちをある時はたった1日だけ教えなければならないのだから、それはも
うたいへんなことである。臨採で1日だけ来たある教員は、「正式な教員になるための試練として割
り切ってやっている」と言っていた。彼らのおかげで、教員たちはある程度気楽に休暇を取ることが
出来るのである。
6、恵まれた?カナダの教員たち
さて、この辺で教員についての話をしよう。カナダでは、教員の社会的地位がとても高いように感
じた。教職員組合の力がとても強く、社会的にも政治的にもかなりの影響力を持っているそうである。
夏休みのことはすでに述べたが、勤務時間に関しても恵まれている。始業15分前までに出勤し終業
5分後には退勤してよい。この学校の場合には8時415分までに出勤、15時5分には退勤可、と
いうことになる。給料もかなり高いようで、わたしのホストファーザーは口癖のように「あいつらは、
金ばっかりもらっていっぱい休みやがって・・・」と愚痴っていた。それらのことに関係してかどう
かは解らないが、教師になることはとても難しいことのようである。
まず、採用されるための条件として、ボランティアの経験があること、現場で子どもを指導した経
験(教育実習は除く)があることというものがある。
ボランティアの経験については何も教師に限ったことではなく、就職をするときに有利な条件にな
るため、学生時代に必ずといっていいほど経験を積んでいるようである。実際、わたしがコミュニテ
ィーセンター(公民館のようなところ)でサマーキャンプのボランティアをするための講習を受けた
とき、会場は10代の若者であふれていた。そして、わたしはそこでそのボランティアの仕事を長期
で希望したのであるが、希望者がたくさんいるため、一人2週間以内と決められてしまったのである。
現場での経験については、裏を返せば大学を出たての人は採用されないということであり、教師と
して採用された人は必ずと言っていいほど臨時採用の教員として働いた経験があるということである。
現実には、その臨時採用の職さえ得ることは難しく、登録をしてもかなりの間(時には1年以上)待
たされるようである。待たされている間は、ボランティアとして(もちろん無償)週に何日かは学校
で働き、教員としての経験を積む人も少なくないらしい。
採用の方法は、日本と違って筆記試験のようなものはなく、州や地区など広域でのまとまった採用
はしない。教育委員会のようなところに名前を登録するようなシステムはあるようであるが、基本的
に採用か否かを決定するのは校長であり、その試験は面接のみで行われるようである。
ある日、スタッフルームの掲示板に張ってある紙を、英語の勉強のつもりで読んでみたことがあっ
た。まずは表になっているところの項目のようなものを読んでみる。なになに、「学校名」・「職
種」・「仕事の内容」・「条件」・「給与」・・・。何だ、これは求人票ではないか。何のためにこ
んなものがこんなところにあるのだろう。日本では、職員室に教師のための求人票が置いてあること
など考えられないなあ。まさか、わたしのために・・・、などと馬鹿なことを考えながら、ある教員
に聞いてみた。
「何ですかこれ。」
「求人票。」
(そんなこと分かってんだ。そうじゃなくて、)
「何のためのものですか。」
「仕事を探すためのもの。」
(だからそうじゃなくて、)
「何で、ここに、このようなものが、置いてあるのですか。」
「わたしたちが見るためだよ。」
(あーっ、もー、)
わたしにとっては不思議なことであるが、彼らにとっては当たり前のことであるので、わたしの疑問
の意味が伝わらず、どうも話が噛み合わない。
結局、その場では満足な回答を得ることは出来なかったのであるが、後に聞いた話を総合して判断
したところ、どうやらその求人票の存在は日本とカナダの教員の異動の方法の違いに関係していたよ
うである。日本での教員の異動は、本人の希望を聞いた上で、都道府県や地区の教育委員会が決定す
る(詳しいことは知らないのではあるが)。しかし、カナダでは(少なくともB・C州では)異動と
いう概念自体が基本的にあてはまらないようである。教員に限らず職員は、例えば、求人票の中に自
分の気に入った条件の学校があると、または、自分がその基で働いてみたい校長の学校に空きが出来
ると、教育委員会を通してその学校の校長の面接を受けるようである。採用になれば、その学校に異
動ということになるが、もちろん他にも希望している人はいるわけでそれほど簡単に思うところにい
けるということにはならないであろう。結局、実力のある者はある程度自分の働きたいところで働け
るし、そうでない者はそうはいかないということになるのであろうか。
教師の中には、正式採用と臨時採用の中間のような立場にいる人もいた。わたしは、10月になっ
てやっと3年生のあるクラスで教師の補助をする仕事をすることが決まったのであるが、そのクラス
には担任が二人いたのである。とは言っても、今話題のT・T(Team Teaching)をしているわけでは
なく、1週間を二つに分けて前半と後半で担任が替わるのであった。月曜日と火曜日は副校長が担任
をしていたのだが、残りの3日間はそれらの日だけやってくるパートタイムの教師(臨時採用ではな
い)が担任をしていた。わたしは、初め、パートタイムの教師の都合でやむをえず副校長も担任を持
っているのかと思っていた。しかし、その教師はフルタイムを希望して面接を受けたのであるがパー
トタイムでしか採用できないと言われ、しかたなく今の立場に甘んじているのだと言っていた。月曜
日と火曜日は幼稚園で体育を教えているそうである。話を聞いていて、(他の教員よりもよっぽどす
ばらしい教員なのにな)などと、わたしまでセンチな気分に浸ってしまったのであった。
最後に、これは本当に驚いたというか、うらやましかったことが、最長2年間まで取れる休暇制度
である。この休暇制度の主な目的は、休養(リフレッシュ)と研修にあるようで、その間に、海外に
旅に出るもよし、大学に戻って勉強し直す(教員に限らず、カナダにおいてはごく当たり前のことで
ある《注1》)もよし、とにかく自由に休暇を利用していいようである。もちろんその間は無償では
あるが、休暇後の職場への復帰は保障されているという。3・4年生の担任をしていた教師は、今頃
この休暇を利用してタイでのんびりとした時を過ごしているはずである。
ここで、突然ではあるが、一人の教師の物語に少しの間お付き合いを願いたい。彼は、大学を出た
ての新米教師である。教師になるのが夢であった彼は情熱を人並み以上に持っている。そして、若さ
故あふれ出るエネルギーのすべてを教育へと注ぎ込む。毎日遅くまで学校に残り仕事をする。部活動
や少年団活動にものめり込み、彼の辞書から「週末」という言葉は消えた。数年後、ある程度仕事を
覚え、後輩にアドバイスさえ出来るようになってくる。しかし、彼の生活を振り返ってみると、ほと
んどが学校という狭い社会の中で動いているだけであった。そのような生活の中で、視野を広げたり
感性を磨くといったことを彼に望むのは酷であろう。教師を続けている限り、ある意味で彼は学校教
育のプロとなっていくのであろう。人を教え育てる者として、最も大切であってほしいことを自分の
ものにする機会を得られぬまま。
しかし、それでも彼はがんばり続ける。すでにあふれ出ることのなくなりつつあるエネルギーを振
り絞りながら。忙しすぎる彼に新しいエネルギーを補充するゆとりはない。年を重ねる度に増える校
務分掌のために、自分の持っている学級の子どもたちに注げる時間さえ思い通りにはいかなくなって
くるのである。もうすぐ底をつくであろうエネルギーの状態に、次第に彼も気付くようになる。(休
みたい)そう思う回数が多くなってくる。肉体的にも精神的にも疲れを隠せなくなった彼の行動から、
次第に覇気が消え、当然のように、それは子どもたちにも影響を与えることとなる。不安定な精神の
中で、彼は考えるようになった。(俺は、このままで、いい教師になれるのだろうか?いや、それ以
前に、いい教師になるためには何が必要なのだろうか?)・・・
人が人を教えるという行為に対して要求される特殊な能力(感性や視野の広さなどを意味している
つもりではあるが、言葉ではうまく表現できないところにその特殊性があると思う)やバイタリティ
ーと、費やされるべきエネルギーは、莫大なものがあると信じる。それらのバイタリティーや特殊な
能力をたかが4年間の大学生活の間に身に付けることは余程有意義な学生生活を送らない限り不可能
であろうし、与えられた時間の中だけでそれらの消費されたエネルギーを再び充電することは現実の
教師の忙しさを考えると困難である。
大学を出たての新採の教師に教師としての十分な能力がまだ身に付いていないことは当然のことで
あろう。「教師としての経験を積む間にそれらの能力は自然に身に付いていくものである」、そうい
う意見にうなずきざるを得ないところもある。しかし、そうして身に付いていく能力とはどういうも
のか。指導案の書き方・教授技術・校務分掌の処理の仕方・学級経営の仕方等々、実務的なことが多
いのではないだろうか。もちろん、それらは教師として大切な能力の一面である。しかし、同時に、
その他の面についても考え、それらのバランスを取っていかなければならないのではないか。その他
の面とはどういうものか。前出の特殊な能力やバイタリティーはここに含められるべきものであろう。
では、どうすればそれらの能力が身に付くのだろうか。少なくとも、教師の仕事を黙々と続けていく
ことによって身に付くものではないことは明かである。しかし、その具体的な方法となると、この場
で論ずる程自分の考えに自信が持てないのが実情である。そんな状態ではあるものの、自分はこの問
題について今後も真剣に考えていきたいと思っているし、今後教師になろうとしている若者にこんな
アドバイスをする自信ぐらいはある。「今は、採用に関しては非常に厳しい状況にあるが焦ることは
ない。視点を変えて、もっと自分のまわりの世界を眺めてみよう。教師をやっているときには身に付
けられない能力、いや、教師をやっているからこそ身に付けられない能力、それらを身に付けるため
のかぎは、教師になる前をどう生きたかにあるのだから」と。
ここに、二人の教師がいる。一人は、疲れ切っていて覇気のない教師。もう一人は、疲れを知らず
生き生きとしている教師。さて、あなたなら、自分の教師としてどちらを選ぶだろうか。大多数の人
は後者を選ぶであろう。しかし、その前にもう一度よく考えてみてほしい。前者はどうして疲れ切っ
てしまっているのだろうか。後者はどうして疲れを知らないのだろうか。
ごく単純に考えてみると、それぞれ2通りのパターンが考えられると思う(今後の話を分かり易く
するためにそれぞれのパターンに番号を付ける)。
まず、疲れてしまっているほうから考えてみよう。ひとつめは、私生活に何らかの問題があり、そ
れが原因で疲れてしまっている場合(①)。これは問題外であろう。ふたつめは、学校での仕事に没
頭するあまり、生活のリズムを崩してしまい、疲れてしまっている場合(②)。教師の仕事にノルマ
はない。手を抜こうと思えばいくらでも抜けるし、とことんやろうとすればそれはもうきりのないも
のになる。そのため、情熱の有り余る教師の中には、物理的に終わるはずのない仕事に没頭するあま
り、最終的に疲れ切ってしまう教師も少なくない。彼らは悪い教師だろうか?
次に、疲れを知らないほうについて考えてみよう。ひとつめは、公私ともに生活が順調で疲れを知
らない場合(③)。仕事もバリバリこなし、かつ私生活も充実し新たな活力を得てまた仕事に励む。
これはもう理想的な姿であるが、現実にはなかなか難しいと言わざるを得ない。やはり、どこかで疲
れを隠しているか、ある程度仕事を妥協してやっているのではなかろうか。ふたつめは、仕事はある
程度手を抜いて、そこで余った活力を私生活に向けることで疲れを知らない場合(④)。現在のわた
しも含めて(こんなに原稿を書いている暇があるならきちんと仕事をしろ、という声が聞こえてくる
ようであるが)、ほとんどの教師は、程度の差はあれここに属するのではなかろうか。
このような言い方をすると、何かほとんどの教師はどうしようもないというように聞こえるかもし
れないが、教師がこのようになるのは当然の結果であると思う。考えてみてほしい。授業の準備だけ
をとっても、それをとことんやろうとすればきりがない。
文部省の研究指定校などの公開授業を見に行くと、とてもすばらしい授業を行っており感心させら
れることは少なくない。しかし、それらの学校において、指定された教科以外の教科においても同じ
ようにすばらしい授業が行われているかと言えば、そうはならないのが現実であろう。やはり、それ
らの学校は、その教科にほとんどのエネルギーを注ぎ込んで毎日遅くまで研修を重ね、その結果あれ
だけのすばらしい授業が出来るようになったのであろう。
もしこれらの授業を一教師が、それもすべての教科において行おうとすればどのような結果になる
かは明らかである。結果的に、好むと好まざると、意識的にしろ無意識的にしろ、その教師は手を抜
かざるを得なくなる。
よって、④のような教師を責めることはだれにも出来ないと思うし、その観点から考えれば、不可
能とは知りながらも身を粉にして理想を追い求めている②のような教師は不器用ではあるが賞賛に値
するものがあるのではないだろうか。
要は、教師に与えられている時間の物理的な量と教師に与えられた仕事の物理的な量との格差があ
まりにもかけ離れていることに根本的な問題があるのである。指導要領の抜本的な改定か教員の大幅
増員による仕事の分業化でも行われない限り、好まざるのに意識的に④のようになってしまっている
教師や②のような教師は苦しみ続けるのではなかろうか。
このように考えた場合、前出のカナダの休暇制度は、これらの問題の一部分でも解決し得る可能性
を秘めているとは言えないだろうか。
実際に教師になって教壇に立ってみると、いやと言うほど自分の未熟さを痛感させられ、大学時代
に何も学ぼうとしなかった自分に腹が立った。大いに反省をし勉強をし直すことを誓ったものの、実
務に追われなかなかその時間を取ることは出来なかった。もしこの休暇を日本においても取れたとす
れば、日常の時間の枠の中では取ることが難しかった研修の時間を十分に取ることが出来る。現場で
の経験から生まれる反省を基にした勉強(研修)は大学時代の勉強よりもはるかに価値の高いものに
なるのではないだろうか。
また、同時に、余った時間を利用して疲れ切ってしまった教師たちはその疲れを取る(リフレッシ
ュする)ことが出来る。そして、勤めている間には出来ないような様々な経験を通して視野を広めた
り感性を磨いたりもできる。これなら、一石二鳥どころか一石三鳥ではないか。
しかし、これはあくまでも夢物語でしかないであろう。現実問題として、このような休暇は日本に
おいては存在し得ない。みんなが一生懸命に働いている中で「2年間休みをください」とはおいそれ
と言えたものではない。万が一、現在においてその事が許されていたとしても、小心者のわたしは、
やはり仕事を辞めてからカナダに行ったと思う。社会全体の流れが変わってから考えるべきことなの
かもしれない。
おおっと!!「ある一人の教師の物語」の続きをお話しすることをすっかり忘れていました。もう
話をすることにすっかり疲れ切ってしまいましたので、今後彼が疲れ切ってつぶれてしまうのか、仕
事と割り切り少しずつ手を抜き正常な生活を取り戻すのか、はたまた全く違った生き方を求めるのか
は皆さんの想像におまかせすることにしましょう。
注1・・・カナダで出会った多くの人たちが、一度社会人になった後で大学に戻り勉強をし直してい
た。転職をすることが当たり前である社会システムの存在以上に、大学側の受け入れ体制が
それらを可能にすることを大いに助けていた。
基本的にその大学を卒業した者であれば、審査を受けるだけでほぼ確実に大学に戻れるら
しい。また、たとえその大学を卒業していなくとも、聴講生として好きな講義を取ることが
でき、もちろんそこで取得した単位は正式に認められ、その後の就職に大きく活きることに
なる。そして、何と言ってもその授業料が安かった。残念ながらその値段は忘れてしまった
が、それがあまりにも安かったため開いた口がふさがらなっかった自分自身の不様な顔はは
っきりと覚えている(もしかしたら、日本の国立大学の授業料の十分の一に近かったかもし
れない)。
カナダから帰国したわたしは、せっかく覚えた英語をなるべくなら忘れたくないと思い、
どこかで英語の勉強を続けられないものかと思いを巡らせていた。前述のカナダでの話を知
っているわたしが、最初の候補に我が母校福島大学を選んだことはごく自然なことであろう。
さっそく、聴講生の申し込みをしようと学生課に出向くと、M棟の1階の(何課だかは忘
れたが)事務室に行くように言われた。そこで、聴講生の話を持ち出すと、「それは3月い
っぱいで締め切った」と門前払いにされてしまった。わたしは4月1日に帰国したのでそれ
では元々無理ではあったものの、どうにか成らないものかと少し食い下がってみたのである
が、いっこうに相手にしてくれない。(期限が過ぎてしまったことはどうしようもないのか
もしれないけれど、相談にぐらいのってくれてもいいのにな)などと少しふてくされたわた
しが、なおもしつこく質問を浴びせると、ついに職員は「何で大学で勉強したいの。英語だ
ったら福島にたくさん英語学校があるよ」などと大きなお節介を焼いてきた。
しかし、その後で聴講するための値段を聞いたところで、彼のお節介もまんざら捨てたも
のではないことが分かった。高いのである。その値段を1年間に一般の学生が取るであろう
講義の数だけ倍にしてみると、1年間の授業料の数倍になってしまう。それではカナダの数
10倍ではないか。以前通っていた英語学校の授業料とほとんど変わらない。
授業のことだけを考えれば、大きな教室に大人数を押し込んで行われる大学の講義よりも
英語学校の少人数制の授業の方がいいに決まっている。指導者も、研究が専門である大学の
教員よりも厳しい競争の中で教えることを専門としている英語学校の教員のほうが指導法の
みで考えれば上ということもおおいにあり得ることだ。そう考えると、聴講生なんてこっち
から願い下げだ。
納得したようで、何となくすっきりしないわたしは、(日本の教育は、やはり大学教育か
ら変えなければダメだな)などと生意気なことを考えながら、英語学校のパンフレットを手
に入れるべく、福島へと向かうのであった。
7、授業の様子
カナダの小学生はどんな学習をしているのだろうか。わたしが約半年間生活を共にした(学校の中
だけではあるが)愛しの3年生たちの学習の様子を見てみることにしよう。
朝、教室のかぎが開けられ教室になだれ込んだ子どもたちがまず最初にすることは、上着や荷物を
ロッカーに置くことである。荷物と言ってもディパック・手さげ袋といった小さなもので、もちろん
(?)ランドセルなどというものはない。中には、手ぶらで来る子どももいて驚かされる。
なぜそんなことが起こり得るのかと言えば、この学校における勉強道具とは「学校に置いていく
物」だからである。ノート類は教科ごとに棚に並べられており、必要な時に取りに行く。教科書はと
いうと、基本的には無いと言える。”基本的には”と断ったのは、”似たような物”はあるからであ
り、日本で言うところの算数や社会において主に使われることがあるようだ。しかし、あくまでも参
考書的に使われるのであって、日本でいうところのあの教科書とは本質的に異なる。
それらの参考書(注1)は、児童にではなく学校に配布される。よって、それらは教室に常備され、
数年間使いまわしされる。児童にとって自分の参考書という物は存在せず、その都度適当に棚から取
ってくるのである。筆記用具は児童から集めた教材費で学校が買い、児童に配布する。よって、使い
きったり無くしたりしたら教師からもらうのであり、家から持ってくる必要は全くない。
これらの結果、子どもたちが家から持ってくる物と言えばおやつぐらいとなる。上着のポケットに
おやつを入れてきてしまう子どもやおやつなんていらないという子どもは、手ぶらで学校に来ること
になるのである。
上着や荷物をロッカーに置いた子どもたちは、机に上げられている自分のいすを下ろすと、教室の
片隅に集まり、思い思いの場所に腰を下ろす。床には柔らかなカーペットが敷き詰められており、直
に腰を下ろすことに何の抵抗も感じさせない。子どもたちの後ろにはソファーが置かれ交代で座れる
ようになっているのだが、「今日は俺の番だ」「おまえは違うだろう」「もっと詰めてくれ」などと
必ず一もんちゃくありなだめるのにひと苦労である。
担任の出欠の確認と共に朝の会が始まる。その日の学習の予定が説明され、シェアリング(Sharin
g)が行われる。シェアリングとは、直訳すると「共有すること」「分かち合うこと」である。子ども
たちは、大切にしている物や集めている物などを持ってきて、それを友達に見せながらどういう物な
のかを説明する。”わたしの宝物自慢”といったところである。その日ソファーに座っている子ども
にシェアリングをする権利があるが、その権利を行使するか否かは子どもたちの意思に任されており、
無理強いをすることはない。誕生日にもらった物・アイスホッケーのスティック・友達からの手紙な
ど様々な宝物が登場し場が盛り上がる。「シンプソンズ」というアメリカ合衆国の人気アニメ番組の
中でもこれと全く同じことが行われていたので、カナダとアメリカの小学校でシェアリングはごく一
般的に行われていることのようである。
以上で朝の会が終わり学習に入る。まず最初はスペリング(英単語の書き取り)である。子どもた
ちはカーペットに座ったまま教師の説明を聞く。毎週20ずつの新出の単語を学ぶ。一つ一つの単語
の説明が終わり、ここで初めて子どもたちは自分の机に向かう。月曜日と火曜日はそれぞれの単語を
3回ずつ練習し、水曜日と木曜日はそれぞれの単語を使った文章を書き、金曜日に確認のテストが行
われる。
次に作文の学習に入るのであるが、ここからはもう子どもたちが一斉に学習を始めるということが
無くなり、前の学習が終わった子どもから自由に次の学習に入っていく。そのために、朝の会の時に
その日の学習の内容を説明しておくのであろう。作文のテーマもその時に説明され、すでに黒板に書
かれている。作文を書き終わった子どもはプリント学習に入る。ほとんどはその週に学習している英
単語にかかわるプリントであり、2~3枚用意されている。
これらの学習は業間の休み時間まで続けられる。ほぼ自習のような形で学習が進められていくわけ
であるから、早く終わってしまう子どもとなかなか終わらない子どもとの差は相当なものになる。そ
して、遅い子どもでもほぼすべての学習が終わる程度に全体の学習量が設定されているため、早く終
わる子どもは授業が終わる20~30分前にはすべての学習を終えてしまう。かといって、その子た
ちに新たな課題が与えられるということはなく、すべての課題を提出し終わると子どもたちは教室の
後ろにある棚に向かい、そこからおもむろにボードゲームを取り出して数人で遊び始める。ある子ど
もは積み木やトランプをして遊んだりもする。コンピューターでのゲーム(学習教材用)は人気があ
るため、教師の指名によってやる子どもが決まる。休み時間を伝えるベルが鳴るまでの間、彼・彼女
らは遊び続けるのであった。
1・2校時(1時限は40分と決められてはいるものの間にチャイムが鳴るわけではなく、その区
切りも授業の進み具合などにより曖昧になることが多い《注2》)は毎日これと全く同じ学習が繰り
返される。ときどき、プリントの代わりに絵本の読み聞かせが行われたりもするのではあるが。
ここで皆さんにクイズを。これまでに行われた学習は何の教科の学習でしょうか?えっ・・・簡単
すぎますか?そうです。英語ですね。
しかし、これらの学習を英語の学習であるとわたしが認識するまでにはかなりの時間がかかった。
それは、それらの学習の方法が日本での国語(注3)の学習のそれとあまりにもかけ離れていたから
である。ここで行われた学習は、基本的にスペリングと作文のみである(厳密に言えば、絵本を読ん
だり前出の絵本の読み聞かせをしたりもするのであるが、読みっぱなし聞きっぱなしで、見ていて時
間調整の意味あいが強いのではないかと思えた)。日本の国語の授業で漢字練習と作文だけをやって
いたら間違いなくどこからともなく非難を浴びるのではなかろうか。読解の学習はどうしたのですか
と。
とは言ってみたものの、ここでカナダの英語の学習方法を批判しようなどと言うつもりはわたしに
は毛頭ない。彼らには彼らの考えがあって、このような学習方法を取るようになったのであろう。
「学年が低いうちは、基本的な言語能力の育成のみに集中すべきだ」などというような感じで。そし
て、もちろん、学年が進むにつれて学習方法が大きく変わっていくのであろう。日本の詰め込み教育
(注4)(注5)と比べてどちらがいいかなどということは一概に言えないと思う。
話が思わぬ方向へ脱線しかかったが、ここでわたしが言いたかったことは、以下のことに驚きを覚
えたということである。日本の時限でいえば2時限にあたる時間を毎日英語の学習にあてているとい
うこと(それも毎日同じやり方で)、そしてその学習方法が日本のそれとかけ離れていたということ。
休み時間が終わり、残りの3~7校時は時間割に応じて進められる。時間割とはいっても、それは
教室のどこにも掲示されていないし、子どもたちも時間割表などというものは持っていない(家で時
間割をそろえる必要がないのだから当然なのかも)。あくまでも教師側が授業を進めていく上での目
安となるもので、時間の区切り方同様、割と流動的なものであるようだ(注2)。
3・4校時は、算数が行われることがほとんどであった。授業が始まると子どもたちは朝の会で座
ったところと同じ場所に集まり、思い思いの場所に腰を下ろす。教師に指名された数名の子どもが、
棚に置いてある算数の参考書をみんなに配布する。教師は、その日に行う学習の問題の解き方を説明
し、数名の児童に黒板を使って解かせてみる。それらの答え合わせと共に補足説明を行い、10分程
度で全体説明は終わる。子どもたちはそれぞれ自分たちの席に戻り、残りの時間をひたすら練習問題
を解くことに費やす。
ここで、子どもたちの学習形態にある一定の法則めいたものを見い出した方がいらっしゃるのでは
なかろうか。全体で何かをしようとした時はほとんどの場合(書く作業が伴うときは例外)子どもた
ちはソファーの前のカーペットの上に腰を下ろしそれらに取り組む。そして個人の学習課題に取り組
むときには自分の机でその学習を行う。よって、前出の絵本の読み聞かせは当然カーペットの上で行
われるし、絵本読みは当然自分の机で行われることになる。どちらかと言うと子どもたちを机にくぎ
付けにすることを好む日本の教師にとって、参考に成り得ることではなかろうか。
算数においても、与えられた課題を早く終えてしまう子どもが現れる。いや、ほとんどの子どもが
時間内に終えてしまうと言った方がよかろう。そうした子どもたちは、もし英語の学習でやり残した
ものがあればそれに取り掛かり、それらがなければ英語の時間同様ゲームなど思い思いの事をして遊
ぶ。
ランチ後の5~7校時は、理科か社会の学習が行われることが多かった。しかし、日本とは違って
それら二つの教科が週の時間割の中に混在するということはなかった。理科なら理科を2~3カ月間
集中して行い、その後で社会を2~3カ月間行うというように(もしかしたら、生活科のような合科
の授業であったのかもしれないが)。そして、学習のテーマはその期間においてたった一つに絞られ
ており、日本のような広く浅い学習(歴史の学習に顕著、長い歴史をたった1年で教える)ではなく、
狭く深い学習が行われる。わたしがいた3年生の場合は、9~11月の間は「カナダ開拓の様子」
(社会)について、12~2月の間は「火山」(理科)についてひたすら学習していた。また、1年
生のクラスは「くじら」について、3・4年生のクラスは「クモ《蜘蛛》」について、4・5年生の
クラスは「ミミズ」について調べているようであった。3年生の授業はもちろん、4・5年生の「ミ
ミズ」の授業にもわたしは参加したのであるが、それらのテーマを学習している期間、教室にはそれ
らのテーマに関する本(文献)が20冊前後置かれている。教師から出された課題をそれらの本を使
って自らの力で解決していく子どもたちの姿には、何かたくましさのようなものを感じた。
このような学習方法では、1年間で学習できるテーマ(日本でいえば「単元」にあたるかもしれな
いが、ここでいう「テーマ」はそれよりもかなり狭いことが多い。例えば「ミミズ」や「クモ」とい
ったものが日本において1単元になるとは考えられない)はそれぞれの教科で二つが精一杯であろう
が、これはこれで問題があるのではなかろうか(「ミミズ博士」や「クモ博士」を作ることが目的な
のか?)と思い、ある教師にその事に付いて聞いてみた。彼が言ったことを要約すれば次のようなこ
とになる。
「わたしたちは、子どもたちに『ミミズ』や『クモ』に関する知識を身に付けさせようとして授業
を行っているわけではない。要するに、『ミミズ』や『クモ』のことを知ることは授業における目的
にはなり得ない。テーマは何でもかまわない。大切なのは、一つのことを探求していくためのプロセ
ス(過程)や方法を子どもたちに身に付けさせることである。それらを身に付けた後は、子どもたち
はそれぞれの興味に従い自分の力でそれらのことを探求していけばいいのである。無限な広がりを持
ち得る子どもたちの興味をすべて学校教育の中で知識として与えていこうとしても物理的に不可能で
ありナンセンスである。」
彼のこのような話を聞いて、学力における日本人の一般的な傾向についてわたしは思いを巡らしざ
るを得なかった。わたしがその事に付いて正しい知識を持っているとはもちろん言わないが、わたし
が高校や大学に入るためにしてきた勉強と前出の彼の発言から想像されるカナダ人の一般的な学習
(教授)方法を比べただけでも、そこに生まれるであろう大きな違いは明らかなのである。
日本人は独創的な発想をすることが苦手である、というような話を聞いたことがある。実際、日本
人が獲得した特許の数というものはアメリカのそれに比べてかなり少ないらしい。それに比べ、日本
人は外国で開発されたものを知識として理解しそれらを活用するといったことは得意であるようだ。
要するに、日本人は知識が豊富で理解力があるが想像(創造)力に欠けるのであり、そうなるように
教育されてきたのである。
アメリカを中心とした西欧諸国に追いつけ追い越せとがんばってきた高度経済成長期にはそれでよ
かったのかもしれない。大量生産・大量消費の経済構造を支えていくためには、へたな想像(創造)
力を持たれるよりも、「知識・理解」重視の偏重教育を行った方が都合が良かったのかもしれない。
とは言っても、その結果現在の日本の豊かさがあるのであり、戦後の貧しさから抜け出そうと身を粉
にして働いたわたしの父親の世代の人たちの努力がその過程にあったのも事実である。わたしたちの
世代はその事については素直に感謝の意を表さなければならない。
しかし、それでもやはり、彼らの過剰労働に支えられての豊かさにはどこかに無理があったのでは
なかろうか。ひたすら豊かさを求めて盲目的にひた走ってきたことのつけが、様々な社会問題として
噴出してきているのではなかろうか(オウム問題をその例として挙げることは容易である)。
もはや、高度経済成長を求める時代ではなくなったことは明らかである。現在の豊かさに感謝しつ
つも、これからの時代を生きていかなければならない子どもたちには、豊かさと環境の共存やこれか
ら迎える高齢化社会の問題などあまりにも複雑すぎる問題にも立ち向かうことの出来る豊かな想像力
を育てていかなければならないのではないだろうか。そのための学習が「鳴くよ(794)うぐいす
平安京」といった年号の丸暗記や「水兵リーベ~(水素・ヘリウム・リチウム・ベリウム)」といっ
た元素記号の丸暗記、「S・V・O・C(主語・述語・目的語・補語)」といった英語の文型の丸暗
記などに見い出せないことは明らかである。
話が思わぬ方向へ飛躍してしまったが、カナダの小学校での話に戻ろう。カナダの教師たちは、そ
のような授業を行うために、自らテーマを決め(日本とは違い指導要領により学習内容が決められて
いない)そのための資料を自らの力で用意しなければならない。それはたいへんな労力である。よっ
て、力のない教師は市販の参考書に頼りざるを得なくなるのであるが(わたしが赤本《教師用指導
書》に頼らざるを得ないように)、この学校ではそのての参考書はほとんど見かけなかった。やはり、
教師の側の豊かな想像力と斬新な発想に基づいた授業であってこそ、子どもたちに豊かな想像力を身
に付けることの出来る授業に成り得るのであろう(日本においても「新しい学力観」なるものに基づ
いて「課題解決型学習」などの現場の教師による様々な工夫が試みられてはいるものの、文部省主導
型の教育システムの中で、結局、指導要領の手のひらの上で踊らされている限り、本当の意味での変
化は生まれないのではないだろうか)。
今まで出てきた教科の他にも、音楽・図工・体育といった教科ももちろん存在した。しかし、わた
しの集中力も限界に近づいてきたので(皆さんの集中力のほうがとっくに限界に達してしまったかも
しれないし、それどころかここまで読み進められた方は皆無に等しいかもしれないが)それらについ
ては、今後、もし機会があればお話ししてみたいと思う。
ここまでは教科の学習の様子について話をしてきたが、次に教科外の活動についても話をしよう。
とは言っても、毎週月曜日の一校時に行われる朝会以外は、時間割に組み込まれるような活動はな
い。道徳や学級活動といったものはないのである。その朝会も参加するのは幼稚園を含む4年生以下
の子どもたちだけである。
月曜日だけは、ロッカーに荷物をおいた子どもたちはソファーの前に座ることなく教室の前に並ぶ。
背の順・番号順などというものは最初から存在しないので当然のことながら並ぶ順番は適当である。
ランチルームに続々と子どもたちが集まり、クラスごとに床の上に座る。学年ごとに座る場所や隊
形、これらも特に決まっておらず適当である。
国歌斉唱と共に朝会が始まる。朝会の間起立の姿勢で行われるのはこの国歌を歌うときだけで、後
はすべて座った状態で会が進められる。副校長(ときどき校長)の話・週の予定の連絡に続いてクラ
ス発表(毎回一つのクラスが学習の成果を発表する)が行われる。歌を歌ったり、詩の朗読をしたり
と日本の朝会でもよく見られる光景である。
最後に行われるのが簡単な表彰式である。前の週にがんばった子ども(算数の計算をがんばったと
かクラスの友達に親切にしたなど)に賞状を与えるという名目であったが、必ずすべての児童が同じ
回数だけ表彰されるようになっていた。
もう一つ、月に一度行われるとてもうらやましい活動があった。この活動をなんと呼んだらいいの
か適当な言葉が見つからないが、日本の学校でも行われる演劇鑑賞(演劇教室)や音楽鑑賞(音楽教
室)とほぼ同じようなものである。しかし、日本においてのそれらの活動は全市(全町・全村)をあ
げて、年に1回ずつ公会堂のようなところで行われるのが一般的であるのに対して、B・C州では月
に1回各学校に劇団なり演奏家なりが訪れて行われるのである。わたしがいる間に、演劇を2回、ジ
ャズ・クラシック・カントリーミュージックの演奏会を1回ずつ、そしてジャグリング(三つ以上の
ボールや棒のようなものを空中に連続で投げ上げて取ったり投げたりを繰り返す芸)の実演と講習が
行われ、わたし自身もとても楽しい時を過ごすことができた。何しろ、プロの劇団や演奏家をたった
一つの学校で独占することができるのだからこれ以上の贅沢はない。彼らはたぶんB・C州中の学校
を一つ一つ回るのであろうから、いったいどれだけの金が必要になるのか想像を超えるものがある。
おそらく、子どもの教育のためにボランティア精神で協力している面もあると思うので、一般の公演
や演奏会と同じ金額は要求はしないとは思われるが。まあ、とにかくうらやましいことには変わりが
なかったのであった。
注1・・・ある教師が学校で使っていていらなくなった2冊の社会の参考書をもらい、日本に持ち帰
ってきた。そのうちの1冊は「外国の暮らし」についての本であり、その中の4つの国の一
つとして日本が取り上げられていた。日本が外国でどのように紹介されているのかを大変興
味深く読ませてもらった。
もし興味のおありになる方がいましたら一声かけてください。お貸しします。
注2・・・体育と音楽は厳密に時間割が決められており、しっかりと40分で区切られる。それは、
体育は体育館使用の割り当てが決まっているからであり、音楽は専科の教員が持っているか
らである。
注3・・・カナダで知り合った日系カナダ人の人に、日本における言語教育の教科名である「国語」
の呼び方について興味深い話を聞いた。要約すると以下のような話であった。・「日本の学
校には『国語』という教科があるが、この呼び方はおかしい。国の言語が日本語だからとい
うことなのであろうが、この考え方が生まれる根底には日本という国には日本民族という単
一民族しか生活しておらず日本語という唯一の言語を使用しているという誤った認識が存在
する。日本には、琉球民族を始めアイヌ民族・朝鮮民族など様々の民族の人たちが生活して
おり、皆それぞれ独自の言語を持っている。それらの民族の人やその言語が表面に出てこな
いのは、過去に日本政府が彼らに日本の言語・文化を強要する同化政策を行い、それが成功
してしまったからである。現在の一般的な日本人はその結果、意識をしないところで彼らと
彼らの言語を無視し、日本で使用されている(されていた)言語の中の一つの言語にすぎな
い日本語を平気で『国語』と呼んでいる。わたしの国=カナダでは、たくさんの民族の人が
生活していて皆それぞれの言語を大切にしている。国の公用語がたまたま英語(フランス語
も公用語であるがB・C州ではほとんど使われていない)であるため、学校では英語を教え
る。しかし、わたしたちは『英語』を決して『国語』とは呼ばない。それは、わたしたちの
国にはたくさんの言語が共存しており、その中の一つを取ってそれを国の言語(国語)と呼
ぶことは出来ないからである。」・とても難しい話であったので当時のわたしには彼女の真
意がよく理解できなかった(だからこそ、そんなわたしを戒めるつもりで彼女はわたしにそ
んな話をしたのかもしれない)。また、国の事情がかなり違うので二つの国を簡単に比較す
ることは出来ないかもしれない。しかし、あれから自分なりに考えその事に関係する本を読
んだりしてみて、彼女の言いたいことが少しずつ解るような気がしてきた。重箱の隅をつつ
くような問題であるかもしれないが、戦後50年、今を生きるわたしたちにとって、今こそ
考えていかなければならない問題なのかもしれない。
注4・・・現在の日本の小学校教育が詰め込み教育であると言えば異論があろうかと思うが、トータ
ルでの日本の学校教育を考えた場合、それが詰め込み型であるという観は免れないと思う。
注5・・・日本における詰め込み教育が何かと批判の対象に上がるようになって久しいが、そうした
日本的教育の弊害はスポーツの分野において如実に現れてきているのではなかろうか。
日本におけるスポーツは、その機構が小学校・中学校・高校・大学・一般(成人)と見事
なほどに分離・独立させられている。そして、それぞれの時期にそれぞれの団体が日本のト
ップを目指して激しい練習を行う。日本でトップレベルになるためには当然の事ながら成熟
された体力・戦術を求められる。しかし、肉体的にも精神的にもまだ成熟していない小学生
や中学生にそれらを求めた場合、そこに燃え尽き症候群や傷害・故障などの様々な弊害が現
れることもまた当然のことと言わざるを得ないのではないだろうか。
一般的に西欧(西欧に限る事にいささかのちゅうちょを感じるが)の多くの国では、子ど
もにスポーツを指導するとき、子どもたちが大人になったとき(心身ともに成熟したとき)
に最終的に完成された技術や体力なりを身に付けることが出来るような、先を見通した指導
が行われていると聞く。その指導は学校単位で行われるというよりは、地域のスポーツクラ
ブのようなところで行われているという。いわば、スポーツの小・中・高一貫教育である。
その結果、小学生や中学生の間だけは、日本のスポーツのレベル(盛んに行われているス
ポーツに限らなくてはならないとは思うが)は世界のトップレベルである。大リーグのお膝
下・アメリカ合衆国からやってきた少年野球チームや、世界に名だたるサッカー王国・ブラ
ジルからやってきた少年サッカーチームに日本のチームが勝ってしまうなどという話を、新
聞やテレビのニュースで見たり聞いたりした経験がお有りになるのではないだろうか。成人
した後での実力に雲泥の差があるのにもかかわらず(野茂選手と三浦知良選手は別格)。
どうやら、学力の面でもこのことは言えるらしい。小・中学生の時の日本人の基礎学力の
レベルは世界のほぼトップと言っていいらしい(十数年前に、香港かどこかに次いで2位と
聞いた記憶がある)。しかし、大学生になると、どうやらそうとは言えなくなるらしいので
ある。
これらの原因を、日本の詰め込み型の教育政策に求めることは出来ないだろうか。はっき
りとはそうと言えないまでも、何らかの因果関係があることは明らかなのではないだろうか。
小学校の教育は大きく良い方に変わってきている。最近、特にその事を肌で感じられるよ
うになってきた。しかし、上(大学・高校の入試のシステムなど)を変えない限り、小学校
はよくても、中学校や高校の教員方の苦悩はかえって増すのではないか。日本の教育制度の
抜本的な改革を願ってやまない。
8、カナダの子どもたち
わたしは子どもが大好きである。おかしな話であるが、子どもの時からそうだった。小学校の高学
年の時は、休み時間に同級生と遊ばないで低学年の子どもたちとばかりと遊んでいた(同級生に友達
がいなかったわけでは決してない)。中学生や高校生になっても、街で小学生を見かけると、ついか
まいたくなり、よく声をかけたりした(変な意味ではなく)。公園でサッカーをしている小学生を見
かければ、仲間に入れてもらい一緒に遊んだ。大学を受験するときに教育学部を選んだのも、その子
ども好きが高じてのことであった。(ワープロを打っているわたしを後ろからのぞきながら「何だ、
金井先生はロリコンなの?」というふとどきな発言をした同僚の教員がいたのであるが、決してそう
いう意味ではなく、ただ純粋に子どもが好きなのである。誤解のないように。)
そんなわたしではあったが、いざカナダの子どもたちとふれ合うことになると不安を感じずにはい
られなかった。まず第一に言葉が思うように通じない。それに、ハリウッド映画などの影響だろうか、
カナダの子どもたちは日本の子どもたちよりもすれていて素直ではないのではないかという先入観も
あった。
しかし、実際にその子どもたちにふれ合ってみると、あっという間にそんな不安は吹き飛んでしま
った。子どもは子どもであった。きっと万国共通そうなのであろう。言葉が思うように通じないなど
ということは、お互いのコミュニケーションを取ることの障害には全く成らず、逆に会話を盛り上げ
る手助けをしてくれた。英語をうまく話せないということは大人の前では大きなプレッシャーであっ
たが、子どもの前では全くそんなことはなかった。そんなわたしに対して、子どもたちは勝ち誇った
ような顔をして英語を教えてくれる。子どもたちとふれ合うようになってわたしの英語力は飛躍的に
進歩したのであった。
子どもたちの中にはわたしと同じように英語の会話に不自由をきたしている子どもがたくさんいる。
3章において簡単にふれたが、カナダは移民の国であり、クラスの半数以上の子どもは生まれた後で
カナダに移り住んでいる(この学校が街の中心部のアパート《マンション》群の中に位置しているた
めその比率は特に高い)。しかし、ほとんどの子どもは1~2年で普通の会話には全く不自由しなく
なるので、問題があるのは移民したての転入児童たちである。
新年度が始まる9月に、各クラスに1~2名の転入児童が必ず来る。ほとんどが外国からの転入で
ある。そして、ほとんど同じペースで転入児童の来校は続き、わたしが手伝っていた3年生のクラス
だけでも半年間でその数は6名に達した。
わたしがカナダにいた1995年は、世界情勢の影響を強く受けて、旧ユーゴスラビアからの転入
が多かったようである。わたしのクラスの6人の転入児童のうち4人がそうであった。その中の3人
が男の子で女の子は一人だけであった。
彼・彼女らは、転入早々いじめの洗礼を受けることになる。
まず男の子たちの中で早めに転入をしてきた二人は、直接的な暴力や暴言などによる攻撃を受ける。
初めのうちは、クラスの中心的存在になっている男の子たちのグループが集団で彼らをいじめていた。
二人は、特別団結をすることもしないで一人でいじめに対抗していた。
彼ら(いじめられる側)は強かった。母国において彼らがいったいどれ程つらいめに合ってきたか
はわたしの想像を超えるところであるが、彼らは「いじめがなんだ」というような顔をして必死にい
じめる側の子どもたちと戦っていた。
次第に状況は目に見えて変化し始めた。もはやそこにいじめは存在せず、転入生が来る以前から見
られた、ただ毎日のようにけんかを繰り返す子どもたちの姿があるだけであった。もともといる子ど
もたちVS転入生という構図が消えたのである。そこには、もともといた子どもどうしのけんか、転
入生どうしのけんか、そしてもともといた子どもと転入生とのけんかと・・・今となっては、単にク
ラスメイトどうしのけんかという子どもの世界では当たり前の光景が広がっているにすぎなかった。
そうなると、不思議なことに、3人目の旧ユーゴスラビアからの男の子の転入生がやってきたとき
にはもういじめは起きなかったのである。
女の子の場合は少し状況が違った。
旧ユーゴスラビアから来た女の子からは、なかなか思うように英語を理解できるようにならないこ
とに対するいらだちが日に日に増していく様子が伝わってきた。みんなが簡単にやってしまう英語の
問題をなかなかやることが出来ず、唇をかみしめながら涙ぐんでいる姿を何度か見かけた。
そんな彼女の姿を見かねた担任の教師は、数年前に旧ユーゴスラビアから移民してきた女の子に彼
女にいろいろなことを教えるように頼んだ。最初のうちは親切に教えているように見えたのであるが、
それはあくまでも表面的なところだけであって、担任の目の届かないところではその子の態度はすぐ
に変わり、いかにもめんどくさいという態度をあらわにするようになってきた。そして、ついには何
を聞かれても無視をするようにまでなってしまった。同じ国から来た困っている友達にどうして優し
くできないのであろうかと、どうも解せなかったのであったが、どうやらこれが特殊な例でないこと
が後に分かったのである。
6人の転入児童のうちの一人は日本から移民してきた女の子であった。名前は雪子(仮名)。雪子
は英語を話すことも聞いて理解することも全くできず、教室の中では完全にお客さん状態であった。
このクラスには雪子の他にも日本から移民してきた女の子が二人いた。しかし、彼女たちは小さい
うちに移民してきたため、今では英語のほうが日本語よりも上手なくらいである。そんな彼女たちに
担任はもちろんのことわたしも、雪子を助けてあげることを期待したし、当然そうしてくれるものだ
と思っていた。
しかし、事実は全く逆であった。彼女たちは雪子を助けるどころかいじめ始めたのである。雪子が
彼女たちに何かを聞いても、彼女たちの返事はいつも
「自分で考えな!」
また、彼女がみんなの前で何かミスを犯すと
「何でそんなことが分からないの!」
「恥ずかしい!バカじゃないの!」
彼女たちがいつも日本語でそう言ってくるため、担任には事の成り行きがよく分かっていない。ま
た、雪子は担任にその事を訴えるすべ(英語力)をまだ持っていない。そこで、もちろんわたしが彼
女たちを注意したり担任にその事を話したりするのではあるが、なかなか事は改善されなかった。
彼女たちの言い分は「同じ日本から来た子がとろいのを見ているといらいらするし恥ずかしい」と
いうことであった。もしかしたら、前出の数年前すでに旧ユーゴから移民してきた女の子の気持ちの
中にも同じものがあったのかもしれない。
しかし、初めのうちは陰で行われることが多かった旧ユーゴからの子も含めた彼女たちのいじめが
徐々に表面化してくると、まるでテレビドラマを見るかのごとく救世主が現れるのであった。
彼女の名はジェシー(仮名)。ジェシーは明朗快活で女子の中で中心的存在であった。しかし、物
事をはっきりと言いすぎるところから、担任からは良く思われないことも時々あった。
そんなジェシーは、移民したての子どもたちが指名されても答えられなかったり言葉の問題から何
かミスをしてしまったりして他の子どもたちが笑ったり冷やかしたりしたときに、顔を真っ赤にして
皆を怒鳴りつける。
「そんなの出来なくて当たり前じゃないの!あんただって、あんただって昔は出来なかったじゃな
い!」
そして、いつの間にか、ジェシーは移民したての子どもたちを遊びに誘うようになる。遊びの中で
時々言葉の問題から意志が通じないときは、いやな顔をすることもなく、ちょっと困ったというよう
なとても素敵な笑顔を見せながらしゃがみ込んで、どうしたら自分の言いたいことが通じるのかを必
死に考えているのであった。移民したての子どものほうも、分からないことがちょっと申し訳ないと
いうような顔をしてしゃがみ込む。そうして、少しの間笑顔で見つめ合っている二人を見て、思わず
微笑んでしまうわたしであった。
カナダにいる間、わたしの気持ちを1番明るくしてくれた、本当に素敵な女の子である。
これは、あくまでも、ある国のある小学校のあるクラスでたまたま起きた出来事にすぎない。この
話を持って、カナダの小学生は~とかどこの国から移民してきた子どもは~とか決めつけてしまうこ
とは、単なるステレオタイプ(ある集団の中のあるグループの人たちがあることをしたからといって、
その集団のすべての人が同じ事をすると決めつけてしまうこと。「日本人は眼鏡をかけて髪を七・三
に分けてカメラを片手に団体で海外旅行をする」というのは、外国の人による日本人に対する一つの
ステレオタイプと言うことができる)でしかない。それでもこの話は事実であり、わたしはそうした
カナダの子どもたちから多くの影響を受けることになったのである。
カナダの子どもたちは、日本の子どもたちに勝るとも劣らず素敵であった。しかし、もちろん、特
に小学生のうちは(注1)、いたずらが過ぎて教員方を大いに困らせたりもする。1日だけやってく
る臨採の教員などは1日が終わる頃には声がかれてしまっているほどである。それでも、日本からや
ってきたわたしにとっては、どうも憎めない子どもたちなのである。
別れの時に、「辞めないで!」と抱きついてくる子どもたちを、つい担任に気兼ねして振りほどき
ながら、こぼれ落ちそうになる涙を抑えるのがとても大変であった。
注1・・・最近、いじめとそれに伴う自殺の問題が日本では問題になっている。一昔前には、それが
登校拒否であり、家庭内暴力・校内暴力であった(もちろんそれらは現在でも存在し続けて
いるが、大きく話題になっているという意味で)。もちろん、カナダにおいてもセカンダリ
ー・スクールのドロップアウト(中退)問題など、その手の社会問題は存在する。しかし、
日本の場合はカナダに比べてその弊害が内側に向かう(自分や家族・友達や教員《この2つ
は外側とも取れるが、生徒にとって身近な学校という全体の社会から見れば狭い内側の世界
である》を傷つける)傾向が強いのではないかと感じる。
わたしが接することのできたセカンダリー・スクールの若者たち(日本で言えば中学2年
生から高校3年生までにあたる)というのは数が知れてはいるものの、ボランティアや日本
語の指導などを通してそれなりの数の若者とは知り合うことができた。彼らに共通して言え
ることは、その視野が内側(いい高校・大学に入るために必死に勉強するなど)にではなく
大きく外側(世界のことを知りたい、社会の中での自分の役割について考えるなど)に向い
ていたということである。
もちろん、わたしがそういうタイプの若者たちとだけ知り合う環境にいたと言うこともで
きるかもしれない。しかし、その数を考えただけでも、日本よりはるかに多いということは
間違いのない事実である(わたしの高校時代、学校中を探しても視野が大きく外に向いてい
る生徒などは皆無に等しかった)。
また、もちろん、広い社会(外側)の中には病に侵された部分もあり、そういった部分に
視野の向いてしまった若者の犯す犯罪(麻薬中毒など)は日本のそれよりはるかにスケール
の大きなものとなるかもしれない。しかし、それは根本的に、背景として存在する社会の問
題であって、若者が(社会の)外側に目を向けることの意義を否定するものではない。
ではどうして、日本とカナダの若者の間にそのような違いが生まれるのだろう。これから
述べることは、わたしの仮説、いや仮説と呼ぶのもおこがましい単なる想像にすぎないが、
少しの間お付き合い願いたい。
子どもたちの視野が内側の世界(母親→家族→学校)から徐々に外側の世界(広い意味で
の社会)に向いていくのは自然の流れと言えよう(専門的に言えば、アイデンティティーの
確立など思春期に深く内側に入るというようなこともあろうがごく表面的に見て)。そして
自然に成長していけば思春期を迎えることにより急激にその変化が進んでいくと考えられる。
しかし日本ではその変化が起こりにくい何かがあるのではないだろうか。
その原因を日本の管理教育に求めることは少し乱暴すぎるだろうか。(以下の話は一般論
であって、すべての日本の小学校・教師・子どもがそうであるということでは決してない)
日本の管理教育はすでに小学校から始まっている。それが、中学校や高校ほど表面化しな
いのは、ただ単に小学生がとても管理をしやすい(反発を受けずにすむ)存在にすぎないか
らではなかろうか。教師たちは子どもたちに対して低学年のうちから理想の児童像なるもの
を明確にして指導にあたる。子どもはこうあるべきだと型にはめてしまい、その型にはまら
ない子どもには修正の手が伸ばされる。本来家庭で教育すべきことまで手取り足取りていね
いに指導が行われる。
その結果、低学年のうちからやけに行儀のいい子どもたちが出来上がる。教師に確認しな
いとトイレにも行けない、自分の意志では行動できない子どもが出来上がる。これは、日本
の教育の成果なのだろうか?弊害なのだろうか?
中学生にもなると、さすがに管理されることに疑問を感じ始める子どもも出てくる。何し
ろ、一般の社会では通用しそうもないルールを学校の中では強制させられるのであるから。
そして、ひどい場合には、それらのルールを学校の外にまで広げられてしまう(街に買い物
に行くにも制服を着ることを強制するなど)のだから。しかし、すでに管理されることに慣
れてしまっている彼・彼女らの疑問は、その本質に向かう(自分たちの力でその状態を改善
させるための努力をする)ことなく、内側への攻撃(いじめ・校内暴力・家庭内暴力など)
として噴出してくるのである。
加えて、その後、高校入試・大学入試のために、例えば歴史においては年号の暗記、例え
ば地理においては工業コンビナートの位置・鉄鉱石の生産高など、物事の表面だけを勉強す
ることを強制され、視野が外に向かうことを阻害され続ける。
カナダの小学校に管理という言葉を見付けることは困難であった。そのためか、カナダの
小学生は無軌道で扱いづらい。
しかし、セカンダリー・スクールに進んだ子どもたちは、その視野を学校という狭い世界
の遥か外側に向けるようになる。ある意味では、特に小学生のうちに(日本の中高生同様)
十分にエネルギーを内側に対して発散させてしまっているからなのかもしれない。教員を困
らせることなど、すでに彼・彼女らの眼中にはないのである。
カナダ滞在中の最初の3カ月間、わたしは英語学校に通った。生徒の6~7割は20歳前
後の日本人の若者である。
そこの教員に言われたある言葉に、わたしは反論をするすべも持たずただうなずくしかな
かった。自分も含めて、わたしも同じことを感じざるを得なかったからである。
「日本の若者は実際の年齢より少なくとも5歳は幼く見えるわね。外見ではなく内面が
よ。」
おわりに
カナダの教育に接して自分なりに感じたことを取り留めもなく書きつづり、また時にはそこから派
生して日本の教育についてふてぶてしくも意見をしてきたのではありますが、ここで言いたかったこ
とは、カナダの教育がすばらしく、日本の教育がダメであるというような短縮的なことでは決してあ
りません。カナダにおいて、「日本の教育システムはすばらしい。カナダの教育は怠け者ばかり作っ
てどうしようもない。日本人の勤勉さを身に付けるために日本の教育システムをどんどん見習うべき
だ。」というような賞賛の言葉をわたしに対して浴びせた人は一人や二人ではなかったのです。カナ
ダ人からは日本の教育の良いところが主に見えるのと同じように、たかが半年間カナダのそれもたっ
た一部分の教育に触れただけのわたしにとって、カナダの教育のよいところが実際より大きく見えた
こともまた当然のことなのでありましょう。
正直に言えば、カナダでも教育に関する様々な問題があるのは事実のようで、残念ながら教育の理
想がそこにあるとは言えないようです。全体的な教師の熱意は、わたしが知り合ったカナダの教師た
ちと比べた限り日本の教師の方がはるかに上でもありました。
もし結論を言うことを許されるのであれば、日本の教育にもカナダの教育にも良いところもあれば
悪いところもあり、その悪いところを認めた上でお互いの良いところを少しでも学ぶことが出来れば、
完璧とは言わないまでも、少しはよりよい方向に動き出すのではないだろうか、ということを言いた
いと思います。
冒頭で、「わたしがカナダに行ったのは、あくまでもカナダの小学生と何らかの形で触れ合い、そ
の経験を少しでも今後に生かしていきたいと思ったからであり、カナダの教育制度を調べに行ったわ
けではありません」ということを言ったのですが、この原稿を書き終わった時点で、言った内容に関
して少し後悔し始めるようになりました。(ついでであったとしても、カナダの教育制度についても
っときちんと調べてくるべきであった)と。
しかし、今となってはそれはどうしようもないことなのであります。そしてまた、どうでもいいこ
となのかもしれません。カナダのシステムに対して日本のシステムがどうのということは、あくまで
も意見として述べたにすぎず、そのシステムを自らの力で変えようなどとはみじんも考えていないし、
根本的な興味がそこにあるわけではないのですから。
今のわたしにとっての最大の目標は正式な教員に少しでも早く復帰することであり、そして、自分
が選んだ遠回りに思える道を歩んだことが、決して無駄ではなかったことを証明するために、今後少
しでもよい教育が行えるように努力していくことなのです。
現在の教員採用の状況を見る限り、その道のりは険しく遠いようなのではありますが、希望を捨て
ずがんばっていきたいと思います。
最後に、このような常識を逸した長い、それも大した内容でもない原稿を掲載してくださったPT
Aの広報部の皆様と担当の阿部先生、それにこの器の大きい文集「大杉」に感謝の意を示して締めく
くりの言葉としたいと思います。
ありがとうございました。
1996年2月
金井信夫